和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

河盛好蔵と竹山道雄。

2013-08-31 | 他生の縁
竹山道雄著作集3「失われた青春」の月報は、
まず、河盛好蔵氏の文からでした。

「昭和12、3年頃だったと思う。その頃私は三日にあげず片山敏彦君の家へ遊びに行っていた。」と河盛氏は、はじめております。

「当時片山君は一高でドイツ語を教えていたが、あるとき、いつものように、独仏の詩人たちの著書のいっぱいつまっていた片山君の書斎で駄弁っているところへ一人の紳士の来客があった。それが一高で片山君と同僚の竹山道雄さんであった。」

「・・・立派な人、というのが私の最初の印象であった。そしてこの印象はその後も深まるばかりであった。竹山さんの教養の豊かさにも感心させられた。片山君との会話を聞いていると、西欧のすぐれた知識人たちのサロンにいるような気持がした。
当時はヒットラー礼讃の声がそろそろわが国にも高まり、ドイツ文学者のなかにもナチス文化の太鼓を持つ連中の現われ出した頃であったから、両氏のヒットラーやナチズムの批判は痛烈を極め、共鳴するところが多かった。・・・両氏は、当時のドイツ文学者のなかで最後まで徹底してナチスを憎み嫌った数少ない明哲の士であった。それ以来私は竹山さんに親しくして頂いている・・・・」


ちなみに、
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」の註(p156)に

「なお高田里惠子がナチス讃美の日本の独文学者を糾弾した『文学部をめぐる病い』(2001年)で、ナチス反対の人々に言及しないのは全体像をとらえきれておらず残念なことである。」という箇所があります。

2001年になっても、まだ、片山敏彦や竹山道雄の立ち位置は理解されていないようだとわかります。
もどって、河盛好蔵氏の文の最後には、こうありました。

「私が戦後、『新潮』の編集に参加したとき、こんどの戦争で、わが国の学生たちと同じように戦ったナチの若者たちのことを知りたいと思い、ナチスについて詳しい竹山さんに、『失われた青春』という標題もこちらで用意して原稿を依頼した。それが昭和21年3月号の『新潮』に発表された・・これは、非常な好評を博し、以後竹山さんは『新潮』の大切な寄稿家になった。ナチス時代のドイツに題材をえた秀作には『憑かれた人々』などもあり、竹山さんの独壇場であるが、これらの作品は正宗白鳥さんも高く買われて、私に賞めていられたことを思い出す。・・・」

この月報は、あとに
「河盛好蔵 私の随想選」第五巻(新潮社)に、収められておりました。
ところで、「河盛好蔵 私の随想選」第7巻の「終戦前後」(p240~245)には、こんな箇所がひろえます。

「ともかく一日も早く何か職業を見つけなければならない。終戦のとき私は43歳で、小学校六年生の長女以下四人の子供がいた。私にできることは学校の教師か、翻訳ぐらいしかないが、教師の口などは早急に見つかるものではない。・・・
ところが幸いなことに、昭和20年の2月から、当時新潮社の出版部に勤めていて、以前から懇意にしていた斎藤十一君が、家族を疎開させてひとりぐらしで不自由をしている私を憐れんで、夫婦で私の家に移転してきてくれていた。おかげで、私はどんなに助かったか分らない。戦争末期を餓死もせずに生きのびることができたのは斎藤夫婦のおかげであったと、今でも深く感謝している。その斎藤君が、私のぶらぶらと遊んでいるのを見て、新潮社に入って、雑誌『新潮』を編集してみないかとすすめてくれた。・・・それからは、毎日、斎藤君を相手に復刊第一号のプランを練った。・・・
20年11月号から『新潮』を復刊したのである。この号は非常な好評を博した。軽井沢に疎開していた堀辰雄君が、わざわざハガキをくれて、『すべり出し甚だ好調、どうかこの調子でやって下さい』と激励してくれたときの嬉しさを今でも忘れることができない。それから二年間、私は夢中になってこの雑誌のために働いた。私の一生のなかで最も充実した毎日であった。」


そうそう。「新潮社七十年」という社史も、河盛好蔵氏が文をまとめて書いておりました。
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イソップ論を購入。

2013-08-31 | Weblog
注文してあった古本
平川祐弘著「東の橘西のオレンジ」(文藝春秋)
が届く。

ネット古本屋 あっぱれ! 虚誕堂(福岡県大牟田市宮崎)
900円+送料300円=1200円
本文は、未読のようできれい。

本を人にあげてしまっても、
ネット古書店で、また簡単に手に入れることができる。
ということは、
やっぱり、うれしい。
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夏の宿題。

2013-08-30 | 朝日新聞
朝日の古新聞をひらくと、8月20日に
キャロル・グラックさんCarol Gluck(41年生まれ)へのインタビュー記事が読めました。
朝日新聞の論説委員の文は、とても私には読めないのですが、こちらは楽しめました。

インタビュアーはこの人でしょうか
(ニューヨーク支局長・真鍋弘樹)とあります。
最初の方に「たしなめられた」とあるので、
笑いながら、読んでみました。

「日本の『右傾化』について、どう思うか、この国を知り尽くした歴史家にそう聞こうとしたら、たしなめられた。ラベルを貼って簡単に分かった気にならないように。歴史は決して、短距離走者ではないのです、と。・・・・」

短距離走者といえば、
「取材を終えて」で真鍋氏が書く。その最後は、
「・・・海外の反応が気になりがちな私たちにとって、この夏の宿題は難問だ。」とありました。この「夏の宿題」はキャロル・グラックさんという魅力的な先生に提出するのか、それとも朝日新聞の論説委員の方々に見てもらうのだろうか。「夏の宿題」の提出先が、つい気になる(笑)。
さて、本題のインタビューは、こんな感じです。

質問】前回政権時、安倍首相は『戦後レジームからの脱却』を掲げていましたが、これはどう思いますか。

「同種のことを言い始めたのも、別に安倍首相が最初ではありません。戦争が終わって70年近く経つというのに、いまだに『戦後』という言葉を使っているのは日本だけ、という点は実に興味深いですが」


質問者に対して、興味深い受け応えをしているに、肝心の質問者の反応がカタクなです。
ここでは、最初の箇所を引用して終えます。

質問】 参院選でも大勝した安倍政権について、米メディアでも右傾化を懸念する意見が見受けられますが。
「実は、うんざりしているんです。過去数カ月間の日本に関する報道で、ナショナリズムや軍国主義といった言葉が実に多く使われています。世論調査の結果を考えれば、そんな心配はないことがわかるのに」
「日本に関する海外メディアの報道は極端で、しかも浅い。日本がすぐに軍国主義になることはないし、憲法9条への支持はまだ強い。なのにメディアは安易にラベルを貼る。・・・」
「以前から感じているのですが、日本はいつも極端な言葉で形容されます。・・・私は歴史家だから確信していますが、世の中は決して、極端から極端へは変化しない。歴史は、短距離走者ではないのです」

後半も貴重なご意見を拝聴できるのですが、
これはこれで、重要なテーマなので、
ここまでにしておきます(笑)。

読後しばらくして、
この支局長・真鍋弘樹は、
いわば、ご自身をダシにして、
朝日新聞の枠のなかで、最大限の
貴重なメッセージを伝えようとしていたのではないか?
と思えて来たりもします。
うん。これが「夏の宿題」なのかもしれません。
真鍋弘樹氏の名前を憶えておきたいと思います。


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竹山家の食卓。

2013-08-29 | 本棚並べ
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)の「はじめに」で、
竹山道雄氏の娘の依子さんの短文が全文引用されておりました。
これは、「文藝春秋 家族の絆」2002年臨時増刊号に掲載されたもの。この雑誌は、ちょうど、本棚にありましたので、その頁をひらくと依子さんの写真と、古い昭和18年夏の家族写真が掲載されている。写真によって、活字までもが生き生きと動き出すように感じられてきます。
ということで、依子さんの文を引用することに

「昭和初期に祖父の建てた家は、鎌倉材木座から歩いて三分のところにある。昭和22年、父はここで『ビルマの竪琴』を書き、数年後東大をやめて文筆に専念した。」とはじまります。

「小学校で一年違いの弟(護夫)と二人・・父の水着につかまって和賀江島まで泳ぐのが夏休みの楽しみとなっていた・・」

「昭和30年から父は毎年のように外国に行った。滞在は一年を越すこともあった。スイスの湖の畔(ほとり)に住む美術史家のタイレさんの家に長く滞在したこともあった。ナチスに圧迫され亡命を企てた頃から、父とつき合いのあった友人である。結局、南米に難を逃れ、戦後はスイスに移り住んだ。・・・」

「『お父様、私の短所ってなあに』、大学受験のとき、願書の長所短所の欄に何と書いてよいか分からず、食卓の向いで新聞を読んでいた父にきいた。父は一寸考えてから『社交性のないこと』と言った。『じゃあ、長所は』『流行を追わないこと』。なにか不思議な気がしたが、ああそうなのかとその通り書き込んだ。」

最後にこの箇所を引用。

「父が家に多く居たこと、家族が割合に食いしん坊だったこと、母が色々な料理を気楽につくる人だったことで、竹山の家では食卓での思い出が多い。
父と弟がありとあらゆる話題を持ち込んであれこれ面白く言い合いをした。父が『どうだ、その方参ったか』と言う。弟は答につまると『その方、リスが来ているぞ』などと光明寺の山から下りて来て庭の柿の枝でちょろちょろしているリスを指す。『その方、誤魔化すでない』『汝の言う事があまりに愚かだから返答に窮した』『ああ、その方のような愚か者には困ったものだ』。このようなかけ合いで話が進んで食事が終る。近ごろ世の中が騒然となるたびに母は『お父様と護ちゃんならどういう意見でしょうね。二人の話が聞きたいわ。楽しかったわ。あの頃』と話す。いま思うと、食卓での会話が重きを占めた家だった気がする。父とやりあっていた弟だが、やはり昭和史に関心があって歴史に進んだ。その弟も父を追うように世を去った。」(p77)
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本を手渡す。

2013-08-28 | 地域
今日は、リハビリのため病院へ。
前回のリハビリ動作を聞かれて、
ひとつ間違えていたのを指摘される。

あお向けになって、足を動かす動作は、
間違いとのこと。
あお向けになって、
いけない左足を折り、足裏を床(ベッド)につけ、
腰を動かす動作を繰り返すのだそうでした。
その際に、お尻に手を添えておくとよいのだそうです。

マッサージの箇所を質問すると
きちんと答えてくれるので、ありがたい。
もみ込み方や、患部への触れ方を質問する。

普通は、3か月目に補助器具をはずし
3~4か月目が、再断裂がいちばんしやすい。
まあ、そんなことを聞きました。

来週の水曜日に、お医者さんの診断。
その際、自宅で、近くの接骨院へ行くことを
相談するつもり。


家では、本を手渡す。
イソップに興味があるというので、
まずは、読んだ方がよいと、読みかけの
平川祐弘著「東の橘西のオレンジ」を渡すことに、
うん。これを読まなければいけないと
説明して渡す。
ついでに、
岩波少年文庫「イソップのお話」も渡す。
ついでに、
昨日手にした
ワイド版岩波文庫「方丈記」も渡すことに。

まあ、読む読まないは、本人しだい。
私が出来るのは本を手渡すくらい。

そして、
平川祐弘著「東の橘西のオレンジ」を
あらためて、古本屋へと注文することに。
うん。私の分。

16時東京へ帰るNを見送る。
19時頃にもなれば、虫の声がしきり。
今年の夏の終り。
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ワイド版岩波文庫。

2013-08-27 | 古典
数日前から、すこしなら、
補助器具なしで、お風呂やトイレへと、
よちよち歩きですが、
歩けるようになっております。
アキレス腱を切ってから、
あと一週間で2ヵ月になります。

とりあえず、自己責任で
おそるおそる慎重に歩行練習。
左足はかかとで立つのが精一杯で、
足首を曲げると体重が乗せられない状態。
ここから、再断裂の頻度が高くなる
とかで、補助器具はまだまだ、手放せず。
振り出しに戻らないような注意が必要。

さてっと、
とりあえずは、見通しがつき、
一次通過というようなホッとした気分。

ということで、数日前に古本を注文。
古本屋から午後に届いた本があります。

ふるほん 上海ラヂオ(京都市北区衣笠)へ
注文した10冊が届く(笑)。

ワイド版岩波文庫が4冊
方丈記・歎異抄・風姿花伝・俳句はかく解しかく味わう。
以上4冊各200円。
うん。持っているのですが、
ヨチヨチ歩きのお祝いに、買いました(笑)。
知り合いにあげてもいいし。
ありがたいことには、
4冊とも、本文の状況は、すこぶるきれい。

ほかに注文したのは
多田道太郎著「おひるね歳時記」(筑摩書房)
永田龍太郎著「蕪村秀句」(永田書房)
小市巳世司編「土屋文明百首」(短歌新聞社)
坪内稔典著「俳句のユーモア」(講談社選書メチエ)
倉橋羊村著「道元」(講談社)
紀野一義著「『歎異抄』講義」(PHP)

「土屋文明百首」のみ300円で
後は、200円。

合計2100円。
(2000円以上注文で、送料無料)


以上。
ヨチヨチ歩き記念。古本購入でした。
さあ、つぎは補助器具なしに、
普通歩行が出来るようになるまで(笑)。
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どこが反動だか。

2013-08-27 | 前書・後書。
アキレス腱断裂が7月3日。
それ以来、本をあんまり買わずにおりました(笑)。

とりあえず、今日届いた古本。

竹山道雄著「見て・感じて・考える」(新潮文庫)。
古書かんたんむ(神田神保町三省堂第2アネックスビル5F)
1000円+送料200円=1200円

 目次を引用

学生事件の見聞と感想
門を入らない人々
心理戦略
原爆のこと
在米の安倍先生に

砂の上にて

國籍
すこしきたない話
俗論

精神史について
進歩思想について
「日本とは何か」について
両次大戦間のドイツ文芸思潮

あとがき


ここでは、「あとがき」の前半を引用。

「ここに集めたエッセーを書いた時日は各篇の終りに記してある。昭和24年が一つ、28年が一つ、他はそのあいだに書いたものである。
このころは戦後の過労ですっかり疲れて、ずいぶんくるしかった。他にも原稿を書いたし、勤めもいそがしく、私生活もわずらいが多かった。無理を重ねて書いたのだったから、文書もぎこちなく読みづらい。
考えもいたらないものだけれども、ただ私なりに何とかして立場を明らかにして、それを立証しようとした。いうまでもなくこの時期は進歩主義が風靡していた。燎原の火のようだった。それに反抗することはむつかしかった。私はほそぼそとながら反抗した。この本は、いわば私の小さな『反時代的考察』なので、そういうものとしてもう一度読者の前に出すこともできようかと思う。
ところが、昭和25年の秋に『学生事件の見聞と感想』に記した事件がおこってからは、もはやのっぴきならなくなった。態度をはっきりと表明しないわけにはいかなくなった。それからは、進歩主義の学生さんや文化人と議論をし教わり反駁した結果を、まことに舌足らずながら書きつづけた。おかげで、札付きの反動ということになってしまった。自分ではどこが反動だか分らず、ただ意外なことになるものだとおどろいている。」

うん。昭和20年代に「進歩主義の学生さんや文化人」から「札付きの反動」とレッテルを貼られていた竹山道雄氏の文章を読めるたのしみ。
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政治成熟の里程標。

2013-08-26 | 短文紹介
WiLL10月号を読む。
月刊誌は、これ一冊でいいや。
と、このごろの私は思う。

さてっと、その書評欄。
「石井英夫の今月この一冊」は
小川榮太郎著「国家の命運」(幻冬舎)をとりあげておりました。
そこに、こんな箇所が

「安倍は、一度、地獄を見た男だった。
辞め方のダメージはあまりにも大きく、
政治生命を言うなら一度は完全に死んだ身である。
その政治家を自民党総裁目指して再起させようと
画策したキーパーソンは、
政治評論家の三宅久之だった。
そして三宅を中心に、
金美齢、平川祐弘、すぎやまこういち、
長谷川三千子、故米長邦雄ら
政界のソトにいた民間人たちが
安倍担ぎに動き出す。
その秘話が生々と語られているのが、
まことに興味深い。」(p135)

とある箇所に、興味を惹かれました。
あれ、ここに平川祐弘氏の名前が登場している。

小川榮太郎氏は文芸評論家とあります。
「国家の命運」(幻冬舎)の最後に「謝辞」として4頁ほどの文があります。
そこからも引用。

「前著に続く『安倍礼賛本』を出したことで、私は、特定の政治家を持ち上げる御用文士という世評が定着することになるのであろうか。それも面白かろう。言い訳はしない。
だが、私の目に映じる安倍晋三氏は、依然として、権力を謳歌する時の人ではなく、日本を本当に取り戻すために勝算に乏しい戦いを進める、政治というフィールドの孤独な藝術家だ。氏の仕事の孤独な性質は、私の本来の主題であるベートーベン、ヴァグナー、フルトヴェングラー、あるいは川端康成、小林秀雄、三島由紀夫ら、近代藝術の天才たちの、悲惨と栄光とさして変わらない。だから私は安倍氏にこだわるのである。
勿論、私の礼賛に対して、手厳しい批判が出現することは望むところだ。これだけ強い政治的個性に、強烈なアンチが出現しないのはおかしい。憲法改正や靖国、歴史認識、アベノミクスに対する、朝日新聞、毎日新聞、岩波文化人レベルの知能指数の低い言いがかりではなく、充分説得的で重厚精緻な批判の出現は、間違いなく日本の政治の成熟の里程標になる。」(p259~260)


本文は、前回の著書「約束の日」より、さらに読みやすくなっている感じをうけます。両方の著書を読めることのしあわせ。
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断ち切る。

2013-08-25 | 前書・後書。
平川祐弘・竹山道雄を読んでいると、
読者である自分をためされているような気がしてきます(笑)。

竹山道雄著作集3「失われた青春」の解説は
粕谷一希が書いておりました。
その箇所を引用する前に、
この箇所をまたもってきます。

河上徹太郎氏に、「私の中の日本人 福原麟太郎」という短文があるのでした。
そのなかに、こんな箇所があります。

「もうこんな先生は今の時勢では出ないかも知れない。芝居を作るのが作者や役者ではなく観客であるやうに、先生を作るのはお弟子である。今の学生にはそんな能力を失はれてゐるのである。・・」

「今の学生には」というのが気になっておりました。
この「学生」というのを「読者」に置き換えたというべき
言葉を「著作集3」の粕谷一希氏の解説に拾うことができました。

「・・それらは、日本の文壇や文学青年の感性を超える知性の切れ味をもっており、思想問題への鋭敏な感受性を示していた。その冷静な態度と能力こそ、竹山道雄を文壇的に孤独に追いこんでいったものであるが、しかし、少数ではあれ、良質な読者が幅広い社会の各層に存在したのである。日本のジャーナリズムは、その当時から今日まで、そうした読者を断ち切る形で歩んできている―――。」(p318)

うん。「良質な読者を断ち切る形で歩んできている」日本のジャーナリズム。
ああ、そういう風に見れば、分りやすい。

ちなみに、粕谷一希氏のこの解説の最後も引用しておきます。

「『共産主義的人間』の悲劇を衝いた林達夫氏の先見性は、1970年代に左翼知識人からも再評価された。しかし、それは林達夫氏の唯物論者としての急進性という但し書に、一種の自己弁明、アリバイ証明を見出そうとした節がある。
1980年代において、竹山道雄の高貴にして剛毅な自由主義は、人間性の名において、再評価に値する、戦後日本の貴重な遺産なのである。」

ちなみに、
1983年に「竹山道雄著作集」全八巻が刊行され。
1984年(昭和59年)の6月15日に
竹山道雄は亡くなられております。


そうなんだ。私が読んでいるのは、
「戦後日本の貴重な遺産」なのだ。
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竹山さん、がんばれい!

2013-08-24 | 短文紹介
昨日はブログ書き込みなし。
まとまらないまま、寝てしまいました(笑)。
うん。でも一夜明けると、何か書けそう。

椅子で左足のリハビリをしていると、
こりゃ、どこから見ても貧乏ゆすり。
今日も、リハビリ揺すり。

さてっと、
河上徹太郎氏に、「私の中の日本人 福原麟太郎」という短文があるのでした。
そのなかに、こんな箇所があります。

「もうこんな先生は今の時勢では出ないかも知れない。芝居を作るのが作者や役者ではなく観客であるやうに、先生を作るのはお弟子である。今の学生にはそんな能力を失はれてゐるのである。そういへば吉田松陰が良師であつたのは、彼の資質もさることながら、久坂や高杉、殊に入江久一、品川弥二郎が良い弟子だつたからだともいへよう。」

うん。ここは一読忘れられない箇所なのですが、
どうも、ピンとこないでいました。

竹山道雄氏の文を読んでいると、
現代文にはない、肌触りがあるような感じがしました。
それが単なる理窟では終らない矜持のようにも思えて、
それが何なのか分からずに読んでおり。
いまも、分らないのですが(笑)。
語り合う相手への真摯さなのかもしれないと、
そう思えてくるのでした。

以下のことは、そのヒントになるのかもしれません。

竹山道雄著「昭和の精神史」に
「昭和十二三年ころから以降の雑誌類を読みかえすと、つくづく思想家とか評論家とかいうものは、そのときによってどうにでも理窟をつける愚かしいものだという感じを禁じえない。」という言葉が拾えます。

ところで、「向陵時報」というのは、旧制一高の寄宿寮の寮内新聞というものだったようです(詳しくは検索してみてください)。
その「向陵時報」昭和19年6月16日稿の、竹山道雄氏の文「空地」がありました。
そこから、一部を引用。

「・・・・ヒットラーユーゲントが学校を訪問した。二十人ほどの白皙の若者がこの空地で自動車を降りて校門を入ろうとしたとき、鉤十字の小旗を手にした出迎えの一高生が、『バカヤロー』と連呼して歓迎の意を表した。規律と清潔と服従を最大の美徳として鍛えられたかれらが、日本のもっとも由緒ある学校ときいて想像していたのは、貴族的な修道院、ないしは科学的設備の粋をつくした病院、または兵営のごときものであったから、無精な粗服をまとって底気味わるい薄笑いを浮べてかたまっている一高生を見て、胆をつぶしたのも当然であった。ましていわんや寮の三階の窓口に大あぐらをかいて棒をふりながら、ドイツ人を案内している教師を『竹山さん、がんばれい!』と弥次るのを見ては、これがStudentかと呆れたのであった。その後、かれらは時の文相荒木大将のお茶の会で、日本で一番印象のよかったのは幼年学校、わるかったのは一高、と答えたという。一高生のシニックなだらしのなさ、その客観的印象への無頓着ということ・・・・しかし、玉杯の合唱をきいて、その深さ強さに感心した。そして、日本の学生の顔色がわるく、栄養不良の感があるのに、ぞっとした。」
なにやら、福翁自伝に出てくる、洪庵の塾生をイメージしてしまいます。引用をつづけます。
「・・・・校内からの応召がはじまった。出てゆく若い人が大勢の友にかこまれて、歌をもって送られ、そのあとで声に涙も交えずにはっきりと挨拶するのを聞く度に、私は自分にはああいうことはとてもできない、ああいう立派な態度はとてもとれない、若さなればこそ、といつでも思うのであった。・・」

以降まだ、引用したりないのですが、これくらいにします。
うん。これは一高寮内新聞に寄稿した竹山道雄氏の文なので、読み手は一高生と先生ということになるのでしょうか。

そうそう、竹山道雄著「時流の反して」(文藝春秋)のあとがきには

「『若い世代』は、戦争末期に旧制一高生全部にむかって語ったものである。『空地』も戦中のものだが、厭戦気分もこれ以上には書くことはできなかった。戦中に反戦とか反ナチとかを書いたものもあるが、その一つはゲラにはなったが編集者から『危険を感じますから云々』とてその思想雑誌には印刷されなかった。この編集者は戦後には戦闘的な平和主義者になっている。・・・さらに、ナチスの悪口を東京大学新聞に書いたが、その後半の主な部分は削られた。それをそのころ林健太郎さんにいったら、『いや、印刷になった部分だけでも分ります』といわれた。戦後になって誰も彼も『自分は抵抗した』というので、私は事実抵抗はしなかったのだし、その仲間には入りたくなかったから、こういうことは一切口にしなかった。近頃覆面の編集者に操作された奥様方や高校生たちで私を戦争愛好者のように思っている人もあるらしいから、事実あったことを記しておく次第である。」(p521~522)

ちょうどよいチャンスなので、
当時の学生から見た、竹山道雄の姿を、
引用しておきたくなります。

竹山道雄著作集3「失われた青春」の月報にある、
松下康雄氏が「四十年来の師」という一文。

「昭和18年・・・その春に一高に入学した私達は、喧噪をきわめた戦時社会とは、見えざる壁を隔てた一画で、全く違った価値観を承け継いで来た不思議の国の住人に加わった思いがした。・・・竹山先生には第一外国語のドイツ語を教わった。講義はきびしく、一学期で文法を終ったが、面倒な格変化はかなり徹底的に叩きこまれた・・・教室では、ドイツやフランスの市民社会について留学体験に基いてコメントされる事が多かった。・・当時流行のナチスなど、先生によれば、金髪碧眼などという事を自慢にし、ニーチェの比喩を浅薄に文字通り実現しようと、超人気取りで市民社会を破壊する狂信者にすぎなかった。」

ここは貴重な証言なので、引用をつづけます。

「私は秋に病気で休学し、19年に駒場に戻ると、すでに敗色濃厚、さすがに一高生活も甚だしく暗転していた。その暮れから私達も池尻の工場に動員され、講義は朝の一時間だけで、あとは工場で労働したが講義を怠ける者はいなかった。人間精神の世界と私達を繋ぐものは、もはやこの朝の一時間しかなく、それも兵隊に行くまでの短い間しか続かないのだと皆考えていた。竹山先生は当時寮の幹事として、打ち続く空襲下の劣悪な環境のなかで、私達と共に寮生活をして居られた。・・・
やがて私達も次々に召集を受けたが、間もなく終戦になり、皆駒場に戻った。満洲に行った者だけ還らなかった。この8月15日を境に、数日間で日本国中の諸々の言説が鮮やかに百八十度の転換をとげたのは、大層な観物であって、私達に一番強烈な戦争体験になっている。他の多くの一高教授と同じく、竹山先生も終戦で言説が変わったりはされなかった。タブロイド版の向陵時報に掲載された先生の文章は、実に新鮮で、意表をつく指摘が多く、学生を揺すぶった。・・・・終戦後の寮生活は、飢え、闇物資の調達、学制改革、学生運動の萌芽、あらゆる禁じられていた思想や奔放な生き方などの渦で混沌としていた。その奇怪な時期に先生は学生の色々な問題の解決に当られる立場にあり、大変な御苦労をされたに違いない。・・・・」

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そんなことが。

2013-08-22 | 短文紹介
ここらで、竹山道雄を読み直そうと
「妄想とその犠牲」をひらいてみる。
ちょっと、敬遠していた内容なのですが、
読んでよかった。

これは、昭和32年9月~33年1月に書かれたもの。
はじめのほうには、こうあります。
「・・ナチスによるユダヤ人の大量焚殺事件について記そうと思う。これは日本にもちかごろになって紹介された・・私はこの話を比較的にはやく知ったが、数年前にはそれを人に話しても、日本人はみな『そんなことがありうるものか。それはデマだ』と信用する人はいなかった。それももっともだった。」

「『夜と霧』という映画は、日本では公開されなかったそうであるが、私はこれをパリで見た。」

こうしてナチスによるユダヤ人事件をとりあげてゆくのですが、
それを一方的に紹介するばかりでもないのでした。
たとえば、
こういう視点をも提供しているのです。

竹山氏が昭和22・3年頃の日本と比較した
「インフレ・失業・占領」の箇所。

「第一次大戦で敗北した後のドイツは困難にあえいだ。
混乱がつづき、生活はくるしく、人心はバランスを失った。
そしてこの短い時期に、ユダヤ人の少数集団が
ドイツ人の多数集団ときわだって別な行動をして、
深い怨恨を買った。・・・・・
第一次大戦ではたくさんのユダヤ青年が
ドイツのために血を流したのだったが、
その犠牲も空しくなった。
ユダヤ人には、祖先いらい国の庇護をうけないで生きぬいてきた者のもつ、強靭な生活力と抜け目のなさと組織があり、国境がなかった。世渡りのうまさ、宣伝、心理洞察、派手でえぐるような感覚などでは、ドイツ人は競争できなかった。こちらはむしろ武骨で勘がわるくて鈍重である。大インフレ時代に、堅気なドイツ人が貧困にあえいでいるときに、スチンネスは全通貨の半ばを手に入れ、闇取引とキャバレーがはびこって、いたるところの都市は『ユダヤ化』した。けばけばしい風俗営業店はそれが多かった。ずっと後になっても、ベルリンの百貨店はすべてユダヤ人の経営だった。そして、事実ベルリンは道徳的泥沼となっていた。
私は昭和22・3年頃に毎日、渋谷あたりを往復して、はじめて『ドイツにあったのもこういうことだったのか』と実感できたように思った。日本でも国中の貨幣の三分の一だかが第三国人の手にあるといわれたころで、町に並ぶ店はみな外国名になっていた。
ユダヤ人は各界にめざましく進出した。ドイツ人はお互いに喧嘩したり嫉妬したりしているが、ユダヤ人はお互いに助けあい引きあうから、たとえば大学教授の椅子も、いったんユダヤ人が占めるとその後は代々ユダヤ人のものとなって、ドイツ人はしめだされた。学者、法律家、医者、音楽家、文学者、映画、劇壇、ジャーナリズム、出版などの、つまり文化面では、ほとんどユダヤ人独占といってもいい領域すらいくつもあった。いわゆる根のない『アスファルト文化』の時期だった。ポーランドからユダヤ人が大量に流れこんできたが、もともと土地をもたず土地に親しまない民族だから、すべて都会に住んで、流動する中間的存在となった。ユダヤ人は国の活動の神経をにぎった。・・・・
あの両次大戦間の時期には、ドイツにはじつに異様な雰囲気がみなぎっていた。私などもそれに接して、その見聞を一般化して、これがドイツだと思いこんだところから、ひところはドイツに対していい感じをもたなかった。それがナチスのようなものになろうとは、もちろん思い及ばなかったが、何か不吉なものを感じた。
大インフレの年と世界不況のころとに、ナチスは飛躍的に力を増した。」


また、こんな箇所。

「第一次大戦後のくるしみの中で、ドイツ人は『これというのもあれのせいだ』とて、その責をユダヤ人に集中した。今度の戦後の日本でこれと同じ役をしているものをしいて探せば、それはもっとずっと小さな規模ではあるけれども、『天皇制』だと思われる。インテリの中のある人々は、これをもって歴史過程の一切の悪を説明する鍵としている。『あれがすべの悪の因だった。あれがなくなればすべてよくなる』としている。『自分たちは天皇制に対して心から憎悪と恐怖を感じる』。もし数年前の左翼のテロ時代にあれが成功していたら、勢いのおもむくところ、日本でもずいぶん血腥いことになっていただろう。」

とりあえず、一読。
こんな私の引用箇所だけを鵜呑みにしないで、
興味をお持ちでしたなら、どうぞお読みください。
思いもかけない視野のひろがりがありました。
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リハビリ。

2013-08-21 | 地域
今日は3週間ぶりに病院へゆく日。
自宅にいる間、アキレス腱断裂のギブスをとったあとの
左足補助器具を、私は勝手にいじっていて、
お医者にお叱りをうける。
4段階のハイヒールのようなものが、かかとにある補助器具。
それを自分の判断で、一週間ごとに、一段づつ、低くしてゆき
最後の一段のみを残すだけにしておりました。
医師は、今日様子をみて、
段々に補助器具のかかとの高さを低くしてゆく
手筈だったようで、
勝手にして、再断裂したらどうする。
と言われる。

そのあと、リハビリへと回される。
6段階のマッサージメニューを毎日こなすように、
きめの細かい指導。
1、ふくらはぎのマッサージ
2、椅子に座って、かかとの上げ下げ300回以上
3、足の五本指でグーパー。300回以上。
4、あお向けに寝て、お尻を両手でささえて  
  足を延ばしたままの上げ下げ。
5、うつ伏せになり、ひざをまげたままかかと伸ばし。
6、うつ伏せになり、足を延ばしたままかかと伸ばし。

以上毎日家でのリハビリを
するように言い渡される。
来週の水曜日に、リハビリで病院へ行くことに。

病院の帰りは、
外食。ちょうど11時半過ぎだったもので、
家族づれで混んでおり、
トイレの前の席に案内され、
食事の間、人の出入りの多いこと。

それから、近所の床屋へ。
暑苦しい髪を切ってもらう。
主人は、私の一学年上。
30代後半ごろに。
野球で怪我をして、
半月板など損傷の大けがをしたそうで、
3か月病院ぐらしで、
退院してから、また骨のそばに入れた
金具をとりだして、それは日帰りだったが、
あとで痛かったことなどを
はあ、そうだったのですかと、
床屋の椅子に座って聞いて帰る。

そういえば、アキレス腱を切ってから、
いろいろな方に、体験談を聞いて、
自分など軽い方なのだと
つくづく思うこの頃です。

さてっと、
2時から、お客さん。
昭和12年生まれの女経営者に
元気をもらう、
その方々と5時ごろまで。

さあ、来週まで、
リハビリのメニューをこなそう。
勝手にやると怒られるけれども、
メニューをこなすぶんには、
余分はなさそうです(笑)。

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田舎のネズミ。

2013-08-20 | 短文紹介
以前買った絵本に
「いなかのネズミとまちのネズミ」(岩崎書店・2009年)がありました。
文が蜂飼耳。絵は今井彩乃。
書評が気になり、新刊で購入しといたもの。

絵の今井彩乃さんは、この絵本が日本でのデビュー作とのこと。
イソップの話に、洋風の絵がマッチして見とれちゃいます。
田舎と町の食物くらべとなるのですが、
蜂飼耳さんの文に
こんな箇所があります。

「いなかのネズミは つかれてしまいました。
 『ぼくは たとえ ここにあるような
  ごちそうは なくても
  きらくで のんびりした いなかのほうが
  やっぱり いいなあ』
 いなかのネズミは まちのネズミにむかって
 ぽつりと いいました。」

うん。この簡潔な場面を、
天草本『伊曾保物語』では
どのように語られているのか。

「・・さて京の鼠その恩を報ぜうずるとて、
同道して都へ上つた。
京の鼠の家は所司代の館でしかも倉の中なれば、
七珍万宝、その外良い酒、良い肴何でも有れかし
乏しいことは一つも無うて、
酒宴の半に及んだ時、
倉の役者(役人のこと)戸を開いて来れば、
京の鼠は元から住み馴れたる所ぢやによつて、
我が栖(すみか)をよう知つて、
たやすう隠れたれども、
田舎の鼠は案内は知らず、
ここかしこを逃げ廻つたが、
とある物の陰に隠れて辛い命を生きてその難を遁れた。
さてその役者出て行けば、また鼠ども参会して、
田舎の鼠に言ふやうは、
『少しも驚こかせらるるな、
 在京の徳といふは、
 このやうな珍物、美物を食うて、
 常に楽しむぞ。
 恣(ほしいまま)に何をもかをもお参りあれ』
と言へば、
田舎の鼠が言ふは
『面々はこの倉の案内をようお知りあつたれば、
 さもあらうず、
 我らはこの楽しみも更に望みが無い。
 それをなぜにといふに、
 この館の人々おのおのを憎むによつて、
 萬のワナ、鼠捕りをこしらへて置き、
 あまつさへ数十疋の猫を養へば、
 十や八つ、九つ程は滅亡に近い。
 我らは田舎の者なれば、
 自然も人に行き逢へば、
 藁芥(わらあくた)の中に
 逃げ入つて隠るるにも心安い』
と言うて、
速かに暇乞ひして馳せ下つた。」


この箇所を平川祐弘氏は、こう指摘しております。

「さて、都の鼠のところで御馳走にありつこうとした時、
人が戸を開いたので鼠が狼狽する、というところまでは、
原作も天草本も同じ筋だった。
そしてギリシャの原本でもホラティウスの
ラテン語風刺詩でもラ・フォンテーヌの仏訳でも、
田舎の鼠は都鼠と一緒に逃げることになっていた。
しかるに、天草本では・・・となっている。
狂言には周知のように都へ出て来て戸惑う
田舎者を笑い物にする伝統があり、
その滑稽味をこのイソップの翻案にも
生かしたものと思われる・・・」(p301「東の橘西のオレンジ」)
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天草版伊曾保。

2013-08-19 | 短文紹介
イソップ。エソポ。イソポ。伊曾保。伊曽保。

え~と。平川祐弘氏の「イソップ物語・比較倫理の試み」を読むと、
天草版伊曾保物語を、どうしても読みたくなります(笑)。

その「どうしても」が気になりませんか?
グイグイとひきよせられる箇所なので、
ていねいに、順を追って平川氏の文を引用。

「キリスト教会にとって一冊の本といえば聖書であり、説くところの道徳はキリスト教道徳であるが、西洋の世俗の小学校にとって、強いて一冊の本といえば、イソップの『寓話』こそが教科書であり、説くところの道徳は、イソップが西暦以前の、すなわちキリスト教以前の人であるように、別にキリスト教の道徳とはいえない民衆道徳であった。
西洋人はそのように道徳教育が二本立てであることに対してさして矛盾は感じていないようだが、16世紀の末、日本に来た宣教師たちは異境に来て、西洋の神学書、教理問答書、語学教科書、などを日本語に訳す段になって・・・・他方では(当時のヨーロッパ諸国の初等教育にラテン語教科書として用いられていた)イソップの寓話も日本語に訳させた。ローマ字で綴られた日本語訳本『イソポのハブラス』ESOPO NO FABVLASは今は一冊だけ大英博物館に保存されているが、1593年文禄二年に天草のコレジョで印刷された訳本で、訳者は、その訳文のすばらしい出来栄えからいって、日本語を母国語とする教養人であったことに間違いなく、後で見るように、日本語の翻訳文学中の一傑作となっている。」(p278)

平川氏で引用しておきたいのは、この箇所。

「・・・先の例でもわかるように、日本の場合、天草本『伊曾保物語』の方が、昭和日本を代表した岩波書店の正確を旨とする(しかしそのためにより大切ななにかを喪失した)直訳よりも見事だ、という感じを読者はひとしく受けられたにちがいない。実際、天草本の訳の中には、フランス語や英語に翻案・翻訳されたものよりなお一層よくこなれて達者と思わせる出来ばえのものもある。室町時代の日本には狂言などの文芸が発達し、その種の教養を身につけた日本人訳者が『伊曾保物語』を和訳した時、作中人物(作中動物?)の会話はさながら狂言の作中の会話のようにいきいきと表現力に富めるものとなった。その一例として『京の鼠と田舎の鼠』の場合・・・」(p297~298)

ちなみに平川氏の文が最初に雑誌に掲載されたのは
『諸君!』(昭和52年4月、5月号)だそうで、
小堀桂一郎著「イソップ寓話」が中公新書で出たのが昭和53年11月。
そしてこの鼠の事は、小堀氏も例として取り上げておられます。
どうも、小堀氏の新書には平川氏の名前が見あたらない。
もどって、
平川氏の文には
「狂言には周知のように都へ出て来て戸惑う田舎者を笑い者にする伝統があり、その滑稽味をこのイソップの翻案にも生かしたものと思われるが、そこがこのアダプテーションの、実に生き生きとうまく、かつ面白いところであり・・・・」(p301)と具体的に指摘してゆかれるのはワクワクしてきます。

そして平川氏は、この論文を終えるにあたって、最後に木下杢太郎氏の言葉をもってきておりました。

「日本人でイソップの寓話に単純な勧善懲悪以上の知恵を認めた人は木下杢太郎で、杢太郎は『古語は不完全である、然し趣が深い』という一文で、天草本にふれ、『向後何人が伊曾保を訳せようとも、これほどには行くまいと思はれた』とその訳し振りをまず讃えた後に、こう評した。味わい深い批判なので、最後にそれを引いて拙文の結びとしたい。
『伊曾保の説く所には、
一体何が善くて何が悪いのか分らないことがある。
狐が善いのか羊が善いのか、
獅子の方が善いのか、狼の方が善いのか。
分らないながら、話は胸に応へる。
その味はちやうど、支那の歴史、
たとへば『史記』などを読む場合に似てゐる。
・ ・・『八犬伝』などとは違ひ、
善玉悪玉がはつきりして居なくて判断に迷ふが、
読過してははあとうなづく所があつて、
何か此身が賢くなつたやうな気がするところ
伊曾保の話を聴いた時の如くである。
いづれも茫洋として遥かである。
確か此等の作者は馬琴、近松などより
賢かつたに相違ない。
日本の古典、日本の現代作家を渉猟しても
中々これだけの智恵を示してくれるものはない。』」(p344~345)
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夏の文化・冬の文化。

2013-08-18 | 短文紹介
もし、「イソップ物語読本」というのが出来るのであれば、
平川祐弘氏の「イソップ物語・比較倫理の試み」は必読書。
この必読書は、現在、残念ながら、
平川祐弘著「東の橘西のオレンジ」(文藝春秋・1981年)を
ひらかなければ、読めません(笑)。

ところで、
宮崎駿著「本へのとびら」(岩波新書)の
はじまりは、「岩波少年文庫の五十冊」で、
「星の王子さま」から選ばれております。
けれども、あれっ、そういえば、
「イソップ物語」は選ばれていなかった。
それに、日本の本は、というと、
「日本霊異記」と
宮沢賢治著「注文の多い料理店」の2冊。

さてっと、
「東の橘西のオレンジ」のあとがきに
「フランスの初等教育が・・・ラ・フォンテーヌの寓話の暗誦で始まることは、私の三人の娘を現地の学校へ入れてすぐわかった。九歳の娘がまず暗誦を命ぜられたのは『狐と烏』であり『蝉と蟻』だったからである。」(p357)

とあります。
平川祐弘氏は「イソップ物語・比較倫理の試み」のなかで

「明治の初年、日本から欧米へ教育視察に出掛けた人は、英語圏でもイソップが小学校の教材に用いられていることにひとしく気がついた(それでいて文禄年間に天草のコレジョでイソップがすでに邦訳された、という事実には明治の末年にいたるまで気がつかなかった)。それで明治五年以来、日本ではさまざまなイソップの邦訳が出た。」(p307~308)

こんな箇所もあります。

「ここで個人的な思い出を述べさせていただくと、私は昭和25年、東大に教養学科が新設された時、そのフランス科へ進学した。主任の前田陽一先生は私たち日本人の学生をフランス人の子供と同じように訓練するというので、まずラ・フォンテーヌの『寓話』の暗誦を命ぜられた。ところが私たちはその時もう19歳で大学二年生になっており、ランボーだのマラルメだのと口走っていたので、ラ・フォンテーヌの寓話は馬鹿にしたというわけではないが、結局暗記しないでしまった。・・・その・・心性のためかどうか、日本のフランス文学研究者の中でラ・フォンテーヌを専門にする人はほとんどいない。西洋古典学研究者の中でイソップを専門にする人は一人もいない。イソップの寓話を綺麗事に書き変えてしまう日本人は、実はこの寓話を心から好いていないのかもしれない。」(p314~315)

うん。岩波少年文庫への言及もあります。

「子供の躾け方や育て方、教育思想や倫理思想は、各国、各時代に応じて変化する。すると子供向けの読み物として出版される『イソップ物語』も、その国その時代の考え方、感じ方に応じてたちまち書き換えられてゆく。先ほど読んだ『盗みをした子供と母』の話にしても、原作では、子供は『ちょっとお母さんのお耳に入れたいことがある』と言い、母親が近づくや・・・となっている。これは岩波の編訳者が意図的にこう書きあらためたのである。・・・あまりに残酷で教育的でない、という今日の日本の出版社に特有の教育的配慮が働いて、勝手に原文を書き換えたのである。」(p286)


さてっと、そういえば、私に思い浮かぶのは
平川祐弘著「平和の海と戦いの海」(講談社学術文庫)のブライス教授が登場する箇所でした。

「博士課程でヘンリ・ジェイムズを研究テーマに選んだ渡辺敏郎氏はブライス教授が、『ジェイムズについては自分はあまり知らないが良い機会だ、君と一緒に読むことにしよう』と言い、二人で教員食堂で、短編集から文芸評論集まで読んでいった時の思い出を次のように語っている。
 質問のごとく自問のごとくWhat is the poetry of James? とかWhere is he? とかよく言われた。
ブライス氏にとって文学を研究することは作家の詩を知ることであり、自分を新しく知ることであり、さらに言えば自分自身の詩を書くことだった。研究者の主体的な位置が奈辺にあるのか不明な、そしてそのために不毛な論文(?)の多い日本の西洋文学研究の弱みをブライスさんは承知していたのでだろう。・・・・・『ここにジェイムズがいて、ここらあたりにブライスがいるとすると、君はどのあたりにいると思うか』といった類の質問が飛び出してくる。私の困った顔を見てニヤリとなさるが、またすぐ顔をひきしめ、『いま答えなくともよい。しかし必ず自分で答を出さなくてはいけない。それを伴わない文学研究はあり得ないのだ』と言われるのだった。」(p197~198)


うん。平川祐弘氏の「イソップ物語・比較倫理の試み」は
魅力の箇所がゴロゴロしているのですが、ここでは最後に、ここを引用。

「新学年が春に始る日本と違って、フランスの新学年は秋に始る。フランスの小学一年生はちょうど北風が吹き出すころ『蝉と蟻』の寓話の暗誦を命ぜられるのであろう。・・・・実は今日でも渡仏する日本人は、お役人でも留学生でも女の子でも、フランス人が意外に締り屋(エコノム)であることに一様に驚くらしい。そのことは学者でも商社員でも皆そう感ずるようである。それで私はフランス人の友達をからかって、小学校にあがるやいなや『蝉と蟻』の寓話を暗誦させられるものだから、それでフランス人は皆締り屋になったのだ、とよく冗談を言ったが・・・・『蝉と蟻』に代表される『来るべき冬に備えよ』という訓えは、『冬の文化』であるフランスや英米の小学校国語・修身教育では大切な項目となる。」(p317~319)
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