和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

へつらいを笑えない。

2016-10-30 | 道しるべ
高山正之著「朝日は今日も腹黒い」(新潮社)のあとに、
高山正之著「アメリカと中国は偉そうに嘘をつく」(徳間書店)
を読みはじめ、今日ようやく読みおえました(笑)。

前著は、週刊誌掲載で
後著は、月刊誌掲載の文をまとめたもの。
後著の読後感が充実しております。

それはそうだ。
毎週の連載コラムと
一か月一回の連載コラムと
時間のかけ方が違います。

週刊誌はたとえていえば、
歌を唄っているような
月刊誌は、数値を確認している
余裕を感じました(笑)。
後著を読んでよかった。

ということで、
一箇所だけでも引用することに


・・・ 南イリノイ大の准教授ギルバートが
『暴走するトヨタ車のエンジン回転計』を
ABCテレビから流した。議会が騒ぎ、
運輸長官ラフードは『トヨタに乗るな』とまで言った。
・・・・事故車両は米航空宇宙局(NASA)に
持ち込まれた。欠陥が見つかるのは時間の問題と思われた。
カリフォルニア州の検事局は
『トヨタは欠陥を隠して利益を得る詐欺商法をした』と
一台二千五百ドルの罰金を科す訴えを州地裁に起こした。
議会はトヨタ章男CEOを公聴会に呼びつけて吊し上げて罵った。
朝日新聞の主筆(当時)の船橋洋一は一面で
『トヨタはいまや欠陥商品の代名詞になった』と書き、
『トヨタがこれほど無能とは驚きだ』
『トヨタには経営の明晰さが欠けている』という
米国人の一方的な罵詈雑言をそのまま並べた。・・
船橋は彼らの尻馬に乗ってトヨタの滅亡を語り
『いずれ支那の電気自動車が米国を制覇する』と予言した。
しかし二年経ってNASAは欠陥を発見できず、
逆にギルバートの実験は悪意ある捏造で、
暴走車のドライバーの多くも
トヨタからカネを強請(ゆす)る目的だったとばれた。
・・・・
いま、米メディアはタカタのエアバッグで大騒ぎだ。
・・・
しかし日本の新聞はいつも通り、タカタの言い分すら載せない。
『まるで散弾銃に狙われながらの運転だ』とか
米メディアの悪口雑言をそのまま並べるだけ。
米国に媚びる船橋流だ。
おまけに肝要なことも載せない。
今度の欠陥エアバッグは
『同社のメキシコ工場で2007年前後に生産された製品に集中する』
とロイターが伝えている。
この工場には日本人スタッフはいない。
米国人が管理し
『過酷なノルマを課してまるで奴隷工場だった』
『不良製品の発生率は他工場の八倍も高く、中から異物も見つかった』。
タカタはその時点で対応した。
搭載したトヨタやホンダの全車種のリコールでなく、
その工場出荷分からリコールを進めている。
『全車両を一斉リコールしろ』という
米公聴会の罵声には合理性はない。
日本企業を潰して快哉を叫びたい
歪んだ米国人心理が加わっている。
しかし日本の新聞はその部分を書こうともしない。
船橋洋一のへつらいを笑えない。


こんどから、
高山正之の雑誌掲載文を丁寧に読むことにします。
新しく聞く、新聞より、指摘は斬新。
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ハテ?新聞の雑誌広告。

2016-10-27 | 道しるべ
WiLLとHanadaの12月号が発売。
今回気になったのは、
『ユダヤ人』でした。

WiLL12月号の対談題名は、
「20世紀の名著『ユダヤ人』のどこが禁書(タブー)か』
渡部昇一・馬渕睦夫対談

はじまりから引用。


馬渕】 渡部先生が監修された『ユダヤ人 
なぜ、摩擦が生まれるのか』の原著は1922年、
つまりソ連政府が成立した年に刊行されていますが、
金融社会、グローバリズム、移民問題など、
現代の国際社会の実態を、百年近く前に予言している。
これが本邦初の翻訳だというのも意外です。・・・

渡部】 ・・・・いわばユダヤ問題についての予言と
警告の書です。広く読んでもらいたい本なのですが、
すべての新聞から広告の掲載を断られてしまいました。


WiLLの最後の頁。「編集長から」の言葉からも引用。

〇某日、渡部昇一さんと打ち合わせをしていたら
『「ユダヤ人」という書物は20世紀の名著であり、
著者のヒレア・べロックは歴史家のチェスタトンらと
ともに高い評価をうけている人です』とおっしゃる。

【訳本を上梓したのですが、新聞が軒なみに
広告を拒否するんですよ】

ならば、書物の内容をぜひご紹介ください、
というわけで馬渕さんとの対談が実現しました。
ハテ、今号の『WiLL』の新聞広告は
どうなることやら。

10月26日産経新聞の3面をひらくと
WiLL12月号の新聞広告が載っておりました。
渡部昇一×馬渕睦夫対談の題名は
どう新聞の掲載されたかご存知でしょうか

「20世紀の名著 ロシア暴力革命の主役が白日に」

これじゃ、なんのことやら(笑)。

終戦後、教科書を黒く塗りつぶした。
とはよく言われますが、雑誌の対談の題名を
差しかえるという、現代の手品師たち。

うん。新聞広告を見て雑誌を買うのも考えもの。
ここにも、見えないハードルが隠されてるらしい。
そんなこと気づかせて頂ける雑誌を読む。
今日この頃。

ちなみに、WiLL12月号には
高山正之氏の対談も載っている。
これで、
Hanada12月号の「蒟蒻問答」の
対談と、両方を読める楽しみが増えました。

話題の豊洲問題を高山氏はこう語ります。

高山】 常識的に考えたってあの地下空間は必要だよ。
土で埋める理由はまったくない。
地下水に含まれる有害物質が基準値を超えたの
越えないのって、そんなもの飲料水じゃないんだからさ。
じゃあ築地のアスベストや地下水はどうなのか。(p109)

テレビのコメントをする方々からは、
まず、聞けないコトバではあります。

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第三者委員会。

2016-10-23 | 朝日新聞
新刊はなるべく購入しないように
注意しております。
それでも、つい買ってしまいました。
髙山正之著「朝日は今日も腹黒い」(新潮社)
帯には『「週刊新潮」連載の超辛口名物コラム傑作選
堂々の第11弾!!』とあります。
はい、題名で買ったことを白状します(笑)。

う~ん。せっかくの新刊購入なので
読みました。読後感は、
最後に人名索引があればなあ。でした。
どなたか、高山正之の本に登場する人名索引事典を
公表なさる奇特な御仁はいらっしゃらないかなあ。

それはそうと、
「朝日が絡む学者はロクなもんじゃない」
という4ページの文にも、人名が並びます。

はじまりは
長谷部恭男氏の名前が登場します。

「朝日新聞子飼いの憲法学者、長谷部恭男が
国会で安保法制を『違憲』と言った。」(p33)

ちなみに長谷部恭男氏の名前は
p27とp203にも登場しておりました。
p203では、朝日新聞の『第三者委員会』のメンバーの一人
社外有識者としての登場。

もどって長谷部氏以外にも

藤原彰氏の名前が登場します。
「一橋大教授の藤原彰は中支戦線の洞庭湖のほとりで
焚かれた日本軍の煙幕を『毒ガスだ』と言った。
嘘がばれて朝日は訂正した。」(p34)


後藤乾一氏の名前が登場します。
「早大教授の後藤乾一は『日本軍はスマトラで要塞を
掘らせた地元民3000人を穴埋めにした』と言った。
実際は3人の村人が物置用の穴を掘っただけで、
3人とも健在が確認された。」(p35)

吉見義明氏も登場します。
「慰安婦問題では中大の吉見義明が漢字を故意に
読み間違えるという子供騙しの手法で『軍の関与』が
あったと言い出した。」(p35)


長谷部恭男氏が再度登場するp203は
舛添氏にまつわる話のなかでした。
そのはじまりは

「朝日新聞が夕刊1面に『KY』と落書きした
大珊瑚の写真を載せたのはもう二昔も前のことだ。」

とはじまる文でした。その最後を引用。

「舛添要一はやっぱり公金で私腹を肥やしていた。
・・持ち出したのが『公正な第三者』の調査だった。
その言い分に既視感を覚えた。
覚えさせてくれた朝日の紙面が秀逸だった。
『第三者って何か』
『自分で雇ってどう公正か』
『引き延ばしで逃げ切る気か』
正鵠を射ている分、
書いている連中には深い自覚があるのだろう。
・・・。」(p204)


もの覚えが悪い私には、
やはり人名索引は必要。







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御伽草子の時代。

2016-10-22 | 古典
御伽草子に、興味が湧いたので、
ソワソワ読書で
ウロウロ読書で、
キョロキョロ読書。
フワフワ読書で
頁ペラペラ読書の
今日取り上げる本は、
バーバラ・ルーシュ著「もう一つの中世像」(思文閣出版)。

そこにある「奈良絵本と貴賤文学」から
魅力あるので、ちょっと長く引用。


「中世文学については、詳しくは勉強したのは
連歌と謡曲についてだけである。というのは、
中世文学では和歌、連歌、それに謡曲だけにしか
高い評価が与えられてなかったからである。
つまり、中世小説は、ほとんど読む価値のないもの
として軽んじられていたのである。・・・
日本文学の研究のなかで、中世小説は、ある意味で
継子(ままこ)いじめされていたといえるだろう。

・・・『平家物語』は日本古典文学のなかで
非常に奇妙な存在であり、初めて読んだときから、
この作品の性格が理解できず、いわばわたくしのなかで
謎のような存在であった。このことは、
後から振り返ってみると、わたくしが
『源氏物語』の伝統にどっぷり浸かっていて、
その世界からこの作品を眺めていたことが原因だった
のであるが、当時のわたくしにはむろんわからなかった。
・・・
普遍性ということでなく国民性ということを問題にした場合、
つまり、日本人を、アメリカ人でもなくロシア人でもなく
フランス人でもなく中国人でもなく、日本人たらしめているもの、
つまり日本人の国民性を問題にした場合、『源氏物語』は
十分といえない点がある。それはどういうことかというと、
『源氏物語』は平安時代の貴族というひと握りのエリートだけを
対象にした文学であって、いわば貴族階級の所有物だということである。
しかし、たとえば『平家物語』を例にとってみると、
『源氏物語』とまったく逆の性格が見いだされるのである。
・・・・この物語は、源平の合戦に巻き込まれた人たちが、
この合戦に対して示した宗教的、倫理的、心理的反応の集大成
といえるものになっている。『平家物語』以前に、
これほどまで多くの階層の人たちについて語られた物語はなかった。
・・・・『平家物語』は一つの階層の所有物ではなく、
合戦に巻き込まれた人たちすべての所有物なのである。
いま、『平家物語』を例にとって説明したが、
実をいうと、これらのことは一連の中世短編小説に
共通していえることなのである。
・・・・
これらの作品は人びとにショックを与えたり、
また革命的な思想を吹き込んだりするようなものではない。
これらは、人びとが何度も何度も聞きたい、
あるいは読みたいと願うテーマから成っており、
何度聞かされてもまた読んでも、決して飽きたりしない、
それどころか、人びとに安心感と慰みを与えるのである。
なぜかというと、これらの作品の内容が国民性と
一致しているからである。したがって、
これらの物語は外国人に最も理解され難いものかもしれない。
・・・・
わたくしの考えでは、
日本人の国民性は室町時代の小説のなかに、
いちばんはっきりとした形で現われていると思われる。
この時代は、いわゆる御伽草子の時代でもあり、
奈良絵本という絵入りの冊子本が登場した時代でもある。
しかし残念なことに、この絵入り物語は、
平安時代や江戸時代の文学や絵画の作品と比較してみると、
いちばん一般の日本人に知られていない、
また研究されていない分野で、いまだに国文学者のなかにも、
御伽草子とは室町時代に単に子供と女性を対象にして
書かれた作品だと考えている人がいるくらいである。・・
国民性のルーツともいえる中世小説は過小評価
されすぎているのではなかろうか。
・・・・・
やはり、
紫式部から井原西鶴までの五百年間は空白ではなかった。
日本人はフィクション、つまり小説の世界で、
すばらしくクリエイティブなものを創っていた。
わたくしは、この中世小説のなかに、御伽草子のなかに、
日本人の創造性の一つを見る。
しかし、残念に思うのは、この世界の存在が
今日の日本人から忘れ去られてしまっていることである。
・・わたくしの経験ではほとんどの方がご存知ないようである。
逆に、『中世小説って何でしょうか。』と問われる次第である。
たとえば『御伽草子ですよ』と答えると、
『ああ御伽話ですか』という始末である。
確かにのちに子供のために御伽話に書きかえられた話もあるが、
これを聞くたびにわたくしはがっくりしてしまう。
と同時に、中世の日本人が創ったこのすばらしい世界を、
現代の日本人が、これほどまで無視してしまってよいのか、
・・・・これをきっかけとして、
奈良絵本と対面し、中世小説を読んでいただき、
そして、その今日的意義についてお考えいただければ、
かならずや得るところがあると思う。
(1979年・・・奈良絵本国際会議と展示会を記念して
公開講演会が催された。本稿はその講演をまとめたものである。)」


はい。
御伽草子を読む楽しみが、
もうここに示されていたのでした。
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浮世の果は。

2016-10-20 | 道しるべ
本棚を見てたら、
読まずにあった「お伽草子」(ちくま文庫)がある。
ラッキー。読まずにあったので、すっかり忘れてました。
訳者は、福永武彦・永井龍男・円地文子・谷崎潤一郎。
文庫解説は、織田正吉でした。
ということで、まずは文庫解説から。
ええいままよ。文庫解説の最後を引用。

「時間の篩(ふるい)にかけられ、
無数の小説が死屍累々の惨状を呈しても、
浦島は千年を隔ててしぶとく生き残る。
この現象を何と見ると問われて、
お伽話と小説は違いますというのは
腰が引けている。
玉手箱の中に入っているのは、案外、
物語のおもしろさとは何かという
現代人への素朴な質問状なのかも知れない。」

気になっているのは、
御伽草子のなかの「小野小町」。
現代語訳には、私の見るところ登場しない。
たとえば、
全訳注桑原博史「おとぎ草子」(講談社学術文庫)
にも取り上げられていません。
「お伽草子」(ちくま文庫)
大岡信「おとぎ草子」(岩波少年文庫)
「おとぎ草子・山椒大夫」(少年少女古典文学館・講談社)
というのも、登場しません。

登場しなければ、お呼びじゃないかというと
そうでもない(笑)。

うん。気になったのが雑誌のこの言葉でした。

Voice11月号の大前研一氏へのインタビュー記事(p108~)
その箇所を引用。

大前】 まず注目すべきは、単独世帯(一人暮らし)
の増加だ。国税調査の結果をみると、2010年を境に
日本では、一人暮らしの割合が最も大きくなっている。
しかも、それがすべての世代に起こっているのだ。
原因は未婚化と晩婚化、それから離婚の増加。
とくに最近目立つのが熟年離婚である。・・・
幸い離婚に至らなくても、日本の女性は男性に比べ
平均寿命が長いので、妻のほうが最終的には一人暮らし
になるのは避けられない。
ファミリーレストランに行くと一目瞭然だが、
日本には現在、ファミリーがいない。
総合スーパーが不調なのも理由は同じ。
子どもが三、四人いる家族が車で乗り付けて、
トランクいっぱいに買い物をしてくれないと、
こうした業態は商売が成り立たないのだ。
さらに、一緒に暮らす家族や夫婦でさえ別々に
行動するのがいまでは当たり前になっている。
つまり、消費の中心は『おひとりさま』なのだ。・・・」

はい。
小野小町は未婚の先輩で、
その晩年さえも、能に演じられます。

百人一首の小野小町は

 花の色は うつりにけりな いたづらに
  わが身世にふる ながめせしまに

うん。「ながめせしまに」いつのまにか晩年へ。
というのは、なかなかに現代的。

芭蕉の「猿蓑」のこの箇所


 草庵に暫く居ては打やぶり 芭蕉

 いのち嬉しき撰集のさた  去来

 さまざまに品かはりたる恋をして 凡兆

 浮世の果は皆小町なり   芭蕉

 なに故ぞ粥すするにも涙ぐみ 去来


それでは、
「浮世の果は皆小町なり」を
伊藤正雄氏はどう訳して、どう解説しているか。

「女はそれぞれの恋の体験者であるが、
どんな女も色恋のあげくは、
皆小町同然に老い衰へてしまふのだ」

「ここでは恋の主人公を女性に変へ、
しかも特定の一人ではなく、
女性一般の宿命を言ったのであろう。
それぞれの女性には、
それぞれの違った恋の思ひ出があるが、
最後は小野小町の晩年の如く、
見るかげもない老醜をかこたなければ
ならぬといふのである。
『浮世』は人生の意であるが、
特に愛欲生活の意味がある。
小野小町が晩年零落して、
生活悲惨をきはめた伝説は、
謡曲『関寺小町』『卒塔婆小町』などに
よっても広く知られるところであろう。
詞も、『関寺小町』の『御身は小町が果ぞとよ』、
『卒塔婆小町』の『小野の小町がなれる果にて候なり』
などの示唆があると思はれる。
この句では、零落よりも衰老を主としてゐる
こといふまでもない。・・・
芭蕉の観相句として代表的なものといへる。・・・」
(p269~270)

私は謡曲は「鸚鵡小町」しか読んでない。
もっと読まくては(笑)。

さてっと、現代版お伽草子では
小野小町をもうすこしクローズアップ
したいところであります。



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芭蕉連句予備知識。

2016-10-17 | 道しるべ
伊藤正雄著「俳諧七部集芭蕉連句全解」(河出書房新社・昭和51年)
を読めてよかった。
もっともパラパラ読みで、
私の場合あっちをひらいたり、こっちを読んだりです(笑)。

うん。この本を紹介できる喜び。

はじまりの方に、こうありました。


「・・・連句においてこそ、
芭蕉の創作の天才は絶賛されて然るべきだと思ふ。
明治を過ぎて大正以後、やうやく芭蕉連句再認識の
気運がが生れ、専門俳人以外に、かへって熱心な
研究家が現れるに至った。やや古くは故寺田寅彦、
近年では岡潔氏の如き科学者・数学者にも
芭蕉連句の礼賛者が出てゐる。しかし俳句や和歌と
違ひ、連句の理解にはある程度の予備知識を必要とする
ので、その研究者・鑑賞者が今なほ比較的少ないのも
事実である。以下必要最小限度の予備知識を略述
しようと思ふ。」(p18)

こうして、七部集をとりあげながら、
息継ぎのページに「自適吟」として
「わが愛誦する橘曙覧が『独楽吟』に倣ひて」
というご自身の歌が、注釈の合間合間の
余白のページに記されております。
うん。それを紹介しなければ(笑)。

 嬉しさは売れさうもなき
   わが著書の出版契約成り立ちし時(p204)


 嬉しさはわが亡き後も
  わが筆は生きてあらむと思ひみる時(p292)


幸田露伴の注釈への言及もありました。

「露伴の評釈は、・・・
七部集研究史上の一大金字塔であることは否定すべきもなく。
仮に七部集の注釈に古注と新注との時代区分をするとすれば、
露伴以前を古注、それ以後を新注といへるほどのものである。
しかしその欠点は、繁簡宜しきを得ず、往々博学に任せて
無用の詮索に陥り、肝心の中心点を逸脱したり、・・・・
露伴の誤解や付会説が、彼の権威のために、
その後の諸注に踏襲された例も少なしとしない。
且つその文章は、必要以上に用語の難解な文語文で
あるため、若い読者には、露伴の文章そのものに
注釈がなければ理解が困難であらう。」(p50)


はい。私には幸田露伴がよめずに、
ひとり、めげておりました。
伊藤正雄氏の生き生きとした明解さが嬉しい。
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梱包の話。

2016-10-16 | 三題噺
この頃、
段ボールの箱を見ると、
その大小にかかわらず、
これをどう使おうかと、
思うようになりました(笑)。


ということで、
思い浮かんだ三冊の本。

加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社)に
鶴見俊輔氏が登場する箇所があります。

「鶴見研究所のドアをはじめてあけたとき、
わたしはびっくりした。というのは、
鶴見さんの書棚には、靴の空箱がいくつも
ならべられており、その空箱にカードが
乱雑につめこまれていたからである。
本もいくらかはあったが、
本の占めるスペースより、はるかに多い
スペースを靴の箱が占領していたのだ。
鶴見さんは、あの、おだやかな微笑を浮かべ
ながら、どうです。いいでしょう、
B6判のカードは、ちょうど靴の箱にぴったり
入ります、値段はタダです、
カード入れはこれにかぎります、とおっしゃった。
なるほど・・・」(p78~)

私の最近のお気に入りは、梨の空箱。
ガムテープで閉じてから、おもむろに、
横にして真中からカット、二つの箱にする。
一つずつに、数冊の本をいれて立てておきます。
この箱だと、少し背の高い本も入る。
空箱のおかげで、本は寝かせずに、立たせます。
これだと、未読本でも配置換えが簡単。
サッと移動でき、読まずに滞っている本は、
すぐに本棚の隅に持ち運べて楽ちん(笑)。


これが三題噺の一番目。
二番目は、
外山滋比古著「消えるコトバ消えないコトバ」(PHP)。
そこに、こんな箇所。

「明治のはじめ、日本は固有の文化はすべて価値なし
と考えた。わけのわからない人間だけでなく、
国中が外国のもの、舶来のものはすぐれている。
在来のものはガラクタであると、知識人も一般も思いこんだ。
そんなとき、フランスへ陶器を輸出することになった。
陶器をそのままでは破損するおそれがあるので、
詰めものを入れた。適当なものがないので、
古い浮世絵を丸めて入れた。
浮世絵は紙くず同然、タダみたいだったらしいから、
陶器を送るときの詰めものにすれば、
もってこいである、と考えたのであろう。
買い入れたフランス側がおどろいた。陶器ではなく、
詰めものにされている浮世絵である。
ヨーロッパの人がまったく知らない美の世界がある。
しかも、すばらしい。荷物そっちのけで、
詰めものに用いられた浮世絵が評判になったという。」
(p32~33)

ネット「日本の古本屋」で本を注文すると、
いろいろな古本屋さんから届きます。
本を新聞紙に包んでから、
缶ビールの箱を裏返して梱包してあったりします。
興味をそそるのは、包んだ新聞紙が
書評欄だったり、地方新聞だったりする時(笑)。

うん。梱包の段ボール箱は
たとえば、スーパーのレジ脇に
タダで置いてあって、
私は、缶ビールを買う際に、
それに入れ、持ち帰ります(笑)。


三題噺の最後は、というと、
この箇所を引用。
三浦浩編「レクイエム司馬遼太郎」(講談社)

「釣り糸のことをテグスと言いますが、
これも、福建省でクスノキに大きなイモムシが
つくんです。ヤママユ、天蚕という蛾の幼虫ですが、
それが出す糸を天蚕糸と言います。
その福建の音がテグスです。・・・
ところで、このテグスという糸の
漁業利用法は中国には存在しないんです。
西洋にもなかった。なぜなら、中国では
漁民は中国人の中に入らないからです。
あるいは人間の中に入らないと言ってもいいかもしれない。
海というのは遠いところのもの、価値の非常に低いものなんです。
我々は漁民の末裔みたいなところがあります。・・・
つまり、日本は海の民で、しかもある程度の
ある質の現代文明を持っている、世界でも珍しい地域なんですが、
そのため、中国で生薬を梱包するひもに使われていた
テグスを漁業に使ったわけです。
中国の文化が日本に来て、不思議な変化をとげた。
このように文化を変えるところに土着のもののよさがある。」
(p163~164・多田道太郎「司馬遼太郎の『透きとおったおかしみ』」)


はい。現代のテグスはどこに?
ここしばらくは、飽きるまで、
梱包箱がたまることとなります。
来週の日曜日は、小学校の廃品回収。
児童の御両親が集めます。
こういう時に、段ボール箱は処分。

ということで、梱包の三題噺。


ちなみに、
10月9日は、地元では、祭礼でした。
午前中は雨。
軽トラの後ろにのせた
缶ビールや缶ジュースの箱が、
どしゃ降りの雨に濡れて
もう少しで、とけるような崩れ方。
それが印象に残ります。




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新刊は新しすぎる。

2016-10-03 | 道しるべ
外山滋比古著「乱読のセレンディピティ」(扶桑社)の
はじめの方に、
「新刊は新しすぎる」(p18)
とあって、思わずニヤリ。

次のページには
「本の少ない昔は考えにくいことだが、
本があふれるいまの時代、
もっともおもしろい読書法は乱読である。」

とありました。
はい。安い古本が簡単に手に入る昨今。
乱読も夢じゃない。

「おもしろくなければ捨てればいい」(p44)

というのも安い古本ならストレスなしにできます(笑)。

「よさそうだと思ったのが、
案外食わせものだった、
ということだってあるが、
それでも心ある読者なら
なにかしらを得ることはできる。」


「実際に何度も繰り返して読む本が
五冊か七冊もあればりっぱである。
本は読み捨てでかまわない。
本に執着するのは知的ではない。・・
本を読んだら、忘れるにまかせる。」(p45)


私は、以前に「乱読のセレンディピティ」を読んだのに、
それを、すっかり、忘れておりました。
「乱談のセレンディピティ」が出た時にも、
そのことを思い出せなくて、
「乱談」があるなら「乱読」も読みたいと
忘れたことを棚に上げて、ちっとも、思い出せませんでした。
うん。そんな、あれこれを、許してくれる本です(笑)。

新刊は、寝かせておいた方がいいのかも。
では、どうして思い出したのかというと、
「乱読のセレンディピティ」が
新刊文庫本の紹介で出た時でした。
まさかと、本棚に探したらある。

この機会に、
「乱読・・」の次に出た「乱談・・」を
あらためて、めくってみる。
こんな、箇所があります。

「余計なことは考えず、ただ、浮世ばなれたことを
話し合っていると、本を読んでいるときとはまったく
違った知的刺激をうける。もともと人間はそうなって
いるのであろう。そういう『おしゃべり』で賢くなり、
未知を拓いてきたのである。
学校教育が整備されるにつれて、
生活とのつながりの強いことはすべて、
通俗、下等であると誤解するようになる。
孤立した頭は、理解力にはすぐれていても
新しいものを生み出すエネルギーに欠けることが多い。」
(p112)

外山滋比古氏の本では、
連歌・俳諧についての指摘が
私には、有り難かった。

「連歌、俳諧にみられる乱調論理は、
いまなお、はっきりした思考になっていない。
ヨーロッパ的、個人中心の論理に対して、
日本には千年近く前から、
集合論理、親和の論理が存在したことは、
いまからでも世界に知ってもらいたいことである。
座談会をつくり出したのも
このグループ論理であったと思われる。
スピーチは退屈だが、
わけのわからぬことを話し合っているような
おしゃべりが、なぜ、おもしろいのか。
それを見つけたのも日本人である。

正調の論理と乱調の論理は、はっきり別であるが、
正調の論理はつめたく緻密でありがちなのに対して、
乱調の論理は、なにより、おもしろい。
そして、やさしく、あたたかい。
ケンカには不向きながら、
心かよわす仲間を結びつける力をもっている。」(p138)


はい。この、新しすぎる指摘を
何とか味わってみたいと思う、
私もそのうちの一人です。
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一同爆笑。

2016-10-02 | 道しるべ
そういえば、私は、
月刊雑誌四誌を買っているんだ(笑)。
Nanada・WiLL・新潮45・正論。

はい。これで私は満足。
雑誌からの引用で
このブログを、埋める楽しみ(笑)。
ということで、
ていねいに雑誌を、読めますように(祈願)。

今回、引用するのは、WiLL11月号の
髙山正之・加藤清隆対談。
その対談の最後は、こうでした。

髙山】テレビでは、局の意向にそったコメント
しか言わない自称ジャーナリストばかりだしね。

加藤】・・・・これは大先輩に向かって僭越です
けれども、本当のことを言っちゃいけないと言う
のなら、じゃあ何のために記者になったのかと
言いたくなる。金儲けしようと思ったら、
この職業は選んでいないですよ。
髙山さんがいた産経新聞も、僕のいた時事通信と
似たようなものだと思うけれど、
取材費というのはほとんど出ませんでしたから、
ずいぶん自腹を切りました。
本当のことを言わない、書かないのなら、
こんな商売はさっさとやめたほうがいい。

髙山】結婚したばかりのころ、
女房がぼやいていたよ。
『なんで、あなた産経にいるの?
全部持ち出しじゃないの』って。(一同爆笑)


はい。対談の最後は「一同爆笑」で
終るのでした。

(一同爆笑)を誘発させた髙山正之氏。
そういえば、「正論」の巻頭随筆は、
その高山正之の「折節の記」。
「折節の記」の感じは、
「諸君!」の巻頭だった「紳士と淑女」
のような味わいです。
その雑誌「諸君!」といえば、
2009年6月号が最終号でした。
「紳士と淑女」は、匿名でした。
その匿名コラムを、
最終号で、名前を明かします。

「なお、三十年にわたって、
ご愛読いただいた『紳士と淑女』の筆者は、
徳岡孝夫というものであった。」

その名前を明かす文には、
ご自身がガンの宣告を受けたこと
などが書かれておりました。

その徳岡孝夫氏の、現在は
「新潮45」の巻頭随筆を1ページ
受け持っておられます。
こうして、生きてますよ、
という便りを頂いているようです(笑)。

ここでは、徳岡孝夫氏の
「紳士と淑女 人物クロニクル1980‐1994」
で思い浮かぶ文(p744~745)があります。

1993年8月号の巻頭随筆なのでした。

「いま朝日新聞編集委員という肩書で、
毎晩のテレビ朝日系『ニュースステーション』で
久米宏の隣にすわって、したり顔の解説などしている
和田俊という男。知らない人は何の気なしに見ているが、
彼は元プノンペン特派員で、言ってみれば
ポル・ポト派のお先棒をかついだ男なのだ。・・・
和田は、そのポル・ポト派を解放勢力と呼び、
次のように書いた。」

 うん。記事(朝日75年4月19日夕刊)を
 引用しているのですが、ここでは省略。その次

「プノンペンにいずプノンペンを見るがごとく
書いたこの大ウソ記事が出たころには、すでに
解放(!)勢力による虐殺と処刑が始まっていた。
首都に残った(和田とは違って)勇敢な外国人記者
たちも、フランス大使館内に逃げ込んで、
わずかに難を避けたのである。
カンボジア全土を覆った以後の流血を見て、
インドシナの戦争を取材した各社の元特派員は、
折に触れて和田のこの大ヨタ記事を話題にした。
『あんなことを書いてしまったヤツは、
もう世間に顔向けできないだろうなあ』と、
和田を憫笑した。
その男が、いまニュースステーションの解説者となり、
その解説を茶の間の日本人はうなずきながら
聞いているのである。日本のために、これは
泣くべきことか、それとも笑うべきことか。
・・・・
『朝日』の素粒子(93年6月8日夕刊)は言う。
『苦く思い出す、日本はかつてポル・ポト派
政権承認国だった事実を。国民の関心は薄かった』
何を言うか。
『粛清の危機は薄い?』と見出しのついた
和田俊記者の前記記事・・・・
国を誤ったのは政府ではなく、
ポル・ポト派という『解放勢力』に
恋した『朝日新聞』である。」


うん。じつは
今月出たばかりの「正論」11月号の
高山正之の巻頭随筆から
引用したかったのですが、
それは、今でも読める。

せっかくなので
徳岡孝夫氏の昔の巻頭文を引用
してみました。
当時どれだけの人が
これを読んだのだろうなあと
思うと

現在の高山正之氏の巻頭コラムを
どれだけの方が読むのか同時に思う。

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これに慣れてもらわないと困る。

2016-10-01 | 道しるべ
10月から、購読は産経新聞のみ。
読売新聞は、月曜日のみ購読することに。
そして、地方紙。

ということで、月刊雑誌をていねいに
読むようにしたいと思います。
きっかけは、この鼎談でした。

Hanada11月号の蒟蒻問答。
ゲストは石井英夫氏。

石井】 ・・・特に九月号はよかったね。
ちょうど都知事選で誰に入れようか考えて
いるところに、『鳥越は軽くて、空っぽ』
という見出しでスパッとやってくれたから。
あれを読んで、『そうだな、鳥越は駄目だな』
って思いましたよ(笑)。

久保】 そこが新聞と雑誌の違いですよね。
新聞記者だと、『これが投票日直前に出るのは
まずいんじゃないかな』と公職選挙法とか
報道倫理とかアレコレ考えた挙句、
つい筆が鈍る。

石井】 それよくわかるよ。自制しちゃうんだ。

久保】 やっぱり石井さんもそうですか。
だけどこの対談を始めて、堤さんも花田さんも、
投票前だろうが何だろうがガーンとやっちゃって
平気な顔をしているから驚いた。
これは雑誌の本来の特性からくるのか、
それとも堤、花田両氏が特殊なのか(笑)。

堤】むしろ投票前だからこそ、
ガーンとやらなきゃ駄目。
新聞より雑誌のほうがアナーキーなんだよ。
これに慣れてもらわないと困る(笑)。


うん。10月から
「これに慣れて・・」を意識して、
内容が呑み込めない新聞記事より、
月刊雑誌を、丁寧に読みます(笑)。
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