和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

能狂言の室町時代。

2021-12-31 | 古典
西原大輔著「室町時代の日明外交と能狂言」(笠間書院)。

はい。各章のはじまりだけを引用することに。

第一章のはじまり

「中華思想という『中国之夢』に陶酔し、拡張主義的になった
チャイナが、海を越えて強権を日本に及ぼし、服従と属国化を
要求し始めた時、我が国は如何に対処すべきか。
能大成期の日本は、このような対明外交問題に直面した。

中華思想では、華(か)と夷(い)を区別し、
皇帝と国王との間に上下関係を設定しようとする。
この華夷秩序を形式的に受け入れる限り、
中華は周辺諸国に経済面で寛大だった。
朝貢に対する回礼品は、数倍以上の利益を生んだ。

また、皇帝に国王と認定された周辺諸国の権力者は、
自国内で政治的権威を高めた。

このような巧みな抱き込み策に組み込まれまいと抗う時、
日本は全く次元の異なる論理や価値観・世界観を必要とした。
 ・・・・

この第一章では、中華思想に取り憑かれた明朝の『帝国主義』に
対する、日本の独立精神貫徹の物語として、また、チャイナ中心の
華夷秩序への対抗言説として、≪白楽天≫を読み解いてゆきたい。」
(p12)

うん。引用が長くなりました。
このあとは、短く各章のはじまりを引用。

第二章のはじまり
「対馬に襲来した朝鮮軍を退散させたという吉報が、
九州の少弐満貞から都に到着したのは、応永26(1419)年
秋8月7日のことだった。応永の外寇である。・・・・」

第三章のはじまり
「ある年、東シナ海でチャイナと日本の紛争が発生、
日本船がチャイナ側に拿捕され、乗組員が拉致された。

日本としても、対抗上チャイナ船を拘束し、
乗組員を日本国内に拘留した。能≪唐船≫は、
このような穏やかならぬ記述ではじまる。・・・・」
(p76)

第四章のはじまり
「我が国に華夷秩序を強要するチャイナを嫌い、
明国との断交を行なった足利義持(1386~1428)は、
応永35年1月18日に亡くなった。その後、
籤(くじ)引きで選ばれた六代将軍足利義教(1394~1441)が
室町幕府を引き継ぐと、外交方針が反転する。
義教(よしのり)は、貿易による経済的利益を重視し、
日明間の国交回復を目指した。

明朝の属国という外交形式を甘受することで
実利を取りに行ったのである。・・・」(p108)

第五章のはじまり
「≪善界(ぜがい)≫の作者竹田法印定盛(たけだほういんじょうせい)
は、大陸の血を受け継ぐ人物である。祖母は明人で、先祖の四分の一が
外国人だった。いわゆるクォーターである。・・・

その定盛が、反チャイナ的な能≪善界≫を書き残したことは、
極めて興味深い。・・・」(p128)

第六章のはじまり
「日本人は一体いつから、中華世界に特別な権威を認めなく
なったのだろうか。またいつから、チャイナを低く見るように
なったのだろうか。・・・・・・・・・・

このような疑問を持ちつつ、日本の歴史をふりかえる時、
室町時代の能成立期が注目される。我が国を上位国とし、
大陸を含む周辺国を属国視する、日本中心の世界観。
その水源の一部は謡曲にもある。本章では、
能≪岩船≫を取り上げ、作品にあらわれた日本中心型
華夷観について考えてゆきたい。」(p154)

第七章のはじまり
「≪春日龍神≫は、愛国的な印象を与える能である。・・・」
(p188)

第八章のはじまり
「狂言≪唐相撲≫の観客は、眼前で展開する異国趣味の
面白さに強い印象を受ける。和泉流では≪唐人相撲≫、
大蔵流では≪唐相撲≫と称するこの演目には、
極めて大人数の立衆が登場する。
通常の狂言が持つ簡素な美とは異なり、
派手な装束を着た人物が、橋掛(はしがかり)まで
ぎっしり立ち並ぶ。まるでお祭りを見ているような気分である。」
(p216)

はい。さわりだけですが、ここまで。
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足利義満のチャイナ趣味。

2021-12-30 | 産経新聞
産経新聞の正論欄(2012年・12月28日)で
平川祐弘氏は、こうしてはじめておりました。

「文学研究が同時に外交研究として通用するなら、秀逸な
証左だが、西原大輔東京外語大学国際日本学研究院教授の
『室町時代の日明外交と能狂言』は見事な国際文化関係論だ。
著者は気持ちのいい学究で、遠慮せず、先輩の誤りを指摘し、
問題の所在を明らかにする。」

はい。気になったので
西原大輔著「室町時代の日明外交と能狂言」(笠間書院)を
注文すると、昨日届く。

はい。平川祐弘氏の12月28日の産経の文章が
いまいち呑み込めない箇所があったのですが、
はい。西原氏の本を手にすれば理解が深まる。

といっても、ろくに私は読んでいないのですが、
まあ、いいでしょう。「はじめに」から引用。

「能の成立を考えるに際し、戦後的価値観にとらわれてはならない。
権力者に抵抗するのが正義だなどという発想は、歴史を見る眼を
曇らせてしまう。むしろ御用役者は、将軍の意を迎えるべく、
最大限の努力をしたのである。そして、将軍の意向の一部に、
明(みん)や朝鮮に対する外交政策が含まれていたことは、
言うまでもないだろう。義満が唐人風の服を着てチャイナ趣味を満喫し、
明の使節を歓迎しようとしている時、
唐人を日本から追い返す≪白楽天≫のような能が作られるはずもない。
逆に、義持が明との断交を進めている時、
チャイナを賛美するような作品を上演することなど、
自殺行為に等しいのである。

14世紀後半から15世紀前半にかけては、能の大成期と呼ばれる。
ちょうどこの時期には、日本と明朝(みんちょう)との間で、
勘合貿易や私貿易などの通商が盛んに行われた。
その反面、朝貢(ちょうこう)や冊封(さくほう)、
あるいは倭寇(わこう)をめぐって、
激しい外交的、軍事的軋轢(あつれき)が生じてもいた。

・・・・能が誕生した頃、日本と明朝との間には、
友好と緊張が併存していた。能を庇護した足利義満は、
前のめりにチャイナへ接近した。・・・・・
中華崇拝、親チャイナ志向の為政者が能のパトロンであった
という事実は、謡曲を解釈する上で非常に重要な要素である。」

はい。私は「はじめに」の10ページほどの文をすこし
引用しているだけなのですが、「はじめに」の最後の箇所も
引用しておきます「本書のねらい」という箇所です。

「本書を執筆するにあたり、
現代の国際情勢が大きな刺激になった。
平成22(2010)年の尖閣事件以降、中国共産党は、
東シナ海での侵略的姿勢を強めている。また、
南シナ海の島々と軍事基地化は・・・・
 ・・・・
一方、現在も両国間の貿易は相変わらず盛んであり、
双方に大きな利益と繁栄をもたらし続けている。

