和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

手洟(てばな)かむ。

2008-02-29 | Weblog
今日で2月も終わり。今月は三好達治著「諷詠十二月」を読みました。その二月の箇所を、ちょいと引用して、2008年2月を惜しみましょう。

「  手洟かむ音さへ梅のさかり哉
   春もややけしきととのふ月と梅
   うめがかにのつと日の出る山路かな


 ・・・・・・
 手洟かむ音さえ、梅花の真盛りの農家のほとりなんどにて聞けば、また詩趣なしとせずとしたのであろう。面白い句である。俳諧は『のつと日の出る』底の平談俗語をいとわないのみか、蚤も虱も馬のしとする音も、勢いのいい手洟の声も、ことごとく無差別に摂取してこれに詩趣を付与するその手柄は、誰人も常に驚異し讃嘆するところであって、まったく世界に類例のない貴重な珍しい詩境を打開したものと称していい。」


3句とも、芭蕉です。三好達治氏が「詩趣を付与するその手柄は」と語れば、思っても見なかった詩の雄大な視野を付与されたような気持ちになりました。今年の二月は三好達治著「諷詠十二月」を読めたのでした。
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小景異情。

2008-02-28 | Weblog
室生犀星の詩「小景異情」は「その一」から「その六」までありました。
以下、思い浮かぶままに。

山本夏彦著「一寸さきはヤミがいい」(新潮社)には週刊新潮の連載「夏彦の写真コラム」の最後のコラムが載っておりました。最後のコラムは題して「遠きみやこにかへらばや」。週刊新潮のグラビア冒頭のタイトルをそのままつかっておりました。「コメントによると13歳のとき漁船が座礁し救助され、39年ぶりに北朝鮮から生れ故郷の石川県に帰ってきた寺越武志(53)だと分かる・・・」「私は本誌編集長がこれを巻頭に据えた見識を嬉しく思わずにはいられない。ことにタイトルの文字がひっそりと小さく、また犀星の詩の一行を借りたのもさすが古い文芸出版社だと思わずにはいられない。蛇足だが若い読者のために詩の全部をかかげておく。題は『小景異情』のその二である。」
こうして、山本夏彦の週刊新潮の最後のコラムは、詩の引用で終わっておりました。詩(その二)を引用しておきましょう。

  ふるさとは遠きにありて思ふもの
  そして悲しくうたふもの
  よしや
  うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
  帰るところにあるまじや
  ひとり都のゆふぐれに
  ふるさとおもひ涙ぐむ
  そのこころもて
  遠きみやこにかへらばや
  遠きみやこにかへらばや


夏彦のこのコラムは平成14年10月24日号とあります。
三好達治著「諷詠十二月」に、こんな箇所がありました。

「私は年少の時分から室生犀星氏の初期の抒情詩を酷愛して、今日においてもほとんど変るところがない者であるが、特に『小景異情』などはその――世間もそう見ているように、代表的の作品と推すに憚らない。」
こうして三好達治は『小景異情』の「その二」と「その五」とを引用しておりました。ここに「その五」を引用してみましょう(三好達治氏の引用の仕方で)。


   何にこがれて書く詩(うた)ぞ
   一時にひらく梅すもも
   すももの青さ身にあびて
   田舎ぐらしの安らかさ
   今日も母ぢやに叱られて
   すももの下に身をよせぬ


ふつう、小景異情は、その二が引用されることが多いので、
三好達治氏が「小景異情」の抄出で「その二」と「その五」を引用したのには、ハッとしました。さてっと。杉山平一著「窓開けて」(編集工房ノア)をめくっていたら、こんな箇所がありました。
「室生犀星は、庭造りの名人だったが、若い頃から、その貧しい下宿部屋も、きちんと整頓されていたらしい。その昔の小学生でも使いそうな、うす汚い机も、から布巾をかけたように磨かれていて、その上に、一枚のなんでもない西洋紙がおいてあるとそれが外来者にはすばらしい紙に見えたという。安物のろうそくを立ててあっても、まるで、象牙のように、高貴なものに見えたらしい。それは、室生犀星の、文字言葉を組み合わせによって艶々とさせた天才の資質の雰囲気によるのは勿論だが、物は、すべて、それをとりまく環境、配置の関係によって、存在するということである。」(p39~40)


こう引用を重ねると、私は「小景異情」の最後の「その六」を引用したくなりました。

    あんずよ
    花着け
    地ぞ早やに輝やけ
    あんずよ花着け
    あんずよ燃えよ
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参列する。

2008-02-27 | Weblog
杉山平一著「窓開けて」(編集工房ノア)に司馬遼太郎と題する短文があります。
「司馬遼太郎さんが急逝され、送る会が大阪のロイヤルホテルで催された。」と始まります。「その日、このホテルの二階一階を埋め尽した人々の八割は男性だった。それも軽い若者は少なく、壮年が多く、その重圧感は圧倒的だった。明治国家を生きた男たちの勇気やプライドやすがすがしさを描いた司馬文学にはげまされて此処に集う男たちが、また国家を支えているような感じがした。司馬さんの文学は、幸田露伴以来、わが国に珍しい男性の文学だったが、著作の発行部数は一億に近づいているという。」
こうもありました。
「東京新聞の『大波小波』は往年の鋭さのないコラムになっているが、司馬遼太郎への鋭い一文が目についた。そこでは司馬の凄さを評価したあと『しかし、それは文学ではない』といっていた。それは『ストーリーは文学ではない』という正論をいおうとしたのか、純喫茶などの呼称を喜ぶ我が国の風俗が生んだ純文学という立場の表明かもしれないが、私は司馬遼太郎は詩人の魂と文体をもつ秀れた文学者だったと思う。」


そういえば、司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文芸春秋・文庫も)には、意外と弔辞などが多く含まれて編まれていたなあ、と思い浮かべたのでした。その「以下、無用のことながら」に「井伏さんのこと」という文が取り上げられていたのを思い浮かべたというわけです。
それはこう始まります。
「私は大阪に住んでいるため、いつまで経っても、日本の首都の地理がわからない。・・一点くっきりしているのは、青山斎場なのである。ここで、幾人かの先輩の死を送るはめになった。斎場には、簡素な平屋建ての控え室がある。・・・いつもこの部屋に入りこんでいた。かぞえると、三度になる。三度とも、井伏さんがおられた。三度目には、井伏さんのほうがたまりかね、微妙に体をよじらせて、『あなたとは、いつもここで会いますね』といわれた。斎場の控え室でだけ会う男などというと、私も井伏文学の登場人物になったような気がしないでもない。」こうしてはじまる9頁ほどの文章です。

鶴見俊輔著「らんだむ・りいだあ」(潮出版)のはじまりは、こんな言葉からでした。「京都の岩倉から大阪の箕面まで、ずいぶんある。早く出たつもりだったが、葬式ははじまっており、私よりさらにおくれて、年輩の女の人がついた。その人は待たれていたらしく、お寺の門の前に立っていた人にだきかかえられるようにして、本堂に入っていった。お寺の庭はいっぱいだったが、私にとっては知り人はいなかった。やがて拡声器から、詩を読む声が流れてきた。せきこんだような、つっかけをはいて先をいそいで歩いてゆくような速さで、

   いつかあの世であったら
   あなたも私も、女の詩人として
   せいいっぱいのことをしたのだと
   肩をたたきあってわらいたい

私のおぼえているままを記すと、そういうふうにつづいた。それは、私がそれまでにきいたことのない詩の読まれかたで、私の心をみたした。港野喜代子さんの葬儀だった。・・・・」


そういえば、司馬遼太郎著「古往今来(こおうこんらい)」(中公文庫)に「人中の花」と題する港野喜代子さんへの追悼文がありました。文庫版のあとがきに、司馬さんはこんなふうな書き込みをしておりました。
「私は、幸いこの世に生きている。生きていることが幸せなのではなく、よき人に接しうることが至福だとおもっている。よき人というのは親鸞が『歎異抄』のなかで法然についていっていることばで、これも袋の大きいことばである。この集でいえばよき人は桑原武夫氏のように、十分、不世出と言いうる知的大器量人だけでなく、港野喜代子さんのように街の無名人の場合もある。・・・」


杉山平一著「窓開けて」を読んでいて面白いのは、その桑原武夫氏のことも出てくるからでした。
「桑原さんの葬儀は、京都黒谷の総本山金戒光明寺で行われた。広大な境内に圧倒されたが、幅ひろい一代の学者、組織者だけに、参列者は、その境内を埋め尽くしていた。・・・」
そしてこんな箇所もありました。
「桑原さんの三好達治との交情が、どんなに深いものかは、『詩人の手紙』一巻にあふれているが・・・仲之島公園の三好達治碑の建立や、三好記念館はもとより、三好さんの福井三国への流寓中も、桑原さんは汽車を乗りついで訪ねてこられた。同じ学友丸山薫への思いも厚く、豊橋の詩碑はもとより、山形県岩根沢小学校の丸山薫の詩碑や、記念会にも遠路をものともせず来られ、友情を縷々と語られた。・・いつも丸山薫や、三好達治を語る関西弁のざっくばらんの悪口が、親愛の情にあふれて、仲のよさは、うらやましいほどだった。」


ここでの杉山平一氏は「私が参列したのは、三好達治、丸山薫につらなる『四季』同人としてである。桑原さんは、『四季』の最も古い同人として、アランの翻訳を創刊号から発表されていた。」と縁を語っておりました。


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2008-02-27 | Weblog
昨日。藤井貞和著「古典の読み方」(講談社学術文庫)を読みおえました。うん。よかった。
山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)にて取り上げられていた本の一冊でした。
この山村修さんの新書は2006年に出ております。新書は私の本棚で、そのまま埃をかぶっていたことになります。あらためて、そこに紹介されている入門書のテキストとともに、居住まいを正して、ゆっくりと新書を読み直してみたいと、思います。山村さんは藤井貞和のこの入門書を語るにあたって「続・藤井貞和詩集」(現代詩文庫)に出てくる印象深いエピソードをもってきておりました。そしてこう書き込んでおります。「そんなエピソードを読んで、私も『不意に』この著者のファンになりました。」(p57)とあります。
気になるので、この現代詩文庫もネットの古本屋に注文しておきました。
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〈狐〉の学校。

2008-02-26 | Weblog
山村修氏は、1950(昭和25)年、東京生まれ。
慶応義塾大学仏文科卒。匿名書評家〈狐〉として知られる。
2006(平成8)年8月。肺ガンで逝去。

中野翠さんの文を引用すると「1981年に〈狐〉の名で『日刊ゲンダイ』の書評コラムを書き始めて以来の四半世紀にわたる文筆家としての彼の足跡」ということになります。思えばちくま文庫「水曜日は狐の書評」の解説のなかで植田康夫氏が、2003年の「八月以降は、筆者の健康上の理由でコラムは休載となっている」と指摘しておりました。

そう思えば、山村修著「禁煙の愉しみ」(洋泉社)が1998(平成10)年に出版。
亡くなる年の2006年に、ちくま新書「〈狐〉が選んだ入門書」が7月10日出版。
その「あとがきにかえて」のなかに「私は――身体的な事情があって、昨日(2006年3月31日)付で早期退職をしたばかりですが――、すでに人生の半分以上を、あたりまえの職場ではたらく、あたりまえのサラリーマンとして暮らしてきました。あたりまえのサラリーマンとは忙しいものです。」とありました。
檜書店「花のほかには松ばかり」が8月10日に出版。
翌年になって、文春新書「書評家〈狐〉の読書遺産」が2007(平成19)年1月20日に出ます。その新書の最後には、中野翠さんの「さようなら〈狐〉」という文が載っておりました。中野さんの文は「文学界」2006年10月号からの転載とあります。その文中の最後のほうにこうありました。2006年の「8月14日。〈狐〉兄からの電話でその死を知った。肺ガンの治療も順調で、勤め先を辞めて本格的に文筆活動に入り、『〈狐〉が選んだ入門書』と『花のほかには松ばかり』があいついで出版されたばかりだったが・・」とありました。ここで翠さんは『花のほかには松ばかり』について書いております。「読みながら何度も思った。山村さんは一言で言うなら、『深く味わう人』なんだな。生きることの中心が味わうということにある人なんだな。深く味わう力を培ったのは、たぶん死に対する強くて敏感な感受性なのだろう、と。」。

私はといったら、『〈狐〉が選んだ入門書』のことを思っているのでした。その『はじめに』は、こう書き出されております。「入門書こそ究極の読みものである――。あるときふと、そう思いはじめました。このごろはそれが確信にまで高まり、人に会うたびに吹聴してみるのです・・・」
『あとがきにかえて』では
「ふしぎに自由でうれしい時間です。それを私は、とりわけ入門書を読むときに感じます。そこにはいつもと異なる未踏の世界が見える。日々の仕事からは思いもしない視角があらわれる。だからこそ、すぐれた入門書は読者を夢中にさせる。それは、ただあたらしいことを勉強して知識をふやすというのとは、ちがうような気がします。たとえば菊畑茂久馬の『絵かきが語る近代美術』を読み・・私は魂のふるえるのをおぼえました。・・」

この「魂のふるえる」という言葉は、肺ガン治療中に書き留めた出来事だったのだろうなあ、と思ったりするのでした。ところで、この山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」をどう位置づければよいのか?私はここに「〈狐〉の学校」があるのだと指摘したいと思うのです。誰でも出入り自由。思いついたときに入って講義録でも読む気持ちで向かい会える新書「〈狐〉の学校」。え~と。「めだかの学校」じゃありませんよ。「〈狐〉の学校」です。
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古典の眠り。

2008-02-24 | Weblog
昨日遅くにポストに藤井貞和著「古典の読み方」(講談社学術文庫)が届いておりました。というか、飲んで22時ごろに帰ってきて、ポストを開けてみると、そこに本が。今日はその本の第2章までを読んでおりました。そこに徒然草が登場する箇所があり、ちょっと引用したくなった、というわけです。
その箇所はですね。

「もし読者が社会人で、いま初心に返って古典を読もうとしているとしたら、・・私は何といっても『徒然草』を第一に推す。何だ、『徒然草』か、と軽視してはいけない。・・・」
「『徒然草』の読者にふさわしい年齢は著者とだいたい同じの、四十台後半ではなかろうか。・・・『徒然草』は、若者の古典入門書のようにして読まれてきたけれども、それは準備にすぎないので、読者は成長しながら三十台にはいって一度、四十台にはいってもう一度と、繰り返し読んでよい古典文学だ、ということをここで言いたいのにすぎない。」

ここからあとの文章が、忘れがたいのでした。

「『徒然草』はだから一度読み終えたら書棚にしまうことになる。いつかそれを再び取りだす日が来るだろう。でもしばらくは書棚のなかで眠ってもらうことにする。これもだいじなことだ。書物は生き物である。生き物には眠りが必要だ。机の上にいつまでも起こしておくのはかわいそうである。愛読書であればあるほど、眠りを与えてやることは、読書家の愛情だと思う。いつまでも同じ書物にこだわるのは、対人間の場合ならいさ知らず、書物を相手にするかぎり得策でない。愛読書を眠らせてやること、これが秘訣である。・・ほんとうの愛読書なら、いつかあなたの心のなかで、眠りから目ざめるときがきっと来ることだろう。そのときの新鮮さは格別の味わいがある。」(p44~p48)

うん。「いつまでも起こしておくのはかわいそうである」というのが何とも愛読書のイメージを喚起します。自分だけじゃなくて、本も眠りが必要だとは、なにやら思いがけなく、その眠りから覚める味わいのよろこびを知った方の言葉なのでしょうね。
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詩歌入門書。

2008-02-23 | Weblog
三好達治著「諷詠十二月」(潮文庫)と萩原朔太郎著「恋愛名歌集」(創元文庫)とを、どちらも古本で読みました。どちらも魅力ある本で、さて次に私はどうしましょう。とボンヤリ思っておりました。もう一度、二冊を読み直してみる。あるいは萩原朔太郎著「郷愁の詩人 与謝蕪村」と三好達治著「詩を読む人のために」(どちらも岩波文庫にあります)を読もうかなあ。などと、あまり読書家じゃない私は、あらぬことを考えるわけです。すると「下手の考え休むに似たり」で、あれこれと思いがふわふわ移動しはじめるわけです。

山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)には、けっこう古本も混じって紹介されております。たとえば萩原朔太郎の「恋愛名歌集」は古本で、「郷愁の詩人 与謝蕪村」は普通に簡単に手には入ります。山村修さんが、それで新書の中で、薦めているのは古本の「恋愛名歌集」の方でした。

森銑三・柴田宵曲著「書物」(岩波文庫)に「新本だけを買って、古本を漁る趣味を解しない読書家は、まだまだ書物に対して語る資格の乏しい人だといってよいであろう。」(p91)とあります。最近は、ネットで古本を簡単に手にすることができるので、私など、ただただありがたく、うれしいのでした。
せっかく「書物」から引用しているので、もうすこし続けます。
「詩歌という芸術をあまりに容易に考えている人が多過ぎる。そしてその方面の専門家を以って任じている人々の歌集や句集も、一人よがりの、その仲間だけにしか通用しないようなものがあまりに多過ぎる。詩歌の方面では、いわゆる大家から小家までが、一人天狗となり、夜郎自大の幣に陥っているのではないかと思われる。忌憚なくいえば、私には現代の詩歌界が健全な状態にあるとは思われないのである。」(p138)


うんうん。健全な状態にする本として
 萩原朔太郎著「恋愛名歌集」
 三好達治著「諷詠十二月」
私はこの二冊を読んだのだなあ、と一人思っているところです。


ちなみに、森銑三・柴田宵曲著「書物」は
最初が1944(昭和19)年刊行。
戦後は1948(昭和23)年の増補刊行されたとのことです。

え~と。わたしは何を思っていたのでしたっけ。
とんと。物忘れで、元にもどらず、あらぬほうへと気がそれる。
それで。そういう備忘録として、書いているのでした。
でもね。思いつきは大事です。と、それだけがたよりです。
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杉山平一コラム。

2008-02-22 | Weblog
杉山平一氏のコラムが面白そうです。1914年生れの杉山平一氏。
古本で買ったのですが、私が最初に興味深く読んだのは「戦後関西詩壇回想」(思潮社)でした。それを楽しく読んだので、思いつくと、少しずつ古本をそろえております。昨日届いた杉山氏の本に「映像の論理・詩の論理」(創元社)という本があります。いかめしい題名なので、どんな本だろうと思いながら開いてみると、これが何と書評紙「図書新聞」に三百回にわたって連載したコラムを中心にして短文をまとめた一冊なのだそうです。あとがきの最後には、昭和62年夏とあります。
面白いのはですね。たとえば、私は杉山平一著「三好達治 風景と音楽」(編集工房ノア)を最近パラパラとめくっているのです。それがどうも面白くないなあ。と思っておりました。すると、「映像の論理・詩の論理」のあとがきに、杉山氏ご自身が書かれております。「短文ばかりをあつめたが、わたしは長いものを書くとボロが出てくる。世上、短いものは、ちぢめるのに骨身を削る苦心をするというが、わたしは、長い方が苦手で、長く引き伸ばすのに苦労するたちである。ここで残念ながら紙数が尽きたなどという論文や文章を読むと癪にさわる方である。・・」。
この箇所を読んだときは、思わず笑ってしまいました。
あとがきには、こうもあります。
「映画でも詩でも、わたしの興の赴くままを書いた。東京にいる学生時代の友人との雑談のつもりで、もとより書き捨てのつもりだった。」とあります。
天然の湧水が沁みだすような、短文に自然な流露感があるのです。これは魅力のコラムに出会ったようです。
私もまだろくに読んでいないのですが、ぱらぱらとめくって興味をひいた箇所を引用してみますね。
「蒸気機関車」と題したコラムは、こうはじまっていました。
「詩人というのは、大人になりきれないでいる一種の子供であるから、機関車などが大へん好きだ。中野重治から、三好達治、安西冬彦、丸山薫、近藤東と、機関車の詩は実に多い。・・・」(p174)

それじゃ、子供はどうかというと、「比喩」と題した短文は、「田中冬彦全集が出て大へんうれしい。」とはじまっていて、そこに出てくる「セルの着物」のことから、話題をひろげておりました。
「比喩が時代と共にかわるということである。私は『毎日小学生新聞』の詩の選をやっていたが、子供の詩でも、しびれた足を、サイダーになった、といっていたのが、高速道路のトンネルを、バヤリースのオレンジジュースの中にはいったようだ、というふうにかわったと思っていたら、さきごろは、日なたぼっこを、電気毛布にくるまっているようだ、という子がでてきた。明治のころ、パンが入ってきたとき、小学校の先生が、パンとは麩(ふ)のようなものだと説明したときいたが、映画などで、ぼたん雪が降るとき、真綿や、麩をちぎって降らせたらしい。ところが、最近、子供の詩に、雪が、発泡スチロールのように、ふわりふわりと降ってきたというのにぶつかった。どんどん新しくなるようである。・・・・」(p149)


それにしても、「詩人というのは、大人になりきれないでいる一種の子供であるから」というのは、すごい指摘ですね。普通のコラムでは、とんとお目にかかれない言葉です。
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「画文共鳴」

2008-02-21 | Weblog
毎日新聞2008年2月17日「今週の本棚」。
そこに井上章一の書評がありました。取り上げられている本はというと木股知史著「画文共鳴  『みだれ髪』から『月に吠える』へ」(岩波書店¥3570)。これが魅力ある紹介書評で、大変参考になりました。といっても買って読もうとは思いません。せめて、ブログに書きとめておいて、いつか参考になる機会もあるだろうと、そう思うばかり。
こんな箇所があります。
「晶子は後年、この『みだれ髪』を、あまり評価しなくなる。・・『みだれ髪』を世に問うたころの晶子は、『明星』という雑誌へその身をよせていた。『明星』には、洋画家たちの挿絵が、よくつかわれている。当時は尖端的だとみなされていた裸体画、女のヌードもしばしばそえられていた。それで、当局からの摘発もうけている。こういう絵は猥褻だから、のせるな、と。だが、『明星』も負けてはいない。芸術に理解のない当局をあざけるような言辞も、かえしていた。かたがた、芸術という立場をまもるよりどころとしても、自らの雑誌を位置づけたのである。それが『明星』の文化戦略であったということか。晶子の女体美を礼賛した歌も、そんな『明星』の戦略とともにある。三十一文字で書かれたヌードという面も、そなわっていた。のちになって晶子がいやがったのも、そういうところであったろう。芸術か猥褻かといったやりとりの、素材とされたところに、反感をいだいたのではないか。」
蒲原有明の象徴詩についても、おやっと思う記述があります。
「正直に書くが、私はこのころに書かれた象徴主義の主張を読んでも、よくわからない。だが、青木(繁)の絵だ、『海の幸』だったんだと言われれば、腑に落ちる。そうか、当時の象徴詩は、文学における青木をめざしていたのかと、のみこめた。この本は文学史のむずかしいところを、美術史でおぎなう効用も、はたしてくれる。」

気になる本ではありますが、とりあえず、こういう本があるのだと、分かっただけでも収穫で、買いはしませんが、まずは、書きとめておくわけです。
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朝日の賞味期限。

2008-02-20 | Weblog
週刊新潮2008年2月21日号。そのp137。
朝日主催「ザルツブルク音楽祭」についての経過記事が載っておりました。
ああ。そうそう。これが「朝日の賞味期限」ということで取り上げます。

朝日新聞社が創刊130周年を記念して、4月に主催するオペラ「フィガロの結婚」についての朝日新聞の言葉の使い方の経緯が、反芻されておりました。

昨年の秋の公演チラシ
「緊急速報ーーーザルツブルク音楽祭日本公演2008年決定!」
紙面を使った全面広告でも
「待望の初のザルツブルク音楽祭日本公演が実現する」

その後、変更されたチラシは
「ザルツブルク音楽祭制作オペラの日本初上演が決定!」

変更されたチラシには、どんな経緯があったのか。
「毎年夏に開催されるザルツブルク音楽祭は、国際的にも注目を集める名門音楽祭。1920年の第一回以来、海外で開催されたことはない。『今までにも何度か日本公演が噂されました。しかし、レジデンスオケのウィーン・フィルの参加が得られず、芸術的水準を保てないからと、見送られてきました』(音楽記者)朝日が招聘するのは、・・『肝心のウィーン・フィルが来ない。指揮者もキャストも駆け出しの若手ばかり。・・』(オペラファン)」

朝日新聞の、当初のチラシのキャッチコピーには誤解を招きかねない表現があったとして、朝日新聞社に聞いております。その回答は
「『チケット発売前に、より適切な文言に差し替えました。今回の日本公演の総監督兼芸術監督は、現地のザルツブルク音楽祭の総監督兼芸術監督のユンゲル・フリム氏ご自身です』(広報部)公演に先立ち、ヘルガ・ラーブル=シュタットラーSF総裁が来日会見を行う予定もあり、正当な手続きを経ているという。」


同じ週刊誌の50頁には、朝日新聞の夕張の臨時支局長・本田雅和記者の最近のご発言も載せております。覚えておりますか。あの2005年1月朝日新聞一面の本田記者の署名記事で好き勝手に「従軍慰安婦問題を扱ったNHKの番組が、政治家の圧力によって改変された」と書いた騒動の当事者。その本田記者が、どういうわけか東京・荒川区で公演をしたというのです。その始まりだけでも引用したくなります「『夕張市長の給料は24万円(ママ)。私は朝日新聞から高額な給料をもらっているから私のほうが給料が高い。職員については生活保護レベルだ。そういう記事を送っても、札幌のデスクが反動的で載せてくれない』などと上司まで槍玉に挙げつつ・・・」ということで、引用はこのくらいにしておきましょう。

朝日の賞味期限切れを思うときがあります。
いいや、消費期限。う~ん。有機リン系殺虫剤。
メタミドホスの検出は、餃子だけとはかぎりません。
本田雅和の名前だけは、忘れずにいることにします。
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ご縁があったら。

2008-02-19 | Weblog
日曜日に三好達治著「諷詠十二月」(潮文庫・古本)を読みました。
あんまり楽しかったので、本文の引用は、ちょっとあとまわし。
いろいろと関係ない寄り道をしてみたいと思います。

私はなかなか本を読めないタイプでございます。これがいいよ。と書かれていても、せいぜい本を買っとくのですが、積読どまり。興味を持った人、数人が薦めているのを確認して、それから、あらためて読み始める。という腰の重さ(なんとも贅沢な)。さて、この本もそうでした。

ところで、山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)がありました。入門書を紹介しているのですが、そこに紹介されている本を、私は読もうと思っているのです、ですが思うだけ。笑って下さい。結局、今その新書をパラパラとめくってみると、どれもほとんど読んでいないことに気づかされます。何てこった。です。こう云う場合にはめげずに、せいぜい読みたい本の題名だけでも覚えておくことにします。すると、あとで何処かで、引っかかってくることがあるかもしれない。という望み。その山村修さんの新書に萩原朔太郎著「恋愛名歌集」が紹介されておりました。

それから少しして、谷沢永一・渡部昇一対談「人生後半に読むべき本」(PHP研究所)を読んでいたら、こうあったのです。


【渡部】・・万葉集をみんな読むとか、古今集をみんな読むとか、そういうことをする必要があるかといえば、私は懐疑的です。何といっても大変ですからね(笑)。そういうことをしなくても、萩原朔太郎の『恋愛名歌集』でいいんです。そうするとあれは、注も面倒臭くないけれども、スッと読んでわかるのがほとんど全部ですから。・・・
【谷沢】ええ、その通り。つまり、全巻の全部の注釈を隅から隅までなどというのは専門の学者のやることであって、一般読書人は一番の早道、近道を通ったらいいと思う。萩原朔太郎の『恋愛名歌集』の他にも、たとえば三好達治の『諷詠十二月』とかいろいろあります。・・・とにかく、何でもいいんです。ご縁があったらよろしい。縁談と一緒で、自分にとっていいご縁であればいいのであって、相手がミス日本であるかどうかということは関係ない(笑)。  (p143~144)


こうして、私といったら、2冊の本で薦めている『恋愛名歌集』を古本の文庫本で買ったわけです。買ったのですが、読まない(笑)。いまだにそのままになっております。こうして読まない本のことを書いていると、ますます読まないぞ、とでも云っているような気分になってくるじゃありませんか(笑)。こうして、そのままになっておりました。最近杉山平一の本を少しづつ読んでおります。すると、杉山平一著「三好達治 風景と音楽」(編集工房ノア)というのがあることに気づきました。さっそく読みはじめると19~20頁に、三好達治著「諷詠十二月」からの引用が出てくるのでした。そういえば。と思って、杉山平一の本は途中でやめて、古本で買ってあった『諷詠十二月』を読み始めたというわけです。

ここまでで、私は『恋愛名歌集』を読んでいない。そして『三好達治 風景と音楽』も20頁しか読んでいないのでした。なんとも好き勝手な本読みで、喰い散らかしの道楽読者で、中途半端も極れリ。というところでしょうか。それでもって、読後、文庫『諷詠十二月』の最後に載っている石原八束氏の解説を読んでいたら、こんな箇所がありました。

ちなみにこの本は初版が昭和17年だそうです。
「新潮叢書の一篇として、河盛好蔵氏のすすめにより、全篇を書下して刊行され、版を重ねてベストセラーを続けた。・・刊行後、出版文化協会第三回推薦図書に指定され・・」

「この当時の戦時下の暗い燈下で学生生活を送っていたもの、勤労動員で工場に行くもの等々で、この『諷詠十二月』を転読した人は私の知るかぎりでも非常に多い。詩人の安西均氏も『私たちの世代がむさぼり読んだ』ことを言い、また女流詩人の茨木のり子さんが、『私も二十才の頃、郷里でかまどの火をたきつつ、その火照りの下で楽しく読んだ記憶があります。自分では意識していなくても、やはりこの本は、私のなかになんらかの影響を与えているとおもいます』と安西氏に書き送っていることを報告している。」


この箇所を読んだとき、私に思い浮かんだのは茨木のり子著『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)でした。三好達治著『諷詠十二月』の心意気を、現代詩に特定して書き進めたのが茨木のり子著『詩のこころを読む』だったのじゃないかと、そんな道筋がぼんやりと思い浮かんできたのでした。


ということで『諷詠十二月』の内容を語らずに、ご縁ばかりを語ったという、お粗末でした。どんとお笑い。



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日曜の東京新聞。

2008-02-18 | Weblog
日曜日だけ読む新聞は、毎日・日経・東京新聞。
読書欄がお目当てです。2月17日は収穫がありました。
東京新聞は「CULTURE」欄が、楽しめました。
「〈畳長さ〉の効用を説く  山内志朗さん」とあります。
すこし引用。
「『人同士の会話において、話者の感情や情緒、声の高低・イントネーション、身ぶりなどが、非常に重要な役割を果たしている。会話の本来の目的以外の、一見して無駄な部分、つまり〈畳長さ〉が実は大切なのです』と慶應義塾大教授の哲学者・山内志朗さん(50)は言う。」
う~ん。こうして私みたいにブログに書き込みをしている者にとっては、考えさせられます。一見して無駄な部分ばかりブログに書き込んでいるはずなのに、それでもまだ、畳長さが足りないのではないかと、ひとり愚考するわけです。
東京新聞の紹介記事の最後はというと、
「哲学の魅力を説く著書の多くは笑いのエッセンスがちりばめられている。『あえてやっているわけではなく、お笑いそのものが哲学的。僕の中では同じ次元の事柄なのです』、お笑いブームの今、哲学を学ぶ好機かもしれない。19年勤めた新潟大から昨年、慶応大に。・・・『でも、人込みの中でこそ哲学は考える気になりますね』」
う~ん。私のブログも笑いがすくないので、自分で(笑)と書いてみたりしております(笑)。
東京新聞は100円。読むところがないときは(笑)、日曜版の東京俳壇・東京歌壇を見ます。歌壇の方は岡野弘彦・佐佐木幸綱のお二人。期待して見ておりますが、今回は肩すかし。それよりも、俳壇の鍵和田柚子(柚の木は、名前では禾です)選の最初が気になりました。
  山枯れて猟銃の音行つたきり  埼玉県 鈴木一郎


う~ん。ついつい、ブログが枯れてしまい「行つたきり」の言葉を、あれこれと思い浮べるのでした。
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庭の蜜柑。

2008-02-16 | Weblog
上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)のはじまりは、アメリカの友人の「たいていの日本人は寺にきてちょっとだけ仏さまを拝むが、あとは縁側にすわって、庭ばかりみている」という質問でした。アメリカ人ということで、連想として私に思い浮かんだのが、平岡敏夫著「『坊つちやん』の世界」(塙新書)。
そこに「 ただ一本の蜜柑の木  『坊つちやん』における自然と人間」という文が載っておりました。平岡氏の文はこうはじまっております。
「『坊つちやん』を読み返していて、これまでさして注意もしていなかった一本の蜜柑の木が意味深く思われるようになった。芥川龍之介の短篇『蜜柑』について、二、三年前、英訳を通してアメリカ人学生と勉強する機会があり、【蜜柑】の意味するものについても、新たな考えるところがあったという事情もあずかっているかも知れない。」
もうすこし引用を続けます。
「主人公の『おれ』は生徒を引率して練兵場で行われる日露戦争祝勝会に参列、余興は午後に行われるという話なので、ひとまず下宿に帰り、この間中から気になっていた清への返事を書こうとするが、なかなか書けない。ごろりと転がって肘枕をして庭の方を眺めているところで、はじめて一本の蜜柑があらわれる。
  『庭は十坪程の平庭で、是と云ふ植木もない。只一本の蜜柑があつて、塀のそとから、目標(めじるし)になる程高い。おれはうちへ帰ると、いつでも此蜜柑を眺める。・・・』 」(p128)

清への手紙を書こうとしてなかなか書けない。坊っちゃんは庭の蜜柑を眺めているのでした。
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仏さまより。

2008-02-15 | Weblog
久世光彦氏は対談で「縁側を撮るのが好きなんです」と語っておりました。
縁側といえば、上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)の「はじめに」は
こう始まるのでした。
「ある年の暮の寒い日のこと、一人のアメリカの友人を京都の寺に案内した。大徳寺や龍安寺などのいくつかの寺をみたあとの帰りの道すがら・・わたしに質問してきた。『日本人は、仏さまより庭が好き?』『なぜ』と、問うわたしに、『だって、たいていの日本人は寺にきてちょっとだけ仏さまを拝むが、あとは縁側にすわって庭ばかり見ている・・・』」
この質問をスタートラインにして。新潮新書「庭と日本人」は、まるで堰を切ったように語られてゆくのでした。
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昭和十年代。

2008-02-14 | Weblog
「阿久悠のいた時代 戦後歌謡曲史」(柏書房)の編集後記で齋藤愼爾が書いた言葉が気になりました。
「吉本(隆明)氏はかつて橋川文三氏との往復書簡で、『明治とは明治十年代までを指すということ』という橋川氏の提言に対して、『これを延長すれば、昭和というのは十年代までで、それ以降は昭和ではない何ものかへの過程であるのかもしれません』と返信している。阿久悠、久世光彦氏が語る【昭和】は、幻景の昭和、現実の歴史である以上に失われたヴィジョンとしての【昭和】であった。そのヴィジョンを楯に、『昭和ではない何ものかへの過程』をひた歩む歴史に異議申し立てをした凜列たる生涯。歌はときに時代に先んじ、時代の根源につくものだということが、氏の作品に触れると諒解される。・・・」

ここまで読んだら、
「久世光彦の世界」(柏書房)での齋藤愼爾・久世光彦対談「詩歌の潮流」を思い浮かべました。その中にある箇所です。

【齋藤】歳時記など、ときどきひもときますか。
【久世】・・よく見るのは高浜虚子の「改訂・新歳時記」昭和15年版なんですよ。・・おやじが使ったものだから、テープや何かでいろいろ補強してあるんだけれど、もうボロボロ。それをいちばん見ますね。
  ・・・・・・・
【齋藤】いちばん郷愁を持って語る時代は昭和十年から二十五、六年ですか。
【久世】そうですねえ。エッセイは違いますが、小説とかテレビドラマはだいたい昭和十年代に限られていると言っていいくらい、非常に偏狭です。それほど確かな考えがあってではないけれど、やっていると幸福なんです。いまはもうどの家庭でも見られないようなものが何でもなく当たり前みたいにあるという茶の間の絵を撮っていると落ち着くんです。縁側を撮るのが好きなんです。
【齋藤】縁側じたいが、だんだんなくなってきていますね。僕の知っている俳人は久世さんのテレビの演出を見ると俳句的だと言うんです。・・・
                   (p214~215)



どういうわけか。縁側と昭和十年代とが結びつきました。
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