和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

コレラのパニックと流言蜚語

2024-05-14 | 短文紹介
吉村昭著「磔」にあるらしいのですが、未読。
ここには、曽野綾子著「ほんとうの話」(新潮文庫)。
ちょっとですが、明治10年に起きたコレラのパニックが書かれておりました。

「・・・何のいわれもないどころか、いいこをして殺された人までいる。
 たまたま今、手許にある新聞には、明治初期の千葉県鴨川の医師・
 沼野玄昌という方のことが出ている。

 明治10年に、全国的に猛威をふるったコレラは、10月になると当時、
 長狭(ながさ)郡貝渚(かいすか)村と呼ばれた鴨川にも発生した。

 近隣の村を合わせると、患者480人のうち261人が死んだのである。
 村人たちは奇病を恐れてパニック状態に陥った。

 沼野医師は、漢方、蘭方、解剖外科にも明るく、
『 西洋医学も修めた医師 』として医学知識のない村民たちを相手に
 防疫に当ることになった。何の衛生知識もない村人たちは、

 汚物は川に捨てる、死者は土葬にする、という調子だったから、
 沼野医師はまず火葬をすすめ、井戸にクロール石灰を投げいれたりした。
 しかしコレラはそうは簡単にはおさまらないので、
 村人は沼野医師を信じなかった。

『 あの医者は、金もうけのために、井戸に毒を入れてわざと病人を作っている 』
 
 と彼らは言い、或る日、ついに竹槍やくわで、当時41歳だった沼野医師を
 惨殺したのである。この話は、土地の人々の間でも思い出したくない話しとして、
 長い間タブーになっていたのだが、今度101年目に慰霊碑が建ち、
 児童公園もできたという。

 別に恥じることはない、と私はおもう。
 私がその場にいても、恐らく医師殺害に与(くみ)したろうと思うし、
 私の父母も、その場に居合わせたら、医師を憎んで竹槍をふるったかも
 知れない。人間、誰しも考えること、やることは、同じようなものである。
 ただそこには、人間が普遍的に犯すあやまちがあるだけである。  」(p96)


私は「安房郡の関東大震災」をテーマに語ろうとしてるのですが、ここで、
流言蜚語に立ち向かう、指導者としての大橋高四郎を、まず思うのでした。

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人を得なけりゃ優駿も只の奔馬。

2024-04-16 | 短文紹介
何か、久しぶりに月刊雑誌『文芸春秋』を
買ったので、何だか新鮮な気分になります(笑)。

今日になって、雑誌を2冊本棚からとりだしてくる。

文藝春秋発行の『諸君!』2009年6月号。
隣に並んでた、『新潮45』2013年12月号。

『新潮45』のこの号には、
田中健五の「池島信平と『諸君!』の時代」が掲載されておりました。
はい。8ページほどですから、すぐに読みかえせました。
その最後の方に、こんな箇所がありました。

「 この雑誌(注:「諸君!」)が今はもう存在しないことを、
  私は悔しく寂しく思う。
  『 人馬一体 』という言葉がある。
  編集者と雑誌も同様である。『人馬一体』が求められる。
  人を得なければ、優駿も只の奔馬にすぎない。     」(p91)


さてっと、『諸君!』2009年6月号の表紙にはこうありました。
「 最終号 特別企画・日本への遺言 」。
その特集の一つ「『諸君!』と私」には、
佐々敦行氏の次に曽野綾子氏の文がありました。
はい。短文なので好きなように引用してみます。

曽野さんは、沖縄渡嘉敷島でのことを、
紀元1世紀にローマ軍に囲まれたイスラエルのマサダ要塞での
出来事をもって比較されておりました。

「私は『 ある神話の背景 』という題で、
『 諸君! 』の1971年10月号から1年間連載させてもらった。」

うん。そのあとの最後の箇所はきちんと引用しておかなきゃ。

「『諸君』編集部に対する言論界の風当たりは強かっただろう。
 沖縄の言うことはすべて正しく、それに対していささかの
 反論でも試みる者は徹底して叩くというのが沖縄のマスコミの
 姿勢だったが、その私を終始庇ってくれたのが、
 
 田中健五編集長と、私の担当だった村田耕二氏だった。
 或る日、一度だけ私は遠回しに村田氏に、
『 多分ご迷惑をおかけしているんですね 』と言ったことがある。
 すると村田氏は
『 社の前に赤旗の波が立ってもかまいませんよ 』
 という意味のことを言った。
 反対する人たちがいたらどうぞご自由に、という感じだった。

 田中編集長と村田氏は時の潮流に流されなかった
 ほとんど唯二人の気骨ある編集者だった。

 私は『諸君』の終巻を心から悼むが、
 経済的な理由で終わりを告げることには、
 むしろ自然なものを感じる。
 これが思想的な弾圧でなくて良かった、と喜んでいる。
 と同時に歴代の編集者たちの苦労を深く労いたい。  」(p165~166)


久しぶりに『文芸春秋』を買って、私が読みかえして
みたかったのは、この曽野綾子さんの短文なのでした。

せっかくなので、曽野綾子氏が
『経済的な理由で終わりを告げることには、むしろ自然なものを感じる』
という『自然さ』を田中健五氏の文にもとめるとなると、
この箇所なのかなあと思う健五氏の言葉を最後に引用しておきます。

