和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

墓碑銘を読みあげ

2024-05-27 | 地震
関東大震災の際に、母親から常に言われていた安政の大震災を
思い浮かべたエピソードがあったのでした。
  ( p878~879 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )

その回顧から思い浮かべるのは、
東日本大震災と、昭和6年岩手県田老村での大津波でした。


詳しくは、吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)の
第二章「昭和8年の津波」にある「子供の眼」(p120~)にあります。
それはそうとして、ここに引用するのは、
東日本大震災の後に出版された、
森健著「『つなみ』の子どもたち」(文藝春秋・2011年)です。

吉村昭の本に、尋常小学校6年牧野アイさんの作文が載っておりました。
森健の本には、そのアイさんの現在を尋ねております。
一部分だけですが、この機会に引用しておくことに。

「 『 津波はおっかねえから、地震が来たら
   ( 津波 )警報を待たずに逃げろ、というのは、
   うちでは口酸っぱく言われたことでした 』

 栄子(アイさんの子)の記憶には、アイのこんな習慣が深く刻まれている。
 
『 母は津波を忘れないために、夜寝るときには、洋服をきちんと畳み、
  着る順番に枕元に置いておく。玄関の靴は必ず外向きにして揃えておく。
  
  避難の際は赤沼山への道を決めておく。また、
  お盆のお墓参りでは必ず墓碑銘を読みあげ、
  誰が津波で死んだかを口にしていた。

  どの振る舞いも母自身への津波への教訓であると同時に、
  私たち子どもたちへの防災教育でもあったのです 』

 吉村の本の中でも、アイは取材にこう答えている。

( 現在でも地震があると、荒谷氏夫婦は、
  顔色を変えて子供を背負い山へと逃げる。
  豪雨であろうと雪の深夜であろうとも、
  夫婦は山道を必死になって駆けのぼる。

 『 子供さんはいやがるでしょう? 』
  と私が言うと、
 『 いえ、それが普通のことになっていますから一緒に逃げます 』
  という答えがもどってきた。

  荒谷氏夫婦にとって津波は決して過去だけのものではないのだ。 ) 」

      ( p250~251 「『つなみ』の子どもたち」 )

もうすこし引用して、最後にします。

「 吉村昭が取材に来たとき、アイは49歳、功二(荒谷)は田老町の
  第一小学校の校長だった。またその子ども、四女の栄子は
  中学生だったという。 ・・・・・・

  津波に遭ったこと、また津波の地に戻ってきたこと、
  そしてもう一つ付け加えるなら、あの作文を書いたこと。
  この三つの出来事がアイの人生の大きな転機となっていた。
  津波で家族全員が失われた。その悲しみ、そして、
  津波の恐ろしさを伝えることが、アイにとって
  昭和8年以来80年近い年月の責務となっていた。・・・」(~p252) 
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下から来る地震はこはいよ

2024-05-27 | 地震
富津尋常高等小学校・八田知英の短文があり、
そこに、安政の大地震と関東大震災が語られておりました。
引用しておきます。

「・・・やがて下から持ち上げられる様な気持でドーンと来た、
 私は『 地震だ。出ろ 』と思はず叫んだ。

 広尾訓導は『 大丈夫だ 』と云った
( 其の大丈夫だと言ったのは倒潰することはない、
  夏休中に教室の柱を修理したからの意味で有った )

 私は『 何に出ろ 』と言って外へ出た、
 ころころと転げて畑の中まで転げ落ちた。

 頭を上げて見ると『 ガラガラ 』と砂煙りを上げて
 東側の校舎が倒れるのを見た。

 私も広尾訓導も命を拾った。
 児童も早く逃げ出して居った。

 私の父母は江戸で生まれ安政の大地震のとき恐ろしい目に遭った。
 
 母は常に『 下から来る地震はこはいよ 』と教へてくれた。
 今更に母の言葉の有難味を覚える、

 下から来る地震東京湾沿岸三、四尺も隆起したところから見ると、
 下からまくし上げたに違ひない。   」
 
       ( p878~879 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
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人の言葉の散りやすさ②

2024-05-26 | 地震
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
明尋常高等小学校報が載っておりました。
そこから今回は引用してみます。

明村(あきらむら)青年団とあります。
ちなみに、千葉県東葛飾郡にあった村で
現在の松戸市役所のあたりのようです。
この文のなかに「 為に救護団は自警団とかはり 」とある箇所を
途中から引用してゆきます。

「 明村青年団は挙って避難民を救助せんと準備した・・・
  炊事場、救護所等を急設して麦湯、ふかしいも、握飯等を用意した、

  刻々と避難民は押かけ何百人かを接待した、
  されど益々避難者は増加するので一層徹底的に救護せんものと
  2日午前5時支団一同協議した結果、救護所には本支団倶楽部(栄松寺)
  を当てて其の準備をした、

  午後になると不逞漢云々との流言蜚語盛に起り一層人心に不安を加へた、
  為に救護団は自警団とかはり、『不逞漢と見たらやってしまへ』の
  声起り伝来の日本刀まで持ち出して意気をあげてゐた、
  水も洩らさぬ警戒振りであった。 」(p900~901)

ここから、本支団顧問中村戒仙と自警団との話になります。

「 ・・(禅師)は自警団詰所に来り一同の様子に驚き何事ぞと問はれた。

  不逞漢に対する事情を話すと
『 それは以ての外である。無警察状態の折であるから何かの誤であらう、
  殊に彼らも尊き人類である以上、保護するのが当然だ 』

 と警告された、団員一同は軍人迄も之に当るの時に於て
 保護することは出来ないといって端なくも殺気立ち論争となった。・・

『 其れまでの覚悟ならば萬一不逞の徒が現はれたなら捕縛して
  おれの寺に連れて来い、此の事が静まるまでおれが保護の任に当る 』

 といって頑として動かなかった。
『 ・・・・其れが亦御佛の慈悲である、よし
  1~2の不心得者があったにしても、全部がさうとはいはれない 』

  と懇々と説かれたが、
  其の時は一同も殺気だって居たこととて、或者は
『 時に容れらざる説だ。我々の行為を邪魔する説だ。
  たとへ本支団の顧問だと云へ余り解らなければ真先にやってしまへ 』
  等といふ者もあったが、
『 成程 』と心の奥に感じさせられた者も少なくなかった。

