和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

首相経験者五人男。

2015-08-31 | 短文紹介
齋藤孝著「声に出して読みたい日本語」(草思社)の
はじまりは「腹から声を出す」という章でした。
その一番が、「弁天娘女男白浪(白浪五人男)」

「知らざあ言って聞かせやしょう。
 浜の真砂と五右衛門が、
 歌に残せし盗人の、
 種は尽きねえ七里ヶ浜、
 その白浪の夜働き・・・」

すぐに忘れて、
知るか知らないかも、分からない
そんな首相経験者五人男を

WILL10月号の巻頭随筆で、九段靖之介が取りあげておりました。
そのはじまりから引用。

「首相経験者五人が、安保法制は
『立憲主義に反して違憲だ』とする意見書を
安倍首相に送った。
細川護熙、羽田孜(つとむ)、村山富市
鳩山由紀夫、菅直人の五人。
 ・・・・・・
鳩山いわく、
『日本を戦争の出来る国ではなく、
戦争の出来ない珍しい国にしたい』
丸腰の『珍しい国家』を夢想するのは勝手だが、
『わが国は国民を拉致されようが、
領土を奪われようが、何があろうと抵抗しません』
と宣言すれば、中国や北朝鮮は、得たりや応と、
なおも押し出してくるに違いない。
かつて鳩山は沖縄の普天間基地の移設について、
『国外、少なくとも県外』を主張して首相の座に就いた。
『首相になってみると、沖縄に米海兵隊が駐留する
重要さがよく理解できた。勉強が足りなかった』
この鳩山がさきごろ訪韓し、朝鮮合併時代に
『反日闘争をした志士の墓』とやらに詣で、
靴まで脱いで土下座して謝罪した。・・・
一方の菅直人は、かつてPKO(国連平和維持活動)
法案は違憲だとして、国会の壇上から
『違憲演説』を延々と続け、制限時間を超えて
降壇しない。衛士によって引きずり降ろされた
ことがある。その菅が首相に就くや、
防衛大の卒業式で演説した。
『PKOは素晴らしい法律です。
諸君の訓練をこれに活かしてもらいたい』
さらに、菅は、日本のエネルギー安保に
原発は欠かせないとして11基の原発新設計画を
推進し、さらに複数の外国へ原発の売り込みに
成功したと満面に笑みを浮かべて自画自賛した。
その菅が、さきごろ川内原発の再稼働に当たり、
地元に出かけて反対演説した。福島原発の事故で、
無用の指示を乱発して現場を混乱させたのは記憶に新しい。
原発について発言する資格があるのか、自らに問うてみよ。
この男には、およそ定見も自省もない。
そんな鳩山と菅が作ったのが、
いまの民主党だ。この8月4日、
現代表・岡田克也は訪韓して朴槿惠と会談し、
慰安婦問題でペコペコと謝り、
『日本の政治家として恥かしい』と卑下してみせた。
さらには、『安倍首相の安保法制に反対している』
とも告げた。
かつて訪中した自民党の松村謙三は、
周恩来が吉田茂を激しく罵倒し始めるや、
『私は反吉田の立場だが、日本の政治家として
貴方の意見には反対だ。聞くに堪えない。やめてくれ』
と言い返し、周恩来は言葉を失い黙り込んでしまった。
日本の政治家とした恥かしいのは、岡田のような存在自体だ。
さぞかし朴槿惠は腹のなかで笑っていたに違いない。
・・・・」(p22~23)

引用が長すぎたでしょうか。
声に出して読みたい「白波五人男の首相編」。
うん。「腹から声を出す」のがポイント。
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松本人志・お笑いの威力。

2015-08-30 | 短文紹介
雑誌WILL10月号を読む。

テレビのコメンテーターが誰も言わないことを
お笑いの松本人志が、ささやく。
いわく「王様は裸だ」。

なんてね。

「今回の『安保法制』を巡っては、
ダウンタウンの松本人志氏が
『このままでいいと思っている
のであれば、完全に平和ボケですよね』と
反対派に苦言を呈して話題となりました。」
(p49)

こう教えてくれてるのが、百田尚樹氏。
WILL誌上で
「日本が大好きだから炎上覚悟の『大放言』」
と題して、この指摘。

テレビのコメンテーターが
誰でもわかっていることを
誰もが語ろうとしなかった。
その中で一人お笑いの威力。


百田氏が指摘する「放言」文を引用。

「いま、テレビのコメンテーターと称する人たちの
クソ面白くないセリフに辟易(へきえき)している
人も多いのではないでしょうか。」

「『憂慮すべき事態ですね』というような、
誰でも言えるどうしようもないコメントばかりです。
憂慮すべき事態だとわかっているならどうすべきか
はっきり言えよ、と言いたい。・・・・
言っても言わなくてもいい発言があまりにも多い。」
(p49)

そのあとに
松本人志氏の言葉を引用しておりました。

同じWILLで渡部昇一氏は
こう指摘しております。

「メディアが金科玉条のごとく掲げてきた村山談話は、
実にインチキな手法で閣議決定されたことがすでに
明らかであるにもかかわらず、その『言葉』によって
日本は二十年間、縛られてきた。
多くの人は忘れているかもしれないが、日本は
『戦後一貫して侵略を認め、お詫びしてきた』わけではない。
この前の戦争を『日本の侵略戦争である』と初めて述べたのは
細川護熙総理であり、侵略と植民地支配を初めて公式に
謝罪したのは村山富市総理である。・・・・
朝日新聞は今回の談話について
『村山談話から後退した』としきりに批判しているようだが、
彼らの言う『後退』は、私に言わせれば『前進』でしかあり得ない。
細川発言、そして村山談話自体が誤った道だったのである。
日本をおかしくさせたその二人を含む総理経験者五人が、
しきりに安倍総理に
『談話に謝罪を盛り込め』などと要請していたようだが、
彼らにそんな資格はない。
特に村山氏は、サンフランシスコ講和条約に反対して
参加せず、日本の独立に反対していた社会党の残党である。」
(~p41)

渡部氏は
「日本は二十年間、縛られてきた」と指摘しております。
そういえば「三十二年ぶり」というのも、つい最近ありました。

「一年前、朝日新聞は吉田清治のウソ報道を三十二年ぶりに
訂正しました。さすがに各方面から叩かれ、しばらくは
反省しているふりをしていましたが、そんなものは
三カ月くらいしか続かず、今年になってからは
以前よりもさらに『反日』の度合いを強めています。」
という指摘は百田氏(p46)。

多くの日本人が忘れている現代史。
その忘却のページを、ひらく「WILL」10月号
ってとこでしょうか。

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「放言」の芯。

2015-08-29 | 道しるべ
「大放言」のレッスン。
それが、百田尚樹著「大放言」(新潮新書)。
そこに、土井たか子氏も登場しております(p198~)。

そういえば、と
佐々淳行著「私を通りすぎたマドンナたち」(文藝春秋)
をひらく。その第四章は「国益を損ねたマドンナ政治家たち」。
はじまりは「・・本来なら、前述した土井たか子さんも入れるべき
かもしれない。・・この章では取り上げるのは田中真紀子元議員と
辻元清美議員、福島瑞穂議員の三人だけになってしまった。」


ということで、田中真紀子さんが登場しております。
そこから引用。

「正直に言えば、私も短期間であれ
『日本のサッチャーになるのではないか。なってほしい』
と彼女に期待したことがあった。
盟友の渡部昇一氏などは、『田中真紀子総理大臣待望論』
という本まで書いた(もっとも、間違いだったとあとで
訂正している)。その期待は、あっけなく砕け散るのだが。」
(p165)

ここは、印象に残っているので彼女について、
佐々氏の指摘を丁寧に引用していきます。

「いやはや、首相になった時、自分が自衛隊の最高指揮官で
あることを知らなかった菅直人氏にも唖然とさせられたが、
田中直樹氏は、それ以上というか、それ以下の存在だった。
・・・彼女もそのあと、小泉内閣時代の外相となったあたり
から馬脚をあらわしていく。夫婦揃って、国益を損ねる
政治家であったと断じるしかない。」(p167)

「キャッチフレーズを作るのが抜群に上手いから
『外務省は伏魔殿』と言って、自分はそれを改革する
のだとマスコミにアピールしていたが、彼女の正体は
改革者などではない。つまり『婦人と解放』でも
『平和と平等』でも何でもいい。政治家としての
『これが自分のやるべきこと』という芯になるものがないのだ。」
(p171)


「ただ先述のように、一言で本質を表すような
キャッチフレーズを作るのは抜群に上手く、
ユーモアもある。ただそれが悪口にばかり発揮されて、
政治家の建設的な言葉として聞けないのが残念だ。
品性はやはり、政治家に欠くべからざる
重要な資質なのである。」(p172)


キャッチフレーズに踊らされるのは、
年齢に関係ないにしても、
品性を見抜ける年齢とは、
何歳ぐらいからにしましょうか。


「キャッチフレーズを作るのは抜群に上手く」
「ただそれが悪口にばかり発揮されて」
との指摘から、私は
朝日新聞「見出し」を、思い浮かべてみる。

ということで、震撼の(じゃなかった)、
新刊の「放言」へのレッスン教本2冊。

百田尚樹著「大放言」
佐々淳行著「私を通りすぎたマドンナたち」


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「大放言」啓発本。

2015-08-28 | 短文紹介
本屋で新書を買う。
百田尚樹著「大放言」(新潮新書)。
2015年8月20日発行
2015年8月25日2刷とあります。
サイン入りなので買う(笑)。

最後の番外編に
2015年6月25日の自民党若手勉強会での「懇話会」
について書いておりました。

そこに左翼系新聞の相関図として、
こうあります。

「今回の炎上はかなり大規模なもので、
朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、中日新聞
沖縄タイムス、琉球新報、北海道新聞といった
左翼系新聞が軒並み一面トップ記事にし、
その後、他の地方紙も追随して一面で扱い、
またNHKや民放テレビ局各社も
ニュースやワイドショーで取り扱うほどの
騒ぎとなったので・・・書き加えることにした。」
(p224)

「朝日新聞をはじめとするいくつかの新聞には
『絶対につぶさないといけない』と発言したと書かれた。
だが私は『絶対に』などという言葉は使っていないし、
断言もしていない。朝日新聞の英字ニュースはもっと陰湿で、
『あらゆる手段を使って廃刊にしなければならない』と
発言したと書かれた。明らかに悪意に満ちた捏造である。」
(p228)

「もともと取材お断りの席での発言を盗み聞きして紙面に
載せるだけでもひどいのに、その場にいた誰が聞いても
わかる冗談を『暴言』に仕立てて記事にするのは、
あまりにやり方が汚い。」(p229)

「私に対して最も強い怒りを表明したのが、
沖縄の『琉球新報』と『沖縄タイムス』だ。
二紙は私の発言の翌日、共同の抗議声明文を発表した。
ところが、実は二つの新聞社は私の発言を直接聞いていない。
つまり他のメディアからの伝聞記事で私を断罪したわけだ。
それでも報道機関なのかと言いたい。・・」
(p231~232)


はい。どれも、
テレビのニュースやワイドショーでは、聞けないなあ。
現代は「あまりにやり方が汚い」新聞報道が
まかり通る、安易な伝聞記事の恐ろしさ。
というか、その伝聞を刷り込まれる読者の哀しさ。



それはそうと、百田氏はどのような人なのかも
この新書で知りました。

あとがきに
「私の放送作家人生の前半は『クビ』の歴史でもある。」

「家内の言葉を見たときは、参ったなあ、と思った。
そこにはこう書かれていた。
『この人、叩かれることのストレスよりも、
言いたいことを黙ったままにしておくストレスの方が大きいから』
さすが三十年以上も連れ添った嫁はんである。」
(p223)




「私は五十歳までテレビの業界にいた(今でもいる)。」(p112)


「テレビは活字と違って、表現の自由がかなり厳しい。
活字ではOKになる言葉でもテレビではNGになるケースも多い。」
(p159)

ところで、
本にまつわる話もいろいろ出てきて興味深い。


「たまに地方で講演すると、控え室で地元の名士や
有力者に挨拶されることがある。
『私は百田先生の御本の大ファンです』
嬉しくなって握手する手にも思わず力が入る。
が、その力が抜けてしまうときがある。
『私はこう見えても読書家でしてね、
先生の御本もいつも図書館で予約して
一番に読ませていただいております』
なるほど、読書家ね、と私は心の中でため息をつく。」
(p101)

ああ、私なら『古本で買います』と、
つい、言ってしまいそうな気がする(笑)。

自己啓発本に関する箇所もハッとしました。


「私が働くテレビ局のアルバイトの男子学生が
休憩時間に本を読んでいた。それはいわゆる
自己啓発本といわれる本だった。・・・
私が『面白い?』と訊くと、彼は
『面白いというよりも、ためになります』と答えた。」
(p153)
「こんな話を某一流商社に勤める友人にすると、
彼はにやりと笑ってこう言った。
『うちの会社の若い社員にも、自己啓発本を
習慣的に買う人間が少なくない。そういう奴の
本棚には自己啓発本がずらりと並んでいる』
『自己啓発本マニアか』
『でも、書いていることは、みんな同じようなこと
なんやろう』
『そう。表現を変えているだけで、中身はだいたい同じ』
『なんで、同じ本を買うんや?』
すると、友人は意地悪そうな顔をして言った。
『お前も、若い頃は毛生え薬を何種類も買っていたやろ』
私は思わず、なるほど!と唸った。」
(p155~156)

「友人はまた面白いことを言った。
『俺は思うんだが、自己啓発本は栄養ドリンクのような
ものじゃないかと』
『ほう、それは?』
『飲んだあとは、気分がすっきりしてやる気も起こる気がする。
たぶん、プラシーボ効果やろうけど、その効果も三日ぐらいで
消える。で、また新しいドリンク剤を買う』
『そうすると、そのドリンク剤、中毒性があるんやないか』
私の言葉に友人は大きくうなずいた。
『そのとおり。しばらく飲まないと禁断症状が出てきて、
新しいのを飲みたくなる。だから書店にあれだけ
自己啓発本が並ぶんや』
大いに納得の一言であった。」(p158)

う~ん。さしあたりこの新書は
「大放言」啓発本(笑)。
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聖心女子大といえば。

2015-08-27 | 道しるべ
聖心女子大といえば、
曽野綾子・美智子皇后さまと
思い浮かぶわけですが、

雑誌WILL10月号の蒟蒻問答に
どういうわけか、聖心女子大のことが
登場するのでした。気になるので引用。


堤】 戦後70年と一口に言うけど、70年も
経てば戦争を知らない世代が増えたのも当然だね。
5年ほど前、俺が司会を務める公開討論で、
一人の中年男性が立ちあがってこんなことを言った。
自分は聖心女子大で教鞭をとっている。
クラスには41人いるが、
新聞を読んでいる人はと聞いたら4人しか手を挙げない。
かつて日米が戦ったことを知っている人はと聞いたら、
なんと21人しか手が挙がらなかったというんだ。
俺は驚いて、散会後にその教授に近づき、
『さっきの話は本当ですか?』
『本当です』
『じゃあ、アメリカ軍が沖縄に駐留している
意味合いもわかりませんよね?』
『わかるわけがありません』
『原爆はどうです?』
『落とされたことは知っているようですが、
誰が落としたのか、わからないでしょう』
『だとすれば、天から降ってきた
天罰だということになりますよね』
『ですから右も左もない。
とにかく子供らに歴史の事実を
教え込まなきゃいけませんよ』
そんな会話があった。
聖心女子大といえば、国母・美智子皇后が出た大学だ。
それでいてこの始末だ。
(p95~96)


うん。他の問答の箇所もふくめてですが、
今回の蒟蒻問答は再読の価値あり(笑)。
うん。いつも楽しみにしているのですが、
今回の手ごたえは、
サイレント・マジョリティにも、しっかりと
とどく語り口となっていると私には思えました。


注文してあった古本の
「経典余師 孝経之部」が昨日届いている。

アテネ堂古書店(福井市北野下町)
1000円+送料180円=1180円
再刻。冊子はきわめてきれいで
ひらくのが楽しみ。
うん。私の場合は、
くずし字を読む練習用に(笑)。

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追随するテレビの報道。

2015-08-26 | 短文紹介
雑誌「WILL」10月号が昨日ポストに届く。

ところで、
2015年前期新聞朝刊販売数を検索すると、

読売新聞 912・4万
朝日新聞 679・8万
毎日新聞 327・9万
日経新聞 273・6万
産経新聞 161・5万

とあります。
産経の4倍強もある朝日新聞。
朝日と毎日がタッグを組めば、
読売新聞より部数が多くなる。
多数決なら、そうなってしまう。


さてっと、8月25日産経一面に
編集委員・田村秀男氏の署名記事。
その書き出しは、

「人民元切り下げをきっかけに、
中国経済の自壊が始まった。
チャイナリスクは世界に広がり
堅調だった日米の株価まで揺さぶる。
党が仕切る異形の市場経済が巨大化
しすぎて統制不能に陥ったのだ。
打開策は党指令型システムの廃棄と
金融市場の自由化しかない。
中国自壊はカネとモノの両面で同時多発
する。11日に元切り下げに踏み切ると、
資本が逃げ出した。党・政府による
上海株下支え策が無力化した。・・」


朝日新聞に、こんな
署名記事は載るだろうか。
朝日との比較はもういいか。
それでも、多数派の動向は気になる。

WILL10月号の巻頭コラムで
門田隆将氏の文に、
 
「朝日の8月15日付社説は・・・
毎日新聞や東京新聞も、朝日の社説と似たり
寄ったりだった。テレビの報道も、これに追随
していた。それは、実際の談話を聞いていた
多くの日本人が『溜息をつかざるを得ないもの』
だったと言える。」(p27)

うん。「実際の談話を聞いていた」
少数派の日本人として、
つねに数字を少なく見積もっておきます。
『溜息をつかざるを得ない』人も少ないのだ。
そういう少数派に属する光栄。


堤堯の今月この一冊は
田村秀男著「人民元の正体」(マガジンランド)
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節用集。

2015-08-25 | 地域
加藤秀俊著「メディアの展開」。
その第四章「知識の整理学――百科事典雑話」に
節用集をとりあげた箇所あり。

「その『節用集』を明治になって継承したのが
明治27(1894)年、博文館が刊行した
『伝家宝典明治節用大全』である。
昭和49(1974)年のその覆刻版を
わたしはいまでも折にふれてこれを参照する。
通常の辞書や百科、さらにウィキペディアのような
検索でもわからないようなことが
『節用集』には記載されているからだ。・・・
任意のページをひらくだけで読みふけってしまう。」


はい。すぐに古本で注文して手元に(笑)。
引用をつづけます。

「その刊行の趣旨と編集方針をみると、
これがまたおもしろい。いわく、

節用の書古今数十種、其間詳略精疎の別ありと雖も、
皆な能く日常必需の事項を網羅し、之を坐右に備ふれば、
大抵の事弁ずべからざる無し、
故に地方に在て良師に乏しきの士が
万有の事物に通暁するは、
蓋し節用に就て学ぶより善きは無し。・・・

これで『節用集』というものの効用がわかってくる。
これを一冊、手もとに置いておけば『大抵の事』を
弁ずることができるのである。とくに
『地方に在りて良師に乏し』いひとびとを読者
あるいは利用者として想定しているところに注意しよう。
・・・第九章でふたたびふれることになるが、
18世紀の日本の各地方には『独学者』が
おどろくべきスピードで増加していた。
かれらにとって『節用集』は必須の参考書でもあったのである。」
(p186~188)

『整理学』『独学のすすめ』とは
二つして加藤秀俊氏の本の題名でした。
そんな身近なキーワードに
この『メディアの展開』をひらいていると
であえる楽しみ(笑)。
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二宮金次郎像が読む本は?

2015-08-24 | 短文紹介
加藤秀俊著「メディアの展開」の
第九章は「学問の流行――ひろがる文字社会」。
そのはじまりは、落語からでした。

「ご存じ、落語『小言幸兵衛』は、こんな語り口ではじまる。」

興味深いのは、『経典余師(けいてんよし)』を
とりあげてゆく箇所なのでした。

「なによりも画期的だったのは『経典余師』という
革命的な教科書の出現であった。」(p434)

 「さきほどみたように、赤津寺子屋では『論語』
『大学』などが教科目のなかにはいっていた。
いうまでもなく、一般に『四書五経』とよばれる
むずかしい書物である。いったい、このむずかしい
書物をどんなふうに東北の寒村の児童たちは学んだ
のであろうか。漢字だらけの大陸の古典を原本で読む
ことなんか、ふつうの人間にはとうていできた相談ではない。
あの難解な『四書五経』をはじめとする哲学・倫理の書物を
どうやって読むことができたのか。簡単にいうと、
原本を手軽に読むためのアンチョコがあったからである。
そのアンチョコを『経典余師』という。・・・」(p435)


さてっと、
ここで加藤秀俊氏は二宮金次郎を登場させております。

「だいたい、この本の表題になっている『余師』というのは
『あり余るほどの先生』といったような意味で、これさえあれば
『独学』で大陸の古典を身につけることができる、という意味。
二宮金次郎が薪を背負いながら書物を読んでいる姿を模した
銅像はかつての小学校の校庭の風物だったが、あの金次郎が
手にしている本も『経典余師』であった可能性が高いという。
じっさいかれの図書購入記録をみると文化九年、二十六歳の
ときに金二朱でこの一冊を買ったことがあきらかだし、
『余師』の初版はそれよりも二十年もまえの天明六(1786)年
だから、あの銅像の少年期の尊徳が村の篤志家から『余師』を
借りて読んでいたとしてもふしぎではない。これだけ
懇切丁寧な解説のついた書物であれば『師匠いらず』であり、
寺子屋にゆかなくとも四書五経のたぐいは完全に読破する
ことが可能になったのである。それが爆発的な人気で
全国にゆきわたり・・・」(p439)


ちなみに、
この章のおわりに参考本の紹介があります。
そのなかに
鈴木俊幸著「江戸の読書熱」(平凡社選書)があり、
こちらの第三章は「『経典余師』というモデル」でした。
そのはじまりは、

「今ではあまり見かけなくなったが、筆者の子どものころには、
ほとんどどこの小学校の校庭にも二宮金次郎尊徳の銅像があった。
薪を背負って歩きながら書物(「大学」ということになっている
らしい)に見入る、まだ前髪を残したその姿は、さまざまな困難に
も負けず独学を自分に課して自己を向上させていこうという彼の
生き方を象徴、顕彰したものである。・・・
一般の人間が、師につかず、出版物によって一人独学で学問の
道に分け入ろうとすることなど、尊徳が生まれた頃には、
まずあり得なかったし、発想だにされなかったにちがいない。
それが、尊徳が人となるころにはあり得ないことではなくなって
いたのである。」(p145)

この「あり得ないことではなくなっていた」
時代を、加藤秀俊氏はゆっくりとたどってゆきます。
そして、第九章「学問の流行――ひろがる文字社会」の
最後は、こうでした。


「日本の『近代思想』を論ずる書物や論文をみると、
福澤諭吉の『学問のすすめ』がひろく庶民大衆によって
愛読された結果、匹夫野人にいたるまでが学問に興味を
もつようになりそこから社会の文明化がはじまった、
というふうな解釈がふつうになっているが、
わたしのみるところではそれはマチガイである。
福澤のあの本が明治のベストセラーであったことに
異論はないけれども、べつだん福澤によって『啓蒙』され
なくたって十八世紀の日本人はすでにたいへんな
勉強好きの民族になっていたのであった。
『学問のすすめ』はすでに高速道路を疾走している
自動車のアクセル・ペダルをさらに踏み込んだような
ものにすぎなかったのではないか、とわたしはおもっている。」
(p447)
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ハンドルネーム落語。

2015-08-23 | 道しるべ
加藤秀俊著「メディアの展開」が楽しい。
うん。どの章から読んでも味わいを楽しめる。

はじまりの
「はしがき――わが『徳川四百年史観』」は

「日本と日本の歴史について、わたしにいささかの
基礎教養があるとしたら、それはおおむね落語に
はじまる、といっていいのではないか、とおもっている。」
とはじめておりました。

落語といえば、「熊さん・八っあん」ですが、
第七章「江戸の『社交力』――自由な『連中』」
に、個人的けいけんとしてハンドル・ネームの
ことを語られて興味深い(笑)。


「それは現代のわれわれがネット上で『ハンドル・ネーム』
を勝手に名乗って『別人格』になるのと似ている。
まったくの個人的経験だが、わたしなどもパソコン通信の
初期のころ、ネット上で知り合ったひとびとと
『現実世界』での『オフ会』というのになんべんも
出席したことがある。あつまるのはすくないときで
数人、多くても二十人ほどだが、新聞記者、学生、大学教授、
フリーター、老若男女、みんな『ハンドル』で呼び合う。
『熊さん』『クルミちゃん』『坊主』といったふうに。
何年もつきあっているうちに本名や職業もわかってくるが、
ふしぎなことに会話はつねに『ハンドル』である。
相手が某大学の白髪の老教授であることを重々承知の
うえで『八っあん』などと仮想現実での名前で会話が
すすむ。むかし、はじめてオフ会に出席したときには
すくなからず戸惑ったが、そういう作法に慣れてしまうと
『仮想現実』のおもしろさが理解できるようになってくる。
おそらく狂歌の仲間たちも『木網さん』『朱楽さん』と
『ハンドル』でおたがいに声をかけながら作品の合評を
たのしんでいたのではあるまいか。
さらにもうひとつ書きくわえておくと、
このサークルには年齢階梯の序列もなかった。・・」
(p306~307)


うん。まだ数章しか読んでいないのですが、
もったいなくて、先にすすめない私がおります(笑)。
コメント (2)
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辻元清美。

2015-08-22 | 短文紹介
雑誌WILL9月号の蒟蒻問答を読み返す(笑)。
そこから引用。

編集部】 予算委員会では、与党は野党の質問に
答えるだけで、与党からは質問できません。
野党が対案を出していればまだしも、出していない。
ようやくギリギリになって出してきて、
『審議が不足している』と言われても困りますよね。
それも民主は独自に出さずに維新に『相乗り』。

その少し前に

久保】 安倍は毎日、『何だこの質問は』と
腸煮えくりかえるような気持ちでいるんだろうね。

堤】 で、辻元清美に『早く質問しろよ!』と
言っちゃった(笑)。

 ・・・・・・・

堤】 だけどこの一件を報じるメディアは、なぜ
辻元の長ゼリフのバカらしさを批判しないのかね。
朝日新聞なんか、辻元におんぶに抱っこだ。
これは元海上幕僚長・古庄幸一氏から聞いた話だけど、
ある討論会で辻元と同席した。ソマリアの海賊について
辻元が、『海上自衛隊を出すから、海賊が出やはるんですゥ』
と言うから、古庄さんは言った。
『それは「鍵をかけるから泥棒が入る」というのと
同じ理屈ですな。辻元さんのお宅は鍵をかけないんですか?』(笑)
そんなお粗末な女が民主党政調会長代理だ。
この政党がいかにガラクタ政党かが、
この一事をもってしてもわかる。(p307)



そういえば、
佐々淳行著「私を通りすぎたマドンナたち」にも
辻元清美氏が登場しておりました。
この機会に以下に引用。

「辻元氏とは国会などでやり合ったことはないのだが、
テレビに出演した際、何度か顔を合わせたことがあった。
怖いもの知らずで元気のいい女性がぎゃんぎゃん叫んで
噛みついているだけで、凄みとか鋭さといったものは、
あまり感じなかった。政治や政策といった内容以前に、
社会人経験の差が大きすぎて、相手にしていなかった
のかもしれない。
とはいえ、私が珍しく怒ったときがある。
アメリカの同時多発テロ事件(2001年9月11日)の直後、
『TVタックル』で一緒になったとき、日本がテロ事件に
巻き込まれたときどうするのかがテーマだったように思う。

1960~70年代、数々の爆弾事件があり火炎瓶闘争があり、
ハイジャックから内ゲバまで引き起こして平穏な社会を
震撼させた過激派と闘ってきた私の体験、治安警備の
経歴を、彼女が知っていて言ったのか知らずに言ったのか、
いまだにわからないのだが、聞き捨てならないことを言った。

『公安の担当をしていたのなら、本来ならそういうことが
起らないような防止策をとるべきだ。爆弾事件などが
起ったのは佐々さんが怠慢だったからじゃないですか』

こんな趣旨のことを一方的に言われては黙ってはいられない。
真っ正面から反論した。

『テロ防止は当然のこと、この手の暴力犯罪を防止する
ような制度、体制づくり、そういうものに初めから終わりまで
徹底的に反対して、防止策が取れないようにしてきたのは、
あなた方の前身、社会党じゃないか!
治安当局、政府のやることを長い間、邪魔ばかりして、
防止する手段をとれないようにするから爆弾事件なんかが
起こるんだ。こういう場所に出てきて発言するには、
あまりにも事実認識が甘いよ!』

憤って激しく反論した。
国民の安全を確保するために、少しでも監視の目を
厳しくしようものなら、戦前の特高警察の再来だの、
治安維持法の復活だのと大騒ぎしてきたのは社会党
などの左翼勢力ではなかったか。

イデオロギーに囚われた無責任な議論が、
過激派の跳梁跋扈を許したのである。
過激派と最前線で戦ってきた機動隊の中には
少なからぬ死傷者も出ている。今もって、
後遺障害に悩む元隊員たちがいるのである。
私自身が手抜きだと言われたのなら
まだ我慢もできる。だが、当時の公安活動を
社会党がことごとく邪魔をしたという事実があり、
今もって苦しむ部下がいると思うと、
この発言は許せなかった。
私は、相手が立場をなくしてしまうような発言は、
まずしない。テレビであればなおさらだが、
このときは猛然と怒ったのである。・・・
(~p177)
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供養塔。

2015-08-21 | 地域
防災士の講習を受けたことがありました。
それでもって、地域の震災記念碑を
碑文にそって朗読したことがあります。
それでなのか。
取材があるので来てほしいと、支所から電話。
何でも本日の午後3時頃、供養塔の前で、
簡単な説明をすることに。
区長さんが早くこられて、
周りの雑草を刈っておられる。
供養塔は、明治31年3月に建立されたもの。
明応7年の大地震大海嘯から、
天正・寛永・慶長・元禄・安政と記され、
明治10年の西南の役・明治27年征清役
最後は明治29年6月15日三陸地震大海嘯
とあり、
明応から明治29年までの間の天変地異による
災難、または国難によって命を失われた人々への
御霊を慰めるための供養塔。

興味深いのは、
明治29年6月15日の三陸地震大海嘯から
三年後の明治31年3月にこの供養塔が建立されていること。

現在でいえば、
東日本大震災の三年後に
東日本ではない地元に供養塔が建てられた
という経緯。

もちろん現在は、供養塔は建てられませんでしたが、
東日本大震災の4年後に、取材がこられた(笑)。
ということで、私もたいへん勉強させられました。

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書評「戦後70年安倍談話」。

2015-08-20 | 書評欄拝見
「新潮45」9月号の
特集「『安倍嫌い』を考える」は
佐伯啓思・竹内洋・神山仁吾・青山繁晴
吉崎達彦・古谷経衡・菊池哲郎・小田嶋隆。
全員の方を要約するのは、
それなりに価値があるのでしょうが、
線を引くだけで終りにする(笑)。


うん。口直しに、久しぶりに
「週刊新潮」8月27日号を買うことに。
はじまりの写真がいいんだ。
高知県大豊町「棚田の四季」の写真が4枚。
春夏秋冬の写真。
田んぼの中に祠があり、
祠の周りの田んぼの四季がみずみずしい。
うん。これだけでも気持が洗われます。
そう。思わず「芸術新潮」の世界(笑)。

さてっと、櫻井よしこ連載の
「日本ルネッサンス」は、戦後70年談話を
読んでその書評をしているのでした。
こちらも、すがすがしい。
以下は、櫻井氏の文からの引用。

「談話発表まで、日本の多くのメディアが
報じたのは・・・4語をキーワードとし、
これらが談話に盛り込まれるか否かという
浅い議論だった。中韓両国も注文をつけ続けた。
静かに歴史を振りかえり、未来に思いを致すことを
許さない非建設的な雰囲気の中で安倍首相が語った
のは、大方の予想をはるかに超える深い思索に
支えられた歴史観だった。」

「米戦略国際問題研究所(CSIS)の日本部長、
マイケル・グリーン氏は『侵略や植民地化への
言及や反省に関する表現は多くの人が予想した
以上に力強かった』と語り、評価している。」


「・・・首相は振りかえり、戦後の日本の思いを
行動で示すため、『インドネシア、フィリピンはじめ
東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、
隣人であるアジアの人々が歩んだ苦難の歴史を
胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために
力を尽くしてきました』と述べた。・・・
東南アジアの国々に続いて、台湾、韓国、中国、と
台湾を筆頭にあげた・・・
日本の歴代政権は日本と中華人民共和国との
国交回復以降、72年の共同声明の精神に基づいて、
『ひとつの中国』という考えを『理解し、尊重』
するとして、諸国の国名と並列で台湾を明記する
ことはなかった。
並列で明記した談話から読みとれるのは、
中国の主張は理解し尊重するが、それは
100%の同意ではない、ということではないか。
ここには日本が大事にしようとする価値観が
にじみ出ている。・・・

会見の質疑応答では、こうも述べた。
『残念ながら、現在も紛争は絶えない。
ウクライナ、南シナ海、東シナ海での力による
現状変更の試みは許されない』。
驚く程率直な、中国及びロシアに対する
痛烈なメッセージではないか。」


「談話で最も重要な点は
『私たちの子や孫、そしてその先の世代の
子どもたちに、謝罪を続ける宿命を
背負わせてはなりません』と語り、
謝罪に終止符を打ったことだ。
謝罪の終わりを宣言したことは、
中国、朝鮮半島のためにも評価すべきだ。」


安倍談話を読んだ櫻井氏の
噛んで含めるような書評です。
そんな、しっかりした手ごたえが嬉しい。
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とりあえず、古本届く。

2015-08-19 | 本棚並べ
今日古本届く。
「伝家法典明治節用大全」

波多野書店(東京都千代田区神田神保町)
2000円+送料610円=2610円

函入り。復刻版。

とりあえず。報告(笑)。

あと、今日「新潮45」9月号発売。
とりあえず、中国亡命漫画家を見る。

今日はここまで(笑)。

裏の借りている畑で、
雑草を取り。夕方飲み会。
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江戸深川情緒

2015-08-18 | 地震
注文してあった古本が届く。

古書ワルツ(東京都青梅市成木)
800円+送料300円=1100円

深川区史編纂会「江戸深川情緒の研究」(有峰書店・昭和50年)。

解説は、こうはじまります。

「深川情緒の研究は、原名を『深川情調の研究』といい、
大正15年3月に完成した『深川区史』の下巻として刊行したものである。」


パラリとめくると、
172頁の次の写真は、三代豊國の図「江戸名所百人美女」の「永代橋」。
裏に説明があるので、せっかくなので全文引用。


「   船宿の女房

『女天下』といはれた船宿の女房は、
飲んで、寝て、起きて、食ふのが仕事である亭主を
自分の権力下に置いて、家政一切を切り廻した
『きやん』の標本であつた。
図は三代豐國の『江戸名所百人美女』中の『永代橋』と
題するもので、大川端の船宿を描いたもの、
今しも女房が手あぶりと蒲団とを舟へ入れにゆくところである。
客が舟に乗ると、『お帰りにお寄り遊ばせ』と
船の軸を持つて押し出すのが常であつた  」


ちなみに、この『深川区史』が出た大正15年といえば、
たとえば、「大正震災志」が出た年です。

この本の序言(西村真次)にも、触れておりますので、
そちらも引用。

「深川区史編纂会が深川区の有志者によって組織され、
そこから『深川区史』が編纂、出版されることに決定した
・・それは大正11年7月のことであった。
爾来、和田氏は史料の蒐集、起稿要目の決定に従事し、
愈々執筆に就かうとした際、あの12年9月の大震火災で、
殆どすべての材料、草稿が焼失し、残ったものは
ほんの僅かばかりであった・・・・
書き綴りながら、私は幾度も幾度も震災の日を追憶して、
愚痴ではあるが、若しあの材料が焼けなかったらと
口惜まざるを得なかった。・・・
乏少の材料と有限の時間とでは・・
僅かに其外線を捕へたに過ぎなかった。
まことを云へば、研究はこれからである。・・
こうした未熟のものを、殆ど生の儘で版に上す・・」


せっかくですから、本の結語の最後の言葉も引用。

「本書に於ける私の意図は、主として江戸時代の情調を
明かにする点にあったから、或特殊の場合の外は
明治以後には触れなかった。明治時代の深川情調は
江戸時代の残片であり、それは辛じて大正時代まで
生命を続けてゐたのに、大正12年の大震火災によって、
殆ど根底的に覆されてしまった。
焼けた灰の下、砕けた石の裏、沈んだ船の底には、
今まさに旧情調の養分が新情調を育みつつあるのを私達は見る。
・・・今日は即ち旧情調と新情調との分界点である。
新情調の光輝が旧情調の上を越えてさすであろうことは、
ひとへに深川民衆の努力に期待せられねばならぬ。
私は本書の末尾に於いて、後に来るべき深川情調の
光輝と栄誉とを祝福する。」
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せどり・瀬取り・背どり。

2015-08-17 | 短文紹介
加藤秀俊著「メディアの展開」(中央公論新社)を、
パラパラとひらいたところから読むことに(笑)。

なめらかな語り口のなかに、
たとえば、こんな興味深い箇所が
さりげなく出てくる。

「じつのところ『本屋』という商売じたいが
企画、整版、出版、卸し、小売り、貸本、
新古書購入、交換、そしてときには執筆、
画工、といった『本つくり』とその周辺の
あらゆる商売をふくむもので、しかもこの
『業界』のなかでの兼業もめずらしくはなかった
ようなのである。それは本の市場とその周辺で
生計を立てる『ブローカー』といってもよい。
近代初期から日本では、そのブローカーのことを
『せどり』といった。もともと、このことばは
接岸不能の大型船舶から積み荷を小舟に移して
差益を稼ぐ『瀬取り』からはじまったものらしいが、
書物をめぐる業界では『背どり』と宛て字をする。
狭義には古書売買での利ざや稼ぎだが、
書物をあちこちに転売したり、貸したものを売ったり、
要するに本を移動させて手間賃を稼ぐ商売のことをさす。
それだけではない。多くの作家はこの『せどり』を
兼業しながら、あるいは『せどり』でいささかの資金を
つくってから創作活動にはいった。たとえば、
広重は貸本屋の紹介で歌川豊広門下にはいることができた。
北斎は板木屋をしながら貸本屋をいとなんでいた。
河竹黙阿弥も貸本屋の手代をつとめたことがあったし、
西沢一風や為永春水も貸本屋。
そればかりか、明治になってもたとえば田山花袋などは
その幼少期を貸本屋、というより『せどり』の見習い
小僧としてすごした。かれがさいしょに奉公したのは
有隣堂(現在の同名書店とは関係なし)という出版社。
失業士族がつくった農業関係の出版社。
しかし、ここは出版だけでなく『主人から命じられ
書付乃至帳面を一々見せてきいて』本屋をあるいた。
つまり書物探索係である。注文された本があれば
それをお得意に配達する。『車を曳いたり、あるいは
本を山のように背負ったりして取引先やお得意の家を
廻って歩いた』と花袋はその自叙伝『東京の三十年』
にしるしているのである。
ところで貸本の世界のなかでとくに注目すべきことは
書物と遊里とのかかわりである。さきほどみたように、
貸本屋のお得意のなかでは婦人読者を無視することが
できなかった。・・・・
落語『品川心中』で板頭(いたがしら)をつとめる
遊女お染が心中の相手としてえらんだのは貸本屋の
金蔵(きんぞう)であった。相手が職人でも、大店の
番頭でもなく、貸本屋という設定がなんともいえない
おかしさを演出してくれる。貸本屋というのはちょっと
表現しにくい職業イメージだが、遊女たちの日常の
出費のなかにも、小間物や按摩代とならんで貸本屋への
支払いというのがあったというから貸本屋と遊女の関係
には微妙なものがあったのだろう。書物によって
新知識を身につけるのも歌や踊りとならんで『芸』の
ひとつだった、といってもよい。」(p291~294)


う~ん。加藤秀俊氏のこの新刊を、読み齧ったばかり。
読み終るのが、もったいない一冊。
語り口に淀みがなく、さらりと読み過ごしてしまいそう(笑)。
印象深い引用本を検索しながら、よちよち読ませて頂きます。
コメント (2)
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