和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

今週の本棚。

2010-09-30 | 短文紹介
注文してあった丸谷才一著「あいさつは一仕事」(朝日新聞出版・2010年9月第一刷)が今日届く。挨拶シリーズの3冊目。2冊で終わりかなと自分では思ってしまっていたのですが、丸谷さんがおられる限り、そういえば挨拶はしておられるわけです(笑)。

私が興味をもったのは、毎日新聞の書評欄についての挨拶が載っていることでした。
ちょっと、その箇所を引用してみます。「わが晩年の事業の一つ」というのは「毎日新聞『今週の本棚』書評総会での挨拶」でした。それが2002年4月とあります。現在からのコメントが、まずはありました。

「2002年で十周年だから、2012年で『今週の本棚』は二十周年を迎へることになる。・・・あの書評欄はわたしの晩年の事業の重大な一項目だから、なるべくならそれまで生きたいと思つてゐる。」

ということで、2002年のその挨拶から一箇所。

「この十年のあひだに、われわれの文化における毎日新聞書評欄の位置は確乎たるものになりました。・・・・わたしの身近な所で言ふと、大岡信さんは毎日新聞を取りはじめました。大野晋さんは近所の販売店に言ひつけて日曜日だけ配達させることにしたさうです。講談社の常務だつた徳島高義さんは日曜の朝、駅まで散歩して、毎日新聞を買ふきまりださうです。こんな調子で、どうやらうまく行つたらしい。」(p198)


そうなんですね。2002年ごろの毎日新聞書評欄は、一読者として読んでいてもすごかった。それにしては、近頃その使命を半ば終えたのじゃないかなあと、思う時があります。というのは、もう毎日新聞の日曜日を取らなくてもいいかなあ。と私は不遜にも思ったことがある(笑)。


本文にもどって、このすこしあとの2010年4月23日「毎日新聞『今週の本棚』書評総会での挨拶」というのが載っております。題は『顧問をやめる』。最初にあるコメントはこうでした。


「2010年の二月はじめに胆管癌がみつかつて入院し、月末に手術、三月末に退院したが、病後を養ふ身には、毎日新聞『今週の本棚』関係の雑務がいかにも面倒くさい。普段はさう大したことがないのだが、この一時期はいろいろ大変だつた。そこで身を引くことにした。・・・・」

ここでは、挨拶のはじまりだけを引用。

「単に毎日の『今週の本棚』の面目を一新しただけではなく、朝日の書評欄も読売の書評欄も、ずつと充実した。日本の書評文化全体が緊張した。これが十八年がかりの成果でありました。・・・・・」(p205)

つねに「日本の書評文化全体」を念頭に置いていた丸谷氏の言葉ならではであります。

それじゃ、あとの本文は、また、おいおいめくって楽しみたいと思います。
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テレビくん。

2010-09-29 | テレビ
「梅棹忠夫語る」(日経プレミアシリーズ)を楽しく読みました。
こりゃ、テレビ(?)に代表されるメディアと、どのようなスタンスで対峙するかのヒントを語ってくれている新書だと私は読みながら思ったわけです。

というか、そういう発想で統一されているかのように、読める。
どれどれ、と並べ替えて、引用していきましょう。


まずは、第六章あたりから、
うん聞き手の小山修三氏の合いの手が、語りに拍車をかけて、滑らかな感じで、手ごたえがあるのでした。では、

民博創設当時の梅棹の訓話として、このような記述がある。『諸君を選んだのは僕や。自由にやりたい仕事をやれ。研究者は一年中いつも研究者や。休みを取ることなんか考えるな。税金を使う国家公務員である自覚を持て』

小山】 民博に来たころ、ヨーロッパに学会で呼ばれたので、金を出してくれるかと思って、『お金どこかから出まへんか』って言ったんです。そうしたら、『文部省の金で行ったら、すぐ帰って来なあかんで』と。『いまはOLでも、パリに行ったりロンドンに行ったり、自分の金で行ってくるやろ。時間はやるから自分で行ってこい』(笑)。それで、『帰ってきたら、そのことを書いて稼いだらええやないか』と言われた。・・・・『研究費は自分で取ってくるもんやで』って。(p112~113)


そして第七章

小山】・・探検してきた学者の書いたものが必要で、これだけの資金を提供するから帰ってきたら書くようにと。梅棹さんは朝日新聞の係で、中尾さんが毎日新聞とか、手分けしていたそうですね。
梅棹】そうやったなあ。・・・・
小山】その後、テレビ、ラジオから離れてしまいましたね。
梅棹】いっさい放送に出演はしない。電波には乗らない。その点はひじょうにはっきりした。民博の開館のときにもさんざん言われたわ。・・・・

梅棹】電波を嫌うわけじゃない。出演はしないというだけや。
小山】なんでそう決めるのか。むなしさみたいなものを感じるんですが。
梅棹】具体的ないきさつとしては、一緒に出演した子どもがひじょうに悪くなっていく。これは放送は人間を悪くする。子どもはまるで英雄みないになっていくんやね。ひじょうに悪くなった。それで、こういうものは人間を悪くするから、自分はもうやめやと。(p156~157)

