和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

岡本行夫。

2008-12-31 | Weblog
岡本行夫氏というのは、どんな方なのでしょう。
産経新聞12月30日の一面。その左上に岡本氏のコラムが掲げられておりました。
こうはじまります。

「先月このコラムで数行だけ『田母神論文は検証に耐えない論拠でつづられている』と書いたら、何人かの読者からおしかりを受けた。『おまえは日本人か!』と。田母神論文の誤りについては、朝日新聞で先月13日に北岡伸一東大教授、同じ新聞で今月22日にジョン・ダワー米MIT教授が「『国を常に支持』が愛国か」と優れた論駁をしているので、ここには記さない。ただ、「田母神氏に反対する人間は愛国者ではない」という決めつけ方がおかしいとこだけは申しあげておこう。」

コラムの文章のはじまりで、一番聞きたい肝心なテーマを掲げながら、「ここには記さない」というのが可笑しい。岡本氏はユーモアのセンスがある方なのでしょうか。私は家では、朝日新聞を購読しておりましたが、それを止めて久しいのでした。それから、読売と産経を購読して、現在は切り詰めて、産経だけにしております。
 さて、岡本氏は朝日新聞の先月13日の文と、今月22日の文を「優れた論駁」としてコラムの先頭に紹介しております。おいおい、それを探し出して読めというのでしょうか。もうすこしその「優れた論駁」を紹介してくださっても、よいのではないかと、愚考する私です。

産経新聞の一面で、朝日新聞の「優れた論駁」を語るのは、岡本氏の偉いところなのでしょうが、それなら、なぜ、明快なコラムを展開しないのか。忙しい方なのでしょうが、文の体裁になっておりません。困ったなあ。ニュアンスだけでコラムを書き上げようとしておられる。
せっかく、皆さんが聞きたい話題をコラムの最初に掲げながら、「ここには記さない」と肩すかしをする大胆さ、これが岡本行夫氏の面目なのでしょうか。

ここから、楽しみたいと思うのですが、
日下公人著「『逆』読書法」を持ってきます。この本を文章の評価尺度として使うと楽しめそうです。
たとえば、日下さんは、こう書いております。
「社説や新聞のコラムが取り上げましたが、外国人の名まえを借りるのは、日本人が日本人の悪口をいう場合に使う常套手段です。」(p93)
ここで、
岡本氏は「ジョン・ダワー米MIT教授が「『国を常に支持』が愛国か」と優れた論駁をしている」と朝日新聞の文を紹介しているのですが、いままで、朝日新聞は常に日本国を「支持」していたようには、私には思えません。その極端にいっている新聞についても、日下氏は書かれておりました。

「両極端を知るということで、新聞も一紙ではなく二紙以上読んだほうがいいといわれています。読売新聞の渡辺社長が、『朝日とサンケイを両方読むのがいちばんいい』と発言して話題になったことがあります。」(p171)

その片方の極にいる朝日新聞が、中立を装って
外国人の文に「『国を常に支持』が愛国か」と題しているのですから。
これは、題名だけよんでもクワセモノ臭いなあ(読んでないけれど)。

最後に、日下公人氏の本から引用するのは、思わず考えさせられる面白い箇所

「中立、中性の立場で書かれた本はたしかにありますが、ほんとうに中立、中性というものはまずありません。著者は中立、中性で書いているつもりでも、どちらかの立場に片寄るものなのです。それに、なかには中立を装って、じつはどちらかの極端な主張を擁護しているという本もあります。中立、中性を装った本が恐いのは、そうした表面に表われていない、隠れた偏向を見破るのがひじょうにむずかしいことです。そのために、ニュートラルだと思って読んでいるうちに一方の主張に感化されてしまい、自分で気がつかずに偏った見方、意見を持ってしまうのです。」(p170)

う~ん。なかなか日下公人氏のように語れる方は、すくないでしょうね。
さてっと、すくなくとも、岡本行夫氏のこのコラムは、いったい何を言いたいのか「見破るのがひじょうにむずかしい」コラムとなっております。

岡本氏の冒頭を引用した文にも、「数行だけ」「何人か」「ここでは記さない」というのがじつに分かりづらいなあ。岡本行夫氏というのは忙しい方なのですか。文の体裁が読めない。

どなたか、岡本氏がどのようなすばらしい本をお書きなのか、
その人となりをご紹介ください。
お薦めの本がありましたら、ご紹介ください。
それがなければ、まず岡本行夫氏は、無視することにします。
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息づかい。

2008-12-30 | Weblog
めったに開かないのですが、
本棚に置いてあり、そういえば、と思って手に取る本というのがあります。最近は、日下公人著「『逆』読書法」(発行・ひらく。発売・ごま書房)を本棚から取り出しました。まったく、本棚といっても、取り出さなければ、ただ飾り物とかわらない。そうして、私の本棚の本は、ホコリをかぶったままなのでした。愚痴はこのくらいにして、
「『逆』読書法」を読むと元気になります。
たとえば、こんな箇所。

「近ごろは、ほんとうにありがたい時代で、専門教養書が次々に出版されます。・・
子どものころに持った疑問を生涯追及し続けたその成果を発表してくださる人が多くて、本好きの人にはこたえられない時代です。子どもの心の疑問は多いほど人生が実り豊かになります。」(p75)

これが書かれたのは1997年。
「本好きの人にはこたえられない時代です」というのがいいですね。
私たちが生きている時代は、こういう時代なんだと、あらためて思ったりするのです。
来年も本を読むぞ。という意欲がわいてきます。

でも、日下氏は、こうも書いています。
「じつのところ、何かを学ぼうと思って書物を広げることはあまりありません。私が読書をするのは、それがおもしろいからです。何かを学ぶための読書は、教科書か、マニュアル本か、虎の巻か、ノウハウブックか、レポートづくりの百科事典で、おもしろくもおかしくもありません。もし、そういう先入観にとらわれて、本を読もうというのだったら、その人は、童話かサザエさんでも読んで、気持ちをリフレッシュさせる必要があるでしょう。」(p82)

う~ん。今年読めなかった本は、面白くなかったのだ、ということにしておきます。
それにしても、この「『逆』読書法」が絶版なのが不思議だなあ。こんなに面白くてためになる読書法なんてないだろうに。

最後は、「息づかい」をとりあげた箇所。

「学者だけが相手の学術書ならともかく、書物の役割の第一は著者のいわんとすることを読者に伝えることです。ところが、たとえば、心理学入門といった類の本には、その使命をはたしていないものがひじょうに多いのです。ロールシャッハテストだの、いろいろなグラフだのを並べ立ててあるのですが、著者の息づかいがまったく感じられません。神田あたりの古本屋に行ってみると、それがよくわかります。・・・・書いてある言葉の意味がむずかしくてわからないというのではありません。著者がなぜこんな本を書こうと思い立ったのかがわからないのです。ものすごく厚いばかりで、そこからは何かを伝えたいという著者の情熱がまったく感じられないのです。」(p99)

う~ん。著者の息づかいを感じるには、日下氏によると、古本屋に行ってみるとよいようです。私は、今年も古本屋へ行きませんでした。それでも、本を読むというのは、きっと、著者の息づかいを感じることなのだ。というのが、何か年々確信にかわってくるような気分を持つじゃありませんか。
ということで、来年も、息づかいに注意しながら、本を読みます。
もっとも、あんまり荒い息づかいは御勘弁。
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しつけ。

2008-12-29 | Weblog
ふだん整理などしないので、いざ整理をしようとすると、思い出す文がありました。
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)。
あらためて、新書・文庫の本棚から、取り出してみたら、110ページと111ページの間で真っ二つに切れちゃいました。あらあら。
では、何となくも、漠然と思い出す箇所を引用。

「われわれは、自分自身をしつけてゆかなければならないだろう。
たとえば、むかしの人は、物をたいせつにする、という点では、きちんとしたしつけを身につけている人がおおい。しかし、情報をたいせつにする、という点では、しばしば、まったくしつけができていない。主人の書斎に風がふきこんで、紙きれが部屋いっぱいにちらばったのを、老女中が気をきかせて、かたづけたのはよかったが、しろい紙はつかえるから、もったいないとおもってのこし、字のかいてある紙はすべてすててしまった、というわらい話がある。
情報管理は、物質の管理とは、原理のちがうところがある。『もったいない』という原理では、うごかない。さまざまな形の、あたらしいしつけが必要だ。たとえば、紙きれや印刷物をなくさないこと、書類をおったり、まるめたりしないこと、字をかくのをめんどうがらぬこと、など、子どものときから訓練しておけば、らくに身につく性質である。・・」(p216~217)

う~ん。字をかくのもめんどうなら、整理もめんどう。
まだ読んでない、きれいな本ばかり、やけに目につく歳の暮れ。
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手のひら。

2008-12-28 | Weblog
司馬遼太郎は神山育子さんへ宛てた手紙のなかで、
「『洪庵のたいまつ』感想文集、拝受しました。・・・
私は、日本における教育者は、洪庵が最大で、子規、松陰の二人を加えたいと思っています。いずれも、自分の小さな手のひらの火を、他に移した人々でした。
 共通しているのは、生命が短かかったこと、平明な文章を書くこと、一見、おとなしい人であること、などでありましょう。・・・」
 これが書かれたのは1990年4月23日。
ちなみに、司馬遼太郎が亡くなったのは、1996年2月12日。
司馬遼太郎追悼文では、私は多田道太郎の文が忘れられません。
そのなかに、こんな箇所がありました。

「日本文化がおもしろいのは、大事なことは抽象的な言葉では言えないというところです。司馬さん自体が、大文字で書く、G、ゴッド、大文字で書くF、フィクションはわれわれとは別ものの感じがすると言っています。・・・彼はこう言っています。自分が好きなのは、例えば私小説家の木山捷平、川崎長太郎だ。こういうのを読むと春のひなたに当たっているように楽しい。これが日本の小説の一番いいところだ。・・・・」
「何かの名誉を受けられたとき、彼の車にたまたま同乗させてもらったら、こんなことがありました。梅田駅まで行く途中で風景も覚えているんですが、『司馬さん、このたびはおめでとう』と言ったら、『いやいや、ありがとう。ありがとう。だけど・・・』。その後が非常に印象的なんです。手の平を出して、『この上に一粒か二粒ぐらいの塩みたいなものがある。これがなくなったときは大体もう人間として、あるいは芸術家として、しまいや』と。その自覚のある人でした。」

 多田道太郎の追悼文は三浦浩編「レクイエム司馬遼太郎」(講談社)で読めます。

手のひらの火と塩と。

そうそう。司馬さんが小学校の教科書用に書かれた「洪庵のたいまつ」を引用しておきます。
そこには、福沢諭吉の思い出も引用してありました。
「福沢諭吉は、明治以後、当時を思い出して、『ずいぶん罪のないいたずらもしたが、これ以上できないというほどに勉強もした。目が覚めれば本を読むというくらしだから、適塾にいる間、まくらというものをしたことがない。夜はつくえの横でごろねをしたのだ。』という意味のことを述べている。
洪庵は、自分自身と弟子たちへのいましめとして、十二か条よりなる訓かいを書いた。その第一条の意味は、次のようで、まことにきびしい。

   医者がこの世で生活しているのは、
   人のためであって自分のためではない。
   決して有名になろうと思うな。
   また利益を追おうとするな。
   ただただ自分をすてよ。
   そして人を救うことだけを考えよ。

・ ・・・・・
ふり返ってみると、洪庵の一生で、最も楽しかったのは、かれが塾生たちを教育していた時代だったろう。洪庵は自分の恩師たちから引きついだたいまつの火を、よりいっそう大きくした人であった。かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。やがてはその火の群れが、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。後世のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない。」

以前、小学校用の文ということで、『洪庵のたいまつ』をさらさらと読み流しておりましたが、こうしてあらためて引用していると、以前は何を読んでいたのだろうと、思うのでした。
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福沢諭吉。

2008-12-27 | Weblog
北康利著「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(講談社)を読んだのです。こういう時、私は、現代の人物を思いうかべたくなったりします。

読売新聞12月20日に、「2008年読者が選んだ日本10大ニュース」という集計結果が発表になっておりました。有効投票で80㌫代が上位3番まででした。

1、 中国製ギョーザで中毒、中国産食品でトラブル相次ぐ
2、 福田首相が突然の退陣表明、後継は麻生首相
3、 ノーベル物理学賞に南部、小林、益川氏、化学賞は下村氏

その3番目のノーベル賞講演が、つい12月8日にストックホルムでありました。
益川敏英氏は異例の日本語で約30分講演。その記事はというと、
「異例の英語字幕付き日本語講演となった益川敏英(68)は緊張した面持ちで、アドリブなしで原稿を読み上げた。しかし、壇上から降りた後は高揚した表情で『緊張するタマではない』と相変わらずの【益川節】を展開。・・・『アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ』益川さんはグレーのスーツ姿・・・開口一番飛び出した英語が、会場の笑いを誘って、一気に和やかなムードになった。・・」

北康利著「福沢諭吉」の中に
「慶応三年(1867年)1月23日、諭吉は幕府の軍艦受領委員会の随員として再び渡米することとなった。」(p110)
この渡米の様子が、生き生きとして語られております。
「その軍艦受け取りの使節首席は勘定吟味役の小野友五郎。今回も諭吉は当初のメンバーに入っていなかったが、小野とは咸臨丸で一緒だった縁を頼って日参し続け、なんとかもぐりこむことに成功した。」

「・・小野の不満は、諭吉の英語力にも向けられた。
(英語ができると聞いていたのに、まったくだめではないか!)
確かに、しゃべるほうはてんで話にならなかった。
彼は晩年になっても【but】を『ブート』、【people】を『ペオピル』と発音していたそうだ。
英語に堪能であった四女のお滝は、諭吉の英語の発音について尋ねられた折、
『めちゃくちゃでござんすね』と一刀両断にしている。
そんなこともあって、諭吉は通弁方(通訳)ではなく翻訳方を命じられていたわけだが、日頃外国方で英文和訳の腕は磨いていたものの、和文英訳のほうはいまひとつである。そのため要領のいい諭吉は、自分が頼まれた翻訳の仕事を、通弁方の津田仙や尺振八に頼んだりした。・・・・」(p111~112)

何だか、益川氏が、小林氏や益川氏ご自身の奥さんに翻訳をたのんでいる姿を思い浮かべたりしている私です。

そういえば、ユーチューブで益川氏の京都大学での受賞講演が見れました。
講演質疑が長く聞けたので、楽しめました。
そこで、紹介する方が益川さんを益川先生と、つい紹介しようとすると、
先生はいけないと、そのたびに脇にひかえる益川さんから注意が飛ぶのでした。
それが印象にのこります。
ということで、北康利著「福沢諭吉」の中にある『さん』に注目してみました。

「漢学塾の形式主義を否定しようとした反動もあって、塾の規律はいまひとつ。塾生の中には諭吉のことを『先生』ではなく『諭吉さん』と呼ぶ者もおり、呼ばれる諭吉も平気でいた。」(p102)

「【半学半教】という思想である。教授と塾生の間には長幼先後の差があるだけであり、学問の進んだ者が後進を教え、自身はさらに前を行く者に学ぶという考え方こそが慶応義塾の【半学半教】であった。・・・〈学べ。もっと学べ。そして私も学ぼう〉【半学半教】の教えは、学問に終着点はないという彼の信念を実にわかりやすく表現している。・・・身分制度が身震いするほど嫌いな彼のこと。学校の中とはいえ、先生と生徒との間に上下関係をつけたくなかったのかもしれない。さすがに諭吉だけは『先生』と呼ばれたが、教授も塾生も学内では『何々さん』と呼びあい、公式の場では『何々君』と呼ぶ習慣ができあがった。時の流れとともに今では廃れてしまったが、・・・」(p119~120)

「身分制を蛇蠍(だかつ)の如く嫌う彼は、子供たちの間にも上下関係を持ち込ませなかった。上の者が命令口調で目下に接することはなく、しごく平等な関係にした。兄や姉が弟妹の名を呼ぶ時もけっして呼び捨てにはさせず、『捨さん』『さとさん』といった風(ふう)。下の者も、『お兄さま』『お姉さま』とは言わず、同様に名前を『さんづけ』で呼んだ。」(p232~233)
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座右の銘。

2008-12-26 | Weblog
「諸君!」2009年2月号。
新春特別企画は「77人、わが座右の銘」。
これが読み応えあります。
数人の座右の銘と文とを読んだのですが、これがいいんだなあ。
どういえばよいのやら。
こんなのはどうでしょう。
「開運!なんでも鑑定団」の鑑定士・田中大氏の本に
「先賢諸聖のことば」(PHP研究所)があります。
そのはじめに、田中氏は書いておりました。
「・・とても残念に思うことがあります。近年、江戸や明治の先賢たちが残した墨蹟が、めっきり売れなくなったということです。それはなにも、商売上の損得ばかりで言っているのではありません。文化の、そして思いの伝達ができなくなっていることに危機を感じてのことなのです。思想家・実業家などが残した直筆の格言・名言の書には、わたしたちがふだん忘れかけている人生観、哲学がまさしくあります。・・・ひと筆ひと筆、揮ごうされた文字には、まずは自分を、そして家族を、社会を、国家を、さらには世界を良くしていきたいという気概が満ちています。人は誰しも迷い、悩みます。そんなとき、大きな拠りどころとなるのは、同じように悩み、苦しみ、しかし自らを信じて理想を追求した先賢たちの存在ではないでしょうか。・・・」

まあ、これが今年は気になっておりました。
それを、雑誌が特集として掲げておられる。
思い浮かぶのは、編集者の言葉でした。
「『人の群がるところに行くな』
 『読者がこういう本を読みたいだろうから、
  ではなく自分が面白くて、読みたい本を出せ』」
      (「編集者 齋藤十一」p131)

『まずは自分を』という田中大氏の言葉と、
『自分が面白くて、読みたい本を出せ』という編集者と。

前置きはこのくらいにして、
雑誌の特集を、パラパラと見てみましょう。

五味廣文氏が選んだ『座右の銘』は、「中学一年生時、訓育主任の先生の言葉」とあります。
   「 やるべきことを
     やるべきときに
     きちんとやる   」


『座右の銘』のあとに各人が文を寄せているのです。
あれ。と思ったのは、日下公人氏の文でした。選んだ座右の銘から、脱線した内容になっているのが興味深く引用しておきます。

「・・社長室にかかげてあるのは多分部下や来客に自分を説明するためである。田母神航空幕僚長の部屋には、
    かくすれば
    かくなるものとは知りながら
    やむにやまれぬ大和魂

とあったのをこんどの事件のあとで思い出した人が何人かいて、【そうだったのか】と話しあったものである。防衛省では制服組と背広組の対立があるのは昔からのことで、背広組は文民統制の旗印を自分の利益にために使うから、生命がけで任に就く制服組は文民統制の内容にあまり納得していない。
サラリーマン生活30年で本社と現場の対立を体験している私はその延長でこの言葉を理解し、大臣、次官、官房長の部屋にはどんな座右の銘が書いてあるか、一度機会があれば覗いてみたいと思ったものである。・・・・
上に立つ人と下で従う人の二つの世界をつなぐよすがが座右の銘かも知れない」(p184~185)

さて、このくらいにしておきましょう。
あとは、編集者に敬意を表して、雑誌を読んでのお楽しみ。
ということにしておきます。


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緒方洪庵。

2008-12-25 | Weblog
司馬遼太郎が、小学校国語教科書のために書いた文があります。「洪庵のたいまつ」(5年生)。「21世紀に生きる君たちへ」(6年生)。これを読んだ小学校の先生・神山育子さんは、どうしたか。残念ながら、その司馬さんの文が載った教科書は、当時は採用されなかったのです。神山氏は、それを、いつか自分の教室の授業教材として扱いたいと願うのでした。そして、早朝の課外授業として父兄の許可を得て実践します。その記録が「こどもはオトナの父 司馬遼太郎の心の手紙」(朝日出版社)として出ております。その国語授業の生徒感想文を冊子にして、司馬遼太郎へ送ると、返事がきたのでした。その司馬さんの手紙に、忘れられない箇所がありました。
それを引用してみます。

「『洪庵のたいまつ』感想文集、拝受しました。
神山先生が、第二から第一に移られたこと、もう定年を何年かさきにひかえられているご年齢であること、などを知りました。文集を読んでいて、自分が書いたものがテキストになっているのに、洪庵その人を、あらためて感じさせられました。たんねんなご授業の結果だとおもいます。私は、日本における教育者は、洪庵が最大で、子規、松陰の二人を加えたいと思っています。いずれも、自分の小さな手のひらの火を、他に移した人々でした。共通しているのは、生命が短かったこと、平明な文章を書くこと、一見、おとなしい人であること、などでありましょう。まだ共通点があるかもしれません。
 右、とりあえず。  」
1990年4月23日の手紙。

ここに「日本における教育者は、洪庵が最大で・・・」とありました。
緒方洪庵に教えられた福澤諭吉のうちに、どのような洪庵像が育っていたのか。北康利著「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(講談社)の前半に、その様子が写し出されておりました。その箇所を、とりあげてみたいと思います。

「『福沢全集緒言』の中で諭吉は、【誠に類ひ稀れなる高徳の君子なり】と最大限の賛辞を贈っている。25歳年長だったから親子のようなもの。風貌の特徴があった。猪首(いくび)で猫背のため肩幅の広さが目立つ。当時の医者の多くがそうであったようにいわゆる総髪で、髪が長く肩にかかっている。歯が悪く何本か既に抜け落ちているため、口が小さく顎が突き出た印象を与え、広い額の下のやや奥まった眼窩(がんか)から、二重まぶたの目が強い光を放っていた。・・・
貧しい者にはしばしば無料で治療を施したことから、『生き仏』と呼ばれていたという。『とびきりの親切ものでなければ医者になるべきではない』というのが洪庵の口癖だった・・・
【一樹一穫は穀なり。一樹十穫は木なり。一樹百穫は人なり】という『管子(かんし)』の言葉があるが、人材というものは、うまく育てればその実りの豊かさは果実の比ではない。適塾は25年という長きにわたって存続するが、その間に大村益次郎、大鳥圭介、長与専斎、佐野常民、橋本左内など、維新の回天を担う有為の人材をそれこそ綺羅星の如く輩出していった。」(p44~45)

「洪庵の翻訳はわかりやすいことで有名であり、今、我々が使っている『健康』『疾病』『慢性』『治療』『遺伝病』『流行病』といった言葉も洪庵の造語だと言われている。それらは簡にして要を得ているからこそ現代まで生き残ったのだ。彼は原書をある程度頭に入れると、原文の細部にはこだわらずに自分の言葉で書いていった。諭吉は後年自分が翻訳や著作をする立場になった時、師の流儀を見習ってわかりやすい文章を書くことに努めた。」(p47)

「岸直輔という塾生が腸チフスに罹り、日頃この塾生に世話になっていた諭吉は、律義にもつきっきりで看病にあたった。・・岸もまた、哀れ三週間ほどで病没してしまった。その直後、諭吉はいやな感じの悪寒に襲われる。・・・諭吉が病に臥したという知らせを聞いて、急ぎ洪庵が駆けつけてきた。着物をはだけさせると、胸部や腹部にバラ疹と呼ばれるピンクの斑点が浮き出ている。(やはり腸チフスか・・・)・・・
洪庵は次のように言って聞かせた。
『わたしはお前の病気をきっと診てやる。ただし親しい相手じゃと何分迷うてしまうから執匙(しつぴ:薬の処方)はほかの医者に頼む。そのつもりにしておれ』【医者の自脈(自分で脈をとること)効き目なし】と似た理屈である。その言葉通り、すぐ友人の蘭方医・内藤数馬を連れてきてくれた。・・・洪庵は毎日のように顔を見せてくれた。多忙な中、見舞いのための時間を捻出することがどんなに大変なことか、諭吉が知らないはずはない。布団の中で泣きながら手をあわせた。教師は学問を教えるだけの存在ではないことを、洪庵は身をもって示したのだ。」(p48~49)

この箇所は、あとのp121にもつながっておりました。

「だが、師・緒方洪庵の薫陶を受けてきた彼のこと。わりにあわないなどと考えたことは、一度たりともなかったに違いない。腸チフスで死線をさまよっていた諭吉を毎日見舞ってくれた洪庵が、損得で教育に取り組んでいたはずがない。この師ありてこの弟子あり。教育は輪廻していく。慶応義塾は、実は適塾に始まっていたのである。」


蛇足ですが、こんな箇所もありました。

「諭吉は人との交際に関して、二つの大きな長所を持っていた。一つは一度会っただけで顔と名前を覚えることができたこと。もう一つは億劫がらずに手紙のやりとりを続け、一語一会を大切にしたことである。そのことが、彼を更なる人生の高みへといざなっていった。」(p134)
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写生すること。

2008-12-24 | Weblog
林望著「リンボウ先生の文章術教室」(小学館文庫)を読みました。
文章教室は、以前に桑原武夫や鶴見俊輔。そして多田道太郎の本を読んで楽しんだことがあったので、今回も期待して読みました。
生徒の例文の添削などがあり、何やら自分の文が添削されているような身につまされる感じで、そそくさと読みました。
ここで、林望氏がうたっているのは、
「単純に言ってしまうと、文章を書くというのは芸術の一分野であります。
絵をかいたり、音楽を演奏したりするのと同じように、文章を書くというのは明らかに芸術的な営為でありますから、誰もが練習すれば絵かきになれるわけではないのと同じように、誰もが音楽家にはなれないのと同じように、才能のありなしというものは生れつき歴然と決まっておりまして、遺憾ながらやっぱりかなりの大きな要素です。」

