和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

政治の授業。

2011-11-30 | 短文紹介
屋山太郎著「日本人としてこれだけは学んでおきたい政治の授業」(PHP研究所)を読んでいるところです。ああ、たのしいなあ。よくわかる愉しみ。

とりあえず。第1講。
そこには、中西輝政氏の名前が登場しておりました。

「・・・これこそ日本文明の特徴で、京都大学の中西輝政教授にいわせると、日本の文化は「堆積の文明」だという。一つひとつの文明が堆積して、それで1500年からもっと前、神道とか仏教とか儒教から数えると、古い価値観が一つも排除されずにミックスドアップして日本の精神的伝統、価値観が形成されています。・・」(p51)

第1講の最後は、こうありました。

「戦後の自虐史観、日教組教育とは一線を画した教科書が先述の『新しい日本の歴史』で、市販もされています。「『伝統と文化の尊重』を挙げた改正教育基本法の趣旨に最も適っている」(神奈川県横浜市の採択理由)ということで、歴史・公民を合わせて全国409の公立校で採択されました(2011年9月20日現在)。・・・『新しい日本の歴史』は、日本史で『必須』の人物をちゃんと網羅しています。ぜひ拳拳服膺して、皆さんのものの見方、考え方に役立ててください。各論を勉強して自分なりの歴史観を築いていくのは、それからでも十分間に合うでしょう。京都大学の中西輝政教授は、大学院のゼミの学生全員の必読書にするといっています。」(p59~60)


第1講で、鮮やかなのは、ここでしょうか?

「国益という点で考えると、2011年は日本にとって三つ、いいことがありました。
一つ目は、これまでの教科書のレベルをはるかに上回る育鵬社の『新しい日本の歴史』と『新しいみんなの公民』という教科書が生まれ、全国各地で採択されたこと。・・
二つ目は、女子サッカーの『なでしこジャパン』が、ワールドカップでアメリカを下して世界一になったこと。・・
三つ目は、菅内閣がやっと退陣したこと。これは本当によかった(笑)。
しかしもう一つ付け加えるならば、2011年3月11日、わが国が東日本大震災という信じがたい災害に見舞われながらも、東北を中心としてわれわれ日本人の一人ひとりが『高貴さ』を見失わなかったことです。・・・」(p21~22)


うん。この本を読み終ったら、この教科書を買うことにします。
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講義のとっかかり。

2011-11-27 | 短文紹介
ちょいと、朝日新聞や産経新聞について、
気になる箇所がありましたので、
引用していきます。
まずは、杉山平一著「詩と生きるかたち」(編集工房ノア)
そこから、

「大体、新聞の世論というのも、戦後のことですが、投書欄や社説で自民党がだめだ、政府の批判と悪いことばかり、自民党もこんなことをしているとダメになるんじゃないかと思っていると、選挙すると自民党が勝っている。世論と違うのかと外の新聞、例えば産経新聞などを見ると朝日新聞では没にされるような投書がちゃんと載っている。大衆・世論、日常は全体を見ないとわからない、今でも口直しに産経新聞を読むという友人がおります。」(2001年・p170)

つぎは、中西輝政著「情報を読む技術」(サンマーク出版)から

「私の生まれは、大阪の商家です。大阪の北区といえば産経新聞発祥の地ですから、子どものころから当然のように産経新聞を取っていました。ところが、大阪郊外に嫁いだ姉が実家に帰ってきたときに、突然、『こんな新聞はダメよ、朝日新聞を読まなくちゃ』と言い出したのです。姉が嫁いだ先では、朝日新聞が圧倒的に主流だったのです。そうして私の家でも朝日新聞を取るようになったのですが、初めて朝日新聞を読んだときに受けた奇妙な印象はいまでも忘れられません。『朝日というのは、ずいぶん産経といっていることが違うなあ』と感じたのです。高校三年生のころのことです。・・・・また当時、『アーロン収容所』という本がベストセラーになりました。会田雄次さんという人が、イギリス軍の捕虜となった体験を自ら克明に記した書です。いくら人類みな平等と口でいってはいても、白人には有色人種に対する根強い差別意識があり、実生活に暗い影を落としている、といったことが包み隠さず書かれていました。こういう本を読んでも、朝日新聞に書いてあることとはずいぶん違うなと感じたものです。」(p150~151・2010年)


こういう意見は、とかく、意見として聞き流されてしまい、なかなか皆さんの思考の土俵に載せていくく。私など他人に話すと、ギクシャクした違和感などがつきものなのでした。ところが、このテーマからはじまる貴重な講義があるのでした。
それが、中西輝政著「日本人が知らない世界と日本の見方」(PHP研究所)という京大講義録。その「はじめに」では、

「まずここにいる皆さんに、国際政治という学問がどのように発展してきたかについて、お話したいと思います。国際政治を学ぶ人に申し上げたいのは、国際ニュースを見て、世界各国で起こる出来事に敏感であってほしいということです。とくに日々のニュースソースに注意してください。どういうソースからニュースを手に入れるかは、いろいろ試みながら『これはいい、これはダメ』『この部分は客観的だけれども、こういう視点は偏向している』などと判断する眼を養ってください。
メディアには『癖』があります。日本の大新聞でいえば、たとえば『朝日新聞』は国際ニュースについては信頼できるけれど、こと中国に関してはちょっと信頼できません。あるいは産経、読売は真ん中から右側の保守、または中道保守、朝日、毎日は真ん中から完全に左側です。そうした偏りがある中、国際面のニュースを正確に読み取るのは実はなかなか難しい、ということを覚えておいてください。・・・・」(p14・2008年前期の講義)

