和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

せいとん。

2010-02-27 | 短文紹介
北村薫著「自分だけの一冊」(新潮新書)の副題は、
「北村薫のアンソロジー教室」となっておりました。

今日は本を読まなかったので、
この新書のことを思っておりました。
本を読んでいると、その活字に注意がそれなりに集中しているものですね。すると、本を読まないときは、集中力がきれて散漫な状態となっているのかもしれません。

「自分だけの一冊」に、あの段ボールについての箇所。

「本は段ボールに入れたら、もう、おしまいです。整理しようと思っているうちに、上に新しい本がどんどん積まれてしまう。わたしは、うちにある本の背表紙が見えないと、探すのをあきらめて、素直に図書館に行きます。図書館にもある本なら、その方が圧倒的に早い。物理的な距離は現実の距離ではない。図書館にない本は、出来るだけ背表紙を出すようにしています。」(p43)

この箇所が、ちょっと引っかかっております。いまだに。
そういえば、と思い出すのは谷沢永一編「書斎」(日本の名随筆別巻6・作品社)があったなあ。それはそれとして、
私も書斎のアンソロジーを思いうかべたくなります。
といっても、私の場合は3冊。これぐらいしか思い浮かびません。

とりあえず、本を列挙。
八木秀次監修「精撰 尋常小学修身書」(小学館文庫)
山野博史著「本は異なもの味なもの」(潮出版社)
「WILL」2008年2月号の対談渡部昇一・日垣隆。

最初から順番に引用してみます。

「  せいとん
本居宣長は、わが国の昔の本を読んで、日本が大そうりっぱな国であることを人々に知らせた、名高いがくしゃであります。宣長は、たくさんの本を持っていましたが、一々本箱に入れて、よくせいとんしておきました。それで、夜、あかりをつけなくても、思うように、どの本でも取出すことが出来ました。宣長は、いつもうちの人に向かって、『どんな物でも、それをさがす時のことを思ったなら、しまう時に気をつけなければなりません。入れる時に、少しのめんどうはあっても、いる時に、早く出せる方がよろしい。』といって聞かせました。宣長が名高いがくしゃになり、りっぱなしごとをのこしたのには、へいぜい物をよくせいとんしておいたことが、どれだけやくにたったか知れません」(p86~87)


つぎは、柳田國男です。

「古本屋で昔の雑誌の端本あさりを趣味にしていると、時折、思わぬ掘り出し物に出くわすことがある。・・・・『新女苑』(昭16・6、実業之日本社)という戦時下の婦人雑誌の『私の勉強部屋』と題するグラビア・ページ。書斎の柳田をとった写真に小文が添えられている・・・四十畳の大書斎について、柳田はこう語っている。『本をそちこちの戸棚押入れに分散させて置いて、夜中に懐中電燈を持つて捜しあるく苦しみを私は二十数年の間味はつた。その一大反動として人が笑ふやうな広い書斎を作り、本を壁紙の代りにして窓以外には何の飾りもせず、其のまん中に坐つて見たときには得意であつた。しかしもつと早くこうしようとなぜ勧めてくれなかつたか。もう四五年しか無いぢやないかなどと、妻に無理な事をいつて居たものだつたが、幸ひにそれが延期して今年で十五年になる。・・・』」(p24)

最後は雑誌対談。
渡部昇一氏はこう語ります。
「・・整理しきれずに、見たい本がどこにあるのかわからず歯がゆい思いをしながら死ぬのと、新しい書庫を建てるために借金をするのと、どちらがより愚かかと考えたわけです。どちらも愚かであることは明白ですが、少しでも愚かでないほうを選択しようと。英語で言えば『less foolish』なのは、どちらかということです。」
日垣隆氏は、そのあとに
「しかし、77歳から数億円の借金というのは普通では考えられないことです。・・・」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

町の本屋さん。

2010-02-26 | Weblog
ぶらりと町の本屋へ(笑)。
本屋へ立ち寄ると、ついつい買ってしまうので、
できるだけ寄り付かないようにしております。
でも、性懲りもなく、立ち寄るときもあります。
すると、買ってしまうこともある(笑)。

さてっと、雑誌一冊購入。
「NHK 私の1冊 日本の100冊 感動がとまらない1冊」(学研 880円)。
本は読まないので、本の紹介を読むと、読書会で素敵な本の紹介の説明を聞いているような感じになります。ということで、購入。
建築家安藤忠雄さんが幸田露伴著「五重塔」。これも読んでない。
作家の早坂暁さんが正岡子規著「仰臥漫録」。これも読んでない。
最相葉月さんが吉村昭著「戦艦武蔵」。これも読んでない。
菊池信義さんが古井由吉著「山躁賦」。これも読んでない。
興味はあるのに、読んでない本が並んでいると、
せめて、読むきっかけになるような言葉を求めたくなるじゃないですか。

