和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

当今のじいさんばあさん。

2024-01-06 | 重ね読み
古本を買ったりしてると、波が打ちよせる海岸の砂浜で、
貝殻やあれこれを、ひろっているような気分になります。

はい。初日の出を見に海岸へと行き砂浜で待ちながら、
小石を二つばかりひろってポケットに入れてきました。

波間にサーファーが見える。これは本にたとえると新刊。
そして砂浜に打ち上げられてくるのが、これは古本かな。
はい。新刊もしばらくすれば砂浜へ打ち上げられてくる。

などと思いながら、見なかった初夢のかわりにします。

昨年の古本で私が気になったのが『大菩薩峠』。
もちろん、波打ち際でひろった片言の断片です。

① 津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)
② 扇谷正造著「諸君!名刺で仕事をするな」(PHP文庫・1984年)

はい。まずは①から、
「私の時代が遠ざかる」と題した文のはじまりは

「私と同年輩の知人のなかには、新聞をひらくと
 まっさきに死亡欄をのぞくというような者が何人かいる。
 
 とくに年齢と死因。それを確認して、ホッとしたり
 不安になったりするのだとか。

 いやいやそうしているのではあるまい。
 当今のじいさんばあさんは、そこまでナイーブではない。
 むしろ毎日の定例儀式として、けっこうそれをたのしんでいるのではないかな
 ・・・」(p118)

このあとに、4名が列挙されておりました。

  〇 丸谷才一、2012年10月13日、87歳、心不全
  〇 中村勘三郎、2012年12月5日、57歳、急性呼吸窮迫症候群
  〇 小沢昭一、2012年12月10日、83歳、前立腺がん
  〇 安岡章太郎、2013年1月26日、92歳、誤嚥性肺炎

最後の安岡章太郎氏についてでした。こうありました。

「・・病名は、この間に安岡さんが押した何枚ものドアの最後の一枚
 ということであって、沈黙のうちにすぎた氏の80代のすべてを語って
 くれるわけではない。だからといって、しいてそれを詮索する気もない。

 ともあれ、そのようにして安岡さんは消えていった。
 よおし、これまで何回か読みかけて、そのつど挫折していた
 長大な大菩薩峠論『果てもない道中記』に、
 もういちど挑戦してみるとするか。  」(p120)


はい。ここに『大菩薩峠』という言葉が出てきておりました。
次は、②です。②の文庫第三部に『大菩薩峠』が登場します。

「たしかフランスの作家だったと思う。・・・
『その生涯において、何度もくりかえしてよみ得る一冊の本を持ち得る人は、
 しあわせな人である。さらに、その何冊かを持っている人は至福の人である』
 というのを読んだことがある。してみると、私は、
 その至福の人にはいるのかも知れない。しかし、それらの中でも、
 私にとって≪一冊の本≫というと、何になるのだろうか。
 私は、どうも中里介山の『大菩薩峠』じゃあるまいかと思っている。」

「昭和4年・・仙台の二高の明善寮の一室に、私は、
 このうち四巻分(「大菩薩峠」)を携えて入った。
 
 昭和7年、東大に入った。そのころ私は、マルキシズムを信奉していた。
 しかし、本郷の私の下宿には、ブハーリンの『史的唯物論』や
 マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』と並んで、この四冊があった。

 たぶん、そのころであったろう。谷崎潤一郎氏が、
 この小説(大菩薩峠)の口語体の文章の美しさを激賞しているのを
 読んだ時、私は、わが意を得たと思った。 」(p246~247)

最後に、ちょっとこの箇所も引用したくなります。

『赤大根』と題された文で、
 就職する際に、松岡静雄先生に紹介状を書いてもらう場面。

「・・私は左翼運動に熱中し・・・
 朝日(新聞)にはいる時、紹介状をおねがいしたら、
 下村海南副社長(当時)あての手紙には、

 『 この学生、いささか、赤いが、それは赤大根程度にて・・ 』

 とあった。紹介状をよむなんて不届き千万な話だが、
 心配のあまり、私は、湯気をあてて、そっとあけたのである。
 一読、驚いた。これはいけないと思った。若さというものはこわい。
 私は、鵠沼にでかけ、先生に紹介状の書き直しをおねがいした。

 トタンに『 バカもの! 』という雷が頭上に落下した。

『 もう書かぬ。いいか、よく聞きなさい。
  お前が赤いか、赤くないかぐらいは、社で調べればすぐわかる。
  これは、それを見越しての紹介状だ・・・ 』

 私は、つくづく自分がいやになった・・・。
 ご恩になった人は、そのほか数え切れない。・・・   」(p242~243)


う~ん。『赤いか、赤くないか』はべつにして
大地に埋まって根の白さが『大菩薩峠』なのかなあと、
今年、初チャレンジしてみたくなる、本となりました。

とりあえず、『読むか、読まないか』はべつとして
まずもって、今年、古本で揃えてみたくなりました。
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新鮮な時間を読む。

2023-12-12 | 重ね読み
吉田光邦の「茶の湯十二章」(「吉田光邦評論集Ⅱ」思文閣出版)に
お正月の茶の湯について言及されている箇所がありました(p140)。

すっかり忘れていたのですが、その関連で思い浮かんだのは
当ブログの2022年1月22日「福汲む、水汲む、宝汲む」でした。

ということで、吉田光邦の「茶の湯十二章」と
「岡野弘彦インタビュー集」(本阿弥書店・2020年)。

ここは、神主を継ぐ家に生まれた、岡野弘彦氏の語りから。

岡野】 小学校で僕はわりあい歌と縁ができるようになりましてね。
   お正月は、子どもなりにきちんと着物を着せられて、
   白木の桶に若水を汲みに行くんです。

 『 今朝汲む水は福汲む、水汲む、宝汲む。命長くの水を汲むかな 』

   と三遍唱えて、切麻(きりぬさ)と御饌米(おせんまい)を
   川の神様に撒いて、白木の新しい桶でスゥーッと
   上流に向かって水を汲むわけです。

   うちへ帰ってきて、それを母親に渡すと、
   母親はすぐに茶釜でお湯を沸かして福茶にする。

   残りは硯で、書き初めの水にしたりするわけです。
   それを五つのときからさせられました。・・・   」(p20)


