和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

昨日は。

2023-08-31 | 地震
昨日は、一年前からの依頼だった
関東大震災から百年というテーマを、
自分なりに見つけて10数人の前で発表しました。

公民館講座です。市と周辺の市とから参加された一般の方を前に
百年前の震災のその年に、貴島教諭が作詞した『復興の歌』へと
新しい曲をつけてもらい、分かり易くたどれるよう工夫しました。
2行づつ、解説をしながら、歌って、全部で8番までありました。
最初の5分は、高校の先生に写真から何から当時の様子を説明して頂き、
残りを、今は文字に残っているだけで誰も歌ったことのない歌を、
新しい曲にのせて、最後に全員が立って8番まで歌いました。

はい。1年間何をしようかと、温めていたテーマなので、そのぶん
楽しめました。1時間はそれで過ぎ、あとは50分ほどで学校散策。
校舎の屋上へとあがり、景色を堪能。そして農場をめぐりました。
話せて、しかも歌詞を読むだけじゃなく、皆で歌えよかったです。
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房総半島の内と外。

2023-08-26 | 詩歌
千葉県の房総半島は、おおざっぱにいうと、
館山市が東京湾側の内房。鴨川市が太平洋の外房。
太平洋の外房(そとぼう)は、日の出が見れて、
東京湾の内房(うちぼう)は、富士に沈む日の入り。
館山にある千葉県立安房高等学校「創立八十年史」(昭和58年3月1日)に
校歌にまつわるこんなエピソードがありました。

「岡本(作次郎)先生の思い出については数々ありますが、
 其の内の一つ、私共3年か4年(大正4年)の暑中休暇に
 家庭訪問に見えられて鴨川に一泊せられ、

 翌朝早く起きて海岸に出て遥か太平洋の彼方から
 燦々たる光芒を放って躍り昇る日の出を拝し感激して草稿を練り

 『 晨(あした)旭日を太平の・・・ 』の校歌を発表されました。

 先生はその後その時の感激を目を細くして
 ドジョウひげをなぜながら、にこやかに語られた温容は、
 今でもはっきり瞼に浮んで来ます。」(p178)

その校歌はどのようにはじまっていたか

        旧校歌    作詞 岡本作次郎(安房中教諭)

   晨(あした)旭日(あさひ)を太平の
         洋(うみ)の彼方に迎へ出で
   
   夕 、夕陽を東海の
      富士の高嶺に送り入る

   ああ 美はしの安房の国
   ああ 懐しの安房の国


はい。これが一番で四番までありましたが、
さて、どのような曲で歌われていたのかがわかりません。


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八月 遊ぼうと働こうと

2023-08-25 | 詩歌
「富士正晴詩集1932~1978」(泰流社・1979年)。
そこに、サンケイ新聞に連載された各月の詩が載っていたのでした。

     ギラギラ八月   富士正晴(1962年8月1日)

 むくむくのぼる入道雲も
 波ごとに日光を撥ねる海も
 山も、森も、林も、道路も、土も
 草も、木も、車も、建物も
 わけてやたらと動き回る人間共が
 ギラギラと発光す八月、ギラギラ八月  

 ・・・・・・


はい。こうはじまる詩があったりするのですが、
サンケイ新聞の1964年8月1日に掲載された詩も引用。

     八月・虫・人   富士正晴

  遠くの遠くのはるかな所で
  蝉がじいじいとないている
  と、近くの大木の幹で、電柱で
  一せいにがなりたてる
  トランジスタを運び歩くガキ共さながら

  石ころのごろごろした庭を
  蟻が黙々と行列していく
  黙々と? そうではない
  奴らのせわしない雑談が聞こえないだけだ
  一列に連なり登る登山者の映画みたいに

  ・・・・・・・・・・・・

  蟻そっくりにぶつぶついいつつ生きてゆく
  八月 遊ぼうと働こうと人間は虫みたい見える

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富士正晴の雑文集。

2023-08-24 | 本棚並べ
富士正晴著「狸の電話帳」(潮出版社・1975年)のあとがきに、
この本は「五冊目のわたしの雑文集」であるとありました。

これが気になり、5冊の雑文集をあつめてみることに。
はい。私は雑文集というのが好きで、まして
富士正晴氏などのは、雑文の方が生き生きしてるんじゃないか。
そう思うところがあるからで・・・。