ということで、雑誌を購入したのでした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

段ボールの本。

2010-02-25 | 短文紹介
北村薫著「自分だけの一冊」(新潮新書)をパラパラと拾い読み。
そこに、こんな箇所。

「本は段ボールに入れたら、もう、おしまいです。
整理しようと思っているうちに、上に新しい本がどんどん積まれてしまう。
わたしは、うちにある本の背表紙が見えないと、探すのをあきらめて、素直に図書館に行きます。図書館にもある本なら、その方が圧倒的に早い。物理的な距離は現実の距離ではない。図書館にない本は、出来るだけ背表紙を出すようにしています。」(p43)

う~ん。段ボールの数が半端じゃないのだろうなあ。と、まずは思いうかべるのですが、ちょっと想像もつかない。そういう方がアンソロジーを編むというテーマで授業をしたというのですから、興味深くて読み始めたのですが、さらりとした読後感でした。もっとも期待の方が大きかった時は、いつもこんな感じになります。

「選句は創作だ――というのは、俳句の世界では普通にいわれることです。アンソロジーにも、そういうところがある。誰が水にもぐるかで、採って来る魚は変わる。そこが面白い。」(p164)

う~ん。さらりと書かれているのですが、ちょっとした箇所が、印象に残ります。
公開の授業ということで、ときどきは、言葉のスパイスを数行語るという感じなのでしょうか。
さてっと、はじめの方にこうあります。
ちなみに、北村薫氏は埼玉県生まれとあります。高校生の頃の話のなかに

「何百編か読むためには、まず、それを集めなければいけない。田舎町にいては無理です。そこで、神田に行くことになりました。本探しに出掛けたんです。初心者はよくやることですが、最初は神田駅で降りました。ところが、いわゆる神田の古書店街というのは、神保町にある。神田の駅前をうろうろしても、見当違いなんです。そんな失敗をしながら、古本屋巡りを覚えたわけです。どうもね、わたしは古本屋さんといわないと落ち着かない。古書店というと、よそよそしい気がします。親しみがない。・・・」(p22)

これなど、読みながら、つい徒然草を思い浮かべてしまいます。
ということで、「仁和寺(にんなじ)に、ある法師」(第五十二段)を引用。

「仁和寺に、ある法師、年寄るまで、岩清水を拝まざりければ、心憂く覚えて、ある時思ひ立ちて、ただ一人、徒歩より詣でけり。」

ここまでは、一人で、神田へ出かけるような感じでしょうか。

「極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人に会ひて、『年ごろ思ひつること、果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何ごとかありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず』とぞ言ひける。
少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしきことなり。」

う~ん。神田へでかけて、得意になって友達に神田駅近辺の本屋のことを話している北村薫さんをつい思いうかべたりします。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手伝い。

2010-02-24 | Weblog
今日は、引っ越しの手伝い。
というか、引っ越しの予行演習。
日通の単身パックで引っ越しをするまえに、
まず、部屋の整理をしに、手伝いにゆく。
帰ってきたのが、夜10時半。
注文していた本が郵便受けにあった。

 北村薫著「自分だけの一冊」(新潮新書)
 前田英樹著「独学の精神」(ちくま新書)
 石川九楊著「選りぬき一日一書」(新潮文庫)

こんなときに本が届くとうれしくなります。
読まないうちから、うれしいと、
ほんとに読まなかったりします(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書き抜き。

2010-02-23 | 短文紹介
関厚夫著「ひとすじの蛍火 吉田松陰 人とことば」(文春新書)を
見るともなしに、ひらいたら、こんな箇所。

「書を読む者は其の精力の半ばを筆記(書き抜き)に費すべし」
吉田松陰というひとには、見てくれにあまりこだわらなかったところがあるらしい。・・妹、千代もこんな内容のことばを残している。
兄は、着物などでも母が一枚こしらえますと、新しくつくりますまで、何時までも黙って着ております。その構わぬ風といったら、歩くときには何時でも書物を沢山懐中に入れているため、重さで真ん中にあるはずの背筋の縫い目が片一方の肩のところにずれているのでございます。・・・嘉永三年九月。初めての外遊の目的地である平戸に到着したのはよいが、松陰は宿屋でことごとく『宿泊拒否』にあい、立ち往生していた。・・・『葉山佐内』という名の藩士の門前で、松陰は歩みをとめた。・・・幸運なことに佐内は、松陰が予想した以上の人格者だった。『おなかがおすきでしょう』と麦飯を出す一方で、その場で宿を手配し、貴重な蔵書や著書を快く貸してくれた。・・・松陰は平戸に約五十日間滞在する。・・・・
松陰はこの期間に約八十冊の書物を借り、要所を抜き書き、佐内から教えを受けた。余談だが、この抜き書きという作業は、松陰にとって学問の基礎をなす。松下村塾の門人の一人は維新後、『松陰先生は常に【書を読む者は其の精力の半ばを筆記(抜き書き)に費すべし】とおっしゃられた。先生のお宅には詩文の抜き書きだけで数十冊あり、先生の指の筆にあたるところには石のようにかたいタコがあった』と述懐している。・・・」(p51~53)


