和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

庭と日本人。

2009-02-25 | Weblog
上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)は、「日本人の心と建築の歴史」(鹿島出版会)の後に書かれておりました。
「日本人の心と建築の歴史」が2006年発行。
「庭と日本人」は2008年1月発行。
ということで、あらためて、「庭と日本人」をパラパラと読み返してみました。

「『京都では仏像より庭に人気がある』といった。
しかしそれは『京都では』であって『全国どこでも』というわけではない。とりわけ京都以上に古い歴史をもつ奈良の寺では、いまも仏像や建築に人気がある。逆に庭には人気がない。『庭に人気がない』というより、奈良の寺にはそもそも庭がないのだ。法隆寺や唐招提寺、薬師寺などの古寺をみてもわかることだが、境内には土と石と木と瓦の建築のほかには、わずかばかりの緑陰樹があるにすぎない。平安時代以降につくられた若干の庭をのぞけば、奈良の寺にはおよそ庭とよべるものがないのである。どうしてか?それは仏教の寺はもともと庭などに関心がなかったらだ。」(p92)

「はじめのころ京都につくられた寺には庭はなかった。それが平安時代の中ごろから、突然、かわりだす。かわったのは『末法思想』なるものの登場によってだ。それは『釈迦の死後2000年たつと社会がみだれ、仏の教えはすたれ、世は末法になる』という教えである。その末法にはいるのが日本では永承七年(1052)から、とされた。じっさい、そのころから前九年の役や後三年の役、延暦寺・園城(おんじょう)寺の僧兵の争いなどがおきて、世の中は騒然となっていた。そこで人々は『万人をすくうことを願いとする』阿弥陀仏にとびついた。極楽浄土におられる阿弥陀仏の像を安置する寺を各地にたてた。しかしそれだけではものたらず『極楽浄土』そのものをしめす池を寺のまえにほった。・・・・わたしはいままでのべてきたコンテキストにしたがい、それを『浄土の庭』という。」(p94)

ここから、こうつながります。

「このように、『浄土の庭』は乱世がつづいて人々が極楽浄土をもとめるたびに、その後もたゆまずつくられた。じっさい西芳寺の庭も、南北朝の動乱のころにつくられている。銀閣寺の庭も応仁の乱の直後だった。世の中がみだれて人々が現実世界に絶望するたびに『浄土の庭』は登場したのである。そして人々は夢中になって光かがやく阿弥陀さまをおがんだのだった。」(p102)

「人間に生きるエネルギーをあたえる空間は建物ではなく庭、すなわち自然だからだ。庭の木であり、草であり、花であり、苔であり、虫であり、鳥であり、わたる風であり、さしこむ日である。それらは自然であり・・・」(p134)

最後の方にはこうあります。

「日本人はホテルや旅館にいくとまず窓をあけて外をみるが、外国人は保養地でもないかぎりそんな行動をとらない。レストランでも日本人は窓際の席をとりたがるが、外国の高級レストランにははじめから窓などない。そういう窓にたいする日本人の思いは、戸外の自然を【神さま】【強いもの】【気合のあるもの】とする伝統からきている。日本人の最高のすまいは、野にねて【自然の気合】にふれることだ・・・・」(p199)

「野にねて【自然の気合】にふれ」ながら日本の文化を思う。なんとも、そんな雄大な気分を味わえるようなのです。
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50年の多少。

2009-02-24 | 前書・後書。
古本で注文した上田篤著「日本人の心と建築の歴史」(鹿島出版会)が届いたので、とりあえずは、あとがきを見ました。こうあります。

「本書は、わたしの50年間の研究生活の総まとめといった性格をもっている。高校時代に反レッドパージ斗争をやり、大学四年間は学生運動に没頭し、おかげで卒業したけれど就職はなく、しかたなしに何の目的もなく大学院に進学したわたしではある。しかし昭和30年(1955)4月に『新都市』というテーマでパリでおこなわれた第三回国際建築学生会議にむけての『日本レポート』の作成のために京都市の調査を15人の学友たちとおこない、日本の都市というものがひとつのまとまりでなく本書中で『ブドウの都市』とよんでいるような『多数の住区の複合体』であることを知ったのが建築学研究の出発点であった。それを50年後のいまもあいかわらず論じているのであるから、わたしの学問もあまり進歩していない、といえる。とはいえその間におおくのことを勉強した。・・・そしてこれらにかんして出版した本は単著で21冊、主要な共著・共篇をふくめると100冊をこえる。・・こうやってならべてみると何ともいろいろなことに触手をのばしたものである。・・手当りしだい、といってもいいほどにいろいろな学問分野に立入ってきたが、しいてこれらの研究や著述における共通点をさがすと『日本人の生活空間』ということがいえそうである。やっぱりわたしの学問における関心はそのへんにあったのかな、とおもう。そこであらためて『日本人の生活空間の歴史をまとめよう』とおもって書きはじめたのが本書である。書いているうちに『こういろいろな研究分野への越境もどうやら年貢の納め時だ』とおもったが、終ってみると『やっと日本文化のことが多少わかってきたのかな』という感想をもつ今日このごろである。・・・」(2005年11月)
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童謡のメッカ。

2009-02-23 | 安房
雑誌「Voice」2006年1月号に
第十四回山本七平賞発表が掲載されております。
受賞作は北康利著「白洲次郎 占領を背負った男」(講談社)。
その時の特別賞だったのが筒井清忠著「西條八十」(中央公論社)。
ちなみに、選考委員は加藤寛・中西輝政・山折哲雄・養老孟司・渡部昇一・江口克彦。その選考委員の選評が、雑誌に掲載されているのでした。
その選評の最初は加藤寛氏でした。そのはじまり
「私は千葉商大に移って以来、千葉は童謡のメッカだと聞いていた。『証城寺の狸囃子』は木更津で生まれ、『月の砂漠』は御宿でつくられ、『かなりや』は・・・」と、まずは特別賞の「西條八十」に言及しておりました。