このあと聞き手の小山さんが『ああ、いい言葉だ。これが聞きたかったところです』という箇所がありますので、そこを引用していきます。


梅棹】とにかく、活字人間には、放送みたいな雑な仕事はたえられんな。・・・・切ったり貼ったりの編集が、発言者の最終確認をとらないでやられてしまう。本だったら、最後の最後まで、ここ削ったり、ここは誤解を生むからちょっと足したりってできるけれど、テレビやラジオでは、それは発言者にはできない。だから責任が持てない。
梅棹】あれは思想の媒体ではないな。
小山】無礼だとかいやだとか、おれの趣味に合わんというのでは理由にならないんだ。『放送は思想の媒体ではない』。ああ、いい言葉だ。これが聞きたかったところです。新聞社でも、電話インタビューは全部断っていましたね。
梅棹】断った。これも責任が持てないから。
小山】すると梅棹さんが書いていることは、全部責任を持って書いている。
梅棹】あたりまえやろ。全部自分の言ったことを確認している。それができない媒体には責任が持てない。
小山】ずいぶん厳しいなあ。 (p158~159)


少し前にもどると、こんな箇所もある


梅棹】わたしは若い人には、本質論をやれと言いたい。まだまだみんな若いな、と。現象論に目を奪われるのは、ひとつの若さです。若さはあるが、ジャーナリズムの悪影響でもある。(p134)

そして、こんな箇所。

小山】そう言えば、最近は打たれ弱いということもある。みんな、批判されるのを嫌がる。
梅棹】それはみな、そうや。批判されると、非難されたように思ってしまう。
小山】批判と非難はちがう。
梅棹】ちがう。
小山】でも世の中の人は、批判に弱いですな。
梅棹】ほんとに弱いね。批判に対して弱い。
小山】ぼくも梅棹さんじゃないけれど、大学や博物館で『正論を貫け』って言っている。それしか方法がないでしょ。
梅棹】そうや。信ずるところを貫かな、しかたない。みんな、批判をおそれるというより、評判をひじょうに気にする。その意味では、ジャーナリスティックでもあるし、芸能人的になってるね。いまの世の中で、芸能界がもたらした害悪はひじょうに大きいな。テレビがもたらした害悪。なんだかテレビに出るのが偉いっていうふうになってしまった。ちがうか?
小山】そのとおりだと思います。(p145)


この新書の語り全体を、このテーマが覆いつくしていると、私は読みました。引用はこれくらいにしておきます。ひさびさに聞いた梅棹節だったのに、これが最後。
2010年7月3日に自宅で死去。と新書の最後には略年譜がついておりました。

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読書中。

2010-09-27 | Weblog
とりあえず。
ときどき、読んでいた村井弦斎著「酒道楽」(岩波文庫)を読み終える。
「梅棹忠夫語る 聞き手小山修三」(日経プレミアシリーズ 新書)は、
聞き手に結構な人がいて、梅棹節が歯切れよく、ついつい読んでしまいました。
山折哲雄著「『教行信証』を読む」(岩波新書)を読んでいるところ。
何とも半世紀をかけて、つき合ってきたとのこと。おいそれと読了するわけにもいかず。
すこしでも、味読できれば、この秋の収穫になるかと、思いながら。
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判断に苦しむ。

2010-09-25 | 古典
平凡社新書「渋沢栄一の『論語講義』」は守屋淳の編訳となっております。
読み終わって、さて、もう一度読んだものか、それとも、
守屋淳氏の他の著作をあたってみようか。と思ったりするわけです。
さいわい、新書で2冊ばかり、新刊本として注文できそうなので、どうしようかなあ。

それはそうと、渋沢栄一の「論語総説」からすこし引用。
渋沢氏は語ります。

「わたしは深く孔子に学んでその教訓をきちんと守っていけば、家にいても、世間に出ても、非難されることのない熟達して円満な人物になれると信じている。」

「わたしは『論語』の教訓を守っていけば、人はよく自分を磨き、立派な家庭を築き、何事もなく無事に世を渡っていけると確信している。」

「さらにどんなことであろうと判断に苦しむ点が出てきたなら、『論語』の尺度に基づいて身を引き締めれば、必ず過ちから免れるようになると固く信じたのだ。」

以上は平凡社新書「渋沢栄一の『論語講義』」の最後に載せてあった「論語総説」より。
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論語名演奏。

2010-09-24 | 古典
近頃、魅力の新書を読みました。
それを紹介しようと思うのですが、
さて、どうはじめたらよいのやら、
楽しい悩みを味わっております。
そこで、こんなはじまりを思いつきました。

「論語」というと、私には読みたいけれども、まずは歯がたたない古典。
下手な解説書にでも、手をだそうものなら、チンプンカンプンの森に踏み迷いそうな鬱陶しさが、読む前にもうある。そんな霞みがかかったような、なんとも、手を出しにくい本としてありました。
それが、この新書を読んで、めでたく解消。
古典というよりも、そのよき演奏者にめぐりあえた手ごたえ。
名奏者をえて、新鮮な楽曲を聞くことが出来た。そんな読後感があります。

こんなことを縷々(るる)述べるよりも、
百聞は一見にしかず。以下数箇所引用して、読書家諸氏への興味をお誘いしてみます。

まずこの新書は、渋沢栄一が数えで84歳から86歳(1923~1925)までかけて語り下ろした『論語講義』であり、講談社学術文庫で全七冊もある大著。それを編訳の守屋淳氏が、すっきりと新書サイズに納めたもの。簡潔に、下手な感想を交えずに、その講義の音色を味わわせていただける。すぐれた新書となっております。