そういえば、講談社学術文庫の「日本人の笑」を
最近ひらきました。その解説は、小出昌洋氏。そこに森銑三と柴田宵曲とのことが語られておりました。そこを引用。

「消極的な柴田さんも、しかし一度筆を執ると才を迸らせるように稿を成したという。その文章を読むとき、内容のなる、簡潔な文章で、他の人のよくするところではない。簡潔の文には、なお『趣味の存するものがあり、滋味の存するものがあり、強いて技巧を弄せずして、人を惹きつける魅力を有した』と、先生はいって居られるが、私等もまた柴田さんの文章を読むとき、その感を深くする。柴田さんは実に得難い文章家だったので、こうしたところからも、先生は柴田さんに、文章を書いて貰いたかったのだろう。
いま先生の反故の内に、間々柴田さんの筆跡の原稿が見つかるのであるが、それは大抵が先生の原稿の浄書であったり、雑誌に掲載された他の人の写しであり、また二人共通の人の原稿の写しであったりする。柴田さんは実にこうしたことに労を厭わなかったようであった。」


私事。
日々、こうしてブログに引用を重ねておりますが、
違和感がない、私は自分の言葉の稀薄さに懲りているための引用なのですが、何とも、抜き書きにも歴史がありそうで、面白い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘉納治五郎校長。

2010-02-22 | 他生の縁
福原麟太郎著作集1は、「シェイクスピア」の論考でまとまっておりました。
そこに、「シェイクスピア講演」がはいっています。
この、「シェイクスピア講演」は講談社学術文庫(昭和63年)にもある。
さて、その講演に「シャイクスピアの文学」という36ページほどの文がありました。
なに、私はそこしか読まなかったということです。
どういうわけか、その講演中に嘉納治五郎が登場。
まず、そこを引用。
それは、シェイクスピアの登場人物を語っている時でした。
「・・・善人で、世話好きで、非常に注意が行きとどいて、お節介な人である。何か自分のやりたいことがあると、乗り出して人の迷惑なんかかまわないで一人でかきまわすという、そういう人がわれわれの友だちの中にもあるものです。自分自身のことを考えてみましても、確かに誰にでもそういう性質があると思います。何か、人間の心のあるボタンを押しますと、その人がクニャクニャとまいってしまうというようなことで ――― 私どもは嘉納治五郎という講道館を創立された先生に教わったのでありますが、嘉納先生というのは、非常に機嫌が悪くてお弟子がそばに行っておれないようなときにも、『先生柔道は』と言うと、『なに』といってニコニコされたという、そういうようなところは誰でも持っておると思いますが・・・・」

う~ん。福原麟太郎氏の先生は嘉納治五郎だったのですね。
そうだ。と、ここで夏目漱石を思い浮かべたというわけです。
漱石に、よくご存じの「私の個人主義」という学習院での講演の文があります。
そこに、嘉納治五郎が登場します。
何でも、漱石が卒業して、学習院の教師に就職しようとすると、落第。
そして、高等学校と高等師範の両方から同時に口がかかることになる。
以下は、ちょっとながくなりますが、せっかくですから、しっかりと引用。

「・・・ちょっと学校まで来てくれという通知があったので、早速出掛けて見ると、その座に高等師範の校長嘉納治五郎さんと、それに私を周旋してくれた例の先輩がいて、相談は極った、こっちに遠慮は要らないから高等師範の方へ行ったら好かろうという忠告です。私は行掛り上否(いや)だとはいえませんから承諾の旨を答えました。が腹の中では厄介な事になってしまったと思わざるを得なかったのです。というものは今考えると勿体ない話ですが、私は高等師範などをそれほど有難く思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡した位でした。嘉納さんは上手な人ですから、否(やい)そう正直に断られると、私は益(ますます)貴方に来て頂きたくなったといって、私を離さなかったのです。こういう訳で、未熟な私は双方の学校を掛持ちしようなどという欲張根性は更になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数を掛けた後、とうとう高等師範の方へ行く事になりました。
しかし教育者として偉くなり得るような資格は私に最初から欠けていたのですから、私はどうも窮屈で恐れ入りました。嘉納さんも貴方はあまり正直過ぎて困るといった位ですから、あるいはもっと横着を極めていてもよかったのかも知れません。しかしどうあっても私には不向き所だとしか思われませんでした。奥底のない打ち明けた御話をすると、当時の私はまあ肴屋が菓子屋へ手伝いに行ったようなものでした。
一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。それは伊予の松山にある中学校です。貴方がたは松山の中学と聞いて御笑いになるが、大方私の書いた『坊ちゃん』でも御覧になったのでしょう。『坊ちゃん』の中に赤シャツという渾名を有っている人があるが、あれは一体誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だって、当時その中学に文学士といったら私一人なのですから、もし『坊ちゃん』の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツは即ちこういう私の事にならなければならんので、――甚だ有難い仕合せと申上げたいような訳になります。
松山にもたった一カ年しかおりませんでした。立つ時に知事が留めてくれましたが、もう先方と内約が出来ていたので、とうとう断って其所を立ちました。そうして今度は熊本の高等学校に腰を据えました。・・・・」

