和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

海を持っている。

2007-06-30 | Weblog
「海を持っている」というイメージが、夏にはいいですね。
ということで、そのイメージまでたどりつけますように。
読書と海というイメージも夏にはもってこいです。

では、はじめます。
高島俊男著「座右の名文」(文春新書)の「まえがき」が魅力なのです。
そこを引用しましょう。

「毎日ねころんで本をよみちらす。これが、ここ十数年来のわが生活である。
・・・通常毎日十冊以上はよむ。そのかわり、一つの本をおしまいまで通してよむことはめったにない。まあ五十冊に一冊くらいかな?それとも百冊に一冊くらいか。とにかく、ごくすくない。たいがいは途中でやめる。はやいのは一ページか二ページでほうり出す。毎日十冊以上ときいてびっくりするにはおよびません。あわせて一冊分にもならないのだから。」

ここまで読んだ私は、ホッしたのでした。
そうなんだよなあ。そんなのありなのだ。
こう語ってもらって安心するのでした。
いままで、こう語ってくれる人がいなかった。
語られれば「なあんだ」という呆気なさなのに、どなたからも聞かなかった。
そういう、私にとっての魅力的なフレーズです。
そのあとには、こう続くのでした。

「本の種類は多種多様である。とりとめない。しからばわが本のよみかたは、あてどなく大海をただよう小舟のごときものかといえば、かならずしもそうでない。根拠地はあるのである。しばらくあれこれとよみちらしの漂流がつづくと、ほっといてもおのずからまた根拠地にもどる。ここにもどれば安心なのである。しばらくはここであそんで、またよみちらしの漂流へと出てゆく。根拠地で待っているのは、本というより、人である。その人たちの本をよめば、かならずおもしろいのである。」

ああ、ここが私と違うのだ(こうして、つい自分と比較してしまう不遜)。私には漂流のあとの根拠地が、霞んでいるままなのでした。高島俊男さんはその後に十人の名前をあげてから、こう書いております。

「上に『かならずおもしろい』と言ったが、それは、この人たちの書いたものはどれもこれもみなおもしろいというわけではない。無論駄作もあれば愚作もある。ながいなじみだからそれはわかっているのである。」

「ながいなじみだからそれはわかっている」という馴染みを私はもっていないことに、いやおうなく思い当たるわけです。

そういえば、高島さんの十人のなかには森鴎外と夏目漱石とが登場します。
その二人を語って印象深い対談があったことを思い出します。
それは、古井由吉・齋藤孝の対談。
「文学界」2002年3月号の特集「日本語の埋蔵量」の中での対談でした。
そこから引用します。

【齋藤】・・調子が悪くなったときに、ほかの誰かの文章・・・を読むことで感覚を取り戻すことができる、言ってみれば文章を整えるために読むようなものはありますか。

【古井】それはさすがに漱石ですね。鴎外だとちょっとまねができないから。漱石だと狂いを正してくれる。例えばピアニストがちょっと自分の弾き方に疑問を持つと、バッハの平均律を弾くんですって。・・・現代の口語文でしょう。たかだか百年の歴史しかないものなんです。ほんとうにいい型というのは、まだできていないと見るべきなんです。ところがその口語文が発生したほんの初期に、文語文の教養を持った作家たちが一番完成されたものを書いている。だから明治の人の文章が一番ふさわしいのかなあ。漱石や鴎外、あるいは永井荷風か。・・・近代の口語文に関しては、平均律の代わりになるものはないと思ったほうがいいでしょうね。だから近代以前のものを読んで、その力を浴びる。・・・



「その力を浴びる」という言葉がでてきますけれど、
高島俊男著「座右の名文」に出てくる十人の「ながいなじみ」を語る語り口。その「なじみ」と「浴びる」とが私には同じに見えてくるのです。そうすると、「近代以前のもの」を高島さんはどう馴染んでおられたのか?どうその力を浴びていたのか?
その興味を持って、あらためて十人の顔ぶれを眺め回すのです。
新井白石、本居宣長、森鴎外、内藤湖南、夏目漱石、幸田露伴、津田左右吉、柳田國男、寺田寅彦、斎藤茂吉(生年順)。

高島さんは夏目漱石の箇所で、「坊ちゃん」をテーマに取り上げておりました。
古井さんの「平均律の代わり」となる漱石。その「坊ちゃん」に微妙な狂いを聞き分けている高島俊男がいるのです。
そして高島さんは「坊ちゃん」をどのように弾けばよいかを明示するのでした。
「だから、『坊ちゃん』は、『探偵』に苦しめられる主人公をえがいた『探偵』小説であり、その苦痛から主人公をまるごと救いとってくれる女神との『愛』の物語である、というのである。」(p114)

カギカッコの「探偵」がどのような意味をもつかは読んでのお楽しみなのですが、ここで思い至るのは高島さんが「平均律の代わり」としての「坊ちゃん」の、その微妙な音程の箇所を指摘していることです。この新書で、あえて作品「坊ちゃん」に焦点をあてているのが私には魅力に思えるのですがいかがでしょう。

話はかわるのですが、高島さんのお話の中で幸田露伴の箇所にこんなのがあります。

「本居宣長もずいぶん頭のいい、ものおぼえのいい人であったが、その宣長でもこんなことを書いている。――あることばをさがすのに、たしかこの本にあった、ということまではわかるのに、どこに書いてあったのかがわからなくて困る。かといって、その書物をはじめからしまいまで全部見なおすなどというのはできない相談だから、そこかここかと見当をつけてさがし、けれどとうとう見つからなくて、くやしい思いをすることがある、と。露伴のばあいには、どうもそういうことはなく、『このことばは、この本のこのあたりにあった』ということは頭のなかの写真をさがせばパッと見つかる、というぐあいになっていたらしい。」(p116)

この「写真」とつながるような感じをうける言葉を、古井由吉さんの先の対談でみつけました。

【古井】それから、理解しなきゃいけないというほかに、忘れてはいけないという、この強迫観念もいけないね。忘れては思い出し、忘れては思い出して深まってくるんだ。

【齋藤】身体のどこかに残っている、というぐらいの感触でよしとしないと。

【古井】・・・大体知識なんか、その都度必要なときにつかまえてくるもんだ。魚にたとえれば、自分の中に海を持っていることが大事で、獲った魚をすべて手もとに蓄えておけるわけがない。


2007年の今年の夏は、
「自分の中に海を持っていること」という言葉を反芻しながら過ごせたら。
と、そんなことを、思うのでした。
といっても、こうして書き込んだ次の日から、もう忘れているのですけれど(笑)。





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「ああ、そうか」。

2007-06-29 | Weblog
読売新聞2007年6月24日の一面(二面に続く)に「地球を読む」が掲載されており、その日は岡崎久彦氏が書いておりました。題して「世代論」。とりあえずは、この新聞の岡崎氏の文の最後はと言いますと、これは身近で若い世代についての肝心な箇所ですから、丁寧に引用しておきましょう。

「・・戦後教育第一世代は、戦後思想で固まっているが、この第二世代となると、話すと『ああ、そうか』と考え直す柔軟性があると言う。その中でも、さらに、1970年生まれを境として、大学卒業、就職時にバブル期だったか、日本が自信を失ったバブル崩壊後だったかの二つの世代に分かれる。その後は、20代前半以下である。左翼史観、自虐史観の全面的な衰退期に教育を受け、大学卒業時に経済回復期に巡り合った新しい世代である。日本という国の良さも論じられる時代になった。国家の品格といい、美しい国というのもその余裕の表れである。もはや高度成長やバブルで浮ついていない一方、日本という国家、民族について自信を回復した新しい世代と考えて、将来に期待したい。ただ、そのまた下20歳以下には、ゆとり教育で薄っぺらな教科書で育った世代があり、その知識、能力には問題があるという。ゆとり教育も戦後左翼思想の影響である。いつまで戦後が続くのであろうか、もうこれで終止符を打って欲しいと思う。」

こうして、区分をさかのぼると、
明治生まれの戦前世代。94歳以上。
次は、81歳から94歳までの大正生まれの世代。
現在73歳から81歳までの昭和一桁生まれの世代。
57歳から72歳までを戦後教育第一世代。
次の区分が面白い解釈となる、40歳前後から56歳まで、
「私は戦前教育の第二世代と呼んでいる。大学に入った時は政治的に無風時代であり、一種の空白が生じた時代であるが、思想に空白と言うことはあり得ない。家庭や教師の影響はある。そして、この世代の特徴は両親の少なくとも片方は戦前教育を受けた最後の世代であるということである。その意味で、その直後の、親も子も戦後教育しか知らない世代と区別したのである。ただ、親の年には幅があるので、下限を40歳前後とした。この世代に、安部総理を含む、今後の日本を背負う人々が多くいる。ちなみに、ドイツのメルケル首相は安部総理と同い年、サルコジ大統領は、一歳下である。・・・」
その次は40歳前後から20代半ばまで。「親も子も戦前教育から断絶した世代として、試みに戦後第二世代と呼ぶ・・・」
このように見事な区分をしております。

もっともこの文の始まりを、岡崎久彦氏は、慎重にしておりまして、こうはじめておりました。

「世代論というのは往々礼を失することになる。人間は、一人ひとり、生まれも育ちも、個人の思想も異なる。それを十把ひとからげにして、世代別に分類するのだから失礼な話である。」

もっともなのですが、丁寧過ぎて、新聞の文章としては
これじゃ、内容を読まずに他の記事へと目移りしてしまいそうです。
それじゃ、岡崎氏はどの世代に属するのか?
思い浮かぶのは渡部昇一氏と岡崎久彦氏の対談です。
「賢者は歴史に学ぶ」が改題され「尊敬される国民 品格ある国家」(WAC)。
その「対談を終えて」は岡崎氏が書いておりました。そこに
「渡部昇一氏と私は昭和五年生まれの同年である。われわれが育った時代は戦前、戦中、戦後の激動期であり、それぞれ個人の生活体験は360度異なる広がりを持つので一般論は言えない。しかし、一つだけ共通と言えるのは、青春時代の始まりである15歳の時に、敗戦を迎え、自分たちが生まれ育った社会環境が足許から地響きを立てて崩れ、それまでの価値観がすべて失われた絶対的な空白期を体験していることである。そしてその空白の中に、マルクス史観、占領軍史観が入りこみ、日教組教育が、小・中・高校教育に浸透し定着する1950年代の前に、20歳までの思想形成期を過ごしている点も共通である。一つ上の世代の兵隊教育も受けていないし、下の世代の日教組教育も受けていない。自分の読む物は自分で選ばなければならなかった時代である。」

ちなみに、岡崎氏の新聞の「世代論」の最後の方に。

「以上全くの試論であるが、これをもう少し精緻に仕上げれば、政治動向分析にも使えるかもしれない。一例として、今の世論調査分析は10年ごとに区切っていて・・」とありました。

10年といえば、岡崎久彦・渡部昇一対談「明治の教訓・日本の気骨」(到知出版社)に勝海舟のことが出てきます。渡部氏が語っておりました。

「昔、子供のころに『キング』か何かで読んだことですが、勝は、問題があったら首を伸ばしなさいと言うんです。首を伸ばして目の前のことじゃなくて十年先のことを考える。だいたい人間の批評も十年で一変するものだと、十年一変説を唱えているんですね。だから勝にとっては、現時点の敵味方など関係ない。十年先の日本を見通して、そのときに何が必要なのかを常に考えて行動していたのだと思います」

世代論というのは、どうやら勝海舟の言うところの「首を伸ばして・・十年先のことを考える」ための試論といいかえてもよさそうです。

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漱石の夏。

2007-06-27 | Weblog
高島俊男著「漱石の夏やすみ」が、ちくま文庫に入りました。
今年は、ポケットに「漱石の夏」を気軽に入れてみたりできます。
その同じ、ちくま文庫に「水曜日は狐の書評」がある。
そこで「漱石の夏やすみ」を評しております。いわく
「心地よい。書くべき人と書かれるべきテーマとが百に一つの幸運な出会いをすると、こんな傑作が生まれるという好例だろう」。
ちなみに、文春文庫の高島俊男著「本が好き、悪口言うのはもっと好き」には、書評十番勝負という章がありまして、そこに「狐の書評」をとりあげ題して「かかりつけの書評家を持つ幸せ」として書いておりました。

その最後には「これらの本が皆あなたにとっておもしろいとは、保証しかねる。しかし、それらについて語った狐さんの文章がおもしろいことは、保証する。つまりこれは、狐さんがその姿は隠しながら、本を語るに借りてみずからの趣味と主張とを、つまりはその心を語った本なのである」とありました。

高島俊男著「座右の名文」が先頃文春新書で出ました。
ここにも、夏目漱石が登場します。
ここで、高島さんは、漱石の『坊ちゃん』を持ってきて、語るのです。
もし狐さんが読んだら、どんな感想を書いただろうなあ。
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漱石の夏。

2007-06-26 | Weblog
本が思い浮かぶのですが、書くのがめんどうだなあ。
と思うので、とりあえず本を並べて。

高島俊男著「座右の名文」(文春新書)
「文学界」2002年3月号
高島俊男著「漱石の夏やすみ」(ちくま文庫)
高島俊男著「本が好き、悪口言うのはもっと好き」(文春文庫)
「水曜日は狐の書評」(ちくま文庫)

とりあえず。題名と参考文献のページ。
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世界が滅びる日に。

2007-06-25 | 詩歌
産経新聞2007年6月22日。第二社会面に【エルサレム=共同】とありこんな記事が載っておりました。
「『早ければ2060年に世界の終末が来る』――。AP通信によると、英国の数学・物理学者のアイザック・ニュートン(1642~1727年)が旧約聖書を読解した上でこう予言、文書に記していたことが21日までに分かった。文書は1700年代初頭に書かれ・・・1969年以降はエルサレムにあるヘブライ大学図書館が保管し、18日から公開されている。ニュートンは、旧約聖書のダニエル書の暗号めいた表現から『2060年』を割り出し『その後に世界の終わりが来るかもしれないが、それ以前に終わる理由は見いだせない』などとしている。ニュートンは、終末の日をめぐるさまざまな憶測を決着させようと予測したとし、別の文書では、終末の日々には『邪悪な国家の滅亡、すべてのトラブルの解決』などがあるだろうと予言している。」

と以上ほとんど、記事のままに引用しました。
産経新聞には、石原慎太郎氏が一面で毎月一回「日本よ」と題して連載しています。その6月4日は「さる5月中旬、ニューヨークでの世界大都市の首長による地球温暖化対策会議に出席した」と書き始めておりました。
その日の見出しには「たとえ、地球が明日滅びるとも」とあり、中頃には、こんな箇所がありました。

「20年近く前東京で行われた、『ブラックホール蒸発理論』を発表した宇宙学者ホーキングの講演を聞いた時のことだ。筋ジストロフィという業病に侵され、すでに声が出ずに指先でコンピューターのキイを叩いての人造声で話された講演の後質問が許され、聴衆の一人が、この宇宙全体に地球のような文明を持った星が幾つほどあるのだろうかと質(ただ)したら、ホーキングは言下に『200万ほど』と答えた。その数に驚いた他の参加者が、ならばなぜ我々は実際にそうした星からの来訪者としての宇宙人や宇宙船を見ることがないのかと聞いたら、これまた言下に、『地球のような高度の文明を造り出した星は、そのせいで循環が狂ってしまい極めて不安定な状況をきたし、宇宙全体の時間からすればほとんど瞬間に近い速度で自滅するからだ』と答えたものだった。そしてその、宇宙を覆う膨大な時間帯からして瞬間に近い時間とは、地球時間にしてどれほどのものかという問いに彼は眉をひそめ、『まあ、100年ほどか』といっていた。」

2060年まで、50年ほどになっているわけですが、どうしたものか?
ということで、30年。20年。
思い浮かんだのは天野忠の詩「終末図」でした。


  三十年ほどあとには
  産業廃棄物にくるまって
  人類は滅亡するしかないだろう云々・・・・。
  テレビで
  大学の先生が四角い顔をして喋った。
  三十年ほどすると
  このわしは百才に近い年令になる
  とてもの話それまでは生きておれん
  二十年にしてくれんかなあと思う。
  せめて二十年
  二十年なら八十六才だ
  なんとか頑張る
  そしたらこの眼でしかと
  この世の終末図を見られる寸法だ。
  二十年にしてくれんかなあ
  糞ッ
  あと二十年・・・・。



ちなみに石原慎太郎氏の文章は最後を、こう終わらせておりました。

「いつだったかどこかの居酒屋で色の変わった古い色紙に記された、同世代の作家だった開高健の言葉を目にし心を打たれたことがある。調べたら東欧の詩人ゲオルグの詩の一節だった。『たとえ地球が明日滅びるとも、君は今日リンゴの木を植える』と。・・・・彼が共感して記した人間のその志について、私はニューヨークでのスピーチに世界中から集まった仲間に改めて取りついだものだったが。」


そういえば、石原慎太郎じゃなく、石原吉郎の詩に「世界がほろびる日に」というのがありました。

   世界がほろびる日に
   かぜをひくな
   ビールスに気をつけろ
   ベランダに
   ふとんを干しておけ
   ガスの元栓を忘れるな
   電気釜は
   八時に仕掛けておけ

思潮社の現代詩文庫120「続・石原吉郎詩集」には表紙に、この詩が書き込んでありました。石原吉郎氏は、1915年に生まれています。応召されて軍隊経験があり、その後シベリアの強制収容所に8年間抑留されていたのでした。詩「世界がほろびる日に」は、そうしたご自身の背景がそのままに伺えそうな気がしてきます。私には、まるで信頼されている指導教官が下す命令口調を感じるのでした。
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津田左右吉?

2007-06-23 | Weblog
谷沢・渡部対談「人生は一生学ぶことができる」(PHP)で、
岩波文庫「津田左右吉歴史論集」にはぶかれた大事な論文が二つあると、谷沢永一さんの指摘がありました。
そのひとつが「支那の史といふもの」。
もうひとつが「アジアは一つではない」。

こう語っておりました。
「『支那の史といふもの』で津田は、シナには民族がない、民族の歴史を持たないシナ人に世界史の観念がないのは当たり前である、世界史の観念のないシナ人に民族の観念が生じなかったのもまた当たり前であると言わなければならない、と指摘しました。同時に、シナの歴史には根拠なり出所なりを示していないということを注意せられよとも言っています。」(p172)

それでは、それはどの本で読めるかというと、「支那の史といふもの」は
「津田左右吉全集」(岩波書店)の第二十巻に収録されているようです。
ということで、全集本をバラ売りしてる古本屋さんに注文を出しております。
それと、「アジアは一つではない」という論文は、全集の第二十八巻にあります。

ところで、高島俊男著「座右の名文」(文春新書)の津田左右吉の箇所に
「だいたいこの人はしつこいところがある。自分が書いた本でも、刷りあがってくるとすぐに手を入れはじめる。あっちをなおしこっちをかえ、ここはちょっと研究が足りなかった、とやる。あたらしい事実がわかったり、自分の解釈がわかってきたりすれば、すぐさま訂正する。戦後になってからこうして改訂版をいくつも出版した。『国民思想の研究』のその一つだ。当人としては、もちろんあとから出したほうがいい出来だと思っている。しかし客観的にみると、わかいころのほうが断然おもしろい。文章のキレがよい。・・・・人間年をとりたくはないもので、七十いくつになってから出した本は、慎重になりすぎて文章に力がなくていけない。」(p137)

さてっと、全集の論文にも手が入っているのでしょうか?
ちなみに、「津田左右吉全集」第二十巻には、「支那の史といふもの」の他に、岩波新書の一冊となった「支那思想と日本」も入っているとあります。そう高島俊男さんが「ぼくが生涯最大の影響をうけた本」という『支那思想と日本』が入っている巻。
そうそう、高島俊男さんは「津田左右吉の日記は・・どこもおもしろい」(p151)と語っているのですが、「津田左右吉全集」の日記はというと、第二十五巻・第二十六巻の二冊。

以上私が興味を持った全集本のチェックリスト。
記録しておけば、忘れた時にまた確認できる。
まんざら無駄にはならないでしょう。

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「好きです」の新鮮。

2007-06-19 | Weblog
高島俊男著「座右の名文」(文春新書)が魅力です。
「好きです」と、本・人を語り始める鮮やかさ、すばらしさ。
こりゃ紹介するにこしたことはないでしょう。
「ぼくは内藤湖南がすきです。頭のいい人であり、学問ができる人であり、また書いたものはみなおもしろい」(p88)
「ぼくは津田左右吉が大すきです。すきということでは斎藤茂吉と双璧といえる。ただこの二人、性格がまるでちがう」(p135)
「元来ぼくは、柳田國男の文章とはあまり相性がよくない。しかし、『遠野物語』だけは別だ。近代文語文の最もすぐれた文章であり、卓越した文学作品であると思っている。手もとには、なんべんも読みかえしてぼろぼろになった『遠野物語』がある」(p159)
こうして柳田國男の『遠野物語』をとりあげたかと思えば、寺田寅彦では「この人の書いたものはどれを読んでもおもしろい」(p191)とあります。「もし、日本の文学者のなかでだれが一番すきか、と問われたら、ウームとしばし考えて『斎藤茂吉』とこたえるでしょうね、多分。茂吉のなにがすきなのか、といえば、その人物がすきなのである」(p199)

さてさて、この新書の核は「まえがき」にあり。
この10㌻ほどの「まえがき」を、丁寧に読めばそれでOK。
その「核」を種として、育った新書。桃栗は三年ですが、この新書は三年半。
いきさつを知りたい方は「あとがき」に詳細が語られております。
ことほどさように、「まえがき」「あとがき」がしめる位置の確かさ。
その確かさに、楽しさが充満している醍醐味があるのです。
それを、ちょびちょびと削っては紹介するのがもったいない。
勿体ないけれども、ここで終らせるにはしのびない。
ということで「まえがき」のエッセンス、
これだけは、ひとりひとりが読んでのお楽しみ。
ということにしておきます。

新井白石についてでは「『西洋紀聞』という本がある。白石がのこした多くの書物のなかでも最もおもしろい、感動的なものだ」(p24)
本居宣長の最後では「もちろんぼくも、宣長の思想に共鳴するものではない。しかし『玉勝間』という書物、これは・・宣長が年をとって、学問が熟して、まことにおだやかな、常識的な、たいがいのところは筋のとおったことが書いてあって、たいへんにおもしろい。そのへんが、ぼくはすきなのである」(p58)
この新井白石・本居宣長の二人は、つながっていっしょに読んでみると興味深いのでした。
また森鴎外を語るのに向田邦子の文からはじめております。ここの家族との接し方が夏目漱石の家庭への伏線になっておりました。幸田露伴の箇所はまるで高島俊男ご自身を解剖してゆくような雰囲気がただよいます。
そういえば「あとがき」は、「この本は、ぼくにとって初めての、しゃべってつくった本である」とはじまっておりました。そこにこんな箇所がありました。

「2004年いっぱい、ぼくが東京へ行くたびに五反田のアパートへ来てもらって、二人を相手に、しゃべりにしゃべった。録音はどんどんたまったが、これがどうにも文章にまとまるしろものではなかったらしい。たとえば露伴についてしゃべるとなると、話を聞いてくれる人がいるのをいいことに、露伴に関することならなんでもかんでも、とりとめもなく野放図にしゃべったからである。・・録音は、しゃべるにかけたと同じだけの時間をかけて聞くよりしょうがない。そのしゃべりの内容は、脈絡なく、あっちへとんだりこっちへとんだりである。・・結局一年あまりしゃべって、録音の山ができて、計画は挫折してしまった。しばらくはそれっきりになっていた・・・」(p220)

今回はこれくらいにしておきます。
というか、この魅力ある新書の紹介は、ここで挫折。

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朝日新聞出版広告。

2007-06-16 | 朝日新聞
永江朗著「不良のための読書術」(ちくま文庫)を、古本で買ったので、パラパラとめくっておりました。スラスラと読める分かりやすさがありまして、ちょっと気にしないとサラサラと読む先から忘れていってしまいそうな、おかしな感じを抱きます。とりあえず、お気に入りの箇所がありましたのでご紹介。
「それでもやっぱり朝日新聞」(p60~62)という文。ちょうど2ページほどの文なのですが、「ぼくは朝日新聞の大ファンである。」とはじまります。その滑り出しは引用しておきましょう。
「ぼくは朝日新聞の大ファンである。朝日新聞ほど出版広告が充実した新聞はほかにないからである。出版広告といしいひさいちの漫画だけが朝日新聞のとりえだ。いちど他の新聞に変えたことがあったけれども、出版広告が少なくて困った。」
ちなみに、単行本は1997年に発売とありますから、ちょうど10年前に書かれた文なのでした。いまも永江さん朝日新聞を購読してるのかなあ。
というのも、最後の言葉が気になるからでした。
「そんなこんなで、朝日新聞のファンは多い。どうせなら政治や経済の記事は毎日新聞や日経新聞にまかせて、朝日新聞は出版広告だけを載せるようにしてくれると、ぼくにはたいへんありがたいのだけれども。」
出版広告の朝日新聞という視点。
そういえば、永江さんは編集者からフリーライターへと移られたかたでした。
そこに「正しい朝日新聞の読み方」も書かれております。
「新聞における出版広告の王道は三八というものである『さんやつ』と読む。第一面の下の部分だ。」「まずこの三八の書籍・雑誌の広告を読む。そして二面、三面へとページを繰りながら、主に新聞の下半分を見る。二面以降には全五、半五の大型広告がつまっているからだ。三八には硬くて少部数の本や専門的な雑誌の広告が多く、全五、半五の広告は週刊誌や月刊誌、大手出版社の新刊やベストセラーの広告が載る傾向がある。」


ここで、思い浮かぶのは石原千秋著「大学生の論文執筆法」(ちくま新書)でした。

「文科系の研究者の世界では、『鉄のトライアングル』があるようだ。『東大、朝日新聞、岩波書店』である。これらを結びつけているのは共産党、あるいは少し古い左翼思想である。たとえば、『朝日新聞』に登場するのは圧倒的に東大教授と東大出身者が多い。この『鉄のトライアングル』が日本の『言論界』では『権威』となっている。それに寄りかかり、信奉するのが『権威主義』である。谷沢永一という国文学者は、『朝日新聞』のステイタスを決めているのは記事ではなく、朝刊の第一面の下に掲載されている本の『三八広告』だ、という面白いことを言っている。『三八広告」という呼び方は、活字三段分のスペースを八つに区切ったところから来ている。そこに、文科系の専門的な書籍の広告が載るのは『朝日新聞』しかない。・・・『朝日新聞』をやたらと批判する保守系の出版社の編集者でさえ、『「朝日新聞」に広告を出したときが一番本が売れる』と言うのだから、出版文化における『朝日新聞』の力は絶大である。そして岩波書店は、その『朝日新聞』の『三八広告』欄では、必ず一番右端の特等席を占めるのである。『鉄のトライアングル』たるゆえんだ。もちろん、東大教授にとって岩波書店は特別な出版社だ。ほかの出版社の編集者が東大教授に執筆の依頼に行くと、『私は岩波書店からしか、本は出しません』と言われたというような話は、ごろごろ転がっている。・・・」(p125~127)

内容は別で最初の言葉、永井朗の「ぼくは朝日新聞の大ファンである」。
石原千秋の指摘、東大・朝日新聞・岩波書店と3つの「鉄のトライアングル」。
これをどうクリアする?
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案の定。

2007-06-13 | Weblog
ちょうど、2冊の本で津田左右吉の名前が出ていたのでした。

一冊は対談「人間は一生学ぶことができる」(PHP)
もう一冊は、高島俊男著「座右の名文」(文春新書)。

それでは一冊目から
【谷沢】チャイナの古典に惑わされないという根幹を最初に定式化したのが、津田左右吉でした。・・・「支那の史といふもの」で津田は、シナには民族がない、民族の歴史を持たないシナ人に世界史の観念がないのは当たり前である、世界史の観念のないシナ人に民族の観念が生じなかったのもまた当たり前であると言わねばならない、と指摘しました。同時に、シナの歴史には根拠なり出所なりを示していないということを注意せられよとも言っています。
ちなみに、津田左右吉が歴史について書いた論文を集めた「津田左右吉歴史論集」という文庫本が岩波文庫から出ました。その広告を見るなり注文したら、案の定、「支那の史といふもの」と、もう一つ大事な論文の「アジアは一つではない」という二つがきれいに抜いてありました。それを除くことによって、出版社としての姿勢を北京政府に明示したのでしょう。

この谷沢永一さんに応えるように渡部昇一さんが語っております。
【渡部】岩波文庫の「紫禁城の黄昏」で虫食ったように記述を省いたのと同じですね。それは書評するに足ります。・・・・

ここでは、「書評するに足る」とはこういうことなのだ。という指摘でした。

さてもう一冊は高島俊男さんの新書。こちらは10名が登場しております。
新井白石・本居宣長・森鴎外・内藤湖南・夏目漱石・幸田露伴・津田左右吉・柳田國男・寺田寅彦・斎藤茂吉(生年順)。私などはこの新書の「まえがき」「あとがき」だけで満腹してしまっております。ちょいとスラスラ読むのが、もったいない一冊(というか、その内のまだ2~3名しか読んでいないのでした)。
ということで、とりあえず津田左右吉の箇所。

その津田左右吉の箇所は副題に「処世のへたな独歩の人」とあります。
はじまりは「ぼくは津田左右吉が大すきです。・・・」。
こんな箇所もあります。
「論語に対してだけでなく、支那思想全般への敬意をもたないところが、津田左右吉の特徴でもあり、ぼくがすきなところでもある。支那人の思想は支那人の生活から生れてきたものであって、生活基盤がちがう日本人にはなんのゆかりもないものである、と左右吉は考えた。これも、たいへんユニークです。ぼくが生涯最大の影響をうけた本、『支那思想と日本』にもこの思想がつらぬかれている。・・・津田左右吉はここでも書いているように、『東洋文化』の存在を否定する。このあたり、内藤湖南とは正反対だ。支那文化の影響を極力大きくとらえようとしたのが湖南なら、左右吉はそれをできるだけ小さく考えようとした。ぼくは二人の大学者をともにこのうえなく尊敬するが、こういう見解の相違については『どちらが絶対に正しい』ともきめがたく、なかなかに困った問題なのである。」

そして左右吉の日記にも言及しているのですが、なかなかでして。
こりゃ、高島さんが好きだというわけだ。そう思える人物像が活写されております。
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「さん」付け。

2007-06-11 | Weblog
谷啓の追悼手記「植木等とのクレージーな日々」(文藝春秋7月号)で、あらためて、私に印象深かった箇所があります。それは谷啓さんが、植木等・ハナ肇に対して、どう呼びかけようかと躊躇している場面でした。

その箇所を二つとも引用しておきます。

「ぼくよりも五歳年長だったから、本当は『植木さん』と『さん』付けで呼ばないといけないのだろうが、ぼくは生来の照れ屋で、親しい人に対して、面と向かって名前を呼びかけるということができない。さすがに出会ったばかりの頃は『植木さん』と呼んでいたが、あまりに恥ずかしくて洒落で『植木屋』と言ってみたら、すっと気がラクになった。おかげさまで仲間うちでも定着したので、ぼくは最後まで『植木屋』とか『植木屋ン』で通させてもらった。」(p164)

ハナ肇についてもあるのでした。
「年齢は昭和二年生まれの植木屋の方が上なのだけれど、クレージーの方向性やしかけ的なことは、いつもハナちゃんが考えていた。実際、そういった方面のことが好きだったんだろうと思う。じつは冒頭にも書いた理由で、ぼくはハナちゃんのことも面と向かっては『ハナちゃん』と呼ぶことができなかった。本人のいないところでは『ワルガオ(悪顔)』と呼んでいたのだが、いくらなんでも当人にそう言うのは失礼だから、上唇と下唇の間に舌を挟んで『スィーッ』と吹く、妙な口笛で合図していた。ところが、人通りの多いテレビ局の通路では、すれ違いざまに合図しても、鳴りが悪かったりすると気づいてもらえない。・・・ぼくは忙しいさなかだというのに、仕方なく先回りして待ち伏せして、来た瞬間に『スィーッ』。すると向こうも気がついて『おっ、谷啓』。じつに苦労したものだ。」(p167)


名を呼ぶということは、日本文化としては(大袈裟かなあ)、奥が深そうな問題なのでした。すぐに、関連して私に思い浮かぶのは2冊あります。

一冊は、司馬遼太郎著「ひとびとの跫音(あしおと)」(中央公論社・中公文庫)
二冊目は、板坂元著「日本人の論理構造」(講談社現代新書・古本)

「ひとびとの跫音」には「タカジという名」と題した章に、あります。
そこにこんな箇所があったのでした。

「かれは旧憲法の時代に思想犯として牢屋にいた。
昭和九年から敗戦の年までという十二年間で、明治36年(1903)うまれのかれとしては、三十代から四十代初期までという人生のもっとも重要な時期に、社会から隔てられていたということになる。筆者は、刑務所を知らない。かれが生前語っていたことによると、これほど物を考えることだけが無限に自由な場所はない、ということであった。ある日、かれは人間の個々につけられた名前について考えた。とくにロシアをふくめた西洋の習慣のなかで、友人になればたがいに姓をよばずに名をよびあうという一点について、錐でもみこむように考えぬいた。そうあるべきものではないか、という結論に達した。以下は十分傍証のあることだが、・・・・のち、かれは私に・・・『呼び名だけでよびあうと、はじめて会っても、それだけでじかに心が通いあえるようになるんだ』と、私にいったときも、ちょうど私の家で家事の手伝いをしている高知県出身の娘が、冷えた素麺をもってきた。この娘はタカジが好きで、自分の敬愛の心をあらわしたいために平素以上に茶目になっていた。食器を置いて出てゆこうとする娘をタカジはよびとめて、『君のお父さんやお母さんは、君をどういう名でよんでいる』『はいっ、マサミであります』と、ジーパンで直立不動の姿勢をとった。『じゃ、おれはこれからマサミとよぶよ。おれのことをタカジとよんでくれ』といった。しかしこの娘はその後も、祖父のような齢の相手をつかまえてよびすてで名をよぶことははばかり、かれが死ぬまで、ぬやまさんとか、ぬやま先生などとよんでいた。かれにいわせればこの種の気づかいは古き律令官僚制の残滓ということであったろう。ついでながら、かれの筆名は、ぬやま・ひろしで、本名は西沢隆二である。」(単行本。上巻p109~110)

引用ばかりでなんですが、もう一冊の板坂元著「日本人の論理構造」から

「・・万葉集の冒頭の雄略天皇の長歌に『家聞かな名のらせね』と相手の女の名前をたずねる表現があるが、あれは恋歌であって、もし女がそれに応じて自分の名前を相手に教えれば、それは相手の求愛を受け容れることを意味した。そういう慣習の上に立った表現である。レヴィ・ブリュ―ルによれば未開社会では他人の名前を口にすることはその名前の持ち主に直接手を触れることと同じであり、あるいはその人を攻撃し危害を加えたり、その人の出現を強いたりするといった危険を招来する行ないであった。いわんや神の名を口にすることは、きわめて慎重に行なわなければならなかったのである。『さわらぬ神にたたりなし』という、今では比喩的にしか使われない言葉は、大昔は字義通りのものとして通用していたのである。」(p10)


谷啓さんが植木等を追悼する、その最初に、呼びかけの言葉をもってきているのが、あまりに印象深かった。あらためてもう一度、谷さんの言葉。

「さすがに出会ったばかりの頃は『植木さん』と呼んでいたが、あまりに恥ずかしくて洒落で『植木屋』と言ってみたら、すっと気がラクになった。・・ぼくは最後まで『植木屋』とか『植木屋ン』で通させてもらった」。

そして、この五十年の歳月を振り返る谷啓さんは、
追悼手記でも、つねに『植木屋』と語っているのが印象的なのでした。
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意外と谷啓。

2007-06-10 | Weblog
文藝春秋2007年7月号が出たところです。
ここに、谷啓さんによる追悼手記「植木等とのクレージーな日々」が掲載されておりました。ちょうど10ページほどの文。谷啓さんの人となりと、植木等との結びつきがスーッと飲み込めて、すんなりと納得。お互いの個性をカラッと振り返り、思い出の詰まった手記になっておりました。読んでよかった。

ところで、小林信彦著「日本の喜劇人」(新潮文庫)の、第七章はクレージー・キャッツを紹介しておりました。小林信彦さんは「異才・谷啓」(p165)と書き、そして「私は谷啓のファンだった」(p183)と書いております。

追悼手記は読んでのお楽しみなのですが、一箇所ぐらいは紹介しておきましょう。それは、クレージー・キャッツ結成前のことでした。谷啓と植木等は「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」で知り合いになります。

「ほどなくフランキーさんは日活の専属俳優になり、バンドどころではなくなってしまった。残った僕らはダンスミュージックばかりやらされて、ステージで面白いことをやろうという雰囲気ではなかった。意気消沈するぼくに、『よし、じゃあ俺の友達でおなじようなことをやりたがっている奴がいるから』と植木屋が紹介してくれたのが、ハナちゃんだった。・・・しかし、噂を聞きつけたスリッカーズのマネージャーが『ハナのところへ行ったら、業界で仕事ができないようにしてやるぞ』と、ぼくら二人を脅かしにきたのだ。単細胞のぼくは頭にきて『冗談じゃない。上等じゃねえか』と啖呵をきって、次の日が給料日だったのに、そのまま二度とスリッカーズには行かなかった。ところが一方の植木屋は、スリッカーズのマネージャーとは『向こうに行かねえだろうな』『ああ行きませんよ』という会話をしつつ、ハナちゃんの『おまえ、いつになったら来るんだ』という質問には『来月、来月』と答え続けている。結局、移籍してきたのは一年後だった。いかにも植木屋らしい話だ。たしかに二人して辞めたら、スリッカーズには大迷惑がかかる。植木屋は感情に走らず、大人の選択をしたのだと思う。こっちはまだまだガキだった。でも後年、植木屋はこのときのことを『谷啓って、意外と男っぽいんだよ。なんてったって明日給料日なのに、スパッと辞めちゃうんだから・・・』と語っていたらしい。」(p168)

それからあとの追悼手記は、意外な谷啓のオンパレード。
あとは読んでのお楽しみ。つまり植木等を追悼するということは、
ひとえに、ご自分を振り返ることだった。そんな交際の手記になっており。
谷啓自身との結びつきを、改めてたどりなおすという内容なのでした。
そして、読みおえると、カラッとした演奏を聞いたような後味。
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奇跡みたいなもの。

2007-06-09 | Weblog
藤田青銅著「ラジオな日々」(小学館)は、たのしくていろいろと思うのでした。
たとえば、そのひとつに「テーブル」が、あらてめて印象に残ります。

その頃の時代はどうだったか。
「わずか二十数年前ながらパソコンやメールはおろか、FAXもない時代」(p108)。
そこで脚本の若手作家は、締切日に放送局に残って書き上げているのでした。
その場所が描かれております。ニッポン放送三階のロビーにある小さな喫茶室。通称「3ロビ」を丁寧に、その頃のこととして紹介しておりました。

「3ロビは、お世辞にもシャレた喫茶室とはいえなかった。無骨な大きなテーブルがどーん、どーんと置かれていて『飲物が注文できる打ち合わせスペース』という程度の場所だ。ところがそれが、大いによかったのだ。ぼくたち新人作家にとっては。」(p106)
「3ロビは、店を閉めた夕方以降オープンなスペースとなる。すると、大きなテーブルが原稿書きにピッタリなのだ。ウエイトレスは帰ってしまうので、店に気を遣う必要はない。夜は打ち合わせに訪れる人もいない。ぼくは、喫茶店で途中まで作ったストーリーメモを持って、『なんとか今夜中にここで書いてしまおう』と3ロビにやってくる。ところが、そう考えるのはぼくだけではなかった。・・・ドラマハウス締切日、まだ脚本ができていない若手作家たちは、切羽詰った表情でこの3ロビに流れ着くのだった。」

机や椅子の高さも出てきました。

「喫茶店だと仕事ができるのに、家で机に向かうと原稿が書けないのはどういうわけかなぁ」
「そうそう、俺もそうなんだよ」
「あのテーブルと、椅子の高さってのがちょうどいいんじゃないかな?」
なんて、作家同士で話し合う。
「実はぼく、メジャーを持って行って、こっそり計ってみたんだ。何センチがいいのかって」
「あッ、俺もそれ、やってみたことがある!」
「椅子は四十センチぐらいの固めがいいな。テーブルは六十五~七十センチ」
「俺は、テーブルは六十センチくらいの低目が好きだな」
「いや、むしろ大切なのは、椅子とテーブルとの間の距離じゃないかと思うんだ」
・・・・・・

この3ロビの前には、「喫茶店めぐり」という作家本人でしか書けない貴重な体験が書き込まれているのでした。

こんな言葉もあります。

「1983年始め。ぼくは五本のレギュラー番組を担当していた。・・・ぼくの場合、どうしてもドラマやショートショートの依頼が多い。ストーリーのあるものは、依然として、喫茶店をハシゴして丸一日かけ、ようやく一本をあげていた。・・特番も、月に一度くらいのペースであった。また、細々とショートショートを書いて、時々雑誌に発表している。ぼくの能力ではこれで手いっぱい。深夜タクシーで帰って、とりあえず三時間ばかり寝て、翌朝早く起きて別の原稿を書く――という連日だった。まるで受験生だ。休みの日なんて、ほとんどなかった。」(p220)


「ぼくより少し先輩の放送作家は言った。
『藤井さん、特別な人脈もコネもない我々が、曲りなりにもペン一本で喰っていけるってのは、これは奇跡みたいなものなんですよ』」(p221)

この本を読み終わると、
ドン上野という名の上役がみるみると存在感をましてくるのでした。
たとえば、
「すべての仕事は、『教室での百回の講義より、一回の現場』とよく言われる。ぼくは、まさに毎週毎週、そういう実地教育を受けていたわけだ。こういう現場に放り込まれたのは、幸せなことだった」(p91)
とあり、その現場こそが、「上野学校」(p182)であり、
そして吉村達也らしき彼から、打ち上げの会でこう言われるのでした。

「面白かったよ、今日の特番」
「あ、ありがとうございます」
「あなたも含めてさ、ここにいる若い作家やADさんたちにとって一番よかったのは、なんだと思う?」
彼は業界人らしからぬ丁寧な口調で言った。
「さぁ・・・、なんでしょうか?」
「ドン・上野の下でスタートを切ったってことですよ」
・・・・・・・・・・
「・・・藤井さんね、ラジオを聞いている人ってのは、こういう店には来ない人たちなんだよ」
「は?」
「六本木のバーなんて場所には、ひょっとしたら、一生足を踏み入れないかもしれない。ラジオはそういう人たちが聞いてくれてるメディアだってことを、忘れちゃだめなんですよ」(p206~207)
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タイトルがすべて。

2007-06-08 | 朝日新聞
6月7日の新聞広告で週刊新潮のタイトルをながめていると、こんなのがありました。
特集「『腹話術の人形』みたいに空虚な『古舘伊知郎』研究」。
これは、「カオナシの声」より鮮やかに内容がわかるタイトルです。
それじゃあ、というわけで「週刊新潮」6月14日号を320円なりで買ったわけです。4ページほどのその特集を読んでみたかった。というわけでその紹介。

タイトルにもなった言葉はどうしてついたかという箇所。

「本誌のコラムを連載する林操氏が話す。
『前から、古館さんの役割は、テレビ朝日や報ステの台本通りに喋る腹話術人形です。ただし、彼の場合、10を求められると、20ぐらい反応する過剰なタイプで、そこが長所でもあり、短所でもある。朝日的な発言のつもりが、知らずにエスカレートし、結果、空ろで意味不明なコメントができるのではないでしょうか』」

もう一人のコメント。

「・・・コラムニストの小田嶋隆氏。
『要は、印象的なキャッチーな言葉を並べ、視聴者の心を掴むことが第一です。だってプロレスの中継でも【大巨人、アンドレ・ザ・ジャイアントの入場です。おおっと、人間山脈、鳴動だ】なんて、後で振り返れば意味なんかわかりませんよね。それと同じです。主張の方向性は、朝日新聞と同じで、何かあれば、政府批判と弱者擁護。困ったときは、日本の現状批判です。ただし、彼はもともと記者ではないから、確固たる政治信条があるわけではない。それなのに、眉間にしわを寄せ、作りこんだ表情で、【日本はこれからどうなるんでしょうか】なんて言ってるから、深みがまるで感じられないのです」

こうしたコメントを差し挟みながら、『報道ステーション』の視聴率やら、古館さんの経歴。そして最近の『報ステ』での言葉のオンパレードを特集として組んでおりました。

このくらいにして、次に私が思ったのは「『腹話術の人形』みたいに空虚な・・・」という特集のタイトルのことでした。

本のタイトルといえば、山本夏彦さんが思い浮かんだりします。
そう、最近読んだ藤井青銅著「ラジオな日々」にもありまして、
そこに、小林信彦氏のアドバイスがでてきます。
「ぼくの本が売れないとグチっていたら、『大切なのはタイトルです』とわざわざ丁寧にアドバイスの電話をいただき、感謝・恐縮したこともある。はたして、この本のタイトルにはなんとおっしゃるだろう。」(p246)

ここで本題。齋藤十一氏とタイトル。
ということで「編集者 齋藤十一」(冬花社)から
そこの、亀井龍夫の文に
「齋藤さんがタイトルを大切になさっていたことは、あまり知られていないことかもしれない。『週刊新潮』の編集長が野平健一になっても、そのあとの山田彦瀰(このサンズイなし)になっても、毎週の特集のタイトル四本か五本は、すべて齋藤さんがご自分で付けられていた。特集だけはゲラもお読みになっていたと思う。そして、すべての作業が終ったあとの三十分間ぐらいを使ってタイトルをつけられた。うまかった。読んでみたいと思わされるタイトルだった。・・こんなにイジの悪いタイトルはない、といった感じのこともあった。特集の書かれている内容よりタイトルの方がセンスがあった。」(p86)

もう一人引用しましょう。伊藤貴和子さんはすこし間接的なスタンスです。

「私は出版編集者として上司の新田敞(ひろし)さんに鍛えられた。新田さんは、私が会社に入ったばかりのころ、週刊新潮編集部から出版部に移ってこられた。『人の群がるところに行くな』『読者がこういう本を読みたいだろうから、ではなく自分が面白く、読みたい本を出せ』『本は書名が命だ』『宣伝文句に、使いふるされた文言を使うな、自分の言葉をみがけ』等々、編集者の心得を日々叩きこまれた。・・」(p131)


「齋藤さんは『タイトルの天才』『タイトルの鬼』といわれた。『週刊新潮』のタイトルを創刊以来、何十年にもわたってつけ続けたという『伝説』もあった。実際、『新潮45』の編集会議においても、齋藤さんが、いかにタイトルにこだわっているかを痛切に思い知らされると同時に、雑誌記事にとってタイトルがいかに大切か、という原則を繰り返し叩き込まれたという思いが強い。私の会議ノートには、こんな発言が残っている。『誰が書くかは問題ではない。何を書くかが問題だ。広告などでも執筆者の名前は小さく、タイトルは大きく』『むつかしい人、偉い人に原稿を頼む必要はない。問題は、自由のきく執筆者を揃えよ、ということ。要するに、題が重要になる。こちらでタイトルを持っていって、その通りに書いてもらうことだ。意外に、執筆者では商売にならない』」(p169)これは伊藤幸人さんによる「人間、いかに志高く」と題した文からでした。
そして文字通りの題「タイトルがすべて」をつけたのは、石井昴さん。
では、石井さんの引用で終わります。


「『売れる本じゃないんだよ、買わせる本を作るんだ』『編集者ほど素晴らしい商売はないじゃないか、いくら金になるからって下等な事はやってくれるなよ』『俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ』次から次に熱い思いを我々若輩に語りかけられた。齋藤さんの一言一言が編集者としての私には血となり肉となった。我田引水になるが、新潮新書の成功には新書に齋藤イズムを取り入れた事によるといっても過言ではない。『自分の読みたい本を作れ』『タイトルがすべてだ』私はいま呪文のようにそれを唱えている。」(p182~183)



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カオナシの声。

2007-06-05 | Weblog
宮崎駿監督作品「千と千尋の神隠し」にカオナシが登場します。自分では喋れずに、飲み込んだ者の声を借りて、はじめて喋り出す。その他人の声に染まるようにして肥大化してゆき。飲み込んだ者を吐き出してしまえば、もとのカオナシにもどっている。という不思議な役割で映画の中を動き回っておりました。


カオナシは若い設定でしょうか?
最近、藤井青銅著「ラジオな日々」(小学館)を読みました。たのしかった。産経新聞2007年5月27日の書評欄に作家・吉村達也氏が、この本の魅力ある書評を載せておりました(吉村氏は、本の中に、ちょっとですが、登場する人物でもあります)。その書評の最後は「そうした『戦場』に立ち会われた藤井さんの『ラジオな日々』は、楽しい思い出も、つらい思い出も含めて、さまざまな分野で物づくりに励む若い人たちに、きっと心に訴えかけていくものがあるだろう。」と締めくくっておりました。こんな味のある言葉を、新聞の記事から拾えるでしょうか?最近の書評は署名があります。けれども、新聞記事にはいまだ署名なしが当然な顔しているように見受けられます。

さて、「ラジオな日々」にこんな箇所があります。

「ちょうどこの頃、『アマチュア声優コンテスト』という企画があった。『夜のドラマハウス』が仕掛けたもので、全国から何千という応募カセットテープが届いていた。・・・毎日のように会議室に集まって、山と積まれたカセットを順に聴いていく。連日こんなことを繰り返せば、経験は浅くても、あっという間に《耳巧者》になる。」そして、その微妙な違いを語ったあとに、こんな箇所がありました。
「マイク乗りのいい声の代表に、女性の場合は高くてよく通るいわゆる『アニメ声』と、松田聖子のような『水っぽい声』があるようだ。・・何百本という声のテープを聴いていくうちに、両者の違いがだんだんわかってきた。どうやら、アニメ声は喋っている本人の姿が伝わりにくく、水っぽい声は喋り手の人間性が伝わりやすいようだ。アニメ声のことを、上野はよく冗談っぽく『田舎のバスガイド』と表現していた。あの手の作り声からは本人のキャラクターが見えないのだ。困ったことに、当人は『これこそがいい声!』と思い込んでいるから、余計始末が悪い。求められているのは上っ面だけのいい声ではなく、下手でもいいから人間味のある声なのだが。・・・
だが、なるほど、逆に考えてみればオタクたちがアニメ声を好むというのは、そういうことなんだろう。あれは、声優人気のように見えて、実は声優ではなく作品のキャラクター人気だ。つまり、『声優という生身の人間の部分を伝えない声』を求めているのかもしれない。・・・」(p130~131)

この「ラジオな日々」は、実名で上司や女優さんたちが登場します。
自分を通じて生身の人間を、書き留めており。その語りはとても水っぽいような「いい声」なのです。

ところで、老人の「アニメ声」というのがあることを「人間は一生学ぶことができる」(PHP)で渡部昇一氏が教えてくれております。
「この頃よく感じることですが、年をとった兵隊さんがシナ事変の思い出を聞かれて、出鱈目なことをしゃべっています。特に天下のジャーナリズムが言い立てる『日本は悪かった』という論調に乗っかる発言をすると、本になったり、テレビに出してもらったりする。そうして利用されてしまうのです。典型な例は、曾根一夫という人です。彼は南京戦に従軍した記録を出し、非常な人気があって下巻まで出たほどです。ところが、曾根一夫は南京戦に行っていない兵士であることが発見されました。私が仙台に行ったときに曾根一夫の親類に会いましたら、『嘘ばかり書いて困った奴だ』とこぼしていました。・・・・この前の戦争の老兵士の話は、そのまま信用してはいけないと私は思います。」

これをうけて谷沢永一氏は、かたります。
「おっしゃるとおりです。ただ、本人に嘘をつくつもりはなくても、長年テレビなどを見ているうちに、ストーリーがしだいに頭の中にでき上がってしまう、ということもあるのではないでしょうか。先日、『安倍内閣ができてどう思いますか』という街頭インタビューをテレビで見ていた女房が、『テレビで誰かが言っていたことを自分の意見として話している』とつぶやきましたが、あれも似たようなもので、本人は自分で考えた意見をしゃべっていると思っています。」


カオナシが不気味なのは、どうも身近にカオナシの存在を、うすうす感じているからなのかもしれないですね。考えたくもないけれど、自分の顔がカオナシとして見られているかもしれないという恐ろしさ。「本人は自分で考えた意見をしゃべっていると思っています」という言葉の恐ろしさ。
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うちのカミサンが。

2007-06-05 | Weblog
谷沢永一さんの対談を読んでたら、奥さんが登場してるんですね。
まるで、刑事コロンボのセリフに登場する女房みたいで、興味をひきました。
ということで、対談「人間は一生学ぶことができる」(PHP)での
その箇所をとりあげてみます。

「私は日が暮れると酒を飲みます。隣で家内が勝手にテレビをつけるので、否応なしに、しょうもないテレビ番組を観ているわけですが、なぜ、この人に人気があって、なぜこの人に人気がないのかという疑問が念頭をかすめます。これは孟子のいうところの『日く言い難し』。こんな難しい問題はありません。」(p90)

「本人に嘘をつくつもりはなくても、長年テレビなどを見ているうちに、ストーリーがしだいに頭の中にでき上がってしまう、ということもあるのではないでしょうか。先日、『安倍内閣ができてどう思いますか』という街頭インタビューをテレビで見ていた女房が、『テレビで誰かが言っていたことを自分の意見として話している』とつぶやきましたが、あれも似たようなもので、本人は自分の意見をしゃべっていると思っています。人間の記憶は実に信用できないものです。だから、作家の回想録などで立論することはいけないと、私はこれまで言ってきました。条件をつければ、同時代人が健在な中で書かれたメモワールは、多少信を置けます。それでも、参考意見として念頭に留める程度で、全面的に論拠に用いてはいけません。」(p240~241)

そういえば、対談相手の渡部昇一さんの言葉には「女房」が登場しないなあ。

その渡部さんのまえがきに、谷沢さんとの対談について語った箇所があります。

「そのたびに啓発されることが多かった。自分一人で読んだり、注釈書だけで読むのと、読書術の大家で読書体験の極めて豊かな谷沢先生と語り合うのはまったく違う。・・もとの文章の含有する新しい意味を見つけることにもなったからである。ひょっとしたら読者の方々も、一斎の考え方とともに、現代に生きる二人の日本人―― 一人は大阪人、一人は東北人 ――の考え方をも併せて見るという感興を持たれるのではないだろうか・・・」(p2)

ちなみに、谷沢さんが、齋藤孝をほめている箇所があります。

「年をとった女性が一番欲しいのは社交界です。ところが、日本の社会は困ったことに社交界がない。齋藤孝がえらいのは、朗読を全国に普及させることによって、お婆ちゃんたちが集まってお互いに朗読し、交流し合う風習を作ったことです。これは大変な人助けです。」

ところで、「年をとった女性」というのは何歳ぐらいからを言うのでしょう。
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