さて、渋沢氏の晩年はどういう時代だったのか。守屋氏の解説によると、
1906年にサンフランシスコでの児童修学差別。
1913年には帰化不能外国人(実質的に日本人)の土地所有禁止に関する法律制定。
1924年には排日移民法が制定。
とくに、日本人移民の多かった西海岸諸州では排日の機運が高まりやすかった。
その際「渋沢栄一は、この日米関係の悪化に心を痛め、数え年で70歳、76歳、82歳と3度にわたって渡米、両国の親善に尽くした。こうした行動が評価され、栄一は1926年と27年にノーベル平和賞候補となっている。」(p61~62)

このころを振り返って口述した渋沢栄一氏の講義の箇所を引用していきます。

「大正4年11月、大正天皇即位の儀式が京都で行われるのは、滅多にない大きな祭典であるため、ぜひ参列の光栄にあずかりたいというのが、わたしの強い望みであった。しかし当時、わたしはすでに76歳の老齢となり、このうえ長い余生がある身とは思えなかった。こう思うにつけ、この残り少ない余生を、少しでも国家の利益になるように使って、一生を終わりたい、というのがわたしのささやかな望みであった。・・参列する光栄を捨てて、その年の10月下旬に横浜港を出帆する汽船に乗って、渡米を決心した。・・・わたしの渡米が多少なりとも日米両国の国交親善に貢献できるところがあれば、話は別だ。身体が老いているとか、または即位の大祭典参列の光栄に浴したいと思うなど、自分の都合ばかり考えていては、本章にいう、『みなのためであると知りながら行動をためらうのは、実行力に欠けている証拠である(義を見て為さざるは、勇なきなり)』という批判を免れることができず、孔子のお叱りを受けなければならなくなってしまう。わたしは、孔子の説かれた『論語』によって、いつも振舞い方を定め、進退や去就を決める基準としている。だから、わたしの渡米が果たして思っていたような効果があるかどうか、あらかじめ見越せないとしても、成功や失敗を考えず、一身の利害を顧みず、とにかく急いで翌年春のカリフォルニア州議会の開催前に渡米しようと考えた。そして、アメリカに住む日本人たちの利益を計り、日本の国威を失墜させることなく、長年の懸案を円満に解決できるよう及ばずながら微力を添えるのが、わたしのまさに尽くすべき・・・・」(p59~60)

この数ページあとの渋沢講義には、こんな箇所もありました。

「特に、若い気力の充満しているみなさんが、一にも円満、二にも争いをさけようという気持ちで、世に打って出ては、どうしても卑屈になってしまうだろう。老人はともかくも、若いみなさんは、他人の顔色ばかりうかがって争いを避けようなどとせず、争う所はどこまでも争ってゆく決心を胸に抱くことが必要なのだ。この決心がなければ青年は死んだも同然である。やたら人に屈従せず、よく他と争って、正しい勝ちをものにするという精神があってこそ進歩や発達は訪れる。反発心のない青年は、たとえば塩の辛さが抜けたようなもので、どうしようもない。・・・・この覚悟がなければ、青年は決して世の中に出て成功するものではない。」(p64~65)

さて、この講義をした、肝心の「論語」の言葉はどういうものだったのか。
論語八佾(はちいつ)第三。その箇所を引用。

孔子が言った。『君子は、人と争わないものだ。しいてあげれば弓の競技ということになろうか。射場にのぼるときも降りるときも、互いに会釈して先を譲りあう。競技が終わると、勝者が敗者に罰杯を差し出す。これこそ君子の争いにふさわしい』(p62)

むろん読みどころは、まだあります。
大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允・勝海舟を並べて評している箇所があったりするなど(p52~53)。論語の名演奏者にふさわしい、登場人物の顔ぶれとなっております。
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という文学者。

2010-09-23 | 短文紹介
古新聞の処分をしていたときに
1992年新聞の読書欄「書斎日記」に板坂元氏が連載していた切抜きが10回分出てきました。うん。読み直してもおもしろかった。
それがきっかけで、板坂元氏の本を探してみると、読まずにいた「日本を愉しむ暮し方」(PHP・1999年)という本がありました。「はじめに」には「かつて、某ラジオ局で、毎週いくつかの話題を取り上げて、あれこれ雑学的に解説したものを、整理して一冊にまとめたものだ。ターゲットにしたのは、若い学生や、あれこれと好奇心を燃やす趣味人たちだった。」
うん。ここおもしろいのでもう少し引用していきます。
「・・・明治12年に伊藤博文が『教育議』の中で、学生生徒に専ら百科の学を学ばせるべきだと、天皇に進言したが、このときの百科とは、すなわち百に分かれた学問のことだった。これが縮まって科学という言葉が一般化したのだが、今の雑学とかクイズ的興味につながるものでもあった。本書に取り上げたさまざまな話題は、雑学に違いないのだが、それなりにどこかで役立つ知識の断片であるのだろう。なお、本書の原稿は、ラジオで久米明さんが、楽しく読んでくださったものだった。・・・・」