有力な日本企業のほとんどが、争うように大陸に進出した。
日本の会社が利益を求めて中国に殺到した様子は、あたかも
室町時代の有力大名や寺院が、船を仕立てて次々と勘合貿易に
参入した事実を思い起こさせる。

以下、日本とチャイナの政治的、軍事的対立と、
相互の旺盛な通商という、21世紀初頭の状況を念頭に置きつつ、
室町時代の日明外交と能狂言との関係について論じてゆく。

なお、本書では中華人民講和国の略称を『中国』とし、
一般名称には『チャイナ』を用いた。」(p1~10)



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差し障りのある本当のことばかり。

2021-12-29 | 本棚並べ
ネットで古本を簡単に安く手にいれるとなると、
あとはどんな古本を買うかという選択の楽しみ。
せっかく買っても読まなければ、しょうもない。

平川祐弘決定版著作集が出ておりますが、
とても高くて手がでないし、こういうのは、
買っても読まない。わたしは読み通せない。
ということが分かっている。こういう時は、
古本で平川祐弘氏の単行本を選んで買うのでした。

最近の古本購入して楽しめたのは、
粕谷一希『書物への愛』(藤原書店・2011年)。
うん。古本購入の流れは、すぐに忘れるので、
ここは、購入までの経緯報告。

月刊Hanada2022年1月号に
平川祐弘氏の連載『一比較研究者(コンパラティスト)の自伝』があり、
39回目でした。そのなかに、こんな箇所があります。

「・・私たちの対談は粕谷一希『書物への愛』に活字化されている。
・・・今度読み直して実のある対談だったと思った。・・・」(p349)

はい。この一言が購入動機でした。
ちなみに、『書物への愛』は8名の対談を載せてあり、
わたしが、読んだのは平川祐弘氏との対談のみ。

わたしは、数学と外国語と、どちらも苦手。
それでも、平川氏のお話は、興味をそそられました。
たとえば、こんな箇所。

平川】 いや私は語学の天才ではありません。 
習うのにかけた時間に比例してできるだけで、
持っているのはある種の要領の良さだけです。
 ・・・・・・
それに私自身語学を教えていて授業を休んでも
よく出来るというような天才には東大でもつい
に会わなかった。(p129)

うん。ここいらを引用しはじめるとキリがないので、
とばしてゆきます。

平川】 ・・僕の場合は、中国に行っても、台湾に行っても
   『ちょっと習おう』という気になってしまって、
    ついやってしまうんです。

しかし外国語を習っている間は人間受動的になるから
自分で創造的な論文が書けなくなる。・・・・・

とはいえ、やはりどこの大学にも一人くらい複数の語学の
よくできる人がいないといけない。そうしないと外国人教師が
とかく日本人外国語教師をなめていけない。・・・・(p134)

 このあとに、『三点観測が大切ですね』という箇所になります。

平川】 二点しか見ない人の欠点について申しましょう。
例えば『日中関係が大事だ』といったことについても、
それによって日米関係が悪くなっては困るわけです。
また日台関係が悪くなっても困る。

『友好』を言う人は多いですが、
ところが『友好』というのは、
二点ではなく三点で築かなければいけない。

西洋の学者には、中国大陸と台湾の両方に行っている人が非常に多い。
しかし、日本の場合は、その割合が非常に少ない。

最近はそうでもありませんが、一時期は
台湾に行く人と大陸に行く人がはっきりと分かれていた。

僕は、台湾と大陸の両方に行っていて、・・・
北京で日本人に『あなたは台湾派ではないのか』と
聞かれたことがあります。実際、困ったことも経験しました。
(p136)

はい。まだ引用したりない気分ですが、
このくらいにして、最後を引用。

平川】・・・とにかく今日は、
何か差し障りのある本当のことばかり言ってしまって・・・。

二昔前、粕谷さんは『歴史の読み方』(筑摩書房・1992年)で
書物を手がかりに十人の名士と対談していて、それが見事で、
君は論壇の御指南番だなと感心しましたが、

まさか私が呼び出されるとは思わなかった。
粕谷君にも、こんなにしゃべったことはあまりないだろう。

粕谷】 しゃべりっぱなしだよ(笑)。

平川】 やはり、君に引き出されたんだ(笑)。 (p193)


はい。この最後に出てくる『歴史の読み方』も
古本で注文することにしました。


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日出づる処(ところ)の天子。

2021-12-28 | 産経新聞
ちょうど、産経新聞12月28日のオピニオン「正論」欄は
平川祐弘氏の文が掲載されております。
うん。ここを引用。

「中心的な大文明の周辺には文化の混淆(こんこう)が起る。
日本は漢文化の影響を受けつつ自己を維持した。
『和魂漢才』と呼ばれた時期である。

その千年後には、西洋文化の影響を受けつつも自己を維持した。
『和魂洋才』と呼ばれた時期だ。
グローバル化の際、クレオール化といわれる文化の混淆は起るが、
肯定的に受け止めたい。

排他的ナショナリズムが過剰な南北朝鮮は、
独立後、漢字を廃した。偏狭な政策だ。

漢字文化に汚染されたとか、
横文字に日本が侵食されたとか、
私は大仰に騒ぎたくはない。
和食も中華料理も洋食もキムチも好きな
日本人は、暮らしも読書も和洋折衷だ。

しかし、一党専制の支配だけは御免蒙(こうむ)りたい。
顧ると、田中角栄の日中国交回復後、『産経新聞』は別だが、
大新聞の親中の旗振りは異常だった。・・・・・」

はい。ここまででもいいのでしょうが、ですが、
ここは、平川祐弘氏の文の最後の箇所も引用しておかなければ。


「・・・日本外務省のチャイナ・スクールには
『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、
 恙(つつが)無きや』という
肩を張った平等感覚はないらしい。

習近平国家主席が唱える
『中国の夢』の正体は、華夷秩序の復活だ。

ヒトラー、スターリンと並ぶ20世紀の三大独裁者の一人、
毛沢東を偉大な師と仰ぎ、その大きな額を天安門広場に飾る
国に碌(ろく)なことはない。

財界人も政治家もそんな一党独裁体制に媚びる
まねだけはしないでもらいたい。」
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私は田舎者だから。

2021-12-27 | 先達たち
古本に「私の中の日本人・続」(新潮社・1977年)があった。
単行本200円なので買っておきました。

このなかに、河上徹太郎による「福原麟太郎」と題する
5頁ほどの文が入っています。うん。私はこの箇所だけを
30~40年ほど前に読んだことがありました。
「私の中の日本人 福原麟太郎」と題して、
何かのエッセイ集にはいっていたものでした。

(ちなみに、この特集は、『波』に各界の方々にこのテーマで、
  書いてもらったものを本にまとめられたものでした。)

この短文の中に今でも印象に残っている箇所がありました。
先生を語っているのですが、こんな箇所なのでした。

「芝居を作るのが作者や役者ではなく観衆であるやうに、
先生を作るのはお弟子である。
今の学生にはそんな能力を失はれてゐるのである。

さういへば吉田松陰が良師であったのは、
彼の資質もさることながら、久坂や高杉、
殊に入江久一、品川弥二郎が良い弟子だつた
からだともいへよう。」
 (「私の中の日本人・福原麟太郎」)

はい。この箇所は、分かったようで、分からない。
でも、印象にだけは残っていて、気になっておりました。
なぜ、こんなことを思い出したかというと、
うん。これが手掛かりになるかもしれない、
そう思える言葉と、最近であったのでした。

それは、モーリス・パンゲの本が
ちくま学芸文庫にはいった際に、
解説を書いた平川祐弘氏の文にありました。
ちょっと、その箇所を引用してみます。

「モーリス・パンゲさんは1929年フランスの中部モンリュソンで生れた。
エコール・ノルマン・シュペリュールの出身で1958年に来日した。

東京大学で教えたほか東京日仏学院長も勤めた。
その種のキャリヤーの人の中には早く本国の大学教授の
ポストに就きたい、という焦りにかられる人も見かけるが、
パンゲさんにはそうした人にありがちな日本蔑視や知的倨傲
がおよそ無かった。『私は田舎者だから』などと言った。

1968年に帰国し一旦パリ大学のフランス文学の専任講師となったが、
東大駒場の教養学科フランス分科の英才に教えた時の方が面白かった、
と感じた。それで1979年、人も羨むパリ大学の職を捨ててまた戻って来た。
 ・・・・・・・・

パンゲさんは日本文をほとんど読まない。ところがそのパンゲさんの
日本に関する英文や仏文の資料の取捨選択、そしてテクストの読みが
抜群に鮮やかなのである。歴史的事実のチェックも正確だが、
心理的特質の解釈はさらに秀逸なのである。

長年、日本の学生に接したことにより日本的オイディプスの
正体がはっきり浮かびあがって見えたのだろう。
本書を読んで、
日本文が読めずとも日本人の心理を正確に把握することは、
ラフカディオ・ハーンやパンゲさんのように
日本の学生と親しく接した人には可能なのだ、
ということを私は遅蒔きながら悟った。・・・・」

(p664 モーリス・パンゲ『自死の日本史』ちくま学芸文庫 )

うん。
「先生を作るのはお弟子である。
今の学生にはそんな能力を失はれてゐるのである。」

という、河上徹太郎氏の言葉が、今頃になって、
その理解の糸口が掴めてきた気がするのでした。
そうか、これを『遅蒔きながら・』というのだ。
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知る人ぞ知る、事実だった。

2021-12-25 | 本棚並べ
「ですから、大学の学科にも栄枯盛衰がある。
 大学の学科なんて小さいですから、
 レストランと同じでシェフが変われば、
 味もあっという間に変ってしまう。」

はい。平川祐弘氏の言葉です。
(p143・粕谷一希著『座談・書物への愛』藤原書店)

平川祐弘氏の雑誌連載の自伝にも
同じような箇所がありました。

「だが、有名店もシェフが代われば味も落ちる。
 それと同じで、学科の栄枯盛衰はめまぐるしい。
 
 佐伯彰一氏が『東大比較も、島田(謹二)先生から
 直接教えを受けた世代がいなくなると、後はもう
 持たないな』と言った。その通りになった。
 駒場学派の影はたちまち薄れた。
 主任には横綱相撲がとれる人が欲しい。
 上に仕事上の立派なモデルがいれば、後輩はついてくる。」

(p357・月刊Hanada2021年12月号)

もどって、粕谷・平川両氏の座談では

平川】 そうです。大学や研究所や学科は新しくできた
    最初が一番面白いんですね。新しい視界が開け、
    新鮮な研究が出来るんです。駒場もそうでした。
    京大の人文研も、桑原武夫の時代は盛んでした。
      ・・・・・・
    結局、札幌農学校のように、草創期が一番良い。
     (p139)

こういう箇所を引用していると、
ああ、そうかと連想がひろがります。
新しい視界がひろがる。けれども、手が追いつかない。
遅くとも、何とかたぐり寄せようとする。
ここでは、二人。
芳賀徹とともに、梅棹忠夫を思い浮かべます。

どちらも、遅筆でした。
まずは、芳賀徹について

「私(平川祐弘)が先に著作集を出すことになった時、
 勉誠出版に『【芳賀徹著作集】も出してはいかが』と声をかけた。
 すると『芳賀先生は仕事が遅いから』と難色を示し、
 『【平川祐弘著作集】の第一回配本が一月遅れたのも
 芳賀先生の解説が遅れたからです』と言った。
 しかし芳賀が『西欧の衝撃と日本』のために寄せた一文は、
 学問の大局を描いてすばらしい。」(p357・12月号)


平川祐弘氏の文章は「注」も読ませます。

「60歳で定年で東大を去るに際し、私たち2人は
『叢書比較文学比較文化』を企画した。この時も
芳賀が平然と遅れたのだが、中央公論社の平林さんから、
私が遅滞の責任者であるかのごとく電話で叱責された。
あまりに理不尽な事に思い、出版記念会の席で、
それについて公然と芳賀を非難した。

私は話の下書きを用意する人間で、その場の感情に
流されることはない。が語調がきつかったせいか、
来会者はしんとなった。ツルタは
『立食パーティーの座が白けて、
 芳賀の方に寄る人と平川の方に寄る人と二派に分かれた』
などと大袈裟な観察を後で述べた。
すると亀井俊介が笑った。
『ああ平川が言っても、あの二人は仲がいいんだから』。」
(P356・Hanada12月号)

歯に衣着せぬ平川氏の文だけを引用すると間違うので、
ここは、同じ号の別の箇所も引用

「学者の価値を測る基準はいろいろある。
・・・・
芳賀には、時間厳守などの外的要請より大事な、
内的要請があった。心の泉から豊かに湧き出す人の文章は、
『アステイオン』等に寄稿する他の人の知識本位の文章と
風格が異なる。品位ある随筆は芸術品として結晶する。そこが尊い。」
(P354・同上)

ちょっと、遅筆ということで引用していたのですが、
寄り道して、この引用している12月号の連載の最後は
平川祐弘による、芳賀徹へ弔辞が載せてあるのでした。
そこから、ここを引用。

「父君芳賀幸四郎教授の同僚小西甚一先生は
 幸四郎教授の最高傑作は息子の徹と申しました。」

「手紙に限らず、丁寧に推敲された芳賀の文章は
 言語芸術として香り高い。絶品です。
 しかし徹という人間はさらに高雅でした。
 私どもは君の如き優れた人を友とし得たことを
 生涯の幸福にかぞえます。・・・・」(P361)


はい。芳賀徹について長くなりました。
つぎ、梅棹忠夫の遅筆を引用してみます。
加藤秀俊著「わが師わが友」(c・books)より

「北白川の梅棹邸には、わたしをふくめて、
何人もが足をはこび、深更にいたるまで、きわめて
雑多な議論をつづけた。例外なしに酒を飲んだ。
 ・・・・・
そんなある晩、突如として伊谷純一郎さんがとびこんできた。
何の論文だったか忘れたが、梅棹さんの原稿だけがおくれて
いるために本が出ない、早く書け、というのが伊谷さんの用件であった。

梅棹さんは、大文章家であるが、執筆にとりかかるまでの
ウォーミング・アップの手つづきや条件がなかなかむずかしい
かたである。一種のキツネつき状態になって、そこではじめて、
あの名文ができあがる。

伊谷さんもそのことはご存知だ。ご存知であっても、
梅棹論文がなければ本ができないのであるから、
これもしかたがない。
その伊谷さんにむかって、梅棹さんは、あとひと月のうちに
かならず書く、といわれた。伊谷さんは、その場に居合わせた
わたしをジロリと睨み、加藤君、おまえが証人や、
梅棹は書く、と言いよった、おまえは唯一の証人やで、
とおっしゃるのであった。・・・・」(P84)

うん。藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)
からも引用しておきます。

「原稿依頼のファイルはつぎつぎと書斎に持ちこまれたが、
いったんはいってしまうと、なかなか出てこなかった。
・・・しめきりまでに原稿といっしょに返ってくるのは、
二、三割ではなかっただろうか。

しめきりがせまって、編集者から催促の電話が何度もかかり、
しまいに京都までおはこびいただいたが、ついに完成しなかった
ものもある。一年、二年ともちこし、とうとう出版社のほうから
とりさげられたものや、十年、二十年をへて、いまだにそのまま
眠っているものもあるようだ。
『遅筆の梅棹さん』の評判は、わたしなどがくる前から、
知る人ぞ知る、有名な事実だったのである。」(P238)

はい、これが「知的生産の技術」の著者のことなのでした。

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今度は問題を出すほう。

2021-12-24 | 本棚並べ
小林秀雄・岡潔対談「人間の建設」に、
今でも、忘れられない言葉があります。
まずは、その箇所から引用。

小林】 今度は問題を出すほうですね。

岡】  出すほうです。立場が変るのです。
    ・・・・・・

小林】 ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。
問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。

問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。
この考え方はたいへんおもしろいと思いましたね。

いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、
物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。
答えばかり出そうとあせっている。


つぎの引用は、
うん。粕谷一希座談『書物への愛』(藤原書店・2011年)。
そこにある。平川祐弘氏との対話のなかに
『試験で問題を出すべきなのは』という箇所がありました。

平川】 例えば、『国際関係論』や『日本近代史』
といった試験で問題として出すべきなのは、

『なぜ日本は台湾で評判がよく、朝鮮では評判が悪いのか』
といった類の問題提起が大切です。

先日の『JAPAN デビュー』といったNHKの番組を見ても、
『植民地主義は悪だ』という前提だけで論じているのがよく分かる。
あれでは、全くつまらない。

むしろ、なぜそういう台湾と朝鮮の差が生まれたのか、
ということを考えるのが、歴史であり、学問でしょう。
しかし、そう聞かれて、すぐに答えられる人は本当に少ない。
(p176)

うん。ことあとに、二人して答えているのですが、
ここでは、『問題提起の大切さ』なのでここまで。


最後は雑誌からの引用。
雑誌Hanada2022年2月号が出ております。
そこに、平川祐弘氏の連載があり、今回で40回目。
パラパラとひらくと、南山大学の入試問題に選ばれた、
平川祐弘氏の文章が引用されております。

「この入試問題は、私の文化史認識をとりあげ、
『次の文章は、〈源氏物語〉の英訳者、アーサー・ウェイリーに
ついて論じた書物の一節である。後の設問に答えなさい』とある。

一国文学史の狭い枠を脱した私の見方がこんな形で若い世代へ
伝わるとは忝(かたじけな)い。出題者に感謝する。」(p350)

はい。雑誌の3段活字で4ページが入試問題からの引用。
その文章から、わたしは、ここだけ引用してみます。

「・・・ちなみにチェンバレンは神道の宗教的価値を認めず、
琴、三味線は聞くに堪えないから火にくべて貧民に暖をとらせる
がよかろうといって、ラフカディオ・ハーンを怒らせた人である。

問題はこのチェンバレンとハーンの二人の対立が公然化した時、
西洋人の多くは、いや少なからぬ日本人も、チェンバレンの肩を持った、
いや今日でも持ち続けるということであろう。

だがチェンバレンより39年後、日本暦でいうと明治22年に
ユダヤ系英国人の家庭に生まれたアーサー・ウェイリーは、
チェンバレンとはおよそ違った。

彼は西洋キリスト教文明のみを普遍的価値があるとする見方に
与(くみ)しない。ウェイリーは・・・
日本についての最高権威と目されたチェンバレンの見解を
次々と手厳しく否定した。
第一次大戦後、和歌と能楽の英訳で日本学者としてデビュー
したウェイリーは『源氏物語』のテクストを読み、
平安朝文化の洗練に感嘆した人である。・・・・

ウェイリーの英訳『源氏物語』がおびただしい激賞を
浴びたことは知られている。・・・・
日本人には知られることが薄いが、そして
英米人にも必ずしもはっきりわかっているわけではないけれども、
もっとずっと大切な点は、この翻訳が両大戦間の『英語芸術作品』
として抜群の出来映えであるということであろう。
ウェイリー訳で読むと、源氏の世界が
思いもかけぬ新しい光を浴びて躍動する。・・・・」(p351~352)

うん。大学受験で真剣に、この問題を読み込んでいる
若い人たちを思い浮かべてしまいます。

ちなみに、この試験問題が引用されている雑誌掲載の
その題は、『源氏物語を日英両語で読む』とあるのでした。
それを読んでいった会「よみうりカルチャーの皆さん」の記念写真も
掲載されていて、その顔ぶれをみれば、受講者はほとんど高齢の方々。

うん。雑誌掲載のときは、一冊の本になったときよりも、
写真が多い。写真の『よみうりカルチャーの皆さん』の
顔ぶれを見ながら知らない人ながら、楽しめるのでした。



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アマノジャクの練習問題。

2021-12-23 | 本棚並べ
たしか、大宅壮一氏の娘さんが、テレビの
コメンテイターで登場してたと思うのですが、
うん。最近も登場されているのでしょうか?

板坂元著「考える技術・書く技術」(講談社現代新書・1973年)に
その大宅壮一氏のエピソードが登場してました。そこを引用。

「評論家の大宅壮一は、
何か事件があって新聞社が意見を電話できくと、
『賛成の意見が欲しいのかね、反対のが欲しいのかね』
と聞いてから、
紙面で大宅壮一氏談となる意見を述べたものだそうだ。
賛否どちらでも即座に意見が出てくる頭のはたらきは、
大したものだと思う。・・・・」(p42)

このエピソードを思い出したのは、
粕谷一希・平川祐弘の座談を読んでいてのことでした。
加藤周一(1919~2008)を二人して語った箇所があります。


平川】加藤さんは頭の切れる本当のスターで・・・(p158)

その頭の切れる加藤周一氏を、平川氏は語ります。


平川】 あまり言い過ぎてはいけませんが、
土着的な右翼論壇ほどではないにせよ、左翼論壇には
自家中毒症状があったと感じます。例えば、加藤周一などは、

『朝日新聞』の社説に合うような意見をずっと書いていたでしょう。
そのようにして『朝日』の評論家として絶大な力を発揮していたと思います。

それで論説委員たちは加藤さんや大江健三郎のようなえらい人も
自分たちと同意見だとたのもしく感じていたのかもしれませんが。
  ・・・・・

彼は、オーストラリアの方と結婚しましたが、当時、ドイツに行くと、
『この前は、イタリアと組んだから失敗したのであって、
 だから今度はドイツと日本とだけで組もう』と言う酔っ払いが
実にたくさんいてからまれた。加藤氏も当然そういうことは
知っているはずなのに、
『そんなことは聞いたこともない』といった調子で
日本の平和主義や日本人のドイツ崇拝にあわせて日本の新聞雑誌に
記事をお書きになるんで、不思議に思っていた。
しかし加藤さんは頭の切れる人で、発言は鋭かった。・・・・」
 (p157~158)


はい。私は読んだことがないのですが、作家の高橋和巳(1931~1971)
もこの対談の話題に登場しておりました。うん、せっかくですから、
この機会に引用しておきます。

  大新聞の論調に合わせて人民中国礼賛を書いた方には
  左翼なりの世渡り上手が実に多かった。(p160)

こうしたあとに、平川氏は続けます。

平川】中国文学者で作家の高橋和巳さんなどは、
ダンテ『神曲』の翻訳で1966年に河出賞をいただいた時に
氏も賞を取られて一緒になって、隣で
『いや、文革というのはひどいもんだ』とさんざん聞かされていたのに、
新聞にお書きになる時は、中国礼賛ばかりで、
『なんだ、この人は?』と正直思いましたね。

粕谷】高橋和巳というのは、ひどい男ですよ。
ただ、彼が書いた本を読むと、彼自体が全共闘みたいなものだから、
全共闘の精神状態というのはよく分かる。
他は、ゲバ棒振り回すだけで何を考えているかすらわからないから。
高橋和也を読むと、『なるほど、こういうことを考えているんだ』と
理解できる。そういう役目は果たしたが、やはりひどい男ですよ。
  (p160)

つぎに、白川静さんのことになる。

平川】非常にしっかりした学者ですね。

粕谷】高橋和巳は、その白川静さんのところに行っていた。

平川】それで恩師である吉川幸次郎批判をやるでしょう。

粕谷】だから、その白川さんに
『高橋和巳はどういう人ですか』と聞くと、
『そうだな、女々しい男や』と、その一言で終わってしまった。

平川】それはそうかもしれない。
だからこそ敏感で、時代の流れもよくキャッチできた、
とも言える。 (~p161)

はい。この座談は2009年10月に掲載されたとあります。
さて、最初の板坂元著「考える技術・書く技術」にもどって、
大宅壮一氏のエピソードを引用したすぐあとに、
板坂氏は、こう書いておりました。

「それはさておいて、賛否どちらかの立場をとる場合に、
反対の立場についても十分に考えをめぐらすことは必要なことであって、
アマノジャクの練習は、そのためにも日頃からやっておくべきであろう。」
(p42)




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坊様も神様も・・。

2021-12-21 | 道しるべ
平川祐弘の連載自伝の32回目「神道の行方」。
これが2021年5月号のHanadaに掲載されておりました。

元旦も近づくので、あらためて読みます。
『さわらぬ神』という箇所をとりあげてみます。

「神道は・・占領軍の『神道指令』が出てから、
ひどく悪者扱いされた。それに異議を唱えた

東京高等師範の性善良な教授が『皇道哲学者』
として教職を追放され、一家は気の毒な目に遭った。

さわらぬ神に祟りなし、とはまさにそのことで、
私も背を向けた。」(p349)

そう背を向けた平川祐弘氏が西洋と接し
神道的感性に目覚めた記憶がつづられているのでした。

「西洋側の日本観察をたどるうちに私が気づいた点も多い。
 ・・・・
 神道観で感銘を受けた人は西洋人の神道発見者
 ハーンとクローデルで・・・

 〈クローデルの日本観〉を『歴史と人物』1974年2月号に
 載せた時、編集長の粕谷一希が
 『君のように、天皇について肯定的に書くと、論壇からほされるぞ』
 と注意された。世渡り下手は自覚している。
 ・・・・・
 大学人として身分を保障されているのは、
 自己に忠実に書くためだ、と信じている。
 私はその立場を変えることはない。」(p354~355)

さて、1931年生まれの平川祐弘氏は、
ここでは、ご自分のことに触れておりました。



「私は若い頃は無神論者とは言わずとも理性主義者と思っていた。
神棚や仏壇にお参りする。そんな正月風俗だが、注連縄(しめなわ)
を飾っても誰も神道とはおもわない。
クリスマスに銀紙のチョコレートなど子供心に嬉しい贈り物だが、
それが平川家ではキリスト教の行事でなかったのと似ていた。

これがご先祖様のお墓参りをする、お盆やお彼岸なら、
仏教色が感じられよう。だが父は分家して東京暮らし、
盆暮に帰省しない。
戦前は、父の河内や母の淡路は地理的に遠いばかりか
子供には宗教的に縁遠かった。」(p347~348)

「父が亡くなった・・・
家の宗教は真宗と聞いていたから、電話帳で調べて
真宗の坊様に来てもらった。初対面である。
お寺さんとの関係はいかにも薄い。

だが無信心ではないらしい。
本を出すたびに私は仏壇にお供えして、
ちーんと鉦(かね)を叩いて手をあわせる。
親に見守られて私達が今日の幸福を得ている
ことは、家内もわかっている。