 斯くして一日すぎ二日すぎ漸く平穏にかへった。

 一月も経ってから一同は全く彼の時はあはてたものだ、
 流言であった、蜚語であった、今になって顧みると

『 あの場合よくも和尚様はああいふ態度がとれたものだ 』

 と感心してゐる。お蔭で一同も悔を後に遺すこともなく、
 平素の修養の必要であることを切に覚った・・・・

 師の本支団顧問当時、大震火災満一周年には青年団として
 卒先死者供養塔を建立して盛大に供養された、
 そして和尚さんは当時の追憶談をしてくだされた。  」(~p902)
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吉村昭の安房の震災記述。

2024-05-06 | 地震
吉村昭著「関東大震災」(文春文庫)は、
p59からが「東京の家屋倒壊」として首都の内容へわけいってゆきます。
その前のページ(p57~58)に千葉県が出てきておりました。
はい。この機会に引用しておくことに。

「 千葉県の被害も、驚くべき数字をしめしている。・・・ 
  殊に相模湾をのぞむ房総半島南西部の沿岸各地の被害はすさまじかった。

  館山湾内の沿岸は最も激烈な地震に襲われ、
  那古では900戸の人家のことごとくが全壊した。

  館山町でも戸数1700戸の99パーセントが倒壊し、
  附近一帯の田が2メートルも沈下し、砂が吹き出るという現象すら起った。

  館山町に隣接した北条町では、戸数1600余戸中、
  全壊1502戸、半壊47戸にも達し、
  郡役所、中学校、停車場等すべてが全壊した。

  古川銀行、房州銀行の建物が奇蹟的に残った以外は
  柱の立っている家さえなく、電柱はかたむき、
  電線は地上にたれて町全体が壊滅してしまった。

  さらに亀裂は深さ2メートルにも及び、
  陥没地域も多く、測候所と小松屋旅館などが亀裂の中に落ちこんだ。」
                         ( ~p58)


ちなみに、この文庫の最後に、17冊が参考文献としてあげられています。
その中に、『安房震災誌』はありませんでした。
ひょっとすると、吉村昭氏は『安房震災誌』『大正大震災の回顧と其の復興』
などは手にしていなかったようです。

はい。当ブログでは
『安房震災誌』『大正大震災の回顧と其の復興』を手がかりに、
『安房郡の関東大震災』を語ってゆくのでした。

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『腹をきめた』?

2024-04-30 | 地震
竹内政明著「読売新聞朝刊一面コラム『編集手帳』第二十集」(中公新書ラクレ)
をひらき、2011年の『対策統合本部』の言葉がある箇所から、2ヶ所引用。

「 政府と東京電力が一体となって原発事故にあたる
 『 対策統合本部 』の設置(3月15日)よりも、
  蓮舫行政刷新相に節電啓発担当相を兼務させる人事(3月13日)
  のほうが先というのも、ピントがぼけていた。 」
             ( p197 5月18日の一面コラム )

一面コラムの4月7日にも『対策統合本部』が出てきておりました。

「 『福島原子力発電所事故対策統合本部』では、
  どのくらいの人が働いているの?・・・・

  政府と東京電力が全情報を共有して事態に対処する、
  との触れ込みで震災4日後に発足している。

  放射能の汚染水を東京電力が海に放出することを
  農林水産省は事前に知らなかった。
  当然ながら、漁業関係者には伝わらない。
  外務省も知らなかったのか、
  通告なしの放出に憤る韓国政府から抗議を受けた。

  政府の各府省と東電が、目と、耳と、口と、脳みそを、
  ひとつ場所に持ち寄ってこその『対策総合本部』のはずである。

  疲労が重なっているのも分かるが、
  現場作業のような被爆の危険にさらされているわけではない。

  大事な局面で、やれ『 聞いていない 』だの、
  『 寝耳に水 』だのと内輪でもめる司令基地ならば
  存在しないのと一緒だろう。・・・   」(p143)


この箇所を読んで、安房郡長大橋高四郎の追憶が
思い浮かんできます。

「大正大震災の回顧と其の復興」上巻(昭和8年8月1日発行)で
この本の編者を昭和6年9月に引受けた安田亀一氏が、
関東大震災の時に、安房郡長だった大橋高四郎氏を尋ねて聞いた
内容を掲載しております。
万事そそっかしくて、あわてん坊の私が、
気になって、それでもって印象に残っている箇所がありました。

大橋高四郎氏は語っております。

「・・・役所も多分潰れたことであらう、が、
 今駆け付けて見ても駄目だ。
 現場へ行っては却て現場に捉はれてよい知恵は出ない。
 これは先づ此の松の木の下で計画を立てるに如かずだ。
 とおれは腹をきめた。 」(p817)

「・・併し、人の事を云う所ではない、
 手拭地の寝巻姿に細紐を帯に締めて松の根に掴まってゐた
 俺の姿もあまり見っともよいものではなかったらう。

 兎に角俺は考へた。こんな大震に会っておれの一家の
 無事なのは天が俺に大任を下したのだ。
 骨を粉にしても一つ大に働かねばならんとな。

 役所へ行ったのはかれこれ2時間も経ってからの事だろう。」(p818)



はい。最後に引用するのは2011年3月12日未明の出来事。
門田隆将の著書の第9章「われを忘れた官邸」のはじまりの箇所。

『菅首相が来ます』
『なに?』
 なぜ来るんだ?
 現地対策本部長の池田元久は耳を疑った。
 3月12日の未明、4時頃のことだった。・・・・

 一国の総理が、原子力事故のさなかに、その『現場』にやって来る。

 池田自身が現地に到着し、オフサイトセンターが立ち上がってから、
 まだ何時間も経っていない。
 そんな段階に総理がやって来るとは、どういうことなのか。

『 これだけの地震と津波で死者・行方不明者が大勢出ている状態です。
  現に事故が進行しているさなかです。私が霞が関を出る前に、
  すでにテレビにも映し出されていましたが、
  
