和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

偲ぶ。

2009-07-30 | Weblog
古新聞の整理。
というと、聞こえがよいのですが、
本も読む気にならないし、ちょうど片付けていた
古新聞を手にとってみたというようなわけです。
その箱は、追悼文をまとめて入れてありました。
新聞を読まずに、とりあえず、整理のワンパターンで
整理別に、入れといたものです。
そこにありました。

鶴見和子さんは7月31日に亡くなっていたのですね。
88歳。
読売新聞2006年12月5日の文化欄に
「鶴見和子さん『偲ぶ会』に300人」という見出し。
写真は、遺影の前の鶴見俊輔。

その記事の最後の箇所を引用しておきます。

「6月に容体が悪化。
妹の内山章子さんによると、病床で鶴見さんは
『死ぬって面白い体験ね。こんなの初めて。驚いた』
とユーモラスに語り、最期の言葉は
『サンキュー、べリーマッチ』。
明るく華やかな故人の人柄や学問業績を語る逸話は限りなく、
会は6時間にも及んだ。
辞世となった短歌
『そよそよと宇治高原の梅雨晴れの風に吹かれて
 最期の日々を妹と過ごす』・・・・」

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言葉の近所明治。

2009-07-29 | 幸田文
田中冬二の3巻本全集を、読むともなくひらいておりまして、
和田利夫著「郷愁の詩人 田中冬二」(筑摩書房)へと手が伸びました。
ああ、田中冬二から、堀口大學とつながるなあ。とか。
幸田文から田中冬二へと補助線をひいてみたいなあ。とか。
思いました(思うだけなのですけれど)。

ちなみに、
堀口大學は、1892年生まれ(明治25年)。
田中冬二は、1894年生まれ(明治27年)。
幸田文は、 1904年生まれ(明治37年)。

遠くなった明治が、がぜん、つながってくるような、
そんな身近な手ごたえ。

ということで、言葉の近所明治。といった塩梅。
降る雨や明治は近くありにけり。

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滝。

2009-07-27 | Weblog
町の黒滝そばの公園で、バーベキュー。
昼間からビールを飲んで楽しみました。
小学生とその親御さんたちの集まり。
私はお呼ばれ。
食べて飲んでの楽しみでした。
子供たちが黒滝で、タマをもって
ちっちゃなエビやカニを採っておりました。
そこは、ヒグラシが鳴いておりました。

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机配置がえ。

2009-07-24 | Weblog
神輿を担いだせいかもしれません。
部屋の模様替え。机を移動しました。
細い四畳に、机をもってきて、そこに貯まっていた
新聞紙を、わっと他の場所へ移しました。
わっと移しただけですから、量的には減っておりません。
けれども、まあ、気分的には減ってゆく感があります。
こういう時に、えいやあ、読まない切り抜きは整理しよう。
と、思うわけです。
ということで、空いたスペースに机を配置し、机の棚に本。
読み齧って、そのままになってた、読みたい本を、
できるだけ目につく場所に並べます。これも気持ちの問題。
さあって、コロコロかわる気分に、即対応できるように、
うまい具合に、読みたい本を提供できるような、整理整頓。

蝉は鳴き始めております。
汗をかきかき、本を読む醍醐味。
この夏。読書の収穫がありますように。


和田利夫著「郷愁の詩人 田中冬二」(筑摩書房)をぱらりとめくると、
こんな箇所。

「『わたしのような者でも詩人ですかねえ』。
田中冬二は、よく、そう言っていた。
そして、自分が詩人と呼ばれていることを
不思議なことのように思っていた。」(p216)
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愛語を聞くは。

2009-07-22 | Weblog
7月13日(月曜日)に伯母の一周忌がありました。
私は兄弟の末っ子ですので、お断りしてもよかったのですが、
直接のお電話で、兄弟そろって参列させていただきました。

伯母さんは、旦那さんを亡くされてから、寝たっきりになっている期間が長く続いておりました。さて、伯母さんのところは曹洞宗。お寺で坊さんが何やら梵語で唱えているのを聞いてから、修証義(しゅうしょうぎ)の経本が用意されていて、皆さんで声をだしてお唱え下さいということになりました。
お坊さんが指定したのは修証義の第四章と第五章。
私にできるのは、これくらいだと思っておりましたので、しっかり声を出して唱えさせていただきました。坊さんは何やら独特の唱え口調でしたが、こちらは分りませんので朗読口調で唱えました。