昨日。その一冊が届いている。今朝ポストを覗くと
新聞といっしょにありました。
富士正晴著「八方やぶれ」(朝日新聞社・1969年)。
カバー絵、表紙・扉カットは、富士伸子とあります。

パラリとめくると、蚊が押し花みたいに
本の頁にはさまり、圧死してる(笑)。

この本の最後の文は「私の絵とその応援団」。
はい。ここから引用してみることに。

「高等学校を中退して、花鳥画家の榊原紫峰の長男の家庭教師を
 していた時、君、絵かきにならぬかと一度だけいわれた。
 二度といわれなかったところを見ると、
 余り見込みもなかったのではあるまいか。」(p263)

「・・紫峰氏の一言に勇奮して、絵にいそしむということはなかった。」(p264)

「戦争から帰って、板が残っていた限り、版画をほりつづけ、
 板がなくなったらやめた。」(p264)

「それと前後して、何をどう思ったのか、
 京都で二回版画展をひらいた。・・・

 二回は進々堂というパン屋の喫茶室で。
 どちらも版画を入れる額を借りるのに苦労した。
 
 伊東静雄、上野照夫、大山定一といった
 戦前からの知り合いが、文章をかいて応援してくれた。 」

「このあたりの記憶はいまは大分おぼろ気である。酒が配給制の時代であった。」

「何のときか大洞(正典)の家へ皆で寄って酒をのんだことがある。
 酔っぱらって、わたしは襖に絵をかきなぐり、
 吉川幸次郎は書をかいた。貝塚茂樹が後から、
 こうかけ、ああかけと指図していた記憶がある」

「数年前、或る日突然に、わたしの画展を東京でやって、
 びっくりさせてやろうという企てが起り、
 わたしは応援団つきで絵をかかされた。

 多田道太郎、山田稔、杉本秀太郎といった・・酒をのみながら、
 シラフで絵をかいているわたしを鼓舞激励するというわけである。

 何カ月かかかり、絵がたまると、桑原邸でそれのよりわけがあり、
 作品名は貝塚茂樹が片っ端からつけて行った。

 文春画廊で一週間足らず興行したこの画展は、その受付は豪華陣であり、
 桑原、貝塚、鶴見、吉川・・、当のわたしは照れに照れて、
 東京へも行かなかった。・・   」(p266)

はい。雑文の楽しみを味わえた気分になります。
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讃岐の国の源太夫が。

2023-08-22 | 思いつき
鴨長明『発心集』上の現代語訳をめくっていたら、
『讃岐の国の源太夫がにわかに発心し、往生した事』(p320~323)
というのが載っておりました。

そういえばと、岩波少年文庫の杉浦明平
『遠いむかしのふしぎな話 今昔ものがたり』をとりだす。
この一番最初が『悪人往生』と題して、
この讃岐の国の源太夫の話になっておりました。

うん。鴨長明『発心集』と「今昔物語集」とが
この話を、どちらの選者も選んでいたことになります。
そして、杉浦明平氏は少年文庫の一番最初にもってきておりました。

どうもこの話は当時の人々にとっては印象深く、
有名な語り草になっていたのかもしれないなあ。

ちなみに、岩波少年文庫のこの『今昔ものがたり』を、
わたしは、最初の文だけを読んでおしまいにしておりました。
その最初の数ページが、何十年かたって『発心集』と結びつくとは。

ちなみに、この岩波少年文庫のさし絵は、太田大八。



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たわいのない話と『発心』

2023-08-21 | 重ね読み
鴨長明の「発心集」(角川ソフィア文庫・上下巻)。
その第一の現代語訳は、こうはじまっておりました。

「昔、玄敏僧都という人がいた。奈良の興福寺の
 大変立派な学僧だったが、俗世を忌み嫌う心は非常に深く、
 寺中の付き合いを心から嫌っていた。そんなわけで三輪川の
 ほとりに、小さな庵を結び、仏道修行のことをいつも
 心に思いながら日を暮らしていた。」