ところで、この本の第一章「食の愉しみ」に、
「明治のベストセラー『食道楽』」という箇所があるのでした。
そこから引用。

「ところで、明治時代には、今と違ったなかなか凝ったライスカレーを作っていたようだ。明治末に村井弦斎という文学者が『食道楽』という本を出して、当時としてはベストセラーになった。この本にはインド風のライスカレーの作り方をつぎのように説明している。・・・・・」(p45)

「先に挙げた村井弦斎の『食道楽』には七百種くらいの料理が紹介されているが、洋風の料理は四分の一くらいだ。これは米があくまで主食で洋食は副食だったために、西洋料理の採用には限界があったためだろう。オムレツ、ロールキャベツ、ミンチボールといったものが家庭料理として定着したのは、副食として日本食に入っていく要素を持っていたからだろう。」(p49)

久米明さんの声が、ラジオから聞こえ、そこでは一瞬、視聴者の耳を通過しただろう言葉「明治末に村井弦斎という文学者が『食道楽』という本を出して・・・」というのがあったのですね。雑学は雑学で終わってしまうのは、残念。
ちなみに、黒岩比佐子著「『食道楽』の人村井弦斎」(岩波書店)は2004年に出ております。それまで、「村井弦斎という文学者」というのは、そら耳のままだったのかもしれませんね。
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暗黒の通路を。

2010-09-22 | 詩歌
注文してあった、「地下鉄のオルフェ」が届く。
私は、地下鉄に貼られたポスターを丸めたものだとばかり思っておりました。
それが届いたら、それを壁に貼って楽しもう。などと思っていたのです。
それがちょっと新書版の横広の大きさなのでした。
なあ~んだ。と今日夕方届いてガッカリ(笑)。

まえがきを、飯島耕一氏が書いておりました。
そこに、こんな箇所があります。

「多くの識者が案内状のパンフレットに推薦の文章を執筆した。その一人武満徹氏は次のように書いている。『地下鉄のプラットホームに現代詩が展示されるという卓抜な企画を耳にして、たいへん好奇心をそそられた。詩人は暗黒の通路を走る。翼を捥(も)がれ、目を抉(えぐ)られた今日の詩人は、暗黒の通路を疾走する、地下鉄のオルフェ』。・・・
阿部昭氏はこう書いた。

    詩はどこにあるのだろうか?
    詩人たちは何をしているのだろうか?
    つねに言葉の帝王たるべき彼等は?
    コピーライターみたいな詩人が多すぎやしないか?
    広告文案みないな詩が多すぎやしないか?
    この不幸は、他人の不幸ではあり得ない。
      詩が駄目なら、一切の言葉が駄目だろうから』。

  ・・・・・・・・・・・・

現代の詩は、どこの国の作品も長いものになりがちで、それにはそれなりの理由がある。詩人たちは孤立し、自分の部屋にひきこもりがちで、それにはそれだけの理由がある。
しかしこの地下鉄の詩の試みにおいて、みな十行から十四、五行という短い詩を書き、それが思いがけなくきちんと成立しているではないか。・・・・」



さて、どんな詩があるのか。
ひとつだけ引用しても、間違えるばかり。
それは、開いた方のお楽しみ。ということにいたしましょう(笑)。
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そのあした。

2010-09-20 | 短文紹介
村井弦斎著「酒道楽」(岩波文庫)と
古今亭志ん生著「なめくじ艦隊」(ちくま文庫)とを平行して読んでおりました。
どちらも、酒が登場してくる。

「酒道楽」というのは、読みやすく、まるで芝居の会話文がつながってゆくような読物。
人物設定もわかりやすく、私みたいに、しばらく置いて、続きを読むものにとっては、人物がはっきりしていて、すぐに入り込めるのでありがたいのでした。
わかりやすくて、ありがたい。新聞連載というのですが、なるほどとうなずける、はずむような筋の流れにのっていくうちに、とぎれとぎれの読書でも、十分にたのしめるのでした。といってもまだ私は半分ほどの250ページぐらいしか読み進んでおりません。
ここは、解説の黒岩比佐子氏の説明を引用して、
「弦斎の小説には全体にユーモアが溢れていて、殺人など悲惨な場面は描かれない。『家庭小説』として女性や子供でも安心して読め、リテラシーが低い層にもわかるように平易に書かれている。『酒道楽』は、村井弦斎の小説の特色が顕著に表れている作品だといえよう。」(p454)
もうすこし引用をつづけます。
「新聞と単行本で大衆に広く読まれた『酒道楽』も、文壇や知識階級からはほとんど無視されていたらしい。筆者が参照した限り、現在にいたるまで、禁酒史に関する文献で弦斎の『酒道楽』に触れたものは皆無だった。」
とあります。よくぞ、それを発掘してくださいました。比佐子さん。
こうもあります。
「弦斎は自分の代表作を問われて、『どれも満足はしていないが、『酒道楽』は別だ』とも答えている。」(p457)
 
そうそう。ここには酒が縁で教師を首になった酒山登が登場するのですが、漱石の『坊っちゃん』を連想してみたりしながら、あれこれと読み進めております。


さて、もう一冊。ちくま文庫の志ん生半生記「なめくじ艦隊」。
こちらは、前半と後半と読み応えがありまして、なんとも二度たのしめる。
前半は貧乏暮らし。後半は戦争中の暮らし。
酒が強そうだとは、だんだん読むほどにわかってくるのでした(笑)。
さてっと、ここでは、真ん中頃にある、この箇所を引用。

「先々代の弥太っぺの馬楽という人は、江戸時代にお刀御用をつとめたというレッキとした家柄に生れた人でしたが、『正宗』だとか何だとかの天下の名刀を質において遊んだりしたもんだから、つい勘当されちまって、しかたがないもんだから噺家になった人なんですが、この人も江戸ッ子で、噺もうまかったが、特に句が上手でしてね。

   そのあしたてんぷらを焼く日暮かな
   古袷(ふるあわせ)秋刀魚に合す顔がない

などという句がありますが、とにかくこの人は明治から大正にかけての俳人として、人に知られていたそうですよ。吉井勇さんがよく、この馬楽のことを書いておりますがね。結局、あたしたちの商売というものは、そういうふうに下町のはしにも棒にもかからないような人間がなっているんです、たいがいはね。そうして、さんざ浮世の苦労をなめつくして、すいも甘いも知りぬいた人間が聞くべきものなんです。それが落語というものなんですよ。・・・・その意味からいえば、ほんのある一部の人が聞いて喜ぶべきものなんですね。・・・・もともと落語てえものは、おもしろいというものじゃなくて、粋(すい)なもの、おつなものなんですよ。」(p156~157)


うん。お酒はよそでは飲んでも、家では極力飲まないようにしようと。
まあ、思うだけは思ったりする、酒の二冊。

ああ、そうそう。
山本善行著「古本のことしか頭になかった」(大散歩通信社)には、

「古今亭志ん生の『なめくじ艦隊』は、ちくま文庫でも読めるが、この昭和31年発行の朋友社版の味わいは特別だ。・・・」
とありますが、私は文庫でがまん(笑)。

そのかわり、今日「地下鉄のオルフェ」を注文。
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ダンボール箱。

2010-09-19 | 短文紹介
古い段ボール箱。というか、新聞の切り抜きをすると、それをダンボール箱にまとめてしまいます。すると、古いダンボール箱が当然のようにたまってゆく。その開かずのダンボール箱を今日、整理しておりました。まあ、ほとんど処分するわけですが、一応パラパラと見てから、まとめて紐でしばります。ほとんどが廃品回収用。
さてっと、そのなかから、ああ、こんなのがあったと、目にはいったものを少しはとっておきます。
いちおう、毎日新聞「今週の本棚」は、とっておこうと思っているのですが、ほかの切り抜きとまじっていると、ついついめんどくさく、とりあえず目にはいったものだけをよけておくような大雑把さでの処分。
ということで(どういうことだ)、

それでは、ひろっておいた、切抜きから、3つ。

読売新聞読書欄の1992年7月7日に宮迫千鶴さんが幸田文著「木」の書評を載せておりました。私は、この書評を読んで、「木」を買ったなあ。そんな印象的な書評でした。これが出てきたのでした。すこし引用。

「しかしなんといっても読んでいてこちらが凛然(りんぜん)としてくるのは、幸田文という人の『見る』という行為の純然とした激しさに打たれるからだ。」


そのあとの週刊朝日8月7日号に秋山駿が、幸田文「木」「崩れ」と阿部光子「その微笑の中に」との抱き合わせで書評を書いておりました。


つぎ、朝日新聞夕刊1994年6月1日の文化欄に「多田道太郎著作集」の紹介文「長」という人の文でした。そのはじまりは

「若い女性が奇抜なファッションで街を歩く。『あれは、泣いているのだと思う』と、現代風俗を見続ける多田道太郎氏は洞察する。涙を流す代わりに、泣くのと同じような『非合理的主張』をしているのだ。彼女らの抑圧されたものの中身を表現している。・・・・事物の表面に表現しているもの、あるいは表現させられているものの深層を読み取ることが大事なのだという。民俗学の柳田國男のエッセー『涕泣(ていきゅう)史談』を踏まえての論である。柳田が半世紀前に『人の泣くことが、近年著しく少なくなっている』という観察に基づいて、『言語の効用がやや不当と思われるほどに重視されている』現象とのかかわりに触れ、しかし泣くことの代用がうまく行われているのかどうか、と疑問を呈した。
日本では思想も観念もすべてが風俗化する、と嘆く声が高い。だが、インドや中国にある、形而上学とか儒教とかの思想の核が日本にないことこそが日本文化の希望だと、多田氏は反論する。先祖が持っていた原始の感覚を抑圧する現代社会の権威の体系に対して、風俗は反体系としてあらわれるから研究するに値するのだという。
世代の違いや文化の違いによって降りかかる不都合に、そのつど憤っていたのでは何も見えてこない。氏にとって、異文化間衝突もすべて観察と思考の対象である。『風俗学』といううさん臭い、まだ学問の体を成していないものを引き受けるのが『ぼくの趣味』と言い切っている。・・・」


『多田道太郎著作集』全6巻(筑摩書房)は、あります。
ただそのまま、読まれずに埃をかぶっております。


あとひとつ。1997年3月3日「ひと」欄。そこに「全詩集を出版した杉山平一さん」とあります。そこにある言葉。

「『石川啄木に宮沢賢治。日本人は東北の、雪の重厚さに詩があると思っている。でも詩には、エスプリの利いた軽さがなくては』」。
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詩人と地名‐2

