和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

本棚整理。

2011-09-30 | Weblog
何日か前に、本棚を組み立てたので、
俄然、本の整理を始めました。
本棚が2台。並べる本の顔ぶれは

 講談社少年少女古典文学館
 谷内六郎
 「いまは昔むかしは今」
 青木繁
 徒然草関連
 今昔物語関連
 千と千尋の神隠し関連
 水木しげる
 バムとケロ
 山村修(狐)
 花森安治
 梅棹忠夫
 池部良
 漢詩入門関連
 幸田文全集

他に、絵本とカタログと。
ということで、
おもむろに机近辺の本棚の空けたスペース整理へ。
最近買い込んだ震災関連を身近に並べます。
そうして詰め込んで、整理も一段落。
あとは、ただ読むだけなのに(笑)。

いつものパターンは、
いざ、本を探しはじめると、まず本の整理。
趣味は、と、もし聞かれたならば、本の整理。
なんて、とてもいえず、整理とは縁遠い生活。
それでも、本があらたに並び替えられると、
なんだか、頭の中もきちんとなったような、
そんな気分を、いっとき味わえるよろこび。

収穫となる読書の秋となりますように。
と、本棚を前に思います。

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懐かしい人。

2011-09-29 | 前書・後書。
ドナルド・キーン氏の近況は、気になります。
9月20日の産経新聞文化欄に、
11日、氏が岩手県平泉町の中尊寺で講演したことが載っておりました。
どんなことが語られたのだろうという、その興味は、
そういえば、司馬遼太郎氏のエッセイを読むときの気分に似てる。
ということで、司馬さんとキーンさんとの対談集「日本人と日本文化」・「世界のなかの日本」のまえがき・あとがきを開いてみます。
「世界のなかの日本」のあとがきで司馬さんが「懐しさ」と題してキーン氏のことを語っております。そこでキーン氏の言葉を引用しているのですが、その箇所は

「私(ドナルド・キーン)は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。」

そして司馬さんは「あとがき」の最後をこうしめくくっておりました。

「会っていながら、その場ですでに懐しさをおぼえてしまうという私の気持が、この本を読んだ読者には十分にわかってもらえるような気がする。」

私は、「日本人と日本文化」のほうが好きな本なので、ちょっと、わからなかったのですが、それはそれとして、「懐しい」という言葉について。三浦浩編「レクイエム司馬遼太郎」(講談社)にドナルド・キーン氏の文が掲載されておりました。そこに「懐かしい人」という言葉がつかわれている箇所がありますので、ちょっと、そこも引用。

「井上ひさしさんと私のことを、『会っている最中ですでに懐かしい人』とおっしゃってくださったそうですが、司馬さんはいつもそんなふうに、柔らかくて、温かくて、しかもユニークな表現で人を評しました。それがじつにいい日本語なのです。現在の人だけでなく明治時代の人物、たとえば正岡子規についても、やさしく、ほかの人が使わないような表現で語っていました。」


うん。謡曲と正岡子規。
どちらも、読もうとしてまだ読んでないなあ。
ああそうそう。
中尊寺でのドナルド・キーン氏の講演のことが
すこし、新聞記事で紹介されておりましたので、
そこを最後に引用。


「・・・私(キーン氏のこと)は今年1月、相当な病気にかかり、最期までどれだけ年があるか分からないので、どういうことをしようかといろいろ考えました。私の最近の本『日本人の戦争』に入っていますが、そこに高見順さんが書いた日記を引用してあります。戦争が大変なころに高見さんが上野駅に行ったんですね。(疎開のため列車を待つ)大勢の人がいて皆、静かに並んでいて騒いでいる人はいなかった。あるいは我先にと乗ろうとしている人もいなかった。高見さんは『私はこうした人々と共に行き、共に死にたいと思った』と書いていますが、私も同じ結論に達しました。
私の生涯は日本と密接な関係にあり、初めて中尊寺に参詣してから現在まで、日本のことを考えない日はおそらく一度もありませんでした。・・・」


ちなみに、段ボール箱から『日本人の戦争』を出してきたのですが、パラパラと見るだけじゃ、上野駅のその場面が見つけられませんでした。まあ、今日はここまで。
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震災10日後。

2011-09-28 | 短文紹介
長い題名の本を読んでいます。
監修・久志本成樹
「石巻赤十字病院、気仙沼市立病院、東北大学病院が救った命」(アスペクト)。

ちょっと、石巻赤十字病院の章から一箇所を引用。
その3月20日に

「アセスメントの結果をすぐに集計した。そこであきらかになったのは、医療以前の問題であった。まず、震災から10日がたつにもかかわらず、食糧さえ不足している避難所が35か所もあった。震災10日後といえば、テレビのニュースでは多くの救援物資が被災地に運びこまれる映像が流されていた時期である。広い体育館いっぱいに食糧が置かれているシーンもあった。にもかかわらず、仙台から車でわずか1時間の石巻市では、食べるものがほとんどない生活を強いられいた避難者たちがいたのである。
石井医師は、すぐに石巻市役所に出向き、倉庫に眠っている食糧を供出するように直談判した。ところが、市役所にすら救援物資は届いていなかった。・・・
県庁では『状況の連絡が来ないのでわからない』と言うが、自分たちの足で現地へ行き、自分たちの目で現地を見れば、すぐに理解できたはずだった。・・・
石井医師はこんどは宮城県庁に向かった。救援物資、とくに食糧を石巻市に回してもらえるように要望した。ところが、仙台市にある県庁では、被災地の避難所の実態すら把握できていない状態だった。・・・
ちなみに、石巻の食糧事情が好転したのは、石井医師が県庁に出向いて、しばらくしてからである。」(p48~49)

うん。引用したいところは、ゴロゴロしているようなのですが、
とりあえず、一箇所。
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チリ津波の警報。

2011-09-27 | 短文紹介
昨日のつづきになります。
チリ大地震にたいする、気象庁からの大津波警報についてです。

吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)には、
「チリ地震津波」の章がありました。
そこに、

「昭和35年(1960年)5月21日、気象庁は、南米チリの大地震をとらえ、つづいて23日午前4時15分、4度目の地震がきわめて激しい地震であることも観測した。さらにその地震によって起こった津波が、太平洋上にひろがり、23日午後8時50分頃にはハワイの海岸に襲来、60名の死者を出したことも承知していた。しかし、気象庁では、チリ地震による津波が日本の太平洋沿岸に来襲するとは考えず、津波警報も発令しなかった。」(p156)

こうして昭和35年のチリ大地震の三陸海岸での津波の被害状況が、そのあとに書かれてゆくのでした。この箇所を思い出したのが、昨日のチリ大地震についての箇所なのでした。
以下は昨日のままに、

戸羽太著「被災地の本当の話をしよう」(ワニブックスPLUS新書:2011年)には、
こんな箇所がありました。

「・・・・一年前、チリで大地震が発生した時に、気象庁から大津波警報が出され、国道を閉鎖するなど万全の準備をして、2メートル以上と推測される津波に備えたのですが、結局大津波はやってこず、ほぼ丸一日間も続いた警戒態勢に市民は肩透かしを食らい、『なんだ、バカバカしい』という声まであがったほどだったからです。
その経験がまだ記憶に新しかったため、皆さん、避難はしていたものの、心のどこかで『どうせ今回も来ないんだろう』という思いがあったのかもしれません。
最悪の事態を想定した警戒態勢が、結果的にまるで狼少年のように思われ、皆さんの心の中に油断を生み出してしまったのですから、なんとも皮肉なものです。」(p24~25)

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なんだ、バカバカしい。

2011-09-26 | 短文紹介
上部一馬著「奇跡の生還」(コスモ21)の「はじめに」で

「じつは3月11日の前々日、三陸沖で地震が発生した。このとき、太平洋沿岸に大津波が予測されたが、60センチ程度の津波が観測されただけだった。残念なことは、そのために大地震当日の避難が遅れてしまたことだ。」(p3~4)

そういえば、
戸羽太著「被災地の本当の話をしよう」(ワニブックスPLUS新書)には、
こんな箇所がありました。

「・・・・一年前、チリで大地震が発生した時に、気象庁から大津波警報が出され、国道を閉鎖するなど万全の準備をして、2メートル以上と推測される津波に備えたのですが、結局大津波はやってこず、ほぼ丸一日間も続いた警戒態勢に市民は肩透かしを食らい、『なんだ、バカバカしい』という声まであがったほどだったからです。
その経験がまだ記憶に新しかったため、皆さん、避難はしていたものの、心のどこかで『どうせ今回も来ないんだろう』という思いがあったのかもしれません。
最悪の事態を想定した警戒態勢が、結果的にまるで狼少年のように思われ、皆さんの心の中に油断を生み出してしまったのですから、なんとも皮肉なものです。」(p24~25)


もうひとつ、引用しておきます。
畑村洋太郎著「未曾有と想定外」(講談社現代新書)

「恐怖が残っているうちは、津波警報が発令されたらだれもが必死になって高台や高い建物に逃げるでしょう。しかし『警報が発令されても実際には津波がこなかった』という経験が続くと、避難する人たちの感覚もだんだんと麻痺してきます。これは津波の被害を必要以上に大きくする原因にもなることは、今回の被害状況が実証しています。」(p81~82)


気になった3冊3箇所を補助線でピックアップ。
もと消防団に属しておりましたので、
いろいろ思いあたることがあります。
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気仙小学校。

2011-09-25 | 短文紹介
気仙小学校について2冊の本が気になりました。
1冊目。上部一馬著「奇跡の生還」(コスモ21)には、こうあります。

「防潮堤から2~300メートルくらい離れたところに3階建てコンクリートの気仙小学校がある。菅野祥一郎校長は、高田町で用事を終えた頃、この大地震に遭遇した。『凄い揺れでしたので、学校に戻らねば、と思って、気仙川をまたぐ姉歯橋まで戻ったら、交通規制がかかり、渡れなかったのです。やむなく、もう少し上流にかかる橋を渡って、慌てて学校に戻ったのです。子供たち90人ほどがランドセルを捨て、校庭に上履き姿で先生と避難していました。その時、知り合いのおじちゃんが、これはデッカイ津波が来るぞォ!、とアドバイスしてくれたので、私はすぐ、山に登れ!、と叫んだのです』校庭には、近隣に住む住民も集まっていて150人から200人くらいにまでふくれ上がっていた。『小5、6年の児童は猛スピードで、アスレチック用に使っていた校庭脇の高台に一目散に逃げたのです。これを見た住民のみなさんも後を追って逃げてくれたのです』しかし、防潮堤を超えた津波の速さは、時速50キロメートルはあった。校庭では逃げ遅れた人や車が呑み込まれていった。阿鼻叫喚、恐ろしい光景が出現した。それは崖を十数メートル上って、一息ついた瞬間のことだった。真っ黒い断崖のような波が、アッという間に校舎の3階まで達した。小学校の体育館からは、2度ほど火柱が上がった。漏電が原因のこの火災は一晩中燃え続けた。」(p51~53)


これが印象に残っていたのですが、
三陸新報社「巨震激流」の「その時 72人の証言」に
その気仙小学校のことが出てきます。

寺本道幸さん(陸前高田市気仙町 53歳)の証言


「只越の高台で津波を目の当たりにしました。引き波で只越漁港の堤防が倒れ、家屋が流され、屋根の上に人がいるのを目撃しました。大沢のがれきの山を越え、妻と二人で母親と息子があいる高田を目指しました。途中の寺にはすでに犠牲者が運ばれていて、息子の学校の体育館は燃えていました。子どもたちは、裏山の杉林の中に、先生や保護者たちとうずくまって震えていました。気仙小学校は避難場所です。校庭には近所の人たちも避難していたそうです。津波に備えて一年生から順に裏山の崖を登り、六年の息子は最後でした。息子は言います。『自分の後を、おばあちゃんがお尻を押されて登っていたけど、振り返ったら、真っ黒い水だけだった』。みんなで月山神社に避難しおにぎりを貰いました。・・・」(p125)
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練習初日。

2011-09-24 | 地域
10月9日が地域の山車引き回し。
ということで、今日が練習初日。
ということは、今日は練習のあと、飲み会。
寒くなりそう、すこし着ていこう。
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その時。

2011-09-23 | 地域
三陸新報社「巨震激流」は、写真もなのですが、
ほかに、「その時 72人の証言」も掲載されております。
これを読むと、72人の津波経験に、
白紙のままの私は、思わず飲み込まれます。

ひとり、83歳の小山重之さんは
「私たちは今回の経験を後世に伝えなければなりません。」
と書いておりました。
ほかの方々も、自分の「その時」を語って、
後世へのメッセージとなっております。

記録として、吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)に
順ずるものだと思えました。私情を交えることを許さない
貴重な体験をここにとどめてくれております。
ありがたい。
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東日本大震災報道写真。

2011-09-22 | 地域
自分で買える範囲で、
東日本大震災に関する本を手にしております。
報道写真も4~5冊。
さてっと、
毎日新聞9月11日の今週の本棚で
湯川豊氏が
「『東日本大震災報道写真集』一覧」という書評を載せておりました。
その最初に、三陸新報社発行「巨震激流」が紹介されている。
気になるので、注文しました。
違いました。全国区の新聞社が作る写真集とは、
まるで違っておりました。
同じ写真で、これほど違うのか?
と思ったほどです。
たとえていえば、
小津安二郎のローアングルの視点とでもいいましょうか。
地元の写真なのだ。
と『巨震激流』をめくりながら、思います。
ちなみに、
活字もあるのですが、まだ読んでおりません。
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二人の達郎。

2011-09-21 | 短文紹介
朝日新聞の日曜日。
その朝日求人という全面広告。
そこに毎回4週連続のインタビュー記事が載っており、
ちょっと、気になるコーナーなのです。
たとえば、8月28日は山下達郎氏の連載4週目。
まあ、最初から引用します。


「音楽だけではなく、映画や小説、絵画、スポーツなどの分野も同じだと思いますが、商品として売っていく中で『世の中を変える世紀の傑作』とか、『数百万人を感動させた』と誇大宣伝を打つケースが少なくない。さらに、多くの媒体や評論家と呼ばれるような存在も巻き込んで、過大評価を流布する例もたくさんあります。そのこと自体はビジネスなので仕方がない。
それは内容とは別の問題なのに、宣伝ほどじゃないとか、過大評価が気に入らないと思う人々が、今度は批判を浴びせます。そういう過大な称賛と不必要な批判が錯綜し対立するたびに、文化は傷つき、人の気持ちもすさむように思えます。
僕は58歳になり、この年齢になってどうにか、的外れな批判を気にせずに生きられるようになりました。できることなら、今の若い人にはそういう周囲の雑音に負けないで仕事をして欲しいと思っています・・・・
だからこそ職種を問わず、仕事人になったら、好き嫌いと良しあしをきちんと区切って、他者の作品や仕事への敬意を払わねばなりません。一つの作品が形になるまでに費やす時間や労力は半端なものではありません。良しあしや好き嫌いがあるのは当然ですが、度を超した評価や批判は、文化自体をも曇らせていくものです。・・・」

初めて山下達郎氏の言葉を聞いたせいか、
あらためて、山下氏の音楽をパソコンにて拝聴しております。

ところで、達郎といえば、
出久根達郎著「漱石先生の手紙」(NHK出版)に
出久根氏が、大好きな手紙文という、引用箇所があり、
一読忘れられないのでした。


「以下後半の部分を紹介します。漱石の書簡2500余通の中で、最も私(注:出久根達郎ご自身のこと)の大好きな手紙文であります。漱石の人となりが一番表われている手紙といえるかも知れません。」

 こうして武者小路実篤へ送った手紙を引用しているのでした。
その手紙文を、ここにあらためて、引用。

「(略)私もあなたと同じ性格があるので、こんな事によく気を悩ませたり気を腐らせたりしました。然しこんな事はいつ迄経つても続々出て来て際限がないので、近頃は出来る丈これらに超越する工夫をして居ります。私は随分人から悪口やら誹謗を受けました。然し私は黙然としてゐました。猫を書いた時多くの人は翻案か、又は方々から盗んだものを並べたてたのだと解釈しました。そんな主意を発表したものさへあります。/武者小路さん。気に入らない事、癪に障る事、憤慨すべき事を塵芥(ちりあくた)の如く沢山あります。それを清める事は人間の力では出来ません。それと戦ふよりもそれをゆるす事が人間として立派なものならば、出来る丈そちらの方の修行をお互にしたいと思ひますがどうでせう。・・・」


そういえば、
出久根達郎著「日本人の美風」(新潮新書)の「二宮尊徳の凄味」には
『二宮翁夜話』からの引用がありました。
ついでに、そこからも、引用しておきます。


「・・・たとえば農家に病人が出て、草取りが遅れた場合、草が多い畑から片づけるのが一般的だが、こういう事情の時は逆だ。草が少ない畑より手入れをし、草の多い畑は最後にやる。草が繁った畑は手間がかかるし、その間に草の少ない畑も皆草が育って手に負えなくなる。従って手間取る畑は荒れてもうっちゃっておき、手軽なところより次々と処理する。『国家を復興するも又此理(ことわり)なり』山林を開拓する時は、大きい木の根はそのまま捨ておいて、そのまわりを切り開く。三、四年もすれば、木の根はおのずから朽ちて、力を入れずして取れる。
村を復興する時、必ず反抗する者がいる。この者に決して拘わってはいけない。無視して、わが勤めに励むことだ。」(p95)

うん。この「二宮翁夜話」は、文庫でたしか読まないけれどももっていたと思ったのですが、残念見つかりません。今回はさがすのをあきらめ、ここまでで撤退。
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浜口梧陵小伝。

2011-09-20 | 他生の縁
出久根達郎著「日本人の美風」(新潮新書)のはじめに登場するのは
浜口梧陵でした。そこに、

 楚人冠・杉村廣太郎著「濱口梧陵伝」

というのが、引用されております。
あれ、どこかで?
と思ってゴソゴソさがすと、
和歌山県広川町教育委員会に送って頂いた冊子に
そんなのがありました。
平成17年に注文したのですが、
調べると、いまでも買えるようです。

 稲むら燃ゆ
 濱口梧陵小伝

この2冊で500円でした。
読んでみたいという、
興味ある方は、安く楽しめますよ。

今回は、お知らせでした(笑)。
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馬革斎(ばかくさい)の狂歌。

2011-09-19 | 短文紹介
新潮新書9月の新刊に、出久根達郎著「日本人の美風」あり。
さっそく読む。
序にこんな箇所

「遅ればせながら、大正の関東大震災、明治三陸大津波、安政地震と津波などの文献に当ってみた。そして書き出してみたのだが、どうも団体の行動は画一的で変化に乏しい。やはり、個人の活動の方が、示唆に富み面白い。どんな形にしろ思惑にせよ、日本人が考え、いちずに人の為に砕身するからには、特異なケースだろうと何だろうと、日本人の美点に他ならぬ。」(p13)

登場する人は、濱口梧陵・中谷宇吉郎・二宮尊徳・野口英世・樋口一葉・一高校長たち・美智子皇后さま。その人たちにまつわる方々が登場して味わいと奥行きを深めております。

さてっと、どなたも気になるのですが、私が今回ひきつけられたのは、
「狂歌の伝統 一高校長たちのユーモア」という章でした。
新渡戸稲造が一高校長の際に、教頭であった菊池寿人(ひさと)氏。

明治44年、校長(新渡戸稲造)が日米交換教授に選ばれ渡米、教頭の菊池が代わりを務めた。新渡戸は一年後に帰国し校長に復したが、健康がすぐれず、結局、退職することになった。菊池は教頭を続けたのち、大正8年9月に校長になった。以後、5年間、一高を統率した。菊池にとっても一高にとっても大きな出来事は、大正12年9月1日の、いわゆる関東大震災で・・・生徒にケガはなく、隣接の東京大学の化学教室から火が上がった。一高生たちは駆けつけて、備え付けの図書を運びだした。菊池が命じたのである。一高校舎に燃え移るようだったら、一高の図書類を頼む、と伝えた。東大図書館はこの震災で焼失し、多くの貴重書が灰になった。」(p164~165)

その菊池寿人が正岡子規と関係があったのでした。
ということで、もうすこし菊池氏の人となりを引用していきます。

「一高教授時代は、源氏物語、万葉集を教えた。20年これを続けて、教頭になった。まじめな人柄であった・・・ところが人はわからぬもので、菊池校長の愛するものは、諧謔なのである。おどけ。洒落。ユーモア。ナンセンス。『滑稽趣味を解せぬ国民はあまり発展せぬ』と自ら言っている。
世の中は、『馬鹿くさいもの』と、まず割り切らねばいけない。それを真面目に考えて、裏側の真相を味わうような余裕がなくては、いたずらに嘆き、悲しみ、かつ恨み、憤り、あげくは捨て鉢になるのがオチで、かといって、裏面だけを見て合点しては、世を茶化して一生を送る風来坊となってしまう。
どうせ世は矛盾だらけだが、矛盾の奥にそうとばかり言えない悲しき道もあり、馬鹿くささの中に玉と光る血も涙もある、と見るのが人生であろう。
菊池はそう考え、『馬革斎(ばかくさい)』という戯号(げごう)を案出した。・・むろん、若い時に用いた戯号である。この号を主人公に名づけた戯文も書いた。狂歌入りの小説に、『夢の浮橋』と名づけた。明治25年の暮、一気に書き上げて、学友の正岡子規に送った。子規は病床にあり、菊池は見舞いのつもりで進呈したのである。子規は読後、狂歌一種ごとに自作の句を朱筆で記し、原稿を返してよこした。」(p170~171)

うん。「狂歌の伝統」が私には興味深かったのでした。短歌・俳句・狂歌とセットで視野に入れておかなければ間違う。という気になります。

ところで、この出久根達郎著「日本人の美風」一冊は、
たとえていえば、厳選した素材をもってきて、腕をふるう料理人の包丁さばき。どの章も、すでにご存じの方を、新鮮な切り口で、短いながらも、味わいを堪能させてもらえます。
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存在感。

2011-09-18 | 短文紹介
東日本大震災以降に、読んだ本で吉村昭著「三陸海岸大津波」が、印象鮮やか。この本は、吉村昭氏の年譜によると、1970年7月に『海の壁』という題で中公新書の一冊として出ております。ちなみに、同じ1970年7月に「戦艦武蔵ノート」も図書出版社より出ておりました。

さて、毎日新聞2011年9月11日(日曜日)「今週の本棚」の「この人・この3冊」は高山文彦選「吉村昭」でした。
  ① 三陸海岸大津波
  ② 関東大震災
  ③ 羆嵐(くまあらし)   

という、吉村昭の3冊が選ばれておりました。
新聞紙というのは、読み返したい時に見あたらないという常識(笑)。
ここは、短文でも、気になる箇所なので、書きとめておきます。
それは、こうはじまっておりました。

「東日本大震災から今日で半年を迎えた。津波や原発事故を描くルポルタージュがいろいろ発表されているが、ずっと昔に書かれた吉村昭さんの『三陸海岸大津波』が、いまなお圧倒的な存在感を放つのはどうしたわけなのか。
明治、昭和の大津波を中心に書かれているので、話は古い。文庫の解説を頼まれたとき(平成16年11月のことだった)、いまの人たちが読んでくれるだろうかと、余計な心配をした。
読んでいくうちに、私は巨大津波の渦のなかに頭から巻き込まれていた。いつ襲いかかってくるかわからぬ津波。それに呑まれていく人びと。恐怖というものに、古いも新しいもない。資料や証言者の話を、吉村さんは私情を交えず客観的にしるしていく。正確であろうと努める態度が、読む側に必死の警告を伝えてくる。
これは日本人への遺言なのではないかと、私は直感した。昭和8年の大津波から70年が過ぎている。初版は昭和45年。長い間忘れられていた記録をもう一度よみがえらせるというのは、そろそろ大津波が三陸沿岸を襲ってもおかしくないという切迫した気持ちがあったからに違いない。文庫が出て二年後に吉村さんが亡くなったとき、私はこの印象をつよくした。・・・・」

話題がかわるのですが、この文中に「日本人への遺書」という言葉、そういえば、城山三郎・高山文彦対談「日本人への遺言」(講談社)というのがあったなあ。それよりも、吉村昭著「関東大震災」を私は読んでいない体(てい)たらく。
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ちっとやそっと。

2011-09-17 | 詩歌
司馬遼太郎著「坂の上の雲」第一巻の「あとがき」。
そのはじめのほうに、中村草田男がちょっとでてきます。

「・・しかし、被害意識でのみみることが庶民の歴史ではない。明治はよかったという。その時代に世を送った職人や農夫や教師などの多くが、そういっていたのを、私どもは少年のころにきいている。『降る雪や明治は遠くなりにけり』という、中村草田男の澄みきった色彩世界がもつ明治が、一方にある。・・・」

司馬遼太郎著「『昭和』という国家」(NHK出版)にも
こんな箇所がありました。

「私が『坂の上の雲』という小説を書こうとした動機は、もうちょっと自分で明治を知りたいということでした。動機のうちの、いくつかのひとつに、やはりみなさんご存じの中村草田男(1901~83)の俳句がありました。『降る雪や明治は遠くなりにけり』草田男は明治34年の生まれでしたか、松山の人であります。・・・つまり、『明治は遠くなりにけり』というのは、明治という日本があったと、その明治という日本も遠くなったなということですね。それを草田男が感じたのは、昭和6年だった。激動の時代が始まろうとしている年であります。」(p163・第11章「江戸時代の多様さ」)

たとえば、「坂の上の雲」の「日清戦争」の箇所に、こんな言葉がひろえます。

「国家像や人間像を悪玉か善玉かという、その両極端でしかとらえられないというのは、いまの歴史科学のぬきさしならぬ不自由さであり、その点のみからいえば、歴史科学は近代精神をよりすくなくしかもっていないか、もとうにも持ちえない重要な欠陥が、宿命としてあるようにもおもえる。」


ここに、人間像という言葉がありました。
小西甚一著「俳句の世界 発生から現代まで」(講談社学術文庫)の第五章「人間への郷愁」は中村草田男からはじまっておりました。

「たぶん昭和十二三年ごろから十四五年にかけてのことだったと記憶するが、俳壇に『難解派』とか『人間俳句』とかいった呼び名が、すばらしい魅力をもって横行した。・・」とはじまっております。
こうして、小西氏は草田男の『人間』を、こう語っております。

「かれらは、草田男のどこに『よさ』を感じたのか。おそらく、表現としてはわからないながらも、草田男の作品に浸透した『人間』が、かれらをつよく惹きつけたのではないかと想像する。盆栽的な『ホトトギス』派はもちろんとして、近代的な美しさをほこる秋櫻子俳句にも、鋭い知性にみちた誓子の新感覚も、そのなかに『人間』が無い。誓子俳句にも、もとより、素材としての人間はいくらも出てくる。しかし、その人間を視つめる眼が、あまりに非人間的は冷徹さに澄みきって、血のかよった人間の体温が感じられない。あまりにも透明な誓子、それに対して、不透明な草田男の表現が、いきいきと『人間』を描きだすとき、ちっとやそっと意味がわからなくても、俳壇大衆は、つよくそちらに共感せざるをえなかった、それほど、俳壇は人間飢饉だったのである。さらに、かれらを惹きつけたのは、人間を描く草田男のタッチが、これまでの俳句に無かった文藝的感覚をもつことである。」(p329~330)

ということで、「俳句の世界」から「坂の上の雲」のはじまりを展望する、というのもあり。

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俳句の世界。

2011-09-16 | 短文紹介
小西甚一著「俳句の世界 発生から現代まで」(講談社学術文庫)を、今回初めて出会えたように読めてよかった。こんな時こそ、その魅力を、他の方から聞きたくなります。
ということで、書評家の何人かに登場していただきます。
ここが、書評を読む醍醐味。

まず、山野博史。

「好きなことを好きなように勉強して、その成果がとてつもなく豪勢であるという学問はめったにあるものではない。『日本文学史』から『日本文藝史』へと連なる小西甚一の颯爽たる仕事ぶりに接すると、ほんものの物学びはいかにも底が深いことが実感されて、胸にあついものがこみあげてくる。」(「本は意なのも味なもの」潮出版社)

先を急ぎすぎました。
谷沢永一著「人生の叡智」(PHP研究所)に

「・・実はこの意欲的な『日本文学史』の前に、予め小西甚一は『俳句(発生より現代まで)』を刊行済み、難所は既に悠々と切り抜け、包丁捌きに自信ををつけた上で、表現意識史観の提唱に及んだのかも知れない。この溌剌たる快著が訂補改版、『俳句の世界(発生から現代まで)』となって蘇ったのは朗報である。
元来は東京高師での初級向き講義ノート、そして最初は高校から大学教養課程向きの出で立ちで現れたというものの、小西甚一の常に明快な要点集中主義は類書との比較を絶し・・・俳句史の展望はこの一冊で十分と請け合いたい程、史眼と鑑賞を融合して切り込み鮮やかな、ザックバラン調の興趣を堪能し得る。極度に専門的な交渉に耽った論文に於いてでも、思い切って枝葉を狩り込む潔癖な勇断が、語り口にダイナミックな緊迫と壮快を生み、但し装飾的な文学臭の思い入れや弁論術とは無縁、予備知識のない手ぶら読者へ直裁に語りかけ、一気に手繰り寄せて魅了する辣腕では、西に宮崎市定あり東に小西甚一ありと評すべきか。」(初収:「閻魔さんの休日」)


つぎは、向井敏著「残る本残る人」(新潮社)
そこに、「小西甚一の俳諧研究史」と題して「俳句の世界」を取り上げておりました。

「この本は戦後もまもない昭和22年から翌23年にかけて、東京高等師範学校でおこなわれた『俳諧史概説』の講義ノートをもとにして成ったものだというが、そのときから数えて半世紀余、周密な俳諧研究や気鋭の俳句論が山をなす今日なお、鮮度と魅力をよく保ちつづけ、五百年近い歴史をもつ俳諧、俳句の全体像をうかがうのに、この上なく頼りになる概説書という資格を失わずにいる。」

あとは、
谷沢永一・山野博史・加地伸行の鼎談「三酔人書国悠遊」(潮出版社)。
ここでは「奇跡のひと 小西甚一」と題して
小西甚一の「日本文藝史」全五巻をとりあげておりました。

加地】 小西さんの実証主義は、若き日の恩師である能勢朝次(1894~1955)さんに鍛えられたんですか。
谷沢】 能勢さんの考証学というのは、必要十分なことだけをいうのが特徴でした。なにが大事で、なにがセカンドかということの見極めにメリハリがある。

山野】 ・・・・小西さんの文章は、若いころからまったく変わりませんね。明快な散文精神がこゆるぎもしない。
加地】 小西さんがお書きの受験参考書を拝見しても、文体は一緒。

谷沢】 受験参考書のレベルは、戦後、落ちましたが、戦前は高かったんです。小野圭次郎にしろ、塚本哲三にしろ、これは立派なものでした。そうしたなかで、戦前をはるかにこえる参考書を書いたのが小西甚一です。



う~ん。、
私には小西甚一著「日本文藝史」は、いまだ歯がたたないのでした。
でもね、「俳句の世界 発生から現代まで」は楽しめる。
コメント
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