和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

見るに見かねて。

2011-01-31 | 短文紹介
梅棹忠夫を今年は読む。

まず、梅棹忠夫を読むには、加藤秀俊を読めばいいのじゃないか。
「知的生産の技術」を加藤秀俊氏はどう語っていたか。
朝日選書「ベストセラー物語 下」を開いてみました。
そこには、加藤秀俊氏が「知的生産の技術」をとりあげています。
「・・この本の奥付をみると、初版、1969年7月21日、とある。1969年の夏、日本ではなにが起こっていたか。いわゆる『学園紛争』である。・・・そうかんがえてみると、全共闘と梅棹忠夫は、ほぼ同時期に、まったくおなじ教育への批判をこころみていた、というふうにもみえる。もちろん、全共闘は、わけのわからない泥沼のなかにふみこんで、不定形な感情の発散をくりかえすことになり、あまり生産的な貢献をすることができなかった。それにたいして、梅棹忠夫は、きわめて具体的、かつ説得的に、いまの日本の知的訓練の欠陥をこの本をつうじて指摘している。」

このあと、加藤秀俊氏の読みが語られておりました。

「じっさい、この本には、いささかうんざりしながら、それでも、見るに見かねて書いているのだ、という著者の気分がみなぎっているように見うけられる。なにをいまさらこんなことを、といった著者のつぶやきが行間にきこえるような部分もいっぱいある。・・・・ほんとうは、この本に書かれていることの大部分は、大学の一年生のときに、ひと月ほどでやっておくことのできることである。その、あたりまえの基礎ができていないから、やむをえず、梅棹忠夫はこの本をかいた。・・・・・とにかく、おびただしい情報の渦のなかで、どんなふうに処理していったらいいのか、途方に暮れてしまっている人たちの数が、このころから急速に増加してきていたのだ。・・・」

ちなみに、そのころの加藤秀俊氏は、どうしていたか?「わが師わが友」をひらいてみました。その「教育学部の助教授へ」という箇所にこうありました。


「辞令は1969年1月16日付。・・・初出勤の日がきた。1月16日である。しかし、なんたることであろうか、よりによってその当日、学部の建物と図書館とのあいだに毛沢東の大きな肖像がかかげられ、そのそばで数人の学生がタキ火をしているのである。・・・
そんなある日、おびただしい数の白や赤のヘルメットをかぶった学生たちが総攻撃をかけてきた。わたしは、西門にとんで行って、必死に内がわからおさえた。なにがなにやら、さっぱり事情がわかないが、とにかく、これが業務命令なのだからしかたがない。・・・・じぶんが学部の教員である以上、毎日研究室に詰めよう、と決心した。・・・ただ本を読み、執筆した。ほとんど無人の建物のなかに、ある日、白ヘルのグループが入ってきて、ガラスを割りはじめた。そのとき、わたしは中公新書の『人間開発』の「まえがき」を書いていたが、物音が近づいてきたので研究室のドアをあけ、『バカ者、しずかにしろ』と怒鳴った。覆面をしていたから、誰であるかわからなかったが、二、三の学生はわたしの姿をみとめ、『あ、いらしたんですか、すみません』と間の抜けたことをいっておじぎをした。物音はしばらくつづいたが、わたしの部屋のガラスだけは割られずにすんだ。・・・・解除後の学部の建物は、めちゃくちゃだった。しかし、わたしと、他の一、二の先生の研究室だけは、家具も持ち出されず、書棚も整然としていた。わたしはべつだん全共闘の仲間でもなんでもなかったのだが、こういうイキサツがあると、どうにも居心地がわるい。1970年の冬、わたしは、もう、ここは辞職しよう、と決心し、辞表を出した。おなじころ、永井道雄、川喜田二郎、鶴見俊輔、高橋和巳、伊東光晴など、何人ものわたしの先輩や友人も、期せずして大学を辞めた。わたしは40歳になっていた。・・・」


つぎは、『知的生産の技術』といっしょに、
『人間開発』をひらいてみたくなりました。
ちなみに、加藤秀俊著「独学のすすめ 現代教育考」は、1975年に出ます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パン種

2011-01-30 | 前書・後書。
宮崎駿監督に上映12分の映画「パン種とタマゴ姫」があるそうです。なんでも、パン種に生命が宿って、話が展開してゆくらしいのでした。

そういえば、と私が思ったこと。
昨年などもそうなのですが、ブログを書きながら思うのは(特に今年は毎日更新しようとしておりますからね)、このテーマはパン種になるなあ、ちょいと膨らませれば面白いことが書けそうだ。という時、つまり、熟成をまたなければいけないような場合に、たいていブログの更新がおろそかになる。ということに、あらてめて、気がつくのでした。
これは調べてからとか、まごついているうちに、あっというまに1週間もブログ更新がおろそかになっていたり(笑)。くれぐれも、今年は、この轍を踏まないようにいたしましょう。というのが1月もおわりの抱負。

さてっと、
かまくら春秋社発行の本で、「堀口大學詩集 幸福(しあわせ)のパン種」というのがありました。編者は堀口すみれ子。その「あとがき」の全文を引用。

「いつの日か、こんな詩集を編むことが出来たらな、と夢に描くようになってから久しい気がします。ページの制約上、やむを得ずこの集に載せることをあきらめなければならない詩編がたくさんあって難儀でしたが、それさえもうれしい苦労で、父の詩と翻訳詩の中から、限られた数を選びだすのは、心楽しい作業でした。
それは夢だったり、希望だったり、やさしい忠告だったり、自戒だったり、冗談だったり、風景だったり、すべて詩人からのメッセージです。集の中のいづれの詩編も、読者の琴線に触れることを、そしてそれらが、ある味わいとして残り、時を経て醸造され、満ちたりた感覚、あるいは感情として、心の中にぷうーっと膨らんでくるような、幸福(しあわせ)のパン種であることを願います。
堀口大學の詩を読んだことのない方には、入門の書として、すでに馴染みのある方には懐古の書として、長く座右の書としていただきたいと思います。今年は父の十三回忌にあたります。古くて新しいのが父の詩の値打ちです。  平成5年3月13日 堀口すみれ子」(p135)