2010-09-17 | 詩歌
詩人・黒田三郎は大正8(1919)年2月26日広島県呉市で生まれる。
父は呉海兵団の副長。そして3歳の大正11年に一家は父母の生家のある鹿児島市に移住とあります。昭和11年17歳で鹿児島一中卒業、第七高等学校造士館文科乙類に入学。

うん、これで詩「桜島」とむすびつきます。

     桜島 - 黒田三郎の霊に    田村隆一

 きみは
 たしか鹿児島の造士館の出身で
 城山にすまいがあった
 ぼくが
 山を見ればその山は桜島であって
 はじめてみた桜島は雪がつもっていた

 おまえさん
 おまえさん また逢おう

うん。私はこの詩が好きです。
それで、たまに引用します(笑)。

さて、現代詩文庫特集版「戦後名詩選 2」(思潮社)に
登場する詩人と地名をみていきます。


茨木のり子 (1926~    大阪

白石かずこ (1931~    バンクーバー

堀川正美  (1931~    東京都

吉原幸子  (1932~    東京都

岩田宏   (1932~    北海道

岩成達也  (1933~    京都府

安藤元雄  (1934~   東京都

寺山修司  (1935~83)  青森

富岡多恵子 (1935~     大阪府

北川透   (1935~    愛知

粕谷栄市  (1935~    茨城

鈴木志郎康 (1935~   東京都

天沢退二郎 (1936~   東京都

高橋睦郎  (1937~    福岡

清水哲男  (1938~   東京都

長田弘   (1939~    福島

辻征夫   (1939~2000)東京都

吉増剛造  (1939~   東京都

岡田隆彦  (1939~97) 東京都

清水昶   (1940~   東京都

藤井貞和  (1942~   東京都

佐々木幹郎 (1947~    奈良

ねじめ正一 (1948~   東京都

稲川方人  (1949~    福島

荒川洋治  (1949~    福井

井坂洋子  (1949~   東京都

平出隆   (1950~    福岡

松浦寿輝  (1954~   東京都

伊藤比呂美 (1955~   東京都
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詩人と地名。

2010-09-16 | 詩歌
現代詩文庫特集版「戦後名詩選」(2000年)。
それが、そばにあるのですが、全部を読む気にはならなくて、
それなら、詩人と地名とを列挙してみようと。
ということで、収録順

石原吉郎 (1915~1977)  静岡

黒田三郎 (1919~1980)  広島  えっ黒田三郎は広島県生まれなんだ?

吉岡実  (1919~1990) 東京都

宗左近  (1919~     福岡

安東次男 (1919~     岡山

石垣りん (1920~    東京都

鮎川信夫 (1920~1986) 東京都

那珂太郎 (1922~     福岡

清岡卓行 (1922~     中国・大連市

北村太郎 (1922~1992) 東京都

田村隆一 (1923~1998) 東京都

谷川雁  (1923~1995)  熊本

吉本隆明 (1924~    東京都

吉野弘  (1926~     山形

黒田喜夫 (1926~1984)  山形

中村稔  (1927~      埼玉

辻井喬  (1927~     東京都

村上昭夫 (1927~1968)   岩手

長谷川龍生(1926~       大阪府

藤富保男 (1926~     東京都

新川和江 (1929~      茨城

川崎洋  (1930~     東京都

飯島耕一 (1930~      岡山

渋沢孝輔 (1930~1998)   長野

大岡信  (1931~      静岡

入沢康夫 (1931~      島根

谷川俊太郎(1931~     東京都


以上「戦後名詩選」の1・2から、1のみの詩人の地名を列挙してみました。
地域性を視野にいれた詩人の、言葉との格闘。
ということに思いを馳せ、てみたくなります。
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中桐は神戸やな。

2010-09-15 | 詩歌
現代詩文庫特集版として戦後名詩選1・2があり、ちょうどそこに選ばれている方々の名前を見ておりました。
さてっと、戦後名詩選1のあとに、野村喜和夫の「戦後詩展望」という文がありました。
こうはじまります。

「戦後詩を読む時代に入ったようだ。いきなり奇妙な言い方に聞こえるかもしれないが、それについて論じたり、その理念や方法の有効性を検討したりという時代は終わり、ひとつのまぎれもない古典として、それこそ戦後詩人たちが萩原朔太郎や西脇順三郎を読んだように、われわれは戦後詩を読まなければならない。・・・」
とはじまり、すこしあとに
「まず、われわれが戦後詩と呼ぶのは、その第一世代である『荒地』グループの登場から、五十年代六十年代の最盛期を経て、大衆消費社会が到来する七十年代八十年代の変容期までの詩産出を指している。・・・」


「荒地」といえば、岡崎武志・山本善行著「新・文学入門」(工作舎)に

「山本:・・ちょっと話が硬くなってきたから、こんへんでいっぷく。『荒地』の母胎はむしろ、第一次『荒地』より、中桐雅夫がつくった詩誌『LUNA』、『LE BAL』のほうで、ここに戦後の『荒地』の主要メンバーが結集している。中桐は神戸やな。神戸に現代詩の拠点があったこと、ちょっと言っておかなあかん。」(p326)