ついつい、面白くて、余分な個所まで引用してしまいました。

これくらいにして、
斎藤孝著「代表的日本人」(ちくま新書)に
嘉納治五郎が取り上げられておりました。
そこに

「ところで、嘉納治五郎が東京高等師範学校の校長を務めていたことをご存じでしょうか。・・彼は日本の教員養成の総本山とも言うべき東京高等師範学校の校長を、27年間も務めていたのです。」(p86)

その嘉納治五郎校長の時代に、夏目漱石がおり、福原麟太郎がいたというわけです。
ちなみに、「福原麟太郎著作集5」(研究社)に「嘉納治五郎先生」という短文がありました。

ひょっとして、東京高等師範学校と嘉納治五郎と、
これが教育から消えて、その余韻も消えてしまったのが現在なのでしょうか?
などと外山滋比古氏の本を読みながら
外山滋比古氏の恩師である福原麟太郎を思い。
さらに、福原麟太郎氏の恩師のことを思ったりするのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

好きなもの。

2010-02-21 | 短文紹介
毎日新聞の日曜日、読書欄「今週の本棚」。
そこで気になる「好きなもの」コーナー。
今日2月21日は、内田樹氏が書いておりました。
① お師匠さま。
② 宴会。
③ 明治の言葉。

たとえば、①はこうはじまります。
「子どもの頃から『師弟関係をつうじての技芸の伝承』という物語が大好きだった。」
次は、②の全文。
「家に客を呼んで酒肴(しゅこう)をもって歓待することは私にとって人生の最大欣快(きんかい)事である。この年末から新年にかけて参加した宴会12回のうち7回はわが家で開催した。これまでの最高参加者記録は45名。15畳のLDKにそれだけひしめくと、その状は『通勤ラッシュの山手線車内で花見酒を酌み交わしている人々』に近い。」

さて、①③とも全文読みたい方は、今日の毎日新聞、お買い下さい(笑)。

ところで、昨年の2009年11月15日。
「好きなもの」に登場したのが外山滋比古氏でした。
よい機会ですから、再録。
ここでは①と③。

①どうしたものか、旅行が好きでない。仕事は別にしてよそへ行ったことがない。それで留学もとうとうしなかった。その埋め合わせというわけでもないが、テレビの旅を楽しむ。ことに日曜の朝、NHK『小さな旅』は欠かさず見る。出不精な人間はそれで旅をしたつもりになるのである。
③ 本を読むのは、正直いって、それほどおもしろくない。仕事がらみの本が退屈なのは是非もないが、そのほかでも好きな本は限られている。いちばん影響を受けたのは寺田寅彦である。ものを考えることを学んだように思う。書けなくなったとき寅彦を読むと言った批評家がいたが、頭が濁っているときに読むと心まで澄んでくるような気がするから妙である。好きな文章は内田百。明治以降、これほどすぐれた文章を書いた人はないとひとり決めしている。外国のエッセイではやはりモンテーニュがいい。人間の勉強になる。ただ邦訳のスタイルが、私の好みに合わなくて残念だ。変わったところではショーペンハウエル『みずから考えること』(石井正訳・角川文庫)が好きである。小気味よく痛快である。もともと菊池寛の文章を好み、ひそかに崇拝している。編集感覚においては右に出るものはないと考え『話の屑籠(くずかご)』を愛読する。年とともにその人物に心惹かれるようになった。どこか、菊池寛アンソロジーを出してくれるところはないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三日坊主。

2010-02-20 | 短文紹介
長編本など、まず読まないので、
ちと、本から離れていると、
さて、読もうとすると、なかなか読み始められない。
まあ、小さい頃から本とは無縁の生活でしたから、
それも、仕方の無いところなのでしょう。

ということで、簡単にパラパラとめくれる
関厚夫著「一日一名言」(新潮新書)を読みました。
2~3行の名言と、その解説で1ページ。それが365日分。
きになる名言があれば、その解説を読んで、
あとは、とばして読み進みました。