そういえば、青木繁が明治37年の夏、房州富崎村字布良から、友人へと送った手紙のなかにも、こんな箇所がありました。

  童謡
  「ひまにゃ来て見よ、
   平沙の浦わァ――、
   西は洲の崎、
   東は布良アよ、
   沖を流るる
   黒瀬川ァ――
   サアサ、
   ドンブラコッコ、
   スゥコッコ、
         !!!」

こうして、手紙にわざわざ「童謡」としてカッコして歌詞を引用しておりました。
今日。古本で注文してあった渡邊洋著「底鳴る潮 青木繁の生涯」(筑摩書房)が届きました。そこにこんな箇所があります。

「梅雨明けの雷雨が上がった七月十五日の夕刻、繁、坂本、森田、そして福田ら不同舎の仲間四人は、霊岸島から房総館山行きの船に乗った。絵具箱、画架、床几、衣類など皆それぞれ沢山の荷物を持っている。・・・・・館山の港には午前八時頃着いた。艀(はしけ)で上陸すると、繁たちは海沿いに南へ歩きはじめた。館山町の外れまで来て海際の茶店に寄った。『氷あずき二つと氷水二杯!』繁は奥に向かって大声で叫んだ。森田は早速、青海原と南西海上に見える三原山の噴煙を描きはじめた。森田のスケッチが一通り出来上がったところで、ようやく茶店の婆さんが注文の品を運んできた。『布良まではどのくらいあるかね?』繁は氷あずきを口に含みながらたずねると、『三里はあるでや』と言って、奥へ引込んだ。・・・房総半島南端の布良に着いたのは、日はすでに西の海に没しようとしている頃であった。繁たちは、高島が紹介してくれた柏屋旅館の世話で、小谷という漁師の家に落ち着くことになった。当主の小谷喜六は、布良の網元であるが、好人物で世話好きなところがあり、これまでにもしばしば南房総の海に魅せられてやって来る風雅人たちの面倒を見ていた。」(p79~81)

ところで、朝日新聞千葉支局「房総のうた」(未来社)に「安房節」という箇所がありました。そこに、こんな情景が回想されております。

「昭和十年に、・・・・小高熹郎さん(80)らが安房節振興会を結成して普及に努めた。小高さんは子供のころをこう回想する。『私が十二、三歳のころ布良、相浜から毎日、魚を氷詰めにした四斗ダルを満載した大八車を、手ぬぐいで鉢巻きをした女たちがエッサエッサと掛け声も勇ましくひいて、館山港の桟橋目指して走って来た。夜行の定期船に積み込んだ後、帰りの空車が十台、二十台と続く、そして美しい声で安房節を次から次へと歌いながら家路に向かう彼女らの姿と歌声は、いまだに郷愁として耳の底に残っている』」(p22)

 ということで、安房節の引用

  あいよおい・・・・
  マグロとらせて、
  万祝い着せて、
  詣りやりたい、
  ああ高塚へ
   (中略)
  ああ港出る時、
  ひかれた袖が、
  沖の沖まで気にかかる、
  ち、ちげねえよ、
  そんそこだよ、
  島の鳥がおろろん、
  ろんかなあえ・・・・・

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杜甫。トホホ。

2009-02-22 | Weblog
漢文の前では、途方に暮れる私です。
けれども、日本漢字能力検定協会が、公益法人では認められない多額の利益をあげている昨今。漢文・漢詩などに興味をお持ちの方は根強くいらっしゃるのじゃないかとも思ってみるのです。それにつけても、漢詩が分からずにトホホホホ・・・ってな感じです。うん。2007年で漢字検定受験者数が272万人という裾野。ならば、漢詩からの橋渡しがあってもよさそうなものです。そこで、この新刊「杜甫」をとりあげてみようと思います。まずは、私のこの新刊の感想はですね。
絵画鑑賞のようにして、漢詩鑑賞というのもできるのだ。という手ごたえを感じました。たとえば、以前にマチス展というを、見に行ったことがあります。マチスの初期から晩年まで年代順にならんで展示しておりました。その時にですね。500円という別料金で携帯の音声ガイドというのをかりられた。ただ絵画の前に佇んで眺めているのと違って、イヤホンで時代背景を聴きながら、絵画を年代順に見て回れたのです。観光地のガイドさんがついて名所を案内されてゆくような、あんな感じ。けれども、音声ガイドは、絵に見入って聞き逃したら、一人でもって、同じ箇所を聞き返すこともできる。それにイヤホンで他人の迷惑にもならずに静かなものです。

漢詩鑑賞にも、そのような音声ガイドがつけば、きっと楽しめますよね。
じつは、この本NHKラジオ第二放送『古典講読』の時間に、全26回にわたって放送されたものなのだそうです。ラジオでの漢詩朗読こそ聴けないのですが、ガイドの宇野直人氏と声優・江原正士氏による会話体の進行は、美術館で絵画の間を歩いているようなテンポで杜甫の漢詩の間をすすむことができます。

まあ、私にしてからが、杜甫といえば「春望(しゅんぼう)」の
 国破れて山河あり
 城春にして草木深し
 時に感じては花にも涙をそそぎ
 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
・・・・・
ぐらいしか思い浮かばないのですが、この本はじつに全450ページ。
とても、ガイドなしには、つきあえない厚さです。

さて、漢詩「春望」についてです。杜甫が安禄山軍に捕まって長安で軟禁され。そんな中で作られた詩がこれなのでした。ガイド宇野氏の説明には、こうあります。「46歳の春の作です。前年8月に軟禁生活に入りましたので、年を越して二年目になります。杜甫としては社会のことも気になる、疎開先の家族のことも気になる、そういうもろもろの悩みをぶつけた詩です。」(p115)

このようにして、杜甫の年齢と、その頃の漢詩とを配置して、杜甫の人となりを語りながら、漢詩にわけいってゆきます。漢詩を読むのも自由。人となりを読み出すのもたのしめます。ここでは、杜甫の人となりを引用していきましょう。

まずは、興味深いこの箇所。

「杜甫は二十歳前後から十年ほど、途中、科挙に落第したりしながらあちこち修業の旅をしていました。それが一段落した三十歳前後の時、一族の本拠地洛陽に戻ります。そこで結婚して新居を建て、新しい生活を始めるのですが、まだ就職が決まっていません。」(p32)
「官職を求めて三十五歳で都長安に出て来た杜甫ですが、試験を受けたり、有名人に面会したりしてもなかなかうまくゆきません。」(p66)
「結婚して洛陽に住んでいた杜甫は、男の子三人、女の子二人をもうけ・・天宝十三年(754)、長安の南に新しい家を建てて引っ越しました。しかしまだ官職は得られず、生活は苦しいうえ、この時期、長安近辺はやたら飢餓があったんです。日照りや洪水、秋の長雨などに見舞われて、物資が足りなくなり、食べ物の値段が上がりました。そこで杜甫はつてを頼って奥さんと子どもたちを長安の東北に食糧疎開させます。幸い、奥さんの親戚がそちらで長官を勤めていたので、官舎を借りることができたようです。そしていったん杜甫は一人で長安に戻り、就職活動を続け、翌年十月、やっと官職を得ることができました。
科挙は落第したのですが、推薦で・・・。」(p84~85)

このあとに、安禄山の乱に巻き込まれる。
これがまあ、この本の四分の一まででして、
これから、波瀾万丈の杜甫の旅がつづくことになります。
では、杜甫と漢詩に興味がもてるようでしたなら、
おあとは、読んでのお楽しみということにいたしましょう。
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マチス展。

2009-02-22 | 短文紹介
岡潔の随筆に「数学と芸術」という短文があります。そのはじまりは

「数学の目標は真の中における調和であり、芸術の目標は美の中における調和である。どちらも調和という形で認められるという点で共通しており、そこに働いているのが情緒であるということも同じである。だから両者はふつう考えられている以上によく似ている。」
「しかし大いに違っている面もある・・・数学でも絵でも、仕事の途中である所まで描けたと思うと、そこでタバコを出して一服する。その場合、数学なら、ここまでこう書けたがこのあとはどう書いてゆくのかなあと思いながらノートを見ている。ところが絵かきの場合は、これまでのところはこれでいいのかなあと調べながらながめているらしい。つまり芸術では途中でタバコをのむとき、目は過去を向いているが、数学では目は常に未来を向いているので、うまく書けたかどうかはそれ以後どう書くかが決定する。それが真と美との根本的な違いではないかと思う。・・・・」
「最近、京都の国立博物館で絵を見る機会があった。研究室の一同を連れて行ってみると、以前から見たいと思っていた絵が掲げてなく、そのかわり新収品展というのをやっていた。まずいところに来たなと思ったが、それでも見て回っているうちにだんだんと室町時代の絵画に心がひかれていった。・・・室町時代は宋からじかに学んだのだろうが、実にいいなあというのが全体の印象で、非常な名品を見たわけではないが、それだけかえって時代というものがよくわかったように思う。博物館を西山に向かって出て来ると、さっきまでのざわざわした気分が落ち着いて、このあとはよく勉強できるだろうと感じた。芸術には、ちょうどラジオの波長を合わすように心を調節する働きがあるといえる。」

そして、この短文の最後も引用しておきましょう。
数学でフランスへ留学した岡潔氏の、帰り際のことが書かれておりました。

「芸術はまた、ときとして非常に精神を鼓舞し勇気づけてくれる。私は研究が行き詰まるといつも、こんな難問が自分にできるのだろうかと思うが、そのなかでも特に六番目の論文にかかっていたころは困り抜いていた。そのころ好んで読んだのはドストエフスキーの小説『白痴』や『カラマーゾフの兄弟』だったが、これらは一つページをめくると次に何が書いてあるかが全く予測できないという書物で、ある友人が『さながら深淵をのぞくようだ』と表現したとおりだった。そして、人がそういう小説を書いたという事実が、問題が解けなくてすっかり勇気を失っていた私をどれだけ鼓舞してくれたかわからない。これより少しさかのぼるが、フランスへ留学して開拓すべき土地を選択し、さてどう着手してゆくか方法に苦しんでいたころ、帰国まぎわにマチスの展覧会を見た。それは彼が学校で賞をもらった時代に始まり、彼の通った径路が一通り掲げられているもので、マチスの成長ぶりを調べようと思えばいくらでも細かく調べることができるほどだった。これを見ているうちに、文化の仕事というものは心境を深めていけばおのずから開けていくものだ、だからそうやっていけばよいのだ、と思ってひどく勇気づけられたのであった。その確信は帰国後さらに詳しく漱石や芭蕉の文学に接することによって強められ、今もなお変わっていない。」(学研「岡潔集 第一巻」p148~152)

これを読んでから何十年もたった2004年に上野の国立西洋美術館でマチス展がありました。見に行きました。ちなみに、ドストエフスキーは、いまだ読んでおりません。

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五厘銭の漱石。

2009-02-21 | Weblog
「坊つちやん」の第二章のはじまり

「ぶうといって汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。・・・見た所では大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。」

ここに「大森ぐらいな漁村だ」という箇所
岩波少年文庫「坊つちゃん」の注には、「大森:現在の大田区大森。当時は海に面しており、海水浴や漁ができた」とあります。そうか大森貝塚で知られるところですね。
ということでモースに登場していただきます。

 モースは1838年~1925年。そのうち1877~1880には東大で生物学を教えております。
ちなみに、夏目漱石は1867年~1916年。
ということで、そそくさと次にいきます。
ここで渡辺京二著「逝きし世の面影」(葦書房)からの引用。

「モースは滞日中・・・・広島の旅館に泊ったときのことだが、この先の旅程を終えたらまたこの宿に戻ろうと思って、モースは時計と金をあずけた。女中はそれを盆にのせただけだった。不安になった彼は宿の主人に、ちゃんとどこかに保管しないのかと尋ねると、主人はここに置いても絶対に安全であり、うちには金庫などないと答えた。一週間後この宿に帰ってみると、『時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋のない盆の上にのっていた』のである。もちろんそれは、日本に盗人がいないという意味ではないし、くすねや盗みがないということでもない。ヘボンは来日直後の手紙に『窃盗は普通で、なかなか大胆です。ここより長崎の方がひどいです』と書いている。・・・モースは、日本に数ヵ月以上いた外国人はおどろきと残念さをもって、『自分の国で人道の名において道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人が生まれながらに持っている』ことに気づくと述べ、それが『恵まれた階級の人々ばかりではなく、最も貧しい人々も持っている特質である』ことを強調する。」

さて外国から日本へ来た人の驚きを記したのは、
日本から外国へ留学した人の驚きを記したいからなのでした。
私が思いうかべるのは、漱石が留学から帰った際のエピソード。
夏目鏡子著「漱石の思い出」(角川文庫)で帰朝した直後の漱石を語る箇所。

「たしか三日めか四日めのことです。
長女の筆子が火鉢の向こう側にすわっておりますと、どうしたのか火鉢の平べったいふちの上に五厘銭が一つのせてありました。べつにこれを筆子が持って来たのでもない、またそれをもてあそんでいたのでもありません。ふとそれを見ますと、こいついやな真似をするとか何とかいうかと思うと、いきなりぴしゃりとなぐったものです。何が何やらさっぱりわかりません。筆子は泣く、私もいっこう様子がわからないから、だんだんたずねてみますと、ロンドンにいた時の話、ある日街を散歩していると、乞食があわれっぽく金をねだるので、銅貨を一枚出して手渡してやりましたそうです。するとかえってきて便所に入ると、これ見よがしにそれと同じ銅貨が一枚便所の窓にのっているというではありませんか。小癪な真似をする・・・・それと同じような銅貨が、同じくこれ見よがしに火鉢のふちにのっけてある。いかにも人を莫迦にしたけしからん子供だと思って、一本参ったのだというのですから変な話です。私も妙なことをいう人だなとは思いましたが、それなりきりでこのことは終わってしまいました。」(p112~113)

ここには、日本にいては、思いもしなかった側面からの、金銭にまつわる緊張を強いられた漱石像が垣間見られるようなのです。
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赤ふんどし。

2009-02-20 | Weblog
漱石の「坊つちやん」の第二章は、
こうはじまっておりました。

「ぶうといって汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見つめていても眼がくらむ。事務員に聞いて見るとおれはここへ降りるのだそうだ。見た所では大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ。続いて五、六人は乗ったろう。ほかに大きな箱を四つばかり積み込んで赤ふんは岸へ漕ぎ戻して来た。」


これは、坊っちゃんの第二章のはじまり。
丸谷才一著「闊歩する漱石」(講談社)に、こんな箇所がありました。

「『坊つちやん』の特色のなかで見落してならないのは、構成がじつにしつかりしてゐることです。起承転結といふか序破急といふか、とにかくそれがうまく行つてゐて、たるんだ所が一箇所もない。一気呵成にぐんぐん進んで行つて、小気味よく終る。すばらしい出来です。たぶん上海のホテルでだつたと思ひますが、夏目漱石について語り合つてゐると、井上ひさしさんが、『プラットフォームの清の姿が何だかひどく小さく見えた、で第一章が終るでせう。次がいきなり四国になつて、ぷうと言つて汽船が止ると赤ふんどしの船頭になる。うまいなあ。これがぼくだったら、坊つちやんに駅弁を何回も食べさせて、毎回その中身が何なのか克明に書くところです』と絶賛した。そしてわたしも、負けてはならじと、『ぼくだつたら坊つちやんを途中下車させて、京都見物をさせる』二人で謙遜くらべをして、漱石をたたへたのです。とにかく、本当に、息をつく間もないくらゐ快調に話が運んで、二百三十枚か四十枚が見事に完結する。ここはちよつとをかしいな、と思ふところが一つもない。恐ろしいほどの名作です。」(p15~16)


もうひとつ引用しましょ。
京極純一氏に短文「読書をしなさい」があります。
そこに、こんな箇所。

「中学生になり、高校生になっても、体をジッとさせ、ある時間続けて本を読む癖がついていないと、面白くもない本を読まされることは、実につらい苦行である。そのとき、途中でやめられないほど面白い本を一冊終わりまで読む。その経験をすると、大きくなってしまった体に癖がつく始まりになる。どの本がそれほど面白いか。ひとつおすすめは夏目漱石の『坊っちゃん』である。私のまわりには、中学生のとき『坊っちゃん』を読んだのが『読書』の始まりになった人が多い。」
(「世のため、ひとのため」毎日新聞社・p44~45)
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どどんどどんと。

2009-02-16 | 安房
夏目漱石の「こころ」。
そこに、房州が登場しております。

「kはあまり旅へ出ない男でした。私にも房州は始めてでした。二人は何も知らないで、船が一番先へ着いた所から上陸したのです。たしか保田(ほた)とか言いました。今ではどんなに変わっているか知りませんが、そのころはひどい漁村でした。第一どこもかしこも腥(なまぐ)さいのです。それから海へ入ると、波に押し倒されて、すぐ手だの足だのを擦り剥くのです。拳(こぶし)のような大きな石が打ち寄せる波に揉まれて、始終ごろごろしているのです。私はすぐいやになりました。しかしkはいいとも悪いとも言いません。少なくとも顔付きだけは平気なものでした。その癖彼は海へ入るたびにどこかに怪我をしないことはなかったのです。私はとうとう彼を説き伏せて、そこから富浦(とみうら)に行きました。富浦からまた那古(なご)に移りました。すべてこの沿岸はその時分から重(おも)に学生の集まる所でしたから、どこでも我々にはちょうど手頃の海水浴場だったのです。kと私はよく海岸の岩の上に坐って、遠い海の色や、近い水の底を眺めました。岩の上から見下ろす水は、また特別に綺麗なものでした。・・・」(下 先生の遺書・二十六)

初期の作品「草枕」も引用しておきましょう。

「昔し房州を館山から向うへ突き抜けて、上総(かずさ)から銚子まで浜伝いに歩行(あるい)た事がある。その時ある晩、ある所へ宿(とまつ)た。ある所というより外に言いようがない。・・・荒れ果てた、広い間をいくつも通り越して一番置くの、中二階へ案内をした。三段登って廊下から部屋へ這入ろうとすると、板びさしの下に傾きかけていた一叢(ひとむら)の修竹(しゅうちく)が、そよりと夕風を受けて、余の肩から頭を撫でたので、既にひやりとした。椽板(えんいた)は既に朽ちかかっている。来年は筍(たけのこ)が椽を突き抜いて座敷のなかは竹だらけになろうといったら、若い女が何もいわずににやにやと笑って、出て行った。その晩は例の竹が、枕元で婆娑(ばさ)ついて、寝られない。障子をあけたら、庭は一面の草原で、夏の夜の月明かなるに、眼を走らせると、垣も塀もあらばこそ、まともに大きな草山に続いている。草山の向うはすぐ大海原でどどんどどんと大きな濤(なみ)が人の世を威嚇(おどか)しに来る。余はとうとう夜の明けるまで一睡もせずに、怪し気な蚊帳のうちに辛抱しながら、まるで草双紙にでもありそうな事だと考えた。・・・」(岩波文庫「草枕}p32~33)
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青木独特の。

2009-02-14 | 安房
坂本繁二郎著「私の絵 私のこころ」(日本経済新聞社)というのがありました。
坂本繁二郎氏は明治15年(1882)生まれ。そして昭和44年(1969)7月に亡くなっております。その亡くなった年の5~6月にかけて日経の「私の履歴書」を寄稿したのが、この「私の絵 私のこころ」。ということで、最晩年の絶筆として口述筆記されたものだそうです。
文中にこんな箇所もあります。
「滞仏三年目の大正12年9月1日、関東大震災の報はパリに届きました。不安な話題が続いた1年、予定のパリ生活が過ぎたのです。私にとっては長い長い3年間と思えました。大正13年の夏、3年間のパリ生活を終えて、マルセイユから香取丸に乗りました。」(p78)
ちなみに「大正10年7月末、私は、滞欧中は久留米に帰る母や妻薫、長女の栞、それに二つになっていた二女の幽子を東京駅から見送り・・」とありますので、家族の心配はなかったようです。
ここに青木繁への言及がありますので、ところどころを引用したいと思います。

「明治32年、青木は中学校の数学教師と衝突して退学届をたたきつけ、身寄り一人ない東京へ『絵の勉強する』と言い残して去って行きました。『坂本、一緒に行こう』何度も誘う青木の言葉と、絵では後輩のはずの青木が一足先に上京することへの微妙な心情で大いに揺れ動かされたことが昨日のことのようです。それまではさほど意識していなかった青木繁の存在でしたが、上京する彼を見送ってからは、心のすみに、藤村の若菜集一冊だけを手にして去って行った彼の姿が強く印象に残り、・・・そのころは九州出身の黒田清輝や久米桂一郎がはなやかに画壇の話題を集め、久留米あたりまでニュースが流れ伝わってきました。」
「兄の死であきらめていた上京の夢は前にもましてつのり、それには目前に迫った徴兵検査で不合格になりますよう、母の許しが出ますよう祈る気持ちの連続でした。検査は乙種でした。ちびが幸いして、背丈が規則の百五十三センチより三ミリたりなかったのです。・・・翌年の明治三十六年から身長基準は一寸下げて五尺までになりましたから、あと一年おそく生まれていたら日露戦争にかり出されていたでしょう。久留米連隊は強いことで知られ、現に私の友のなかに遼陽の激戦で戦死したものがたくさんおります。」

そして、徴兵検査のために帰っていた青木繁と上京することになります。
ちなみに、青木繁は乱視のために徴兵検査に落ちたとあります。

「不同舎は本郷追分町にありました。宿舎は小山先生の借家を塾生数人が協同借用したのでタダ同然。・・・周囲のすべてが絵の道一途で、大体だれもが親の反対を押し切ってきているだけに、国からたっぷり仕送りがくるなんて者はいなかったでしょう。学費どころか食べることに追われて、夜は人力車を引いたり、夜店の番などしてこつこつ絵を勉強していました。しかも絵描きなどは、いまと違って社会の半端者扱いの時代ですから、ますます塾生同士の友情は深まり、いろいろと助け合ったものです。」

写生旅行についても記述がでてきます。

「上京した年の十一月、私は青木と東京美術学校西洋画科本科に学んでいた丸野豊との三人で信州方面に写生旅行に出たことがあります。あり金は汽車賃にとっておき、テクれるだけテクり、夜は野宿同然の無銭旅行でした・・・」

つぎの明治37年夏の布良海岸への写生旅行も語られているのでした。

「青木には、秋の白馬会展を目ざして、日本の古典からヒントを得た『海の幸』『山の幸』の二部作をものにする野心が初めからあったようです。あるナギの午後、私は近くの海岸で壮大なシーンに出会いました。年に一、二度、あるかなしやの大漁とかで船十余隻が帰りつくや、浜辺は老いも若きも女も子供の、豊漁の喜びに叫び合い、夏の日ざしのなか、懸命の水揚げです。私はスケッチも忘れただ見とれるだけの数時間でした。夜、青木にその光景を伝えますと、青木の目は異様に輝き、そこに『海の幸』の構想をまとめたのでしょう、翌朝からは大騒ぎのうちに制作が始まりました。
他の三人はもっぱら手伝い役。こちらの迷惑などはお構いなしで、モデルの世話だ、画材の買い入れだと追い回されました。青木独特の集中力、はなやかな虚構の才には改めて驚かされました・・・」(p39)
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初編だけでも。

2009-02-14 | Weblog
北岡伸一著「独立自尊」(講談社)は、
脇に「福沢諭吉の挑戦」と書かれておりました。

パラパラとめくっていると、
福沢諭吉の「学問のすすめ」について書かれた章がある。
そこに、こうありました。
初編(明治五年二月)。
「『学問のすすめ』は全部で17編からなっている。
しかし最初からそういう構想だったわけではない。
おそらく最初は初編だけのつもりだったのが、
好評だったため、次々と編が重ねられた。」(p147)

私みたいな横着者にとって、すぐに思い浮かぶのは、
そうか。初編だけ読んでもいいのだ。ということでした。
ちなみに、その初編の最後には、こうあるのでした。

「こんどわたしの故郷の大分県中津に学校を開くにあたり、学問の目的を書き、同郷のふるい友人に見せるためにこの書を編んだ。これを見た人が言うには、ただ中津の人に示すだけでなく、ひろく社会へ広めたほうが、はるかに有効だろうと言うので、ここに慶応義塾の活版で印刷し、同志に読んでもらうことにした。」(檜田昭彦・現代語訳)
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有難い。

2009-02-13 | Weblog
日下公人著「逆読書法」に、こんな箇所がありました。

「近ごろは、ほんとうにありがたい時代で、専門教養書が次々に出版されます。読んでみると・・・そうか、それならわかると目からウロコが落ちるようです。子どものころに持った疑問を生涯追及し続けてその結果を発表してくださる人が多くて、本好きの人にはこたえられない時代です。子どもの心の疑問は多いほど人生が実り豊かになります。」(単行本・p75)

昨年読んだ新潮新書の一冊。上田篤著「庭と日本人」。
読み甲斐があり、再読しようと思っていて、そのままになっておりました。
ところで、日下公人氏は1930年生まれ。
そうして、上田篤氏も1930年生まれ。
まあ、生まれ年が同じだからどうこうじゃないのでしょうが、
1930年というのが気になります。

それでもって、上田篤氏の「庭と日本人」を読んで、私にはとても
よい紹介の書評などできそうもないなあ。と感嘆しておりました。
せめて、第一章の「ストーンサークル 太陽をのぞむ」の一節ぐらいは
引用しておこうと思ったわけです。
ということで、とりあえず一箇所引用。

「もちろん、世界に太陽を尊重する国々はおおい。
しかし国旗を一つの例にとっても、太陽がかならずしもいちばんおおく採用されているとはかぎらない。世界に200ほどある国のなかで、太陽を単独に国旗として図案化しているとおもわれる国は日本をふくめて13ほど、いっぽう星を単独に図案化している国は49もある。さらに星と月を図案化している国をふくめると60にもおよぶ。つまり太陽より星を国旗に採用している国が断然おおいのだ。というのも、世界のおおくの国々では太陽より星が生活に密着しているからだろう。熱帯の砂漠では人々は夜しか動くことができず、山がない国では太陽をみても方位をとらえることができない。すると日本は太陽の恩恵をうけられるだけでなく、山があることによって太陽の動きを観察して、方位や季節、時刻などをしることができる。日本人が太陽を生活の原点とするはずだ。太陽をかたどった日の丸を国旗とする理由である。
・ ・・古くから太陽をまつるための祭祀場が日本各地にもうけられた。そこが人々の離合集散の基点となり、国土における人々の移動ネットワークの原点となった。・・・」(p50)

これが第一章。これから以降の章が、さらに「庭」をめぐる追及の足跡をたどることができるのでした。
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考える牛。

2009-02-11 | 安房
谷口治達著「青木繁 坂本繁次郎」(ふくおか人物誌4・西日本新聞社)をパラパラとめくっていたら、こんな箇所がありました。


「大正元年と名を変えたその年の秋の第六回文展に坂本(繁次郎)の『うすれ日』と題する絵が出品され、人々にしみじみと語りかけた。小説家夏目漱石もこの絵の前に足を止めた一人で、次のような評文を東京朝日新聞に寄せた。」(p161)
以下は夏目漱石の評文。

「『うすれ日』は小幅である。牛が一匹立っているだけである。自分は元来牛の油絵を好まない。その上この牛は自分の嫌いな黒と白の斑(ぶち)である。その傍には松の木か何か見すぼらしいものが一本立っているだけである。地面には色の黒い夏草が、しかも漸(よう)との思いで少しばかり生えているだけである。その他は砂地である。この荒涼たる背景に対して自分は何の詩興も催さないことを断言する。それでもこの絵には奥行があるのである。そうしてその奥行きはおよそ一匹の牛の寂寞として野原に立っている態度から出るのである。もっと鋭く言えば、何か考えている。『うすれ日』の前に佇んで、小時(しばらく)この変な牛を眺めていると、自分もいつかこの動物に釣りこまれる。そうして考えたくなる。もし考えないで永くこの絵の前に立っているものがあったら夫(それ)は牛の気分に感じないものである。電気にかからないようなものです。」

以下は、この本の著者・谷口氏がつづけております。

「まずは絶賛と呼んでいい文章である。短い文で坂本の実像をよく捕えている。牛とそれを描いた画家が重なって一元となった感じである。しかも反省的な時代風潮とも一致している。坂本はこの作品で開幕したばかりの大正画壇に静かにデビューしたのである。後日『馬の坂本』と呼ばれるが、大正時代はむしろ『牛の坂本』だった。たくさんの牛の絵を描いている。同年夏、千葉県東海岸、夷隅郡御宿を写生旅行した坂本は、荒涼とした太平洋岸で放し飼いのこの絵の牛に出会った。漱石のこの文ゆえに『うすれ日』は『考える牛』と別称され、また『考える牛』は坂本自身を指す意味も持った。沈思黙考、考えながら描き、描きながら考える姿が仲間たちの間でも印象的で『哲学画家』とも呼ばれたのだった。・・・・
『うすれ日』を描いた御宿は青木が『海の幸』を描いた布良の北方である。千葉県太平洋岸で描いた絵が二人の出世作となった。しかも一方は勇壮豪華、一方は沈思幽遠、好対照の作である。」(~p163)
 
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あつといふ間。

2009-02-10 | Weblog
読売歌壇・俳壇は毎週月曜日に新聞に掲載。
昨日の月曜日は休刊日で、読売新聞火曜日に歌壇・俳壇が載っておりました。
昨日のブログに続いて、2月10日の読売新聞に元旦・新年を探してみました。

元旦のあつといふ間に暮れゐたりはや一年の一日を欠く
              久喜市 深沢ふさ江

この小池光氏の選評は
「本当に、まこと本当にこの通り。もう今年の一割は終わってしまった。歌は結句の『欠く』が的確に的を射貫く。」

冬至きぬ明日より日脚あづきつぶほどづつ伸ぶと母は言ひたり
              横浜市 小池詔明

とどきたる餅の重さよ遠き日の越後をおもい腰かがめ受く
              秩父市 内田定男

以上の2首は岡野弘彦選。

七十のわれも団員出初式   別府市 河野靖朗

初日受く一草一樹われもまた  町田市 枝沢聖文

以上の2句は宇多喜代子選。
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数え年だ。

2009-02-09 | Weblog
対談は何より分かりやすいのがいいですね。
渡部昇一・谷沢永一対談「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)にこんな箇所がありました。

それは太宗の言葉からの連想なのですが、ここでは、気になった箇所だけ引用します。

【渡部】 ・・しかし考えてみると、日本では誕生日を祝わないで命日ばっかり祝っていたんじゃないですか?
【谷沢】 あぁ、そうですね。
【渡部】 わたしの子供の頃に誕生日という観念はなかったですね。むしろ、今日はお祖母さんが死んだ日、今日はお祖父さんが死んだ日と、命日ばっかりでした。そのほうが太宗の感覚には合いますな(笑)・・・・


う~ん。「命日ばっかりでした」というのは、そうかもしれませんね。
それに昔は、数え年で、新年に、皆で歳をとっていました。

読売新聞の読売歌壇2009年2月2日の岡野弘彦選を読んでいたら、
あらためて、年末年始についての歌が並んでいたのでした。
それが初夢・元旦・元朝・歳くるる・・と並んで重層感が味わえました。
ということで、あらためて、このブログにも引用させてもらいます。

岡野弘彦選のはじまりから

またひと日わが近づけば亡きひとも寄りくるものか初夢にみゆ
                  東京都 佐野はつ子
【評】異色ある初夢の歌として心に残る。
作者は先に逝った大切な人との距離が一日一日近づいてゆくと感じている。
歳が改まる夜は特にその思いが深く、初夢も格別である。


富士の方にむかひて着初めする母より継ぎし元旦の習ひ
                古河市 染野光子
【評】初めて聞いた元旦の風習だがなるほどと納得がいく。
富士山の方位に向かって、和服の襟元をきりりと引き締め
元朝の装いをする。富士の見える地方の美しい習わしだ。

雹が降るやまとたけるを打ち据ゑしかの雹がふる。歳くるる夜
                大阪市 室内芳月
【評】 歳末の夜の雹(ひょう)と、やまとたけるを死に至らしめた
伊吹山の神の氷雨とを、一首の中で結びつけた所に、詩の力が生まれた。