 そして、杉山平一著「戦後関西詩壇回想」(思潮社)に触れて

「山本:固い詩の歴史の本ではそういうことが抜け落ちるからな。こういう回想というかたちを取った随筆――おれは随筆と呼んでええと思うけど――の場合にこそ、そんなささいな風景が残されるんや。これこそ随筆の功徳やろ。・・・詩の言葉で鍛えた人の言葉は、どこか違うんやな。」(p337~338)


う~ん。戦後名詩選の詩人の名前を見ていると、関西系の詩人がすくないように感じます。それが、なんだか片側だけを描いているような味気ない感じがします。

これも、まあ「戦後関西詩壇回想」を読んでしまったからかもしれないのですけれど。
それにしても、ありがたかったのは、岡崎・山本お二人に「戦後関西詩壇回想」という本を教えてもらったことです。これを読むと、詩と詩人とが改まって立ち上がってくるような実感を持つのでした。

ちなみに、現代詩文庫の近代詩人篇に杉山平一詩集が入っております。
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今朝の天使。

2010-09-14 | 詩歌
現代詩文庫特集版として「戦後名詩選1・2」(2000年)というのが出ておりました。なんでも、現代詩文庫160冊のなかから選んだアンソロジーなのだそうです。野村喜和夫・城戸朱理編。
そこから、この季節にちなんで、秋が登場する二篇。

最初は田村隆一。
このアンソロジーで、田村隆一は5篇が選ばれております。
その中に、「毎朝 数千の天使を殺してから」が入ってる。
選者によりますとこの詩は「文明批評と詩的幻想とを合体させた後期田村隆一の技芸を集約して、これも見事というほかない。」とコメントが載っております。

ではその詩から

    『毎朝 数千の天使を殺してから』
    という少年の詩を読んだ
    詩の言葉は忘れてしまったが
    その題名だけはおぼえている さわやかな
    題じゃないか

・・・・・・・・・

海岸まで乾いた道を歩いて行く
台風が過ぎさったばかりだから空には
積乱雲
それでいて海の色は秋
夏と秋とが水平線によって分割されている
不透明な空間を
細い川がながれている
おれの痩せた手に浮きあがっている弱々しい毛細血管
大きな橋がかかっているはずはない

・・・・・・・・・・・




うん。この少年の詩の題名に触発されたようにして、詩人の頭に数千の天使が飛びかってもいるような、その後の詩人の道筋を知らせてくれるような詩に秋が登場しておりました。
もうひとりは渋沢孝輔。
この人は1930年長野県生まれで、1998年に亡くなっておりました。
4篇の詩が掲載されております。そこには「夾竹桃の道」も。
ではその詩から



苦しい夏も
熱狂的な気晴らしも果てた
われわれの愛も詩法も
破れかぶれだとひとはいうが
いいではないか その通りなんだから
この季節とともにいまあまりにも身近に
突然に果て過ぎ去ろうとしているものたちがあり
いつのまにか忍び寄っていた
ひそかな翳りが
眼路いっぱいにひろがる気がする

・・・・・・・・・・ 

苦しい夏も
熱狂的な気晴らしも果て
たとえば扇と秋の白露と先に置くのがどちらであろうと
いまはただ思いもかけぬ
田舎道の夾竹桃の花のまえで立ちすくみ
立ちすくみながらひとは時に
・ ・・・・
早くも白い炎熱の時のおわりに
幾千の波間の絃や
幾千の草間のこおろぎの闇をよこぎり
きのうまではまだしも明るかった
・ ・・・・・・・
こうして早くも白い炎熱の時のおわりに
われわれのついのつとめの座を待つまでもなく
この田舎道が通うあたりのひだひだに染み入ってくる
あまりにもしずかな影を扱いかねて
気遠くあまりにもしずかな影を扱いかねて
・ ・・・・・・・・・・・・・・


それにしても、少年から遠ざかるほどに、「毎朝 数千の天使」が現われなくなって久しいのですが、せめてものこと、数行の詩を引用し、すぐに消えてしまう「今朝の天使」を書き留めておくのでした。
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詩集届く。

2010-09-13 | 詩歌
注文してあった、思潮社の現代詩文庫「続・渋沢孝輔詩集」が届く。
古本値で600円+送料180円。検索であった「古書うつつ」に注文。
ひらくと、栞サイズの印刷物がハラリと落ちたので、ひろうと
「謹呈 著者」とあります。読まれずに、そのままになっていたようで、
新刊としてもよい一冊。
この文庫で、詩集は全篇とりあげているのが「廻廊」と「啼鳥四季」。
あとは「われアルカディアにもあり」「越冬賦」「薔薇・悲歌」「緩慢な時」の詩集から選ばれた詩が並んでおります。
うん。読甲斐がありそうです。
以前に「廻廊」を持っていたと思ったのは、この詩集が高見順賞をとったから、それで私も買ってあったのだと思われます。理解できずに、そのままどこかへいってしまったようです。
それでは、「啼鳥四季」にある「秋の現象」から引用。