 「・・・平城天皇の御時に、大僧都の職をお与えになろうと
  されたところ、御辞退申し上げるということで、こんな歌を詠んだ。

  三輪川の清き流れにすすぎてし衣の袖をまたはけがさじ

  ・・・そうこうしているうちに、弟子にも、また下仕えの者にも
  知られないで、どこへともなく姿を消してしまった。・・・   」


はい。このように、姿をくらますエピソードが、いろいろと出てきます。
あらためて『序』の現代語訳をみますと、こんな箇所がありました。


「・・ただ自分の身の程を理解するのみで、
 迷愚のともがらを教え導く方策などは持っていない。

 教えの言葉は立派であるのだけれども、
 それを理解して得る利益(りやく)は少ないのである。

 それゆえ浅はかな心を考えて、とりわけ深い教理を求めることはしなかった。
 わずかに見たり、聞いたりしたことを記しあつめて、
 そっと座のかたわらに置くことにした。

 すなわちそれは
 賢い例を見ては、たとえ及び難くとも一心に願う機縁とし、
 愚かな例を見ては、自らを改めるきっかけにしようと思うからである。

 ・・・ただ我が国の身近な分かり易い話を優先して、
 耳にした話に限って記すことにした。それゆえ
 きっと誤りも多く、真実も少ないかもしれない。・・・

 ただ道端のたわいない話の中に、
 自らのわずかな一念の発心を楽しむばかりというだけである。 」
                     ( p249~250 )

発心集の最初の方には、高僧がどこかへ消えてしまう話がつづきます。
それを弟子たちが探し出しては・・・。という感じで話がつづきます。

ちょうど、富士正晴著「狸の電話帳」を身近に置いてあるので、
それを開き、連想がひろがりました。こうあります。

「わたしは幼少のころからずっと、教えられることを習うことが
 全く下手であった。・・何とか辛抱しつつ旧制高校までは入ったが、
 ついに二年生にもなれず中退した。・・・・

 この世に生きて行くことに役立つような事柄を、
 従ってわたしは、学校で受けとったような気がしない。
 
 小学校で教えてくれた修身や、小学校の教師であった父親の
 教訓などに大抵反撥していたのだろう。一向にそのようなもの
 から影響を受けとっているような気がしない。 」

このあとに、ひとつのエピソードが語られておりました。

「 小学校の四年位の時、小川にかかっている鉄橋を
  中程まで渡って来たところ、向こうから電車がやってきて足がすくんだ。

  あたりはずっと見とおしのきいた平地だったから、
  向こうから電車のくるのは見えていたと思う。・・・・

  足がすくんだまま小川を見下ろしてみたが飛び下りる勇気が出ない。
  といって走り戻ることにしても間に合いそうにない。
  電車は近づきつつジャンジャン警報をならす。

  後をふりかえった時、人が岸のレールのそばにやって来たのが判った。
  そのころは着ているもので職業が判った。その土方風の人は
  
  わたしをみるとすぐにヒョイヒョイと鉄橋の枕木を
  地下足袋でわたって来て、わたしを後ろ抱きに抱いて
  岸まで運び、レールの外へ出して別にものもいわずに
  さっさと立ち去っていった。わたしは礼もいわなかった。

  こういうことの方がわたしの生き方に影響を与えているような気がする。
  後になって、火がついてあわてている小学生の着物を、
  素手ですぐさまもみ消したことがあったが、
  ( 熱があろうなどということは全然思いもしなかった )
  
  これはあの土方のおっさんの行動の影響であったなとすぐ気がついた。」
                       ( p9~10 )


私の場合はどうだったのか。助けられたことはかず知れず。
助けられたことを片っ端から忘れ去っていたと気づきます。
そしてちっとも、『一念の発心』へつながりませんでした。
うん。今からでもおそくはないか。
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盛岡高農の宮沢賢治。

2023-08-20 | 重ね読み
古本で雑誌太陽の一冊を200円で購入。
写真を見ながらパラパラとひらきます。

雑誌太陽(平凡社)の太陽コレクションとなっていて、
「士農工商 仕事と暮らし江戸・明治Ⅱ(農民) 」とあります。
1975年の雑誌特別号で、当時定価1900円となっております。

パラパラめくると、なぜだか賢治のあの写真がある。
黒っぽいコートらしきものをはおり。帽子をかぶり、
後ろ手に、下前方の畑の様子でもみているような姿。

真壁仁「東北農民の仕事と暮らし 寒冷の風土のなかで」。
という文のなかに、その写真がありました。

賢治の22歳のときの短歌が引用されておりまして、
そのあとの文を引用しておきます。

「 盛岡高等農林学校本科を卒業し、
  ひきつづき関豊太郎教授について、
  地質、土壌、肥料の研究をすすめていた。

  関教授は日本でもっとも早く、冷寒凶作の原因として
  寒流卓越の説を唱えた人で、それは明治40年のことである。

  盛岡高農が全国のどこより早く明治38年、
  農学博士玉利喜造を校長に創設されたのは
  冷害を克服する稲作技術を東北にうちたて、
  一大食糧供給地をつくるためであった。

  宮沢賢治は冷害克服を研究課題とする学校に学んだのだが、
  
  すでに幼少時に遊んだ花巻の町にある松庵寺の門前には、
  宝暦、天明、天保の餓死者を供養する石碑がずらりと並んでいた。
  ・・・   
  その後賢治が農業農民問題にとりくむことを
  うながした原風景かもしれない。      」( p43 )


とかく、文学的に傾きがちな賢治像なのですが、
風土農民視点からの、賢治像を知らされました。
はい。真壁仁氏の宮沢賢治の本を読みたくなる。


 
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一人やったら厭やろから。

2023-08-19 | 本棚並べ
200円の古本に、
富士正晴著「狸の電話帳」(潮出版社・1975年)があった。
雑文集なのですが、装幀・谷川晃一。挿画・富士正晴。
最初は気づかなかったけど、薄い和紙が挟まっていて、
栞サイズ和紙に「濱田哲様 富士正晴」と、筆の署名。

うん。いっしゅん、夏の暑さを忘れました。
はい。署名本なんて私の趣味じゃないのですが、これは別でした。
そのままの、水墨画のような味わいに、手をひたしているような
( 何をいっているのやら )。

はい。せっかくこの本をひらくのですから、
ちょいと引用しなくちゃね。
「司馬遼太郎夫婦との交遊」と題する3頁ほどの文。
これは( 「司馬遼太郎全集」月報9・1972年5月)からです。
そこから引用。富士さんが電話でたずねる話からはじまっています。

「・・・司馬遼太郎は大抵のことは即座にさばき、
 さばけぬ時はわざわざ調べてくれる。親切この上もない。
 
 しかし、時には溜息をつく。
 『 あんたみたいに万里の長城をこっちに飛び、あっちに飛び
   するようなことを聞いてくるのは閉口するなあ 』
 
 こう、時にはいうわけである。
 司馬遼太郎から何かを質問してくることはほぼない。

 ・・・・ごくたまの司馬遼太郎から富士正晴への質問電話は
『 あんたこのごろ一向に電話かけてこんけど、病気してるのとちがうか 』
 とか、
『 明日、表彰式にちゃんと出るやろな。
  一人やったら厭やろから、ぼくも会場へ行って
  控え室におったげるわね。こなあかんで 』

( わたしが照れくさがって表彰式へ来ないのだと思っているのだ。
  そのくせ、ずっと前、同じ賞を彼が受けた時、彼は行かずに
  妻君に代行させた。妻君はいまだに、思い出すのもいややわ
  といっている。 )

 とにかく、司馬遼太郎の電話は優しいのだ。
 敬老の念はなはだあついのやら、
 幼児をお守りしてくれている気なのやら 
 判らない。半々であるかも知れない。   」( p236~237 )