  あの津波の濁流は凄かった。
  瓦礫の下で救出を待っている人たちも生存率は
  72時間で急激に下がっていきますから、
  最初の72時間は最大限、救出活動に全力を挙げるというのが
  世界の常識です。それなのに、
  総理が原発にやって来るということがわかりませんでした 』

  それは、国民の生命・財産を守らなくてはいけない
  国家のリーダーが、≪ 一つの部分 ≫だけに
  目を奪われていることを物語っている。

『 とにかく今やるべきことは、人命の救助だと思いました。
  そこに全力を挙げるべきだということです。

  それからもう一点は、福島に総理が来て、
  そこで指揮を執れればいいのですが、
  現地は、地上系の連絡手段をはじめ、
  全部ダウンしちゃてるわけだからね。
  通信状態は、極めて劣悪であるわけです。
  そこへ来ても、指揮は執れませんよ。

  だから原発事故についても官邸にいた方がいいわけです。
  大局観を持つべきです。
  物事の軽重について常識的な判断が必要だったということです 』

 大局に立てば人命救助が最優先であり、
 もちろん原発事故は重要だが、それならば、
 余計に官邸にとどまって指揮を執るべきだと池田は思ったのである。

 ・・・・・・・ 」(p131~132・単行本)
(門田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」PHP より)
  
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大震災への『座右の書』

2024-04-26 | 地震
『安房郡の関東大震災』の講座までに、身近に置いときたい本が曽野綾子著
「揺れる大地に立って 東日本大震災の個人的記録」(扶桑社・2011年9月10日)

これを座右の書に、関東大震災から東日本大震災へ、視野をひろげられれば、
さまざまな切口で、講座時間内に重層的な話題を提供できそうな気がします。

さてっと、直接に関係しないのですが、触発される箇所もいろいろあります。
たとえば、『田舎』というキーワード。そこを引用しておくことに。

「 自分の一存でやるべきことをやって、
  それがいけなかったのなら責任をとって野に還る、
  浪人をするなどという覚悟が昨今のエリートには全くない。

  昔は実際に親たちが田畑を耕している家庭があった。
  勤め先の世界が理不尽だと感じる時は、
  職も地位も捨ててとにかく田舎に帰れば食えたのである。

  今でも過疎になった農村に入ることを覚悟しさえすれば、
  農業一年生として生きることはできるだろうと、私は思うのだが
  ・・・・・
  とすると、いかなる事態になっても、紙に書いてある自分の任務以外は
  何一つできない役人が、緊急事態の被災地のあちこちにいて、
  その活動の邪魔になっても不思議はないのである。」 ( p196 )

今回、この箇所をパラパラとめくって思い浮かんだのは、柔道でした。
私の高校時代の体育の授業では、選択制で柔剣道を選んで受ける時間が
ありました。そこで選んだ柔道は、まずは受け身からはじまりました。
テレビで観戦する柔道は、倒されたら負けになるのですが、
あくまで、柔道の基本をはじめる際には、受け身からでした。
その『受け身』が思い浮かびました。
話しがそれました。

ここには、『田舎』という言葉があるのですが、
『田舎』と同時に『覚悟』という言葉もここにありました。
本の最後に方に『覚悟』という言葉がでてきておりました。
ということで、最後にそこを引用。

「東日本大震災の後すぐ、個人的な事情で
 私は被災地に入れない状況にあった。 」(p266)

そして四カ月目に現場に行くことになります。

「それでも私はでかけることにした。
 だから私は四カ月目の被災地の現場のほんの一部の大地に、
 たった2日間立たせてもらったに過ぎない。
 私は全体像どころか、私が見た限りの狭い断片的光景しか書けない。

 たぶんそれは、ほとんどいつも、記録者について廻る宿命のようなものである。
 つまり私たち記録者は、常に巨象を撫でる盲人で、
 ほかの印象を持つ多くの人の違和感を覚悟の上で
 書かねばならないのである。  」(p268~269)


はい。百年前の『安房郡の関東大震災』を
今度語ろうとするのですが、何だか背筋を伸ばしてくれる
そんな言葉をいただいているような気になります。
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講座予定の紹介文

2024-04-25 | 地震
一年に一度。一時間ほどお話をさせてもらっています。
地域の公民館講座のひと枠です。昨年は8月だったので、
今年もその頃になるかと思います。南房総市公民館だよりに、
講座の連絡が掲載されて参加者募集します。

早いですが、まずは、その参加者募集の紹介文を
考えることに。以下の内容を予定しております。

「関東大震災後、創立すぐの安房農学校で『復興の歌』が
 歌われておりました。それから百年後の昨年。同じ場所で、
 その同じ歌詞を歌う講座がひらかれました。

 その際のアンケートで、『郷土歴史』への興味の項目に、
 全員が〇をつけていました。またコメント欄に
『 関東大震災の内容をくわしく講習してほしい。
   地域の受災状況をくわしく知りたかった。 』とありました。

 今年の講座は、このコメントをテーマに語ります。
 題して『 安房郡の関東大震災 』
 副題に『 安房郡長大橋高四郎 』
 大正時代の安房郡を視野に、安房郡長を主軸に、
 震災を時系列でたどります。  」

 はい。昨年は15人ほどの参加者を前にかたって、
 参加者の皆さんとで『復興の歌』を歌いました。
 高校の許可があればまた同じ場所での開催です。

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困った時の神頼み。

2024-04-23 | 地震
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)を
そばに置いているので、この機会にパラパラとめくります。

東日本大震災に遭遇して、マスコミや各種雑誌は、
曽野綾子氏に誌面を提供しておりました。
その曽野綾子氏は聖心女子大学卒のカトリック教育を受け
育っておりました。この本にも聖書からの引用がところどころに
出てきております。

「東日本大震災による困難に直面しながら、
 今日私が書くことは不謹慎だという人もあろうが、
 やはり書かねばならぬと感じている。・・・・

 ・・・それでも人間は今日から別の道を見つけて
 前に歩き出さなければならないのだ。

 新約聖書の中に収められた聖パウロの書簡の中には、ところどころに
 実に特殊な、『 喜べ! 』という命令が繰り返されている。

 私たちの日常では皮肉以外に『喜べ!』と命令されることはない。
 感情は、具体的な行動と違って、外から受ける命令の範疇外のことだからだ。

 だが聖パウロの言葉は、
 人間が命令されれば心から喜ぶことを期待しているのではないだろう。
 喜ぶべき面を理性で見いだすのが、人間の悲痛な義務だということなのだ。

 人間は嘆き、悲しみ、怒ることには天賦の才能が与えられている。
 しかし今手にしているわずかな幸福を発見して喜ぶことは
 意外と上手ではないのだ。    」(p28~29)


ここだけを引用してもはじまらないのが、この本の特徴なのですが、
ここは、東日本大震災直後に書かれていることを念頭におくと分かりやすい。

また、こういう箇所もありました。

「 聖書は『使徒言行録』(20・36)で
 『 受けるより与える方が幸いである。 』といっている。
  これは人間の生甲斐というものをごく普通の言葉で表した名言である。
  ・・・・・
  人間を失わないのは、ほとんど人間性を失いかけているように
  見える不幸や貧困の中ででも他者に与えるものを持っている場合である。
  それは、物やお金ではない。その人が人間であることの
  尊厳を示せる機会を残しておくことなのである。   」(p124)

聖書を引用したあとにつづくのは、東日本大震災の事例でした。
たとえば、こんな箇所。

「 私は今回ほど、我が同胞に誇りと尊敬を持ったことはない。
  人々は配給の食料を整然と列を作って受け、量が十分でない場合には、
  簡単な合議制で公平に分け合った。
  運命を分け合う気力はすばらしいものだ。

  事件直後では産経新聞の3月14日付の記事が、
  宮城県下で窃盗事件が相次いだと報じただけだ。
  もちろん災害の中心地は破壊が烈しくて盗むものもなかっただろう。

  盗まれたのは塩釜、多賀城などの食料品店で、総額わずか40万円。
  休業中のガソリンスタンドで、ノズルに残っていた1リットルの
  ガソリンを盗もうとした24歳の会社員まで入れてである。

  あってはならない災害だったが、今回の事件で、
  日本と日本国民に対する評価は世界で一挙に高まると思われる。
  厳しい天災の中にあって、このような静謐を保てる気力は、
  世界にそう多くはないからだ。  」(p131~132)


パラパラとめくっていると、
関東大震災で曽野綾子さんの両親が遭遇したエピソードが語られています。
そこを引用しておきたいと思いました。

「一昔前の日本は、貧しい国であった。
 しかし社会は当時から折り目正しく公平だった。
 私は援助を受けた日本の歴史的な姿を、一市民の姿から書いておきたい。

 1923年の関東大震災の時、東京に二人の平凡な市民の女性たちが住んで
 いた。共に20代半ば、共に幼い娘を持っていた田舎出身の主婦であった。

 大震災の後、この女性たちは、アメリカからの贈り物という毛布をもらった。
 一人の女性は、後年生活が楽になって、義援の毛布より少し上等な毛布を
 自分で買えるようになっても、もらった毛布は大切に仕事場で使っていた。

 その二人とは、夫の母と私(曽野綾子)の実母である。
 当時二人はまだお互いの存在さえ知らず東京の下町で暮らしていた。

 後年、震災後に生まれた息子と娘が結婚した後、
 二人は震災の話をして、二人とも公平に同じような
 アメリカの毛布をもらったことを確認し合った。

 日本の町方の組織は、当時からそれほどにしっかりしていて、
 しかもフェアーだったのである。誰か顔役がいて、被災者の
 毛布を横流ししたことはなかったのだ。まだ若い妻たちが、
 何も言わなくても毛布はもらえた。これはすばらしい記録である。」(p139)


ここに『東京の下町で暮らしていた』という箇所があります。
東京の下町といえば、現在、江東区・東京15区補欠選挙があり、
選挙演説期間で、日本中の注目を集めております。
どうしても、選挙演説を聞いている江東区民のことが
今は思い浮かんできます。『喜べ!』江東区民の方々。







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2024-04-22 | 地震
今年は、『安房郡の関東大震災』と題して、
1時間程度の講座をひらきたいと思っております。
昨年は、『関東大震災と「復興の歌」』というテーマで語りました。

それに関連して、資料を読み返しながら、当ブログでは、
すぐに忘れてしまう私のために、その資料をピックアップして、
あっちこっちと脱線して不連続ながらも書き込みをしています。

差し当たって、語るための資料はこの程度にして、
あとは、これを1時間の中にゴチャゴチャしない程度に
まとめてみたいのですが、さてどうしたらよいのか、と思っておりました。

まずは、『 安房郡の関東大震災 』に関する資料が豊富にあったことを
歓びたいと思い。その嬉しさを記しておきたくなります。

こういうのは、比較すると浮き上がってくるものですね。
ここには、東日本大震災のある箇所を比較してみることにします。

曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)から引用。小見出しに、「組織における記録という武器」とある箇所を引用してみます。

「 地震後しばらく経って、官邸と保安院と東電との間で、
  喧嘩か責任のなすり合いが始まった。

  東京電力福島第一原子力発電所の事故後、
  第一号機への海水注水を行うことについて、
 
 『 言った 』『 言わない 』『 知らない 』
 『 伝えた 』『 連絡を受けていない 』式の

 なすり合いが始まったのである。
 ことがこれほど重要でなければ、
 世間にいくらでもある喧嘩の典型的タイプである。 」(p162)

はい。ここでは、時間が限られた講座の話と違いたっぷり
引用しておきたいと思いますので、さらに引用を続けます。

「 会社や組織の中での喧嘩は、いつも
  『 自分は連絡を受けていなかった』
  『 そんなことはない、ちゃんと伝えてある 』の形式を取る。

  いつか親しいカトリックのシスターが、
  『 修道院の中でも喧嘩するのよ 』と言うので私は嬉しくなり、
  『 シスターたちの喧嘩の原因てなんです? 』と尋ねたら、
  『 連絡した 』『そんな知らせは受けていない』ということなのだという。
  『 なあんだ 』と私は少しがっかりした。修道院の中なのだから、
  もう少し神学的高級な問題の対立か、それとも好きなお菓子を
  あの人が食べてしまったというような動物的な対立かと期待したのに、
  これでは世間の会社と同じだ。

  しかし組織が喧嘩をしないためには、
  記録を採る習慣が非常に大切だと私は改めて思った。
  
  私は前に勤めていた日本財団で行っている事業に関して、
  何か少しでもおかしいと感じたら、
  その瞬間から記録を採る習慣を職員に要請した。

 『 〇月〇日、××の件で、どこそこの△△さんと名乗る人から、
   根掘り聞くという感じの電話を受ける 』から始まって、
  その問題に関するあらゆる人のあらゆる種類のアプローチを、
  とにかく記録しておくのである。
  これは非常に大切なもので、後になって大きな働きをすることがある。」
                  ( p162~163 )


引用しながら、思い浮んでくるコラムがありました。
竹内政明読売新聞朝刊一面コラム『編集手帳』第二十集(中公新書ラクレ)。
この第二十集は、2011年1月~6月までの一面コラムが載っております。
その5月18日のコラムの後半を最後に引用しておくことに。

「 『 さしたる用もなけれども・・・ 』
  何の用があったのか―――菅首相が野党から責め立てられている。

  震災翌日に原発を視察した判断をめぐって、である。
  首相は格納容器が破損している可能性を認識していながら、
  指令本部の官邸を留守にしており・・・・・

  そういえば、政府と東京電力が一体となって
  原発事故のあたる『 対策統合本部 』の設置(3月15日)よりも、
  蓮舫行政刷新相に節電啓発担当相を兼務させる人事(3月13日)の
  ほうが先というのも、ピントがぼけていた。

  拍手をもらえそうならば無理にでも『出る幕』を
  つくってしまう≪ 興行師 ≫のような最高指揮官では困る。

  視察は意義があったと首相は言う。
 『 さしたる用もなけれども・・・ 』と言うはずもないが。 」(p196~197)


さて、『安房郡の関東大震災』を指揮したのは安房郡長大橋高四郎でした。
その記録となる『安房震災誌』(大正15年3月発行)には
前安房郡長大橋高四郎という肩書で「安房震災誌の初めに」という序を
書いております。その最後を引用しておくことに。

「 ・・が、本書の編纂は専ら震災直後の有りの儘の状況を記するが主眼で、
  資料も亦た其處に一段落を劃したのである。そして
 
  編纂の事は吏員劇忙の最中であったので、
  挙げて之れを白鳥健氏に嘱して、
  その完成をはかることにしたのであった。

  今編纂成りて当時を追憶すれば、
  身は尚ほ大地震動の中にあるの感なきを得ない。
  聊か本書編纂の大要を記して、之れを序辞に代える。  」


『安房震災誌』の編纂に基づいて私は今年、
1時間の講座を、受け持つことにしています。

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普通の暮らしの空気

2024-04-21 | 地震
本棚から、曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)
を取り出す。題の脇には小さく「東日本大震災の個人的記録」とあります。

最後には、書下ろし原稿と、新聞、雑誌に寄稿した原稿を加えたとあります。
その次に、産経新聞・週刊ポスト・新潮45・修身・WILL・本の話・SAPIO
文藝春秋・あらきとうりょう・オール読物と寄稿誌などを明記しております。

そうだった。あの大震災の直後から、新聞雑誌で曽野綾子さんの文が読めた。
そうこうするうちに、この単行本が出たので買ったのでした。
今になって、あらためてパラパラひらいてみることにします。

どうして、曽野綾子氏の文がちょくちょく見れたのか?
という疑問に答えているのはここらあたりでしょうか

「幸か不幸か地震と共に私は、たくさんの原稿を書くことになった。
 私はいつも周囲の情況が悪くなった時に思い出される人間なので
 はないか、と思う時がある。」(p27)

「約40年間、私はアフリカの貧しい土地で働くカトリックの修道女たち
 の仕事を支援してその結果を確認して歩く仕事をするようになった。」(p29)

こうして「アフリカの田舎の暮らしの実態と今の日本を比べ」る視点で
箇条書きに示しておられました。その中からこの箇所を引用。

「 泣きわめくような、付和雷同型の人は、被災地にはほとんどいなかった。
 感情的になっても、ことは全く解決しないことを日本人の多くは知っている。
 風評に走らされた人は、むしろ被災地から離れた大都市に見られた。」(p30)


うん。引用してみたい箇所が多いので、ここではさわりだけにします。
あと一ヵ所引用。

「 私が地震の日以来たった一つ心がけていたのは、
  普通の暮らしの空気、つまり退屈で忙しくて、
  何ということもない平常心を失わないことだった。

  いくつかの理事会などが延期になったので、
  私は外出しなくてよくなり、退屈のあまり
  簡単な料理ばかり作っていた。冷凍庫や冷蔵庫の
  中身をきれいに整理するための絶好の時と感じたのである。」(p97)

「 4月7日になって起きた宮城沖の大きな余震の時、
  仙台放送局内に設置されたカメラが、報道の威力を発揮した。
  人々は机の上のコンピューターを手で抑え、金属戸棚は
  後ろにひっくり返って散乱した。

  揺れがひどくなければテレビの絵にならないだろうから、
  これでよかったのかもしれないが、なぜこの放送局は
  1回目の地震の後、局内の戸棚や機器を、あり合わせの
  ビニールひも、布製の包装用テープ、新聞紙(の折りたたんだもの)
  などで止める配慮をしなかったのか。

  地震以来テレビ局員は、最高に忙しい人たちだということは
  よく知っている。しかし、どんなに疲れ切っていても、
  余震は予期されていた。僅かの補強で落ちるものも落ちず、
  倒れるものも防げるのだ。後かたづけに時間も取られない。

  阪神淡路大震災の時も、電気と水道はすぐに止まった。
  ということは、電気掃除機と水雑巾が使えないということだから、
  危険なガラスの破片など、昔ながらの箒と塵取りがないと
  始末に困ったという。 ・・・・         」(p99)

はい。最初の方には、1930年生れの曽野さんが
「私と私の世代は、この世に安全があるなどと信じたことがなく育った。」(p19)


はい。あらためてひらくと、あれもこれもと、
この世代の謦咳に接している気分になります。
傾聴したい言葉なのでひと呼吸して開きます。
  





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関東大震災の東京と安房

2024-03-29 | 地震
関東大震災の、千葉県内で各医師会による救援の状況はどうだったのか。
ここは、印旛郡医師会と長生郡医師会の例を引用してみたいと思います。

大震災で、東京と安房と救護派遣をどう判断したか。
それを、この2つの医師会の救援の様子でたどります。

県北に近い、印旛郡医師会長報によると

「・・協議の結果青年団員の代りに消防員を派することとし、
 2日午後4時頃の列車にて佐倉町医師2名、成田町医師3名、
 佐倉町成田町在住の消防員18名

 以上出県せしむ、と同時に県より電話あり、

『 房州地方の被害深甚、殆ど全滅に付上京を見合せ
  県内なる房州へ救護の赴くべし 』との事なりしも

 午後6時過に至り、出葉中の医師大畑寶治より電話にて

『 房州へは汽車不通又汽船は何時出発するや不明なること
  及び内務大臣より特派の巡査来県是非共東京へ
  医師竝救護材料差遣方懇請せるを以て一同相談の結果
  予定の通り出京の事に決せり 』と、

 2日夜は県庁構内に野宿し、3日早朝列車にて上京、 
 亀戸より徒歩途上幾多の障碍を突破し、
 内務大臣官舎に宿泊し、本所方面の罹災者救護に盡力し
 薬品材料を使用し盡したるを以て9月5日引上げ帰県す  」
   
     ( p1099 「大正大震災の回顧と其の復興」下巻 )



次に千葉県中央部の茂原に近い長生郡から、長生郡医師会報の引用。


「・・・7名にて救護班を組織し9月3日午前11時茂原警察署前より
 自動車に乗り大多喜より勝浦に向ひ、勝浦警察署にて
 房州方面道路の模様を聞かんとしたりも能はず、
 自動車を乗り換へ鴨川警察署に著し状況を聴取す。
 家屋の破壊相当大なるも傷者の救護を要するものなし。

 鴨川より先方は道路狭し自動車其の他乗物一切通らず
 警察署長と相談し自転車一両を借り入れ鈴木(才次)班長独り
 先方の状況視察し今後の行動を定めんとし・・・・

 和田付近県道亀裂多く自転車の通行も困難なり、
 此の状況を鴨川町に残したる班員に告げんと
 鴨川警察署に引き返せば既に天津に引き上げたと・・・・

 警察電話利用し9月4日朝に至り小湊町ホテルに在宿せるを知り
 午前8時集合し、勝浦駅より初発汽車に乗し午後4時茂原に帰り
 報告す、房州救護班を解散す。
 4日夜は茂原警察署前の救護所で東京よりの避難民を救療する。」


この班長だった鈴木才次氏は、そのあとに東京へと向かっております。

「9月5日午前11時茂原発、汽車大網駅で乗り換へ(土気隧道不通の為)
 成東で亦1時間待ち乗り換へ、佐倉で乗り換へ千葉で乗り換へ、
 午後7時薄暮亀戸駅著、戒厳司令部列車内に在り・・・ 」
                   ( p1187~1189 同上 )

このあとは、東京の被災の様子があるので引用しておきます。


「 亀戸小学校内亀戸町本部に到るを得
  福田会に一泊す、寝具も蚊帳も無く一睡もするを得ず。

  救護材料は千葉県庁より支給され消防部長川島先行し、
  千葉県知事より内務大臣宛の文書と共に千葉駅より
  持込んだので充分有るから6日午前3時50分亀戸を出発
  
  九段坂は何んの邪魔もなく眺められ、
  一望焼野原石炭は未だ盛んに燃てゐる焼死体は諸所に散乱し、
  江東川中には水死体ブクブク浮き居り悪臭鼻を突く。

  人形町、小伝馬町、本石町を過ぎ丸の内に入り
  馬場先門より二重橋前に到り一同整列皇居三拝国家の安泰を祈り、
  内務大臣官舎に行き衛生局横山助成の指揮を受け、
  警視庁衛生課長小栗一雄に面会更に命を受け
  
  亀戸警察署宛の添書を持ち亀戸小学校庭で
  一般被害者を救護する事となる。亀戸警察署の報告にて
  同署に収容せる500人の鮮人中負傷者60余名あり、

  我が班にて之を救護す可く申出で外科的治療を応急処置す、
  午後1時より亀戸小学校に救護所を設け治療す。

  大部分は火傷で食傷下痢患者少数有り
  午後6時半持参の材料を使用し盡くし一時閉所す、
  同治療所に活動せる人々は鈴木班長外6名

  他の救護手は各所に知人を尋ね一般救助をする事と決す。
  9月7日林八郎副班長主任とし更に活動し8日午後林班長帰茂し解散す。
  9月20日茂原消防組救護手に夫々感謝状を送る。
  9月27日震災義捐金を募集す。     」

                    ( ~p1190  同上  )

 





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防災士教本の教え。

2024-03-28 | 地震
日本防災士機構に『防災士教本』というのがあります。

前回に引用した

「 人間は非常事態に陥った時に、本性が現れるものだ。
  地震や津波で家を失うという危機に見舞われても、
  人間としての品位を保つことができることに、私は目を疑ったものだ。
 
  筆者が育ったオーストラリアの大学で学んだ精神病理学では、
  健全な人格の条件として『 統合性 』がその一つに挙げられていた。
  落ち着いて安定している時に周囲に見せる人格と、
  非常事態に陥った時に現れる人格が同じであることを言う。
                        ・・・・  」
(p1~2 デニス・ウェストフィールド著「日本人という呪縛」徳間書店・2023年12月)

ここを引用したあとに、思い出したのですが、
特定非営利活動法人の日本防災士機構に『防災士教本』があります。
そこに、こんな箇所があったのでした。

「ただ、組織を『 防災 』に特化したものと考えるのは適当ではない。
 一生に一度あるかどうかの大災害のためだけの組織を、そのために
 機能させるのはむずかしい。

 日常的にたとえば、地域のお祭りや盆踊り、餅つきなどの
 地域レクリエーション、清掃、子ども会活動などに生きるような
 組織として位置づけられていなければ、いざというときに動けない。

 組織も資機材も、ふだんの地域のコミュニティ活動と一体になって
 いなければいけない。ふだんやっていないことを、大災害のときだけ
 機能させようと思っても無理だということを知っておかなければならない。」
         (  p32 「防災士教本」平成23年11月第3版  ) 


はい。私の場合はというと、「安房震災誌」に出てくるエピソード、
『御真影』を倒潰家屋からとりだし、檜の木の上に置いた場面から、
神輿渡御の際に、神社から御霊を神輿へと遷す行為を連想しました。


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檜の木の下で。

2024-03-26 | 地震
『御真影』について、今の私に思い浮かぶ光景というと
たとえば神社の御霊(みたま)を神輿へ遷す行事でした。
これなら、神輿があるたびに私は見慣れている光景です。

安房郡長大橋高四郎が、震災当日の安房郡役所の倒潰を前にして

「 恐れ多くも御真影を倒潰した庁舎から庭前の檜の老樹の上に御遷した。
  郡長は此の檜の木の下で、即ち御真影を護りながら、
  出来るだけ広く被害の状況を聞くことにした。
  そして、能ふだけ親切な救護の途を立てることに腐心した。
  県への報告も、青年団に対する救援の事も、
  皆な此の樹下で計画したのであった。    」
              ( p232~233 「安房震災誌」 )

まずもって、心の安定を郡長の最優先事項として行動している姿などは、
つい最近ひらいた本の、はじまりにあった言葉が思い浮かんできました。

「 人間は非常事態に陥った時に、本性が現れるものだ。
  地震や津波で家を失うという危機に見舞われても、
  人間としての品位を保つことができることに、私は目を疑ったものだ。
 
  筆者が育ったオーストラリアの大学で学んだ精神病理学では、
  健全な人格の条件として『 統合性 』がその一つに挙げられていた。
  落ち着いて安定している時に周囲に見せる人格と、
  非常事態に陥った時に現れる人格が同じであることを言う。

  東北地域を襲った未曾有の大地震で、海外メディアは、
 『 自然災害や混乱が起きた後に必ずある略奪 』が
  日本では起きていないことについて、
  驚きと称賛の声を上げていたものだ。

  大地震や津波で多数の命が奪われ、寒さの中で
  水道やガス、一部電気が止まるという惨状の中でさえ・・・・  」

(p1~2 デニス・ウェストフィールド著「日本人という呪縛」徳間書店・2023年12月) 


ここに、東北の大震災と出てきておりました。
テーマの『安房郡の関東大震災』からは、離れてしまいますが、
東日本大震災の年に、たまたま発売日が同時となった文庫が2冊。

 寺田寅彦著「天災と日本人」(角川ソフィア文庫・山折哲雄編)
 寺田寅彦著「地震雑感・津浪と人間」(中公文庫・細川光洋編)

どちらも初版発行が2011年7月25日となっておりました。

ここでは、角川ソフィア文庫の山折哲雄解説から引用してみます。
解説の最後の方に、和辻哲郎の「風土」を紹介しておりました。

「和辻哲郎は日本の風土的特徴を考察するにさいして、
 その台風的、モンスーン的風土については特筆大書して
 論じてはいても、地震的性格については何一つふれてはいないのである。

 これはいったいどういうことであろうか。和辻はそのとき、
 数年前に発生した関東大震災の記憶をどのように考えていたのだろうか。」(p155)

こうして、解説は和辻と寺田寅彦との比較に着目しておりました。
それはそうと、山折哲雄氏はその解説のなかで、寺田寅彦の文を
直接に引用している箇所があります。それを孫引きして終ります。

「単調で荒涼な沙漠の国には一神教が生まれると云った人があった。
 日本のような多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で
 八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは
 当然のことであろう。

  山も川も樹も一つ一つが神であり人でもあるのである。

 それを崇めそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。
 また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は到るところの
  集落に鎮守の社(もり)を建てさせた。これも日本の特色である。

 ・・・・・・・鴨長明の方丈記を引用するまでもなく
 地震や風水の災禍の頻繁でしかもまったく予測し難い
 国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先
 からの遺伝的記憶となって五臓六腑に浸み渡っているからである。 」
                         ( p152~153 )


はい。コロナ禍で中止だった神輿渡御が昨年再開しました。
もう人数が少なくなり、子供会も解散したようですが、
子供会有志ということで子供神輿も昨年担いでいます。

7月の連休をつかっての神輿渡御なので、他所に出ている
若い夫婦も子供たちを連れて帰って来るようで思いのほか
昨年は子供たちがあつまり、それが印象に残っております。 


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地涌(じゆ)菩薩

2024-03-18 | 地震
「安房震災誌」に
県庁への急使とともに、
「手近で急速応援を求めねば」と思案して、もうひとつの
急使を探しあぐねている安房郡長の姿が書かれております。
そして久我氏が見つかると

「 その時の郡長は、ありがた涙で物が言へなかった。
  と後日郡長の地震談には、何時もそう人に聞かされた。 」(p233)

そして、この手近の諸村からの応援が来る

「 すると、此の方面諸村の青年団、軍人分会、消防組等は、
  即夜に総動員を行って、2日の未明から、此等の団員は
  隊伍整々郡衙に到着した。・・・  」(p233)


私は、このくだりを読んでいると、つい思い浮かべる本があります。
それは門田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」。
そこに出てくる文でした。それは宗教にかかわる話題の箇所でした。
はい。今回はそこを引用して終ります。

吉田昌郎氏の洋子夫人の言葉に、免震重要棟に本を持って行ったとあります。

「・・若い頃から宗教書を読み漁り、
  禅宗の道元の手になる『正法眼蔵』を座右の書にしていた。
  あの免震重要棟にすら、その書を持ち込んでいたほどだ。 」
                   (p345  単行本の第22章 )

そして、そのあとに小見出しで「その時、菩薩を見た」という文が続きます。

「吉田が震災の1年5カ月後、2012年8月に福島市で開かれたシンポジウムに
 ビデオ出演した際、現場に入っていく部下たちのことを、

『 私が昔から読んでいる法華経の中に登場する
 ≪ 地面から湧いて出る地涌(じゆ)菩薩 ≫のイメージを、
  すさまじい地獄みたいな状態の中で感じた 』

 と語ったことだ。これをネットで知った杉浦(高校時代の同級生)は
 この時、ああ、吉田らしいなあ、と思ったという。

『 ああ、吉田なら、命をかけて事態の収拾に向かっていく部下たちを見て、
  そう思うだろうなあ、と思ったんですよ。
  吉田の≪ 菩薩 ≫の表現がよくわかるんです。

  部下たちが、疲労困憊のもとで帰って来て、
  再びまた、事態を収拾するために、
  疲れを忘れて出て行く状態ですもんね。

  吉田の言う≪ 菩薩 ≫とは、法華経の真理を説くために、
  お釈迦さまから託されて、大地の底から湧き出た無数の菩薩
  の姿を指していると思うんですが、その必死の状況というのが、
  まさしく、菩薩が沸き上がって不撓不屈の精神力をもって
  惨事に立ち向かっていく姿に見えたのだと思います。

  そりゃもう凄いなあ、と思いましたねえ。
  部下の姿を吉田ならそう捉えたと思います。
  ああ、これは、まさしく吉田の言葉だなあ、と思ったし、
  信頼する部下への吉田の心からの思いやりと優しさを感じました 』 」
                 ( p347~348 単行本の第22章 )
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関東地震の余震。

2024-03-04 | 地震
まずは、『安房震災誌』を紐解きます。
そこにある安房郡の関東大震災を引用。

「 地震襲来の状況を記せば・・・
  南西より北東に向て水平震度起り、
  続いて激烈なる上下動を伴ひ、
  震動は次第に猛烈となり・・・

  鏡浦沿ひの激震地方は、
  大地の亀裂、隆起、陥没、随所に起り、
  家屋その他の建築物又一としてその影を
  とどめざるまでに粉砕され、人畜の死傷限りなき・・

  続いて大小の余震間断なく襲ひ、大地の震動止む時なく、
  折柄南西の方向に恰も落雷の如き鳴動起り、
  余震毎に必ず此の鳴動を伴った。・・・・  」(第1編第1章p3~4)

 安房郡の地図を示しながら語られてもいます。

「 震動の大小は・・・館山湾に沿ふた・・・
  8町村が、最も激震で、その震動の勢いは、
  内湾から、一直線に外洋に向って東走してゐる。

  そして此の8町村に隣接した町村が之れに次ぐのである。」(第4章p90)


最初の方はこうもありました。

「 今回の大震災は、銚子測候所の報告によれば・・・・
  震源地点は安房洲の崎の西方にして、
  大島の北方なる相模灘の海底である。
  震動の回数は、初発より9月25日までに850回を算した。」
                     ( 第1編第1章 p2 )

安房郡からだけでなく、ひろく首都圏から見る余震については、
武村雅之著「関東大震災 大東京圏の揺れを知る」(鹿島出版社・2003年)に
気になる記述がありますので、最後に引用しておくことに。

「 マグニチュード8クラスの代表的な地震の
  震源域(震源断層のある領域)・・・・

  太平洋プレートに伴うものとしては
  昭和27年と昭和42年の2つの十勝沖地震
  ( 平成15年には、昭和27年と同様の地震が再来 )、
  
  フィリピン海プレートの南海トラフからの潜み込みに伴うものとしては
  昭和19年の東南海地震と昭和21年の南海地震がある。

  相模トラフに関しては、言うまでもなく大正12年の関東地震がある。
  関東地震は、これらM8クラスで超一級の規模をもつ地震の中では、
  断層面の広さやすべりの大きさなど、決して最大規模のものではなく、
  むしろやや小さめの地震である。 」(p85)


この記述のあとに、関東地震の余震の特色を示しております。
はい。今回は、ここが肝心な箇所になります。

「 ・・・それにも増して(注:十勝沖地震と南海トラフと)
  関東地震による大規模余震の発生数は多い。

  M8クラスの巨大地震が発生した場合、
  M7クラスの余震が発生することはそれほど珍しいことではないが、

  関東地震の場合、その数は翌年の丹沢の余震を含めると
  実に6つに達する。つまり余震活動は文句なく超一級といえるのである。

  ・・・・伊豆半島と本州の衝突境界に近く、
  関東地震の本震の断層がすべった際に、
  特に大きくすべった周辺に大きな応力集中が
  起りやすくなることも考えられる。これらの条件は、

  一回の地震の発生で大きく変わるとは考えにくいため、
  将来再び関東地震が起こった際にも、同様に
  大規模な余震活動が起こることが十分考えられる。

  大きな地震の後には揺り返しに注意しろとよく言われるが、
  関東地震はその中でも特に注意が必要な地震だったのである。」(p85)


はい。私の視点は、首都直下地震の発生に関しての
貴重な資料として『安房震災誌』を紐解くことです。


  
  
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