  なにもかもに飽き果てているうちに
  ひぐらしの声もいつのまにか
  耳を澄ましてさえ聞かれなくなった
  蛙鳴蝉操(あめいせんそう) とは別の国のはなしで
  われらにはたぶん縁のない形容のはずだが
  いまはもっと賑やかで執拗な
  こおろぎたちの大合唱が
  庭先のでこぼこの夜を満たし震わせている
  今年のひぐらしたちは早かったのか
  遅かったのか 
  初秋の一日 夜明け方の
  かぼそいひと声を聞いたのが最後だ
  ひと声鳴いたあとは長い沈黙で
  ようやく漂いはじめた涼風の中の
  何かの気配をうかがってでもいるかのような
  その沈黙の間合いがことさらに
  季節の節目を刻もうとしているようでもあったが

こうして始まる詩なのですが、途中をはしょっていきます。
後半にこんな箇所がありました。


    疲れたりといったありさまのなか
    わたしもカナカナ カナカナと鳴いて過した
    (それにしても夜のあいだをこおろぎたちは
     よくもあれほど鳴き続けられるもの)
・ ・・・
    こおろぎの声に釣られてこの夏の
    あれやこれやを思い出してみる一方
    ほんとうに思い出すべきことはこれらではなく
    じつは別のことだと思ってもいるのだ


詩の切れ切れの引用は味気ないのですが、ついでに最後の3行

    ああ こおろぎたちの大合唱の中の
    すすき りんどう われもこう
    すすき りんどう われもこう


岡崎武志さんが、ある本で紹介していた『廻廊』の一部は、
詩「夾竹桃の道」のはじまりからでした。


この文庫には最後に「作品論・詩人論」が載っているのでした。
その最初は安東次男氏の文が掲載されておりました。
そこでは、渋沢孝輔の詩につけた言葉が、そのままに引用してありました。


「一読して、何かがそこから始りそうな新鮮なものを感じたのを覚えている。
『傍観者に堕することなく時代の証人となることは、むつかしい。そういうことは、あるいは真の(ということは無償のということだが)学問への情熱と真の詩への情熱とが一致したばあいにしか顕現してこないのかもしれない。それは精神の状態として考えれば、純潔という一状態であろうと思う』と私はそのとき書いた。」

うん。とりあえず。手にはいったこの現代詩文庫の一冊をパラリと見てみたのでした。さて、2010年の暑さも、もう終る頃でしょうか。
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B29が泳いで。

2010-09-12 | 硫黄島
梯久美子著「昭和二十年夏、女たちの戦争」(角川書店)は五人の女性が登場しておりました。その最初は近藤富枝さんで、そのはじまりは、こうなっておりました。


「『B29がとんでいるところを見たのよ。私。きれいだった。夜勤の日、電車に乗って銀座に着いたら、空襲警報が鳴って、見上げたら、編隊組んで、ばーっと飛んできた。どうせ死ぬなら放送局のほうがいいと思って、NHKまで走ったの。玄関にたどり着いてもう一度見上げたら、またB29の編隊が頭上を通り過ぎていった。それがね、きれいなの。ほんとに。やっぱり美しいものは美しいわけよ、戦争でも』最初に話を聞きに行ったのは、作家の近藤富枝氏である。近藤氏は戦時中、NHKのアナウンサーだった。女性や子供が次々と地方へ疎開していく中、東京に残って仕事を続けた。『大本営発表』もずいぶん読んだという。
昭和天皇の良子(ながこ)皇后が、終戦直後に皇太子(現在の天皇)に書き送った手紙のなかに、『B29は残念ながらりっぱです』という一節がある。そのことを思い出して、『そういえば昭和の皇后さまも、B29のことを立派だと書いておられましたね』と言うと、近藤氏は、間髪をいれず『いえ、私はね』と首を横に振った。『立派だとは思わなかった。ただ美しかったの』
日本橋生まれの江戸っ子である近藤氏の語り口は、八十代の半ばを過ぎたいまも、すっきりと鮮やかである。『私は立派なんていうことには、あんまり興味がない。美しいか美しくないか、それだけ。あのとき見たB29は美しかった。とてもね』歯切れのいい早口で、話は続く。・・・・・」

たまたま、最近「筑摩書房の三十年」を読んでいたら、ここにもB29が登場しておりました。臼井吉見と唐木順三とが出てきます。

「臼井の枕元で、女の泣く声がした。焼失家屋23万戸、死傷者12万人、罹災者100万人あまりが出たB29百三十機の無差別大空襲が、そのとき、すでに始まっていたのだ。この爆撃で、江東地区は全滅した。いくら叫んでも、酔いしれた臼井と唐木が眼をさまさないので、女中が、ついに泣き出したのだった。ふたりは、あけはなされた雨戸の外へ出て、庭に立った。
サーチライトが交錯する空を、鮎のようにB29が泳いでいる。吠え狂ったように高射砲陣地から夜空をめがけて弾丸が撃ち込まれるのだが、届かない高さにB29が群がり、悠々と流れていた。下町は火の海。その照り返しで、銀色の敵機が赤く染まっていた。『敵機と知る一瞬先に、美しいと思った。ほんとうに美しかった。美しいと思ったことを、くやしく思う気持が次に来た。最後に、とうとう来たナと思った』と臼井は、実感をこめて書いている。
この空襲で、筑摩書房は焼けなかったが、強制疎開で取壊しになった。・・」(p80)


とりあえず。二人『ほんとうに美しかった』というのでした。こういうのを塗りつぶしてはいけないのでしょう。「女たちの戦争」のはじまりが、ここから書き起こされていることに、今気づいたりします
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