ちなみに、あとがきには、こんな箇所が

「・・五冊目のわたしの雑文集がこれである。
 すべて、松本昌次、濱田哲、松本章男、藤好美知、高橋康雄の
 五人の編集者の方の随意の原稿選択、随意の配列、随意の造本、
 随意の表題によるもので、

 著者としてはどんなものが出来上るか大変楽しみが多かった。

 そういうわけで、本の出来方が一貫しており、
 わたしの感謝の念も、五人の編集者の方々すべてに
 一貫して存在しているという気がする。

 いわば、五人の方々がわたしを廻し遊んでいるような気がしないでもない。
 『 らかんさんが揃たらまわそじゃないか 』という具合にである。
 大いに感謝したい。   」(p295)


そうかそうか、本にはさまっていた栞は、
感謝をこめた、宛名書き署名だったのだ。
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戦争を知らなかったオトナたち。

2023-08-18 | 前書・後書。
平成3年(1991年)生れの小幡敏(おばた・はや)氏の
新刊が気になったので購入する。

あとがきから引用。

「本書は・・連載『戦争を知らないオトナたち』に
 若干の修正を施し、大幅な加筆分と併せて一冊の書籍とした・・

 思い返せば、風変りなところのあった私は
 自分の生きる時代が信じられなかった。
 本当のものは昔にあるのだと信じた。・・・
 私はその確信を時代にぶつけて生きてきたのである。

 このとき、何故か私の脳裏にはいつも日本軍将兵が居た。
 どうやら私には、彼らが最後の日本人に見えた。・・・

 しかるに、彼らが私に笑いかけたことはなかった。
 その顔は硬く、悲しんでいるのか、じっとこちらを見つめては、
 くるりと背を向けられるような気がしてならなかった。

 ・・・・そして約半年間、一面識も無かった私の原稿に
 隅々まで目を通した上で心からなる激励と助言とを送って
 下さった長谷川三千子女史は本書執筆にかかる恩人であり、

 また、ともすれば塞ぎ込んだり苛立ったりしがちな私を気遣い、
 原稿の校正や表現の工夫にも協力を惜しまなかった妻智代は
 よき理解者であった。

 不肖な私を導いてくれた二人の女性に・・・    」(p263~265)


小幡敏著「忘れられた戦争の記憶」(ビジネス社・2023年8月1日発行)
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震災と復興の歌。

2023-08-17 | 安房
市内に、昨年創立百周年を迎えた高校があります。
創立から一年目の1923年に新校舎が出来ましたが、
その年に、関東大震災がおこり、つぶれて火災がおこり全焼。
1923年(大正12年)の震災直後に、その学校の貴島憲教諭が
創立の志と、復興の意気とを織り込んだ『復興の歌』を作詞し、
生徒と共に励ましながら歌っていたのでした。

それが昭和6年になって、校歌ができるまで、
生徒や卒業生にとって校歌のようにして歌われていたとのことです。

歌詞に『復興』の言葉があったりするからなのでしょうか。
百年たった今では、もはや歌詞を知っている方も、
それを歌った方も、探すのは困難でした。

けれども、五十周年記念誌には、応援歌として歌詞が掲載されており、
八十周年記念誌には、卒業生(94歳)へのインタビュー記事として、
その『復興の歌』8番までの全歌詞が掲載されていたのでした。

当時は、応援歌の曲にあわせて歌われていたようです。
百年目に、新しい曲にのせて歌うことを企画しました。

それが、今月の8月23日が練習日で、本番が8月30日。
夏休みなので、学校の図書室が借りられ、そこで歌える。
音楽室もあるのですが、冷房なし。図書室ならばあるそうで
そこにキーボードをもちこみ演奏してもらえることに決まりました。
学校の音楽の先生も出席してもらえることになったので。
歌ってくれるかなあ。という具合でおります。

まあ、来ていただける方は10数人でしょうが、
昨日、案内をもって数人の方にまわりました。

いまから楽しみです。
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「発心集」届く。

2023-08-15 | 古典
注文した鴨長明著「新版発心集」上下(角川ソフィア文庫・2014年)届く。
浅見和彦・伊東玉美訳注となっております。もちろん古本。

東日本大震災の2011年に刊行されていた
浅見和彦校訂・訳の鴨長明著「方丈記」(ちくま学芸文庫)の
印象が鮮やかだったので、同じ浅見の名前があるこの文庫を注文しました。


「新版発心集」下の、浅見和彦氏の解説の最後にこうあります。

「『方丈記』には鴨長明の生涯のあらましが綴られている。
 それゆえ、『方丈記』は自伝的文学と評されることが多い。

 一方、この『発心集』には長明の情念が表出し、色濃くにじみ出ている。
 
 『方丈記』が長明の自伝的な作品だとすれば、この
 『発心集』は長明の自画像的な作品ということができるかもしれない。」
                       ( p339 )


はい。この興味深い本なのですが、本を手に入れると
それだけで満足してしまいやすい私ですので、まずは、
『発心集 序』の現代語訳からすこし引用し終ります。


「仏が教えて下さったことがある。
 『 心の師とはなるとも、心を師としてはいけない 』と。
 本当にその通りだ。・・・・・・・

 それゆえ、常に我が心ははかなく、愚かであるということを忘れないで、
 かの仏の教えにしたがい、心許すことなくし、迷いの世界を立ち離れ・・

 それはたとえていうなら、
 牧童が暴れ回る馬を連れて、遠い土地まで行くようなものである。
 ただ心には強弱もあり、また浅深もある。

 また一方、自らの心をおしはかるに、善に背くというわけでもない、
 また悪から遠ざかっているというわけでもない。

 まるで風に吹かれてなびきやすい草のようだ。あるいはまた、
 浪の上に映る月影の静まりにくいのと全く同じだ。

 いったいどのようにして、この愚かな心を教えさとしたらいいのだろうか。」
                 ( 上巻現代語訳 p248~249 )

さてっと、この本は、いったいどのようにして、私みたいな愚か者が、
本を放り投げる心を、教えさとし、読み続けさせてくれるのだろうか。
と今からワクワクしてくるのでした。
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茨木のり子の、おんぼろさんぼろ。

2023-08-14 | 本棚並べ
本の帯に「詩人の家を撮影」とある
「茨木のり子の家」(平凡社・2010年)があった。

この家でしかお目にかかれないような玄関ドアとその取っ手から
はじまる家の紹介写真。二階の書斎の本棚に、それはありました。
スクラップブックや別冊太陽にまじって「暮しの手帖」が何冊か。

さてっとKAWADE夢ムック(文藝別冊)の「花森安治」(2011年)に、
茨木のり子の文「『暮しの手帖』の発想と方法」を読むことができました。

そのはじまりから引用。

「『暮しの手帖』の創刊は、敗戦後まもなくの
 1948年(昭和23年)の秋であった。 B5判、96頁で、定価は110円。
  ・・・・・・・

 創刊号の出た翌年、私は結婚しているが、
 色彩のまるで乏しかった当時、創刊号の表紙の
 あざやかさは店頭で強く印象づけられたものの、

 なぜかその時は買わなかった。
 何号目かを友人が結婚祝いとして持参してくれて、
 それからは毎号を買って現在に至っている。
 約23年間にわたる読者であってみれば、
 何がしかのことは言えなくてはならないだろう。・・・ 」(p129)

「わが家の『暮しの手帖』はむき出しで本棚に並び、
 しかも背表紙に、その号のポイントとなる項目
 二、三が書き出されている。

   松江・精神分裂・ムウムウ
   紬・ドレッシング
   いなり寿司・空巣・湿疹

 などなど・・・・
 暮しの実態そのものが、まったく多次元の事柄の
 待ったなしの同時進行という性格だからやむを得ない。
 
 活用しつくすためには、本はおんぼろさんぼろとなろうとも、
 たえず身近にあり、すぐひっぱり出せなければ意味がない。 」(p132)

茨木のり子さんが使う言葉の『おんぼろさんぼろ』。
上下二段組で16頁もあるこの文は、私にしてみると、
茨木のり子の詩の納得理解への魅力的な入門書です。

あれこれ引用したいのですが、最後に雑誌に関連してここを引用。

「いずれにしても、これほど勝手気ままに、
 自分たちのやりたいようにやって、当初から節を曲げず、
 なおかつ着実に部数が伸びてゆき、現在80万部(この文は昭和48年のもの)
 というのは、考えてみれば、随分と太い話である。

 志は壮だが、たちまちに沈没したとか挫折したとかは、
 戦後いやになるほど私たちは見てきている。

 出版業とのみは限らない。
 何か新しい仕事を始めようとする人びとに、
 意志をいささかも曲げることなく、かつ
 あきないも十分成り立ってゆく『暮しの手帖』のいきかたは、
 一種の勇気を与えてくれそうに思われる。

 『 この雑誌にぼくたちは生涯を賭けている 』と、
 花森安治は40号で語っているが、その気迫は十分に伝わってきて、
 大言壮語を感じさせない。     」(p131)



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≪ 手作り ≫で。

2023-08-13 | 本棚並べ
「花森安治といえば」なんてことを思いながらとり出してきたのは、
大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社・2010年)。

目次の第9章「すてきなあなたに」のなかに、「花森安治の死」と小見出。
その文に、花森さんが書いたあとがきが引用されてます。

『(前略)一号から百号まで、どの号も、ぼく自身も取材し、写真をとり、
  原稿を書き、レイアウトをやり、カットを画き、校正をしてきたこと、

  それが編集者としてのぼくの、何よりの生き甲斐であり、
  よろこびであり、誇りである、ということです。

  雑誌作りというのは、どんなに
  大量生産時代で、情報産業時代で、コンピューター時代であろうと、
  
  所詮は≪ 手作り ≫である、
  それ以外に作りようがないということ、ぼくはそうおもっています。

  だから、編集者は、もっとも正しい意味で≪ 職人(アルチザン)≫
  的な才能を要求される、そうもおもいます。

  ぼくは、死ぬ瞬間まで≪ 編集者 ≫でありたい、とねがっています。
  その瞬間まで、取材し写真をとり原稿を書き校正のペンで指を赤く
  汚している、現役の編集者でありたいのです。(後略) 』

こう大橋さんは引用したあとに
「 花森さんが一世紀百号に書いたあとがきです。それから8年、
  その文章のままに、最後の日まで赤ペンを持って、仕事を続けたのでした。」
        ( p214~215 )


そして、次のページには、田宮虎彦氏からの手紙が引用されております。

「 しばらくして田宮虎彦さんから手紙が届きました。
  田宮さんは、花森さんが生まれ育った神戸の、小学校の同級生。
  ともに東大に進み、大学新聞編集部で再会した・・友人どうしでした。

   
    花森君があれだけのことができたのは、
    もちろん花森君が立派だったからにはちがいありませんが、
    やはりあなたの協力があったからこそだと思います。

    こんなことを私が言うのは筋違いであり、
    おかしなことかも知れませんが、

    花森君が力いっぱい生きることが出来、
    あのようにすばらしい業績を残したことについての、
    あなたのお力に対し、あつく御礼を申上げます。

    ・・・・・・・
    花森君がなくなってもう一カ月以上すぎてしまいました。・・ 』」

                 ( P216~217 )
    
     
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花森安治の、夏休み。

2023-08-12 | 重ね読み
唐澤平吉著「花森安治の編集室」(晶文社・1997年)の
本文のいちばん最後に『夏休み』という言葉がありました。
そこを引用しておくことに。

「お孫さんが夏休みで上京してきたとき、
 研究室につれてきて、その日は一日中ホッペたがゆるみっぱなし。

 もうトロトロ。しかしトロけてしまうことは、ありませんでした。

 ほんとうは、一時間でも早く、かわいい孫のまつ家に帰りたかったはず。
 いや、しごとなんか放りだして、いっしょに夏休みをとりたかったはず。
 でも、しなかった。非情をつらぬきとおしてみせました。
 そこに花森さんの、大きな愛のすがたがありました。

 ともすると、花森安治が『暮しの手帖』にかけた半生は、
 独裁的で無情にすらみえる場合がありました。しかし、
 けっして利己的でも無慈悲でもなかったのです。

 つよい意志を秘めた人間だけがしめし、
 公平にあたえることができるこころでした。

 そのこころとすがたが、見まごうことない一つの大きな像となって、
 わたしのこころにようやく結びました。

 部員ばかりか、家族にさえも非情に徹し、
 どんな小さなしごとにも愛情と全力をそそぎ、
 編集者として生きぬいた、ひとりのアルチザンの半生。
 ・・・・・          」(p207)

そのすこし前には、こうあったのでした。

「 ――六十六年の生涯でした。
  早春の風のように、花森安治は、わたしの前から去ってゆきました。
 
 『 みなさん、どうもありがとう 』 のことばと、
  
  テレたようなちいさな微笑を一つのこし、
  なにごともなかったかのように研究室に訣(わか)れをつげて、
  颯然といってしまいました。

  その日から、十九年の歳月がながれました。    」(p261)

コメント (2)
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扇谷と池島の家族。

2023-08-11 | 重ね読み
扇谷正造が、『週刊朝日』の編集長を引き受けたとき

「部数はわずか10万部で、返品率25パーセントという惨状だった。
 これを朝日の幹部は『なんとか35万部まで引き上げてくれ』と
 扇谷に頼んだ。そこまでいけば黒字になる。

 ところが扇谷は8年のうちになんと、138万部という、
 週刊誌で日本初の大記録を打ちたてたのである。・・・  」

 ( p66  櫻井秀勲著「戦後名編集者列伝」編書房・2008年 )

このあとに、いろいろ書かれていたのですが。
はい。私はすぐに忘れそうです。それでも
引っかかったのは、この箇所でした。

「私は22歳の頃のある風景をいまでも思い出す。
 昭和28年、大学を出て大衆小説誌『面白倶楽部』の
 新米編集者になった年、藤原審爾・・のところに通っていた。

 ある日曜日、彼の家に行く途中で、
 ふと華やいだ声が庭先から聞こえてくる家があった。

 男の優しい声もする。私は反射的に庭を覗いたが、
 そこには夫人と娘らしい若い女性と、小柄な男が
 楽しげに談笑していた。表札を見ると扇谷とあった。

 ・・・後年、彼の知遇を得て編集論を聞いたとき、
 突然この風景が思い浮かんだ。やはり女性心理を
 マスターするには、むずかしい顔で家族と接して
 いるような日常では、不可能なのだ。

 私は一人の名編集長が育つプライベートな土壌を知ったことで、
 ひどく得意だったし、また自信にもつながったように思う。・・」(p74)


このあとに、
「大宅壮一は扇谷正造を評して
 『 文春の池島、暮しの手帖の花森と並ぶ戦後マスコミの三羽烏 』
 とほめている・・・   」

こうあるのですが、池島といえば、
司馬遼太郎著『以下、無用のことながら』(文芸春秋のち、文庫)に
「信平さん記」という文があるのでした。

「池島信平さんは、その風貌のように、
 ゴムマリのように弾んだ心を持っていた。 」とはじまっており、

その文の最後に、夫人が登場しておりました。

「社葬がおわるころ、夫人のあいさつがスピーカーからきこえてきた。
 横にいた安岡章太郎が、私(司馬)の腕をつかんだ。

 『 池島信平の文体とそっくりだ 』

 気味わるいほど話し方の呼吸や精神のリズムが似ていた。
 信平さんは、残すに足るもっとも大切なものを夫人にのこした。

 もともと個人の好みとしては他人に影響力をもちたいなどと
 いうような田舎くさいことを考えたことのないひとだったが、

 しかし死後、当人の見当を超えてさまざまな人に 
 その影響力をのこしてしまった。このことは、
 このひとの後輩の同人たちが全員気づいていることらしく、
 またたれもがそれを誇りにもしているらしい。  」( 単行本・p410 )


う~ん。あとひとり、花森安治の家族が思い浮かばない。
どなたかご存じの方はおられますか?
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