平川家には、行きつけの神社も寺もなく、
今までこの自伝におよそ宗教の話は出なかった。
坊様も神様も牧師も登場しない。しかしそこは
たいていの日本人と同様、本当は無信心ではない
のかもしれない。・・・」(p350~351)

ちなみに、連載32回の、この回のはじまりは

「子供のころ元旦は、暗いうちに起き、
 親がお燈明をあげると、畏(かしこ)まって
 まず神棚に柏手を打ってお参りした。
 それから仏壇に手をあわせた。
 神棚は茶の間の鴨居の上にあり、
 その下は布団をしまう押し入れで・・・・」(p346)

うん。最後にここも引用しておきましょう。

「神道は自然の時の流れとともに湧く感情が中心で、
 ほかの大宗教と違い創始者がない。
 教義も戒律も経典もない。
 
 神官は僧侶と違い説教はしない。
 言葉で習うよりも感じるのが神道で、
 季節の変化に従い祀りをする。

 その節(せつ)とは竹の節(ふし)のような
 区切りを指し、節分とは気候の変わり目をいう。
 元旦にはお節料理をいただく。

 自然の動きにあわせて天を祀り地を祀る。
 儀礼を行なうからには宗教だろう。」(p353)


はい。Hanada2022年2月号は出たばかり、
平川祐弘氏の連載の自伝も、40回目。
ちゃんと載っておりました。
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澄んだ川水を。

2021-12-20 | 本棚並べ
水をくむ。
ということで、もう一冊思い浮かぶ本がありました。

柳田国男著「故郷七十年」(朝日選書)。
そのはじまりの方に、利根川のことが出てきて
鮮やかな印象が残っておりました。
さっそく、ひらき確認してみる。
途中から引用していきます。

「さて益子から南流する小貝川は泥沼から来るので、
利根に合流すると穢(きたな)くもあるし、臭くもなってしまう。

ただ一つ鬼怒川だけは、実にきれいな水の流れであった。
奥日光から来るその水は、利根川に合流しても濁らなかった。

舟から見ても、ここは鬼怒川の落ち水だという部分が、
実にくっきりと分かれていてよく判る。利根川の真中よりは
千葉県の方へ寄った所に、鬼怒川の流れがある。

布佐の方ではあまり喧しくいわないのに、布川では、
親の日とか先祖の日には、このきれいな鬼怒川の水をくみに行った。

布川は古い町なので、一軒々々小さな舟を持っていて、
普段は使わないで岸に繋いでおくが、こういうものの日には
小舟で行ってくんできて、その水でお茶をのむことにしていた。

普段は我慢して、布川の方へ寄って流れている上州の水を
のんでいるのである。上州の水が豊かに流れているその南側を
小貝川の水が流れ、それを通り越して千葉県によった所に、
鬼怒川の流れが、二間幅か三間幅に流れているのであった。

布川のこの小舟は、向う岸に渡るためのでもなく、
上の村と下の村とをつなぐものでもなかったらしく、
ただ『お茶のお舟』として、澄んだ川水をくむだけにあった。
・・・・」(目次の4番目「布川時代」の最後にあります)


この本は、昭和32年に語られた昔話だそうです。
鎌田久子さんの朝日選書の最後の説明によると、

「・・嘉治氏というこの上ない恵まれた聴き手を得て、
『語り』の真髄を発揮された。氏の巧みな誘い水に導き出されて、
60年前、70年の昔にかえられた先生は、いつも最後には、どうも
今日は私一人喋りすぎてと言いわけめいた挨拶をされたものである。
・・・・」(p409)


うん。『お茶のお舟』というのがいいですね。
お気楽にいえば、今なら、名水を車で遠出して汲んできて、
その水でコーヒーをいれてみるというイメージでしょうか。
利根川が氾濫した際に、使われる舟だったのかもしれないなあ。
などと思ってみたり。

はい。だいぶ前に読んだのですが、

『ただ一つ鬼怒川だけは、実にきれいな水の流れであった。
奥日光から来るその水は、利根川に合流しても濁らなかった。』

という箇所などは、一読忘れがたいものがあります。


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今朝(けさ)くむ水は。

2021-12-19 | 詩歌
佐伯彰一氏の短文「お正月の思い出」に

「やはり一番深く心に残っているのは、
 わがふるさと立山村(町)の正月である。」
(p267「神道のこころ」日本教文社)

こうして、子供のころのお正月のことが語られるのですが、
わたしは、今日になってこの箇所が思い浮かびました。

「いったん帰宅して、早朝に起き出すと、
 まず井戸の若水をくんで、神棚にそなえる。
 そしてすぐ神社にかけつけて、ご奉仕をする。
 お参りにくる人たちにお神酒をついだり、
 年餅を渡したりする。・・・・」(p268)

ここに、若水とあるのでした。
ああ、若水といえば、たしか岡野弘彦氏の
新聞のインタビュー記事が印象に残っておりました。

まったく、新聞の切り抜きは、古い切り抜きほど、
どこにあったか、わからずじまいになるのですが、
どうせ、見つからないかなあと思いながら、
今朝になって、さがしてみました。
案外にすぐに、みつかりました。ありがたい。
うん。これは、ブログに引用しなさいと、
切り抜きが手助けしてくれているのかもしれません(笑)。

ということで、今日は、その箇所を引用してみます。
「語る岡野弘彦の世界」(朝日新聞夕刊1998年9月17日)
はじまりだけを引用してみます。
インタビュアーが、
「最初に覚えたのは、どんな歌でしたか」と質問しています。
それに答えて

「私の生まれは三重県の雲出川の上流で、
昔ふうにいえば伊勢、大和、伊賀の三国が
接するところの神社です。

歌の道を選んでいなければ、35代目の神主でした。遠い祖先は、
南朝方のゲリラとして、山野を駆け巡っていたようです。

5歳のときには、父にいわれ、新年の若水を汲(く)みました。
そのとき、氷の張る川に向かって唱える歌があります。

  今朝(けさ)汲む水は 
  福汲む水汲む宝汲む命永くの水を汲むかな

最初に覚えた歌は、これでした。」




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ここでチェンバレン。

2021-12-18 | 地域
月刊Hanada2022年1月号の平川祐弘氏の連載から、
チェンバレンとハーンを取り上げた箇所を引用。

「明治時代の西洋の日本解釈者は
チェンバレンとハーンが双璧だが・・・」(p351)

「ちなみにチェンバレンは神道を無価値と評し
――これも私にかぎらず違和感を覚える人はいるだろう――
ハーンと対立した。

明治に来日した英米系の日本研究者は、
神道は内容空虚、伊勢神宮は掘立小屋同然、と述べた。

日本人にも『その通り』と同調する人は昔も今もいるだろう。」
(p352)

はい。明治神宮での牧野陽子さんの講演の題名は
『ラフカディオ・ハーンがとらえた神社の姿』でした。
そのハーンを語るまえに、講演のはじまりで
チェンバレンから触れてゆくのでした。
ここには、講演のはじまりの箇所を引用してみます。

「・・神社については、当時の西洋の代表的な意見として、
明治時代の38年間日本に滞在していた英国人バジル・ホール・
チェンバレンが、『日本事物誌』(1890年)のなかで、
以下のように記しています。

 神道の社殿は、原始的な日本の小屋を少し精巧にした形である。
 神社は茅葺の屋根で、作りも単純で、内容は空っぽである。(神道)

伊勢神宮についても、こう述べます。

 観光客がわざわざこの神道の宮を訪ねて得るものがあるかといえば、
 大いに疑わしい。檜の白木、茅葺きの屋根、彫刻もなく、絵もなく、
 神像もない。あるのはとてつもない古さだけだ。(伊勢)

このような神社観は、もちろん、当時の外国人による神道そのもの
の評価と表裏一体をなすもので、再度チェンバレンの記述を引用すると、
このように記されています。

 神道は、仏教が入って来る前の神話や漠然とした祖先崇拝と
 自然崇拝に対して与えられた名前である。しばしば宗教として
 言及されているが、その名に値する資格がほとんどない。
 神道には、まとまった教義もなければ、神聖な書物も、
 道徳規約もない。(神道)

・・・・・このような西洋人の神道観に対して、
ラフカディオ・ハーンは、

『神道の源泉を書物ばかりに求めていてもだめだ、
現実の神道は、書物の中に生きているのではない。
あくまで国民の生活のなか、心の裡に息づいているのだ。』(杵築)

と反論していますが、同時にハーンは、
『神道の本質とは何かという問に明確な答えを与えるのは今なお難しい』
ということも、多くのエッセイのなかで繰り返し述べています。」
(p89~91)

はい。牧野さんは、こうして講演をはじめてゆくのでした。

『あくまで国民の生活のなか、心の裡に息づいている』
とハーンは指摘するのですが、この師走の一日、
お正月に神社に参拝することを思いながら、この言葉を反芻してみます。
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シントウって?

2021-12-17 | 前書・後書。
佐伯彰一著「神道のこころ」(1988年・日本教文社)を
本棚からとりだしてくる。ちなみに、この本は、文庫もあります。

その「はしがき」には、最後に平成元年4月3日とあります。
その「はしがき」を引用することに。

「・・・・つい半年ほど前のことですが、ある女子大に招かれて、
『日本文化論』といったテーマの講演をしました。
しごく熱心な聴衆で、気持よく話すことが出来ました・・・

講演が終った後、わざわざ講師室へ幾人もの学生たちが
質問に現れました。・・・・

質問者の一人が、少しもじもじしながら、
真顔でこう言い出したのです。
『講演の中で、先生は何度かシントウといわれましたが、
シントウって一体何ですか?』

さすがに、こちらも一瞬息を呑む思いで、
相手の顔をまじまじと見つめざるを得なかった。
これは、もしかしたら・・からかいの質問だろうか?
・・・・

しかし、これはしごくまともな、生真面すぎるほど、
まっとうな質問だったと判明しました。この女子大生は、

十数年間の教育課程の中で、どうやら神道について
何一つ印象に残る話は聞かせられなかったらしいし、
自分で読んだことも一度もなかった・・・・

もしかしたら神道はほとんどタブー扱いされてきたのではないだろうか。
・・大方の戦後教育の実態だったのかもしれません。・・・

そこで、本書のモチーフのまず第一は・・・
神道の基本的な性格と在り方を、ぼくなりに明らめたい、
その際に、出来る限り、広やかな、いわば比較文化的な
視点で眺め、語ろうと心掛けました。・・・・

第二は、神道と日本文学史とのかかわりという点です。
これもじつの所、気の遠くなるほどの大テーマに違いありません・・

いわば、日本文学の底なる原型的特徴を探り、
明らめようという試みであり、この方向の仕事は、
今後もいろんな形で推し進めたいという気がしています。
  ・・・・・・・・・

第三に、いやじつはこれこそ本書の中心テーマかも知れないのは、
ぼく自身の神道発見、もしくは神道回帰という心情でしょう。・・
しかし、これはもともと本書一冊で片づく問題ではないでしょう。」



この『神道って何?』と聞きに来た女子大生たちは、
いまでは、50歳代なのでしょうか?
さて、この佐伯彰一氏の本は『お正月の思い出』という
4ページの文で終っておりました。そのはじまり

「六十数年のわが生涯、ふり返ってみると、
いろんな土地で、正月を迎えてきた。・・・・・・・・

子供のころは、気づかなかったけれど、山深いわが村落(芦峅寺)
の正月の迎え方には、かなり独特のものがあった。

立山信仰ということが、生活の中にしみ込んでいたせいに違いないが、
宿坊の子供たちは、大晦日の晩に、開山堂にお籠りをした。
明朝のお参りの準備など手伝うのだが、深夜の森閑としずまりかえった
お社の中というのが少々こわく、物珍しく、心おどる思いだったし、
冷えこむ寒気にそなえて、大火鉢に山もりの炭火がカンカンと燃え
さかっていた様子など、今でもありありと目に浮かぶ。

それに、一仕事片づけた後に出されたお夜食というのが、おいしかった。
炊きたてのご飯に、缶づめのかつおをまぜ合わせたお握りだったが、
ふうふういいながら、大きいのをいくつもたいらげずにいられなかった。

一たん帰宅して、早朝に起き出すと、まず井戸の若水をくんで、
神棚にそなえる。そしてすぐ神社にかけつけて、ご奉仕をする。
お参りにくる人たちにお神酒をついだり、年餅を渡したりする。
・・・・・・・・・・・・・・」

あれれっ、いつのまにか、田舎のお正月がそこまで来ている

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『あなたもそう思いますか』

2021-12-16 | 先達たち
Hanada2022年1月号。平川祐弘氏の自伝連載のなかに、
粕谷一希座談「書物への愛」(藤原書店・2011年)について
触れられている。なんでも、小谷野敦が名誉毀損で
粕谷・平川の座談に関連して、告訴をしたというのでした。

「敗訴でも宣伝になると思っているのだろうか。
事実、彼(小谷野)の敗訴に終わったが、それでも
勝訴したとブログの上で一旦は言い張った。

浮き沈みの激しい男であった。
野球選手の生涯打率三割維持は難しい、著作家も
学者も第一線でいつまでも筆陣を張れる人は稀である。

だが世間には小谷野に味方する若者もいた。
ネット上で、・・・平川の本を出すのはけしからん、
『平川は神道だ』『天皇崇拝だ』などとレッテルを貼る。
・・・」(P349)