うん。中西輝政氏の講義は、ここから始まるのでした(拍手)。
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歯槽膿漏。

2011-11-26 | 地域
最近、歯ぐきが痛んでいなかったので、よろこんでいたのですが、
この4~5日だんだん痛んで、今日は、敗者じゃなくて、歯医者へと出かけました。
歯を抜きますか?膿をとりますか?ということです。
詳しく聞くと、歯の根を半分取り除くのだそうです。
今年中には、終わらないので、とりあえず、膿をとっておきましょう。
ということで私も賛成して、その処置をうけました。
歯ぐきを切り、膿が出やすいようにしたようです。
よくわかりません(笑)。
とりあえず、それで痛いなあと思いながら、
こうして書きこんでおります。
痛み止めもらいましたが、ガマン(笑)。
さてっと、11月ももうすぐ終わるなあ。
なんて、別なことを考えるようにしております。
それでもって、
歯医者にもっていった文庫はというと、
中西輝政著「本質を見抜く『考え方』」(サンマーク文庫)
線をひいたところをパラパラと見ておりました。
とりあえず、目についたのは、

「日本人は、いままで自分が経験していない局面に進んで自分を置くということを、もともと国民全体としてあまり好まないように思われます。それに加えて、自分の考えを深めるために行動の機会を追い求める必要性に迫られていません。考えるのを『手続き』の実行とは思わないから、行動で検証しようという気持が強くならないのです。」(p116~117)
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ハガキ一枚。

2011-11-24 | 短文紹介
馬場マコト著「花森安治の青春」(白水社)のあとがきに、
「昭和を代表する思想家の一人であった花森安治。」(p250)とあるのでした。
杉山平一著「詩と生きるかたち」(編集工房ノア・2006年)に
インタビューに答えている杉山平一氏の、貴重な肉声が伝わるような受け応えが読めるのでした。そこに、こんな箇所があるのでした。

「花森の行動は、ぼくは、思想というよりも、彼の体質から来ていると思います。みなそこのとこ間違えると思いますけれど――たとえば、保田与重郎なんて人は左翼でしたよね、高等学校の時分は。それが右翼になったでしょ。みんな気質です。いつでも反対してる人がいます。戦争中に反対してて、民主主義にも文句言って。
思想というようりも体質やな。グチを言う体質。いつでも反対して文句ばっかり言ってるやつ。それは思想と違いますやろ?全部が全部そうじゃないけども、ぼくは友達見てたらね、いつでも文句言うとるやつは文句言うとる。」(p263~264)

ちょっと、一部だけ引用すると誤解されやすいなあ。
なんとも気さくというか、自然体のインタビューへの回答なのです。
たとえば、こんな箇所。

「私は工場にいたせいもありますからね、やっぱり大阪というところはね、岩波文庫持ってるやつは何を気取っているのやアホかっていう空気があるんですわ。芸術なんてお金儲けになんにもならない。バカにされる。ぜんぜん関心もってくれない。・・・・
あまりはっきり覚えてませんが、花森は、『暮しの手帖』は、八号(昭和25年)くらいで売れなかったら辞めると言いました。はじめは赤字つづきだったようです。その八号目ぐらいやったんかな、花森ぼくに言いましたわ。『阪神間の夙川というところでものすごく売れ出したんだ』って。夙川ってのは、芦屋の隣で、山の手的なところですわ。知的な女の人たちが、買いはじめたんですかな。それから伸び出したんでしょう?・・・」(p265~266)

もう少し引用。

「私、東京に行くたびに、花森のところへ訪ねていきました。麻布のほうの編集部に。ひさしぶりに会うと、楽しく、昔の話をしてね。帰りがけ、大橋鎭子さんが近寄ってきて、ぼくに『花森さんのあんな顔見たことない。あんな愉快そうな笑い顔を見たことありませんでした』言うてね、ぼくはちょっとうれしかったなあ。編集ではやっぱり『鬼がわら』で、きつい顔しておったんですなあ。きびしかったんやなあ、みんなには。」


ちなみに、杉山平一著「戦後関西詩壇回想」(思潮社)を楽しく読んだ方は、この「詩と生きるかたち」も、その続編として読めますよ。たとえば、藤澤恒夫氏について書かれた箇所では。

「作家というのは悪いクセを直したらだめなんや、それはその人の生命なんやとか。まあ、いろいろおもしろこといわれました。書き続けろ、何でもいい毎日書き続けろといわれました。そうでないと、ハガキ一枚書くのもしんどくなってしまう。文学は習慣だってね。非常にウイットに富んで、愛想がよくて、相手をそらさないように・・・大阪人ですわね。」(p206)
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いやさ、おトミ。

2011-11-23 | 手紙
昨日。注文してあった杉山平一詩集「希望」(編集工房ノア)が届く。
うん。さっそく、パラパラとめくりながら、詩集の余白をみつめます。
そう。そういえば、「取り消し」という詩(p50~51)の最後の3行は

