和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

アンパンと地方巡業。

2007-08-31 | Weblog
テレビのワイドショーでは、朝青龍の話題でもちきり。
相撲協会が紹介した専門医からも「急性ストレス障害」「解離性障害」との診断。ということで、モンゴルへ帰国。
私に興味をひいたのは編集手帳(2007年8月14日)と、
産経新聞の「断」堀井憲一郎のコラム(8月29日。「断」ではもう一人いたのですが、ド忘れ)。
ところで、最近の大相撲。空席の多い観客席を、テレビが映し出します。その回数が、私には、だんだん多くなっているような気がします。
「断」の堀井さんのコラムでは地方巡業にふれられておりました。
そこを紹介。
「ここんところ、朝青龍の一件で大相撲の地方巡業をいくつかニュースで見た。」と始まっております。
「夏のあいだ東北、北海道、新潟、群馬あたりをまわってるようだ。こういうのを見てると大相撲は興行ものだとわかる。東京や大阪の固定の小屋だけではなく、あいまに地方もまわる。・・・四都市での固定興行と、地方巡業では内容が違う。年六場所の本場所の成績だけで、いろんなことが決まってるように見える。朝青龍も、だからサボってもいいとおもったのだろう。・・・そもそも地方巡業では、勝敗を競っていない。ふとおもうのは、大相撲の本当の姿は地方巡業のほうではないか、ということだ。足を運んでくれた人たちをきっちり楽しませるという、江戸時代から続く【見世物】としての誇りを持った仕事だ。・・・・」


これを読んでしばらくしたら、ジャイアント馬場を思い浮かべました。

ジャイアント馬場といえば、プロレスですが、やはり地方巡業はあります。
その死亡記事のことを思い浮かべたというわけです。
ここに引用したくなりました。

「還暦を超えた現役プロレスラーとして生涯を終えた。・・
バブル時代、所属選手たちに集団脱退されたことがあった。
残った選手に『自分たちにはファンがスポンサーだ』と言い・・
晩年は・・メーンイベントの前に行われる前座の試合に出続けた。
試合の前後に売店に立って、プロレスグッズを売ることもあった。・・
巡業先では試合のあとホテルに引きこもった。
『目立つのかな。外に出ると酔っぱらいがからんでくる。だから繁華街のことは何も知らない』と話していた。」
(朝日新聞1999年2月2日社会面)

読売新聞では経歴を知ることができました。

「1938年、新潟県三条市に生まれ、少年時代には野球に熱中した。
55年にはあこがれの読売巨人軍に投手としてスカウトされる。『夢のようだった』。
高校を中退して上京したが、一軍でほとんど活躍できないまま病気のため退団。
当時の大洋(現ベイスターズ)へテスト生として参加したが、キャンプ中にふろ場で転倒して腕をけがし、投手生命を絶たれた。一時は絶望して、六畳一間の下宿に閉じこもりアンパンばかり食べていたという・・・」
「一線を引いてからも六人タッグなどに出場し続け、3711試合連続出場を達成。
阪神大震災では被災地に行き、ファンクラブの会員の家を回って勇気づけたというが、自分からはそれを公言しなかった。」

読売新聞2月2日夕刊の山内則史さんの記事の最後には、忘れられない巡業の思い出が書かれておりました。

「ふるさとで初めての試合は、1964年7月23日。前年暮れ、力道山が不慮の死を遂げていた。気をもまされた雨は、当日からりと上がり、10年前、球児だった三条実業高の校庭でリングに立った。けが人が出るのでは、と心配になるほど多くの人が詰めかけていた。『ちょうど梅雨が明けたんですよ。おれの中では今でも、梅雨明けといえばこの日なんだ』。格闘家であるのみならず、読書家としても知られ、全日本プロレス社長という『経営者』の光栄と苦労をも味わったジャイアント馬場さん。」

「解離性障害」だという朝青龍が、飛行機に乗ってモンゴルへ向かう様子が、テレビで流れておりました。それとは、全然別なのでしょうが、六畳の下宿に閉じこもりアンパンばかり食べていたというジャイアント馬場を、私は思い浮かべたのでした。


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炎天下の滋味。

2007-08-27 | Weblog
昨日は飲み会。私は地方に住んでいながら、田植えも稲刈りも知らない身であります。ちょうど、この時期。稲刈りが始まっております。さて、飲み会の話題に、稲刈りの話がまじります。私は聞き役。そこで、そういう聞き役に分かりやすいようにお米の話をしてもらえる。稲刈りをして、竹の竿にその稲を干す作業がある。近頃は、乾燥も機械ですませる方が、簡単にすませられるのだけれど、ちゃんと干す。その方が味が違うというのです。けれども天日干しをすると労働力が機械ですます時の三倍はかかる。手間が三倍かかるけれども、売る時は同じ値段になるのは、どうも解せない。たとえば、ちゃんとした寿司屋は、必ず天日干しの米を予約して買うのだそうです。味が違う、というのです。ただ、稲を干すのには風がないといけない。日差しだけでは水分が逃げないのだそうです。そうして出来た米は、違う、というのです。いまでは自分の家で食べる分だけでも、干しているのだそうで、別荘に来ている人に、その米をわけると誰もが味が違うというのだそうです。


午後の飲み会の前に、松本章男著「道元の和歌」(中公新書)を読んでおりました。そういえば、そこにこんな箇所があったのです。

「仏道修行に専心することを『辦道(べんどう)』ともいう。
禅林では修行僧中の第一位が首座(しゅそ)とよばれるが、道如(どうにょ)首座は高名な官人の子息であるにかかわらず衣服のやつれなどがひどい。道元はたずねた『あなたは富貴のご出身。なぜそのように身のまわりが質素なのでしょう』。道如が答えている『僧となればなり』(随聞記五・二)。
禅林ではまた修行僧の食事を担当する役職を典座(てんぞ)という。
盛夏のある真昼どき、典座が仏殿のそばで岩海苔を干していた。背のまがった六十八歳の老僧なので、炎天下の作務(さむ)はあまりにも過酷である。道元は見かねて声をかけた『そのような作務は寺男にお任せになっては』。老僧が答える『他はこれ吾にあらず』。道元は重ねて言った『では、せめて炎天下をお避けになっては』。答が返る『更にいずれの時をか待たん』。岩海苔は炎天下に干してこそ滋味を増す。道元は老僧が即座に返してきた右の説示からも、辦道の何たるかを教わる思いがしたという(典座教訓)。」(p27)
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家族の「漱石・鴎外」。

2007-08-25 | Weblog
高島俊男著「座右の名文」(文春新書)を読んでしばらくたってから、その切り口に違和感を抱いていたことがあります。鴎外と漱石を取り上げた箇所で、どちらもその家族を登場させているのでした。題名の「座右の名文」から、ズレていたためでしょうか。そこが気になって、ひっかかっておりました。
漠然とそう思っていたわけです。
さて、今日も暑かったですね。ついフラフラと町の本屋さんへと入りました。
よせばいいのに雑誌をパラパラとめくっておりました。
それでもって「中央公論」9月号を買ったわけです。
吉本隆明・内田樹対談「日本の家族を蝕む《第二の敗戦》」とある12ページほどの文に興味を持ちました。そこで、現代の家族を語りながら、しばらくするとこんな箇所があったのです。

「漱石や鴎外のような敏感な人間は、家庭生活でも感度が異常に高いので、周りの人間もつられて感度が上がってしまう。普通の夫婦とはレベルの違う、振幅の激しい感情生活を余儀なくされるということがあるんじゃないかと思います。でもそういう起伏の大きい、偉大スケールの感情生活が、平々凡々で特に腰の据わった世界観も人生観も持っていない普通の人間の、普通の家庭の中に入ってきたら、それは維持するのは難しいと思うんですよ。」(p28)

というようにして、吉本さんは漱石鴎外を登場させて語っておりました。ちなみに、対談の最後は親鸞でしめておりました。
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久世光彦詞華集。

2007-08-24 | Weblog
「久世光彦の世界」(柏書房・2007年3月)の最後には、久世光彦詞華集が載っております。題して「久世光彦詞華集 ―― 久世さんの愛した作品」。それを並べてみます。

   小沼丹   村のエトランジエ
   向田邦子  かわうそ
   内田百  サラサーテの盤
   川端康成  雪
   太宰治   満願
   江戸川乱歩 押絵と旅する男
   野溝七生子 往来
   松井邦雄  悪夢のオルゴール(抄)
   渡辺温   可哀想な姉

この小説の後に、詩があります。

   大木惇夫  戦友別盃の歌
   北原白秋  秋の日  紺屋のおろく
   中原中也  朝の歌  雪の宵
   西條八十  空の羊  蝶
   三好達治  乳母車  少年
   佐藤春夫  少年の日 海辺の窓 秋刀魚の歌
   伊東静雄  八月の石にすがりて 水中花
   久保田万太郎  湯豆腐

そして、最後に劇画。

   上村一夫  鶏頭の花


(小説は、私は駄目なので、ここでは詩について)
この冊子の題名は「久世光彦の世界  昭和の幻景」となっております。
ちなみに責任編集は、川本三郎・齋藤慎爾のお二人。
追悼特集というよりも、題名そのままに、内容がつまった一冊。
そのなかに、齋藤慎爾・久世光彦対談「詩歌の潮流」がありました。
それを読んで感銘を覚えたので引用しておきます。

【久世】・・なんであれ、人に「いい」と言われて読んで、よかったことはないね。やはり自分で発見したものしか信用しないから。それで、この人はこんなにいいんだから世間でも有名なんだろうと思って聞くと、そうでもないということがよくあります。でも、僕はそれでちっともかまわない。

こうして語られてゆく対談で、アンソロジーについての話題も出てきます。

【久世】・・大木惇夫さんはいまだにアンソロジーにも入りませんねえ。
【齋藤】かつて戦犯ということで追放されて、今日まで復活されない。久世さんくらいでしょう、復活させようとしているのは。
【久世】いえ。深田祐介、森繁久弥とか崇拝している人はいくらもいますけれど、アンソロジーにも入れないのはなんでかなあ。(p211)

対談では、久世さんご自身の本「マイ・ラスト・ソング」に触れてます(ちなみに、その本は谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ)の中では、70歳への推薦図書として取り上げられていたなあ)。では、対談から引用してみます。

【齋藤】久世さんの「マイ・ラスト・ソング」、「あなたは最後に何を聴きたいか」ということで、「諸君」にずっと連載をしておられますが、もう何冊か本になっている。
【久世】三冊か四冊じゃないかな。たいへんな回数だ。
【齋藤】最後に選ぶ曲は変わっていくでしょう。
【久世】そりゃあ変わりますよ。ただ、「諸君」という雑誌の読者が高年齢層だから、あまり新しいのはどうも。せいぜい七十年代のフォークが限界じゃないかなあ。新しい歌をやるとあまり評判がよくないんです。これは短歌や俳句ともどこかでリンクするのかもしれないけれど、<歌>というものに対していかに多くの人がいかにたいへんな執着を持っているか。僕はいろいろな連載をやっていますけれど、いちばんたくさん手紙が来るのがあれなんです。・・・・「戦友別盃の歌」を取り上げたときのリアクションもそういうのが多かったですよ。学徒出陣で出て行った青年たちに大木惇夫を愛唱していた人が多いんです。『海原にありて歌へる』に載っているんですが、戦死した兄が出陣のときにそれを持って行ったとか、そういう人がたくさんいたみたい。戦場に持って行った本のベストスリーに折口信夫の『死者の書』と並んでこれも入っているんですよ。そのころの学生にいかに読まれていたか。」(p213)

伊東静雄の詩が、久世光彦さんのアンソロジーに載っているということで、書こうと思ったら、だいぶズレてしまいました。当たらずといえども遠からず(笑)。それよりも、この対談を読めてよかった。ところどころで、鮮やかなヒントをもらったような得した気分になったのです。



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夏の旅。

2007-08-23 | Weblog
日本の仏像で、以下の説明を受けたら、はたして、どの像を思い浮かべるでしょうか? ヒントは、奈良時代。国宝です。

「少年をおもわせるしなやかな肢体(したい)。六本の手の一組は胸の前で合掌し、ほかの二組は左右の空間に無限に伸びていく。その手のいかにも自由で調和のとれた不思議なやさしさ・・・。そして眉根(まゆね)を寄せた清純な表情の奥に秘めたきびしさ・・・。」

ちなみに、この像については、和辻哲郎が大正期に著した『古寺巡礼』にも、亀井勝一郎が終戦の2年前に著した『大和古寺風物誌』にも語られてはいないのだそうです。

答えは、奈良の興福寺の阿修羅像。
これについては、私なりに順を追って話してみます。
それは、編集手帳(2007年8月9日)のコラムでした。
そこで、コラム子は「ここ何年か、広島と長崎の被爆地を訪ねた帰り、奈良に立ち寄って阿修羅像を拝観する夏の旅をしている。せつなげなまなざしに打たれるときもあり、張った眉(まゆ)に浮かんだ怒りの色におののくときもある」と書いておりました。そこで紹介されていた本が興福寺監修「阿修羅を究める」(小学館)でした。その本を注文していたら、今日届いたというわけです。初版が2001年とあります。編集手帳のコラム子の「ここ何年か」という期間がすこし割り出せそうな気分です。
この本「阿修羅を究める」の中の、医療史家・立川昭二さんの文を、コラム子は取り上げておりましたので、さっそく私も読んでみました。堀辰雄・岡野弘彦・會津八一らの言葉を織り交ぜながら文が進行しており、読み甲斐がありました。

その立川昭二さんの文をどこから引用すればよいのか迷いますが、
こんな箇所はどうでしょう。

「近ごろの医者は患者のからだの内部にまなざしを向けるどころか、患者を前にして眼は検査の数値や画像に向けられていることの方がはるかに多い。・・私たちが『人を見る』『人に見られる』というときは、たがいに眼と眼を合わせないで『見る』『見られる』というのがふつうである。たとえば、この『阿修羅を見る』というとき、私たちはふつう阿修羅の眼と自分の眼を合わせないで見る。そして阿修羅のまなざしは何を見つめているのか、と問う。一方、私たちはおたがいに真正面から眼を合わせ、あるいは眼がかち合い、見つめ合うことがある。・・・・
阿修羅の場合、阿修羅のまなざしを『見ている』ときは、それは遠くはるかにやさしく見ているようなまなざしに見える。しかし、真正面からそのまなざしとかち合うと(あるいはそのまなざしに射すくめられると)、それは深く貫き通すようにきびしいまなざしに見える。阿修羅はやさしいまなざしときびしいまなざしの二つをもっている。」

さきに、まなざしについての、立川昭二さんの意見を引用しましたが、
それでは、立川さんの文章の最初の方から紹介してみたいと思うのです。
まずは阿修羅の紹介。

「この三面六臂(ろっぴ)の印象的な仏像といえば、奈良興福寺の国宝『阿修羅像』であることを知る人は多い。阿修羅は単に修羅ともいわれ、古代インドの神で帝釈天(たいしゃくてん)と戦う鬼神とされ、仏教では八部衆の一人として仏法の守護神とされている。修羅といえば争いのことをいい、地獄などと同じ六道の一つ。したがって、阿修羅の像はふつう忿怒(ふんぬ)の相をしている。」

この後に、昭和16年(1941)に小説家・堀辰雄が奈良を訪ね、阿修羅に出会った時の文を引用しているのでした。その引用を孫引きしてみます。

「結局は一番ながいこと、ちょうど若い樹木が枝を拡げるような自然さで、六本の腕を一ぱいに拡げながら、何処か遥かなところを、何かこらえているような表情で、一心になって見入っている阿修羅王の前に立ち止まっていた。なんというういういしい、しかも切ない目(まな)ざしだろう。こういう目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示しているのだろう。それが何かわれわれ人間の奥ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させていると、自分のうちにおのずから故しれぬ郷愁のようなものが生れてくる、――何かそういったノスタルジックなものさえ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない気もちになって、やっとのことで、その彫像をうしろにした。」(『大和路・信濃路』新潮文庫)

9ページほどの立川氏の文の最後の方には、會津八一も登場します。

「『鹿鳴集』で名高い歌人の會津八一も、戦時中教え子たちがつぎつぎに戦場に駆り出されるのを嘆いたとき、この阿修羅の前に立ち、こう詠んだのである。

   けふ も また いくたり たちて なげき けむ
   あじゆら が まゆ の あさき ひかげ に

(歌集「山光集」所収)                        」


ちゃんと時代背景にも、言及しておりました。

「この阿修羅が造られた天平時代、日本はけっして安泰な時代ではなかった。日本各地には飢饉・疫病がたえまなくくりかえしていた。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の神亀(じんき)三年(726)に、『百姓或ハ痼病ニ染沈シ、年ヲ経テ未ダ愈エズ。或ハ亦重病ヲ得テ、昼夜辛苦ス』とあり、同書の天平五年(733)には、『是ノ年、左右ノ京及ビ諸国飢疫スル者衆(おほ)シ』とある。・・・そうした時代、人びとの病苦や悲嘆を受け止め、共に苦しみ、共に悲しみ、その苦しみ悲しみを癒してくれたのが、阿修羅だったのではないか。」


編集手帳のコラムニスト竹内政明氏が、ここ数年繰り返しておられる、夏の旅のことを思うのでした。


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わかい友。

2007-08-22 | 詩歌
伊東静雄の詩「そんなに凝視(みつ)めるな」は、詩集反響の中の「凝視と陶酔」に収められています(人文書院「定本 伊東静雄全集」ではp139)。
まずは、その詩を引用してみます。

   そんなに凝視(みつ)めるな

  そんなに凝視めるな わかい友
  自然が与へる暗示は
  いかにそれが光耀にみちてゐようとも
  凝視めるふかい瞳にはつひに悲しみだ
  鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな
  夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな
  手にふるる野花はそれを摘み
  花とみづからをささへつつ歩みを運べ
  問ひはそのままに答へであり
  堪へる痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ
  風がつたへる白い稜石(かどいし)の反射を わかい友
  そんなに永く凝視めるな
  われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
  ああ 歓びと意志も亦そこにあると知れ



詩は詩を連想しますね。
たとえば、5行目の「鳥の飛翔の跡を天空にさがすな」という一行など
私はご詠歌を連想しました。道元の和歌にこんなのがあります。

  水鳥の行くも帰るも跡たえてされども路(みち)はわすれざりけり

この意味はというと、松本章男著「道元の和歌」(中公新書)によれば
「水鳥たちは、秋は南へ渡ってゆき、春は北へ帰ってゆく。行路には何の跡をも残さないが、しかし、水鳥たちはその行路を忘れることがない」(p122)。



他の行でも、連想した詩があります。たとえば現存詩人で岸田衿子の詩に

     雪の林の奥では

  雪の林の奥では
  立ちどまってはいけません
  歩いていないと
  木に吸いこまれてしまうから


という短い詩があります。これなど、つい「夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな」という一行と結びつけたくなります。もうひとつ、こんなのはどうでしょう。

  
    なぜ 花はいつも

  なぜ 花はいつも
  こたえの形をしているのだろう
  なぜ 問いばかり
  天から ふり注ぐのだろう


この岸田衿子さんの詩は、
「花とみづからをささへつつ歩みを運べ 問ひはそのままに答へであり」という行と関連づけたい気持ちに、私はなります。まあ、それはそれとして「定本 伊東静雄全集」の後記を桑原武夫氏が書いておりました。格調ある文です。その文のはじめの方にこうあります。

「・・ただ、伊東は日本近代詩史に、するどい不滅の痕跡をのこしたという確信のうえに、この全集はあまれたのであり、伊東についてのあらゆる問いへの答は、ここに含まれているはずである。」(p551)

この後記には、つぎに全集編纂の経緯が語られておりました。

「未亡人は、伊東が生前詩集に収録することをひかえた未熟な初期の作品を世間に再発表することは、故人の盛名をきずつけることにならないだろうか、また、日記、書簡などの公表は私生活の暴露であって、特定の個人に迷惑を及ぼす恐れはないだろうか、という懸念を最初しめされた。遺族としてもっともな配慮であって、私も心中いささか同感するところがあったのである。」

こう成り行きを書きながら、桑原氏はつづけて、書くのでした。

「・・彼の初期作品、日記、書簡等は、伊東個人についてのみならず、一般に、詩人はいかにして形成されるか、詩は詩人のうちにいかにして成熟してゆくかについて、さらに昭和初期の敏感な青年はいかに悩みつつ生きたかについて、多くの示唆をあたえるに相違ない。この仕事を不自然に回避することは、文学を裏切ることになりかねず、逆に、十全の用意をもってこれを行なうことは、伊東の真価を改めて問う機会となるに違いないのである。・・・」


ここで、桑原武夫のこの確信はどこから、きたのか?
と問うてもよいですよね。

1953年6月の創元選書「伊東静雄詩集」解説を桑原武夫は書いております。
そのなかで、こんな箇所がありました。

「私は『わがひとに与ふる哀歌』をもらったとき、その一応の美しさしか理解できなかった。戦後、それを読みかえして、その烈しい美しさにひどく打たれ、十年前に真価を十分とらえ得なかったことを恥ずかしく思い、伊東に手紙でわびた。」

ところで、この解説で、桑原武夫(「桑原武夫集3」岩波書店・p537)は、ある問いをなげかけておりました。
それはどんなものだったのか。引用しておきます。


「伊東静雄は、昭和において真に本質的な仕事をなした最も純粋な詩人である。
・・・・彼は日本の近代詩に消しがたい痕跡をのこして去ったのであって、その細くするどい痕跡がいかに深く切れこんでいたかは、時がたち、幅ひろく浅い痕跡が磨滅するにつれて、はっきりしてくる。日本人が真に詩を愛しつづけるかぎり、百年後、彼の名は一そう光をましているであろう。」(後記・1966年)

この百年後のために「定本 伊東静雄全集」(1971年)は編まれたわけです。
ちなみに、谷沢永一著「執筆論」(東洋経済新報社・p150)で、谷沢さんはこう書いておりました。
「同僚の源氏学者である清水好子から以前に伝えられた桑原武夫の名言を思い出す。いわく、ジャーナリズムにおける仕事では、言々句々、人を驚かせなければならない、と。正統派を以って自任する学者たちからいかに罵られようと知ったこっちゃない。世間の意表を衝く、この執念が出版界の期待に応える道である。・・・」

伊東静雄は、明治39年(1906年)生れ、昭和28年(1953年)に48歳で亡くなっております。あと半世紀の間に、はたして、桑原武夫の予言は?
その「問ひはそのままに・・・」







    

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そんなにみつむるな。

2007-08-22 | Weblog
ブログ「書迷博客」の「今日美術館」(2007年8月19日)が印象に残っています。
「今日美術館(英文名称 TODAY ART MUSEUM)では中国各地の藝術大学学生の作品展が開催中。おもに国画(中国画)と油彩の展示」とあり、ほんねこさんの興味を持ったことの指摘が、気になるのでした。こうあります。
「今回面白かったのは、油彩のほとんどと、中国画の一部で人間が描かれるときの、その人物の目だった。絵の中の人物のほとんどが、目をつぶっていたり、目を伏せていたり、なかには目そのものが描かれなかったりする。また目を開いていても、その視線はあらぬところにさまよっているか、何も見ていないかのように無表情である。かといって、その目は自分の内側を見つめているわけでもない。どうして人物の目がこうも虚ろなのだろうか。」

これに、八妹さんがコメントをつけているのが、また注目したくなるのでした。
八妹さんはこう書いております。「昨日放送された「日本人と自画像」というNHK教育の番組で、描かれた目について触れられていました。芸大では卒業制作に自画像が課され、全点が大学に収蔵されるのだそうです。そのうち戦時中の作品では、目が描かれないものが目立つということでした。人の顔の中でいちばん表情をもつ器官をあえて描かない、あるいは描けないというのはやはりそれなりの切迫した状況を反映するのでしょうか。」


ここでの八妹さんは日本の戦時中の学生の自画像を語っている。

ちょうど私はといえば、伊東静雄の詩を読んでいるところでしたので、それに関連しておもったことを付け加えたくなりました。伊東静雄の日記で、昭和14年9月19日に、こうありました。

「昨日よりやや爽涼、歯医者で五時に寒暖計みたら二十七度、先達中三十二、三度あつたのだ。今日いよいよ爽快、久し振り身體がしつとり感じ、皮膚がしづかに呼吸するのをおぼゆる。美しい詩が書きたい。

    永い永い夏
  
    わが服の紺色あせ

    人生と和解出来ぬ男

 そんなにみつむるな若い友、ふかい瞳に自然が与へる暗示は、それがいかに光耀にみちてゐるものであつても、つまるところ(それは)悲しみだ。自然は、変化だからだ、そして又僕らも変化。

 そんなにみつむるな若い友、自らを停めることによつて、自然へのまどはしの暗示をうくるな、歩きつつ道の花をつめ、多様のよろこびにはほほゑめ、ほほゑみは、自然と汝とを支へる唯一つのものだ。

   ほほゑみは受けることと与へることとの調和だ。

   風と光の中に身を粉々にせよ、自ら持するところあるな。

   詩を釣る勿れ。                   」


ちなみに、この詩は推敲の段階で、完成された詩は、また別にあります(いづれ引用してみたいと思います)。
さて、昭和14年(1939年)といえば、5月にノモンハン事件。8月に第二次ノモンハン事件。9月に第二次世界大戦勃発。

伊東静雄の日記の少し前、昭和14年9月1日も引用してみます。

「第一の興亜記念日なり。本日より学校始まる。始業式、分列式、神社参拝、大掃除等あり。頭重く、いんうつ也、夏の疲労つもつて甚しい感がする。朝校庭で分列式をながめながら、思索ばかりで行動なきものは発狂す、といふ言葉をつぶやいてゐた。この疲労はどうにかしなければいかん。・・・・日光つよく、後頭部いたみ、めまひを覚える。いくぶんの吐気と。
独逸とポーランド国境にて激戦中との号外あり。自分の頭脳では果して戦争に堪へるだらうか、二、三日前から自分はしきりにそれをあやぶんでる。ひる十二時記。」

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蝉・擬音語。

2007-08-21 | Weblog
「ノイズ=蝉の声」というのは、
いちおう日本人としては、承服しかねますよね。
外出して、汗をかきながら、日差しをうけていると、まるで日差しの効果音じゃないかと思うような蝉の声が聞こえている。そういうのを毎年夏に繰り返しているわけです。夏は蛍。というのは肝心の蛍がいなくなってしまって、ピンとこなくなりましたが、クマゼミがだんだんと北上して来ているこの頃、まだ蝉と夏との関係は強固なような気がします。
ということで、蝉の話題には、興味があります。
養老孟司・吉田直哉対談「目から脳に抜ける話」(ちくま文庫)に
こんな箇所がありました。

【吉田】・・・実験じゃなくていろんな経験でしかいえないのだと思いますけど、たとえば友達が作った日本のテレビドラマを同業の演出家のアメリカ人たちに、見せました。男と女の別れのシーンだったんですが、話がとぎれたところへ、『カナカナカナカナカナ』って、蝉の声がはいる。それが実にいいセリフ代わりになってるんですけど、『あのノイズは何だろう』って(笑)。何もかもぶちこわしって言うか・・・・。
【養老】そうですね。彼ら、蝉の鳴き声は『ノイズ』って言いますね。確かにそうです。
【吉田】ですから確かに実験は難しいとは思いますけど、虫の声を言語的に聴くというのは、日本人には当然でしょう。     (p109~110)


ここで吉田直哉さんは「実にいいセリフ代わり」「虫の声を言語的に聴く」としておりますした。ちなみに、そのあとには、養老さんのイギリス・オーストラリアでの蝉の話が続いておりました。

さてっと、産経抄(2007年8月20日)に、こんな箇所がありました。

「国語学者の山口仲美さんによれば、さまざまな擬音語でセミの声を楽しむのは、日本文化の特質らしい。中国人やアメリカ人にとっては、単なる騒音にすぎないから、いちいち言葉で認識したりしない。ところが日本に滞在して日本語に熟達してくると、セミの声も『いいな』と思えるようになるそうだ。言葉が持つ不思議さである。」


ここから、産経抄は作家のセミについてのエピソードを語るのでした。

「作家の佐藤正午さんは、夏の一日の始まりには窓を開けて、1分か2分必ず考える。ミンミンゼミの声を『ミンミン』の代わりにどう表現できるか、つまり『蝉の声をあらわす比喩』を見つけようとするのが習慣になっている(「小説の読み書き」岩波新書)。ちなみに三島由紀夫は『数珠を繰るような蝉の声』と書いているという。藤沢周平の傑作『蝉しぐれ』は、ニイニイゼミが鳴く夏の朝に始まり、蝉しぐれの中を、主人公が馬で駆け抜ける場面で終わる。・・・」

これを引用していると、レビュージャパンの総合掲示板BBSで「期間限定『蝉の話』しませんか。」と題しての書き込みが思い浮かびました。ろこのすけさんが取り上げてくださった話です。あの話は連想が広がっていき楽しかったです。ろこのすけさん。

最後に、山口仲美著「中国の蝉は何と鳴く?」(日経BP社)に入っている、本と同じ題名の6ページほどの文を紹介しておきます。
最初はこうでした。

「北京の街には真夏日が照りつけ、外出すると太陽光線が肌に食い込み、オーブンの中で焼かれる鶏の苦しさが少し分かった気分になるほどであった。その日は、北京師範大学の日本語学科の学生たちに講演をする日であった。『冷房も何もないのですが、唯一のとりえは構内が涼しいことです。』迎えに来てくれた中国人教師のリン(林)さんが、上手な日本語で私に説明する。・・・・『教室では、男子学生が前の方で席取りをしています。』・・・席取りなんかしているんだ。私は、急にいそいそし始めた。日本の大学で講演をすると、まず前の方の席はがら空き。・・席取りまでして聞こうとする中国人学生の熱意に、私は昇り行く中国の太陽を見る思いだった。」(p16)

講演の題は「日本人の好む擬音語・擬態語」。真夏日の太陽と、昇り行く中国の太陽にも負けずに話す、山口仲美さんの姿がそこにはありました。

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伊東静雄の夏。

2007-08-19 | Weblog
「夏は夜。月のころはさらなり、闇もなお・・・」といえば、清少納言の枕草子ですね。「定本伊東静雄全集」(この全集は一冊・人文書院)の詩をめくっていたら、つい手紙の箇所もめくっていました。そこに、面白い箇所があったので引用。
それは、昭和16年8月9日富士正晴宛の手紙です。

「小豆島からのお手紙有難う。いいところのようですね。鮮しい魚たべたいですね。私はかぼちゃばかりたべてゐます。・・・・小泉八雲の全集買つて来て飽かずよみます。・・・八雲をよむと蝉や蝶々が、いままでより一層形而上的感興をひくのが、私の趣味に合ひます。怪談も同じ根柢からのものではあっても、自分にはあまり目下興味ありません。・・・」

その次に、夏についての言葉があり、伊東静雄の夏への関心を、聞いている思いがするのでした。

「夏の夕方はいいですね。出来るだけ散歩します。夏は一年中つづいてもいいように私には思はれます。この充溢した季節感は私には大へん必要です。夏には、感傷的にはなっても、弱り果てた気持がおこらぬのは、いいことです。物をみつめる気持ちになれるのも助かります。」(p435)

それにつづけて、手紙で自分の詩を書き送っているのが印象深く感じられます。

「先日書いた詩一つ、御笑らんに供します。

   七月二日 初蝉

  あけがた
  眠りからさめて
  初蝉をきく
  はじめ
  地蟲かときいてゐたが
  やはり蝉であつた
  六つになる女の子も
  その子のははも
  目さめゐて
  おなじやうに
  それを聞いてゐるので
  あつた
  軒端のそらが
  ひやひやと見えた
  何かかれらに
  言つてやりたかつたが
  だまつてゐた

                                   」


詩に子どものことが登場しておりましたが、そういえば、少し前の小高根二郎宛のはがき(6月19日)には

「・・このごろ小生も『志濃夫廼舍歌集』ずっとよんでるところ故、暗合面白く思ひました。・・小生の曙覧熱も相当なものと、以て御想像相成り度し。・・」

(そうだ。橘曙覧全歌集が岩波文庫にあったなあ)


最初にもどって、「秋は、夕暮れ。」の清少納言をもう少し引用。

「夏は、夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。」とあります。伊東静雄には「蛍」と題した詩もあります。日記にも夏に関する記述があり、伊東静雄と夏、というのは面白い感じをうけます。


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琴光喜に琴桜。

2007-08-18 | Weblog
2007年の7月25日。
関脇琴光喜の大関昇進。その伝達式の様子がテレビに。佐渡ヶ嶽親方(元関脇琴ノ若)夫婦の真ん中で、使者に対し琴光喜は「いかなる時も力戦奮闘して相撲道に精進します」と口上を述べます。そこで気になったのが、口上を述べる琴光喜の背後に、椅子に腰かけている元佐渡ヶ嶽親方(元横綱琴桜)がいたことでした。

ちょうどその日の読売新聞夕刊では、「31歳3か月での新大関は、年6場所制では増位山の31歳2か月を抜いて最年長昇進となった」とあり。記事の最後に「元横綱琴桜の先代師匠は、『自分が昇進したときよりもうれしい。やめてしまえと言ったこともあったが、よくやった』と喜んでいた。」とあります。琴光喜を自ら育てた琴桜自身はといえば、横綱に昇進したのが32歳1か月のときで、これも年6場所制では、今でも最高齢として残っているそうです。

さて、それからひと月もたたない8月15日に、元横綱琴桜(66歳)の死去の記事。
ここに、産経新聞の小田島光氏の記事を引用してみます。

「・・・色紙には『前進』『努力』などの言葉を好み、一直線に突進する正攻法の相撲は『猛牛』の異名をとった。幕内優勝5度。華やかな横綱ではなかったが、現役を去ったあとも相撲一筋だった。周囲の親方も認めるスカウト名人。生まれ故郷である鳥取県をはじめ、全国津々浦々に足を運び、相撲を志す少年たちに声をかけた。相撲を全国に普及させた角界の貢献者といってもいい。指導者としての手腕も見事だった。琴風、琴錦、琴富士らを育て、一時は【七琴】を幕内に抱えたこともあった。・・・平成17年11月に定年退職。のちに部屋は娘婿となった琴ノ若に譲り、相談役となった。現役のときは腰やひざを痛め、親方時代には壊疽(えそ)により左足を足首から切断。故障や病とも戦った。厳しく、そして粘り強く。66歳。その相撲人生は、猛牛のごとくいちずだった。」

ちなみに、読売新聞の【評伝】では「先代佐渡ヶ嶽親方 感情豊かな名伯楽」と題しておりました。

伯楽といえば、漢文ですね。
「千里の馬は常には有れども、伯楽は常には有らず」という
名馬を見抜く伯楽はいつもいるとは限らないという韓愈の説。
その伯楽で、最近思い浮かぶ言葉というのがあります。
それは、佐藤優著「地球を斬る」(角川学芸出版)の中の
「日本のインテリジェンス能力」と題する文でした。こう始まります。

「インテリジェンス(情報)能力は当該国家の国力から著しく乖離(かいり)することはないというのが筆者の持論である。GDP(国内総生産)が世界第二位の経済力を誇る日本のインテリジェンス能力が極端に劣るはずはない。本来、インテリジェンスは国家の任務なので、国家機関がその能力を集約する必要がある。だが、現下日本の状況はそうなっていない。民間にインテリジェンスが埋れたままで、国益に直結しない事例を筆者は現役時代に多々見てきた。・・・」


ところで、読売新聞の【評伝】を引用するのを忘れておりました。それは同部屋の琴欧洲のことから書き始められておりました。その文の最後を引用して終ることにします。

「『欧洲、欧洲』とかわいがった当時、『あんなやつはもう忘れた』と琴光喜にわざと冷たく接した。あれから2年。31歳の琴光喜が名古屋で発奮、退職した師匠の思いをかなえた。場所前の言葉は『最後のチャンスだな。あいつが男になるのか、このまま終わってしまうのか。そっと見ていることにした』。名伯楽の目に涙が光っていた。」(三木修司)
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鳴くはかなかな。

2007-08-16 | Weblog
桶谷秀昭の「蝉声と戦争」(日経新聞8月12日文化欄)は、まず蝉のことからはじまっておりました。そのはじまりの箇所を紹介しておきます。

「台風のおまけまでついた、例年にないながい梅雨がようやく明けて、溽暑(じょくしょ)の日がつづき、八月に入って明け方から蝉の声がきこえるようになった。『やがて死ぬけしきはみえず蝉の声』という芭蕉の句は、だれもが知っているから、引く必要はないであろうけれども、あの全身で生命を燃えつくさんばかりに鳴きつづけるのを聞いていると、胸さわぎがしてくる。今から六十年前、戦争の時期に、日本の現代詩人伊東静雄は、『庭の蝉』という詩に『一種前生(ぜんしょう)のおもひとかすかな暈(めま)ひ』におそわれたことを、うたっていた。・・・」

(ちなみに、日経新聞のこの日には、森澄雄の「私の履歴書」が12回目。それから「江戸の風格」として野口武彦の連載もあり、野口氏のその日は「三囲神社」という題)

さて、伊東静雄という名前が登場していたので、ちょうどいいので、この機会に伊東静雄の詩を読んでみようと思ったわけです。意外と伊東静雄の詩は多くないので、詩の味わいとは別にして、蝉を探すだけなら、簡単に楽しめます。

はじめに登場するのは詩集「夏花」にある「いかなれば」という詩に蜩が出てきます。その箇所をすこしはじめから引用してみます。

    いかなれば

 いかなれば今歳(ことし)の盛夏のかがやきのうちにありて、
 なほきみが魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかなる。

 夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末(こぬれ)をえらぶかの蜩の哀音(あいおん)を、
 いかなればかくもきみが歌はひびかする。

 ・・・・・・・・・・・・・・・


詩集「春のいそぎ」には、「七月二日・初蝉」と「羨望」、そして「庭の蝉」と蝉が登場する詩が並びます。シロウトの私には「羨望」がおもしろく感じられました。それとは、別にして、ちょいと思ったのは夏の歌が印象に残ります。ちょうどいまが夏だからそう感じるのかどうか、鮮やかな印象を残す詩に夏が登場します。『海水浴』『夏の終り』(同じ題で、二つの詩)。

有名な詩はすぐにでも、読めるでしょうから(そうでもないか)、
ここでは、拾遺詩篇から、ちょっと何げなくも捨てがたい詩を引用しておきます。

     高野日記より
 
  八月二十三日友を大門(だいもん)のほとりに送る
  その道よ朝ごとの霧にしめれり
  とだえつつ山かげに鳴くはかなかな
  つとに来し高野の秋の
  土産ものすすむる店に
  並べしはされど春の鶯笛
  青塗りの竹の小ぶえなり
  ともに店頭(みせさき)にたち
  こころみる単調のその音(ね)
  ゆくりなく二人が笛の
  共鳴のかなしからずや
  見はるかす木の國
  雲移る檜原杉山(ひばらすぎやま)
  家に待つ汝が愛しき児に
  えらぶらむ同じその笛
  友よわれも一つ欲し
  多宝塔いよよ朱(あか)きに
  われ獨りふかみゆく秋にのこりて
  いかに居む山の宿りぞ
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平和もまた。

2007-08-14 | Weblog
日経新聞2007年8月12日の文化欄に桶谷秀昭氏の「蝉声と戦争」という文が掲載されておりました。最初は蝉の話からはじまり、興味深く切り離せないのですが、そこは省略して、次にこうあります。
「8月15日に無条件降伏をしない場合、本土決戦は避けられなかった・・本土決戦というのは、一億総特攻の思想であり・・これは戦術とか作戦構想の名にあたいするであろうか。近代戦争の常識は、もちろん、否という。今日、あの戦争を『愚かな戦争』と呼ぶ一種の輿論(よろん)も、近代戦争の常識を背景にしている。しかし、日本の剣法に捨身(すてみ)必殺の法というのがあった。技倆(ぎりょう)の差があって勝ち目のない相手と立ち合わねばならぬ破目になったとき、目をつぶって上段に構え、身体のどこかにひやりとした感触があった瞬間に太刀を振りおろせば、相打ちとなって、自分も相手もともに死ぬ。」

ここで桶谷さんは現在の話にうつり、テレビで、この夏に空襲の体験を話す会をひらくというニュースに関する発言をとりあげております。

「当時小学生だったというから、私より五、六歳、歳下の方であろう。『戦争のむなしさと生命の尊さを子供たちに伝えたい』と語っていた。戦争体験の継承というこの人たちの使命感それ自体を、私は疑わない。しかし、戦争を知らない子供たちに、『戦争のむなしさ』をどのように伝えるのだろうか。戦争には、平和な時代が知らない濃密な人生の時間がある。そしてそれが一瞬の死と背中合わせになっている。それを『むなしさ』で片づけるなら、平和もまたむなしいのである。」

この緊密な文章を端折るのは、残念なのですが、文章の最後を引用します。

「沖縄陥落の6月下旬から8月15日にいたる最後の日々、マリアナ、硫黄島、沖縄の基地からやってくるB29爆撃機の空襲は、大都市から中都市に範囲をひろげ、日本全土を焦土廃墟と急激に化していった。そういう日々に、『みたみわれ生けるしるしありあめつちの栄ゆるときに逢へらくおもえば』と万葉集の歌を口ずさみ、迫りくる本土決戦を待っていた『愚かな』日本人の一人であった私は、この人生の時を、いまだに忘れることができないのである。」


桶谷秀昭(おけたにひであき)氏の本は読んだことがないのでした。
1932年東京生まれとあります。
新聞の切り抜きは、後で読み直そうとおもっても、たいていが、後で読みたくなった時に、今度は探しだせずに終ってしまうことたびたび。
この「平和もまたむなしいのである」という言葉も、あらためて読み直したくなる気がします。
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「駄詩」。

2007-08-13 | Weblog
水木しげる「ビンタ――私の戦争体験――」(「私たちが生きた20世紀」文藝春秋平成12年2月臨時増刊号)は、こうはじまっておりました。

「【戦争】というのはその場所にゆく前から日本全土をあげて興奮気味であり。ゆく本人もいつ召集を受けて【死地】におもむくのか、分からない日々だから、落着いてものを考える、といった時代ではなかったようだ。」

そして、すこしあとにこうありました。

「新聞もまたどういう原因でそんなことが起こったのか、理性的に報道するとか、解説するということはなかった。・・」


その新聞が戦後どうであったのか。
その経過を、どなたも知りたいわけです。
その経過を知るのに、ちょうど水木しげるさんの文が掲載された同じ雑誌に
曽野綾子の文が載っていて、戦後の新聞の経過を大雑把に知ることができます。
ということで曽野さんのその文を引用してみます。題は「最も才能のない詩人による駄詩 ―― 『二十世紀』」とあります。詩です。
以下、適当にピックアップして引用してみます。

  二十世紀に――

私は焼き魚の匂いの封建主義の中に生まれ、
インスタント・コーヒーの香ただよう民主主義の中で大人になった。

・・・・・・・

戦争前に勇気は美徳、
敗戦後の勇気は悪徳、
 でも私にとって勇気は常にかぐわしい憧れ。

終戦前は背に百二十キロも背負う男もおり、
戦後は階段三段登るのも辛い女ができた。

・・・・・・・・

朝日も読売も毎日も、
社会主義を信奉するソ連と中国を批判することを許さず、
私の原稿はしばしば書き換えを命じられ、没になった。

戦後のマスコミは、
言論の自由を守ると言ったが、
差別語一つに恐れをなし、
署名原稿も平気で差し止める。
  だから彼らはもはや自らの悪を書けない。
  だから成熟した善も書けない。

資本主義は堕落し、
社会主義も融解し、
資本主義は金持ちのプールつき邸宅を作り、
社会主義の指導者が現代の皇帝の権力を持って宮殿を作った。
  どちらの主義も、愚かさの姿は同じ。
  その中でぬくぬくと私も卑怯な民衆の一人。

食べるに事欠かず、住むに家あり、
年金もいささか、健康保険もどうやら、
水もガスも出て当たり前、停電もなく、
内戦もなく、武器も輸出せず、
それでも、日本は悪い国だと言いふらす。
 (そういう人は早く日本国民をヤメロ)

・・・・・・・・・・・・・
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鬼太郎が見た玉砕。

2007-08-12 | Weblog
2007年8月12日午後9時からのNHKスペシャルは「ドラマ・鬼太郎が見た玉砕」でした。
ついさっきまで、見ていました。水木しげるの自伝的戦記漫画「総員玉砕せよ!」を下敷きにしたドラマ。西岡琢也作。柳川強監督。家喜正男・NHK名古屋放送局チーフプロデューサー。主人公の水木しげる役は香川照之。その香川さんはこう語っております「水木さんがこのドラマを見る。そのことが僕にとって何より重要・・誰より水木さんに喜んでもらいたい。今回、僕は水木さんのためだけに演じているつもりです」(7月25日読売新聞夕刊・テレビ情報box)。
水木しげる著「総員玉砕せよ!」は講談社文庫で出ております。
私は、その文庫を読んだ時よりも、このドラマの方が内容をよく理解できました。
8月12日読売新聞テレビ欄に載っていた「試写室」という写真入りの内容紹介は(汗)さんです。「原作部分を劇中劇とし、上官のビンタと飢えの記憶をペンにぶつける漫画家の姿を重ねることで、物語に奥行きが出た」と内容紹介の中で書いておりました。

話はかわりますが、雑誌で時々気になる特集があると、その時は読まない癖して、いつか改めて読むだろうぐらいの考えで本棚に入れておくことがあります。平成12年に文藝春秋で2月臨時増刊号として「私たちが生きた20世紀」と題した特集がありました。永久保存版「全篇書下ろし362人の物語」とあります。

さて、その中に水木しげるの「ビンタ 私の戦争体験」という雑誌で2ページほどの文章があったのです。そこに「ビンタと飢え」の箇所がありました。「・・従って毎日ビンタ。だから僕は戦争というとすぐ、ビンタを思い出してしまう。戦争で敵サンの弾にあたって死ぬまでに、初年兵はとんでくる敵弾の数の十倍位なぐられる。初年兵というのは動物のペット以下という感じだった。」
「とにかく『下れ』というので退却となるわけだが、なにしろ味方の倍位の人数がくると、その数をみるだけでなんなく腰が浮く。(輸送船の数で分る)なにしろ味方は、三分の一は栄養失調気味の上に、水一口に乾パン一袋という感じの食事では、なかなかがんばれない。・・銃も重いしその弾も重い。軽機関銃なんか更に重い、そんな重いものもって動くのは、めしを食わないことには重くて動けない。まア、若いから、その時は、がんばれるが間もなく、三分の一は病人になった。・・戦闘があって後方に下り、気付いてみた時は、兵隊は十分の一になっていた。」

そして最後の言葉も写しておきます。

「僕は今でもよく戦死した戦友の夢をみる。最近は毎日のようにみる。また一生の間で一番神経を使ったし、一番エネルギーを出したせいか、毎日のようにみるから不思議だ。それでまた細かいことまでよく覚えており、毎日それこそ映画でもみるような気持だが、どうしたわけか、いつも最後は【戦死】したものの顔がうかび・・・。いやそれが長く、毎日のようにつづくので、彼等は会いにくるのだろうと勝手に考えているが、戦争で若くして死んだ人たちは【残念】だったのだと思う。戦争の話をすると近頃は【老人】といわれるが、一生の間で一番すごかったのは、やはり戦争だったから、しぜんに毎日夢を見るのかもしれないと思ったりしている。」


NHKのそのドラマのなかでも、主人公に会いにくる戦死者たちが、戦場と現代を往還している時空の接点で、ていねいに、しかも端正に描かれておりました。


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目一杯非難。

2007-08-11 | Weblog
「Voice」(2007年9月号)では、高山正之氏の「メディア閻魔帳」(p208~)を忘れるわけにはいきません。読み得です。いろいろ書かれているのですが、ひとつ紹介。

朝日新聞は、今年、広東支局を鳴り物入りで開いた。この時は見開きで特集ページまでつくったそうです。広東の目と鼻の先にあるのが台山。
『ヘラルド・トリビューン』紙(7月4日付)は珠江デルタの台山ウナギ養殖場をルポして、中国の危ない食品管理の実態を報告している。
「この記事は、6月下旬に米食品医薬品局(FDA)が出した危険な中国産食品の輸入禁止措置に対応したものだ。台山は中国のウナギ養殖の中心地だが、養殖場のある珠江デルタは『重金属を含む工業排水や農業排水が醸す悪臭が漂い』『どうしても抗生物質を使わないとウナギが死滅してしまう』のだと。FDAの措置に次いで、いまEUも中国産の食品の輸入禁止に急ぎ動き出した、とルポは結ぶ。」

そして朝日新聞の性として、
「『ヘラルド・トリビューン』よりむしろ先に台山に行けたはずだが、実際は見ぬふりして北の重慶に行った(注:重慶の記事も興味深いのですがここではカット)。中国が気を悪くする話は避けるのがこの新聞・・・」

それでは、朝日新聞は、どう記事にしたのか。
ていねい、それに触れている箇所を引用したいと思います。

「中国の担当局が7月11日、ウェブで殺人食品を輸出した41社に、輸出禁止措置をとったと伝えた。このなかに『日本向けは11社』(「産経新聞」)で、ウナギ、ホタテ、蟹、キノコ、乾燥果物などに発癌物質や大腸菌やら残留化学物質が含まれていたという。かつて不二屋が『賞味期限の切れた』製品を再利用したと大騒ぎして、消費者無視、モラルハザードなど目一杯非難を浴びせたのは『朝日』だった。中国の、それこそ消費者無視どころか犯罪といってもいい体質に、この新聞はどれほどの鉄鎚を下すかと思いきや、夕刊中面に一段二三行の記事で済ませていた。」

高山氏の4ページほどの本文は、内容豊富で読み甲斐があります。
「メディア閻魔帳」は目が離せない取り上げ方の魅力。
新聞はこう読みましょうという見方を教わります。
朝日新聞の巧妙な文章の嘘を、根気よく開示してくれております。
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