まず、こうして釘を打っております。
私が面白いと思ったのは、ここで文章を、絵と音楽と並べていることでした。
こう、並列すると、かえって、文章の居場所が、クリアになるように感じられます。

「新潮45」1月号が出ております。
そこに内田樹氏が「呪いを解く『祝福』の言葉」と題して書いておりました。
何とも、1月号らしい題名です。
その文の最後は能の「山姥」について語りながら、こうしめくくっております。
「エンドレスであるということが呪鎮の呪鎮たる所以なのです。『これでこの人についての語りはおしまいです。この人が何者であるかについては、全てが語り切られました』と言ってはならない。それでは呪いを鎮めることができない。だから、写生に終わりはない。人間的現実に記述しきったということは起こらない。生は汲み尽くすことができない。それゆえ、私たちは記述すること、写生すること、列挙することを終りなく続けるしかない。それが祝福ということの本義だろうと私は思います。」(p74)

う~ん。「記述すること、写生すること、列挙すること」を終りなく続ける。
それを祝福の本義としているんですね。それで、誰でもが祝福することが出来るわけではないんだ。
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ひっくり返し。

2008-12-23 | Weblog
立川談春著「赤めだか」を読んで、しっくりと一言で伝えられない何かがあることに気づいたわけです。それが何であるのかも、分からないまま。プア~ンとした、そんな気分でおりました。さてっと、21日の日曜日、コンビニに日経新聞を買いにでかけました。その日経に「THE NIKKEI MAGAZINE」という大判冊子がついております。開いて見ていたら、そこに柳家三三(さんざ)へのインタビュー記事があったというわけです。
名前が変っておりますけれど、その由来も書かれております。
師匠の小三治が「二ツ目になるとき『お前は何の特徴もないからせめて目立つように』と師匠が思いついた。由来もはっきりしないが、確かに人目を引く分、得をしている・・」

そこに、気になる箇所がありました。
インタビューは「小林省太」とあります。まあ、気になるといえば、全文を引用しなきゃならないのでしょうが、ご勘弁を願って、一箇所だけ。

「世の評判はそれとして、三三は自分の落語を嫌う。登場人物がすべて自分の一本の物差しの中でちょこまか動いている。高さも幅も奥行きもない。だから、芝居の書き割りのようなきれいごとの落語なんだという。『これって、人の心の揺れや痛みを分かれない人間なんだな自分は、ってことですよね』でも、そうやって駄目だとか足りないとか感じていないと持たない性質(たち)。一番怖いのが自分を嫌だと思わなくなることだというのだから、自分の落語は下手だ嫌いだと思うことこそが、進化の原動力になっている。」

う~ん。もう一箇所引用。

「師匠に『修業の答えが出ました』って言ったら、『ああなるほどな。自分の生きてきた道を否定されたくないからな』って言われて」と落とした。
理屈を披露しては、それがなんぼのものか、とひっくり返してみせる。


これを読んでいて、思い浮かんだのは、谷沢永一著「日本人が日本人らしさを失ったら生き残れない」(WAC)のはじまりの言葉でした。
そこには、こうあります。

「私にいわせれば、『進歩』は劣等感の産物である。劣等感がなければけっして進歩はありえない。事実として日本が後れているかどうかは問題ではないのである。日本人は観念の上でいつも、自分たちは『後れている』と思ってきた。これが日本の原動力であった。そしてこの思いこそ――大東亜戦争の敗戦を別とすれば――日本の歴史が一度も大きく落ち込むことなく、つねに上昇を続けてきた秘密であろう。
そうだとすれば、これを単に『劣等感』と呼ぶのはいささか物足りない。ちょっと寂しい。そこで私は『未然形の劣等感』という言葉を捻り出した。『為すところあらん』とする劣等感、である。もう駄目だ、ではなく、まだまだ後れているから頑張ろうという踏ん張り。とどのつまり、やる気に直結したコンプレックスである。この『未然形の劣等感』がこれまで日本を牽引してきた。」(p9)

この谷沢永一氏の本は、こうして始まっているのでした。
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齋藤十一。

2008-12-22 | Weblog
昨日。雑誌「WILL」が届いておりました。2月号。
その巻頭随筆「天地無用」に「転移」と題した文がありました。
そこに丸谷才一氏が朝日新聞に書いていた文を紹介しております。

「総合雑誌は明治期の博文館により創刊され、我が国ならではの独特な編集を続けてきた。鶏の飼い方から軍艦の構造まで載せていると揶揄されたこともある。大正昭和期には我が国の出版界をリードする権威を示していた。それが現今は衰退を噂され、魅力が乏しくなっている理由を思案した丸谷才一(「朝日」11月22日)が、「中央公論」に代表される如く。嘗ては広い分野を抱擁していた綜合雑誌も、今や政治と経済を中心とする方向に移行し、その堅苦しさをやわらげる小説を重視せぬようになったゆえ趨勢ではないかと注意を促している。」

この後に、コラム子は、こうつないでおります。

「仰せ御尤もであり首肯せざるを得ない的確な指摘であるが、このような傾向が生れた原因もまた無視できない。第一には、媒体の変質移行であろう。斎藤十一の構想による「週刊新潮」と後続の「週刊文春」等により、週刊誌掲載の小説が評判を生み、それを支える幅の広い作家が続々と出現した成り行きである。・・・・」


ここに齋藤十一氏の名前が登場しております。
ちょうど、十年ぶりぐらいに、私は雑誌「新潮45」を買ったばかりだったのです。その新潮社の名物編集者だった、齋藤十一が思い浮かぶのでした。

ということで、以下は本の引用。
「編集者 齋藤十一」(冬花社)は、弔辞からはじまって、
さまざまな思い出を集めた一冊。ちょうど、それらを読み込んで上手くまとめたような佐野眞一氏の文も載っておりました。そこには、こんな言葉があります。

「美和夫人によれば、齋藤が生涯のライバルとして認めていた編集者は、『文藝春秋』を国民雑誌といわれるまでに育てあげた池島信平ひとりだったという。・・・雑誌はそれを作りあげた編集者の指紋のようなものである。『文藝春秋』は池島の編集長就任から数えて六十年以上の星霜を刻み、『週刊新潮』は創刊からまもなく半世紀の歳月が経つ。にもかかわらず、『文藝春秋』にはいまも池島のぬくもりのようなものが感じられるし、『週刊新潮』にはいまも齋藤の人間観が色濃くにじんでいる。」(p29~30)

坂本忠雄氏は、こう書いておりました。
「周知のように戦後、『新潮』編集長としての出発から、 「芸術新潮」「週刊新潮」「新潮45」「FOCUS」と次々に新雑誌を創出され、意表を衝くような斬新性に世人は驚き、歓迎した・・・・今やさまざまに流布している「『週刊新潮』で文学をつくっている」という言葉を私はじかに聞いたのだが、それもここにつながっていると思う。」(p97~98)

さらにいろいろな人が語っており、この追悼本に響いている言葉がありました。う~ん。ここでは伊藤幸人氏の文から。それは、こんな場面でした。

「『新潮45』の第一回編集会議というべき、創刊にあたっての初顔合わせで、編集長以下編集スタッフ4名を自室に呼んで、齋藤さんが放った言葉はいまも忘れられない。昭和59年(1984年)12月28日のことである。
『他人(ひと)のことを考えていては雑誌はできない。いつも自分のことを考えている。俺は何を欲しいか、読みたいか、何をやりたいかだけを考える。これをやればあの人が喜ぶ、あれをやればあいつが気に入るとか、そんな他人のことは考える必要がない』 
『要するに、世界には学問とか芸術というものがあるし、あったわけだね。そういうものを摂取したい自分がいる。したいんだけど、素人だから、手に負えない。そういうものにうまい味をつけて、誰にも読ませることができるようなものにするのが編集者の役目だ』強烈なアジテーションに、われわれ編集部員は圧倒された。・・・実は、こうした齋藤さんの『演説』は、その後の編集会議でもずっと続いていたのだ。」(p168~169)

この本、2006年の出版なのですが、まだネットのbk1などで注文すれば、数日で届くようです。

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読書好き。

2008-12-21 | Weblog
今年は、岡崎武志・山本善行著「新・文学入門」(工作舎)の対談を楽しく読みました。何が、いったい楽しかったのだろうと、わたしは、あれこれ思うわけなんです。ああ、こういうことなのかもしれない。というのがありました。

小林信彦著「後期高齢者の生活と意見」(文春文庫)を読まずにめくっていたら、こんな箇所がありました。
「ここ数年、海外の小説(エンタテインメントも純文学も)を読んでも、若干の例外はあるとして、さっぱり面白くない(日本の小説の場合も同じである)。だから、読書好きの人が明治大正の小説に向いつつある気分がよくわかる。・・」(p106)
この一文が書かれたのは1995年とあります。

う~ん。ということは、新刊本屋へ出かけても、読書好きには物足りない。ということがありうるのかもしれませんね(もちろん、私にはわからないのです)。すると、100円均一の古本を漁っている方が、じつは読書の腕前があがる。ということになるなあ。

ところで、12月21日の日経新聞読書欄で、リービ英雄氏が水村美苗著「日本語が亡びるとき」の書評を書いておりました。そこに
「日本語の現状を解明する。そして万葉仮名以来の日本語の書きことばの歴史をたどる。そのクライマックスは、漱石を中心とした、地球ではじめて大きなスケールで現れた非英語の近代小説の誕生をスリリングにつづった一章である。千数百年の間、中国語という『普遍語』を翻訳しながらその独立性を保った『現地語』が、英語というもう一つの『普遍語』に対峙できる『国語』と生まれ変り、それによって世界中で『叡知を求める』読者にとどくほどの文学が創られた。それが近代日本語の『奇跡』であった。その『奇跡』は、しかし、百年経ってみると、インターネットに加速された英語の支配力の前で無化されてゆく。せめて『その過程を直視』せよ、と水村氏が言う。
『漱石や鴎外の時代』には現代の誰ももどることはできない。だが、日本で起きた『非英語の奇跡』と、その行方を自覚することはできる。そして水村氏の『憂国』は、英語を母語としない、実は人類の大多数の読み手と書き手にも通じるだろう、と十分想像することもできるのである。」

と、つい書評最後の部分を全文引用してしまいました。

漱石といえば、つい「吾輩は猫である」を思いうかべるのですが、そういえば最近、ブログ「古書の森日記」を見ていたら、12月19日の日記にこんな箇所がありました。

「 今月の4回の講演のうち、3回が終了。17日の午後、岡山市内の就実短期大学で村井弦斎の話をしてきた。・・・・
 約200人が聴いてくださったのだが、短大生と一般人がおよそ半々。せっかくの機会だったので、その200人に質問してみた。まず「村井弦斎の小説を読んだことがある方は?」と聞くと、手を挙げた人はゼロ。次に「国木田独歩の『武蔵野』を読んだことがある方は?」と言うと5、6人の手が挙がった。ウーン……。最後に「それでは、夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んだことのある方は?」と聞いて、半分くらい手が挙がるかと思ったが、それでも20人足らず……(笑)。『吾輩は猫である』でさえ、10人中9人以上は読んで“いない”わけだ。若い世代と60代以上の方々とを含めてこの結果であり、おそらく、他の講演会場で聞いても大差はないだろう。明治の小説は絶望的に読まれていない、ということがよくわかった。 」

うん。でも、10人にひとり『吾輩は猫である』を読んでいるなんて、すごいなあ。ところで、『吾輩・・』というのは、わざわざ新刊本を買って読むでしょうか。家にあった本とか、古本で読むんじゃないか、それから図書館とか、そんなふうに私は思ったりするのでした。

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かもめ食堂。

2008-12-20 | 詩歌
ちょうど、家にDVD「かもめ食堂」が、借りてきてあったのでみました。
面白かったので文庫本・群ようこ著「かもめ食堂」(幻冬舎文庫)を買い読んでみました。
なにやら、シナリオを読んでいるような気分。
読みながら、思いうかべたのは木下順二著「夕鶴」と永瀬清子の詩「諸国の天女」。
でも、これらは、ちとありふれているかもしれないなあ。
どなたでも、思い浮かぶかもしれない。
ということで、ちょっと違った視点でいきましょう。

   丸山薫の詩に「汽車にのつて」があります。何でも昭和二年に発表とあります。
それを引用してみましょう。

      汽車に乗つて
      あいるらんどのやうな田舎へ行こう
      ひとびとが祭の日傘をくるくるまわし
      日が照りながら雨のふる
      あいるらんどのやうな田舎へ行こう
      窓に映つた自分の顔を道づれにして
      湖水をわたり 隧道(とんねる)をくぐり
      珍しい顔の少女(おとめ)や牛の歩いている
      あいるらんどのやうな田舎へ行こう

この詩については、司馬遼太郎著「愛蘭土紀行」と向井敏著「司馬遼太郎の歳月」に具体的なイメージにつながる文がよめます。
ところで、「かもめ食堂」はフィンランドなのです。
文中に、準主役のマサコさんが語る箇所があります。

 「父のオムツを換えているとき、テレビでフィンランドのニュースを何度も見たんですよ。『エアーギター選手権』『嫁背負い競争』『サウナ我慢大会』『携帯電話投げ競争』でしたね。いちばんすごかったのは、『嫁背負い競争』です。ふつうに考えると、おんぶすると思うでしょう。それが違うんです。奥さんの両膝を後ろから自分の両肩にひっかけて、ものすごい速さで走るんですよ」(p149~150)

こうしてマサコさんはフィンランドに来て日本人が経営している「かもめ食堂」によるのでした。ところで、主人公ともいえるサチエさんが、フィンランドの食堂を経営するのに食堂の名前を思いつく場面があります。

「 『いけない、そんなに甘いもんじゃないんだから。いい気になっちゃいけません』サチエはエテラ港で、足元を歩くころっころのかもめに向かっていった。かもめは、『何やってんの』という顔でサチエを振り返り、とことこと歩いていってしまった。『かもめ・・・ねえ』日本でかもめというと、かわいい水兵さんか演歌の脇役だが、フィンランドのかもめはどことなく、のびのびとふてぶてしく、またひょっこりしていた。このひょっこり具合が、自分と似ているような気がしてきた。『かもめ・・・、かもめ食堂・・・、でいきますか』」(p34)


  そういえば、室生犀星の物語『乙女抄』の中に「東京詩集」があるというのですね。
そこに「かもめ」という詩があるそうなのです。せっかくですから、その詩「かもめ」を引用しておきます。


      かもめ

   かもめは川の面をあさっている
   船がすぎたあと
   七八羽のかもめが
   陸橋(りっきょう)の円いめがねの下をくぐり
   そして空に立つ。
   この都にこういう景色が
   終日くりかえされていることを
   わたくしは知らなかった。
   しかも
   かもめはこころを安んじて
   みやこのただ中に遊ぶのだ、
   白いお腹に日はあたり
   白いお腹は花のように輝いている。


ちなみに、室生犀星著「乙女抄」は昭和17年初版とあります。
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数え年。

2008-12-19 | Weblog
立川談春著「赤めだか」に
「正月、元旦に日本人全員が一斉に歳をとるという風習が過去にはあり、それによって大晦日も新年も現代では想像もできないほど神聖な儀式だったのだと思う。」
という箇所がありました。
その少し後にはこうもあるのでした。

「東京オリンピックのあとに生れた談春(オレ)が考えても日本人は変わってしまったと思う。年末年始、全ての人が、ひっそりと正月を迎えるという子供の頃には当たり前だった風景は今はない。その当時、どこを探しても開いている商店は一軒もなかった。コンビにも当時の日本には一軒もなかった。スーパーで売っている御節(おせち)を買う人はこの国には一人もいなかった。」(p245)

そうか、古典落語の中のお正月と、現在のお正月とが落語家談春の中では、あざやかな違いとして同時に存在しているのだろうなあ。

私は、ここから、岩村暢子著「普通の家族がいちばん怖い」(新潮社)へと補助線を引きたくなるのですが、まだ岩村氏のほかの二冊を読んでいないので、パス。

ということで、ちょいと引用が出来そうなのは、ないかなあ、と本棚を見渡すと、福音館書店の「いまは昔むかしは今」というシリーズが、そういえば、読まずにありました。
その4巻目は「春・夏・秋・冬」と題しております。ひらいて見れば四巻目の最後は「大晦日から初春へ」と題して書かれておりました。その口上を引用してみましょう。

「・・毎年変わることなく巡り来てまた過ぎ去ってゆく季節の中に、人びとはさまざまの節目を設けて、暮らしのリズムをつくってきたのをわれわれは見てきた。そのような節目の中でも、人びとの暮らしを内と外からおびやかす危機が極限にまで高まり、それゆえに『新たな時』への転換がこの上なくめでたく尊く感じられるときがあった。太陽の力はもうそのまま死にはてんばかりにおとろえて、身を切る寒さは生きとし生けるものをおびやかし、月さえ姿を消し、無数の鬼たちが横行し、人間の身に積もる穢(けがれ)も積みに積もって、生命の力も衰えはてるとされたとき、大晦日(おおみそか)がそれだ。」(p480)

ということで、4巻目の最後にかかれている「今昔雑談ファイル 何かが起こる日」を引用しておきます。

「昔話は、特定の土地への緊縛を解かれてはじめて、昔話の軽やかさを手に入れる。固有名詞や特定の日とのつがなりについてもまた同じだ。ところが研究者が『大歳の客』と呼ぶ一群のお話がある。大晦日の晩に訪れる客をめぐるお話・・・・大晦日とは、どうやら『神のような鬼のようなもの』がこの世を徘徊し、人間を訪れる時のようだ。そして『そのもの』は、人のふるまいに応じて、鬼となり神となって容赦なく人間に禍福を頒つ。人間の側からすれば、客人の訪れによって、自分の世界の明暗がぐるりと大転換をとげる。この日、オニは、カミへ、カミはオニへと劇的な転換をとげるといいかえてもいい。・・・大歳の客の諸話の中で、おそらくだれもが聞いたことがあるはずの笠地蔵のお話では、大晦日におじいさんの暮らしに劇的な転換をもたらす『客』は、地蔵だ。このお話には鬼も悪人も出てはこないが、そもそも地蔵とは六道の辻に立ち、地獄へ落ちる亡者を極楽に救いあげる、転換の専門家と考えられていたことを忘れてはならない。・・・・
四季のはじまり、節供、縁日など・・永遠に繰返される時の巡りに、人びとが節目を刻み、姿勢を正して待ち設けた日(晴れの日)は、人びとの精神と人びとを包む世界の転換・更新を、必ず内包していたようだ。そして、さまざまの節目を集約するもっとも重大な節目である大晦日の晩に大転換があって、はじめて新しい太陽はのぼった。」(p484~487)

地蔵といえば、井伏鱒二の「厄除け詩集」に石地蔵という詩がありました。
最後にその引用。
     
       石地蔵

    風は冷たくて
    もうせんから降りだした
    大つぶな霰(あられ)は ぱらぱらと
    三角畑のだいこんの葉に降りそそぎ
    そこの畦みちに立つ石地蔵は
    悲しげに目をとぢ掌(て)をひろげ
    家を追ひ出された子供みたいだ
    (よほど寒そうぢやないか)
    お前は幾つぶもの霰を掌に受け
    お前の耳たぶは凍傷(しもやけ)だらけだ
    霰は ぱらぱらと
    お前のおでこや肩に散り
    お前の一張羅(いつちやうら)のよだれかけは
    もうすつかり濡れてるよ


こうして引用してくると改めて、あれこれと思ったりします。
ところで、満年齢で私は誕生日を祝うよりも、
それより、数え年で家族で元旦を迎える方がよいなあ。
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冬の噺。

2008-12-18 | Weblog
立川談春著「赤めだか」の後半に印象深い箇所がありました。

「古典落語には【冬の噺】に名作が多いと云われている。」(p242)


そうなのか。落語を読んだこともないのですが、こう語られると、冬の落語というのを何だか読んでみたくなります。もう少し先には、こうあります。

「創元社刊『米朝落語全集』の第五巻に、除夜の雪という作品がある。一度読んで惚れこんだ。」(p246)


そう書かれていると、いつか落語の「除夜の雪」を読んでみたいなあ。と、思うだけなら思っておきましょ。いつか願いがかなうかもしれない。

ということで、横着をして、手もとにある本で冬を楽しむ。
ということをしてみます。

井伏鱒二著「厄除け詩集」は
「なだれ」からはじまっておりました。
せっかくですから、題名だけでも、列挙してみましょう。

 なだれ
 つくだ煮の小魚
 歳末閑居
 石地蔵
 逸題
 冬の池畔
 按摩をとる
 寒夜母を思ふ
 かなめの生垣
 つばなつむうた
 顎
 山の図に寄せる

こうして題名だけでも、何だか、冬が感じられます。
もちろん、全部が冬の詩ではないのですが。それと、題名の「厄払い」とが気にかかります。

思い出すのは、「笑いの力」(岩波書店)でした。
そこでの最後に座談が載っている。で養老孟司氏がこう話しておりました。

「面白いことに江戸小咄というのは、その社会体制で起こっている不幸自体を笑ってるんです。そこまで行かないと、どうも成熟した笑いにはならないじゃないか。だから、江戸小咄で一番成熟しているなと思う、ぼくが好きな笑いは、全部貧乏話なんですよ。
 例えば、大晦日になって、貧乏人がせまい家だけど大掃除をやります。きれいに掃きだして、やれやれこれできれいになたといって部屋の真ん中に戻ったら、なんだかみすぼらしい中年の男が、部屋のど真ん中に座ってるんで、『あんた誰』って言うと『貧乏神です』と言う。それを掃きだして、やれやれ来年からはよくなるというと、天井のほうで、なんか声がして、『そんなに押すな、また落ちる』って言う(笑)。
                            (p131~132)

ここらで、また「赤めだか」にもどりましょう。


「正月、元旦に日本人全員が一斉に歳をとるという風習が過去にはあり、それによって大晦日も新年も現代では想像もできないほど神聖な儀式だったのだと思う。
今年は悪い年だったと嘆く人には、『いつまでも過ぎたことを、グズグズ云うねェ。除夜の鐘と一緒にきれいサッパリ忘れちめェ』であり、『良いことばかりあるわけじゃねェだろうが、悪いことばかり続くと決まったもんでもねェよ。明日になりゃ一陽来復(いちようらいふく)だ。生まれ変わってやり直しだ』となる。」(p242)


ところで、『赤めだか』の本の最初では、中学卒業間近に同級生で落語を聞きに行くという企画が会ったことが語られておりました。そこに立川談志が登場して語る。その語りがカッコで1ページほど引用してありました。
その最後は

「嫌なことがあったら、たまには落語を聴きに来いや。
あんまり聴きすぎると無気力な大人になっちまうからそれも気をつけな」(p13)

どうやら、先生と生徒で、落語を聞きにいったようです。
これを聞いた中学生の談春は、談志をどう思ったか、そこも書いてありました。

「・・教師達からは相変わらず生意気だと云われ、仲間は円丈は面白かったけど、談志って誰だっけと忘れられ、談志の評判は決して良くなかったが、僕は魅せられた。」

それにしても、米朝の「除夜の雪」というのは読んでみたいなあ。
なんて、落語など読んだこともない癖して。

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赤めだか。

2008-12-17 | Weblog
立川談春著「赤めだか」(扶桑社)を読みました。
落語家立川談志に弟子入りした十七歳の成長物語。
なんせ、ご本人が書いた弟子入り修行の顛末。
しかも、十五分の落語一席を覚えるのに一か月かかった本人が、
御自身の経験を書きこんだのがミソ。落語修業と落語それ自身とが不即不離になって、落語のテンポが、いつのまにか、この本のリズムを刻んでゆくのが圧巻なのです。ああこの人は落語を生きているのだと、その肝心の立川談春の落語を聞いてもいないのに私は思い始めてしまうのでした。
題名の「赤めだか」の意味は、早々に明かされます。
ほとんど同時に弟子入りした二十七歳の男が、辞めてゆきます。
「二十七の男が、脱サラして、覚悟を決めて、その覚悟がたった半年で崩れる」(p56)。その名は談秋。
その談秋の弟子入りエピソードがさまざま語られる中のひとつでした。

「『おい談秋、金魚にエサやっとけ。麩がある場所はわかるな』
『はい』
庭の水がめに飼っている金魚は、金魚とは名ばかりで、いくらエサをやってもちっとも育たなかった。僕達は、あれは金魚じゃない、赤めだかだ、と行って馬鹿にしていたが、大きくならないところも談志(シショウ)好みらしく可愛がっていた。出かける仕度を整えて・・・庭へ出ると、談秋はまだエサをやっている。水がめを見て談志は目をむき、僕達は息を呑んだ。談秋、麩一本丸ごと指先でつぶして、全部水がめの中に入れていた。膨張して層になったお麩の中で金魚がピクピクしている。お麩の中で溺れる金魚を僕は生れて初めて見た。談志(イエモト)が笑顔で、ものすごく優しい声で、
『談秋、金魚はそんなに喰わねェだろ』
と云った。肩をふるわせて『申し訳ございません』と小声でつぶやきながら、談秋は手でお麩をすくって捨てている。わけがわからなくなっているのだろう。お麩と一緒に、金魚もすくって何匹か捨てている。それを見ないフリをして談志(イエモト)は門を出て大通りへ向かって歩いてゆく。僕達三人も黙ってあとをついてゆく。僕が一度だけ振り返ったら、談秋はまだ水がめの中に手を突っ込んでいた。」(p51~52)

この本の題名は、どうやらここから来ているようです。
これが、まあ、この本の導入部であります。
ここから、弟子入り修行の修行たる本題にはいるのですが、
う~ん。お後は読んでのお楽しみ。ということになります。
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