「古くて新しいのが」といえば、関容子著「日本の鶯」(岩波現代文庫)に

ちょうどまだ、聞き書きがうまく噛み合っていないような具合の時に関容子さんが八十余歳の老詩人に、「先生の、例えば『食人競技』という詩・・・今読むと、実に現代的・・・面白いなと思いました、と申し上げると、先生はしばらくお考えになり、
『そうね』
と、思い切って譲歩なさるといった感じに、短く同意なさった。
そして、『僕の詩は、古くなって新しさがわかる、というものでね』
とおっしゃってから、
『ああ、この言葉、いい言葉を発明したね。本日のイベントだ』
と・・・・」(p84)

う~ん。パン種から「本日のイベント」まででした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嬉しかりけむ。

2011-01-29 | 詩歌
関容子著「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)を読み終わっても、その余韻が尾をひいてます。読後に、私が思い浮かんだのは、日本テレビで以前あった番組「はじめてのおつかい」でした。ちなみに、この岩波現代文庫には、関さんの「岩波現代文庫版あとがき」と、丸谷才一の「解説」がついております。堀口大學・関容子・丸谷才一と、この文庫で顔ぶれがそろった。という感じです。これが読めてよかった。関さんの現代文庫あとがきに、「短歌」への連載中の、電話でのご指導が書かれておりました。

「なんと言っても一番の恩人は丸谷才一先生です。『短歌』をごらんになると必ず厳しいご指導の電話があって、それが私の文章修行になりました。
たとえば、『いつの間にかお菓子を独占する習慣がついて』なんて、まるで女(おんな)全学連じゃないですか、『お菓子を一人じめする習わし』でしょう・・・、といった具合。・・・時には丸谷先生から葉書が届くこともあって、教養、年齢、総ての点であまりに差のある大學先生と私のおかしな取合せをからかって、『語る大學聞く幼稚園』とありました。・・・・・大學先生はだんだん丸谷先生の検閲の結果をお察しになるようになって、『ここはM先生にバッサリ削られるかね。惜しいから雑誌に紙を貼って送りなさいな。本になるときは活かしましょう』と、冗談をおっしゃていました。単行本になるとき、『日本の鶯』という題をつけてくださったのも丸谷先生で、折にふれて『僕のつけた本の題名で一番いいのはこれかも知れない』と、自慢なさっています。」(p395~397)

これじゃまるで、「はじめてのおつかい」という番組で、幼稚園とお母さん役と役者がそろったみたいです。
「一番いい題名」にまつわる話は、丸谷氏の解説を読めばわかるので、ここでは省略。

私が引用するのは、堀口大學氏が語っている短歌についての箇所。


「日本語のよさを最大に生かせるのは、やはり短歌じゃないでしょうかね。・・・磨くには楽しい言葉ですよ。とにかく歌はいい。嫉妬とかいや味とか皮肉を言うにしても、そのままでは実に味気ないが、和歌にして出されると、情感がこもってホロリとさせられる。また物を贈るにしても、礼を述べるにしても、和歌が添えられていると、有難味が一段と深まるような気がするし、第一、心が通い合うでしょう。」(p220)

こうして、具体的な例が語られるのですが、ちょっと2ページとばしてから、引用。

「贈答の歌の例では、そうそう、こんなのがありましたよ。与謝野寛先生は、三月(昭和十年)に亡くなられたでしょう。それで翌年の一周忌のご命日に、僕は多磨墓地へお詣りに一人で行きました。
寛先生の訳詩集に『リラの花』というのがあったし、パリにいらしてリラの花をご覧になって来ておられるし、それでお墓にリラの花束をおそなえしようと思って、前々から小石川の大曲のところの大きな花屋に頼んでおいたの・・・それにこういう歌を添えてお供えしてきました。

 幻に巴里の匂ひかぎませと多摩のみ墓にリラ奉る

すると早速、晶子先生がお礼状にご返事を添えて下さいました。

 幻の巴里のリラの匂ひより嬉しかりけむ君が足音

というの。どうです?僕が負けてるねえ。『幻に・・』を『幻の・・』と、ちゃんと受けて下すって、幻と巴里とリラと、同じ材料を使ってこうも違うかねえと思いましたよ。・・」

そして、大學先生は、関さんに、こう語ったそうです。


「近頃よく大學先生は、私に歌をつくってみたら、とおすすめになる。せっかくたびたび訪ねてくるのだから、つくってくれば見てあげよう、とおっしゃって下さる。先生のことだから、やさしく上手におだてて下さるだろうと思うが、こわくてつくれない。」


この文庫は、面白い読み方を秘めた一冊で、語りだすと尽きないのでした。

ところで、なんですが、「匂ひより嬉しかりけむ・・」で、
ちらりと思いうかんだのは
折口信夫著「橘曙覧評伝」にある言葉でした。

「『心にしみてうれしかりけり』かう言ふ近代的な感動は、どうして現れて来たのか、私にはまだ訣らぬ。少くとも曙覧以前には、まだ見てゐない。新派短歌もまだ明治期には、かうした発想までは要求して居なかつた。・・・」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゲゲゲのグググ。

2011-01-28 | 短文紹介
外山滋比古著「ゆっくり急ぐ」(毎日新聞社)を注文。
発行が2010年12月となっておりました。
ちなみに初出が1981年~1997年までの連載となっておりました。