まつすぐに居間の奥までさし入りて明日より徐々に日は伸びゆかむ
               東京都 根本亮子

光る海わづかに見えて山畑の道はつづけり祖(おや)ねむる墓へ
               高槻市 佐々木文子

踏み込めばさくさく音の立つならむ畑いちめん朝霜ひかる 
               つくば市 丘佳子

亡き夫の倍ながらへて現身は夫の知らざる曽孫とあそぶ
               南足柄市 山田和子

エンジンの凍りつく戦車火であぶり酷寒に耐へし上富良野戦車隊
               朝霞市 伊東一憲

亡き父の筆とりいだし雨の夜に気を入れて書く三体唐詩
               常総市 渡辺守

収穫の直前に雹ふりしとの詫状そへて林檎とどきぬ
               藤枝市 北泊あけみ



うん。おもわず、選の10首をすべて引用してしまいました。
そういえば、これら詠っている方は、
どなたも数え年で歳を重ねた世代かと思われます。
さて、この10首のなかに、

 まつすぐに居間の奥までさし入りて明日より徐々に日は伸びゆかむ
               
というのがありました。
思い浮かぶのは、上田篤著「庭と日本人」(新潮新書)。
そこにこんな箇所があります。

「じっさい、むかしの日本人は元旦の朝早くおきて、家族一同が庭にならんで初日の出をおがんだ。曇りの日も東にむかって拍手をうった。・・ではいったい日本人は、なぜ元旦に太陽をおがむのか?それは元旦が一年の初めだからである。初めの日というわけは、一日の太陽の光がいちばん弱くなる日のつぎの日だからだ。それから太陽は日一日と光を強めていく。」
 このあと、科学的には太陽の光がいちばん弱いのは大晦日ではないという具体的な話になるのですが、それは省いて、その次を引用します。
「いっぽう日本人は、律義にグレゴリオ暦をまもって元旦を太陽の復活の第一日と信じ『太陽の成長・変化にあわせて人間も成長する』とかんがえた。かつて日本人の年齢の数え方をみるとわかる。全国民は一月一日にいっせいに一つ歳をとった。数え年だ。つまり元旦は『全国民の合同誕生日』だった。だから正月には全国民がたがいに祝福しあった。子供もお年玉をもらった。それ以外に誕生日をいわう習慣などなかった。個人の誕生日がきても歳をとらなかったからだろう。しかしいまは西洋個人主義にしたがい、すべて満年齢でかぞえるようになった。そこで個人の誕生日が意味をもつようになった。それとともに正月の意味はうすくなった。にもかかわらず、いまなお正月が日本人にとって最大の祝日になっているのは、時代がかわっても日本人の心の奥ふかくに根強い『太陽信仰』があるからではないか?江戸の俳人・向井去来は『正月を出してみせうぞ鏡餅』という句をつくったが、大きくて白い餅は正月のシンボルであるとどうじに太陽のシンボルだった。というのも『鏡』は日本神話で、アマテラスという太陽神の象徴とされているからだ。」(p27~31)

ちなみに、雑学ですが、
岡野弘彦氏は1924年生まれ。
谷沢永一氏は1929年生まれ。
渡部昇一氏は1930年生まれ。
上田篤氏も、1930年生まれ。
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カンバス。

2009-02-08 | Weblog
雑誌「太陽」1974年10月号「画家青木繁」に
福田蘭童が「父、青木繁と『幸彦像』」と題して書いております。
その前半部分を引用。

「父、青木繁は『幸彦像』という油彩を描き残している。わたしが三歳になったときの肖像画であるが、そのころの父は幸福の絶頂期にあったといっていい。
明治37年、繁は房州布良の海岸で『海の幸』を描き、
38年には『日子大穴牟知命』を茨城県の川島で描き、そして一子、幸彦を生んだ。
39年には上京して『女の顔』を描き、40年になって栃木県の福田家へ行き『わだつみのいろこの宮』の制作に没頭したのであった。
わたしの母である福田たねの父親は漢学者であり、芸術に理解があったので、繁のために資材を惜しまずに提供した。カンバスは日光近くの鹿沼までの八里の道をあるいてゆき製麻会社から麻の布を買ってきたのである。繁はその麻布にゼラチンを塗り、思うままの大きさに切りとってはカンバスとしたのであった。むろん、わたしを描いた『幸彦像』もその一部分であるこというまでもない。ところが、なんせ洋服地にする麻布であるために布目は荒く、表面に描いた絵の具の油が裏側にしみだしてしまう。
『海の幸』にしろ『いろこの宮』にしろ、『日本武尊』にしろ、その裏側はみな、油がにじみだして黒ずんで見える。また表面もモロくなっていて、手荒らに取り扱うと絵具がはげ落ちてしまう危険をはらんでいる。」(p88)

このカンバスについては、面白いテーマとしてあります。
画家である菊畑茂久馬著「絵かきが語る近代美術」(弦書房)を読むと、それについて面白い記述にぶつかります。ということで、以下は、菊畑氏の本を紹介。

う~ん。いろいろと紹介したいのですが、
まずは、この箇所。

「油絵の創始者と言われるフーベルト・ヤン・エイクの『結婚式の肖像』も板絵、レオナルド・ダ・ビンチの『モナリザ』もポプラの板です。
ところが、1488年ポルトガルのエンリケ航海王子が喜望峰を発見してから16世紀以降は大航海時代に突入します。巨大な帆船が続々と造られ、そこに登場したのが板よりも軽いカンバスです。海上交通の発達は帆布の発達でもありました。少々の暴風雨、潮風、大波を何年かぶっても、びくともしない帆布が生れました。・・・板になり、もっと軽い麻布になって絵は世界中に流通するようになり、大量生産され、商品化され、絵かきも少しは食えるようになったというわけです。」(p108)

カンバスといえば、菊畑氏が高橋由一を語る箇所は魅力なのです。
それは、また今度。
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