はい。それでは、吉田光邦氏の「茶の湯十二章」から
正月と出てくる箇所。

「そして正月は、古代的な日本の神々がいっせいに、
 わたしどもの回りに復活する季節である。

 ちかごろ都会ではあまり見られなくなったが、
 門松、しめ縄などの飾りは、どれも農耕民族として生きてきた
 日本人のなかに、しぜんに存在することになった古代の神々の
 シンボルにほかならぬ。

 一年のはじめに神々をよびむかえ、神秘の空気をつくりだすことは、
 生活のたいせつなデザインだったのである。

 そこで礼式、生活のデザインとしての茶の湯も敏感に、そうした
 正月の神秘の空気を反映する。神々をむかえる礼式が演出される。

 若水を汲んで茶を点てることは、永遠の若さを求め、
 復活の願いをこめる礼である。・・・・・・    」(p140)

「 やがて新年の茶会、初釜の日がくる。新しい一年に
  ふみだす新鮮な時間を自分のうちに自覚せねばならぬ日だ。 」(p141)


はい。2022年には、岡野弘彦氏の語りを読めた。
2023年の暮れには、吉田光邦氏の文を読んでる。
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知的生産のための『技術』

2023-12-10 | 重ね読み
そういえば、津野海太郎著「おかしな時代」(本の雑誌社)を
ひらくと、劇団と津野さんとの関連がわかる。そして、
劇団ということなら、吉田光邦氏とつながる。

うん。この点が面白そうなので引用を重ねます。

西村恭一氏の吉田光邦氏への追悼文に、
演劇にかかわる吉田氏のことがわかるのでした。

「吉田(光邦)先生が当時龍谷大学予科の教授で、演劇部の顧問で・」
          (p55 「吉田光邦両洋の人 八十八人の追想文集」)

そのころは、どんな感じだったのか。こばやしひろし氏は書いてます。

「『詩の朗読と劇の会』は図書館の講堂でやった。・・・
  光邦さんも誰の詩だったか忘れたが朗読された。

  それが下手なのである。実に下手な朗読で何をいって
  おられるのか伝わらないのだ。ところが本人は気を入れて
  おられるつもりだから始末に悪い。・・・・
  残念ながら当日まで下手だった。少なくとも
  リズム感のある人ではなかった。

  舞台に立たれたのはそれだけで後は役者をやるわけでもなし、
  演出をやるわけでもない。ただ私たちの稽古を見ておられるだけである。
  こちらが行き詰まると『こうしたらどう』と助けを出されるが、
  それが助けにならない程度のご意見である。

  それでも大道具を手伝ったり、効果を手伝ったりされ、
  私たちと舞台を創ることを楽しんでおられた。・・ 」(p48 同上 )


はい。ここからが本題「知的生産のための『技術』」となります。
梅棹忠夫著「知的生産の技術」は、イマイチ『技術』という箇所が
わからないでいた私なのでした。

梅棹忠夫著「対論『人間探求』」(講談社・昭和62年)のなかに
吉田光邦氏との対談「産業技術史の文明論的展開」が載ってます。

はい。最後にこの対談から、この箇所を引用しておきます。
小見出しには「技術にささえられた大衆社会」とある。

吉田】 これまで財界人ばかりせめましたが、このことは
    日本人に共通のことのようにおもいます。

    日本の社会が大衆社会だといわれていますが、
    大衆社会が成立しているのは技術があるからこそなんです。

    大衆にマイクとスピーカーでよびかける
    技術がなかったらできないわけです。そういう
    おおくのマスコミュニケーションというものが動く。

    つまりそれまではロンドンのハイドパークで自分の
    のどをふりしぼって政治演説してるマスと、
    現在のマイクやスピーカーをつかてやるマスとでは、
    到達するレベルがちがうでしょう。いわば大衆社会を
    つくりあげるひじょうに大きな役割をもつわけです。

    もちろんテレビ、ラジオ、新聞、印刷、ぜんぶ技術があるから、
    大衆社会ができてきた。だから大衆社会というのは、
    社会学的現象ではあるが、同時にそれは
    技術にささえられてうまれた現象なんでしょう。

    ところが、案外そこがスポッとおちてるんです。
    大衆社会論は山ほどあるけれども、
    それは技術でできあがっているという認識がない。 (p117~118)


このあとでした。演劇の場面からの例を吉田光邦氏は語り
なんともわかりやすかったのです。


吉田】 ほんとにふしぎなんですよ。たとえば伝統芸能といわれる
    能・歌舞伎だって、今日はぜんぜんちがうんです。

    現在の坂東玉三郎や片岡孝夫の人気は、
    あたらしい照明とあたらしい舞台機構にささえられているんです。
    江戸時代の歌舞伎では、百目ろうそくをならべて、  
    その突きだしたろうそくの光で顔を照らしていたわけです。
    ・・・・・

  いま大劇場のうえにいくと、ものすごいスイッチ・ボードがあるんです。
  そのスイッチ・ボードに専門の技術者がいてやるから、
  玉三郎も映えるわけです。その事実が完璧におちている。

  そういう認識が完全におちて、そして歌舞伎は歌舞伎、
  能は能で、これこそ伝統芸能だということでやってるわけでしょう。
  それがおかしいんです。

梅棹】 それが中世から現代までおなじものとしてかんがえとるから、
    ほんとうにおかしい。たしかに、ある種の伝承があって
    おなじ部分がある。それはあるんです。

    しかし、それをささえてる条件というのが、
    過去と現在とではすっかりかわってる。

吉田】 逆にいえば、そういう条件があるからこそいけるんですよ。
    京都の南座でも2400人はいるわけでしょう。
    それがはいるから、歌舞伎興行が成立するんです。

    むかしの二、三百人ではいまの歌舞伎は成立しないんです。(~p119)


はい。対談はこのあとが佳境にはいるのですが、ここまで(笑)。


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どこでもあることだ。

2023-12-03 | 重ね読み
吉田光邦著「日本の職人像」(河原書店)をひらいていたら、
「にせもの」への記述があり印象深い。また思い浮かべそうで、
せっかくなので引用しておくことに、

「もっともこれはべつに日本だけではない。どこでもあることだ。
 画家コローの作品と称するものが、コローが一生かかっても
 画ききれぬほど大量に世界にあることは有名なことである。

 こんな話がある。ある画商に客が来た。
 客は壁にかかっているコローの画をほしいという。
 画商はいう。それはにせものです。あまり有名ではないが
 こちらの画はほんもので、絵もなかなかよろしい。
 値段も同じくらいです。客はいった。

 有名でないならいらんよ。わたしほどの身分の家には
 コローぐらい一枚かかっていなくてはね。つまりコローがあることは、
 一種のステータス・シンボルなのだ。世間での地位のシンボルなのである。


 正宗とか左文字とか名刀のにせものもやたらに多い。
 先祖が主君から拝領した由緒のはっきりしたものなのに、
 とふしぎがる人もいる。由緒正しいからにせものなのだ。

 江戸時代、論功行賞の方法に刀をやることが多かった。
 主君が臣下に与えるのに、名も知られていないような刀をやるわけにはゆかぬ。
 それは主君の体面を傷つけることである。
 そこで名刀のにせものがいつも殿様のところにはストックされていたものだ。
 殿様はそれを臣下にやる。臣下もほんものとはもちろん信じていない。
 正宗であるか、吉光であるか、それによってランクがあったのだ。

 今の勲章の勲一等とか勲二等とかいうことと同じだ。
 やはりステータス・シンボルである。
 にせものはこうした機能をもっていたのだ。・・・・

 質より名、しかしちゃんとした機能と意味はあったのである。」(p160~161)

 ここを読んで、そういえばと思い浮かぶ箇所が
臼井史朗著「疾風時代の編集者日記」(淡交社)にありました。
そこに臼井氏に日記に登場する、叙勲と吉田光邦の箇所がある。
紫綬褒章を受章する際のことが書かれておりました。

「 昭和62年9月29日午後5時に吉田光邦氏来社。・・・・
  ・・・吉田光邦氏とても勲章が欲しいのである。
  紫綬褒章についてひとくさり話をする。

  ・・・≪辞退するかどうか≫文部省から下問があるらしい。
  変に辞退するとこれがあとあとまでも影響するのである。・・・

  人間に一生をどのように見るかは各人の勝手というもので
  どうでもいいのだが、世間には世間のルールがあるのだ。

 昭和62年11月30日午前11時に八杉君と吉田先生を訪問する。
 用件は紫綬褒章受章の御祝い、京都文化博物館における
 新しいプロジェクトについて。もう一つは
 受章祝賀パーティー用の出版進行について。・・・・・

 吉田氏は明日の叙勲のために、今日の午後に東京へ行くという。
 それでも非常に嬉しそうでうきうきしていたのである。
 やはり勲章というものは誰しもが欲しがるものらしいのである。・・」(p94~95)

そして
「 昭和63年1月25日
  紫綬褒章の受賞記念会はきわめて盛会だった。
  その中でもっとも印象的で愉快だったのは、
  人文研究所長の挨拶だった。
  
  褒章制度の歴史を、誠に軽快に話したあと黄綬、藍綬とあるが
  紫綬褒章はちょっと格が上だという話になって、
  世間では紫綬褒章はミニ文化勲章といわれている・・・と。

  ただし順番待ちをしなければならなにので、
  順番がまわってくるためには20年くらいは待たなければならないのです
  
  ・・・20年後にまた皆さんとともに今日のように
  盛大なパーティーをやることを約束いたします・・・

  とたくみなスピーチであった。
  
  この記念のために制作依頼をうけた
  『読書瑣記』が非常に好評であり安心する。・・  」(p96)

はい。まだ余話はつづいておりますがこのくらいで。
うん。『読書煩記』を読む気にはならないのですが、
吉田光邦氏の気になる本注文しておくことにします。

 
 


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利休の茶友。

2023-11-25 | 重ね読み
「利休大事典」(淡交社・平成元年)の古本が安い時に買ってありました。
函入りで2キロ。27×20で厚さ5センチ(いづれも函サイズ)。
余りに安くて、もったいない気持から買っておいたものです。

楽しい絵本の挿画のように、魅力のカラー写真がページを彩り、
せめて、目次だけでも引用しておきたくなります。

   時代   村井康彦 ・・ 1
   生涯   米原正義 ・・ 25
   茶友   熊倉功夫 ・・ 115
   茶事   戸田勝久 ・・ 193
   茶具   林屋晴三 ・・ 255
   茶室   中村昌生 ・・ 347
   書状   村井康彦 ・・ 465
   伝書   筒井紘一 ・・ 575
   遺響   熊倉功夫 ・・ 669
        筒井紘一


まずは、気になった『利休の茶友』(p116)だけでも引用。
こうはじまっておりました。

「千利休がその生涯に出会った人の数はいかほどあったか測り知れない。
 ・・・・
 利休が師事した茶人と禅僧、利休の茶会に招かれた人、
 利休と茶会で同座した人、手紙のやりとりがあった人、
 茶湯や道具に関して利休に師事した人、利休の使用人等々。
 記録に残るだけでも千を超える人々がいただろう。・・・・

 利休の青年時代、すでに堺には茶湯が流行し、名人があらわれ、
 彼らによって東山時代以来の名物道具が集められていた。

 そこで利休は武野紹鷗をはじめとする茶の大先達と出会い、
 さらに南宋寺に来住した大林宗套、笑嶺宗訢といった禅僧
 たちの提唱を聞く機会があった。

 やがて利休と同世代の堺の町衆たちに伍して、利休自身の茶湯が認めれ、     
 遠く奈良や京都にも利休の茶名が聞こえていった。

 今井宗久、津田宗及などは茶の道具の点では利休をはるかに凌ぐが、
 利休にはその茶を慕う山上宗二らの茶の弟子がすでにあって、
 茶匠としての地位が確立してきただろう。

 ・・・一変させたのは、永禄11年(1568)の織田信長の上洛と、
 それに続く元亀元年(1570)の堺での名物狩りである。・・・
 やがて・・利休は天下人の茶の接待を受け持ち、多くの武将と
 の交渉が生じ、そのうちの数十人の人々は利休を茶湯の師と仰いだ。

 なかでも主だった弟子である古田織部・細川三斎・蒲生氏郷らを
 利休七哲の名で後世呼び慣わした。・・・・・

 利休の茶を支えていた職人や使用人たちの存在も大きい。
 残念ながら史料が少ないので詳細は不明である・・・・   」(p116)

はい。次のページから人名と、その人となり解説と、カラー写真。
それがp192までありました。もちろん私はそれを読まないのです。

『職人』といえば、生形貴重著『利休の逸話と徒然草』の
はじまりの箇所が思い浮かんできました。

そこを引用しておわることに

「茶の湯の文化の第一の特徴は、日本の伝統的な
 さまざまな分野の文化が結集している、という点でしょう。

 たとえば、茶碗などの土の文化、
 釜や風炉などの金属の文化、
 茶筅や柄杓などの竹の文化、
 こうした茶道具に留まらず、
 茶室に見られる数寄屋建築の文化、
 茶庭に見られる庭園や石の文化など、

 数えきれないほどの分野の伝統文化が
 茶の湯という空間に結集しています。

 さらに、着物などの和装の文化や、
 床に飾られる書画などの芸術、
 懐石料理や菓子に見受けられる食文化なども、
 茶の湯を構成する大切な要素です。

 ・・・茶の湯を構成するさまざまな文化は、
 多くが『職人』と呼ばれる人たちの技術の文化でもあります。

 ・・・茶の湯の文化の特徴は・・
 技術の文化の結集という点にあると思われます。  」(p4)


はい。こうしてはじまる『利休の逸話と徒然草』は
やっぱりきちんと読んでおかなきゃと思うのでした。

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のびた。のびた。

2023-11-19 | 重ね読み
鶴見俊輔著「期待と回想 語り下ろし伝」(朝日文庫)。
その第9章「編集の役割」が、印象深いのでした。
まずは、『平均寿命がのびた』とある箇所を引用。

「これだけ平均寿命がのびたのだから、
 40歳以後は、だれかの話を聴きにいくということじゃなくて、
 自分の動きを含めたサークルがつくれる可能性はだれにでもあると思う。
 ヴィデオやコピーやインターネットも使って、
 さまざまな自主的なことができるはずですよ。 」(p517)

そのすこし前に『かなり年をとっても』という箇所があります。

「森毅とは〇〇新聞の書評委員会で一緒になって、
 宿に帰ってからコーヒー一杯で雑談した。
 夜中の一時くらいまで、3時間も4時間もしゃべるんだ。
 ものすごい安上がりな雑談で、5、6年つづいた。

 これが私にとってのサークルなんだ。
 かなり年をとってもそういうサークルは成立しうるんだ。
 茶の湯の精神だね。   」(p514)


はい。『茶の湯の精神』と『コーヒー一杯』。それで
思い浮かんだのは、季刊「本とコンピュータ」1999冬号。
そこに、鶴見俊輔と多田道太郎の対談が載っております。
その対談の終わりの鶴見さんの話には『伸びてくるんだよ』
という箇所があったのでした。
最後に、すこし長いけれども、引用しとかなきゃ。

鶴見  ・・・・・それとね、私たちの共同研究には、
    コーヒー一杯で何時間も雑談できるような自由な感覚がありました。

    桑原(武夫)さんも若い人たちと一緒にいて、
    一日中でも話している。

    アイデアが飛び交っていって、
    その場でアイデアが伸びてくるんだよ。

    ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。

    梅棹(忠夫)さんもね、『思想の科学』に書いてくれた
    原稿をもらうときに、京大前の進々堂というコーヒー屋で
    雑談するんです。原稿料なんてわずかなものです。

    私は『 おもしろい、おもしろい 』って聞いているから、
    それだけが彼の報酬なんだよ。
    何時間も機嫌よく話してるんだ。(笑)

    雑談の中でアイデアが飛び交い、
    互いにやり取りすることで、そのアイデアが伸びていったんです。

   ・・・・コンピュータの後ろにそういう自由な感覚があれば、
   いろんな共同研究ができていくでしょうね。 」(p207)




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『 南、こらないでいいからナ 』

2023-11-06 | 重ね読み
気になったので、松田哲夫著「編集狂時代」(本の雑誌社・1994年)
をひらいてみる。はい。あとがきには500枚になってしまったことを

「 これだけの枚数を書き続けることができたのは、
  ワープロ(パソコン)を使うことができたからです。・・ 」(p347)

と、小沢信男さんが話したと同じ指摘がされておりました。
はい。梅棹忠夫さんのタイプライター打ちからはじまって、
いつのまにか、随分ありがたい世の中になっておりました。

はい。最初から読まずに、パラリとひらいた箇所に
赤瀬川原平さんとのことが、書かれているのでした。
赤瀬川さんの本を、松田さんとふたりで凝って作る。
その反省の言葉がでてくるのでした。

「・・いい本だと、今でもぼくは思っている。
 でも、凝りすぎたこともたしかだ。そういえば、
 赤瀬川さんの出した本のうちで、ぼくが客観的に
 見て名著だと思い、売れた本というのは・・・・

 ぼくが編集にかかわっていないものばかりだ。
 どうやら、二人の凝り性が複合すると、普通の
 読者を排除する方向に走っていきがちなのだろう。」(~p206)

このあとに、南伸坊くんが『ガロ』編集部にいた頃のエピソードが
出てくるのでした。

「毎晩、おそくなるまで、ボク(南伸坊)は会社で仕事をしていたけれども、
 それは会社のためではなくて自分のためだった。

 ためというより、おもしろいからやっていたのだ。
 長井さんは時々、一心不乱みたいに、ボクが机にかじりついて、
 髪をふり乱すみたいにして・・・やっていると、

 『 南、こらないでいいからナ・・・ 』

 と、肩のすっかり抜け切った例の声で言うのだった。」

このあとに、こうあるのでした。

「『手を抜かないように』とか、『もっとていねいに』
 という注意ならわかるが、『 凝らないように 』とは
 いかにも長井(勝一)さんらしいやと、

 その話を聞いて、皆で大笑いした。笑ってからしばらくたって、
 『 そうか 』と思った。

 『 凝りすぎないこと 』なのだ。これこそ、ぼくのような、
 病的に凝ってしまう性癖をもつ編集者にとっては、
 ほかの何を忘れても絶対に忘れてはいけない、重要な教えだったのだ。」
                       ( p206 )

松田哲夫著「縁もたけなわ」に、
本の雑誌の目黒考二さんが、五カ月後に終刊した雑誌を出した松田さんを
さそう場面がありました。

「・・『飲みましょう』と誘ってくれた。いろいろ話している時、
 『 松田さん、一生懸命やっていたでしょう 』と聞くので、

 ぼくは『雑誌は未経験なので、悔いのないように努力した』と答えた。
 ・・・・すると、

 『 雑誌は一生懸命作っちゃだめ。読者が窮屈になるんですよ 』と言う。
 その時、目からウロコが落ちるような気がした。  」(p231)

この本に、もう一箇所引用したいところがありますので、
もう少しお付き合いください。それは老人力が語られる箇所でした。

「赤瀬川さんには、物忘れ、固有名詞が消える、『どっこいしょ』と言う、
 溜息をつくなどの老化現象が、現われ始めていた。
 そこで、『忘れる』談義に花が咲く。

『若い時って、イヤなことをいつまでも覚えててつらかったこともあった』
『記憶力は頑張れば身につくけど、忘れるのは頑張ってできることじゃないね』
・・赤瀬川さんらしい考え方が全面展開される。そこで藤森(照信)さんは、

『老化ってマイナスイメージしかない。思いっきり力強い表現にしちゃおう』

 と『 老人力 』という言葉を口にする。・・・・・

『 スポーツの力は筋トレなどでつけていく。
  でも、いざチャンス、いざピンチという時には、
  コーチや監督が『 肩の力を抜いていけ 』と言う。
  あれも同じじゃない 』

 ・・・そして、老人力のあらたなが解釈が積み重なっていく。 」(p210)
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「面白いものはないか」

2023-11-03 | 重ね読み
えーと。
①津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社)
②小林秀雄「青年と老年」(「考えるヒント」の中の一篇)
③吉田兼好「徒然草」の第155段。

と3冊を引用してみます。
まずは、②からでいいでしょうか。
そのはじまりは、こうでした。

「 『 つまらん 』と言ふのが、亡くなった正宗さんの口癖であった。
  『 つまらん、つまらん 』と言いながら、何故、ああ小まめに、
  飽きもせず、物を読んだり、物を見に出向いたりするのだろうと
  いぶかる人があった。しかし、『 つまらん 』と言うのは

  『 面白いものはないか 』と問う事であろう。

  正宗さんという人は、死ぬまでさう問ひつづけた人なので、
  老いていよいよ『面白いもの』に関してぜいたくになった人なのである。

  私など、過去を顧みると、面白い事に関し、ぜいたくを言う必要の
  なかった若年期は、夢の間に過ぎ、面白いものを、
  苦労して捜し廻らねばならなくなって、
  初めて人生が始まったように思うのだが・・・・

  ・・のみならず、いつの間にか鈍する道をうかうかと歩きながら、
  当人は次第に円熟して行くとも思い込む、そんな事にも成りかねない。」

このあとに、小林さんは、徒然草のエピソードをとりあげるのでした。
その徒然草の箇所は、どこだったかなあと、さがせば、ここあたりかな。

「・・生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。
 四季は、なお、定まれる序(つい)で有り。死期は、序でを待たず。

 死は、前よりしも来たらず、予(かね)て、後ろに迫れり。
 人皆、死有る事を知りて、待つ事、しかも急ならざるに、
 覚えずして来る。

 沖の干潟(ひがた)、遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。 」

             ( 徒然草第155段。その最後の箇所 )


はい。②と③と続いて、最後に①です。①のあとがきから引用。

「 ・・・・ あるいは、こうもいえる。
  ものごころついてからの人生を、10代から30代の青春期、
  40代から60代の壮年期、そして70代から90代の老年期と、
  30年ずつ、ざっくり三つに割ってしまう。

  若いときは未知の未来がたっぷりあるし、意地でも、
  じぶんを他人とはちがう存在として考えたい。
  それやこれやで気張って人生を細分化してしまいがち。

  しかし齢をとって人生を終わりから眺めるようになると、
  それが変わる。ここまできたのだもの、もうこのていど
  の大ざっぱな分類でいいんじゃないかな。

  そう考えておけば『百歳までの読書術』は、
  私にとっては『七十歳からの読書術』とほとんどおなじ意味になる。

  その最終段階に足を踏み入れ、このさき、
  じぶんの読書がどのように終わってゆくのか、
  そのおおよそがありありと見えてきた。となれば、
  こここそが私の読書史の最前線である。
  好奇心をかきたてられずにいるわけがないよ。・・  」(p269~270)


うん。70歳からの『最終段階』の『最前線』というフレーズを反芻していると、
つい。『 つまらん 』と『 面白いものはないか 』を思い浮かべました。


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親鸞と吉田兼好

2023-10-20 | 重ね読み
はい。先頃、現代語訳ですけれども、歎異抄をはじめて読みました。
うん。はじめて浮かびあがる、年齢相当の連想と感想がありました。

忘れないうちに、記しておくにことにします。
親鸞の『歎異抄』から、吉田兼好の『徒然草』へと連想はつながります。

実際は吉田兼好(1283~1352)誕生の、21年前にもう親鸞は没しており、
吉田兼好誕生の、71年前に法然は没しています。世代は違っていました。
ただ、唯円による『歎異抄』の成立は、1290年頃となっておりました。

『歎異抄』は、「おのおの方が、はるばる十余カ国の境をこえ・・
 訪ねてこられ」。その質問に答えているのでした。
そこでの親鸞は、こう答えておりました。

「わたくし親鸞においては、ただ念仏を申して
 弥陀にたすけていただくがよいと、
 よきひと(法然)のおおせをいただいて信ずるだけであって、
 そのほかにはなんのいわれもないのである。

 ・・・・・・・・

 法然のおおせもまた、そらごとではあるまい。
 法然のおおせがまことならば、親鸞の申すことも、
 また、うそのはずはなかろう。つまるところ、

 わたしの信ずるところは、かようである。このうえは、
 念仏を信じようと、また、捨てようと、すべては、
 おのおのがたの考えしだいである。・・       」
              ( 現代語訳・増谷文雄 )

つぎに、思い浮かんだ徒然草の第39段の現代語訳を引用。

「ある人が、法然上人に向かって、

『 念仏を唱える時に、睡気(ねむけ)におそわれて、
  念仏の行を怠けますことがございますが、
  どうして、このさまたげをやめましょうか 』

 と申し上げたところ、上人は、

『 目のさめている間は、念仏を唱えなさい 』

とお答えになったが、これはたいへん尊いことであった。
また、ある時は、

『 往生は、きっとできると思えばきっとできることであり、
  できるかどうか確かでないと思えば、不確かなことになるのである 』

と言われた。このことばも、尊いことである。
さらにまた、

『 往生できるか、どうかと疑いながらでも、
  念仏すると、往生するものである 』

とも言われた。このことばもまた尊いことである。 」

( p191~192 安良岡康作著「徒然草全注釈 上巻」角川書店・昭和42年 )

ちなみに安良岡康作(やすらおかこうさく)氏の
本の第39段解説(p193~195)は読めてよかった。

ここには、最初の方にある、2箇所を引用しておわります。
はじまりにはこうありました。

「この段は、三つの段落より成り、いずれも、
 法然上人の語を挙げて、それを
 『 いと尊かりけり 』『 これも尊し 』『 これもまた尊し 』
 と讃嘆しているのである。・・・ 」

その少し後には、こうもありました。

「第一の『 目の醒めたらんほど、念仏し給へ 』は、
 他書に出典の見いだされぬ語である。

 しかし、自己に可能なることを自覚せず、
 不可能事ばかりを障碍として考えたがる人間の
 心の弱さ・安易さを鋭く指示しているところに、
 この答語の輝きが認められる。そして、
 それは、念仏の行を強調した法然の信仰につながっている。」   
                           (p193)


この関連本として、わたしに興味深い指摘が読めたのは、

   西尾實著「作品研究 つれづれ草」(学生社・1955年)
   島内裕子著「兼好 露もわが身も置きどころなし」
             (ミネルヴァ日本評伝選・2005年)

うん。これらを、つなげてゆくと奥行きがでるのでしょうが、
今回はこのくらいで。最後に、おのおのの年齢を記しておきます。

法然 ( 1133年~1212年 )80歳
親鸞 ( 1173年~1262年 )90歳
兼好 ( 1283年~1352年 )70歳?

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たわいのない話と『発心』

2023-08-21 | 重ね読み
鴨長明の「発心集」(角川ソフィア文庫・上下巻)。
その第一の現代語訳は、こうはじまっておりました。

「昔、玄敏僧都という人がいた。奈良の興福寺の
 大変立派な学僧だったが、俗世を忌み嫌う心は非常に深く、
 寺中の付き合いを心から嫌っていた。そんなわけで三輪川の
 ほとりに、小さな庵を結び、仏道修行のことをいつも
 心に思いながら日を暮らしていた。」

 「・・・平城天皇の御時に、大僧都の職をお与えになろうと
  されたところ、御辞退申し上げるということで、こんな歌を詠んだ。

  三輪川の清き流れにすすぎてし衣の袖をまたはけがさじ

  ・・・そうこうしているうちに、弟子にも、また下仕えの者にも
  知られないで、どこへともなく姿を消してしまった。・・・   」


はい。このように、姿をくらますエピソードが、いろいろと出てきます。
あらためて『序』の現代語訳をみますと、こんな箇所がありました。


「・・ただ自分の身の程を理解するのみで、
 迷愚のともがらを教え導く方策などは持っていない。

 教えの言葉は立派であるのだけれども、
 それを理解して得る利益(りやく)は少ないのである。

 それゆえ浅はかな心を考えて、とりわけ深い教理を求めることはしなかった。
 わずかに見たり、聞いたりしたことを記しあつめて、
 そっと座のかたわらに置くことにした。

 すなわちそれは
 賢い例を見ては、たとえ及び難くとも一心に願う機縁とし、
 愚かな例を見ては、自らを改めるきっかけにしようと思うからである。

 ・・・ただ我が国の身近な分かり易い話を優先して、
 耳にした話に限って記すことにした。それゆえ
 きっと誤りも多く、真実も少ないかもしれない。・・・

 ただ道端のたわいない話の中に、
 自らのわずかな一念の発心を楽しむばかりというだけである。 」
                     ( p249~250 )

発心集の最初の方には、高僧がどこかへ消えてしまう話がつづきます。
それを弟子たちが探し出しては・・・。という感じで話がつづきます。

ちょうど、富士正晴著「狸の電話帳」を身近に置いてあるので、
それを開き、連想がひろがりました。こうあります。

「わたしは幼少のころからずっと、教えられることを習うことが
 全く下手であった。・・何とか辛抱しつつ旧制高校までは入ったが、
 ついに二年生にもなれず中退した。・・・・

 この世に生きて行くことに役立つような事柄を、
 従ってわたしは、学校で受けとったような気がしない。
 
 小学校で教えてくれた修身や、小学校の教師であった父親の
 教訓などに大抵反撥していたのだろう。一向にそのようなもの
 から影響を受けとっているような気がしない。 」

このあとに、ひとつのエピソードが語られておりました。

「 小学校の四年位の時、小川にかかっている鉄橋を
  中程まで渡って来たところ、向こうから電車がやってきて足がすくんだ。

  あたりはずっと見とおしのきいた平地だったから、
  向こうから電車のくるのは見えていたと思う。・・・・

  足がすくんだまま小川を見下ろしてみたが飛び下りる勇気が出ない。
  といって走り戻ることにしても間に合いそうにない。
  電車は近づきつつジャンジャン警報をならす。

  後をふりかえった時、人が岸のレールのそばにやって来たのが判った。
  そのころは着ているもので職業が判った。その土方風の人は
  
  わたしをみるとすぐにヒョイヒョイと鉄橋の枕木を
  地下足袋でわたって来て、わたしを後ろ抱きに抱いて
  岸まで運び、レールの外へ出して別にものもいわずに
  さっさと立ち去っていった。わたしは礼もいわなかった。

  こういうことの方がわたしの生き方に影響を与えているような気がする。
  後になって、火がついてあわてている小学生の着物を、
  素手ですぐさまもみ消したことがあったが、
  ( 熱があろうなどということは全然思いもしなかった )
  
  これはあの土方のおっさんの行動の影響であったなとすぐ気がついた。」
                       ( p9~10 )


私の場合はどうだったのか。助けられたことはかず知れず。
助けられたことを片っ端から忘れ去っていたと気づきます。
そしてちっとも、『一念の発心』へつながりませんでした。
うん。今からでもおそくはないか。
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盛岡高農の宮沢賢治。

2023-08-20 | 重ね読み
古本で雑誌太陽の一冊を200円で購入。
写真を見ながらパラパラとひらきます。

雑誌太陽(平凡社)の太陽コレクションとなっていて、
「士農工商 仕事と暮らし江戸・明治Ⅱ(農民) 」とあります。
1975年の雑誌特別号で、当時定価1900円となっております。

パラパラめくると、なぜだか賢治のあの写真がある。
黒っぽいコートらしきものをはおり。帽子をかぶり、
後ろ手に、下前方の畑の様子でもみているような姿。

真壁仁「東北農民の仕事と暮らし 寒冷の風土のなかで」。
という文のなかに、その写真がありました。

賢治の22歳のときの短歌が引用されておりまして、
そのあとの文を引用しておきます。

「 盛岡高等農林学校本科を卒業し、
  ひきつづき関豊太郎教授について、
  地質、土壌、肥料の研究をすすめていた。

  関教授は日本でもっとも早く、冷寒凶作の原因として
  寒流卓越の説を唱えた人で、それは明治40年のことである。

  盛岡高農が全国のどこより早く明治38年、
  農学博士玉利喜造を校長に創設されたのは
  冷害を克服する稲作技術を東北にうちたて、
  一大食糧供給地をつくるためであった。

  宮沢賢治は冷害克服を研究課題とする学校に学んだのだが、
  
  すでに幼少時に遊んだ花巻の町にある松庵寺の門前には、
  宝暦、天明、天保の餓死者を供養する石碑がずらりと並んでいた。
  ・・・   
  その後賢治が農業農民問題にとりくむことを
  うながした原風景かもしれない。      」( p43 )


とかく、文学的に傾きがちな賢治像なのですが、
風土農民視点からの、賢治像を知らされました。
はい。真壁仁氏の宮沢賢治の本を読みたくなる。


 
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花森安治の、夏休み。

2023-08-12 | 重ね読み
唐澤平吉著「花森安治の編集室」(晶文社・1997年)の
本文のいちばん最後に『夏休み』という言葉がありました。
そこを引用しておくことに。

「お孫さんが夏休みで上京してきたとき、
 研究室につれてきて、その日は一日中ホッペたがゆるみっぱなし。

 もうトロトロ。しかしトロけてしまうことは、ありませんでした。

 ほんとうは、一時間でも早く、かわいい孫のまつ家に帰りたかったはず。
 いや、しごとなんか放りだして、いっしょに夏休みをとりたかったはず。
 でも、しなかった。非情をつらぬきとおしてみせました。
 そこに花森さんの、大きな愛のすがたがありました。

 ともすると、花森安治が『暮しの手帖』にかけた半生は、
 独裁的で無情にすらみえる場合がありました。しかし、
 けっして利己的でも無慈悲でもなかったのです。

 つよい意志を秘めた人間だけがしめし、
 公平にあたえることができるこころでした。

 そのこころとすがたが、見まごうことない一つの大きな像となって、
 わたしのこころにようやく結びました。

 部員ばかりか、家族にさえも非情に徹し、
 どんな小さなしごとにも愛情と全力をそそぎ、
 編集者として生きぬいた、ひとりのアルチザンの半生。
 ・・・・・          」(p207)

そのすこし前には、こうあったのでした。

「 ――六十六年の生涯でした。
  早春の風のように、花森安治は、わたしの前から去ってゆきました。
 
 『 みなさん、どうもありがとう 』 のことばと、
  
  テレたようなちいさな微笑を一つのこし、
  なにごともなかったかのように研究室に訣(わか)れをつげて、
  颯然といってしまいました。

  その日から、十九年の歳月がながれました。    」(p261)

コメント (2)
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扇谷と池島の家族。

2023-08-11 | 重ね読み
扇谷正造が、『週刊朝日』の編集長を引き受けたとき

「部数はわずか10万部で、返品率25パーセントという惨状だった。
 これを朝日の幹部は『なんとか35万部まで引き上げてくれ』と
 扇谷に頼んだ。そこまでいけば黒字になる。

 ところが扇谷は8年のうちになんと、138万部という、
 週刊誌で日本初の大記録を打ちたてたのである。・・・  」

 ( p66  櫻井秀勲著「戦後名編集者列伝」編書房・2008年 )

このあとに、いろいろ書かれていたのですが。
はい。私はすぐに忘れそうです。それでも
引っかかったのは、この箇所でした。

「私は22歳の頃のある風景をいまでも思い出す。
 昭和28年、大学を出て大衆小説誌『面白倶楽部』の
 新米編集者になった年、藤原審爾・・のところに通っていた。

 ある日曜日、彼の家に行く途中で、
 ふと華やいだ声が庭先から聞こえてくる家があった。

 男の優しい声もする。私は反射的に庭を覗いたが、
 そこには夫人と娘らしい若い女性と、小柄な男が
 楽しげに談笑していた。表札を見ると扇谷とあった。

 ・・・後年、彼の知遇を得て編集論を聞いたとき、
 突然この風景が思い浮かんだ。やはり女性心理を
 マスターするには、むずかしい顔で家族と接して
 いるような日常では、不可能なのだ。

 私は一人の名編集長が育つプライベートな土壌を知ったことで、
 ひどく得意だったし、また自信にもつながったように思う。・・」(p74)


このあとに、
「大宅壮一は扇谷正造を評して
 『 文春の池島、暮しの手帖の花森と並ぶ戦後マスコミの三羽烏 』
 とほめている・・・   」

こうあるのですが、池島といえば、
司馬遼太郎著『以下、無用のことながら』(文芸春秋のち、文庫)に
「信平さん記」という文があるのでした。

「池島信平さんは、その風貌のように、
 ゴムマリのように弾んだ心を持っていた。 」とはじまっており、

その文の最後に、夫人が登場しておりました。

「社葬がおわるころ、夫人のあいさつがスピーカーからきこえてきた。
 横にいた安岡章太郎が、私(司馬)の腕をつかんだ。

 『 池島信平の文体とそっくりだ 』

 気味わるいほど話し方の呼吸や精神のリズムが似ていた。
 信平さんは、残すに足るもっとも大切なものを夫人にのこした。

 もともと個人の好みとしては他人に影響力をもちたいなどと
 いうような田舎くさいことを考えたことのないひとだったが、

 しかし死後、当人の見当を超えてさまざまな人に 
 その影響力をのこしてしまった。このことは、
 このひとの後輩の同人たちが全員気づいていることらしく、
 またたれもがそれを誇りにもしているらしい。  」( 単行本・p410 )


う~ん。あとひとり、花森安治の家族が思い浮かばない。
どなたかご存じの方はおられますか?
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心たのしまず。 

2023-08-10 | 重ね読み
「週刊朝日」が廃刊されて、近頃とんと買ったこともなかった癖して、
何となくもやもやしたものが残っておりました。
そういえば、「文芸春秋」も、もう買う気にならなかったなあ。

そんなことを思っていて手にした古本。編(あむ)書房(2008年)の
櫻井秀勲著「戦後名編集者列伝 売れる本づくりを実践した鬼才たち」
が安かったので購入。目次をみると30回までありました。
その第一回は「『文芸春秋』の体質をつくった池島新平」。
そのはじまり。

「私たちが今日、すばらしい書籍や雑誌を読むことができるのは、
 ともすれば忘れがちになるが、最初に井戸を掘った卓越した編集者が
 いたからである。

 出版社には『新しいビルを新築したところほど危ない』
 というジンクスが囁かれてきた。・・・・
 これにはいくつかの理由が考えられる。

 その第一は経営者が社業の安定と防御を考えて、
 ビル賃貸業をはじめるため、社員の間に安心感が生まれてしまうこと、

 第二は居心地のいい職場に座ると、取材力がてきめんに落ちること、

 第三に高層ビルの上から下を眺めるうちに、庶民感覚を忘れ、  
 マスコミが偉いと錯覚してしまうことのようだ。

 かつて平凡出版を創業した岩堀喜之助(いわほりきのすけ)は、
 右腕の天才編集者清水達夫がマガジンハウスに改名発展させ、
 銀座に巨大な社屋をつくる計画を聞いて心たのしまず。
 自分自身は会長にもかかわらず、
 銀座東急ホテルの狭い一室に秘書と二人で事務所をつくった。

 岩堀は当時祥伝社の『微笑』編集長だった私が遊びに行くと、

 『 櫻井君、編集者はでっかいビルの上から読者を見下ろしてはいかん。
   きみのところはそういうことをしてはいけない 』

  声音は優しいが、いうことはきびしかった。
  岩堀が逝って一年後に現在の社屋が成ったが、
  今日のマガジンハウスの苦境を見透していたといえそうだ。

  このケースと似た状況を辿ってきたのが文芸春秋だ、
  といったら酷だろうか?・・・・         」

はい。こうしてはじまる30回なのでした。
はい。第7回に「・・『週刊朝日』扇谷正造」がありました。
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竹山道雄。敗戦後の夏休み。

2023-07-30 | 重ね読み
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店・2013年)を
本棚からとりだす。そこにある『ビルマの竪琴』の箇所をひらく。
ここは、執筆依頼の場面から引用することに。

「・・童話雑誌『赤とんぼ』も21年4月に創刊された。
 編集長の藤田圭雄は・・執筆依頼に鎌倉まであらわれた。

 敗戦後は勤労動員や空襲こそなくなったが、一高幹部の竹山は
 新情勢への対応に忙殺された。・・・
 それが昭和21年の夏になって、竹山はひさしぶりに休まざるを得なくなった。
 積年の疲労のせいか、かるい中耳炎をおこして10日ほど・・家にひきこもった
 からである。頭に血がのぼる。耳にあてるための氷は・・もらった。

 そしてその暇に子供むきの物語『ビルマの竪琴』を考えた。
 比較的に短い30頁足らずの第一話『うたう部隊』だけがまずできた・・

 第一話の原稿を書きあげたのは昭和21年9月2日だった。・・・・

 昭和22年1月号掲載予定のこの第一話は校正刷を提出した段階で、
 米国占領軍の民間検閲支隊Civil Censorship Detachment いわゆる
 CCDの検閲にひっかかってしまったのである。

 内幸町の米軍事務所に一週間後に許可を貰いに行った藤田は唖然とした。
 ・・・・・

話の二行目『みな疲れて、やせて、元気もなく、いかにも気の毒な様子です。
中には病人となって、蝋のような顔色をして、担架にかつがている人もあります。』
には傍線が引かれている。当時、検閲実務に従事した要員はおおむね日本人で、
占領軍の指令に従いチェックしていた。いかに日本人らしい几帳面な書体で
問題個所の英訳を付し、・・『公共ノ安寧ヲ妨ゲル』という検閲項目に抵触
する旨が書き添えられている。・・

復員兵の消耗した有様は、連合国側の日本兵捕虜虐待を示唆するが故に
印刷禁止に該当する。これが上司が指示した検閲要領に忠実に従った
日本人検閲員の判断だった。当時CCDには英語力に秀でた日本人5000人以上
が勤務していた。滞米経験者、英語教師などが、経済的理由から、
占領軍の協力者というか有り体に言えば共犯者となって働いていたのである。

その要因募集はラジオを通して行なわれ、給与金額まで放送されたから、
少年の私にも比較的高給が支払われることは聞いてわかった。
費用は敗戦国政府の負担である。・・・・
が仕事の性質を恥じたせいか、検閲業務に従事した旨後年率直に
打明けた人は少ない。その体験を公表した人は葦書房から書物を出した
甲斐弦など数名のみである。タブーは伝染する。・・・・

 ・・・・・・

音楽による和解のこの物語のなにが悪いのだろうか。
内幸町のビルからすごすごと帰りかけた藤田圭雄は、もう一度窓口に引き返し、
受付の日本人女性に『どこが問題なのか』としつこく頼んだ。
すると奥の日系二世の部屋へ通された。そこにいたのは『二世の将校』だと
藤田は書いているが、対応の様子から察するに下士官だったのではあるまいか。
・・・
藤田の『この物語こそ今の日本の子どもたちにぜひ読ませたものだと思う』
という訴えを聞いて、二世の士官は
『わたしはまだこれを読んでいない。今すぐ読むからちょっと待ってくれ』
といって別室にはいった。そして20分ほど経つと戻って来た。

そして『 あなたのいう通りだ。これは決して悪くはない。しかし
ここまで来ると、もう一つ上のポストの許可がいるから、今月はなにか
別の原稿にさしかえて編集してほしい。しかしかならず許可を出すから』
といった。

上のポストには、問題となった個所のみをチェックする白人の管理職の
士官がいた。戦争中に日本語の特別訓練を受けた語学将校の英才たちである。
ブランゲ文庫に保存されマイクロフィルムに写された『赤とんぼ』には
検閲の痕跡をはっきり見ることができるが、先の傍線を引かれた箇所に
OK true と書きこまれている。

日本軍の復員兵士が
『みな疲れて、やせて、元気もなくて、いかにも気の毒な様子』
というのは事実その通りなのだから、問題とするには及ばない、
OKという判定を語学将校が下したのである。・・・   」

( p183~190 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」 )
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