「 まだ戦後10年足らずの日本には、
  活字に飢餓感をもつ国民が多く、
  雑誌界は沸き立つような活況を呈していた。
  今では信じられない話しだが、
  一出版社の出す一月刊総合雑誌にすぎない
 『 文藝春秋 』編集長が社会的にも大きな存在を持つ時代だった。 」
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『 年齢七掛説 』

2024-01-21 | 短文紹介
鷲尾賢也著「新版編集とはどのような仕事なのか」(トランスビュー)を
ひらいたついでに、パラパラとめくってみる。
講談社の編集長をしていた視点からのご意見を拝聴。

たとえば、私など、本を買えども読まない本というのがある。
最近は居直って、積読でも気持ちが弱らなくなりました(笑)。

そういう視点からだと、面白いなあという言葉がある。

「書店だけでなく読者の読む力が弱くなっている。
『 良書でござい 』とあぐらをかいていてすむ時代ではない。
 どうにかしてともかく買ってもらう。
 そうすればその中の何割かは読むだろう。
 ・・・編集者のフットワークが要求されている。 」(p175)

はい。良書のあぐら。安岡章太郎の『蹲踞のように腰を浮かせて書く』。
連想のつながりで、動作が並びます。『良書でござい』とあぐらをかく。
『蹲踞のように腰を浮かせて書く』。さらには、編集者のフットワーク。

編集者の視点が鮮やかに感じられてくるのは、まだまだありました。

「そのころ『 年齢七掛説 』がささやかれていた。
 つまり、いまの22歳はむかしでいえば、15~6歳にしかならない。

 かなり幼いと思った方がいい。
 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』のようなものができないか、
 というふうにはなしが進んだ。・・・ 」(p84)

「 編集者にもいろいろなタイプがある。・・・・・
  ダメだということをいかに納得させるかに苦労することもまれではない。」
                       (p85)

「 鶴見俊輔がどこかで、
  日本はどうも10年ごとにくりかえしているといっていた。
  企画をたてるのに、出版の歴史を知っておいて損はない。 」(p87)


はい。何だか編集者という海岸の砂浜で、尽きない真砂から、
キラキラひかる言葉の貝殻を拾ってるような気分になります。

ちなみに、著者あとがきの最後の日付は2003年12月20日。
約20年前に出版された本のようです。
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古書目録とKさん。

2024-01-14 | 短文紹介
ちくま文庫「出久根達郎の古本屋小説集」(2023年11月発行)を買う。
パラリとめくれば、
古本屋の主人が、売上ゼロとにらめっこして、
古書目録をつくり地方に発送する場面がある。
はい。印象深いので引用。

「主人は思案の末、古書在庫目録を作って、地方の客に送ることにした。
 地元の特定客だけを当てにしていては、細る一方である。
 古本屋が近辺にない地方の人たちを顧客にしよう、と考えた。
 資金が乏しいので、手書きでコピー印刷することにした。
 40ページの小冊子を作った。

 雑誌の愛読者欄を見て、本を好みそうな人を摘出した。
 古書目録『書宴』第一号は昭和56年8月6日に出来あがった。」(p57)

「主人の手作り古書目録『書宴』は、号を追うごとに大変評判になった。
 品物が安価であること、掘り出しが多いこと、の他に、
 目録の記述そのものが面白いとほめられた。
 本の一冊一冊に、主人が解説を施したのである。
 ・・・楽しみながらの無駄口講釈である。 」(p61)

さてっと、ここいらまでは事実のような気がするのですが、
『Kさん』の場面は、すこしフィクションを交えているかも。
ノンフィクションかフィクションか。その箇所を丁寧に引用。

「Kさん、という客がいた。目録の創刊号以来のお得意だが、
 毎号、熱心に注文を下さるのだけれど、大抵ほかの客と
 目当ての品がぶつかってしまい、先着順の受けつけゆえ、
 運悪く後れを取る。・・・・

 しばらくしてKさんからの注文が絶えた。目録は送り続けたが、
 そろそろ中止の潮時かも、と考えていた矢先、
 Kさんの息子と名のる若者が訪ねてきた。
 Kさんは四国の、奥深くに在住の方である。

 むすこさんは東京に用事があって出てきたのであった。・・・
 父親に頼まれたのである。・・父に託された、と里芋のように
 丸いトロロ芋を下さった。袋に詰めて重いのをわざわざぶら下げて
 きたのである。・・・・

 これでは目録の郵送をやめるわけにいかない。
 しかしその後もKさんからは、一度も注文がなかった。・・・」(p63)

 このあとに、主人公は、Kさんの死を知らされます。

「『 父はベッドで『書宴』を読むのが唯一の楽しみでした。
  書宴が送られてこなくなるのを、極度に恐れていたんです。
  ならば毎回注文を出せばよいものを・・妙な父親でしてね。・・
 
  でも父は喜んでいました。
  『書宴』が最後まで父の枕頭の書でありました。・・  』

 ・・・古書目録は、Kさんにはむしろ『本』だったのだ。 」(p64)


さてっと、ちくま文庫の解説は、南陀楼綾繁さん。解説の題は、
『古本屋のことはぜんぶ出久根さんに教わった』とあります。
最後に、その解説から、この箇所を引用。

「出久根さんは『書宴』という古書目録を発行していたが、
 そこに載せた文章が編集者の高沢皓司氏の目に留まり、
 それが『古本綺譚』にまとまった。

『 高沢さんは、
【  古本屋の親父の身辺雑記、と人には言いふらして下さいよ。
   小説集、と絶対に口をすべらせてはいけませんよ。
   無名の人間の小説集は売れませんからね     】
 と釘をさした。私は口外しないと約束した』(「親父たち」)

 その嘘に見事に引っかかった私(南陀楼さん)は、
 かなり後まで『古書綺譚』はエッセイ集だと信じていたのだ。」(p408~409) 

 
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そりゃそうよ。

2024-01-07 | 短文紹介
本を読もうとしても、本は読めないなあ、と思っていたら、
思い浮かんだ対談がありました。

金美齢・長谷川三千子「この世の欺瞞」(PHP・2014年)。
この箇所が浮かびました。

長谷川】 私もよ~く覚えてる。
     2歳の子供を連れて歩くのは、
     8階まで階段を上るより、はるかに疲れるのよね。

金】  そりゃそうよ。

長谷川】 子供の脚に合わせて歩くのって、本当に重労働。
     おまけに、やたらに立ち止まって『あ!』とか言って、
     何かを拾うわけよね(笑)。

     『 それは≪ばっちい≫から、やめようね 』

     と注意して、何とかあきらめさせる。それで、
     大人の脚だったら10分に行けるところが、30分はかかってしまう。

金】   その通りよ。

長谷川】 要するに、子供を育てるということは、
     そういう非能率の24時間を過ごすってこと。

金】   忍耐。忍耐。

長谷川】 私の乏しい忍耐力が、子育てで、
     かなり鍛えられました(笑)。         (p136)



はい。ここに登場している『2歳の子供』というのが、
今の、私の読書じゃないかとハタと膝を打つのでした。
私は、本を読みはじめても、まともにゴールできない。
とりあえず脱線していって、もう元の本にもどれない。
こんな読書じゃ『2歳の子供』より悪いのじゃないか。
まあいいや。こうして、馬齢を重ねてしまった以上は、
このままの自分を受け入れ本とつきあってゆくことに。

『日本の古本屋』で検索すると、
『大菩薩峠』は論創社で全9巻がありました。
そのいちばん安いのを注文。

この論創社の『大菩薩峠』は、伊東祐吏の解題に、こうあります。

「本シリーズは、大正時代に都(みやこ)新聞≪現在の東京新聞≫紙上に
 掲載された中里介山『大菩薩峠』を新字、新仮名、総ルビ、挿絵つきで
 復刊するものである。・・・」

「都新聞に連載された『大菩薩峠』は、単行本化されるにあたって、
 全体の約30%が削除されている。・・・・・」


はい。この論創社のページは、見開きの右と左で
新聞連載の1回分。そこに挿絵・井川洗厓もある。
うん。これなら万事横着な私にもひろげられそう。

さて、それとは別に、扇谷正造氏の文中に桑原武夫氏の
文が紹介されていたのを思い出します。 ありました。

桑原武夫に『大菩薩峠』(1957年5月)という4ページの文。
そのはじまりは

「昨年(1956)、私は横光利一の『旅愁』について放送させられたことがある。
 日本近代文学の諸名作についての連続講義の一つを割当てられたのだ。

 ・・・悪口めくから嫌だといっても、それもまた一興、
 というので、仕方なしにやった。

 開口一番、この小説の再読は、私にとって全く苦痛だった。
 その間、途中まで読みさしの『大菩薩峠』に一そう心ひかれて困った。
 私は横光利一より中里介山の方が芸術家として上だと信じている、
 というところから始めた。・・・・・

 私はハッタリをいったつもりはない。すべて努力は幸福をもたらす、
 というのは倫理的に立派な考え方だが、そして努力なくしてよき成果
 のないことは大よそ確かだが、努力してつまらぬ結果しか出ない場合
 も多いのである。芸術においては特にその感がふかい。・・・ 」

はい。こうしてはじまっており、ここにはその文の最後を引用して
おわることに。

「『大菩薩峠』では机竜之介はもちろんのこと、
 主要登場人物がすべてアウト・ロウ(out-law)だ、
 ということは従来あまり指摘した人を聞かぬが、
 そしてこの着眼は生島遼一君と私との雑談ではっきり
 したことだが、将来大きな手がかりとなるべき点にちがいない。

 ・・・・このあいだ・・一ぱい飲んださい、
 この小説の面白さをしゃべり立て、若干の仮説をのべ、
 大いに扇動しておいたところ、もう半分以上もよみ上げたというのが、
 数人あらわれた。

 私は昭和のはじめに全巻を読破したが、
 再読は半ばまで来て意識的に停滞させてある。

 そのうち日本文化史や国史、文学、心理学などの
 若手の学者諸君と共同研究でもやれたなら、

 ――これが今年の正月からいだいている私の夢である。 」

  ( p16~19 「桑原武夫集 5」岩波書店 )


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ふたたび席に戻る。

2023-12-11 | 短文紹介
吉田光邦氏に「茶の湯十二章」というのがありました。
なんでも、『家庭画報』の1969年1~12月号に連載されたもの。

ここには、12月の箇所を引用。

「12月の茶といえば夜咄。
 冬至の前後のころの昼の陽ざしはみじかく、夜はいやが上にもながい。
 そうした夜に同心のわずかな人数でひっそりと集まる会。それは
 あわただしい歳末のなかで1年をしみじみと思いかえす集まりなのだ。

 寒い夜、おぼろな光、そのなかでしずかに進行する茶事。
 すべては寒さを忘れるようなあたたかい空気への配慮にみたされて、
 集まる人びとはそこに亭主の心づくしを思うのである。

 直弼はまたいっている。
 『 此道の教は初門の時より、喫茶を以て楽しましめ、
   きわめて心地朗なる所を楽しむ、高きも卑きも富めるも貧しきも、
   浅きも深きも楽しむの外事なし 』と。

  彼にとっては茶は楽しむものであり、
  その楽しみは自分の現在のあり方をはっきりと
  見定めることによって生まれてくるものであった。

  ・・・そして人びとの交流の媒介となるものが、
  茶の味であり、懐石の味わいなのであった。
  だがその交流は同時に自分のあり方の自覚でなければならなかった。

  ・・・茶会は終り客は主の見送るなかを立ち去ってゆく。
  そして主人はしずかにふたたび席に戻る。

 『 今日一期一会済みて、ふたたび返らざる事を観念し、
   或は独服をもいたす事、是一会極意の習なり。此時寂莫として
   打語らふものとては釜一口のみにして外に物なし 』

   そうして人生の瞬間は、人びとの心のなかに
   あるしるしをつけながら消えてゆくのである。  」

    ( p168~169 吉田光邦評論集Ⅱ「文化の手法」思文閣出版 )


はい。次回は、お正月の茶の湯の箇所です。
 
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現代の職人気質?

2023-12-09 | 短文紹介
「吉田光邦 両洋の人 88人の追想文集」(思文閣出版・1993年)。
最後の方に略年譜があります。1921年(大正10)~1991年(平成3)。
愛知県西春日井郡に出生。とあります。

さてっと、ここで吉田光邦著「日本の職人像」のおさらい。
まず、どうして私がこの本をひらいたのかというと、
臼井史朗氏のこの言葉でした。

「吉田光邦氏『日本の職人像』は非常に面白い力作だと思った。
 平安から現代まで・・・それぞれの職人気質を・・
 面白く系統的に書いている。名著だと思った。 」
        ( p87 「疾風時代の編集者日記」淡交社 )

うん。その面白さを説明するのに、この一冊からだけじゃ私の手に負えない。
田中一光氏の追想文に、その秘密の一端が披露されていました。
ちょっと長いのですが、的を射た場面を回想されています。

「昭和43年だったか、大阪万博の政府館の歴史パビリオンの
 デザイナーに指名されることになり、作家の今日出海先生を中心に、
 毎月展示物の会議が繰返された。その都度、

 専門の歴史学者がアドバイザーとして出席されるのだが、
 研究分野の領域が狭く、とても縄文、弥生から、明治維新まで、
 通観して教えて貰える学者が見当たらず、締め切りを間近に
 展示計画書を出せずに途方に暮れていた。

 私は思い切って京都に行くことにした。
 これは吉田(光邦)先生をおいて他にないと思ったからである。

 その時の吉田先生の見解は見事なものであった。
 私の頭の中にもやもやしていた日本史が一条の光のように繋がって
 見えてきた。これほど嬉しく、また興奮したことはない。 」
     ( p52 「吉田光邦 両様の人 八十八人の追想文集」 )


さてっと、ここからおもむろに『日本の職人像』の最後を引用して
おわることに。そこでは『現代の職人』を定義して終わるのでした。
そのすこし前から引用。

「かつての職人はその全生産大系を自分で管理していた。・・・
 しかし現代の量産機構のなかに生きる人びとはそうはゆかない。」(p207)

このような観点から説き起こして、この本の最後に至ります。
はい。その最後を引用。

「そこで今も仕事に情熱的であり忠誠を傾けるのは芸術家だとか、
 プロ野球の選手だとか、学者たち、研究者たち、文筆家たちに
 多くみられる理由が分るだろう。

 彼らはすべて現代の職人なのだ。自分の手で仕事をし、
 誰にも助けられず個人の才能だけで勝負しなければならぬ。
 個性のみで勝負しなければならぬ。そしてその結果がどんな
 意味を社会に対してもつかを、彼らはほぼ予測することができる。

 こうみればこの人びとにこそかつての職人気質に似たものが
 よく残っていることも当然となろう。

 仕事を第一に考え、ほんものを何よりも重んじにせものをきらい、
 気に入れば懸命に仕事をするが、気に入らねばなげやりとなる。

 いささか狭量で広い世間についてよく知らぬし、またあまり気にもせぬ
 ――こうした特徴はまことによくかつての職人たちにあてはまるではないか。

 それも結局は孤独にひとりで仕事をつくりあげて
 ゆかねばならぬ上から生じた結果である。
 職人はどこまでも個人であった。
 職人気質とは仕事の上の個性の主張ということであった。

 ただその主張が消費者に対する奉仕の精神をもって
 包まれねばならぬところに、職人の運命的な寂しさがあったのである。」
      ( p209 吉田光邦著「日本の職人像」河原書店・昭和41年 )


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読書も食欲も。

2023-10-29 | 短文紹介
はい。パラパラ読みです。
津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)に

興膳宏・木津祐子・齋藤希史「『朱子語類』訳注」(巻10~11・読書法篇)
からの引用があるのでした。

「おおくの弟子たちのメモによって再現した先生のおことばが245篇――。

  読書も食欲にまかせて

『 雑多なものを、時節もわきまえず、一気に食べれば、
  腹が突っ張って、どうしようもなくなる 』とか

『 いまの人の読書は、まだそこまで読んでもいないのに、
  心はすでに先に行っている(略)。
  気分がせかせかして、いつも追い立てられているようだぞ 』とか、

 どのおしえも身につまされ、どことなくユーモラスで、
 キビキビと気合がはいっている。
 とうてい800年もまえのものとは思えないくらい。 」(p67)


はい。よくぞ引用してくださいました。この頃、めっきり
食が細くなったのを実感してる当方としては、これで満腹。



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賢治の夏休み。

2023-07-22 | 短文紹介
宮沢賢治の「イギリス海岸」。そのはじまりは

「夏休みの15日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、
 2日か3日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処がありました。

 それは本とうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。
 北上川の西岸でした。東の仙人峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、
 北上山地を横ぎって来る冷たい猿ヶ石川の、北上川への落合から、
 少し下流の西岸でした。  」

よその学校では、どうだったかも書かれておりました。

「 町の小学校でも石の巻の近くの海岸に15日も生徒を連れて行きましたし、
  隣りの女学校でも臨海学校をはじめてゐました。

  けれども私たちの学校ではそれはできなかったのです。
  ですから、生れるから北上の河谷の上流の方ばかり居た私たちにとっては、
  どうしてもその白い泥岩層をイギリス海岸と呼びたかったのです。 」

「それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。」
として賢治特有の蘊蓄がならべられゆきますが、ここでは大胆にカット(笑)。

「・・それにも一つここを海岸と考へていいわけは、ごくわづかですけれども、
 川の水が丁度大きな湖の岸のやうに、寄せたり退いたりしたのです。
 それは向ふ側から入って来る猿ヶ石川とこちらの水がぶっつかるために
 できるのか、それとも少し上流がかなりけはしい瀬になってそれが
 この泥岩層の岸にぶっつかって戻るためにできるのか、・・・
 とにかく日によって水が湖のやうに差し退きするときがあるのです。 」

はい。もう少し引用しておきます。

「 そうです。丁度一学期の試験が済んでその採点も終り
  あとは31日に成績を発表して通信簿を渡すだけ、
  私の方から云へばまあそうです。

  農場の仕事だってその日の午前で麦の運搬も終り、
  まあ一段落といふそのひるすぎでした。
  私たちは今年三度目、イギリス海岸へ行きました。・・・ 」

「 ・・・『ああ、いいな。』私どもは一度に叫びました。
  誰だって夏海岸へ遊びに行きたいと思はない人があるでせうか。
  殊に行けたら・・・フランスかイギリスか、
  さう云ふ遠い所へ行きたいと誰も思ふのです。

  私たちは忙しく靴やずぼんを脱ぎ、
  その冷たい少し濁った水へ次から次と飛び込みました。

  全くその水の濁りやうと来たら素敵に高尚なもんでした。

  その水へ半分顔を浸して泳ぎながら横目で海岸の方を見ますと、
  泥岩の向ふのはづれは高い草の崖になって
  木もゆれ雲もまっ白に光りました。・・・   」

うん。最後の箇所も引用しておきます。

「・・今日は実習の9日目です。朝から雨が降ってゐますので
 外の仕事はできません。うちの中で図を引いたりして遊ぼうと思ふのです。
 これから私たちにはまだ麦こなしの仕事が残ってゐます。・・・

 麦こなしは芒(のぎ)がえらえらからだに入って大へんつらい仕事です。
 百姓の仕事の中ではいちばんいやだとみんなが云ひます。
 この辺ではこの仕事を夏の病気とさへ云ひます。

 けれども全くそんな風に考へてはすみません。
 私たちはどうにかしてできるだけ面白くそれをやらうと思ふのです。

                     ( 1923、8、9 )   」


( p101~118 「新修 宮沢賢治全集 第14巻」筑摩書房・1990年 )



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読んでいて生きた心地がする

2023-07-21 | 短文紹介
鄭大均(てい・たいきん)著「隣国の発見 日韓併合期に日本人は何を見たか」
(筑摩選書・2023年5月)の序文から引用。

「・・ポスト〇〇ニズムやポスト〇〇リズム隆盛の今日、
 研究者やジャーナリストたちは一見、過去から学んでいる風を装い、
 少数者には大いに関心があると言う。

 しかし彼らは今日を生きる自分たちを至上のものとする人々であり、
 一度(ひとたび)あるものに『侵略者』や『植民者』の烙印を押すと、

 それをなかなか変えようとしない頑固者たちである。
 そんな人々の記したいびつな日本統治期論などに比べると、

 この時代に朝鮮の地に住んでいた日本人が書き残した朝鮮エッセイには
 人間の息吹があり、読んでいて生きた心地のするものが少なくない。
 
 本書で紹介したいのはそんな良質なエッセイである。・・ 」(p13~14)


はい。第五章まであります。こりゃ夏の読書にはうってつけかも。

ここには、第五章の挟間文一(はざまぶんいち)のはじまりだけ紹介。

「大分県北海部郡佐賀市村に生まれた
 挟間文一(1898~1946)は1923年長崎医科大に入学、
 第一回生として卒業すると助手としてそのまま薬物教室に残り、
 1930年には同大助教授に就任する。

 後にノーベル生理学・医学賞の候補となる研究が始まるのは
 この時期のことで、挟間は研究室が英国から購入したケンブリッジ社製の
 弦線電流計を用いて臓器の動作電流曲線を描写する作業に取り組み、
 それに成功し、成果をドイツ語論文で記し、多くはドイツの科学専門誌
 に掲載されるようになる。

 挟間はしかし1935年、京城医学専門学校への転任を余儀なくされる。
 当時、長崎医科大で発覚した博士号学位売買事件の責任をとって辞職した
 主任教授の後任として長崎に赴任することになった京城医専の教授が、
 助教授職にあった挟間の留任を望まなかったためである。

 挟間は不本意ながら京城の地に向かうが、
 発光生物に関する研究は続けられ、やがて朝鮮をテーマにした
 多くのエッセイが記されるようになる。・・・・・

 筆者は偶然『朝鮮の自然と生活』の本を入手し、
 旅する科学者の姿に斬新な印象を受けたが、
 戦後この人の朝鮮エッセイに触れたものが
 だれもいないことに不思議な気持ちがした。・・・・」(p226~227)

このようにはじまっております。
あらためて、序にある
『 人間の息吹があり、読んでいて生きた心地のする 』
という言葉を反芻しながら、この夏の読書とします。


 
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児童漫画の読者たち。

2023-07-14 | 短文紹介
藤子不二雄著「二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史」
 ( 毎日新聞社・1977年 )を古本で購入。

いろいろな漫画家が登場しております。
パラパラめくっていると、こんな箇所がありました。

「 はじめは漫画への激しい意欲と情熱を燃やして描いたものが、
  次第に職業的熟練で処理していくようになる。

  大人漫画はいざしらず、児童漫画でこうなったら、
  その漫画家の生命はもう終りつつあるといっていい。

  少年読者は実に敏感に、作品を通して、その作者の
  エネルギーの減退をかぎとるからだ。

  現代の若者やこどもたちはシラケの世代だといわれる。
  たしかに彼等の行動や発言からはそれを感じさせる。

  だが、少なくとも児童漫画の読者たちは、
  漫画にシラケを求めてはいない。

  彼等が漫画に期待するのはホットな連帯感なのだ。
  まわりがシラケの環境であればあるほど、
  漫画の世界だけには熱い感情のたかぶりを求めるのだ。 」(p169)

これは、石ノ森章太郎を語った箇所にありました。
ついでに、石森章太郎はどう紹介されていたかも引用しときます。

「なんせ、つい最近まで、『趣味は?』と聞かれると、
『 漫画を描くこと 』と平然と答えた男(石森)だ。
 本業が『漫画を描くこと』で、
 趣味も『漫画を描くこと』。これはツヨイワ!
 漫画を描くことが面白くて、楽しくてしょうがないのである。
 ・・・・オトロシー。 」(p169)

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粗末にしてはいけない価値

2023-06-29 | 短文紹介
山口仲美著「日本語が消滅する」(幻冬舎新書・2023年6月30日発行)。
はい。パラパラとひらくのですが、本文の最後の方にある、ここを引用。

「 日本語は、音節言語で極めて発音しやすく、外国人も学びやすい。
  のみならず、ほとんど母音で終わる開音節性で、響きの美しい言語でした。

  さらに、重要な役割を持った語を後ろに配するという一貫性のある
  文の構造をしていましたね。

  そして、常に相手の遇し方に気を配り、
  敬語という特別な言語形式を持っていましたね。

  しかも、相手との心理的な距離によって臨機応変に言語形式を変える
  というユニークな相対敬語の言語だったではないですか。

  また、ひらがな・カタカナという、世界にたった一つしかない
  文字を千年以上も使い続けていましたね。
  文章は、漢字にひらがな・カタカナを交ぜて記し、この上なく
  意味のとりやすい効率的な様式を採用していました。

  そして、語彙の豊かさにかけては、世界のトップクラス。
  とくに、心理を表す語彙は、極めて豊富。

  さらに、概して、漢字は漢語を、ひらがなは和語を、
  カタカナは外来語や擬音語・擬態語を表すというぐあいに、
  文字で語の出自(しゅつじ)や性質まで区別している。

  おまけに、フリガナまで動員して、意味の豊かさを追求する。
  こんな面白い言語が、どこにあるでしょうか?
  世界中探したって、日本語以外には見つかりません。

  独自性を持った言語ほど、人類の進歩に役に立ちます。
  日本語は、粗末にしてはいけない価値を持っている言語です。

  どうか、そのことに気づいてください。こうした特色を持った
  日本語に支えられて、日本独自の文化が生まれているのです。

  奈良時代にはすでに、他の言語では決して真似できない
  短歌という独自の文学形態を生み出し、

  平安時代には、世界の人に読んでもらえるような
  巧みな心理描写を駆使した傑作を誕生させています。

  現代だって、日本語の特質であるオノマトペをふんだんに使った
  コミックで、世界中の若者たちを魅了しているではありませんか。

  日本人自身が、日本語に対する積極的な価値を見出し、誇りと
  自信を持って守らなければ、誰も日本語を守ってはくれないのです。
  言語学者のデイヴィッド・ハリソンさんは、こう言い切っています。
 『 私が確信していることはただ一点、言語が外部の人間によって
   【 救われる 】ことはありえないということだ  』。
  日本人が日本語を守らなければ、日本語は消滅するのです! 
  そして、日本語を子供たちに喜んで教えてあげてください。・・ 」

                         ( p271~272 )


はい。分かりづらかった『ユニークな相対敬語の言語』とか
そして『音節言語』とかの具体的紹介は、各章で触れられておりました。
うん。私のパラパラ読みはここまで。
はい。私の受け取ったメッセージは引用したこの箇所でした。
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だれかがいつか、そこを通る。

2023-06-03 | 短文紹介
何だか思うんですが、新刊で買った本は読まずに、
安く買った古本は、これが読んでいるんですよね。
これは何なのだろう。と思うわけなんです。

新刊単行本値段で、古本は10冊ほど買えるのでついまとめ買い。
そうすると、古本を1冊読んで、あとの古本を読まないとしても、
何だか価格的な罪悪感とでもいいましょうか? そいつがない。

古本を10冊ならべて、豪華にパラパラとめくって、
そのうちの数冊を読めれば、これはこれで当たり。
新刊ならば、読みたいと思って買ったはずなのに、
何だか読めなかったりすることが多かった私です。

それはそれとして、最近、古本で買って読んだ本に

田中泰延著『読みたいことを、書けばいい。』ダイヤモンド社・2019年
その後半をパラパラとめくっていると、こんな箇所。

「 そもそも、ネット時代は、
  書きたい人が多くて、読みたい人が少ないので・・ 」(p236)

はい。この本の題名もそうなんですが、この文句も分かりやすい。
ということで、引用をつづけてみます。

「 あなたは世界のどこかに、
  小さな穴を掘るように、
  小さな旗を立てるように、書けばいい。

  すると、だれかがいつか、そこを通る。

  書くことは世界を狭くすることだ。
  しかし、その小さななにかが、

  あくまで結果として、あなたの世界を広くしてくれる。 」(p234~235)                                                  


「  そんなとき、わたしは、
  『 文字がここへ連れて来た 』と思う。 」(p242)


うん。また引用ばかりになっちゃった。
最後の引用はこの箇所。

「 自分が読みたくて、自分のために調べる。
  それを書き記すことが人生をおもしろくしてくれるし、
  自分の思い込みから解放してくれる。

  ・・・・・・
  学ぶということ以上の幸せなんてないと、わたしは思う。 」(p247)
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老典座は大笑いし。

2023-06-01 | 短文紹介
司馬遼太郎著「街道をゆく19 中国・江南のみち」(朝日新聞社ワイド版)
の目次をひらくと、その最後は『天童山』とあります。
そこに、須田剋太画伯との会話がありました。

「 『道元も、このようにして海から甬江に入ってきたのですね』
 道元好きの須田画伯は、鎌倉時代の日本の航洋船に乗って
 三江口をめざしているような表情で言われた。

  『 あすは、いよいよ天童山ですね 』
 とも念を押された。画伯は・・昭和20年代に道元の思想を読む
 ことによって独自の抽象画論を構築されたひとである。

 それだけに、道元の思想的成立の大きな契機をなした
 当時の天童山――とくにそこに住した如浄の禅風の故地――
 には、当然ながら関心がつよい。 」( p372 )

「天童山は、鎌倉の道元のころから伽藍が巨大で、
 他の高楼、殿舎が多かった。・・・

 建物の造形は装飾性がすくなく、簡潔で、1922年の来訪者である
 常磐大定博士も、このことに感じ入り、
 『 我が禅院を彷彿せしめる 』といっている。 」( p377 )

『天童山』の最後のページに、また須田画伯を登場させておりました。

「・・・・須田画伯は、生家にもどった童子のようであった。

 一楼があり、階段をのぼりつめると、
 西洋のベルのようなチューリップ型の梵鐘があった。
 鳴らすには、撞木で撞くのではなく、
 長い柄のついた木槌のようなもので鐘を打つのである。

 『 撞きませんか 』と、中国側の人がいったとき、

 いつもみずから前へ出ることをしない画伯が、めずらしく大木槌を持ち、
 餅つきのようにふりかぶったと思うと、激しく打った。

 鐘はぶじ鳴ったが、画伯はひびきわたる梵音響流(ぼんのんこうる)
 のなかで、いつまでも噛みつきそうな貌(かお)をしていた。 」(p380)

こうして、画伯の姿でしめくくられたおりました。

もっとも、その前に、司馬さんは道元をちゃんと語っておりました。
そこも引用しないと、中途半端な感じでしょうか。
それは、四川省からの類推から語られておりました。
はい。最後にその箇所を引用しておかなければ。

「天王殿の前で、黄衣の老僧に出逢った。副住職の永通法師である。
 40年あまりこの寺にいるという。うまれをきくと、
 
 『 四川省 』と、みじかく言った。
 私は、道元のことを思いあわせた。

 道元が、天童山に入る許可がおりぬまま、寧波港に停泊中の船で
 起居していたとき、一人の老僧が、陽ざかりの道を歩いてはるか
 阿育王山から椎茸を買いにきた。・・・・

 道元24歳、老僧61歳であった。阿育王山で雲水のためにかれは
 料理をする典座(てんぞ)という役をつとめている。
 
 故郷は、西蜀(四川省)である。その故郷を離れて40年になるという。
 若い道元は、40年も修行してまだ料理番をしているのか、と驚き、
 なぜ坐禅修行に専念されないのです、とたずねた。老典座は大笑いし、

 『 外国のお若い方、あなたは本当の学問や修行が
   何であるか、まだおわかりになっていないようだ 』 といった。
   ・・・・

  道元が天童山に入って早々、この老典座がたずねてきてくれたのである。

 『 私も齢をとったから、故郷の西蜀(せいしょく)に帰る。
   うわさに、あなたがこの天童山にいるときいてやってきたのだ 』

 と、いった。道元は感激し、船中での問答をさらにくりかえすと、老典座は、

 『 料理や掃除のなかにも学問や修行がある。それどころか、全世界の
   現象のすべてが真理であり、かつ学問や修行の対象である 』

 といった。道元は、いわば途(みち)ですれちがった程度の
 知りあいであるこの老典座について後年感謝をくりかえし、

 『 山僧(註・自分のこと)いささか文字を知り、
   弁道を了ずることは、すなわち彼の典座の大恩なり。』(典座教訓)

 と言っている。黄衣の永道法師が四川の人であるといい、
 かつ40年修行した、ということで・・・
 
 老典座に偶然符号するように思えたのである。   」( p378~380 )
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須田剋太『街道をゆく』挿絵作品集。

2023-05-28 | 短文紹介
「 須田剋太 『街道をゆく』挿絵原画全作品集
   司馬遼太郎と歩き描いた日本・世界の風景  」第1集~第4集。

 企画・編集 社団法人近畿建設協会 ・・
 発行    社団法人近畿建築協会

という古本を手にしました。第一巻の「ごあいさつ」から

「・・・もう一つ、『街道をゆく』の魅力を形成している
 欠かせないものが、言うまでもなく須田剋太画伯の挿絵です。

 グワッシュ画を得意とした画伯の挿絵は、
 対象に迫る厳しさと、才気溢れる大胆かつ鋭い筆づかいで、
 独創的な絵画世界を形成しています。

 社寺、城跡、漁港、市街地、石仏、人物、自然など、
 画伯が遺した膨大な挿絵をたどっていくと、私たち自身もまた、
 共に諸国の街道行脚をしているような心楽しく胸躍る気持ちになり、

 すでに見知った場所や事物でも、
 また新たな感動をもってとらえ直すことができます。・・・   」(p2)

         社団法人 近畿建設協会 理事長 宮井宏

ここに『 すでに見知った場所や事物でも・・ 』とあります。
はい。この言葉と並るように、司馬さんの文を引用しておきたくなりました。

 「 子どものころから第一級の美を 」と題して

昭和48年『少年少女世界の美術館』の宣伝カタログに
掲載された司馬さんの文の、ほとんど全部を引用してみます。

「 野や町を歩いていて、日本人の美的感覚が
  一般に戦前よりも落ちたように思う。

  私は日常、むかしはよかったという趣味は
  まったくないつもりでいるのだが、この分野ばかりはそうである。

  戦前までの日本には、室町期に確立した美学が濃厚に残っていて、
  家を建てるにも座敷をつくるにも調度を選ぶにも、  
  一般人もそれを継承していたし、大工さんたちもそれをもっていた。

  いやらしいもの、あくの強いもの、汚物のような自我で   
  あることに気づかずに自我だけを主張しているものに対し、

  室町期の美学を自然に身につけたわれわれははげしく拒絶した。
  その美学がいま衰滅し、しかも新しい天才的時代が来ぬままに
  やたら混乱している。

  少年や少女たちが、その年齢のときから美しいものにあこがれ、
  何が美しく、何が嫌悪すべきものであるかを身につけなければ、
  きっと醜悪なものの中で平然としている人生を送るにちがいない。

  美の訓練は、知恵のできた大人になってからでは遅いらしい。
  子どものころから第一級の美しさを見馴れてしまうように
  しなければだめなものらしい。・・・           」

    ( p143~144 「司馬遼太郎が考えたこと 7」新潮文庫 )


ちなみに、1971年(昭和46)の1月1日号より、
『街道をゆく』が、はじまっていたのでした。


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