  息づまりのなかに
  風通しのよい空白を見つけて 
  ハハハ・・とわらっている

余白と空白と、どう違うのか笑いながら思ってみます。
さて、ご存知でしたでしょうか?
昭和42(1967)年に出された詩集「声を限りに」のなかに、
「退屈」という詩がありました。それをここに引用。

    退屈     杉山平一

  十年前、バスを降りて
  橋のたもとの坂をのぼり
  教会の角を右に曲つて
  赤いポストを左に折れて三軒目
  その格子戸をあけると
  長谷川君がいた

  きょう、バスを降りて
  橋のたもとの坂をのぼり
  教会の角を右に曲つて
  赤いポストを左に折れて三軒目
  その格子戸をあけると
  やっぱり長谷川君がいた


うん。このたび出版された詩集「希望」のあとがきは、

「何を、今さら、九十七歳にもなって詩集を出すなんて、と思えるが」
と、はじまっておりました。あとがきの最後も引用させてください。

「折しも、この詩集の編纂にかかり始めた時に東日本大震災が起こり、次々と流れてくる報道に動転した。そもそも、私は会津生まれでありながら、東北地方について無知であった。しかし私は、太陽の光に眩しく輝く南の海より、青いインキのような北の海、高村光太郎が『キメが細かい』と言ったような北の青空が、好きである。
うなじや太鼓帯の美しさが背中に隠れているように、東北地方の人たちは後ろ側にその美しさを秘めている。表からは見えないその奥ゆかしさや謙虚さを打ちのめすように、大震災が東北の街をハチャメチャにしていったのだ。今こそ、隠れていた背中の印半纏を表に出し、悲境を超えて立ち上がって下さるのを祈るばかりである。奥ゆかしさを蹴破って、激烈なバックストローク、鵯越(ひよどりごえ)の逆落としさながら、大漁旗を翻して新しい日本を築いて下さるように。詩集の題名を『希望』としたが、少しでも復興への気持ちを支える力になれば、と祈るばかりである。  2011年8月15日  杉山平一 」


この詩集「希望」には、「手紙」と題した詩があります。
そういえば、初期の詩に「郵便函」があったなあ。

    郵便函

 一家は引越したのだろう

 粗末な木の郵便受けが
 捨てられている

 かずかずの夢の
 到着を待ったあの函
 
 いま雨にうたれて
 泥をあびて


ここに「かずかずの夢の到着を待ったあの函」とあるのでした。
さて、詩集「希望」のなかにある、詩「手紙」を引用

   手紙

 久しぶりの手紙
 歌舞伎のセリフをまねて

  ( ええ ご新造さんえ )

 手紙を二つに折って
  ( おかみさん )

 四つに折り返して
  ( お富さん )
 
 八つに折り返して
  ( いやさ、おトミ ) 

 にぎりしめて
  ( 久しぶりだなあ )

 屑かごにほうりこめずに
 目がうるんできやがった


最後は、私が郵便配達員となって、
この詩集のはじまりの詩「希望」をお届けする番。


    希望   杉山平一

 夕ぐれはしずかに
 おそってくるのに
 不幸や悲しみの
 事件は

 列車や電車の
 トンネルのように
 とつぜん不意に
 自分たちを
 闇のなかに放り込んでしまうが
 我慢していればよいのだ
 一点
 小さな銀貨のような光が
 みるみるぐんぐん
 拡がって迎えにくる筈だ
 
 負けるな


       




 
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昭和の思想家。

2011-11-22 | 短文紹介
馬場マコト著「花森安治の青春」(白水社・2300円)を読了。
文が句読点で短く、テンポが軽快で澱みなく読めました。
よく咀嚼した内容を、簡潔に歯切れよくさばいてゆく文章運び。
なんとも、安心して読めました。
時代運びも、こんな感じです。

「映画堂々隊の副隊長が、中学をやめてブラジルへいったのは、安治が中学四年のときだった。前年、1927(昭和2年)に・・・・移民熱が一気に神戸の町中に吹き荒れた。・・・
副隊長から手紙が来ることはなかった。全国の中学で軍事教練が行われることになったのは、それからすぐだった。」(p20~22)

ちなみに映画堂々隊というのは「中学の映画好きが集まって、学生服のまま、かばんを斜めに掛けて堂々と隊を組んで新開地の松竹座に出かけた。映画堂々隊と名乗った」(p17)とあります。

母親(よしの)の亡くなることにふれて

「よしのが38歳の若さで死んだのは安治が高校一年生の夏休みのことだった。床に臥したよしのは・・『あんた将来なにしたい』と聞いた。・・・『新青年』が横溝正史という編集者になった途端、表紙も内容もがらりと変ったことを安治はよく知っていた。自分の美意識と、自分の感覚で自分だけの世界観を創り上げてしまう仕事だ。そう、編集者がいい。『新聞記者か、編集者になる』たずねた母・・・『ふーん』と言ったまま黙ってしまった。・・・」(p37)

大学に入ってからが、読み応えがあります。
新聞部に入部

「日曜日は数寄屋橋の朝日新聞社に出張校正に出向いた。・・安治が在学のころは、大学新聞の印刷は朝日新聞社に委託していたからだ。」
「一年生で十円、二年生で十五円、三年生で二十円の手当てが月々出た。編集室に行けば昼は一食十五銭の食事が取れた。結果、安治は最初に受講手続きをとった美学科の授業にはまったく出席せず、大学生のほとんどをしめった匂いのする編集室で過ごした。・・・・安治の余白の妙に朝日新聞の整理部が驚いた。さっそくあの紙面はだれがつくったのか会いたいという電話がかかった。そんなことが三回くらいあった。・・・」

うん。私見ですが、今の朝日新聞は記事よりも、広告もいれての紙面づくりが手馴れていて、こりゃ困ったものだと写ります。あるいは、そのルーツは花森安治だったのだろうか?

そして大学時代のエポック。

「二・二六事件に驚愕した世間なのに、一般紙やら論壇からはなにも批判の声が上がらなかった。なにかを言うことを憚る雰囲気が日本全土を襲っていた。そのなかで唯一批判したのが帝大新聞であり、河合栄治郎だった。」(p78)

こんな出会いもあります。

「安治が佐野繁次郎と初めて会ったのは、帝大新聞に入ってすぐの1933年6月のことだった。・・・大阪船場の筆墨商の息子に生まれた佐野繁次郎は小さなころから絵筆を握り、その才能を発揮した。パリに渡ってアンリ・マチスに師事、ミロとも交友をもった自由人だった。安治は帝大新聞で文芸担当となった以上、前から憧れていた佐野にぜひ絵と文章を書いてほしいと申し出た。」(p81)

「安治の求めに気軽に応じた。芸術とはどうあるべきかを問うのではなく、どこまでできるかを問うものだと、西鶴と上田秋成を例に随筆『この頃』を書いた。・・」(p84)

召集令状も安治に来るのでした。
満州へ行きます。
「帰りたい。帰れない。そんなとき、首にかかった認識票が気になった。『靖国神社直行』。それが日本に帰る一番確実で、一番の早道に違いなかった。」(p98)

ここいらからが、この本の眼目なのでしょうが、
それは読んでのお楽しみ。
ということで、とばして、
戦後へといきましょう。
「暮しの手帖」のまえに「スタイルブック」がでます。

「安治が直線裁ちのデザインをおこした。報研から譲り受けた大きな机を裁縫台にして、古い着物をほどいて裁つのは鎭子の役目だ。そしてそれを母久子が縫いあげた。戦前から和洋裁をこなしてきた久子の手早さといったらなかった。安治が描くデザインはたちまち一時間後には新しいスタイルの服になった。そのできあがった服を着て、芳子が安治の前に立った。・・・」(p198)

そして、いよいよ

「執筆人のそれぞれの明日も見えぬまま、『暮しの手帖』創刊号は編集を終えた。」(p214)

最後のほう、著者は、こう書くのでした。

「このとき安治は恐らく安治の生涯で唯一の間違いをした。
『一銭五厘を出す側』でもあったことを隠して、『一銭(金偏なし)五厘は ぼくらだ 君らだ』としたことだ。」(p230)

あとがきでは

「昭和を代表する思想家の一人であった花森安治。かつて宗教以外で百万人に届こうとする支持者を得る、このような思想集団はなかった。だからこそ花森安治には・・・」(p250)

うん。おあとは読んでのお楽しみ。

うんうん。昭和の思想家といえば、
それじゃ、平成の思想家は。
ということで、また中西輝政を読みに戻ろう。

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ありがたい。

2011-11-20 | 短文紹介
馬場マコト著「花森安治の青春」(白水社)を読んでいる。
いま、ちょうど大橋鎭子さんが登場するところまできました。
さてっと、ここでひと休み。
文章が句読点で、短くつづく。そのためかついつい連想したくなる私などには、それを許さない緊密感があり、颯爽とした文に出会っているという手ごたえ。

ところで、今日の産経新聞11月20日の読書欄。
清水義範氏が高島俊男著「ことばと文字と文章と」(連合出版・2310円)の書評を載せておりました。

「ありがたい本である。」とはじまっております。
うんうん。
「・・本書の約4割を占める『ことばと文字と文章と』という一文は、もともと小学校上級から中学校初級の子ども向けに書いたものなのだそうだ。・・・そこがありがたい。・・知的ですこぶる興味深い話がすいすい頭に入ってくるのだ。目からウロコが落ちまくりの知的体験ができる。・・・」

はい。この書評。買わせていただきます(笑)。
と、さっそく、読書のひと休み中に、ネット注文。
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関東大震災以後。

2011-11-19 | Weblog
昨日届いた筒井清忠著「帝都復興の時代 関東大震災以後」(中公選書)を読む。
筒井清忠氏の本では「西條八十」の印象が鮮やかに残っておりました。
今回はどうだったか。
どなたも、調べようとしなかった関東大震災以後の東京を、
第一章では、新聞を丹念に調べて、浮き彫りにしてゆきます。
第三章では、夢野久作著「東京人の堕落時代」からの引用が多く、その読み取りみたいな感じです。そうそう、お勧めする本ではないと思います。ですが、もし今後、東京で大地震があれば、こういう経緯で推移するという、シナリオが描けるのじゃないかなあ。という手ごたえが伝わります。

それはそうと、今晩は、神輿(みこし)の役員引継ぎ。これで、神輿の三役が終わり、次にバトンタッチ。無事に引継ぎました。
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ついつい。

2011-11-18 | 前書・後書。
雑誌「新潮45」12月号が本日発売。
そのなかの「書物の森」に、鶴ヶ谷真一氏が書評を載せておりました。
馬場マコト著「花森安治の青春」(白水社)をとりあげ、
その書評の最後は、こうしめくくられております。

「著者はテーマにそった印象的な場景を重ねて生涯を点描し、ときに花森安治への思いをこめた話法によって、構成的でコンパクトな評伝を著わした。」

うん。ついつい注文してしまう私がおります(笑)。

今日届いた古本は、
中西輝政著「帝国としての中国」(東洋経済新報社・2004年)。
とりあえず、「結びにかえて」をひらく。そこに

「思い起こせば、1980年代の初め、東京都内のある居酒屋で何人かの研究者と、始まったばかりの中国の『改革・開放』の行方について論じ合ってから、20年以上の歳月が流れた。・・・しかもそれは私にとって、中国の長大な歴史と文明の研究によってしかつかむことのできない大きな課題だと思われた。それから20年余り、遅々とした歩みであったが、私なりの中国研究の成果が、今ようやく一冊の本にまとめられたことに感慨なしとしない。・・・それは、時事的な政策の議論とは比べものにならない知的な悦びの瞬間でもあった。」
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遅読。

2011-11-17 | 古典
本読みが、遅々として進みません。
そういえば、山村修に「遅読のすすめ」という本がありました。
と、ついつい脇道へそれます。
たいてい、私は遅読で失敗します。
今回は、ネット古本を注文しております。
昨日送られてきた本は

 長谷川慶太郎・中西輝政対談「これからのアジア これからの日本」(PHP研究所)
 中西輝政著「日本の『死』」(文藝春秋)

ちなみに、長谷川慶太郎氏との対談のあとがきで中西輝政氏は
雑誌に発表した「冷たい平和の時代」をあげながら、書き始めておりました。
この「冷たい平和の時代」は、
ありました。Voice select 中西輝政著「覇権の終焉」(PHP研究所・2008年)の目次にみつけました。

さてっと、今年はというと、千年に一度という東日本大震災。
その関連本を読んでいる際に、中西輝政氏の大切さに気づいた新参者の私です。長谷川慶太郎氏との対談の最初で、中西氏は、こう語っておりました。

「だいたい日本はアジアの歴史というと、第二次世界大戦や明治の日清や日露の戦争ぐらいからしか考えない悪弊があるわけです。これはまったくもって、とんでもない視野の狭さといわねばなりません。アジアを相手にして歴史を語るとき、私は最低でも二千年ぐらいのレンジがなければならないと思うのです。そうすると、これまでとはかなり違うアジアと日本のイメージが浮かび上がってくるでしょう。そして、今後のアジアを考える際も、歴史を脇へ置いてしまう発想はありえないことがよく分かるわけです。」

うんうん。中西輝政氏を読むというのは、
千年、二千年という歴史の懐に参入することでもあります。
ここは腰をすえて遅読に専念する気構えが必要と気づくこの頃。
枝葉末節に拘泥して、幹を忘れることがないように。
何とか、中西輝政氏の著作に食らいついていけますように。
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聴講者。

2011-11-14 | 短文紹介
中西輝政著「日本人が知らない世界と日本の見方」(PHP)を読みました。
まだ「国民の文明史」の読みが途中なのに(笑)。
さて、「世界と日本の見方」には帯に「人気の京大講義録」とあります。

うんうん。社会人も聴講するという、その方々はどんなだろう。
そこからの連想で、何げなく思い浮かんだが扇谷正造でした。
扇谷正造氏は「週刊朝日」を百万部雑誌に育てたという編集長でした。
その雑誌について、草柳大蔵氏に扇谷氏は語ったそうです。
「それから、キミ、平均的読者像を『旧制高女プラス生活経験十年』においたんだ。企画も文章もグラビアも全部だよ」。

さてっと、この「世界と日本の見方」のまえがきは、こうはじまります。

「本書は、私が京都大学で2008年の前期に『現代国際政治』という名称で行なった講義をまとめたものです。」
さて、中西さんはどのような講義をめざしたのか
「国際政治学という学問は『大人の学問』です。・・『人間』というものを肌身でわかっていてはじめて深く理解できる学問だ、ということです。その点で、社会経験に乏しい二十歳代の若い学生諸君の関心を起こさせることにいつも苦労してきました。
どこにでもある教科書的な話をするのではなく、何とかして国際政治の矛盾とジレンマに満ちた実態を体感できるようにしたい。・・また、この年ぐらいから『ゆとり世代』の学生が多くなり、大切な歴史を学んでこなかった若者を強く意識し、『現代』国際政治と銘打っているのに歴史の話題をとりわけ多く盛り込んで話すことにしました。・・『大人の学問』を学ぶ一番よい方法は、やはり『歴史から学ぶ』ということなのでしょう。」

そして第一講は、1916年の『ソンムの戦い』について、語りはじめます。
そこをすこし引用。
「ヨーロッパ人なら誰でも知っている戦いが北フランスの戦場で行われました。ソンムでは一日に兵士が七万人、戦死したこともあるほどで、若者の兵士はほとんど無防備のまま、ただゆっくり歩いて敵陣に向かっていったといいます。おまけに連合軍の司令部は最前線で何が起こっているか、何も把握していませんでした。というか、気にしていない。・・ソンムの戦いは三カ月続き、計三六万人が命を落としました。ほとんどがイギリスの若者で・・・実際イギリスやフランスは、第二次世界大戦よりもこの第一次世界大戦での戦死者のほうが多いのです。日本人にはあまり知られていないことですが、第一次世界大戦というのは、それほど西欧の歴史に大きな衝撃となって残っているのです。しかも、その衝撃のより深刻な帰結は、民主主義国の政府の『無能と欺瞞』に人々の眼が向けられたことでした。」

そこから、具体的に語られた、六ページあとには、こんな箇所

「こうしたことを考えると、戦争の原因は軍国主義とか領土争いといった単純なものではないことがよくわかるでしょう。むしろ民主主義が小さな戦争を大戦争にまで昂じさせることもあり得る、ということがわかります。」

うん。どうです。講義を最後まで聴きたくなりますでしょうか?


さて、中西輝政の他の著作を数冊、また古本屋に注文したのでした。
まだ、手元の本を読んでもいないというのにです(笑)。
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講義を聴こうじゃないか。

2011-11-13 | 他生の縁
中西輝政著「日本人が知らない世界と日本の見方」は、2008年に行われた京都大学総合人間学部での講義をまとめたもので、本文の最初にPHP研究所から説明があるのでした。そこには

「・・長年にわたり国際政治学、外交・文明論の観点から日本人を啓発されてきた先生のお話は、社会人を含めて聴講希望者が多く、講義録を求める声が多数寄せられました。・・・」

そこから、私に思い浮かんだのは、
「一度、江藤の講義を聴こうじゃないか」という石原慎太郎氏の言葉でした。以下、それについてのあれこれ。

中央公論特別編集と銘打った「江藤淳1960」(中央公論新社)が出ておりました。立読み風パラパラめくり読み。するとそこに、2011年9月におこなわれた石原慎太郎氏の「特別インタビュー」。
「60年安保の渦中で」という箇所があります。
そこからすこし

「あのころ珍しく、テレビで討論じゃないけれど、各党の党首が安保改定の是非について演説をした。自民党の岸信介は実に明晰で説得力があった。それに対して社会党の浅沼稲二郎は支離滅裂で、さっぱりわからなかった。浅沼はとにかく中共かぶれで、59年に訪中して、『アメリカ帝国主義は日中共同の敵』なんて馬鹿な発言をして、帰国のときには人民帽を被って羽田へ降りたんだ。・・・民社党の西尾末廣も滔々としゃべるんだけど、これも何をいっているかさっぱりわからない。野党の演説を聴いて、安保反対もいい加減なものだなと思った。人相がよくないけど、やっぱり岸はたいしたものだったな。
で、誰がいい出したのか忘れたが『どうも安保条約って、わかったようでわかってない。一度、江藤の講義を聴こうじゃないか』ということになった。『若い日本の会』に参加していた人間の中で、安保条約の改定前・改定後の条文を詳しく読んでいたのは江藤だけだった。
実際、日本文藝協会の理事会でも、こんなことがあった。定例会議の案件が審議されて時間が余ったので、丹羽文雄理事長が『議決が終わりましたが、まだ時間もございますので、みなさんついでに安保反対の決議をしましょうか』といった。すると、尾崎士郎が『いや、丹羽君、僕は賛成だぞ。なんで君、反対なの?』と質した。つづいて林房雄が『尾崎、お前もそうか。俺も賛成だ。丹羽君、反対なら反対で理由をいえよ』と迫った。そうしたら、丹羽はもうメロメロになって『それじゃ、この辺で』って散会になっちゃったんだ。そんな時代だったんだよ。そのときの江藤の講義は、非常に明快でわかりやすいものだった。・・・」(p180)


ちょうど、産経新聞2011年10月24日の「正論」に、
平川祐弘氏が「丸山真男去りて江藤淳来たる」という文。
その後半の箇所を引用。

「江藤は丸山を代表とする戦後知識人が、敗戦の屈辱を直視せず『自由な主体』成立のチャンスだと理想だか空想だかの世界に閉じこもることを批判する。戦勝国側の政治的思惑もあって語られた『平和』と『民主主義』を永遠の理想の登場のように思い込むのは欺瞞ではないか。・・・・
これは、角田柳作編の英文『日本思想原典』を米プリンストン大学で学ぶうちに、少年として日本の敗戦と国家の崩壊を目の当たりにした江藤が、本来は喪失感を出発点に据えなくてはならぬという自覚に達したからだろう。そんな江藤は、丸山一派と違って、明治以来の日本の歴史を全否定するような観念的な見方はしなかった。」

角田柳作といえば、ドナルド・キーン氏の先生じゃありませんか。
ついでに、この文の最後の箇所も引用しておきます。

「1960年の安保反対で国会周辺で荒れた学生を丸山は民主主義の勝利のように讃えた。だが、その同じ学生が68年、東大法学部を襲うや、丸山は今度は『暴徒だ』と憤慨した。私は東大教養学部にいて年中行事の学生のストや集団ヒステリーには慣れていたから、学生運動を理想化する気持ちはおよそない。辞職する丸山教授を8年前に学生を煽動する自業自得と見ていた。授業再開となるや、東大非常勤に私は江藤淳を招いた。江頭淳夫(えがしらあつお)とわざと本名で紹介すると満場の学生がどっと沸いた。・・江藤が東工大教授昇格の際に、『国士の面影があり』と推薦文に書いたことなど懐かしく思い出した次第だ。」
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後半型。

2011-11-12 | 短文紹介
まったくもって、私は移り気で、
じっと本を読むことが出来ず。
中西輝政著「国民の文明史」を、まだ読了せず。
後半だけ読んだのでした。

ところで、思わず笑っちゃう文を読みました。
この「国民の文明史」は、
2003年12月発行とあります。
BK1の書評欄に「としりん」さんが
2004年1月に書評を載せておりました。
読むと、最後にこうあります。

「本書は、中後半に興味深い記述が続くのに対し、前半は内容的にやや堅い印象を受ける。しかし、中後半の記述をきちんと把握するためには前半の理解が欠かせない。だから、前半は少し辛抱して読み進めてみよう。
 本書は、中盤からは読み進むほどに引き込まれるような「後半型」の書なのである。」

うんうん。こういう書評を読めるのは、何ともうれしく、ありがたく、
ほっとして、ついつい、笑ってしまいました。
もう一人、BK1では「ももたろう」さんが書評を載せております。
その最後は

「日本でも名のある企業は、地方文化・文明の中で精神を育ててきた。トヨタや三菱など、それぞれに地方の香りがするのである。欧米哲学スタートで大きく成功した企業を私は現実に知らない。中西のこの文明史を読んで、多くの疑問が氷解する思いであった。そして、今の日本でかくも多くの異常な事件が続発することに対しても理解が出来る。これからの日本を考える基軸となる可能性のある視点を提供する、警世の書としてぜひ多くの人に読んでもらいたいと思う。」

とあります。
ふむふむ。そういえば、
VOICE2011年12月号に
ボイスブックスという本の紹介欄があり。
そこに、中西輝政著「日本人が知らない世界と日本の見方」(PHP研究所)を紹介した短文がありました。

「本書は・・中西輝政氏の講義をまとめたものである。・・氏の授業は、社会人を含めて聴講希望者が多く、講義録を求める声が多数寄せられていた。・・言語の閉鎖空間に風穴を開ける、京大講義の空気をぜひお手元に。」とあります。

う~ん。まだ「国民の文明史」も読み終わっていない。
ということで、ここでは、せめて「国民の文明史」のあとがきを引用。

「今回、正面から日本の文明史を私なりの視点で一冊の本にまとめて、ああやっと私の本来の仕事が始まったのだ、ということをつくづく感じた。思い返してみれば、歴史の勉強を本格的に始めて、この三十数年はここに辿りつくための準備だったのだということを、誠に拙い成果ながら、本書を書き終えて実感として持つようになった。」

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諸新聞が持ち上げる。

2011-11-11 | 短文紹介
中西輝政著「国民の文明史」を後半から読んでいます。
目の前の霞が晴れてゆくような読書経験。

さてっと、おかげで、新聞での論が納得してよめます。
たとえば、産経新聞の「正論」欄。
11月8日は古田博司氏の「中国ブロック朝鮮半島に広がる」でした。
ここでは、古田氏の文の紹介。

TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)にふれて

「国力の強い国と弱い国が藩主の如く集まり、経済諸藩国のようにブロック化する。・・今の世界には、古いブロック化と、新しいブロック化が併存しているのだ。ゆえにTPPを作らなければ、中国が古いブロック化を試みてこよう。これを防ぐためにも、環太平洋の国々がこぞって新しいブロック形成へと向かっているのは意味がある。
中国が参加しなければ外需は取り込めないから、中国を入れてFTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)にしようなどというアジア主義者が後を絶たない。だが、中国とブロック化すれば政治的意図でレアアースを止められたりし、王国の臣下扱いに甘んじなければなるまい。・・新しいブロックに参加しなければ日本は過去に引き戻されることになる。歴史好きの日本人でも、それを良しとしないと信じたい。」

その後に、韓国の例をひいております。

「諸新聞が、『かけがえのない隣人』『未来志向の隣国』『世界市場のライバル』と、競って持ち上げる近くて遠い国の韓国は今、FTA(自由貿易協定)で活況のように見える。だが、経済はともかく、国同士の勝負では北朝鮮が圧倒したのを忘れてはならない。核をナイフだとすれば、刺す必要はない。ナイフで右頬と左頬をなでられれば手も足も出ない。右頬は昨年3月の韓国哨戒艦撃沈であり、左頬は11月の延坪島砲撃である。今年6月には、韓国政府が北朝鮮の謝罪を穏便にし、首脳会談をしようと金銭で誘ったことを北朝鮮の国防委員会に暴露され、韓国国会は大いに荒れたものの、結局、泣き寝入りに終わった。」

古田氏の御専門の北朝鮮も、おさらいをしております。

「北朝鮮の経済が破綻していることはすでに皆が知っている。
1993年には計画経済を放棄し、
90年代後半には『苦難の行軍』という飢饉時代で多くの人口を失った。昔の中国の大躍進と文化大革命の時代に似ている。人民を、勝手に食ってろと放り出し、国力を核開発に集中させた。そして核を手に入れた結果、韓国で左派政権が立てば韓国が北を支援、右派政権が立てば中国が援助するという『たかり国家』の体制を築き上げた。もはや、北朝鮮が経済破綻で滅亡することはないのである。」

そして古田氏は「韓国のFTAの活発化」の状況を、数字をもって解析してみせます。

「韓国企業はすでに多くがグローバル化している。韓国に本社がある必要はない。韓国人の米国への脱南移民はすでに推定300万人を超えている。・・・韓国が『ホンコン化』したときこそ、『サウス・コリア』という土地の経済発展に最も尽くす基盤整備となることであろう。」



「平和憲法」のもと、隣国との経済利益を優先していると、もはや、取り返しのつかないことになっていきそうです。
もどって、中西輝政著「国民の覚悟」(到知出版社)に、中国の軍備の現在の状況を語ったあとに、こんな言葉がありました。
「日本は、本当は震災や原発事故などとは比べものにならない危機にさらされているのです。なぜ、このことに気がつかないのでしょう。」(p98)

それにしても、軍備を除外すれば
FTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)というのは、
何か自由の希望みたいな、夢みたいな訳語なんだなあ。
その昔、隣国の指示にしたがって、
「朝鮮民主主義人民共和国」という、
まるで民主主義でもあるかのような夢のような言葉を
毎回、新聞は掲載しておりました。
それに対して、
TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)というのは、
なんとも、夢がない、
経済でありながら、「戦略的」という言葉通りではあります。


そうそう。
詩人のことばに、こんなのがありました。

  
  夢がほしい
  などとおろかなことを言うな。
  夢から逃れることに
  日夜 辛苦している心が
  いくつもあるのだから。








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冬籠(ふゆごもり)。

2011-11-09 | 短文紹介
金子兜太・半藤一利対談「今、日本人に知ってもらいたいこと」(KKベストセラーズ)を読んだら、母親と親父の箇所が印象に残りました。

91歳の兜太さんは、下ネタを取ったら、もう死んじゃうのじゃないかというぐらいに、楽しんで、歴史を語る一利さんの対談の舵取りを奪ってゆきます。
最後の方には、こんな箇所がありました。


半藤】 一茶の屁比べがという句もありましたね。
金子】 ありますね。

     屁くらべが又始まるぞ冬籠

  ・・・・・

半藤】 女の人で結婚しない人がいるから、『どうしてしないんだ』というと、私が屁をするのを、びっくりするような男とは結婚したくないと。
金子】 それは優秀だな。
半藤】 要するに、私がプーッとやっても何とも思わないで、にこにこしている人がいいということなんですね。
金子】 それから我が田に水を引き込んで、次は自分の句を挙げましょう。私は母親という遺伝子を私は尊敬してますから、そこから生まれたということが何よりの力、それで母親を尊敬して次の句を詠みました。

   長寿の母うんこのようにわれを産みぬ

私の母親は子供を六人生みましたが、これらの赤ん坊を取り上げたのが叔母でした。その叔母が私に言うのに、『おまえのおふくろは丈夫な女だ。第一尻がデカイ。おまえらを産むとき、ウンコをするようにウッというとポッと出てくる。だから、おまえはウンコだ』と、そう言われてきたんです。だから、私はおふくろのウンコなんです(笑)。 (p220~221)


さて、次は父親に登場してもらいます(笑)。



金子】 ・・それで親父がまた変な男でね、医者が嫌いで医者になった男なんです。・・要するに金を取らないんですよ、親父は。それで往診に行って、その家でもって、とうもろこしを食ったり、鮎を食ったりして、それで帰りにどこかで野糞をして帰ってくる。『兜太、たまにはおめえも野糞しろ』なんて言われてね。豪快な男でした。野糞をやってると、秋なんかまわりで虫が鳴いていい気持ちだ。『月が出たら月を眺めながらやるのが何とも言えねぇ。これくらい悠々としてなけりゃ男は駄目だ』なんて偉そうに説教しましてね。・・・(p138~139)



むろん。半藤さんの親父さんのことも出てきます。
せっかくですから、そこもちょっと引用しておきましょう。

金子】 その思考の動きが父親の影響なんじゃないですか。あんまりまともに受け取らないというのは、いい意味のニヒリズムというか。僕はあなたの著書を読んでいてそう思ったな、お父さんの影響だな、こういう仕事をしているのはって、そう思いましたですよ。
半藤】 焼け跡に立って思いました。『親父の言っているのは正しかった、絶対に日本が勝つとか、絶対神風が吹くとか、絶対に人を殺さないとか、そんなことあり得ない。いざとなったときに、人は人を殺す可能性だってある』と自分に言い聞かせましてね。『これからは、死ぬまで絶対という言葉は使わないぞ』これが、焼け跡で呆然と立ちながら決意した、たった一つのことでした。
金子】 それはいいな、相対的思考ということですね。
半藤】 そうですね。だから、要は金子先生のように熱血漢になれなかったんですね。ついに。(p132~133)


91歳の金子兜太。
81歳の半藤一利。
お二人の対談です。
そうそう。
東日本大震災の話題から対談が、はじまっておりました。


 
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