終わってからは場所を移してのお昼。こういうのも、精進落しというのでしょうか。ビールを注がれて飲んで帰りました。

以前に、このお寺で頂いた、修証義の冊子がありました。
それが、ちょうど今日。何気なくも出てきたので、唱えた個所を読み直してみました。こんな言葉があります。

「 面(むか)いて愛語を聞くは面(おもて)を喜ばしめ、心を楽しくす、
  面(むか)わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、
  愛語能(よ)く廻天(かいてん)の力あることを学(がく)すべきなり 」
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多喜さん。

2009-07-20 | Weblog
田中冬二に、詩「挽歌」があります。

  多喜さん 多喜さん

と亡くなった井上多喜三郎さんへの呼びかけの詩。
そこに、

「 多喜さん 君なくして何のたのしみがあらう
詩を書けば詩を 句を作れば句をまづ君に見て貰ふことが
私のよろこびであつた  」

という行があります。(全集二巻のp106~109)
全集三巻の「哀歌」「繖山の麓に眠る詩人」(p312~322)は
その多喜さんの関連詩と文で印象に残ります。
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七月の詩。

2009-07-14 | 詩歌
田中冬二の詩に「七月」というのがありました。
うん。ちょうど、七月ですね。
ということで引用。
私もはじめて読みました。


七月

ぱあつとあかるい七月の海
刺激性の潮の香に七月の海は若い
沖の方からよせて来る波涛のうねり
波涛は渚に凄じいひびきをさせてどつとくずれ
しろいしぶきをあげて小気味よく散る
そして砂礫をする音させてひいてゆく
そのあとにもう次の波涛がもりあがつて迫つている
激しいファイトを感じる
  山のような波涛がくずれる直前
  そのエメラルドいろのどてつぱらに
  まつしろなニューボールを快速球で投げこみたい
七月の海は若い
その溢れるような若さに生きよう
向うの岩――怒涛を浴びながら永遠の沈黙の
岩には海鳥の群がいる


これは、「妻科の家」にありました。
その次の詩は「夏雲」。
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雨のデッサン。

2009-07-13 | 詩歌
田中冬二の処女句集「行人」は昭和21年に出ておりました。
その時、田中冬二は52歳。処女句集のあとがきに
「私はこれまで俳句を詩作の側(かたはら)、時にそのデッサンとして試作して来たが、本格的の俳句は決して生やさしいものでない。俳句は珠玉のやうなものでなければならないと思ふ。・・・」

つぎにいきましょう。
昭和48年。冬二79歳の時に句集「若葉雨」が出ております。
そこから、雨をひろってゆきます。


川魚を焼き売る軒に若葉雨

誘峨燈にまた雨あしのしげくなる

夕立の簾湖水を渡り来る

雨にぬれ甘茶の花は眠るごと

山科はあかるく暗く菜種梅雨

種播いてやすけきゆふべ雨となる

小流れに鍋釜洗ふ良夜かな

秋立つや書きかけの書のそのままに

襟巻と手袋買つて年忘れ




ということで、雨を多くピックアップしてみました。
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草雨亭。

2009-07-12 | Weblog
詩人の田中冬二氏。
田中冬二氏の書斎には、武者小路氏の書「草雨亭」という額がかかっている(全集3.p246)。
筑摩書房の田中冬二全集の第三巻。その最初に写真。
それは、「自宅書斎(草雨亭)にて。」とあります。床の間を背景に、机に肩肘ついて、いる和服姿の田中氏。

その第三巻に「雨」という2頁ほどの随筆が載っております。
その最後の方を引用したくなります。


「雨には詩趣ある名が、色々あるやうだが、私はその中でも、陰暦の四月、卯の花の咲く頃に雨を言ふ、卯の花腐(うのはなくだ)し、などは好いと思ふ。代掻(しろか)きもすんで、水田に早苗を植ゑつける頃には、雨がよく降るが、これも好い。田植に雨はつきもののやうである。田植に雨がないとちよつと物足らない気がする。
  雨ほろろ曽我中村の田植かな
こんな句も思ひ出される。名は忘れたが古人の作である。
何かの種を播き終へて、夕方縁の柱に、ひとりもたれて、ほつとした思ひでゐると、雨となる。その雨に心は一入和む。
夜の雨では、蛙の鳴きはじめる頃の雨が好い。そんな夜、燈火でひとり書物を読んだり、書き物をしてゐて、ふと聞く雨の音は何とも云はれない。」(p219)

この第三巻には「四宮雨軒」という文が入っておりました。
解説の畠中哲夫氏によると、「『四宮雨軒』については自分が書いた唯一つの小説と晩年にいっていた。・・・」(p539)とあります。唯一の小説にも題に雨が入っていたりします。


さてさて。田中冬二全集の第二巻の目次をめくっていると、
「草雨亭」と題した詩が、三つも出てくるのでした。

雨にまつわる詩ということで、
「サングラスの蕪村」から二個所引用しておきます。


      ※

   梅雨の頃になると
   ――栗の花さびしきものの集りて
     眠るがごとく雨に濡れたる
   と言う歌を思い出す 詠み人の名は忘れた 
   五十年も前のことだが
   私もそのころ少し歌を作つた
   ――あぶら灯の小暗き下に山の人
     皆もの言はず飯食(は)み居れり         (p178)

      ※

  南アルプスの広河原は、野呂川と大樺沢(だいかんばざわ)の合流点で
  その水量の豊富なことは驚くほどだ
  水の厚い層をじつと見入つているとひきずりこまれそうだ
  私は今もその広河原の水に憑かれている
  そんなこともあつたので 家で水を飲むときは広河原を思う   (p161)


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雨に万斛の。

2009-07-10 | Weblog
こういう梅雨時の鬱陶しい時期だと、雨もいやですが、それより何より、
雨がやんでも、もあっとして、まるで黴(かび)が生えるのを待っているような気分は何とも萎えますね。おっと、こういうときにこそ「言葉」があるわけで、梅雨を楽しくしてくれる逆転の発想をどこかに提供していてくれているはずです。さて、いったい、それがどこにあるのか。
たとえば、ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」にこんな箇所があります。
と、雨のことを引用するまえに、れいによってその前振りから、引用してゆきましょう。
ドナルド・キーン氏の恩師に角田柳作先生がおられます。
その先生を語った箇所なのです。
以下は引用。

1941年12月7日、真珠湾攻撃の日は、ニューヨークでは日曜日だった。・・
翌日の昼・・教室に出ると、かつて講義を欠かしたことのない角田先生が、いつまで待っても教室に姿を見せなかった。敵性外国人として抑留されたと後にわかったが、そのときの無人の教壇が、戦争についての私の最初の実感であった。
いざ日本と戦うことにはなったが、日本語の読み書きのできるアメリカ人は50人くらいしかいないと聞いた。私も、あるいは50人の中に数えられているのかもしれない。折りから海軍の語学校が日本語の基礎知識のある若者を求めていると聞いたので、経歴を書いて送った。


  こうして海軍語学校に入ったドナルド・キーン氏であります。


語学校は、そのころ、ちょっと奇妙な世界の中に埋没していた。私たちの周囲の社会は戦争一色だが、語学校だけは不思議なほど戦争に無縁で、ひたすら日本語を覚えることに没頭できた。日本語を私たちが覚えることと戦争遂行の間にはどんな関係があるかは、全然と言っていいほど念頭に上らなかった。全米に軍服が氾濫していた時代だが、私たちだけは軍事訓練も受けず、ひたすら日本語の世界に沈潜していたのである。・・・入学当時は、いくら勉強しても日本語をマスターなど出来るはずがないと考えていた。それが、連日の特訓が稔って、いつのまにか簡単な会話くらいは可能になった。過って他人の足を踏んだときなど、生徒同士でも、英語より日本語が先に「あ、ごめん」と、自然に出るくらいまで上達した。・・・
毎週火曜日だったと思うが、私たちは日本映画を観た。開戦時にカリフォルニアに来ていたのを押収したものだろう、字幕はなく、時代物も現代物もあったが、俳優では田中絹代や佐分利信が記憶に残っている。最初は筋も会話もさっぱりわからず、ある映画の中で門番が道路に出てタクシーを停めるシーンがあり、そのとき叫ぶ「タクシー!」だけがわかって、満場拍手したことがあった。だが映画も、何度も同じものを観ているうちにわかり始めた。もちろん、第三者として日本語の会話を聞いているのだから、妙なところが気になった。ふつうならハイと言うところを、佐分利信はよく「ええ」と言うのに気がつき、ハイとハァとええの差を考えたりもした。日本人なら気にもとめないはずだが、私たちは日本語という未知の世界に、少しでも手がかりを求めていたのである。

  さて、お待ちどうさまでした(笑)。映画を語るなかに、ようやく雨が出て来ます。


橋は劇的で、雨は長いと、相場が決まっていた。映画に橋の場面が出てくると、必ず恋人が出逢ったり別れたりする。しまいには、橋を見た瞬間に「あ、これからなにかあるぞ」と、身構えるようにさえなった。また、日本のカメラマンは長々と雨のシーンを写した。しとしとと雨が降り、水たまりが出来、さらにそこへ雨が降り込む。日本人が雨に万斛(ばんこく)の思い入れをするのが、よくわかった。日本人の観客なら、筋や人物の面白さに気をとられて、そのような細部にまでは注意が行きわたらなかったに違いない。だが私たちは、かえって、どんな細部をも見逃さなかった。・・・・・
映画の鑑賞が、日本語の勉強にどれほど役立ったかは疑わしい。しかし、日本人が映画をつくるとき、どういう点にポイントを置くか、観客がどういうことに感動するかはよくわかった。教室では呑み込めない日本人の生活感覚や芸術観を、映画でつかんだのである。


「雨に万斛の思い入れをするのが、よくわかった」というのですが、
その雨が、いまは止んでいます。
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田中冬二随筆。

2009-07-06 | 幸田文
田中冬二の詩をパラパラめくっていたら、
読んだことのない氏の随筆に及びました。
これが面白そうなんですね。
なんだか、たのしみ。
そういえば「サングラスの蕪村」というのも、
詩というよりは、箴言とか随筆に近い楽しみがありました。
ということで、これから読むのですが、
楽しみ。楽しみ。
ということで、田中冬二全集の
一巻をめくってから、
二巻目をパラパラやっていたら、
三巻目の随筆に興味がうつりました。
なにやら楽しそうでありますが、
あれこれと思う楽しみがつながって、
書くのはめんどうだったりします。
梅雨時だからかなあ。
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鰯の話。

2009-07-03 | 幸田文
昭和18年に出た田中冬二の詩集「橡の黄葉」に「焼津の海」という詩がありました。

  焼津の海

沖には白い雲の峯がくづれかけてゐた
鰯の群がおしよせてゐた

漁家や粗末な町家のすぐ裏を
暑さに煤煙の窓をあけた列車が地響をさせて走つた
その窓に海は見えかくれした



うん。そうそう。思い出したのですが、
幸田文に「鰯の話」というのがありました。
それは昭和2年の1月。
幸田文が23歳の時に、父と伊豆へ出かけた時のことでした。
ちょっと、その鰯の話の前に、その頃の幸田文の年譜を振り返ってみます。

1923年(大正12年)19歳
向島の自宅で関東大震災に遇い、千葉県四街道へ避難する。

1924年(大正13年)20歳
六月、小石川区表町66番地へ転居。

1926年(大正15年・昭和元年)22歳
11月、弟・成豊が死去。享年19歳。
12月、チフスに感染するが、翌月には全快。

1927年(昭和2年)23歳
1月、父と伊豆を旅する。
5月、小石川区表町79番地へ転居。

うん。これについては、松村友視著「幸田文のマッチ箱」(河出文庫)に年譜が掲載されております(p109~)

さて、松村氏の著作を読めばよいのでしょうが、ここはそれ、
「幸田文対話」へとあたってみました。
瀬沼茂樹氏との対談に、その箇所はありました。
ちょっと煩雑ですが、その前の箇所も棄て難いので、長い引用をしてみます。


【瀬沼】こうして文さんのお話をうかがっていますと、ことばがなにか古語的ですね。そういうのも先生に訓練されたためでしょうか。
【幸田】ええ。お客さまのお取次ぎでも、とにかくはじめが、『するか、せんか、どっちかだ』と、『後生だからはっきり言ってくれ。それでなければ取次ぎはつとまらない』って。大人がするみたいに、真っ直ぐ相手を見て、むこうの言うことをまずよく聞くんだ、それを覚えてきて親父のところへ行って、親父の言うことをむこうへちゃんと伝える。その間に自分が勝手にこしらえてはいけないっていうんです。だから、『いまはいやだと言いました』というような返事になってしまうわけ(笑)。
【瀬沼】いちいち復唱するわけですね。
・ ・・・・・・・・・・
【瀬沼】先生のこわいところばかりですが、やさしいところはどこですか。
【幸田】いまどきのお父さん方よりも遊んでくれたと思います。
縄跳びでも、綱渡りでもしてくれました。それから、いっしょに鮒も釣ってくれたし、メダカをとったり。私が二十何歳かになったときでしたかしら。鰯の泳いでいるのを見たことがないっていいましたら、『これはいけない』といって、伊豆の三津浜(みとはま)へつれていってくれました。囲った鰯ではないんです。畳一枚くらいの小さなグループになって泳いでいるんですね、鰯って。『見ろよ、これだ。これが鰯なんだ』と。鰯というのは、どんなに群れたがって、傷つきやすくって、そして弱い魚かということを、わざわざ見せてくれました。


うん。いつぞやの新聞で、水族館の大型スクリーンのようなガラスの水槽に群れる鰯の写真が載っていたことがありました。いまでは、そこへ連れて行くことが出来る(笑)。
もう少し書き加えます。
鰯ということで、最初に思いうかべた詩がありました。
それについて

衣更着信著「孤独な泳ぎ手」書肆季節社という詩集のはじまりは、
題名の「孤独な泳ぎ手」でした。
それを引用してみます。
では、はじまりから引用してみましょう。

 いわしの集団のなかで泳いだことがあります
 夏の真さかりの、まだ五センチくらいの小いわしの群れが
 浜辺まで近寄って来ることがあるでしょう

 近寄っては離れ、固まっては小さく散る
 その辺は、小さな雲の影みたいに濃紺色が走るんです
 うす緑の、勢いを誇っている海の水に―――

 いたずら心を起して、魚の群れのほうへ泳いでみました
 かれらがせいいっぱい陸に近づいたときに
 なにしろ、そんな時刻(ちょうど十二時、わたしは昼食前)に

 この浜で泳いでいるのは、わたしだけでしたから
 人家を出ればすぐ浜辺ですが、危険だとか
 水が汚れているとかいって、子どもたちを泳がせないんですよ

・ ・・・・・・
泳いで近寄っても、魚は逃げませんでした

意外にも左右にさっと開いて、わたしを群れに
はいらせてくれた、そしてそのあとを閉じるんです
つまりわたしは小いわしの集団の真ん中にいる

・ ・・・・・・・
しかし、さすがです、魚は絶対に人間にさわらせませんよ
わたしの泳ぐスペースを最小限に許しているのに

・ ・・・・・・・  
泳いでいると妙なことを考える

その真ん中にいるのにさわれないんですよ、lifeは―――
至近距離にあるのに、道を開いて迎え入れ
ときにむこうから近づいて来るのに、さわれないんです、lifeは―――

太陽が激しく輝いていても
潮風がさわやかに吹いていても、これだけ沖へ出て来ても、
沈下海岸に積まれたテトラポッドがかすんで見えるほどになっても

すぐそばを泳ぐ魚に手が届かないように
これだけ歳月を過ごして来ても
目がくらむほど暮しを続けて来ても

わたしはもどかしい、わたしはさわれなかった
あれがlifeなんだ、今こそ悟る
あれがlifeなんだ

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