和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

S・齋藤十一。

2013-09-30 | 他生の縁
文春文庫「吉村昭が伝えたかったこと」に
「津村節子ロング・インタビュー」という箇所があり、
そこで、「新潮社の重役のSさん」が話題にあがっておりました。

「『戦艦武蔵』については猛烈に悩んでいましたね。
新潮社の重役のSさんが、小冊子に連載した
『戦艦武蔵ノート』を読まれて、これを小説に、
と何度も強く要望されたのですが、断り続けていました。
小説って人間を描くものなのに、なにしろ相手は艦(ふね)ですからね。
でも、取り掛かってみると、艦が次第に人間に思えてきたといいます。
艦首を振りながら進むなんて、人間みたいに描いている。
完成間近くなって、工員に
『お誕生が近いぞ』といわせていますね。
人間に思えてきたのでしょうね。
八月発売の九月号に間に合せるために、
最後は精根が尽きて、立てなくなって
笑いながら這っていましたよ。
脱稿したあとまる一日寝続けました。
あのころは文芸誌に長編の一挙掲載などありえなかった。
それも新人の原稿四百二十枚ですよ。
重役の指示とはいいながら、
直接の『新潮』誌の担当編集者であるTさんは、
あの作品は嫌いだったでしょうね。だって、
Tさんは私小説しか認めないという人だったんですから、
実にいやそうに来ていた(笑)。
あの作品について『堕落しましたね』と
新宿のバーで酒ぐせの悪い編集者に吉村が
絡まれるのを私は目撃しています。
でも、本は売れました。
三千とか五千部を考えていた私たちは、
万という部数に驚いたんです。
初版二万が翌日三万に訂正され、
十月には十一万六千ですって・・・・。
なにしろその前の一年間の吉村の収入は、
PR誌に書いた原稿用紙四枚分の四千円、
税金分引かれて三千六百円だけだったんですから。
―――賛否が真っ二つに分かれたそうですね。
それでむしろ安心したと吉村さんはいっています。
ああいう調べて書いたものが小説として
認知される風土がまだなかった。  」(p238~239)
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時間があった。

2013-09-29 | 短文紹介
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)に

「歴史の正邪を自分で確認するだけの労をとらず、もっぱら外国製の価値基準に求めるものがいる。」(p272)

という箇所がありました。
その数ページ前に、こんな箇所。

「『昭和の精神史』が出たころの私は真相が知りたくてたまらず『あの戦争は何だったのだろう』という気持がまことに強かった。・・・時間があったこともあり、竹山が読んだ関係者の回想録の類を片端から読んだ。・・・とくに感銘深かったのはグルー『滞日十年』で、これは石川欣一訳でなく原文で読み通した。」(p268)

原文では読めないけれど、訳文を、さっそく古本屋へと注文することに。
うん。私には、他はないけれども「時間があった」。
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スタジオには。

2013-09-28 | 地震
本をひらいていると、ときどき、
気になるページがあります。

そういうのに限って忘れ(笑)、
思い出せないという始末。

そういう箇所を、
忘れる前に書き込んでおけば。
というのも、ブログの楽しみ。


さてっと、
文春文庫「吉村昭が伝えたかったこと」に
テレビ局の話が登場します。
吉村昭氏が「関東大震災」を書いた後でした。

「震災記念日の9月1日になると、それに関する
番組を組んだテレビ局から必ず出演依頼があった。
・・私はテレビ局へおもむいた。
スタジオには、東京都の地震防災責任者が、
有識者とともにいて、それぞれ発言し、
私も意見を述べた。
が、私は、ことに防災責任者の述べる言葉に
底知れぬむなしさをおぼえ、
口を開くのも億劫になった。それは、
震災後に出版された『震災予防調査会報告』という
報告書を全く眼にしていないことを知ったからである。
・・・・・・・・・・・ 
翌年と次の年の震災記念日にも、
私はテレビ局に足を向けたが、
防災責任者は別の人になっていて、
その人も報告書の存在すら知らず、
それをいっこうに気にかけている様子もなかった。
それっきり私は、テレビに出ることをやめ、
新聞、雑誌に関東大震災について書くこともしなくなった。
・ ・・・・・
この度、阪神大震災が起り、私は・・・・」(p172~173)


うん。どうやら、
この防災責任者や有識者とは、
コメントをする先生の側であって、
「お弟子」になるという発想はないらしい。

先生の背中にしのびよる「底知れぬむなしさ」を
感じとれるお弟子になれるかどうか?
そんなことを、今度は自分に問いかけてみる(笑)。

そうそう。
この吉村昭氏の小文の題は
「歴史はくり返す」。

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紹介は不要。

2013-09-27 | 短文紹介
平川祐弘氏を、肩書きなど関係なくして、
どなたかに紹介しようとするなら、
これかもしれないなあ、と私が思う箇所。

「美智子さまが皇后になられてからの御歌集『瀬音』は平成9年、箱入布製で出た。・・・『瀬音』は不朽の歌集である。・・・私は昭和・平成の御代をこの皇室とともに生きたことを嬉しく思う。『平川君はそのようなことを公然と言うからA新聞やI書店に睨まれるのだ。君はインテリ失格者とみなされている』。世故(せこ)にたけた友人がそう注意してくれたが、私は世の小インテリからどう思われようと構わない。自分は自己の感情に忠実に正直に語りたい。そのような言論の自由のある日本に生きることを私は国民の一人として『生けるしるしあり』と有難く感じている。」(「書物の声歴史の声」p114~115)


ところで、平川氏が語る外国の図書館は、
その視点がおもしろいので二箇所を引用。


「それにしても遠来の学者を先ず図書館へ案内するのは心憎い。トロント大学へ招かれた時も図書館へ案内されほとほと感心した。カナダでトロントとヴァンクーヴァーに日本関係書物は揃っていると聞かされていたが、私の著作もずらりと揃っており、多少気恥ずかしかった。というのは私が長く勤めた東大にも平川の書物はこれほど揃ってはいなかったからである。東大では佐伯彰一元比較文学主任の本も完全には揃っていない。図書購入責任者の助手の中には西洋の『原書』を揃えるのが自分の使命だと思い込んでいる度し難い人もいる。そんな事があって以来、私は日本の他大学で講演に招かれる時『講演に先立つ平川の紹介は不要、その代わりに図書館に平川の書物を揃えておいてくれ』ということにしている。」(p99「書物の声歴史の声」)

うん。せいぜい、私の本棚には、私でも買えるくらいは(笑)、平川祐弘氏の著作を揃えようと思っております。

図書館についてでは
平川祐弘著「開国の作法」(東京大学出版会)に
「大学町・大学図書館・大学出版局」と題して小文があり、アメリカの図書館の背景が、簡潔に要約されております(そこも引用したいのですが、長くなるので省略)。その小文のなかに、大学の紀要に関連して、谷沢永一氏の名前が登場しておりました。
そこを引用。

「・・・・そのこともあって谷沢永一教授はかつて『諸君』誌上に痛烈な紀要批判を展開した。私は谷沢氏のような歯に衣きせぬ人の発言を痛快に思ったが、それでも異論があった。氏が悪しざまに評した論文の一点が、私には逆に結構なものに思われたからである。評者の意見は時にそのようにわかれる。それだから紀要は多少費用がかかろうともやはり出した方がいいのである。谷沢氏の大学紀要はお金の無駄遣いという意見に私はくみしない。」(p99)

「世界には出版社が各地方都市に分散しているイタリアのような国と、大出版社がことごとく首都に集っているフランスのような国とがある。日本は大出版社がほとんど東京に集っている国である。人文書院が京都にあることを除けば、名の聞えた大出版社は地方にないといっても過言ではない。印刷製本会社も大手はことごとく東京近辺にある。このような日本の状況下では地方大学に勤める人はどうしても中央で認められるのが遅くなる。真に見識のある出版人であるなら、地方大学の紀要などにも目を通して、その中から秀れた論文を拾い出し、その著者に声を掛けることに生き甲斐を見いだすであろうが、そんな編集者がいまの日本にいるとはとても思われない。」(p99~100)

ちなみに、
平川祐弘著「書物の声歴史の声」(弦書房)には、
「紀要」ではないのですが、「学部報」について、
こんな箇所があります。

「68年、大学紛争が起こると、こうした時こそ大学側の考えを伝えるべきなのに、と助手の私は思ったが『学部側のみが見解を述べ、学生側に反対意見を述べる場を与えないのは不公平だ』という強硬意見が一部の教師から出、『学部報』も発行中止となった。69年7月、授業再開とともに『学部報』も自動的に再開され、私がその号に「『反大勢』の読書」という刺激的な記事を書いた。『反体制』などと学生が騒いだのも所詮時代の流行ではなかったか。『相手を反動呼ばわりすることによって自己の進歩性を証する免罪符を得ようとする傾向は性格の弱い人にしばしば見られるが、一種の怯懦(きょうだ)ではあるまいか。・・・少なくとも性急な判決を下す前に証拠書類だけは読んでおきたい。いつの年にも反時代の気骨のある少数の学生や教師や助手がいると私は信じている』。
その『学部報』で72年、私の司会で『坂の上の雲』について日本史の鳥海靖、比較文学の芳賀徹、西洋史の木村尚三郎、哲学の井上忠とで座談会をした。この企画は評判だったが、参加者が司馬史観に好意的だったことが唯物史観の教授には苦々しかったらしい。新左翼の菊地昌典助教授が『東大で「坂の上の雲」礼讃の座談会とは何事だ』といい、大岡昇平が『あなたが頭にくるのもわかる』などと『月刊エコノミスト』で対談した。・・・」(p88)
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ダイジェスト峠。

2013-09-26 | 朝日新聞
朝日の古新聞の書評欄で、
買わないけれど、気になる書評をピックアップ。

7月21日、出久根達郎氏の書評。
伊東祐吏著「『大菩薩峠』を都新聞で読む」(論創社・2625円)
をとりあげておりました。そこから一部引用。

「著者は『大菩薩峠』の初出紙に当ってみる。
百年前の大正二年から十年まで都新聞(現・東京新聞)
に連載された(前半の一部)。
作者の介山は同社の記者であった。
当時の時代背景や空気を感じつつ発表紙を読めば、
読後感もまた違うだろうと考えた。
すると思いがけない発見をした。
現在私たちが読んでいる『大菩薩峠』は、
新聞連載時の三分の二に縮められた
ダイジェストであったのだ。・・・・」

9月1日、いとうせいこう評。
塩澤幸登著「雑誌の王様 評伝・清水達夫と平凡出版とマガジンハウス」(河出書房新社・\3150)。
をとりあげておりました。そこから少し。

「評者である私も、
実は雑誌編集から仕事を始めた。
先輩に
『雑多な情報をうまくまとめるから雑誌なんだ』
とよく教えられた。
だからなのか、本書を読みながら、
先輩編集者から教えを乞うような気分が続いた。
楽しく味わい深い時間だった。・・・」


9月8日、隈研吾評。
上田篤著「縄文人に学ぶ」(新潮新書・\756)
をとりあげた、書評の最後は

「時代が危機に遭遇すると、
日本人はそれぞれが理想の『縄文』を創造して
軌道修正をし、精神のバランスをとってきた。
別の危機がくれば、
また別の『縄文』が創造されれるであろう。
日本人は『縄文』というガス抜き装置の
おかげできびしい今日をしのいでいる。
そのしぶとさこそが、まったくもって
縄文的というべきか。」
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ふんばつてゐねい。

2013-09-25 | 短文紹介
志村五郎著「記憶の切絵図」(筑摩書房)に
若松賎子訳「小公子」が、ちらり引用されて、
気になっておりました。

うん。古本で注文

ハナ書房(大阪市北区天神橋)
2000円+送料290円=2290円

明治30年印刷で
私が手にしたのは
大正11年(35版発行)のもの。

とりあえず、9月上旬に届いたのですが、
本棚へ置いておきます。
そのうち、読むかもしれない(笑)。

それはそうと、
志村五郎氏の引用箇所を、ここに

「バーネストの『小公子』(1886)の若松賎子訳に
面白い文章があるからそれを引こう。
『おめえも運のまはり合せがわりくなつて気の毒だ。
なんでもしつかりふんばつてゐねい。
人にいいかげんのことされちやいけねい。
よッぽどふんどしい固く〆めてゐねいと
どろぼう根性のものにいいやうにされるぞ。
かういふのもおめえがこつち居るじぶん
恩になつたことを忘れねいからだ。』
これは靴みがきヂックが
少年デドリックに言うせりふである。」(p106)


さてっと、いつか
読んだら、またこのブログに
書きこむことに。
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お弟子。

2013-09-24 | 短文紹介
河上徹太郎著「史伝と文芸批評」(作品社)に
「私の中の日本人 福原麟太郎」という7頁ほどの文があり、
そこに、こんな箇所があります。
「こんな先生は今の時勢では出ないかも知れない。芝居を作るのが作者や役者ではなく観衆であるやうに、先生を作るのはお弟子である。今の学生にはそんな能力を失はれてゐるのである。」(p184)

「先生を作るのはお弟子である」という。
うん。それならば、いまの時代に、
そのお弟子にあたるのは、いったいどこにいるのか?
という、問題提起。
ひょっとすると、それは編集者かもしれない。


さきに磯田道史の書評による「吉村昭が伝えたかったこと」を紹介しました。
そういえば、「編集者 齋藤十一」(冬花社)に吉村昭氏が登場する箇所があります。
たとえば、田邉孝治「こわい人だった」からすこし引用してみます。

「齋藤さんは当世風の言葉でいうと、露出することを極端に嫌った。そのせいかどうか、いわゆる文壇づき合いは一切なし、文士との交際も最小限にとどめていた。
編集の企画は全部自分一人で立てていたが、当時の風潮に流されることなく、保守的だったと言ってよかろう。手元に当時の雑誌がないので記憶で書くが、その頃の流行だった進歩派と目される人はほとんど起用されていない。左翼は勿論だが、『近代文学』系の人たち、また『マチネ・ポエティク』系も登場しない。その代り、文芸雑誌としては少々毛色の変った、塩尻公明とか瀧川政次郎なんて人たちが執筆している。わたしが入った昭和25年の9月号新潮から、村松梢風氏の『近代作家伝』の連載が始った。・・・当時誰も気づかなかった村松梢風という作家を見込んで思い切った起用をするところに、齋藤さんの炯眼(けいがん)がある。・・・」

「昭和41年(1966年)9月号に、吉村昭氏の『戦艦武蔵』420枚が一挙掲載された。失礼ながら当時はまだ同人雑誌作家クラスと目されていた吉村さんに対し、実に破格の大胆な起用であった。これも齋藤さんが、或る小さな業界パンフレットに連載されていた吉村さんの『戦艦武蔵取材日記』というエッセイを読んで決断した企画だった。齋藤さんは机の上に、送られてくる同人雑誌をはじめさまざまな印刷物を積み上げて、猛烈なスピードで片ッ端から読んでいた。その中から数多くの企画が生まれたのであろう。」(~p58)

うん。それにしても、
「先生を作るのはお弟子である」という
その「お弟子」にあたるのは、現在では、
どなたになるのでしょうね。

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3冊の文章読本。

2013-09-23 | 本棚並べ
谷崎潤一郎著「文章読本」。
私の購入したその古本は、昭和17年(140版発行)のもの。
やはり、その頃の単行本は、いいなあ(笑)。
文庫本との違いを感じます。

ところで、旺文社文庫の谷崎潤一郎著「文章読本」には、
高橋義孝氏の『言語への愛、人間への愛』という文が載っています。
「私が『文章読本』を最初に読んだのは、これが出版された当時、すなわち昭和9年であった。」と高橋氏は始めます。
その文に、こんな箇所が拾えました。
「ただ文章だけに限って云うならば、私は谷崎さんの文章、特に文学作品の文章は味つけが濃厚で、あまり好きではない。むろん悪文だなどというつもりは毛頭ないが。ところがこの『文章読本』の文章は作品でないせいか気さくでのびのびとしている。『春琴抄』の凝りに凝った、息苦しいまでの文章より、私にはこの方が文章として数段上のような気がする。・・」(p251)


うん。「気さくでのびのびしている」という『文章読本』をまた読んでみなくっちゃ(笑)。
さてっと、この谷崎潤一郎著『文章読本』の本文の前にある言葉に、こんな箇所があったのでした。

「・・ただ欲を言えば、枚数に制限されて引用文を節約したのが残念である。文章道に大切なのは理屈よりも実際であるから、一々例証を挙げて説明することが出来たならば、読者諸君の同感を得る上に、余程助けになったに違いない。・・」とあるのでした。

例証といえば、
芳賀矢一・杉谷代水編の二冊。
「作文講話及文範」は、明治45年に出版。
「書翰文講話及文範」は、大正2年に出版。
この二冊が思い浮かびます。

これについては、
中野重治著「本とつきあう法」(ちくま文庫)
に、こんな箇所があったのでした。

「ところで文章の書き方、手紙の書き方について学ぶには何を読んだらいいか。僕は太鼓判をおして『作文講話及文範』と『書簡文講話及文範』との二冊をおす。谷崎潤一郎の『文章読本』は『含蓄』ということを説いていただろう。しかし文章の書き方、手紙の文の書き方を教えた本としては、そういう書物としての含蓄のほうはこの二冊のほうに一段とたちまさってある。・・・・二冊のうちどっちか一冊を読めば、二人の学者がどれほど実地ということを肚(はら)において、少しでもヨリよくということを目やすにして、善意をかたむけてこの本をつくったかが流れこむように心に受けとられてくる。・・・古いといえば古い。とはいっても、日本語、日本文がそれほど変ったわけではない。またこういったものは、ある意味では古いものがいいためにこの本がいいのだ。・・」(p106)

うん。ここまできたら、向井敏さんが「本とつきあう法」から引用して、一読印象鮮やかだった、あの箇所も。

「ああ、学問と経験とのある人が、材料を豊富にあつめ、手間をかけて、実用ということで心から親切に書いてくれた通俗の本というものは何といいものだろう。僕はこれを刑務所の官本でたのしんで読み、出てから古本屋で見つけてきて今に愛蔵している。・・」(p107)

ということで、
谷崎潤一郎著「文章読本」。
「作文講話及文範」上下。
「書翰文講話及文範」上下。
の3冊を並べてみます。
そういえば、
谷崎著「文章読本」に
「感覚を研くにはどうすればよいかと云うと、
出来るだけ多くのものを、繰り返して読むこと
が第一であります。」(感覚を研くこと)

とあります。
出来るだけ多くは
私にはとても無理(笑)。
せめて、この3冊を、
繰り返して読めますように。
そう呪文をかけて、
あらてめて、本棚へ。

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9月22日今週の本棚。

2013-09-22 | 本棚並べ
今日9月22日の毎日新聞。
その「今週の本棚」に
気になった書評が二篇。
鴻巣友季子評による
岩城けい著「さよなら、オレンジ」。
こちらは、小説らしいので
私は買わない。読まないだろうなあ。
でも、書評は読ませました。

もうひとつの書評は
磯田道史評による
「吉村昭が伝えたかったこと」(文春文庫)
この本は、私はパラパラと講演の箇所を
拾い読みしたくらいだったのですが、
磯田さんの書評はいいなあ。
ぐいっと果物をしぼって、
コップに果汁をあふれさせたような味わい(笑)。

すこしだけ引用。

「だが、吉村ほど
作品の品質を信頼されていた作家もいない。
同業作家は当たり前のように吉村作品を
踏み台にして引き写した。
歴史的事実に著作権はない。
苦労して史実を見つけた吉村は、
いつも割を食っていた。
・・・・
東京中で一目置かれる古書店主が、
私に、ぼそっと、いったことがある。
『このごろは吉村昭を読むね。
自分は古文書の現物を売り買いしてるから、
歴史の現実を見てしまう。
他の作家のは嘘っぽくなってきて、
若い時分に読むのをやめた』。
吉村昭は達人が書き、達人が読む
文学なのであろう。
・・・・・ 」

引用をここで終わらせるわけにはいかない。

「・・誰よりも取材費をかけて仕事をしているのに、記録文学者は寡作になる。作家も生活者である。取材費がかさみ、作品数は少なくなるのがわかっていて、あえて記録文学を書き続けるのは、よほど志のある人間でなければ、困難である。吉村昭は『休まない作家だった。正月以外は、日々取材と執筆に勤(いそし)んだ』が、この理由で寡作となった。史実を映していないと断じれば、容赦なく、何百枚も書きためた原稿を自ら火中に投じたほどである。・・・・・・・それは歴史が証明した。東日本大震災が起きた時、人々が欲しがって品切れになった歴史書は、陳腐な歴史小説ではなかった。吉村昭の名著『三陸海岸大津波』であり『関東大震災』であった。・・・」

うん。書評を読める楽しみ。
もう、日曜日の毎日新聞は
買うのはよそうかなあ、と思っていた矢先でした。
もうしばらく読み続けることにします(笑)。
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李白の「静夜思」。

2013-09-21 | 本棚並べ
昨日は、お赤飯を頂戴しました(笑)。
さっそく、夕飯に食べる。
金時豆がはいって、くちあたりがよく、
ついつい欲張って食べてしまいました。

そのせいか、ゴロリと寝てしまい。
夜中の12時半頃に目がさめる。
すると、二階のベランダが、明るい。
出てみると、ちょうど上に満月。
夜空の端のほうに星がみえますが、
目がなれるまでは、月のまわりには星もみえず。

夜中に起き出し、シャワーをあびたあと、
ひさしぶりに本棚から、
谷崎潤一郎著「文章読本」をとりだす。
その最後の方に、
それはありました。
谷崎潤一郎が語るところの、李白の「静夜思」。

「・・・読むのでありますが、この詩には何か永遠な美しさがあります。御覧の通り、述べてある事柄は至って簡単でありまして、『自分の寝台の前に月が照っている、その光が白く冴えて霜のように見える、自分は頭(こうべ)を挙げて山上の月影を望み、頭を低れて遠い故郷のことを思う』と、云うだけのことに過ぎませんけれども、そうしてこれは、今から千年以上も前の『静夜の思ひ』でありますけれども、今日われわれが読みましても、牀前の月光、霜のような地上の白さ、山の上の高い空に懸った月、その月影の下にうなだれて思ひを故郷に馳せている人の有様が、不思議にありありと浮かぶのであります。・・・・」

せっかく、この本をひらいたので、
ほかの箇所も、パラパラとめくります。
こんな箇所が、ありました。

「そう云へば、漱石の『我輩は猫である』の文字使ひは一種独特でありまして、『ゾンザイ』を『存在』、『ヤカマシイ』を『矢釜しい』などと書き、中にはちょっと判読に苦しむ奇妙な宛て字もありますが、それらにもルビが施してない。その無頓着で出鱈目なことは鴎外と好き対照をなすのでありますが、それがあの飄逸な内容にしっくり当て嵌まって、俳味と禅味とを補っていたことを、今に覚えているのであります。」(体裁について)

午前3時をまわって、
もう一度、夜空をみあげると、
いつのまにか、雲に隠れておりました。

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拘泥しないで。

2013-09-20 | 詩歌
平川祐弘著「進歩がまだ希望であった頃 フランクリンと福沢諭吉」(講談社学術文庫)のはじめの方に、こんな箇所があります。

「この二人は大の常識人である。・・・・
冨山房百科文庫から最近訳が出た『月曜閑談』を開くと、訳者土居寛之氏の趣向もあろうが、サント・ブーヴの文芸評論の第一のものとして『フランクリン論』が巻頭に掲げられている。サント・ブーヴはその重厚な評論で、このアメリカ人を『常識の詩人』として尊重しているのである。
私がフランクリンに限らず福沢の自伝を愛する理由も同じことで、文芸作品として価値あるためには奇矯の言辞を弄する必要はない。常識も彼等ほど徹底すれば、偉大なる詩人となると同感する節が多々あるからである。その証拠に近代日本の詩人の中で誰一人、『福翁自伝』を凌駕するだけの興趣に富める自伝を書き遺していないではないか。文学を意図せずして文学作品と化した二人の自伝を、文学を意図して作品となり得なかった凡百の小説よりはるかに高く私は評価するのだが、しかし国文学史の上で『福翁自伝』はいまなお黙殺されたままのようである。」(p21)

「常識の詩人」というフレーズは、
とかく反常識を掲げる文学青年には、厭な顔をされるのだろうけれども、高齢化社会には、まっとうな響きがあります(笑)。


さてっと、ここまで引用して、
私に思い浮かぶのは、詩人・室生犀星氏の竹山道雄評でした。

「・・竹山道雄は昭和37年1月、その海外紀行文に対し読売文学賞を授けられた。選評を書いた室生犀星は、舌足らずのような詩人の語り口で、世間がいわない竹山の資質を的確に衝いた。
『海外紀行もソ連、西ドイツ物に及ぶとがぜんただ者でない文体を印象させた。私はこの人は詩を持っていながら物識りや学問に邪魔をされて、詩は文体の内面にふかく閉じこめられてしまったのだという解釈をこころみていた。・・・・現代作家の何人かが持つどうさつの細かい鋭さ等は、あっという間に大切な物象をこともなげに描き進んで、それには拘泥しないで幾らでも書けるあふれる物を見せていた。』」(p377)

上の引用は、平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)から。

ところで、
国文学史の上では、どうかとは別に、
「近代日本の百冊を選ぶ」(講談社・1994年)では、
福翁自伝は氷川清話とともに選ばれておりました
(その選者は、伊東光晴・大岡信・丸谷才一・森毅・山崎正和)。
その「近代日本の百冊を選ぶ」には、
竹山道雄氏の本は選ばれておりません。
百冊に選ばれていないものを読む、
という光栄が、竹山道雄の本にはあります(笑)。
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今日の古本。

2013-09-19 | 本棚並べ
今日届いた古本。

永末書店(千葉県松戸市稔台)
ゲーテ詩集(岩波文庫)全四冊。
1300円+送料200円=1500円
先払いでした。
本自体は帯付きで、
町の本屋さんにあって、そのまま
古くなったような塩梅。
頁もきれいです。
全四冊は、
一と三が、片山敏彦訳
二と四が、竹山道雄訳
となっておりました。


古書湧書館(愛知県豊橋市吉川町)
平川祐弘著「中世の四季 ダンテとその周辺」(河出書房新社)
600円+送料300円=900円

ふるさと書房(兵庫県篠山市古市)
平川祐弘著「米国大統領への手紙」(新潮社)
700円+送料290円=990円

2冊とも、カバー帯付き。
頁はきれいです。

さてっと、とりあえず
平川祐弘氏の古本はそろいました。
あとは、読むだけ。
読むのが遅いですから(笑)。
そのうち、
値のはる平川氏の新刊が、
古本で出ることを期待。
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われわれは。

2013-09-18 | 短文紹介
左足に補助器具をつけたまま、
今日は東京へ。
高速バスで、行き帰り。
手すりにつかまれば、階段の上り下りも楽。
歩行者の方が、気を使ってくださっている
と感じられる時もあり、ありがたい。

うん。いつもはそそくさと歩いていた
東京駅も、ゆっくりと歩くのは、
そういえば、はじめて(笑)。


産経新聞9月16日一面下に
「中国、知識人を続々拘束」という見出し
が気になっています。
記事にはこうあります。

「中国の習近平政権が言論、思想への引き締めを一層強化している。従来の言論弾圧に加え、体制をほとんど批判しない温和派とされる対日関係者や、企業家、記者をも次々と拘束し、15日までにその数は100人を超えたといわれる。『外国人と親しい関係にあったり、人権の尊重など、欧米の価値観に共感を持ったりする知識人が集中して狙われている』といい、強い懸念の声が上がっている。・・・・」
たけしのTVタックルなどに登場していた朱健栄教授(東洋学園大学)の顔写真が掲載されていて、「7月中旬に中国当局に拘束された」とあります。

竹山道雄著「昭和の精神史」は
戦後10年たって書かれておりましたが、
その最初の方に、こうあります。

「戦争がはじまるまでの大切な時期には、われわれは何事も知ることはできなかった。つぎつぎと起る不可解な事件にただ驚倒しているだけで、誰が主役でどこをどう動かしているのか、国はどちらへ行きつつあるのか、皆目分らなかった。そして、いまになって回想録の類を読んでも、それが史料として信頼できるのか否かは、一市民には確かめることができない。つまり、あのころの複雑をきわめた歴史は、いつか大歴史家がでて解明してくれるまでは知ることができない。それまでは、われわれは後始末のつかない中途半端な気持ちをつづけなくてはならない。しかし、・・・黙っていなくてはならないのは、いささかくるしいことである。私はいましばらくこのわきまえを忘れることにする。以下に記すことは、自分のひそやかな感想をメモした・・・・」


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月はあるじ、虫は友。

2013-09-17 | 詩歌
里見義作詞「埴生の宿」の一番目には

 花はあるじ、鳥は友。

二番目には、

 月はあるじ、むしは友。

という言葉があります。
近頃でいえば、季節的に「虫は友」の時期ですね。

竹山道雄著「樅の木と薔薇」(昭和22年2月)に

「『人間が歴史から学ぶことはただ一つ、――それは、人間は歴史からは何も学ばぬ、ということだ』という言葉は真実です。・・・・むかしは、こういう測るべからざる力に対する知覚を人間にあたえようとて、詩人が竪琴を弾じて歌いました。」

うん。竪琴といえば、竹山道雄の童話「ビルマの竪琴」。
そこでは、「埴生の宿」も歌われます。

平川祐弘著「開国の作法」に
「江戸の家庭、明治の家庭」という文が掲載されておりました。
そこから引用。

「幕末に渡英した中村正直は、異郷でイギリス人のhomeに迎えられ、その温かさに心打たれた。それは日本国内で孤児として育った若松賤子が外国宣教師に愛され、英米文学を読むうちに発見したなにかでもあった。里見義はイギリス人ヘンリー・ビショップ卿の『楽しきわが家』(Home,Sweet Home)の曲を聞いて、心がしめつけられるほどの共感を覚えた。しかし明治の人としてHome,Sweet Homeをそのまま直訳することはできなかった。自分の家庭を人前でほこるような自己顕示的なことは里見にはできなかったからである。彼は『万葉集』巻十一にある『埴生(はにふ)の小屋(をや)』の語を思い出した。

 彼方(をちかた)の赤土(はにふ)の小屋(をや)に
  ひさめ降り床さへ濡れぬ身に副(そ)へ吾妹(わぎも)
そして米人ペインの手になる19世紀英米の家庭讃歌の歌詞を次のように訳したのである。

 埴生の宿も、わが宿、
 玉のよそひ、うらやまじ。
 のどかなりや、春のそら、
 花はあるじ、鳥は友。
 オーわがやどよ、たのしとも、たのもしや。

明治22年にこの『埴生の宿』は『中等唱歌集』に採用されて、やがて広く国民に愛唱された。今日では『埴(はに)』が黄赤色の粘土であることを知る児童はすくないであろう。『埴生の宿』が土にむしろを敷いて寝るような貧しい小家であると知る大人もけっして多くはないであろう。しかしそれがどのようにつつましやかな家であれ、『埴生の宿』がわが家庭の讃歌であることを老幼の日本男女は知っている。・・・」(p167~168)


せっかくですから
中西進全訳注原文付「万葉集(三)」(講談社文庫)の巻第十一をひらく。
ありました。やはり、原文は「埴生」ではなく「赤土」となっておりました(p72)

せっかく万葉集をひらいたのですから、
「八重葎(やえむぐら)」=(雑草。わが家の卑下。)が
登場する歌もここに紹介しておきます。

 思ふ人来(こ)むと知りせば八重葎おほへる庭に珠敷かましを

 玉敷ける家も何せむ八重葎おほへる小屋も妹とし居らば (p98~99)


「埴生の宿」の二番目も
最後に引用しておきます。

  ふみよむ窓も、わがまど、
  瑠璃の床も、うらやまじ。
  きよらなりや、秋の夜半(よは)、
  月はあるじ、むしは友。
  オーわが窓よ、たのしとも、たのもしや。
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あっという顔。

2013-09-16 | 詩歌
平川祐弘氏の古本で、次に注文したのは

高原書店の2冊
朝日選書「謡曲の詩と西洋の詩」
講談社学術文庫「ルネサンスの詩」
どちらも1000円
2000円+送料300円=2300円

「謡曲の詩と西洋の詩」の帯は
福原麟太郎氏でした、こうあります。
「この博学にして優雅な比較文学論は、謡曲の詩と神曲の詩を、内容と構造から同型のものとして研究するところに始まり、白楽天よりブレヒトに至る広汎は世界を眺めて、美しい環を画きつつ広がってゆく人間曼荼羅である。」

う~ん。何を言いたいのかわからない(笑)。
ただ、「この博学にして優雅な比較文学論」という書き出しは、いいですね。読み終ったら、もう一度帯を味わってみます(笑)。

ところで、
平川祐弘著「開国の作法」の竹山道雄追憶文に

「その時は自分が婿になろうとは思いもしなかった。その私が依子と結婚した後、
『実は私は先生の「近代思潮」のレポート20枚が面倒で、二行ごとに一行あきの詩を訳して差出しましたら、四単位分まとめて可を戴き閉口しました』
と白状すると、氏はあっという顔をして、
『生意気な真似をする学生がいる。落第点をつけてやろうと思ったが、追試験も面倒だ。それで最低点の五十点にしてやった。あれが君でしたか』
と笑った。
文筆活動の上では『第一作でその人のもの書きとしての印象が決るから、そこが大切だ』と注意を受けた。・・・」(p265)

うん。第一作よりも前の、訳詩の「レポート20枚」(笑)。

ちなみに、平川祐弘著「ルネサンスの詩」の
「内田老鶴圃版へのあとがき」は昭和36年夏となっており。昭和37年10月竹山道雄長女依子、平川祐弘と結婚。

「内田老鶴圃版へのあとがき」のはじまりは
「『ルネサンスの詩――城と泉と旅人と』は、筆者の東京大学大学院人文科学研究科比較文学比較文化過程の修士論文の一部(約三分の一を収録)である。」とはじまっておりました。

講談社学術文庫は、そののちのあとがきも収録されていて、「沖積舎版へのあとがき」には、こんな言葉を書き込んでおりました。
「新しい東大駒場学派の一人として、一外国文学研究の枠内に自己を限定することをせず、心奥から湧いて来る関心に忠実であろうとしたお蔭で、私は学者としてなにがしかの仕事が出来たのではないかとひそかに思っている。」(p309)

う~ん。この「・・ひそかに思っている」というのが
福原麟太郎氏のいう「・・広がってゆく人間曼荼羅」なのだろうか。
うん。この秋は、平川祐弘氏の詩を読むんだ。
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