新刊を買ってしまうのは、私がファンだから。
う~ん。追っかけのようにして、今回も
つい、新刊を買ってしまいました。

まあ、それはそれとして、この新刊の
最初は「立ち居ふるまい」という3ページの文。

はじまりは、
「人前での話は立ってする。腰をおろすようにとすすめられても従ったことはない。・・・学校の授業でも少人数のゼミなどでは立ったりしてはおかしいけれども、普通のクラスなら腰かけたりしない。立っていた方が力が入り、勢いもつくような気がする。」

さて、このすぐあとからが本題でした。

「だいぶ前のことになるが、ある歴史学者から、うちでは机に椅子はない。立って本を読む、立って原稿を書く。そのために机をとくべつに作ってある。立った方が仕事にはりがあるのだ、というような話をきいて、たまげたことがある。その人の書くものに独特な迫力があるのは、そうした書斎と無関係ではないのだろうと解釈した。・・・」

そういえば、外山滋比古著「ちょっとした勉強のコツ」(PHP文庫)には「いざ立て」という文が掲載されておりました。そのはじまりは

「講演をするとき、こちらが年をとっているからか、いたわるつもりであろうか、主催者が、どうか椅子に腰をかけてお話しになってください、などということがときどきある。もちろん、一度だって、腰かけて講演をしたことはない。・・・指揮者の朝比奈隆氏はたいへんな高齢になっても現役で活躍していた。元気であるが、これだけの高齢である。腰をおろして指揮して・・・、と言われることがすくなくないらしい。そんなとき朝比奈氏は、はっきり、指揮は立っていなくてはできません、すわっていては、音楽が生まれないでしょう、といった意味のことをのべて断ったという。さすがだと思ってきいた。」

「いざ立て」は、8ページほどの文。
その中ごろに、

「ある評論家が、原稿はすべて立って書く、腰をおろして書いたのでは文章に力が入らない、勢いがなくてダメだ、と断言するのをきいて・・・」という箇所がありました。


新刊では「ある歴史学者」で、文庫では「ある評論家」。
ある評論家というとき、私に思い浮かんだのは清水幾太郎でした。
ですが、「ある歴史学者」といわれると、どなたか思い迷います。
どちらの文にも、コタツが登場しているのがミソ。
ちょうど今頃の季節に、読むのに、ピッタリ。
寒いといえば、つい、読んだばかりの関容子著「日本の鶯」(岩波現代文庫)に
「・・・とお笑いになり、階下へ降りていらっしゃった。
『ああ、書庫は火の気がないから、寒かった。老骨冷え易く、学成り難しだね。この学成り難しという言葉は便利ですよ。何にでもくっつけるとサマになりますから』と冗談をおっしゃりながら・・・」(p241)

そういえば、どこかに立ち机の図があったなあと、身近で探す。
渡部昇一著「知的生活の方法」(講談社新書)の
「4-知的空間と情報整理」のはじまりには絵があり
(各章に絵がついているのでした)そこに
「ライデン大学の図書館(オランダ、1610年)」とあり、
図書館の本を立って読んでいる図が載っているのでした。
一冊が大きな辞典のようでもあり、それを傾斜がある立ち机に置いて
人が立って読んでいる図です。

このくらいにして、
以前、外山滋比古著「フェスティナ・レンテ いそがば回れの生き方論」(創知社・1981年)と題した本がありました。その題名「フェスティナ・レンテ」には振り仮名がついていて「ゆっくり急げ」とありました。

今回の新刊の題名が「ゆっくり急ぐ」。
「急げ」と「急ぐ」。
ファンは、これだけでも、つい買っちゃうのでした(笑)。
そのファン心理というのは、どうなんでしょうね。
つい、言葉につまって、ゲゲゲのグググ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

しといたで-。

2011-01-27 | 詩歌
いよいよ2011年1月も、あと5日。
講読している産経新聞も元旦から、そのまま片付けもせず。古新聞はすぐに溜まったまま。1月からの新聞連載小説。将口泰浩著「ダン吉 南海に駆けた男」も、けっきょく読まずじまい。さて、切り抜くかどうするか(すこしは読めばいいのに)。

ということで、片付けるときは、もう2月じゃないかなあ(笑)。
そんなことを思いながら、1月25日の産経歌壇・俳壇をひらくと、
こちらは、クリスマスから年賀はがき書きなど、去年今年がまたがって登場しております。こういうのは、私のペースに、よく合います。
ということで、ここにすこし引用してみます。

 新年のカレンダーなれば画鋲痕去年(こぞ)のをずらし新孔に留める
                横浜市 大建雄志郎

 正座して賀状の宛名書きする写経の僧に思い馳せつつ 
                兵庫・太子町 玉田泰之

 あの家の壁一面のクリスマス今年は点かぬ暗き窓見ゆ
                大阪市 三好和子

 ただならぬ量販店の暮のさまややありて知る年金のわれ
                ひたちなか市 黒沢進

 アンテナを忙しく付けし業者去る商売道具のニッパを忘れ
               佐倉市 薄井隆

 ゆつくりと霧動く朝じつくりと時かけて読む産経新聞

                枚方市 森本敏子


そういえば、この産経歌壇が載った1月25日の産経一面は「通常国会開会」で堂々の阿比留瑠比記者の署名記事。そのなかにこんな箇所

「昨年10月の所信表明演説に対する衆院代表質問。社民党の重野安正幹事長に『実際の行動力が伴わなければ信を失うだけだ』と有言実行を疑問視された首相は、こう開き直った。『大風呂敷を広げたんですよ!』・・」

ちなみに、一面の横見出し「反省ない首相 また大風呂敷」。



産経新聞の歌壇ばかりじゃいけないかなあ。
読売歌壇の1月17日・栗木京子選の最初の一首

 雪掻きをするもされるも高齢化「しといたでー」と温かき声
               盛岡市 下屋敷正志
この選評はこうでした
「雪掻きは重労働。危険が伴うことも多い。『するもされるも高齢化』は心配な状況だが、互いに助け合う態勢は頼もしい。『しといたでー』のさりげなさに心が和む。」

雪掻きとちがって、古新聞の整理など重労働じゃないのに。
よし、今晩から、古新聞を、かたづけるでー。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の鶯。

2011-01-26 | 詩歌
松岡正剛著「白川静」(平凡社新書)で、そういえば、松岡さんは、こう指摘しておりました。「これはまだ十分な明治短歌史の研究がないところなんですが、鉄幹や正岡子規が万葉に憧れ、それがアララギの伝統になったというのは、私はどうも橘曙覧の影響が大きかっただろうと思っています。」(p119)


ということは、与謝野鉄幹晶子を介して、橘曙覧と堀口大學とが結びつくのじゃないか。
ということで、買ってあった関容子著「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)を読了。ふう~、思っていたのとは別の、素敵な展望がひろがっていて、読んでよかった。こういう聞き書きは、別に最初から読んでいかなくても構わなくて(私なら、第9章『子供のときから作文が得意』から読んでもいいのじゃないかとお薦めします)。私はこの第9章からの言葉の景色が好きだなあ。

さてっと、第1章に与謝野鉄幹・晶子とのことが出ておりました。
こんな箇所がありました。

「佐藤(春夫)も僕も、新詩社でしばらくは短歌をつくっていたんだが、いくらつくってみても晶子先生の大天才という天井に頭をぶつけるだけで、その足元にも及ばない、という感じが深まるばかりだったんだね。・・・ある日寛先生が二人にこうおっしゃったんです。
『君たちはまだ若いんだし、短歌という定型だけでは、これからの君たちの思想なり感情なりを表現するのに不足なもの、窮屈なものと感じる時が必ず来ると思う。だから、短歌とあわせて、詩の勉強もしておくべきだな』短歌の紐でつないでおいては、だんだん息苦しくなって居心地が悪くなってくるといけないとお思いになったんでしょうね。
寛先生ご自身、晶子先生の大才の前にやはりお苦しい時があったかもしれない。僕は寛先生の最高のお歌は決して晶子先生のものにひけはとらないと思っていますけどね。・・」(p17~18)

さて、この本の題名にもなった堀口大學訳「日本の鶯」を引用しながら、聞き役の関容子さんが見た短冊のことを語っている箇所も、引用しておきます。


「      日本の鶯

   彼は御飯を食べる
   彼は歌を歌ふ
   彼は鳥です
   彼は勝手な気まぐれから
   わざとさびしい歌を歌ふ  
       ――― マリー・ローランサン

私はこの詩に接した時、いつも先生の座右に掛けてある恩師与謝野寛の、直筆の短冊の歌が、自然と思い浮かんできた。

   大學よわかきさかりに逸早く
       秋のこころを知ることなかれ  寛

                          」(p178)  
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

表出手段として。

2011-01-25 | 他生の縁
加藤秀俊著作集の内容見本を見てます。
そのご自身の挨拶に「わたしもことし50歳」。
つまり、著作集全12巻は、50歳までの集成ということなのでした。

ちなみに、桑原武夫・川喜田二郎・永井道雄・小松左京、W・シュラムの5人が、
著作集に寄せての推薦文を書いておりました。
桑原氏の文は以前引用したことがあるので、
ここでは、川喜田二郎氏の言葉から、
「・・加藤さんの文章はサラリと明快で、現代的だ。気負わず具体的である。文化や社会の事を論ずる日本の学者にありがちな権威主義的ゼスチャーはカケラもない。」


そういえば、加藤秀俊著「整理学」(中公新書)は昭和38(1963)年に出ており、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)は昭和44(1969)年に出ます。

梅棹忠夫氏は1920年京都市生まれ。
加藤秀俊氏は1930年東京生まれ。

梅棹忠夫著作集の第11巻は「知的生産の技術」が入っておりまして、その最後のコメントに加藤秀俊氏が書いておりました。
せっかくですから、そこから加藤秀俊氏による梅棹忠夫評を
端折って引用

「・・・かれの精神の奥深さには、言語というかぎられた表出手段にたいするもどかしさと、その限界についての諦観のようなものが沈潜しているようにわたしにはみえる。これだけ多作で、しかもその著作のひとつひとつが珠玉のごとき輝きをもちながら、そして、その文章がこれだけ明快でありながら、ほんとうの梅棹思想は他者のうかがい知ることのできない前言語段階でよどんでいるのではないか。・・・ひとりのめぐまれた後輩として梅棹さんとのながい交遊のなかで、わたしはかれのなかにある実存のかなしさとおそろしさをつねに感じつづけてきたのであった。表出手段としての言語の限界をしっているからこそ、梅棹さんはごじぶんのあらゆる著作に愛情と責任と、そして執着をもっておられる。・・・・」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福井生まれ。

2011-01-24 | 地域
昨日が相撲の千秋楽。そのときどきに、
きになって、ちらちらと見ておりましたが、
その楽しみも、もうおわりました。
1月場所で、気になったのは、
寒いので、シコとか基本を入念にしっかりしていました。
という勝ち越し力士を、アナウンサーが紹介してたこと。
寒いと、本を読むのがおっくうな私が、
それを聞いています。
本を読まないときのほうが、あれこれと思うものですね。
読まなければ、プカプカと思いが涌いてきたりします。
まあ、こういうのを雑念というのでしょうけれど。

よく寝て起きた今日は、
福井県生まれ。という補助線。
最近目にした数冊の本が思い浮かびました。

まずは、

橘曙覧 文化9(1812)年~慶応4(1868)年
ちなみに、慶応4年は明治元年。

ここに、最近目にした本の三人。

桑原武夫 明治37(1904)年~ 昭和63(1988)年
白川静  明治43(1919)年~ 平成16(2006)年
荒川洋治 昭和24(1949)年~

どなたも福井県生まれ。
なにやら、福井県が、人の顔して歩きだしてくるような。
うん。それはおきて見る夢。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うわさの運搬。

2011-01-23 | 短文紹介
鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)に
「犀のように歩め」という文(p56~58)あり。
その最後の箇所を引用。

「編集者は犀を見つけることが仕事のはずだが、実際にはその仕事の内実は、うわさの運搬である。その中で、目利きとして私の記憶に残る例外的な編集者は、戦中・戦後の林達夫、花田清輝、谷川雁である。司馬遷は早くから、千里の馬はいつの時代にもいるけれども、それぞれの時代に目利きが少ないと嘆いた。千里を行く馬は速いが、犀はのろい。しかし、ひとり千里を行くという点で、両者は共通である。」

「目利き」といえば、思い浮かぶのが、桑原武夫氏。
たとえば、「鶴見俊輔書評集成1」の最初にある「読書案内人」という講演記録。
そこでは、こうはじまっておりました。

「案内人といいますと、私が知っている人でいえば今西錦司さんがそうです。・・・・私を大学に拾ってくれたのは、桑原武夫さんという人です。・・桑原さんは会った初めから、『自分の中学校の友人で今西という男がいるが、彼は天才だと思うけど、いっこうに有名じゃあない』といってました。51年前の話です。自分の中学の同級生を『本当に優れた天才だと思う』、そういえることが、桑原さんの器量の大きさを示していると思います。・・・・」

「天才」という言葉は、そういえば、加藤秀俊氏も語っておりました。
それは、梅棹忠夫追悼文(サンケイ新聞大阪本社依頼)のなかでした。

「 ・・・思いつくままに列挙してゆけばキリがない。だが、わたしが梅棹さんの偉大さを感じるのは病を得て失明なさってから、「晩年」というにはあまりにも長い二五年ちかくを生き抜いたエネルギーであった。
 働き盛りで突然に襲われる病魔。そして失明。ふつうの人間だったら、挫折し、呆然としてみずからを放棄するにちがいないような境遇に立たされていながら、梅棹さんは動ずることなく、冷静に毎日を生きられた。
 もちろん人間のことだから、梅棹さんだってずいぶんお悩みになっただろう。失意落胆なさっただろう。だが、そうした弱い内面をわれわれに示されたことはいちどもなかった。親しさからあえて言わせていただくと、その落ち着きは憎らしいほどであった。この一〇年ほどのあいだ、わたしは梅棹さんを何回か訪ねたが、いつも食卓をかこみ、ワインを片手に学問を語り、時事を論ずること、若いころとすこしもかわっていなかった。
 われわれの共通の師である桑原武夫先生は、ある日、君らみんな秀才だ、でも梅棹はちがう、アイツは天才だ、と名言を口になさったことがある。「生態史観」をはじめとする梅棹さんの発想は「天才」のそれであった。天命とはいえ、その天才を失ったことをわたしは悲しむ。」

では、天才が天才を評価するとは、どういうことなのか。
1992年の「中央公論」8月号に梅棹忠夫による「ひとつの時代のおわり 今西錦司追悼」という文が掲載されたのでした。
そこから、一箇所引用。

「・・探検隊の行動中においても、かれは読書を欠かさなかった。大興安嶺やモンゴルの探検行でも、キャンプ地に到着して、わかい隊員たちがテントの設営や食事の準備にいそがしくたちはたらいているあいだ、今西はおりたたみ椅子に腰かけて、くらくなるまで読書をした。今西は予備役の工兵少尉であったから軍装の一式はそろえていた。探検隊でもつねに軍用の将校行李をたずさえていたが、そのなかにはいっているのは大部分が書物だった。朝になって若者たちがテントの撤収をおこなっているあいだもかれは読書をつづけた。冬のモンゴル行においてもそうであった。零下20度の草原で西北季節風がびょうびょうとふきながれるなかで、かれは泰然として読書をつづけていた。」

たかがマイナス1度くらいで、夜はすぐに布団にもぐりこむ私が、あえて引用するような箇所ではない。というのは、重々承知しております。はい。
そういえば、日めくりカレンダーの1月21日には、こうありました。
「知る者は言わず言う者は知らず」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曙覧拾遺歌。

2011-01-22 | 詩歌
岩波文庫「橘曙覧全歌集」をパラパラですが読了。
私に以外や、たのしかったのは、p271からの「橘曙覧拾遺歌」。
そのなにげなさの歌を並べてみます。


  いなか店 むしあがりたる 八里半
   ぽぽうぽぽうと 山ばとのなく

  文庫注には、
 八里半 ―― 焼芋。味が栗(九里)に近いことから。

  くれなゐに 身のそまるまで 血すふ蚊の
      はてはおのれと おちて飛びえず

  文庫注には
   はてはおのれと ―― 終極は我が身の最後となって。

 風にちる 花かとばかり 見し蝶(てふ)の
       行くへうしなふ すずな園かな

 夏の夜も やや明けおそく なるなへに
       光うすれて 飛ぶ蛍かな

  文庫注には、
   なるなへに ―― ・・・と同時に。・・につれて。

 ゆふかけて 臼つくならし 小田ごしの
     一むらさとに 物おとのする

   文庫注には
    ゆふかけて ―― 夕方にわたって。
    臼つくならし ―― 臼をついているらしい。


   おいぬれば 今日も物うし 日に三たび
        むかしは見つる かがみなれども

    文庫注には
    物うし ―― 気が進まない。おっくうだ。


  小夜中と 更け行くままに 数そひて
      音をも立つべく 飛ぶ蛍かな

  久方の 星の光に あらそひて
       更け行く空に 照る蛍かな

  炭やきに きりもらされし 梅のみは
       はなも見せけり 小野(おの)の山ざと

  夏の夜も しののめ寒く おもほえて 
      かきねかきねに 見えつ朝がほ

   文庫注には
    しののめ ―― 東雲。夜明け方。暁。

  山をこえ いはねをつたひ かはにそひ
       あやふかりける 旅のみちかな

  門(かど)ごとに 網かけほして 人もなし
          あさなぎつづく 海づらの里

  いなむらに すがるいなごの 飛びちがふ
       門田(かどた)はあすも 日よりなるべし

    文庫注には 
     日より ―― 良い天気。

  むら雀 軒端をめぐる さひづりも
      花ある春は 声ことにして




そのままに、現在の田舎の風景を詠んでいるのじゃないかと
そんなことを思いながらの引用。
それにしても、虫や小動物。
たとえば、蚤、蚊、蛍、蝉、いなご、山ばと、雀、蛇などが
何気なく。そう象徴という意味でなくて、さりげなく眼差しに印象に残るかたちで登場すると、いつのまにか自分もそこにいるような気分となり、ハッとさせられます。そのままに、現代の新聞の歌壇に載せてもらっても、おかしくないですよね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家の五人。

2011-01-21 | 詩歌
家の小さな日めくりカレンダーの1月20日には、
小さく文字があります。
 満月
 大寒
そして、格言はというと、
 無病は一生の極楽

う~ん。こんな言葉はことわざにありましたっけ。
というので、岩波「ことわざ辞典」時田昌瑞著2000年発行をひらくと、そこには、無病では「無病息災」しか掲載されておりません。藤井乙男編「諺語大辞典」(有朋堂・昭和28年復刊)をみると、解説はないのですが、言葉だけ「無病(むびゃう)は一生の極楽」と出ておりました。昔からある言葉なのですね。ちなみに鈴木棠三「新編故事ことわざ辞典」(創拓社・1992年)にも「無病息災」とはありましたが、「無病は一生の極楽」はありません。一度聞くとわすれなくなるような印象的な言葉です。

現在では、いくら健康でも、風邪の新型ウイルス感染は免れないかもしれません。ということで(笑)。

橘曙覧の歌集から

 たのしみは 家内五人(いつたり) 五(いつ)たりが 
         風だにひかで ありあへる時

   この文庫注には
 家内(やぬち・やうち) ―― 家の者
 だに ―― 軽い例を出して重い事柄を類推させる。
         重い病気は勿論しないで。

もうすこし、たのしみを続けましょう。

 たのしみは 三人(みたり)の児ども すくすくと
         大きくなれる 姿みる時

  たのしみは 妻子(めこ)むつまじく うちつどひ
        頭(かしら)ならべて 物をくふ時


岩波文庫の解説によりますと、
「曙覧の第一女吉子が生後まもなくの2月25日に夭死し、翌年6月6日には第二女がこれまた生後まもなく夭死している。・・」(p395)とあり、
「天保15年・・・には、第三女健子が痘瘡のため四歳で病死した」(p398)ともあります。
妻・奈於についても書かれていました。
「この奈於は勤倹よく一家を守って曙覧を支え、明治37年(1904)に89歳の寿を全うした(因みに、享年は明治40年の除籍簿によって生年を文化13年(1816)として計算したが、『墓碣銘』によると90歳、『小伝』によると91歳、墓石には『享年92歳』とある)。」(p393)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早寝。

2011-01-20 | 地域
昨日はやく寝たので。
じつは、寝ながら文庫をひらいていたのですが、
腕が疲れて、あとはすぐに寝ちゃいました。
寒がりはいけません。
5時頃おきる、新聞をとりにいくと、
西に月が鮮やか。
こういうのを見ると思い浮かぶのは、万葉集

 東(ひむかし)の野に炎(かげろひ)の立つ見えて
   かえり見すれば 月西渡(つきかたぶ)きぬ


まだ、日の出には早いのですが、見とれるような月。
昨日読んでいた文庫は、「橘曙覧全歌集」。
最初から読んでいると、つい眠くなりました。
ちなみに、「曙覧の研究」は、ちょいと普通の人の意見を
聞いているようで、イマイチ。

家督を譲ってからの生活が、ちょいとわかるような一首(p37)


   野つづきに家ゐしをれば、をりをり蛇など出で
   けるを、妻に見るたびにうちおどろきて、うた
   て物すごきところかな、といひけるを、なぐさ
   めて

 おそろしき 世の人言に くらぶれば
        はひいづる虫の 口はものかは

  この一首の文庫の注には
    口 ―― 世間の噂に掛けた。
   ものかは ―― 問題にするべきものではない。



まあ、そんな生活の中で、見る月を歌っておりました。

     苔径月  (p41)

 露しげき 苔ぢにひとり 月をおきて
      ささるるものか 夜はの柴の戸

  文庫の注には
   ささるるものか ―― 閉ざしてよいものか、
              閉じられない
   ものか ―― 非難をこめた反問


そして、虱(しらみ)の3首があったり
交際について歌ったりがあります。その交際の2首

    松の戸  (p57)

  人みなの このむ諂(へつら)ひ いはれざる
       我もひとつの かたはものなり

  友無きは さびしかりけり 然(しか)りとて
        心うちあはぬ 友もほしなし


 友といえば、パラパラとめくっていたら、最後の方にも
 こんなのがありました。

      ある時  (p255)

  友ほしく 何おもひけむ 歌といひ
       書(ふみ)といふ友 ある我にして


  文庫の注
  何おもひけむ ―― どうして思ったのだろう。
  にして ―― ・・でありながら。


あれれ、もう日の出過ぎたころなのに。
雨戸をあけるとその方向には黒雲。
そして鳥の声。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然薯。

2011-01-19 | Weblog
外山滋比古氏の本を読んでいると、編集と編集者のことが、あらためて気になりだすのでした。ということで、非売品の編集者の本があったりすると、つい買うことがあります。最近もありました。「和田恒 追悼文集 野分」。

それを、パラパラとめくっていたら、自然薯を掘って持ってこられた、と回顧する方が散見するのでした。ちょうど、読売新聞1月17日に俳句の年間賞という箇所があって、そこで宇多喜代子氏の選で句が載っておりました。

  自然薯掘る考古学者のごとく掘る  埼玉県 酒井忠正

同じ編集者として宮脇俊三氏が「温顔」と題して書いておりました。
それは「中公新書」にまつわる話。
せっかくですから、引用していきましょう。
はじまりは
「昭和36年8月、中央公論社で発行していた週刊誌が売行き不振で休刊になり、編集部が解散した。部員たちは、それぞれ他の部署へ移っていったが、その一部は和田君や私のいた出版部に配属された。それを機に出版部は二つに分割され、私が新生の第二出版部をあずかることになった。・・・部長の私が34歳という若さであった・・・部員たちはみな私より齢下であった。編集会議は、いつも難航した。・・・当時は新書判が出版界の花形で、『岩波新書』と『カッパ・ブックス』とが天下を二分し、今日の文庫のような隆盛を示していた。・・・空理空論が駆けめぐるに最上のグランドであった。・・・会議がくり返えされ、具体性のある議題へ進むことはなかった。会議の進め方についての意見をガリ版で刷って配る部員も現れたが、かえって火に油を注いだ。・・・その中にあって、和田君は醒めていた。議論の空転を戒める発言を、しばしばした。それは若い部の青い雰囲気のなかでは勇気のいることだったにちがいない。けれども、温厚な和田君の人柄は、トゲトゲしかった部員たちの気持ちを和らげ、沈静させてくれた。和田君がいなかったなら、私は沈没していただろう。そして、今日、中央公論の大きな支えの柱となっている『中公新書』の創刊も覚束なかったろう。・・・・」

その中公新書といえば、桑原武夫・加藤秀俊・梅棹忠夫・司馬遼太郎などの著作が、すぐに思い浮かぶのでした。

さてっと、この「追悼文集」なのですが、寄稿された文よりも、そのお名前がすごいので、すこし列挙しときましょう。

弔辞が大野晋。あとは有名な方だけ、加太こうじ・加藤秀俊・上坂冬子・司馬遼太郎(ちなみに、「司馬遼太郎が考えたこと 11」に掲載されてもおります)・田中美知太郎・外山滋比古・永井道雄・西尾幹二・野口武彦・芳賀綏・松田道雄・丸谷才一・渡部昇一・・・・・。

和田恒氏は昭和6年生まれとあります。昭和5年生まれの渡部昇一氏の追悼文をすこし引用。

「和田さんの特別の好意を感じた。和田さんは外山滋比古さんの本を出したら予想外に売れたということを特に喜んでおられたようである。その余沢が私にも及んだ感じであった。・・・・・五十にもなると、共に老いてつき合える人柄というものが重要に思われてくるものである。共に老いて、親しくつき合いたいと思う知友の中でも、和田さんは特に大切な人だった。・・・」


さてここに、加藤秀俊著作集を刊行することが、加藤秀俊氏の文にありました。

「・・・わたしが、いよいよ本格的に和田さんといっしょにしごとをさせていただけるチャンスにめぐまれたのである。というのは、中央公論社から、わたしの『著作集』をつくらないか、という厚意あふれるお申出をいただき、その企画がうごき出すにあたって、和田さんが担当部長ということになったからである。和田さんは、あの控え目な温顔でわたしをじっと見つめ、加藤さん、いい本をつくりましょうよ、とおっしゃった。いままでのわたしの経験からいうと、本をつくる、ということは著者だけのしごとではない。本つくりは、編集者と著者との共同作業であり、そして、すぐれた編集者にめぐまれたとき、わたしのような怠惰な人間は、はじめて執筆にとりかかり、編集者からの助言や忠告によって、まがりなりにも、とにかく本を書くことができるのである。著者が原稿用紙にむかってペンを走らせていれば、しぜんと本がつくられてゆく、などとかんがえる人がいるとしたら、それは大きなまちがいなのだ。
わたしの『著作集』といっても、ふりかえってみれば、それはけっしてひとさまに自慢できるようなものではないし、むしろ、恥多きしごとの屑カゴのごときものである。・・・和田さんはそれを手助けしてくださるはずなのであった。ところが、ご存知のような理由で、和田さんとは、さいしょの一、二回の打ちあわせをごいっしょしただけ。あとは、病床に臥されたという・・・・奇しくも、『著作集』の最終配本の見本が岩田さんの手によってわたしのところに届けられたその日に、帰宅してみると、この追悼文集への寄稿のおさそいがきていた。・・・・・このしごとに和田さんはほとんど直接にタッチされなかった。しかし、わたしの立場からいうなら、ほんとうは、この晴れがましい『著作集』は和田さんに捧げられなければならない性質のものなのである。・・・」


加藤秀俊著作集の月報は、普通の著作集の月報とは違っていました。加藤秀俊ご本人が毎回書いているのを載せているのみ。それが後で一冊の「わが師わが友」となるのでした。

とりあえず、私は気になって加藤秀俊著作集の内容見本を古本屋へと注文。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たのしさは。

2011-01-18 | Weblog
たのしさは、短歌俳句と現代詩、わけへだてなく、とりいだす時

ついつい、
本人には申し訳ないのですが、ブログの紹介。
それは、ブログ「読書で日暮らし」のTsubuteさん。

たとえば、この7回のブログ更新の書き込みの題名。

   加藤楸邨を読む

   古本の不思議

   方言詩 天野忠

   橘曙覧

   木山捷平が売れ残るなんて

   「ある小さなスズメの記録」

   「本はこれから」

本をテーマにしながら、俳句・現代詩・短歌へと、ごく自然な読みの流れを味わうことができる、喜び。こういうのも、ブログを拝見しだしてからの喜びです。
いままでは、何か詩誌を読んでも、詩人のあつまりのような気がして、読者としての私は、門外漢のような意識があったわけです。ところが、読者としての視点が、何ともたのしいじゃありませんか。そういえば、古本ソムリエさんのブログにしろ、大切に詩集を取り上げていたりして、小説にかたよるような垣根から、自由になっているところが、魅力です。魅力ある本を捜すのに、短歌俳句現代詩小説随筆論文漫画の垣根など、最初からないのに、そんなこと最初から分かっていることなのにね。という気楽な空間にはいりこんだような気分にひたれるのでした。

ということで、今日届いた古本は、

 釈迢空編「曙覧の研究」

これは、選歌を釈迢空がして、
それの評釈を、さまざまな方が一首ごとに、それぞれの見解を出して、討論している形式となっております。その一首ごとの見解の最後に釈迢空の見解も語られております。全338ページ。そのあとに、釈迢空の「曙覧の研究のはしに」が5ページほどついております。

これと、明治36年発行の「橘曙覧全集」
そして、岩波文庫の「橘曙覧全歌集」を身近において。
これで、この寒さの中でも当分楽しめそうです。
これも、ひとえにTsubuteさんのおかげ。
無断での、ブログ「読書で日暮らし」の紹介。
おかげで、今年のブログの書き方に、目鼻がつきました。
こんな書きぶりのブログで、ご迷惑でしょうが、
ひとつ今年も、Tsubuteさん、よろしくお願いいたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

注文書籍。

2011-01-17 | 短文紹介
毎日新聞の毎日歌壇(2011年1月16日)。
篠弘選の最初の歌は、

 取り寄せし注文書籍が残さるる
   顧客の訃報またも入りくる  宝塚市 高井忠明

その選評は、
「発注した本が配本されるまでに、十日は掛かる。
その間における読者の他界。常連の客を失った悲しみは深い。」

そういえば、池上彰氏の7ページほどの文(題は「発展する国の見分け方」)に
こんな箇所がありました。

「本が大好きだった父は、死の床にあった晩年、『広辞苑』の新版が出たことを知り、私に買って来てくれと頼みました。寝たきりになっているのに、大部な辞書を、開いては、読みふけっていました。この読書欲。知識欲。明日世界がなくなるとしても、万巻の書を読みたいと思ってしまう自分に、かつての父の姿がダブります。・・・」p16(岩波新書「本は、これから」)


う~ん。広辞苑といえば、通州事件は、もう記載されているのでしょうか?
2001年に出た、谷沢永一・渡部昇一著「広辞苑の嘘」(光文社)に、
この指摘があったのでした。

「つぎに、日本人住民、約二百人もがシナ兵に虐殺された『通州事件』にもふれます。これは広辞苑が意図的に外し、岩波の歴史年表でも抹殺しています。つまりシナに都合の悪い史実は書かないという岩波の偏向的執着の露呈というやつです。
ご存じない世代に説明しておきますと、通州という北京から少し奥に入った街に日本人と朝鮮人(日韓併合により当時は日本人です)合わせて三百人ぐらい住んでいた。盧溝橋事件が起こったのが1937年7月7日で、それから1週間ぐらいで一応現地協定が済む。それで戦いは終わります。その終わった三週間後の7月29日に通州の住民がシナ保安隊によって、二百人前後殺されている。それがまた残虐極まりない殺され方でした。両手、両足を切り落とされたり、前身を切り刻まれたり、女の人もそれは言語に絶する殺され方をしていたのです(朝日新聞社法廷記者団編『東京裁判』上中下(昭和37年)東京裁判刊行会)。日本国のこれは情報に関する考え方の甘さですが、当時なぜこれだけ殺されましたと、外国のカメラマンを呼んで写真を撮り各国に流さなかったのか。国際世論が起こっていたら、蒋介石も支那事変をあの時点で起せなくなるのです。支那事変は向こうが起したわけですから。
岩波のいやらしいのは、この通州虐殺事件を広辞苑では一切ふれずに、さらに岩波書店刊行の『近代日本総合年表』でも一切無視しているところです。なかなかに精細な年表ですが、28日までは記述がきちんとあるのに、29日には通州事件がない。・・・」

ここにあるところの「日本国のこれは情報に関する考え方の甘さですが」という箇所は、昨年の中国漁船による追突での映像情報操作でも、繰返されているのを、あらためて思い知らされたわけでした。


私が渡部昇一氏の「通州事件」についての文を読んだのは、これが最初だったと思います。それから、渡部昇一氏は、ことあるごとに、文章で、この事件をとりあげておられました。はたして、広辞苑は、どうしたのか?
私は辞書を買っても古本なので、新刊の辞書はどうなっているのだろうなあ。どなたか、ご存知の方はいらっしゃいますか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする