和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

はなはだ仏教的なのである。

2019-02-28 | 道しるべ
古本で注文してあった
「綴方十二ヶ月の意義と価値」が届く。

はい。芦田恵之助についての関連本です。
最後に芦田恵之助の年譜がありますので紹介。
1873年(明治6年)1月8日
兵庫県氷上郡竹田村樽井に生まれる。
1951年(昭和26年)12月9日死亡。

とあります。この本はいろいろな方々が、
芦田恵之助について、書いておられます。

私が読んだのは宮本常一氏の文。
そこから印象に残る箇所を引用。

「・・私は昭和25年から35年くらいまでのおよそ
10年ほどは比較的多く民家の古文書を見てあるいた。
そしてそのとき多くのことを教えられた。・・・
・・・・・・
文字を理解しているといっても、それぞれの家に
伝承せられている文化は決して一様ではない。
一方ではきびしい儒教道徳の伝承せられている家がある。
他方には春色梅暦や浮世床、東海道中膝栗毛など
がよまれている家があり、
浄瑠璃本が読まれている家がある。
あるいはまた正信偈や蓮如上人御一代聞書のようなものが、
何代も何代も読みつがれている家がある。
そしてそれらの家々の文化が
ほとんど交りあることがなかった。

私がこんなことを長々と書いたのは、
芦田先生の中にある伝承文化がどういうものであったかを
位置付けて考えてみたかったからである。
芦田先生の家はいわゆる武士系ではなかった。
とすれば庄屋文化か、庶民仏教文化系に属するものになる。
そして芦田先生の御生涯の言動を見ると、
はなはだ仏教的なのである。
『綴方十二ヶ月』を読んでいて
私がもっとも心をうたれたのは
庄屋文化(百姓文化といってもいいであろう)や
庶民仏教的な考え方である。
そういうものが骨の髄までしみこんでいた人であった。
・・・」


はい。読めてよかった。
こういう視点は、私は五十代までは
きっと、受け付けなかったような気がします。
うん。還暦すぎての読書の楽しみ。ここにあり(笑)。

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静坐の老人話。

2019-02-26 | 短文紹介
鶴見俊輔の文「すずめの学校」に
引用されている芦田恵之助の本を、とりあえず注文。
「法楽寺の芦田恵之助先生」5巻本が届く。

その5冊目をひらいていたら、
こんな箇所がありました。

「約一時間近い静坐を解かれた先生はそのままの
姿勢で・・・『老人の静坐』とでもいうべき話を
すこしばかりされた。」

 その話を引用

「わたしは今年79歳になりました。
昨年の1月から生れ故郷の丹波竹田村に帰り、
生家の檀那寺法楽寺という曹洞宗のお寺の
衆寮で独りぐらしをしているものであります。
ご飯はお寺の大きな釜で寺のおくさんが
いっしょに炊いて下さるのですが、
お菜拵えは自分でいたします。
俎(まないた)は菓子折の蓋、包丁は肥後守一挺、
簡潔というてもこれほど簡素な形はあるまいと思います。

長らく教育におりましたが大正14年から77歳まで
全国を回って学校の教壇に立ちましたが、一応昨年で引退し、
法楽寺で自伝を書きました。・・・・下巻を今書いております。
・・締切日はございませんので倦めば四畳半でひるねをしたり、
夜は毎晩のようにやって来る甥と世間話をいたします。
甥が
『叔父さんはどうしてそんなにおもしろそうに毎日の
日ぐらしをしているのか。いつもにこにこしているではないか。
何か秘密があるのだろう。それを聞かしておくれーー。』
といいます。
『いや、わしにそんなもののあるはずがない。見た通りの男さ』
『いや、たしかにあるはずだ』
『ふん、あろうかい。じゃが、そんならお前ひとつ
 わしと一緒に坐らんか』
『坐ります』

そうすると、毎朝福知山を四時すぎに出る一番の汽車が
通ると甥は法楽寺の坂を上って来ます。甥の家は線路の側で、
法楽寺まで十分かそこいらです。それまでにわたしは
ふとんを畳んで待っております。そして丹念に30分ほど
二人で坐ります。そんな二人の静坐がもうかれこれ小一年も
つづいておりましょうか、大変元気になりました。
その甥がことし75歳で・・・・(一斉に哄笑)・・
75になった老人でも、なお静坐によって老人は老人なりに
身心の改造をとげることができる。天賦の生命力を正常に
のばしてゆくことが静坐の義でもありまして、
この経験によって、静坐は年齢にかかわらぬ
ものであるということを確信するものです。
・・・・これからも恐らくいのちがある限り静坐を行ずるつもりです。」
(p134)


はい。60歳を過ぎたころから、
こういう話を聴きたくなります。

それ以前の年齢なら、きっと、
聞きたくもなかったはずです(笑)。


とにかくも、これで芦田恵之助と、
禅宗の曹洞宗とがつながりました。
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52歳の頃の、ドナルド・キーン。

2019-02-24 | 短文紹介
ドナルド・キーンさんが死去。
そのネットニュースで、私が
最初に思い浮かんだのは、
天声人語の文でした。

ということで
「深代惇郎の天声人語」を出してくる。

昭和50年1月13日のコラム。
はじまりは、
「日本文学の権威、ドナルド・キーン教授が
勲三等旭日中綬章をうけることになったと聞いて、
重病だろうと考え込んだ知人がいた。
52歳の年齢でこういう勲章を贈られるのは、
命旦夕(たんせき)に迫っているはずだと
早合点したのである。
もしキーンさんと同じように、日本文学研究で
業績をあげた人が日本人だったらどうだろう。
まず死ぬ以外には、70歳前にこの勲章はもらえそうにない。
だからキーンさんが重体だろうと思ったのは
早トチリだったにしても、一理はあった。・・・」


こうはじまっておりました。
コラムの真中は、はぶいて、
コラムの最後を引用します。

「外人とくに西洋人に、
日本の歌舞伎や能がわかるはずはない、
と頭から決めてかかっている。
芭蕉研究の本が英語で出版されると、
『外人に俳句がわかるものでしょうかね』と、
頭をかしげて否定的な表情をする。
ところが自分たちは、
フランス文学が好きですといったりする。
日本の古典よりシェークスピア劇の方が
ピンとくるという人もいる。
相手は自分たちのことを理解できないのが
当たり前で、自分たちが外国のことを
理解できるのは当たり前だと思って疑わない。」


この昭和50年から、
日本では何がかわって、
何がかわらなかったのだろう。

明日の、新聞の追悼記事をひらけば、
少しは、その回答のヒントが得られるだろうか?

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無着成恭・芦田恵之助と道元。

2019-02-23 | 短文紹介
「めだかの学校」といえば、
たしか、鶴見俊輔の本に、そういう題の文があったなあ。
そう思ってめくっていると、ありました。

鶴見俊輔著「私の地平線の上に」(潮出版社)。
このなかに、「めだかの学校」と題した文があります。
以前に題名が、気になったので読んだ覚えがあります。

この文のなかに、
桑原武夫と鶴見俊輔のつながりが読め、
なるほどなあ、と思いました。

それとはそうと、
この文のなかに、無着成恭の文集「山びこ学校」が
ちらっと出てきたり、芦田恵之助が登場したりします。

「同志社大学には、宗教部というものがあった」(p189)
という箇所から、ひろがってゆく場面もありました。

うん。いろいろ登場するのですが、
今回、気になったのは、
無着成恭と芦田恵之助でした。

まず、無着成恭。
この方は、道元と関係があります。
旺文社「道元に出会う」に、無着成恭が書いております。
そのはじまりは

「わたしは何かのきっかけで、道元と出会ったのではない。
わたしは、小さな禅寺に生まれたので、小学生の頃から
父の口をとおしたり、父の師匠から教えられたりして、
道元のコトバを聞いてきた。・・・・はじめは、父や
師匠のコトバとして聞いていたのだ。それが道元のコトバ
だったとか釈迦のコトバだったのだということは、
あとでわかったことである。・・・」

うん。無着成恭と道元の関係は深い。
あるいは、「山びこ学校」というのも、
道元の教えと関係が深いのかもしれない。
と、自然と考えたくなります(笑)。


ちなみに、鶴見俊輔の文に登場する箇所は
こういう場面でした。
「戦後、昭和26年になって無着成恭の文集『山びこ学校』が
出たときには、欧米輸入の学術語をあてはめて日本の出来事を
分析しているような自分の学問に対して一つの打撃を
あたえられたように感じた。・・・」(p199)

お経本の「修証義」の第四章「発願利生」に

「菩提心をおこすというは・・・・
たとい七歳の女流なりとも即ち四衆の導師なり、
衆生の慈父なり、男女を論ずることなかれ、
これ佛道極妙の法則なり。・・」


うん。子どもたちに作文をかかせ
そこから無着成恭が読み解くのは、
道元の教えが支えとなっているのかもしれない。

鶴見俊輔の文に登場する、芦田恵之助の文には
直接、道元という言葉も登場しておりました。

「戦後になって芦田は、自分たちの教育運動の機関誌を
『同志同行』から『低平』に改めている。・・・・
『「低平」の語は道元禅師の典座教訓からいただいたものです。
『高処高平低処低平』とある最後の二字です。・・・」



はい。芦田恵之助って、読んだことがないので、
古本で注文することに(笑)。

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良薬・勝友。

2019-02-21 | 古典
ボーッとして過ごしてきて、
やっと仏教へ関心がむきました。


ボーッとした年月が、教えてくれる
そんな年齢というものがあるなら、
年をとることも、まんざら捨てたものじゃない。


はじめて、道元に関心をもったのは、
思い出せます。

新聞の、たしか夕刊コラムでした。
阿部謹也の「私の五点」に、それはありました。
『正法眼蔵随聞記』をとりあげておられました。
その短文のはじまりは、
「江戸時代以前の書物の中で私が大学生の頃に
よんで大きな希望を抱かせてくれたのがこの書物である。」
ちなみに、短文のおわりは
「優れた古典とは若い者に希望を抱かせるものなのである。」


まあ、その時は、
そのまま、読み過ごしておりました。
うん、気にはなってはいたのでした。

阿部謹也氏が紹介していたのは、岩波文庫。
これじゃ歯が立たない。
ちくま学芸文庫に、
水野弥穂子訳「正法眼蔵随聞記」が、
あることを知ったときには、すぐ買いました。
わからないなりに、断片が魅力でした。

50代を過ぎてから、
親の代わりに、法事へ出ることがありました。
たいてい、お寺での法事でした。
読経がおわってから、廊下へと出て、
その広間に、膳が並べられる間、
手持無沙汰ながら、庭をのぞいたり、
廊下の貼り紙に目を通したりしてました。

たまたま、曹洞宗のお寺でした。
そういえば、親戚には曹洞宗がおりました。

そうそう、貼り紙には、
こうありました。

布施 ほどこし
持戒 心身を爽やかに保つ
忍辱 堪える
精進 不断の努力
禅定 心身の調和
智慧 正しい判断

はい。持戒が、
「心身を爽やかに保つ」とあったのです。
気になって、メモして持っておりました(笑)。

そういえば、曹洞宗は道元でした。

私は、本を買うのは好きですが、
本は、読まないタイプです(笑)。

この頃も本を読んではいないなあ。

本を読まないのですが、それでも、
言葉は、読みたいのですね。

たまたま、そう思った時に、
最近は、読経用の経典である修証義を
パラパラとひらいております。

「人身得ること難し、・・
今我等宿善の助くるに依りて
すでに受け難き人身を受けたる・・
最勝の善身をいたずらにして
露命を無常の風にまかすることなかれ。
無常たのみがたし、知らず露命いかなる
道の草にか落ちん、
身すでに私にあらず、
命は光陰に移されて
しばらくもとどめがたし、
紅顔いずくえか去りにし、・・・」

うん。まあ、何となく、
こんな修証義の箇所を、
パラパラと読んでます。

今朝も起きる前に、布団のなかで、
パラパラと、めくっておりました。

そうそう。「良薬・勝友」はですね。

「法は良薬なるが故に帰依す、
 僧は勝友なるが故に帰依す、」


これも、修証義にあります。
求めるに足る、良薬と勝友。
それを目覚めると思います。
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楷書・行書。

2019-02-17 | 地域
県の高校入試の試験問題と解答が掲載されたのは、
2月13日でしたか?

別に読まないのですが、
高校入試の国語の問題に、
楷書と行書の問題があって、
パッと目に入り、印象に残りました。

へ~。中学で、楷書と行書の授業があるんだ。
ひょっとすると

私たちの世代よりも中学・高校生のほうが
楷書・行書の知識があるっていう
逆の現象がおきるのかもしれません(笑)。

そういえば、
古本で意外と安く手に入るのが、
「書道三体字典」などの書き方・書き順の本。
つい、安いと買ってしまう私です(笑)。

書き方の本で、書かないのですが、
野ばら社の高塚竹堂の書道字典は、
私のお気に入り。気に入ってても、
書かなければ、宝の持ち腐れ(笑)。

いつかは、読もう。
いつかは、書こう。
と、思いは本棚に、
たまっております。

これが、よいチャンスととらえて、
はい。中学生に笑われないように、
楷書・行書と、すこし学ぶことに。

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隣の財をかぞうるがごとし。

2019-02-16 | 短文紹介
SELF-HELP。
「完訳版セルフ・ヘルプ」(PHP研究所・2018年)。

これをパラリとひらく(笑)。


「折々にひらめいた考えや事実をすばやくつかみ、
忘却の淵に沈む前にこまめに書き留めておく方法は、
思慮に富み、勉強熱心な人々によって実践されてきた。
 ・・・・・・・・
著名な解剖学者・外科医のジョン・ハンターも、
限りある記憶力を補う手段として、同じような方法を
活用していた。思いついたことを書き留めておくことの利点を、
彼はしばしばこう語っている。

『商人が在庫調べをするようなものだ。
それを怠れば、自分が何を持っていて、
何が不足しているかがわからなくなる』
    ・・・・・・・」(p213~214)


商人といえば、日本の寺子屋教育の原点といわれる
「実語教(じつごきょう)」に

「習い読むといえども復せざれば、
 ただ隣の財を計うるがごとし。」

とあるので、なあ~んだ。
江戸時代の、寺子屋の教えが、
明治時代の、セルフ・ヘルプと、
無理なく、つながるのかも(笑)。



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作文は、養います。

2019-02-15 | 短文紹介
文藝春秋1993年4月号。
そこに、「第二回『文の甲子園』決定発表」。
小さくこうあります。
「1992年度全国高等学校作文選手権」。

はい。真ん中はスルーさせていただきます(笑)。

司馬遼太郎さんの「候補作を読んで」を引用。
「レベルが高い」と題しております。
うん。ここでは司馬さんの選評全文を引用しておきます。



「事務局の下選りのすえに残された七十篇ばかりを、
楽しく読みました。いったん採点して、
もう一度読みなおし、採点の修正をしました。
委員会に出ますと、一点ずつについて
精密な議論がおこなわれて、これなら落ちた作品も
十分にむくわれたのではないかとおもいました。

平均して前回よりもレベルが高いような印象をうけました。
それだけに優劣がつけがたく、委員たちは、
紙一重の優れた面を見いだすべく、
ときに大声をあげたりしました。

作文は、思考力、構成力、それに表現力を養います。
選者として思わぬめっけものは、
それにユーモアが加わっている場合でした。
県別でいうと青森県の作品に多く、
このことは太宰治を生んだ津軽の風土と
無縁ではないとおもったりしました。

魅力ある言語をもつということは、
個人にとっても、その個人が属する文明にとっても、
最初の条件であり、最後の条件でもあります。

次回は、未参加の高校も奮って参加されることをのぞみます。
まさか『作文など大学受験に関係がない』といって
無視されているわけではないでしょうが、
もしそうならせっかくの青春が、
殺風景すぎるようにおもいます。」


以上が、司馬遼太郎さんの選評全文。

はい。私はあらためて読めてよかった(笑)。
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『かつ丼』という言葉。

2019-02-14 | 短文紹介
山野博史著「司馬さん、みつけました。」(和泉書院)に
「提供もれがもう1つ。」とあり、
p50~51に「『全国高等学校作文選手権』と銘打つ
『文(ぶん)の甲子園』の選評(「候補作を読んで」)2篇。」

ここに、
山野さんが、司馬さんの選評を紹介しておりました。
文藝春秋の平成4年4月号は「次回のために」。
文藝春秋の平成5年4月号は「レベルが高い」。
と題して、それぞれに司馬さんの短文がありました。


うん。今回、
その雑誌を読み返せたので、
忘れない内に、私なりの引用をしなくっちゃね。
雑誌はとくに視界から消えるとすぐ見失う(笑)。


この際なので、すこし長めの引用を。

第一回目の「候補作を読んで」で司馬さんは
こう指摘しておりました。

「作文の言語はなによりも平易がいい。
 それに、魅力的でなければならない。」


うん。短いので後半を全部引用しちゃいましょう。

「・・・カツ丼の現物が目の前にあるよりも、
『カツ丼』という言葉を聞くか発音したとき、
現物よりはるかに多様でゆたかなイメージがおこる。

本来、魅力的であるはずの言語が、
さほどの魅力もなしに氾濫しているのは、
例として政局ごとに発言される言語を考えるといい。
もし、
『この程度の選択しかできないのは、
私どもの政府や国民が、その程度の
寸法しかもっていないということです』

と、赤裸に語りはじめれば、
あとの言語はすべて発光するはずだが、
正直でないために退屈になる。

正直には、勇気と鍛錬が要る。
ユーモアもそこからうまれる。

また正直であることのつらさから、
切羽づまったあげくの修辞も出てくる。
おそらく羽化したての濡れたような
言葉であるにちがいない。

こんどはいい候補作をたくさん読んだが、
高望みすると、右のような要素がすこしでも
入ってくれば、もっとよかったかもしれない。

しかし、作文のつらさは、審査者が居ることである。
むりでしょうが、意識なさらないように。」


はい。今回は第一回目の選評を引用しました。
「カツ丼」という言葉で、もう私は満腹(笑)。
明日。第二回目の選評を引用することに。


ちなみにですが、
平成8年2月12日、司馬遼太郎死去(73歳)。


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第五回文の甲子園。

2019-02-12 | 本棚並べ
雑誌に載った2ページほどの文を、
読みたくなり、本棚に探すけどない(笑)。

しかたない。
段ボール箱に入れ込んだのだろうと、思う。
思うけれども、ないかもしれない。
まあ、それほどの量の段ボールでもなし、
昨日思い立って、今日さがしていると
出て来る。ありがたい。


1996年「文藝春秋」4月号。
表紙には題字の下に赤い字で
「さようなら司馬遼太郎さん」とある。
背に「追悼司馬遼太郎の世界」とある。

今回私が読みたかったのは、
その同じ4月号に掲載されている
「第五回『文の甲子園』決定発表」でした。
そのはじまりに掲載されている作品。

沖縄県立首里高等学校二年 〇〇幸(みゆき)さんの
「忘れられないご馳走」。

最優秀作品賞でした。雑誌2ページの文です。


うん。もう誰も読めないかもしれないので、
ここに、内容を紹介してもいいでしょうね。


父親が、小ヤギを安く買って来る。
家は農家で、農繁期の忙しさに、
主人公の娘さんが子ヤギの世話をすることに。

娘さんは子ヤギに名前をつけて
朝晩世話をすることになる。

そして、12月29日。娘さんが寝ていると、
夜中に、ヤギはあっさり殺されてしまう。

娘さんは、それから二日間。
部屋にこもり何も食べない。

そこへ、ずっと養豚をしてきた
叔父が、訪ねて来る。

さて、最後の箇所を引用しておきます。

「『済んだことで意地をはるな。
体壊したら大変だろう。皆心配してるぞ』

私もいいかげん疲れていたのだろう。
渡されたヤギ汁を、勧められるままに一口飲んで、
また泣いた。おいしかったのだ。
叔父が涙と鼻水を流しながら汁を飲む私を見て、

『お前今まで何も考えないで生き物を食べてたのか?』
と言った。

『だってずっと売っているのを食べていたのに。
ジョセフィーヌは自分で飼ってるヤギだったのに』

『食べるってのは結局こういうことよ』

私の感情は納得しなかったが、
ずっと養豚をしてきた叔父の言葉には、
妙に説得力があった。
私はヤギ汁を全部平らげた。

・・・・・」


うん。探して読めてよかった。

実は、歩いて十分ほどの近くの家の方が、
絵本を自費出版なさいました。

おじいさんと孫の娘さんの話で、
ツバメの巣が、カラスやヘビに襲われて
何回も、子ツバメが孵らないということを
テーマにした絵本のストーリー。


連想から古雑誌を引っぱり出して、
この文を再読したというわけです。
 
ちなみに、この「文の甲子園」の第一回の
選考委員に司馬遼太郎の名前がありました。
大会は、2003年くらいまで続いたようです。




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雲が呼びます 青い空

2019-02-11 | 地域
母校の小学校が閉校。それと同時に、幼稚園も閉園。

わたしは、幼稚園は1年間だけ通いました。
それで、忘れたのか、どうだかわかりませんが、
町史をめくると、
園歌「ようちえんのうた」も、ありました(笑)。

それが、とっても素敵です。
(ひょっとして、園歌は後でできたのかも?)
ということで、三番まで引用しておきます。


  うみがよびます しろいなみ
  あかるくのびよと よんでます
  おててつないで なかよしは
  たのしくおうたを うたいます
  たのしくおうたを うたいます


  くもがよびます あおいそら
  つよくのびよと よんでます
  はなのにおいの かぜのなか
  げんきにおゆうぎ しています
  げんきにおゆうぎ しています


  とりがよびます おかにはな
  ただしくのびよと よんでます
  みんないいこの わらいがお
  ほんきにおえかき しています
  ほんきにおえかき しています



作詞は、真田巌
作曲は、蓮沼啓市


忘れてしまうには、
もったいないなあ、
この園歌(笑)。
  
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雲に乗る。

2019-02-10 | 短文紹介
石井桃子講演録「子どもが本をひらくとき」(ブックグローブ社)
にこんな箇所がありました。

「戦争中に『ノンちゃん雲に乗る』を書きましたが、それも
まったくの偶然です。・・・」(p14)という箇所。
それが印象に残ります。


その個所を、今回は
竹内美紀著「伝記を読もう 石井桃子」(あかね書房)から
引用してみます(笑)。

「・・・ずっと後になってから、桃子は、
インタビューの中で、戦争中のことを聞かれ・・・

桃子は、亡くなった親友の小里文子(おりふみこ)から
ゆずり受けた家の庭先で、大きな石臼にスイレンをうかべて
メダカや金魚を大事に飼っていました。

空が青く、雲が白く、
あんなに心にしみいる青い空や、
白い雲をその後みたことがない、そんな日でした。

桃子は、小さなベランダに立ちつくして、
空をあおいで酸素不足の金魚みたいにあっぷあっぷしていました。
そのうち、友人たちのためにお話を書こうと思いつきました。

このとき思いついたお話の主人公がノンちゃんです。
書きだしたら、形も何も考えないうちにどんどん出てきました。
書けた分だけ少しずつ友人のところに送ったら、
おもしろがって読んでくれました。
『ノンちゃん雲に乗る』の誕生です。

原稿を送った相手は、陸軍兵舎にいた友人です。
スキーなどをいっしょに楽しんだ仲間のひとりでした。
文化的な生活をしていた若者にとって、命令には
絶対服従の軍隊生活はとてもきゅうくつな
ものだったにちがいありません。
『ノンちゃんを読んでいるときだけは人間でいられた』
と言って、ノンちゃんの原稿を心待ちにしてくれていました。
そして、自分で楽しむだけでなく、かくしながら
友人たちと回し読みまでしました。きっと、
自由な文化の香りが喜ばれたのでしょう。

六か月くらいかかってお話は完成しましたが、
戦争中ということもあって、
すぐに日の目をみることはありませんでした。
『ノンちゃん雲に乗る』が世に出るのは、
戦争が終わるのを待たなければなりません。」
(p44~46)


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「空の町」

2019-02-09 | 地域
母校の小学校が、この3月で閉校。

この小学校の校歌は、作詞が鹿島鳴秋。
鹿島鳴秋は、「浜ちどり」の作詞者。
浜ちどりは、こうはじまっておりました。


  青い月夜の浜辺には
  親を探して鳴く鳥が
  波の国から生まれ出る


閉校する母校の校歌は、こうはじまります。

 
  太平洋の大空に
  つながる青い空の町
  浪路のはての雲にさえ
  希望の瞳輝くよ


鹿島鳴秋は、娘さんの療養のために、
この町に居た時期がありました。
娘さんは療養の甲斐なく亡くなります。

この校歌は、昭和26年制定。
この町に住んでいた縁で、頼まれての作詞でした。


母校の校舎は取り壊しが決まっております。
「空の町」が、これからも歌われ続けますように。
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セルフ・ヘルプ。

2019-02-05 | 前書・後書。
完訳版「セルフ・ヘルプ」サミュエル・スマイルズ著(PHP研究所)が
昨年の12月25日発行で出ておりました。

うん。この機会をのがすと、私のことですから、
読まないですませるかもしれません。
読んでみようと購入。

最初に「訳者まえがき」があります。
はい。私のことですから、とりあえず(笑)。
そこから引用しておきます。

「つまり、英語としての help yourself には、
『他人に依存しない』とか、『自力で』といった意味は
はっきりとは含まれておらず、第一義は
『困難な状況から抜け出す努力をする』という部分にあり、
日本語として最も近い意味は『努力』になります。
従って、上記の諺も
『天は、自ら努力する者を助ける』
『努力すれば天が味方する』と読み解くことができます。」


「あくまで私見ですが、これまでの『自助論』は、
『他人の力を頼らず、努力し、精進し、困苦に耐えて
人生を切り開き成功する』指南書として捉えられてきた
感があります。しかし、一年近く、19世紀の英語と格闘しながら、
名前だけの場合も含め700名近い実在の人物を追いかけた
私にとっては、『産業革命前後、様々な苦難の中でも、
自分の力を信じ、時に失敗しながらも、努力を続け、
助け合いながら、粘り強く人生を進んできた有名無名の人々の
かけがえのない記録』でした。」(~P5)



はい。竹内均訳「自助論」(三笠書房・知的行きかた文庫)も
中村正直訳「西国立志編」も読んでいない私ですが、
こちらの完訳ならば、読めそうな気がしてきました(笑)。
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行基と「できそこないの仏像」たち。

2019-02-04 | 道しるべ
梅原猛ほか「仏教伝来(日本篇)」プレジデント社が
古本で安かったので買ってありました。
9人ほどの人たちの文が並んでおり、
それぞれが短いので読みやすそうです(笑)。

さてっと、はじまりは梅原猛さん。
日本仏教という、雑木雑草が立ちはだかり、
道はふさがり、その全体が見通せない世界へと分け入り。
大鉈をふりかざして、けもの道をとりあえず通して
見晴らしをつくったようなp9~38の短文を読みました。
うん。分りやすいなあ(笑)。

私が興味をもったのは、行基をとりあげた
この箇所。

「行基は・・建築・造形の技能にからむ用語名称が残されている
ことからも分かるように、全国を遍歴して道路や橋梁や池堤などの
設置にかかわったのち聖武天皇に招請されて大仏造営にあたり、
大僧正位を授けられた工学の天才に恵まれた異色の学僧であった。

また彼は『日本霊異記』などによると、全国遍歴中に
数多くの木彫仏を彫り遺したとされているが、
その実態は最近まで明らかにされていなかった。
ところが以前からそのことを長く調査研究してきた
奈良大学の井上正教授の説によると、
今まで平安時代の『できそこないの仏像』と
見なされていたものの多くが奈良時代の、
それも『行基仏』であるらしいという。

その『行基仏』は、いわゆる官立寺院の本尊の金銅仏のように
左右対称の秀麗なお顔のものとは類を異にし、
千差万別、顔立ちから表情からみな個性的で、
まさしく日本の民衆の顔である。しかも目の無いものが少なくない。
それは木というものには神聖な精霊が宿っているとするアニミズム的、
自然信仰的な土着神道からくる発想があり、
それは木から出現したばかりの仏なのである。
・・・
『行基仏』の系譜は『木喰(もくじき)仏』、『円空仏』など
今なお日本人に親しまれている木彫仏へと直結する。・・」
(~p26)


はい。気になったので
学研の「人間の美術 4」を注文して、
それが今日届きました。
このシリーズは監修・梅原猛。
この4巻目「平城の爛熟」が、梅原猛と井上正と解説をしており、
写真も豊富。古本で値段も安い。


この「人間の美術 4」に
愛知県西春日井郡師勝町の高田寺(こうでんじ)に
伝わる仏像を紹介した梅原猛氏の文があり、
その文を読みながら仏像の写真を拝見していると
じ~んとしてくるものがありました(p124~127)。

はい。「できそこないの仏像」から、
見渡す展望の何と新鮮なことか(笑)。
私には、白洲正子さんの仏像ものより
じ~んと来る手応えが写真と共にありました。
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