その2月22日には、こうあります。

「  一日一日が小さな一生なのだ。
毎日毎日の起床が小さな出生、
毎夜の臥床就寝が小さな死なのである。 」
        1788年、ショーペンハウエル生れる

ちなみに、関厚夫氏の解説のはじまりはこうでした。
「『舞姫』の主人公、太田豊太郎の本棚にはその著作が並んでいた、というから、作者の森鴎外の書斎もそうだったのだろう。・・・冒頭は『幸福について――人生論』の一節だが、ドイツ人哲学者、ショーペンハウエルには・・・・」

う~ん。そういえば、元旦をとうに過ぎたのに、いまだに、そこいらでうろうろしている気分でおります。ということで鈴木一雄・外山滋比古編の「日本名句辞典」(大修館書店)をひらいてみました。そこから引用。

 一年の計は元旦にあり (諺)
「一年の計画は元旦に立てるべきだということから、物事は最初の計画が大切だという意。『一年のはかりごとは正月にあり。一月のはかりごとは朔日(ついたち)にあり。一日のはかりごとは朝にあり』(譬喩尽)などともいう。もっとも、心機一転したつもりが三日坊主に終わることも多いのだが。」

三日坊主とありますから、せめて引用も三つにしましょう。

司馬遼太郎著「風塵抄」の56「新について」。
はじまりは、

「新年らしく、以下は、新の字について。
この漢字は、語源的には、木ヲ斤(き)ルということから出た。故藤堂明保氏によると、
木の切り口のなまなましさをあらわすという。切ったばかりの木の切り口は、樹液にぬれて、吸いこんでみると、いのちがよみがえるような香気を放っている。」

そのあとに、殷を興した湯(とう)という王について、語られております。

「湯王は名臣伊尹(いいん)の補佐をうけた。伊尹は、
『時(こ)レ乃(すなわ)チ日ニ新(あらた)ナリ』ということばが好きだった。
徳を古びさせるな、ということである。徳とは、人に生きるよろこびをあたえるための人格的原理といっていい。・・・伊尹は、料理人出身だったといわれている。・・・」

「伊尹の王の湯(とう)は、毎朝顔をあらった。かれはそのための青銅製盤に、九つの文字を彫りつけた。その銘にいう。・・

   苟(まこと)ニ日ニ新(あらた)ナリ
   日日(ひび)新ナリ
   又(また)日ニ新ナリ

新ということばが反復(リフレイン)されていて、こころよい。
この詩句には近代の憂愁や倦怠がなく、湯王が勢いよく顔を一洗して、おれはきのうのおれではないぞ、さらに一洗して、きょうはまたうまれかわったぞ、という素朴な明るさにあふれている。この話は、『大学』という本に出ている。・・・・
とくに日新ということばが、江戸期の日本人は好きだった。
たとえば、会津藩の有名な藩校が日新館であり、また近江仁正寺(にしょうじ)藩(滋賀県日野町)や美濃苗木藩の藩校も同名である。美濃高須藩の場合、日新堂だった。・・・」


昨日、関厚夫著「一日一名言」をパラパラと読んで、今日は、関連して思い浮かんだ本を引用しました。三日坊主にあらずして、三題噺でもって、何とか四日へと。いやいやそうじゃない(笑)。日日新ナリ。又日ニ新ナリ。

昨日、2年任期の役に、御役御免となり、
任期は3月末まであるのですが、正式に発表して、
これでひとくぎり。たのしい2年でした。
ということで、日日新ナリ。又日ニ新ナリ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

毎日毎夜大地震。

2010-02-19 | 地震
時刻 : 2010/02/17 04:59:30.91

震源地 : 房総半島南東沖

緯度 : 34.939N
経度 : 140.066E
深さ : 82.8km
Mw : 5.0


この日、私はぐっすり眠っていて、知りませんでした(笑)。

そういえば、関厚夫著「一日一名言」(新潮新書)の
2月25日の名言を覗いてみると、こうある。

「これはなんのことはない、牢屋にはいって毎日毎夜大地震にあっていると思えばいいじゃないか」(1860年、咸臨丸、米国到着)p62

さて、この引用言葉は、福翁自伝から、
さっそく、その自伝をひらくと、こうある。

「ところで、37日かけてサンフランシスコに着いた。航海中私はからだが丈夫だとみえてこわいと思ったことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて、『これはなんのことはない、生れてからマダ試みたことはないが、牢屋にはいって毎日毎夜大地震に会うていると思えばいいじゃないか』と笑っているくらいなことで、船が沈もうということはちょいとも思わない。・・・」

ついでに、そのあともすこし引用。

「それから途中で水が乏しくなったのでハワイに寄るか寄らぬかという説が起った。・・・ついにハワイに寄らずにサンフランシスコに直航とこう決定して、それから水の倹約だ。なんでも飲むよりほかはいっさい水を使うことはならぬということになった。ところでその時に大いに人を感激せしめたことがある。というのは船中にアメリカの水夫が四、五人いましたその水夫らが、ややもすると水を使うので、カピテン・ブルックに、どうも水夫が水を使うて困るといったらカピテンのいうには、水を使うたらじきに鉄砲で撃ち殺してくれ、これは共同の敵じゃから説諭もいらなければ理由を質問するにもおよばぬ、即刻銃殺してくださいという。理屈をいえば、そのとおりに違いない、それから水夫を呼んで、水を使えば鉄砲で撃ち殺すからそう思えというようなわけで水を倹約したから、どうやらこうやら水の尽きるということがなくて、同勢合せて96人無事にアメリカに着いた。・・・」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

よき友人。

2010-02-18 | 他生の縁
昨日、「辰濃和男の天声人語【人物編】」(朝日文庫)に触れました。
そういえば、辰濃和男氏は1930年生まれ。加藤秀俊氏と同じ年生まれでした。
ということで、以前の書き込みを以下に引用。ちなみに、2003年4月16日に、khipuに書き込んでおいたものです

新聞の署名記事。文化欄などで気になる記者の名前があります。たとえば、読売新聞では鵜飼哲夫さん。ちょいとかわった名前なので、すこし慣れてくると鵜飼さんは、どう云っているのかと、そんな興味で記事を覗くことがあります。
さて、加藤秀俊さんの写真入り記事が続いて掲載されました。ひとつは4月2日読売朝刊「こころの四季」で秀俊さんの紹介記事。もうひとつは4月8日読売夕刊の「デジタリアン」という欄です。夕刊の方は早乙女泰子さんの署名記事でした。まずは夕刊から。最初に「著作目録をネットに公開した社会学者 加藤秀俊さん(72)」ご自身のカラー写真の下には「パソコン歴17年。デスクトップとノート、デジカメを仕事で使用する。・・データベースサイトは
http://homepage3.nifty.com/katodb/   」とあります。
「半世紀の間に著したほとんどすべてのものの目録約5500件を電子データベース化し、二月にインターネットで公開した。全体のうち500件は全文を掲載。講演記録と画像265点も含み、公開された個人の著作データベースでは国内最大級・・」。
ではもどって「こころの四季」から。
「(大学の)新聞部仲間で、朝日新聞の『天声人語』を書くことになる辰濃和男君が新聞社に行くと言うんで、大学院に進んだのが転機といえば転機。一年目に京大に拾ってもらいました。・・アカデミズムとジャーナリズムの【間】を歩いてきました。・・やさしく書く方がはるかに難しいですよ。新渡戸稲造が自分の書いたものを若いお手伝いさんに読んでもらい、『わからない』と言われると書き直したという話を若いころに読み、大変感動した。わかるように書かなければコミュニケーションにならないでしょう。」
聞き書きのような文のあとに別枠で、鵜飼哲夫記者の言葉がありました。
「学生時代に加藤秀俊著『独学のすすめ』を耽読した。いわく、大切なのは学ぶ意欲を持って自分の力で考え、創造すること、学校というのは『独学』では勉強できない人たちを収容する場所とあった。『なるほど』とひざを打ち、高卒後、働きながら独学を始めてしまったほどだ。結局は【収容所】に入ったが、本の精神を常々思い返す。・・」
「独学のすすめ」の「学校の意味 ―― あとがきにかえて」で、こう書かれています「この本に収録したエッセイの大部分は、雑誌『ミセス』に『教育考』という通しタイトルで1974年に連載したもので、多少、母親むけ、という表現が多いかもしれないが、お互いの人生のなかで『教育』というものがどんなものでありうるか、をかんがえる手がかりを読みとっていただければさいわいである。」
さまざまな魅力あるエッセイ題名が並んでいる本です。ここでは「情報時代の自己教育」の最後の言葉を引用して終ります。
「情報選択についてしっかりした意見をもっている人間たちこそがよき友人なのである。・・立派な批評家は、友人たちのあいだにもいるはずである。それらの友人たちと、さまざまな情報について、合評会をするのもいいだろうし、書物を主題にして、読書会をやってみるのもよいだろう。そして、そういう経験をつかみかさねることによって、だんだん、人間は、情報についての批評的なものの見方を身につけてゆくことができる。批評的な見方ができるということは、批評ができる、ということだ。その批評能力こそ、情報選択の能力の基本なのである。」

以上が以前の引用。

ところで、加藤秀俊著「独学のすすめ」は文春文庫で絶版になっておりましたが、
2009年11月にめでたくも、ちくま文庫に入りました。どなたでも簡単に読める楽しみ。
さてっと、辰濃和男氏がコラム「天声人語」を終えてから、ふっと読みたいと思える本を書かなくなってしまった。あれはなんだろうと、思うのです。加藤秀俊氏の言葉「情報選択についてしっかりした意見をもっている人間たちこそがよき友人なのである。・・立派な批評家は、友人たちのあいだにもいるはずである。」という新聞社でのお仲間から切れてしまったところに問題があったのではないか、コラムの切れ目が、文章の切れ目となってしまったのでしょうか。そんなことを思うのですが、最近は何か辰濃氏は文章を書かれておられるのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やや賢くなる。

2010-02-17 | 短文紹介
文庫の本棚をみていて、探し物とは別の文庫を開いたりします。
昨日もありました。「辰濃和男の天声人語【人物編】」(朝日文庫)。
これおもしろかったのです。自然編と人物編とがあって、人物編ががぜん面白かった。
という印象があります。もうだいぶ以前に見たものでした。
と思って、文庫の発行年をみると1993年とあります。

さて、そこに福原麟太郎氏が登場しておりました。
それを読んで、たしか福原麟太郎の本を読もうと思ったのでした。
ということで、せっかくですから引用。


「【福原麟太郎随想全集】の第一巻が出版された。去年、86歳で亡くなった故人をしのびながらページをくっているうちに『失敗について』という達意の文章にひきこまれた。人生などというものは、失敗の連続なのだ。いくらでも失敗するがいい、とこの人生の達人はいう。そう、たしかに私たちの明け暮れは失敗の連鎖の中にある。己を顧みても、きょうは成功した、うまくいったという日は数えるほどしかない。失敗、失敗、失敗の記録だ。この表現はまずかった、ここは心配りが足りなかった、と数えあげるのが怖いぐらいである。福原さんはこういって励ましてくれる。『失敗をして立ち直ったときに、その人は新しい人になっている。立ち直れない人が本当の失敗者なのかも知れない。といっても私自身、たいして立ち直っているわけではない。相変わらず、何かしらへまなことをやっては、自ら口をぬぐってすませている程度だともいえようが、実際のところ、失敗すると、やや賢くなる』。・・・・」(’82・2・28)

たしか、このコラムを読んで、私は福原麟太郎氏の随筆を読んだのだと思うのでした。
ちなみに、「失敗について」は、福原麟太郎著「人生十二の知恵」(講談社学術文庫)にあります。

う~ん。探していた文庫は、その後すこしして見つかりました。
古い文庫本で、背表紙が読めずに探し出せないでいただけでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アドレス。

2010-02-16 | 他生の縁
木下是雄著「日本語の思考法」(中公文庫)は
木下是雄集3「日本人の言語環境を考える」(晶文社)の文庫化。
単行本の時に、愛着があった本でした。

そのはじまりの方に、こうあるのです。

「1976年に、2年間アメリカで月の化学の研究をしていた同僚が帰国して、お子さんたちがヒューストンの小学校で使っていた国語の教科書を見せてくれた。硬い表紙で分厚い21センチ×24センチ判の、きれいな色刷りの本だ。
5年生用のを手にした私は、たまたま開いたページに
  
  ジョージ・ワシントンは米国の最も偉大な大統領であった。
  ジョージ・ワシントンは米国の初代の大統領であった。

という二つの文がならび、その下に

 どちらの文が事実の記述か。
 もう一つの文に述べてあるのはどんな意見か。
 事実と意見とはどう違うか。

と尋ねてあるのを見て衝撃を受けた。そこは『事実と意見』という単元で、そのページのわきには、

 事実とは証拠をあげて裏づけすることのできるものである。
 意見というのは何事かについてある人が下す判断である。
 ほかの人はその判断に同意するかもしれないし、
 同意しないかもしれない。

という二つの註が、それぞれ枠囲みに入れて印刷してあった。
『私が衝撃を受けた』のは、一つには、日本人の論文では事実と意見の混同が跡を絶たないのに他の国ではまずその例を見ないという差は、おそらくこどもの時からの教育がちがうせい――と悟ったためである。
もう一つの衝撃は、上記の註が『ほかの人はその判断に同意するかもしれないし、同意しないかもしれない』と言い切っていることによる。これは、こどもに向かって『ワシントンがえらい大統領だったかどうかはお前が判断することだよ』と宣告しているにほかならないではないか!
どちらも、当時教育の現場にあった私に再思三考をせまる問題であった。」


さて、木下是雄著「日本語の思考法」の文庫は2009年4月初版。
鴨下信一著「日本語の学校」(平凡社新書)は2009年5月初版。

鴨下氏のその新書の序章は「朗読とは何か」からはじまっておりました。
それを引用。

「朗読・音読とは何か、と聞かれたら『文を句(区)切って読むことだ』と答えます。

   日本語は世界一美しい言葉です

あなたはこれをどう区切りますか?
ひと息で読めます――いきなり困った答えですが、まあ結構。
その読み方を①とします。
でもそのほかに、少なくとも二通りに句切れます。

  ②日本語は/世界一美しい言葉です
  ③日本語は/世界一/美しい言葉です

②では『日本語』という言葉に聞く人の注意がいきます。
ああ、日本語について話すんだな、ということがはっきりする。
文の『構成』、つまり『意味』がはっきりする。
③では『世界一』に注意がいくでしょう。
こうすると何か『気分』『感情』が入ってくるような気がしませんか。
感情が生れるということは、そこに『表現』が存在するということです。
この句切り方は『表現』のために句切るのです。
大事なことを、二つ。一つは『句読点』のことです。『、』が読点、『。』が句点です。・・・・」



文庫と新書と。二つの本。
う~ん。本の始まりの事を思ったのでした。

そういえば、
外山滋比古著「日本語の作法」(日経BP)に
こんな箇所があったなあ。

「大きな国際会議などでは、はじめのあいさつ、オープニング・アドレスが注目される。会が成功するかどうかも、このあいさつにかかっていると言う人さえある。・・」(p98)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しみは。

2010-02-15 | 他生の縁
この3月でひとつの役が終りになるので、
二回飲み会が続きました。
最初は会議の終りに皆さんをさそって焼肉屋での飲み会。
こちらは、私が支払いをすませました。
二回目は、お宅へ招待されての飲み会。それが13日土曜日でした。

そういえば、
外山滋比古著「自分の頭で考える」(中央公論新社)に
思い出す言葉がありました。

「人にご馳走するのはよいものです。とくに利害関係のない人を供応するのは、おそらく人生最大の楽しみのひとつである、とわたくしは信じています。」(p69)

う~ん。「人生最大の楽しみのひとつ」なのか。
このところ、飲み会つづきで、本を読んでないなあ。
また、外山滋比古氏の本を読みます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お呼ばれ。

2010-02-14 | Weblog
2月12日と13日と飲み会。

昨日の13日は、築2年目のお宅にお呼ばれ。
ちょうど10人が呼ばれてのお宅での飲み会。
夕方5時半集合で、飲んで食べて9時頃まで。
日本酒は〆張とか八海山の一升瓶とか、焼酎の一升瓶。
お刺身の盛り合わせに、寿司とオードブル。
主人はワインで、私は日本酒。
しめサバに日本酒を飲んでいると、
静かに味わいながらとなります。
すると、率先して語り始める方がおり、
聞きながら笑いながらの楽しい会となりました。
ここには、昨年も呼ばれ、これで役も終わりの会。
自然薯が出てきたり、最後にはおでん。
楽しく飲みました。
ここは、禁煙。私は吸わないのでたすかります。
吸いたい人は、玄関から外へ。
てなわけで、何かがやがやとしておりました。
そう、呼ばれたのは皆男ばかり。
女性はお宅の奥さんが紅一点でした。
終わってからは、そばのカラオケ屋で発声練習。
ということで、11時過ぎに帰りました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山貞(やまてい)。

2010-02-13 | 他生の縁
外山滋比古氏の本を読んでいると、
時々、山崎貞著「新々英文解釈研究」という本が登場するのでした。
私は読んだこともないのですが、気になる。
たとえば、

「学校の授業だけでは満足できなくなって、受験参考書を買ってきて読み始めたのは三年の夏だった。山貞『新々英文解釈法』である。難しい。二度、三度読んで、英語を日本語にするとはどういうことかが、おぼろ気ながら解かるような気がした。いい本で、のちのち恩恵を受ける。・・」(「中年記」p7)

また、外山滋比古著「少年記」(展望社)には

「中学へ入って、いちばんおもしろい学科は英語であった。・・・
三年生の秋ごろから、受験参考書を買ってきて勉強をはじめた。英語にもっとも力を入れる。はじめ小野圭次郎著の『英文解釈法』を買ってきたが、すこしやさしい。というか、ていねいすぎる。途中でやめた。むずかしいと言われていた、山崎貞『新々英文解釈法』というのを買ってきてとりくんだ。手ごわい。むずかしいが、ぐんぐん力がつくような気がする。一度読んですぐ、もう一度読みかえす。なめるように読むということをはじめて覚えた。数学は岩切の参考書を用いたが、この山貞の解釈法にはおよばなかった。・・・」(p184~185)

さて、山崎貞の「新々英文解釈研究」(研究社)は、
復刻版が2008年12月25日に出ておりました。
その帯には、
「 伝説の参考書『山貞』、ついに復刊
  今ある「英文解釈」の参考書のルーツは
  すべて、この本の中にあります。     」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする