和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

明治37年夏の手紙。

2023-08-04 | 手紙
何年前からか『 夏 』が気になりました。
おそらく、「漱石の夏休み」ぐらいからか。
少しずつ、お気入りの夏を貯め込むように。

はい。今日は青木繁。
明治37年8月22日の青木繁の手紙。
そのはじまりを引用。

「 其後ハ御無沙汰失礼候
  モー此處に来て一ヶ月余りになる、
  この残暑に健康はどうか?

  僕は海水浴で黒んぼーだよ、
  定めて君は知って居られるであろうが、
  ここは萬葉にある『女良』だ、
  すく近所に安房神社といふがある・・・・

  漁場として有名な荒っぽい處だ、
  冬になると四十里も五十里も黒潮の流れを
  切って二月も沖に暮らして漁するそうだよ、

  西の方の浜伝ひの隣りに相の浜といふ處がある、
  詩的な名でないか、其次ハ平砂浦(ヘイザウラ)
  其次ハ伊藤のハナ、其次ハ洲の崎でここは
  相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼し 」

 この手紙には絵も描かれているのでした。

「 上図はアイドといふ處で直ぐ近所だ、
  好い處で僕等の海水浴場だよ、
  上図が平砂浦、先きに見ゆるのが洲の崎だ、富士も見ゆる 」

 手紙のなかに童謡として引用されてる箇所がありました。

「  ひまにや来て見よ、
   平砂の浦わァ――

   西は洲の崎、
   東は布良アよ、
   沖を流るる
   黒瀬川ァ――
   
    ・・・・・    」


うん。手紙はまだ魚の名前をつらねたりして、まだまだ続きます。
手紙の最後からも引用しておかなければね。

「 今は少々製作中だ、大きい、モデルを澤山つかって居る、
  いづれ東京に帰へってから御覧に入れる迄は黙して居よう。 」


 ( 青木繁著「假象の創造」中央公論美術出版・昭和58年 )

 
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友人の音信(おとづれ)を受取る。

2023-04-13 | 手紙
篠田一士著「幸田露伴のために」(岩波書店・1984年)。
はい。露伴を読まないくせに、気になる個所をチェック。

「露伴を知らなければ、日本文学そのものとはいわない、
 少なくとも日本の近代文学がもつ底力は、ついに理解されないと、
 ぼくは、だれはばからず断言する。 」( p137 )

ここで、「日本文学そのものとはいわない」と断っている。
こういうのが、私にはこたえられない箇所です。なぜって、
私は文学を読まないから、そんな変人をも取り込む言葉に、
まいってしまいます。それじゃ、どういう『底力』なのか。

わたしにも読めそうな紹介がしてありました。ありがたい。

「・・60過ぎた露伴が書いた、ささやかな昔話『野道』一篇を
 読んだだけでも、そこには、粋なデリカシーが躍動し、
 ときとして、西脇順三郎の詩に通じるようなモダニスチィックな
 感性のよろこびさえ汲みとることができるのである。 」( p127 )

なんか、読んでみなきゃ、意味が理解できなさそうな箇所。
ここで、『ささやかな昔話』を読んでみなきゃとなります。

ありました。「露伴全集」第四巻

   昭和28年3月10日第一刷発行
   昭和53年6月16日第二刷発行

そんなに、戦後に読まれていなかったようだとわかります。
それはそうと、『野道』は8ページの短文(昭和3年)です。
この短さならば、例え旧かなでもどなたでも読めそうです。

春になり、郵便で音信がとどくところから始まります。
その四行目から1ぺージ目をつい引用したくなります。

「 無事平和の春の日に友人の音信(おとづれ)を受取る
  といふことは、感じのよい事の一(ひと)つである。

  たとへば、其の書簡(てがみ)の封を開くと、
  其中からは意外な悲しいことや煩(わずら)はしいことが現はれようとも、
  それは第二段の事で、差当つて長閑(のどか)な日に友人の手紙、   
  それが心境に投げられた惠光(けいくわう)で無いことは無い。

  見ると其の三四の郵便物の中の一番上になつてゐる一封の文字は、
  先輩の某氏の筆(ふで)であることは明らかであつた。

  そして名宛の左側の、親展(しんてん)とか侍曹(じさう)とか
  至急(しきふ)とか書くべきところに、閑事(かんじ)といふ二字
  が記されてあつた。閑事と表記してあるのは、

  急を要する用事でも何でも無いから、忙しくなかつたら披(ひら)いて読め、
  他に心の惹かれる事でもあつたら後廻しにして宜(よ)い、という注意である。

  ところが其の閑事としてあつたのが嬉しくて、
  他の郵書よりは先づ第一にそれを手にして開読した。
  さも大至急とでも注記してあつたものを受取つたように。 」(p437)


はい。これが最初の1ページ目にあるのでした。
それから・・・・・。

つい、したり顔して最後まで説明したくなる。
でも、ここまでにしておくことにいたします。

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手紙と、文化の触覚。

2022-06-01 | 手紙
佐藤忠良氏の対談の言葉に、

「 彫刻って触覚が何より大事な仕事なんです。
  コンピューター全盛の時代でも我々彫刻家は、

  先人が腰蓑(こしみの)つけていたのが、
  背広にネクタイつけるようになっただけの違いで、

  相変わらず粘土をこねているーーでも、
  文化って、そういう触覚感が大事なんですよ。 」

       ( p22 「ねがいは『普通』」文化出版局 )
       ( p26 「若き芸術家たちへ」中公文庫  )

この言葉のすぐ前に、佐藤忠良氏は、安野光雅氏に語っています。

「 我々若いとき、一生懸命、手紙書いたでしょう?・・・ 」

うん。この箇所が気になっておりました。
粘土をこねるように、手紙を書いていた。

ということで、手紙が思い浮かびました。
安かったので購入して、昨日届いた古本に
矢野誠一著「昭和の東京 記憶のかげから」(日本経済新聞出版社・2012年)
がありました。矢野誠一氏の本ははじめてです。
ひらくと、この方は「東京やなぎ句会」の一員とあります。
それはそうと、パラリとひらくと、
『諸先輩からの手紙』(2010年7月)という2ページの文がある。
そこから、端折って引用することに。

「 パソコンも使わないから、
  原稿は万年筆で原稿用紙に書くし、
  電話で意の通じにくい連絡、
  献本や贈答品のお礼は、もっぱら郵便を利用する。
  これで、日本国憲法で保障されている。健康で文化的な
  最低限度の生活を営むにあたって痛痒を感じたことはまったくない。」

うん。短い文を、さらにブツ切りにしてゆくと、
つながりが、つかみにくいでしょうが続けます。

「 文豪と呼ばれる作家の日記や書簡を読むのが好きで、
  その『日記・書簡集』というのがほしさに、
  全集全巻購入してしまうなんてことがあったが、
  
  世のなかからこう手紙を書く習慣が失われては、
  そんな楽しみも日記だけになりそうだ。

  古書展などで見かける著名人の葉書や書簡の文面に、
  単純な用件しか記されていないのが意外に多いのは、
  ケータイはおろか電話そのものがそれほど普及して
  いなかった時代を物語るものだろう。       」


「 筆まめだった戸坂康二、中村伸郎、木下順二などの
  諸先輩からはずいぶんとお手紙を頂戴したが、いま
  思いかえして大切な用件の記されたものはほとんどなかった。

  中村伸郎さんからは、胸うたれるような書簡をいただく一方で
  『 グレースケリーが女優をやめるのを、
    しつこく反対したのはヒチコックだそうだ  』
  とだけ記した葉書も受け取っている。

  師戸坂康二は、封筒のあて名のわきに『閑信』と記し、
  『シラノ・ド・ベルジュラック』の『シラノの週報』の
  ような手紙をくださった。・・・・・         」
                   ( p134~135 )


はい。粘土をこねるようにして、『閑信』を書いている。






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手紙でも書いてやってくださいナ。

2022-03-28 | 手紙
長谷川家の三姉妹。マー姉ちゃん長女の長谷川まり子さん。
「サザエさん うちあけ話」の最初の方に登場する箇所は、
福岡出身アズマ マナブさんとの交際が描かれております。

『足しげくかよってきては、姉をそとにつれ出していました。
 出るのはいいが彼女、食べものに目がなく、
 決してえんりょも、しないタチ。

 彼はしだいに
「ウチ(長谷川家)でいっしょに話しましょうや」と、
 すわりこんで、うごこうとしません。
 サイフも、底をついたとみえます。・・・』

『さて、先方の親も上京して、婚約のはこびと、なりましたが、
 まもなく応召。久留米の連隊。そして中支からラブレターが
 とどきます。といっても、軍りつきびしいから、
 内容は、暑中見まいと、さしてかわりません。

 「早く、へんじをあげなさい」と律儀な母は、
 うるさく姉をせっつきます。

 ところが、無類のフデぶしょうで、ため息と共に、
 やたらと びんせんのかき損じの山をきずくだけで
 一日のばしです。

 ついに見かねて、ヒットラー(母親)が代返を決行。
 アズマと母との間に、ラブレターが、せわしく往復し、
 やがて彼は、ヒシと母のレターの束をむねにビルマに
 発って行くこととなります。

 小隊長として出陣が決まりますと、姉はモンペ姿で、
 彼のウチに、とんでゆきました。・・・
 わずか一週間の花よめでした。・・・・・      」

はい。絵と文字とで、読者としては、何気に読むすすみます。
そういえばサザエさんの四コママンガに、こんなのがあった。

①夜コタツで晩酌をしておそい夕食をとる浪平。
 舟さんが座るわきには電気釜?
 襖ごしには、寝ている子供たち

 舟 『 コドモにあえないときはチョット
     てがみでもかいてやってくださいナ 』
 浪平『 ウン 』

② フトンに起きて座っているカツオ
  そばによってくるワカメ。
  ふたりして、てがみをうれしそうに読んでいる。

 ふたり『 おとうさんからだ!! 』

 フトンのわきには、舟さんがすわっている。

③朝ご飯を、お膳でたべている。カツオとワカメ。
 カツオは通学カバンを背中にしょいながら。
 舟さんが白のカッポウ着で立っている。

舟『 コドモたちからも ごへんじだしたら? 』
二人『 ウン 』


④ 文机で、便箋にむかう、お舟さん。
  付近には丸めた便箋がアチコチに。

舟『 みんな、あたしに代筆させるんだョ 』
     吹き出しのなかの「みんな」には
     浪平・カツオ・ワカメの顔が描かれている。

 そばに立って、あきれた顔をしているサザエさん。

   (p118 長谷川町子全集33「よりぬきサザエさん」 )


はい。この四コマの配役を
長谷川家で割りふるならば、

舟さんは、お母さん。
カツオは、長谷川まり子。
ワカメは、長谷川洋子。
サザエは、長谷川町子。

という組み合わせが、どうも
ピッタリとはまる気がします。






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炎暑之候、御病体如何。

2021-08-19 | 手紙
漱石といえば、手紙。そう教えてくれたのは、
出久根達郎著「漱石先生の手紙」(NHK出版・2001年)。

うん。それから夏目漱石の手紙を読もうと思ったのは
我ながらよかったのですが、けっきょく読まず仕舞い。

岩波文庫の「漱石・子規往復書簡集」も
買ったのですが、読まずに本棚に置かれたままでした。
はい。この機会にちょっとひらいてみます。

明治22年8月3日
   牛込区喜久井町一番地 夏目金之助より
   松山市湊町四丁目十六番戸 正岡子規へ

そのはじまりは

「炎暑之候、御病体如何・・・・
 
 近頃の熱さでは無病息災のやからですら胃病か脳病、
 脚気、腹下シなど様々・・・・

 必ず療養専一摂生大事と勉強して女の子の泣かぬやう
 余計な御世話ながら願上候。
 さて悪口は休題としていよいよ本文に取り掛かりますれば
 ・・・・・・・・」

はい。これは時候の挨拶だけ引用して、
次に、9月15日の正岡子規への手紙は

「・・・・貴兄漸々御快方の由何よりの事と存候。
小生も房州より上下二総を経歴し、去月30日始めて帰京仕候。

その後早速一書を呈するつもりに御座候処、
既に御出京に間もあるまじと存じ、日々延頸(くびをながく)
して御待申上候処、御手紙の趣きにては今一ヶ月も御滞在の由
随分御のんきの事と存候。

しかし此に少々不都合の事有之(これあり)。
両三日前小生学校へ参り点数など取調べ候処、
大兄三学期の和漢文の点及ビ同学期ならびに同学年の体操の点
無之(これなき)がため試験未済の部に編入致をり候が、
右は如何なる儀にて欠点と相成をり候哉。

もし欠点が至当なら始業後二週間中に受験願差出すはずニ御座候間、
右の間に合ふやう御帰京可然(しかるべく)と存候。・・・・・・・

小生も今度は・・ぶらぶらと暮し過し申候。
帰京後は余り徒然のあまり一篇の紀行ような妙な書を製造仕候。
貴兄の斧正(ふせい)を乞はんと楽みをり候。

先は用事のみ。・・なるべくはやく御帰りなさいよ。さよなら。」


うん。子規の落第の心配をする漱石の手紙。
落第といえば、寺田寅彦と漱石が結びつく。

ということで、寺田寅彦の「夏目漱石先生の追憶」
のはじまりを最後に引用。

「熊本第五高等学校在中、第二学年の学年試験の終ったころ
のことである。同県学生のうちで試験を『しくじったらしい』
二、三人のために、それぞれの受け持ちの先生方の私宅を歴訪して、

いわゆる『点をもらう』ための運動委員が選ばれたときに、
自分も幸か不幸かその一員にされてしまった。

その時に夏目先生の英語をしくじったというのが自分の親類
つづきの男で、それが家が貧しくて人から学資の支給を受けていたので、
もしや落第すると、それきりその支給を断たれる恐れがあったのである。

初めてたずねた先生の家は白川の河畔で、藤崎神社の近くの閑静な町で
あった。『点をもらいに』来る生徒には断然玄関払いを食わせる先生も
あったが、夏目先生は平気で快く会ってくれた。

そうして委細の泣き言の陳述を黙って聴いてくれたが、
もちろん点をくれるともくれないとも言われるはずはなかった。

とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとでの雑談の末に、
自分は『俳句とは一体どんなものですか』という、
余にも愚劣なる質問を持ち出した。

それは、かねてから先生が俳人として有名なことを承知
していたのと、そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ
発酵しかけていたからである。」
(P142岩波少年文庫「科学と科学者のはなし・寺田寅彦エッセイ集」)

寅彦のエッセイは、ここからが本題にはいるのですが、
とりあえず、落第の話題はここまででした。




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切手と絵封筒と老若男女。

2020-12-26 | 手紙
記念切手が手元にあって、
さて、そんなに手紙を書かないので、
どうしたものかなあと、思っておりました。

きたむらさとし・松田素子著「絵封筒をおくろう」(文化出版局)
が2007年に出ておりました。古本で購入、それが届く。
ネットで、絵封筒と検索しても、楽しめます。

「絵封筒をおくろう」のカバーは、
横長にした封筒が、美術館見学風景を描いております。
真中の大きな額には、宛先が書かれてる。
右側の額には、切手がそのまま貼ってある。
8人も描かれていて、みんながこちらに背をむけて
その額縁をみている姿として描かれております。


はい。葉書には、宛先の面には、切手の場所が指定され、
描けないことになっておりますが、どうやら
封筒には、絵を描いてもよいようです。
切手も宛名の面なら、どこに貼っても許されるようです。
しらなかったなあ。

記念切手で、日本画の花鳥風月など、
大判の切手があったりすると、貼るだけで躊躇するのですが、
額縁を描いて、掛け軸などを描いて、そのなかに
記念切手を貼れば、それでいいのだと思うと、楽しくなります。

はい。あとは、手紙を書くだけですが、
肝心の手紙は、めったに書かない(笑)。
けれども、いざ書くときは、この手がある。
うん。これからは、躊躇せずに、大判の記念切手を貼ることが
できそうです。

さて、この本のはじまりを引用しておくことに。
絵本編集者の松田素子さんが書いておりました。
そのはじまりは

「私が絵封筒を初めて見たのは、イギリス在住の
絵本作家きたむらさとしから届いた封筒でした。

それが縁で、その後イギリスの出版社アンデルセン・プレスで、
社長のクラウス・フルーガー宛に届いた、たくさんの
絵本作家たちの絵封筒を見ることになったのです。
 ・・・・・

封筒に絵を描くということは、これまでにも古今東西
いろんな人たちが、なにげなく、あるいは意識的に
行なっていたことであるにちがいありません。
それぞれが個人的に、点のようにしていたことが
どんどんとつながり、いまやプロもアマもなく、
老若男女を問わず、これほどの広がりを見せ
はじめていることに感動します。
 ・・・・             」(p2)

はい。昨日この古本が届いて、夜は夢中で
ページをめくっておりました。
まるで、短歌の枕詞のようにして、
切手からはじまる絵封筒の世界がひろがっておりました。


はい。切手が動きだし、相手へ届く瞬間のたのしみ。
ということで、記念切手の数だけ豊かな想像がひろがりそうです。

はい。来年、切手を貼るのがたのしみになりますように。

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手紙も、そえてあります。

2020-11-27 | 手紙
はい。森三千代訳「枕草子物語」(岩崎書店「日本古典物語全集⑦」)
を、私は、たのしく読めました(フリガナつきです)。

枕草子のダイジェスト訳ですが、
私にとっては、はじめての枕草子。
はじめての印象は、やはり残しておきます。
といっても、とりとめがなくなるので、
ここでは『手紙』ということで、まとめてみます。

「行成卿(ゆきなりきょう)のおくりもの」と題された文から

「ある日、頭の弁(役の名)藤原行成卿から、使の者が来ました。
 
その使者は、白い紙に包んだ食べ物らしいものに、
花のいっぱい咲いた梅の一枝をそえて、とどけてきたのでした。

包みの中はなにかと、いそいであけてみると、
ヘイダンというお餅が二つならべてあります。
(へいだんは、もちの中に卵と野菜の煮たのを包んだ、
肉まんじゅうのようなものです。)

手紙も、そえてあります。
その手紙をひらいてみると、公式の目録をまねて、

 進上、餅餤(へいだん)一包
 例によって、件(くだん)の如し
 別当 少納言殿

とあって、月日を書き、おくり主の名は、
任那(みまな)の成行としてあります。・・・

さすがに能筆家だけあって、
すばらしく上手な字で書いてあります。
さっそく、中宮にお見せしますと、

『まあ、いい字。それに、おもしろい手紙だこと。』
と言って、中宮は、じっと字をながめたあとで、
その手紙を取りあげてしまわれました。

へいだんをもらったわたしは、
行成卿にお礼を言わなければなりません。
 ・・・・・・・           」
(p161~162)

手紙をとられる場面は、
「にわとりの鳴きまね」にもありました。

「行成卿からきたこの時の手紙は、みなで三通ですが、
あとの二通は、れいによって、字がうまいので、
人にとられてしまいました。

一通は、中宮の弟の隆円僧都(りゅうえんそうず)が、畳に頭を
すりつけて、どうしてもくれと頼んだので、もって行きましたし、
あとのは、中宮が、ほしいと言われたので、さしあげたのでした。」
(p167~168)


「うらやましいもの」にも、手紙が登場しておりました。

「字が上手で、歌を詠むことがうまくて、歌合わせのときなど、
まっさきに選に入る人も、うらやましいと思います。

貴(とうと)い身分の方のそばに仕えている女官(にょかん)が、
おおぜい集まっているとき、だいじなところへお出しになる手紙を、
人をさしおいて、わざわざ呼び出されて、すずりや筆をわたされて、
書かされている信用のある女官は、見ていてもうらやましいと思います。
仕えている女官たち、だれ一人として、
そんなに字のまずい人はないのですから。」(p203)

「山吹の手紙」は、中宮からの手紙でした。


「・・代筆ではなくて、
中宮がご自分でお書きになった手紙だと思うと、
ありがたくて、胸をとどろかせながら開きました。

なかには、山吹の花が一つ入っていて、つつんだ紙に、

『 いわで思うぞ。(なにも書かないけれど、忘れはしませんよ)』

とだけ、書いてありました。・・・・」(p185)


はい。それでは、
行成卿のように達筆ではなく。
女官がそばにいるわけもない。
そんな時代になるとどうすればよいのか?

ということで、随筆文学の、次のバトンをうけついだ、
吉田兼好「徒然草」は、この手紙をどう克服したのか。

「手のわろき人の、はばからず文(ふみ)書きちらすはよし、
見ぐるしとて、人に書かするはうるさし」

これについて、谷沢永一著「百言百話」(中公新書)には
こうあります。

「字の下手なんか、平気で手紙なんかをドシドシ書くのは宜しい。
見苦しいからと云ので、人に書かせるのは、うるさい厭味なことだ
(沼波瓊音(ぬなみけいおん)訳文)。

沼波瓊音は『この段は短いが、言が実に強い』と嘆賞して、
次の如く彼一流の『評』を記している。

『私が中学に居た時、和文読本という教科書の中に、
ここが引いてあった。鈴木先生の講義を聞いた時に、
少年心(こどもごころ)ながら、ハッとした。

今からその時の心持をたとえていって見ると、
凜然たる大将が顕われて、進め、と号令したような気がした。
恥ずるに及ばぬ、自分を暴露して、その時々のベストを尽くして、
猛進するのだ、という覚悟は、この段の講義を聞いた時に
ほのかながら芽ざしたのであった』。
大正3年の著作であるから・・・・」(p122)

はい。徒然草でどうやら達筆の呪縛から、
解き放たれた。そんな気がするのでした。





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京からの手紙。

2020-10-02 | 手紙
もっぱら、安い古本がたまっております(笑)。
うん。系統だった本の購入でなく、場当たり的。
その一冊に、
「古典の森へ 田辺聖子の誘(いざな)う」(集英社・1988年)
がありました。新聞に月一回の連載で、おしゃべりを工藤直子さんが
書き留めたものだそうです。この本に枕草子が出ておりました。

そのはじまりは、
「私は『枕草子』を読んでいて【ああ、女だなあ。女なればこその、
ものの見かた、発想だなあ】って感じるところが、じつに多いのね。
だから、私は『枕草子』をこう読んだ、という思いを軸にしたものを
書きたいと、清少納言を主人公にして、『むかし・あけぼの』という
小説を書きました。」(p68)

うん。『むかし・あけぼの』という小説を書かかれたようです。
はい、小説は私は敬遠する方なので、それについてはノーコメント。

聖子さんのおしゃべりは続きます。
ひとつ面白いなあと、印象に残った箇所はここでした。

「『すさまじきもの』のところで
『人の国よりおこせたるふみの物なき』というのがあります。
【地方から、こちらに送って寄こしている手紙に、贈り物が
ついていないの】というのね。
手紙だけくれて贈り物がないのはシラケル、と。これも貴重な財源
だったのかな、かなり現実的な、欲深いことをいっていますね(笑)。

それでいて京から送るのは手紙だけでいい、なんて、
あつかましいのね(笑)。なぜかというと
『それはゆかしきことどもを書きあつめ、
世にある事などをもきけばいとよし』というわけ。
つまり、京からの手紙には、地方で知りたいことを書き集め、
世間の出来事をも聞くのだから、それでよろしい、と。
品物に見あうだけの情報が入っているのだから、
なにも添えなくていい、と。なかなか頭(ず)が高いんです(笑)。
・・・・」(p72~73)

うん。なかなか、現在の情報社会を先取りしているなあ。
と思ってしまう箇所です。よく正直に書いておられる。

そういえば、徒然草の第117段が思い浮かびます。
その段は「友とするに悪(わろ)き者、七つあり。」
とはじまり、箇条書きに手短にかかれたあとでした。
「よき友、三つあり。一つには、物くるる友。
二つには医者(くすし)。三つには、智恵ある友。」
としめくくられておりました。

それでは、吉田兼好さんは、
物くるる友に、お返しの物を差し上げたのでしょうか?
あるいは、清少納言のように情報を提供していたのでしょうか?

枕草子でいうところの
『ゆかしきことどもを書き集め・・・』
その書き集められた集大成が、枕草子あり、
また、徒然草でもあったのでしょうか?

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寒山拾得と手紙。

2020-08-11 | 手紙
京都国立博物館の図録「海北友松」(平成29年)。
古本で購入したら、チケット半券がはさまってる、
2017年4月11日~5月21日開館120周年記念特別展覧会
と入場券の半券にありました。

さてっと、この図録をパラパラひらいていたら、
寒山拾得の図に、今回は興味を持ちました。
二人して庭らしいところに立っております。
一人は巻紙をひらいて、挙げた左手から下の
右左手までU字形に巻紙が広げられています。
その巻紙を見ながら笑っています。
もう一人は、その人の肩に左手を置いて、
右手は庭箒を支えて、同じく巻紙を見ているようで、
いっしょになって笑っています。


この図録をひらいていると、
二人して巻紙を見ている構図が
しばしば印象的に現れてくるのでした。

そうこうしているうちに思い浮かんだのは、
戦場カメラマン・一ノ瀬泰三の写真でした。

私に思い浮かんだのは、夫婦を撮った写真のようでした。
二人して土間のようなところに座っています。
向って左側に夫が座りながら手紙をひらいて読んでいる。
腕の間に杖でも傾けるように、戦場ライフルのような拳銃を
右肩に立てかけ寛いでいます。妻は隣に座って頬を夫の肩に
近づけながら手紙をのぞき込んでいます。
夫は手紙を読みながら笑ってる。
妻は、殺伐な状況のなかで、切れ切れな感情をどう結びつければ
よいのかもわからないままに、夫の笑いを笑っています。
その手紙は、どうなのでしょう。子からの消息なのだと思えてきます。
うん。ネット検索だと、簡単にこの写真は見れます。

海北友松の寒山拾得の図をみていたら、一ノ瀬泰三のこの写真が
思い浮かびました。そうすると、どうしてもわたしには、
寒山拾得図の巻紙が、手紙なのだと思えてくる。
すると、寒山拾得二人の笑が身近に感じられます。

うん。こういう笑いを思い描いてしまうと、
もう、イヤ味な手紙は書けなくなります(笑)。
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一番目の読者。

2020-06-04 | 手紙
司馬遼太郎の小説を、読んだのは数冊です(笑)。
長いとついつい、目移りして、読み続けられない。
そのかわり、司馬遼太郎の短文なら、だいじょうぶかなあ。
そんな司馬さんの短文に、「風塵抄」がありました。
短かい文は、時がたって、なんどでも甦ることがあります。

中公文庫の『風塵抄二』には、その最後に
福島靖夫の「司馬さんの手紙」(p287~329)が載っている。
はい。その福島さんの文に、こんな箇所がありました。
あらためて反芻してみようと引用。

「『風塵抄』の連載は昭和61年5月からスタートしている。
・・・・『風塵抄』の原稿が入ると、ワープロ打ちといっしょに
感想を書いて送るのが、一番目の読者としての私の義務だと
思っていた。司馬さんはその感想にいちいちていねいな返事を
書いてくれた。・・・その手紙を読むのはじつに楽しく、その手紙を
私はひそかに『もうひとつの風塵抄』と呼んでいた。

いま、原稿用紙に書かれたこの手紙を積み上げたら、
20センチ以上になっているのに、改めて驚いている。
そのなかの一つで、文章についての私の疑問に、
司馬さんはこう書いている。

『われわれはニューヨークを歩いていても、パリにいても、
日本文化があるからごく自然にふるまうことができます。
もし世阿弥ももたず、光悦・光琳ももたず、西鶴をもたず、
桂離宮をもたず、姫路城をもたず、法隆寺をもたず、
幕藩体制をもたなかったら、われわれは
おちおち世界を歩けないでしょう」

そして、『文章は自分で書いているというよりも、
日本の文化や伝統が書かせていると考えるべきでしょう』
と続けている。この手紙を読んで、私はみるみる元気になった。」
(p288~289)

この文庫本「風塵抄二」は2000年1月に出版されておりました。
2000年2月になって司馬遼太郎・福島靖夫往復手紙
「もうひとつの『風塵抄』」(中央公論新社)が出ます。
さっそく購入して、気になったので、
この『ニューヨークを歩いていても、パリにいても』
という手紙が登場する箇所を探してみました。
それは、p278~279にあったのですが、不思議なことに
引用された前後の雰囲気がちがうのでした。
うん。それはまた別の話となるから、ここまでにします(笑)。

コメント (2)
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冬ごもり。

2020-04-07 | 手紙
本棚から芳賀徹著「詩歌の森へ」(中公新書)を出してくる。
以前に読んで圧倒され、あとで再読しようと本棚に置いて。
はい。それっきりとなっておりました(笑)。

あとがきをひらくと、こうはじまっておりました。

「この本に収めた『詩歌の森へ』全143章は、もと
『日本経済新聞』の毎日曜の文化欄に連載したものである。
連載は平成11年(1999年)4月4日から
同13年(2001年)12月30日まで、2年9ヶ月におよんだ。」

「『詩歌の森へ』は、はじめ私なりの日本詞華選を編めばよいのだ
と考え・・自分のこれまでの読書体験や研究生活のなかで
めぐりあった詩歌で、とくに好きになって愛誦している作品、
あるいは日本詩歌の歴史の上でとくに面白いと思った作品
・・・それに若干の評語や感想をそえれば・・と考えていた。
それも、大岡信さんの『朝日』紙上の『折々のうた』のように
毎日の連載で永遠につづくというような途方もないことを
するわけではない。・・・」(p350)

本には、以前読んだ際の付せんが多く貼ってあって、
ずいぶんに気になったのだろうと思うのですが、
はい。内容はすっかり忘れております(笑)。
それでも、充実した読書の後味は残っております。

さてっと、パラパラとめくると、ところどころに
京都という地名が登場しているのに気づく。

それはそうと、二カ所を引用。

はじめに、『冬籠り』。

「『日本経済新聞』俳壇の『1999年の秀作』に、
藤田湘子氏選で『志ん生もカラヤンも好き冬ごもり』
という句が入っていた。前橋の原田要三というかたの作である。

思わず微笑した。東西文化の粋をたのしみながらの冬籠り、
うらやましいではないか。『志ん生もカラヤンも』とは
二十世紀日本人のみに許された特権。
『好き』という軽い言いかたも効いている。
冬籠りという万葉以来の古語、芭蕉以来の季語が
こうして二十一世紀に生きながらえるのはめでたい。」
(p98)


はい。二つ目は蕪村。そのはじまりは

「穎原(えばら)退蔵編『蕪村全集』という分厚い1冊の本がある。」

新聞の連載ですから短い、新書で4ページの文です。

「すばらしい書物だった。ことにはじめて読む蕪村の書簡は
・・・・・・・読みすすめるうちに私のなかには、はるかに遠い
徳川の日本、そして18世紀の京都への郷愁がしきりに湧いて、
しばし茫然とすることさえあった。


 春もさむき春にて御座候。
 いかが御暮被成(おくらしなされ)候や、
 御(おん)ゆかしく、奉存(ぞんじたてまつり)候。
 しかれば春興小冊、漸(ようやく)出板に付、
 早速御めにかけ申候。・・・・・・


たとえばこれは安永6年(1777年)、蕪村数え62歳の年の2月に、
彼の新体詩『春風馬堤曲』をものせた一門の新春句帖
『夜半楽(やはんらく)』ができ上がり、これを伏見の門人に
送ったときの添え状である。・・・・

ごく普通の時候の挨拶だったのかもしれない。
だがそれが『春もさむき春』から3つの短文の
畳みかけで言われるとき、そこにおのずから
相手へのこまやかな、まさに慇懃(いんぎん)な
心づかいがにじみ出る。

『御ゆかしく奉存候』とは、蕪村書簡の愛用語。
本来の『御なつかしくも問はまほし』の意味での、
なんとすてきな使いかただろう。・・・」
(p240)

はい。再読も、パラパラ読みで、もう満腹。
また、本棚へ。






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三日月様と、土佐の女の子。

2020-02-20 | 手紙
引用の孫引きになりますが、
坂本龍馬全集の内容見本に
司馬遼太郎が書いているそうです。

「・・散文家のなかでも吉田松陰は紀行文においてすぐれ、
・・龍馬は書簡という、特定の相手に対する文章において
すぐれているといえるであろう。とくに乙女や姪の春猪に
書き送ったものは、江戸期の人間の感覚というよりも、
近代文学の成立以後の文章感覚のようで、
対人的な形式や文章の規矩準縄から、
生来縁の薄かったかれのような人物に
よってのみ書かれたものであろうかと思える。」

はい。私は龍馬の手紙を読んでいないなあ。
それでも、高知の女の子については、
面白い本で出会っておりました。
あらためて引用したくなりました。
それは、内村鑑三著
「後世への最大遺物 デンマルクの話」(岩波文庫)。
そこに、土佐の女の子が登場しているのでした。
以下その箇所を思いだしたように引用(笑)。

「私は高知から来た一人の下女を持っています。
非常に面白い下女で、私のところに参りましてから、
いろいろの世話をいたします。ある時はほとんど
私の母のように私の世話をしてくれます。

その女が手紙を書くのを側(そば)で見ていますと、
非常な手紙です。筆を横に取って、仮名で、
土佐言葉で書く。・・ずいぶん面白い言葉であります。

仮名で書くのですから、土佐言葉がソックリそのまま
で出てくる。それで彼女は長い手紙を書きます。
実に読むのに骨が折れる。しかしながら
私はいつでもそれを見て喜びます。

彼女は信者でも何でもない。
毎月三日月様になりますと、
私のことろへ参って、

『ドウゾ旦那さまお銭(あし)を六厘』という
『何に使うか』というと、黙っている。

『何でもよいから』という。
やると豆腐を買ってきまして、
三日月様に豆腐を供える。

後で聞いてみると
『旦那さまのために三日月様に
祈っておかぬと運が悪い』と申します。

私は感謝していつでも六厘差し出します。
・・・・私はいつもそれを喜んで供えさせます。

その女が書いてくれる手紙を
私は実に多くの立派な学者先生の
文学を『六合雑誌』などに拝見するよりも
喜んで見まする。・・・」(p47~ )

こちらは、明治22年の講話で語られたものです。
はい。この女の人は、どのくらいの年齢なのでしょう?

土佐の女の子とすると、私はイメージがふくらみます。
うん。高知県の浦戸に育った西原理恵子さんなんて、
いくら年を重ねても、いまだ女の子としておきたい(笑)。

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宗教者の書簡。

2019-11-19 | 手紙
増谷文雄氏は、宗教者の書簡に着目しておられる。
それが、うん。うん。とうなずけます。

増谷文雄・遠藤周作対談「親鸞(親鸞講義)」朝日出版社。
そこにも、宗教者の書簡ということで語られておりました。

「私は親鸞という方の性格をもっともっと知りたいと
思っているんですが、その手がかりは現存する書簡に
あるような気がします。親鸞は40数通の書簡がありますし、
日蓮のは何百通も残っています。

実を申しますと、私は書簡に特別の興味を持っておるんです。
というのは、新約聖書を読んでみますと福音書、使徒行伝、
書簡、黙示録の四つから成っておりますね。ということは、
宗教者の書簡というのは非常に大事なものである。で、
ひょっと気がつきましたら、親鸞や日蓮においても
書簡が大きな役割を持っていることに気がつきまして、
それからというもの書簡を読むのがとても面白くなりましてね。」
(p16~17)

うん。私なんて、漱石の書簡で満足しておりました(笑)。
さて、引用をつづけます。

「それで書簡を読んでみますと、日蓮の性格や親鸞の性格が
鏡に映し出されたようによくわかるという気がいたしますね。

日蓮さんという方は、自分のことを
非常にざっくばらんに手紙に書いておられましてね。
たとえば、あの方はお酒好きでしたでしょ。
書簡の中にもそのことが出てきたりしておるんです。
晩年に9年間籠られた身延山でも、『ここは寒くてしょうがない。
そのときはお酒をわかしてきゅっと飲むと身体が暖まってくる』
といったようなことを、悠々と書いている。

それに対して、親鸞は40数通残っている書簡の中で、
ほとんど自分のことを書いていないんですね。
『末燈鈔』の第八書簡は浄土の教えを考えるに当って
大事なことを五説という形で列挙しておるのですが、
その一番最後に
『目もみえず候。なにごともみなわすれて候うへに、
ひとなどにあきらかにまふすべき身にもあらず候』
というくだりが見える。

その他には、息子の善鸞が起こした関東での事件
それについての痛恨の情あふるる義絶状がありますが、
これは自分の今の暮しぶりについて書いたものでは
ありませんしね。それから親鸞は63歳で京都に帰り
ましてから、ほぼ30年隠棲していますね。
その間にどういう生活をしていたか
はっきり知りたいんですが、よくわからない。
あちこちを転々としていたようなんですが、
ある書簡に仮名で『しやうまうのことあり』と、
ただそれだけ書いているんです。
たぶん火災にあったんだろうというのが
定説になっておりますし、私もそうだろうと思います。

もしこれが日蓮だったら、それでどうしたこうしたと
長々とお書きになったに違いない。
ところが親鸞はそれだけなんですよ。
そういう点ではずいぶん違うなと思いますね。」
(~p18)

うん。増谷文雄氏の語りは面白いなあ。
安心して読んでいけます。
はい。いつも手紙を書いていないなあ。
と、毎年年賀はがきが発売されていると、
思いだすわたしです(笑)。



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「歳月は勝手に来て勝手に去る」

2018-07-05 | 手紙
山本夏彦著「『室内』40年」(文芸春秋)に
「美人ぞろい才媛ぞろい―――社員列伝」という章あり。
繰り返して、これが読んで飽きない(笑)。

山本夏彦編集長と、女性編集者との
やりとりの丁々発止。たとえば

山本】 ・・・しかるに人は年をとれば利口になると思っている。
『歳月は勝手に来て勝手に去る』っていうのは私の十八番です。
そうでしょ、あんたの歳月だって勝手に来て勝手に去ったじゃ
ありませんか。

女編集者】ー-まだ去ってません(笑)。

山本】でもさ(笑)いずれは去るよ。
歳をとるのは体だけで、心はとらない、
女性は永遠に十七です。・・・・(p157)


こんな感じのやりとりがありまして、
ちょうど手紙の箇所がありますので
その少し前の女性編集者の言葉から引用。


女編】 一流なんて思ってやしません。

山本】私でなくちゃあんたのよさなんて認めてくれないよ、
堪えがたきを堪え忍びがたきをを忍び、内なる才を発見し
てくれるなんて人はいないよ。
いくら恩に着せても着せたりないくらいだ。

女編】 私に恩を着せるんですか。

山本】 もちろんです。あんたが私に着せるんですか。
本題にもどって、
商売の手紙っていうのは十か十五種類しかないんです。
『ハガキ編』と『手紙編』に分けたってたいしたことない。
見本通り書けばいいのにそれがイヤで一枚のハガキを
書くのに一日かかっている新卒(男)がいた。
学校でまねはいけないと教わって育っている。
そんなところにオリジナリテなんて出せやしません。
用が足りればいいんです。モデル通りに書いているうちに
退屈して一言つけ加えるようになる人がある。
それから先はその人次第です。
ご新著を拝読しましたとか、
この間の個展拝見しましたとかね。
ひとこと添えるとそのハガキがにわかに生彩を帯びる。
せっかく見たんだから言えというのに
言えない人が多い。言わない人が多い。
相手は大家でこっちは新卒のお使い、
このひと言で、振向いて編集者として認めてくれる。
というより『人』としてみてくれる。
『室内』の編集部は私がほめなくても、そとでほめられる。

女性】 いえ、今回は山本さんご自身が、
ほめて下さる約束でした。

山本】 そうでしたか。・・・・(p160~161)


この章は、切実だったり、なかったり。
「室内」編集部の内幕に触れたりして、読み過ごせず、
そういう意味の愉しみがありました。ついつい引用が
長くなってしまいそうなので、ここまで(笑)。


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「客観報道」と、「編集へのお手紙」。

2018-06-23 | 手紙
え~と。
どこから話しましょう(笑)。

文芸春秋の雑誌「諸君!」の最終号は
2009年6月号でした。その巻頭随筆である
「紳士と淑女」では、最後に「読者へ」として

「なお、三十年にわたって、
ご愛読いただいた。『紳士と淑女』の筆者は、
徳岡孝夫というものであった。」

こう締めくくっておられました。
現在。その徳岡孝夫氏は
雑誌「新潮45」の巻頭随筆「風が時間を」を
執筆しております。
その今月号2018年7月号では、
アメリカに渡って大学のゼミの講義をうけている内容の
ことがでてきております。時代は戦後十五年のことです。

はじまりは、

「私を最も手古摺らせたのはShort Story Writingのゼミだった。
つまり短編執筆である。ただ文学のゼミではないので小説ではなく、
ノンフィクションの書き下ろしである。・・・・
それだけではない。書いた原稿を売ってそれが掲載されれば
ゼミの点数になるという。・・・

ただ書くための手引きはあった。Writer’s Guideという本。
原稿を求めているアメリカ中の出版社の名、誌名、住所、
どんな原稿を求めているか、原稿料まで列挙され、
それが一冊の本になっている。・・・・

私は書いた。『日本』をネタに書きまくって送った。
だが私の原稿は一本も採用されなかった。
戦後十五年、日本はエキゾティシズムより
『昨日の敵』のイメージが濃かった。

しかし米国の新聞社、出版社が多数の取材記者を雇うことなく、
外部からの協力とその内容を調べるという身軽な行動で
成り立っていることは分かった。」

そして最後に、日本について
書かれておりました。ちょっと、読み過ごしたくなる
のに、重要な箇所だと思っております。


「当時の日本では新聞に意見や情景を書こうと思えば、
その新聞社に勤務する記者が原稿依頼に来るか、
または記者の手で書かれる以外に手がなかった。

進んで雑誌に寄稿しようと思ってもメディアは有名人に
すでに執筆依頼するか自分の記者に取材にいかせて、
いわゆる『客観報道』をしてしまっていた。

それに比べて米国の業界はずっと開けていた。」


この最後の
「いわゆる『客観報道』をしてしまっていた。
それに比べて米国の業界はずっと開けていた。」
とありました。
ここから、外山滋比古著「新聞大学」(扶桑社)
にある「投書欄」という文が思い浮かびました。

それを引用。

「外国の新聞は日本に比べると概して
読者の投書がすぐれている。
だいいち、投書、などと言わない。
編集への手紙(Letters to the Editor)
と呼ばれることが多い。
・・・素人ばなれした文章もある。
いずれにしても、レターである。エッセイなどと
気取らない。反対、攻撃の叫びではない。
やさしくあたたかい文章が見られる。
アメリカの新聞は、少し味わいが欠けるように
感じている日本人もいるようだが、
それは誤解である。アメリカの〈編集への手紙〉にも、
びっくりするような良い文章が見られるのである。

 ・・(ひとつ紹介されておりました省略)・・

日本の新聞の投書は、どうしたことか、
騒々しかったり、むやみに攻撃的だったり、
自己主張がむき出しであったりする。
書いている当人は得意かもしれないが、
読者には、おもしろくないものが多い。
もっと多くの人が大人の文章を書くように
ならなければいけない。・・・」(~p102)



はい。「編集への手紙」というのですね。
うん。手紙なんだね。
いいなあ。「エッセイなどと気取らない」(笑)。




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