はい。このあと『書物への愛』を紹介しながら、
「今度読み直し実のある対談だったと思った。
公平を期したい方は、そちらもお読み願いたい。」

はい。さっそく古本で注文し、それが昨日届く。
8名との座談が掲載されており、平川氏との対談は
65ページもあり、よみ甲斐があり、楽しめました。

いろいろなことが語られており、
こんど受賞された正論賞での受賞挨拶の内容を
もっと具体的に話されているような重量感があります。
はい。読めてよかった。

ここでは、神道についてが、対談のところどころに
出てくるので、ひろってみます。
佐伯彰一氏のことを語る箇所にもありました。

平川】 ・・佐伯さんは独自の広い世界も持っています。
海軍に行き、日米戦争の体験もある。神道の家なので
神道のこともわかっている。それから物凄い博識。
文章は、ある意味、饒舌なところもあるけれど、
それもそれで非常な魅力を持っている。(P147)

平川】 ・・・・佐伯彰一先生も、東大定年直前に、
神道のことを言い出したのですが、それまでは、
神道などタブーで、口になどしてはいけな風潮でした。

このあとに竹山道雄氏への言及がつづきます。

平川】 ・・・昭和57(1982)年のことだったと思いますが、
一緒に京都へ旅をした。竹山道雄氏は、『京都の一級品 東山遍歴』
という本を出しているくらい、京都に詳しかったのですが、
最後に下鴨神社に行って、
『やはり神社に来るとほっとしますね』と言うと、
『あなたもそう思いますか、私もそうなんです』といわれた。
要する日本人の底辺の感性は、こういう神道的なもので
できているような気がします。・・・」(P154~155)


平川】それで僕がアメリカでハーンを取り上げようとした時、
ロナルド・モースという柳田国男の研究者から、
『マリウス・ジャンセンは、宣教師の家庭の出だから、
神道や民俗学などというと、必ず嫌われるぞ』と予言されました。
・・・ハーンを研究してから本当に仲が悪くなった。・・・・

ハーンは、『宣教師というのは、神道を一番理解できない人間だ』と
書いているが、ハーンは多くの宣教師の家では禁書扱いだったらしい。

・・・明治以来、来日した西洋人学者にも、宣教師系統と、
モース、フェノロサ、ハーンといった非宣教師系統がいる。
それで、やはりいい仕事をしてるのは、どう見ても非宣教師系統です。
キリスト教以外の文明の理解という点で違うわけですね。(P175)

うん。イタリアでの体験も語っておられました。

平川】 差別というより、日本人の遠慮が大きいと思う。・・・
 
・・・イタリアに講演をしに行ったら、キリスト教が
日本に広まったのは善だと決めてかかっているのが大勢いて、
とりわけイエズス会の連中はたちが悪く、儒教の天とキリスト教の天は
同じだと言って宣教した。中村正直も、それならいいと思って改宗した
わけですが、『だからこそ、本当のことがわかった時、中村正直は、
最後は神道で葬式をしたんだ』と私が講演の最後でイタリア語で言った
とたんにシーンとなってしまった。『冷い風が講堂を吹き抜けた』と
在イタリアの中山悦子さんがその時の感じを伝えてくれました。

ところが活字になると、その最後の『神道で葬式をした』という
箇所が消してあったので、校正の際、
『これは大事ですから、復活してくれ』と要求したんです。

すると、ある日本人の学者から『イタリアのイエズス会のところで、
そんなことまで言っていいんですか』と言われました。
そういう遠慮があるんですね。

しかし、学問というのは、そういうところを
はっきり言うことこそ大事でしょう。・・・」(P186~188)


はい。なんだか、外国でも日本人の遠慮の陰にかくれて
神道は、活字にもならないような状況でいたようです。
いまも、そうなのかなあ。


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片田舎の森の小さな社(やしろ)。

2021-12-15 | 地域
平川祐弘・牧野陽子著
「神道とは何か 小泉八雲のみた神の国、日本」(錦正社)。
ここから、牧野陽子さんの文を一部紹介することに。

小泉八雲の文を引用しております。

「『人工的な彩色は一切施されていない。
  檜の白木は、雨と陽にさらされ、自然の灰色になる。
  表面がどれだけ外気にさらされたかによって、
  樺(かば)の木の樹皮のような銀色から玄武岩の暗灰色
  にいたるまでの変化をみせる。そのような形と色だから、
  田舎にぽつんと孤立した社(やしろ)は、
  建具師の拵(こしら)えたものというより、
  風景の一部のように見える。岩や木と同じくらい
  自然と結びついた田舎の姿という感じがする。
  この国の古の神である大地神(おおつちのかみ)の顕示  
  として存在するにいたった何かであるように思えるのである。』」

こう引用したあとに、牧野さんが語ります。

「『彩色されない』白木も、その前段の建築様式の描写をみた後では、
技術がないために彩色されないわけではなく、
意図的に選び取られた技法なのだとわかります。

そして『雨』や『陽』にさらされた結果、
木々や岩と同じように景色のなかに溶け込んでいる。

その様はまるで大地の神の顕現のようだとハーンは言います。
長い年月にわたって建物の形の人為性がそぎおとされていき、
やがて神社そのものが自然と一体化したのだ、と。

 ・・・・・・・・・
先にみた、神社の参道にも共通する動きのパターンで、
いわばここにハーンの捉えた神道の要となる大切な考え方を
みてとることができるかもしれません。

そして、ハーンがここで『典型的な神社』としているのは、
『田舎にぽつんとある素朴な神社』です。
伊勢神宮でも出雲大社でもなく、
名所旧跡の立派で堂々たる建物でもない。
全国に無数にある片田舎の名もなき小さな森の御社こそ、
神道の本質を体現しているとハーンは考えました。」
  (p100~101)

はい。『先にみた、神社の参道・・』という箇所が、
ちょっと、気になりますよね。牧野さんのハーンからの
引用をさらにしてみます。

「『数ある日本独特の美しいものの中でも最も美しいのは、 
  参拝のための聖なる高い場所に近づいて行く道である。
  ・・・・・
  登りは、石畳の緩やかな坂道とともに始まる。
  両側には巨木が聳えている。
  一定の間隔をおいて石の魔物が道を守っている。
  ・・・・・
  どこまでも緑陰のなかを上っていく。・・・
  登りつめると、ついに灰色の鳥居の向こうに
  めざすものが現われる。
  小さな、中は空ろの白木造りの社、神道のお宮である。
  ・・・・・」(p94~95)


はい。このハーンの引用のあとに、
ここでも、牧野さんの説明がある。
ですけれども、私の引用はここまで。



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