和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

なんだ竹槍じゃないか。

2022-08-19 | 硫黄島
水木しげる著「白い旗」(講談社文庫)が、古本で200円。
読んだことがなかったので購入。
最初にある『白い旗』をひらく。

昭和20年2月10日硫黄島。とはじまる。
最初のページには文がある。

「 硫黄島は、その名のごとく硫黄の島であった。
  井戸を掘っても、硫黄くさい海水まじりの湯が出る。
 
  陣地構築のために穴を掘れば、
  鼻がただれるほどきつい一酸化炭素と
  硫黄のにおいで十分には作業ができない。 」

忘れがたいのは、この箇所でした。

「 射て 」「どうした」
「弾がありません」
「弾薬庫から早くもってこい」
「弾薬庫も空です」
「なに空!?」

「そりゃ大変だ」「無電 無電」
 ・・・・・

「そのあくる夜 無電が通じたのか・・・」
「輸送機です」
「しめたっ」「弾薬だ」 

 輸送機から「ぽたっ」と荷が落下する。

「早くあけろ」
「なんだ竹槍じゃないか」
「竹槍で戦えというのかナ」 ( ~p22 )


文庫には、「白い旗」のほかに
「ブーゲンビル上空涙あり」「田中賴三」「特攻」と、
あるのですが「白い旗」だけで私はもう先が読めない。

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B29が泳いで。

2010-09-12 | 硫黄島
梯久美子著「昭和二十年夏、女たちの戦争」(角川書店)は五人の女性が登場しておりました。その最初は近藤富枝さんで、そのはじまりは、こうなっておりました。


「『B29がとんでいるところを見たのよ。私。きれいだった。夜勤の日、電車に乗って銀座に着いたら、空襲警報が鳴って、見上げたら、編隊組んで、ばーっと飛んできた。どうせ死ぬなら放送局のほうがいいと思って、NHKまで走ったの。玄関にたどり着いてもう一度見上げたら、またB29の編隊が頭上を通り過ぎていった。それがね、きれいなの。ほんとに。やっぱり美しいものは美しいわけよ、戦争でも』最初に話を聞きに行ったのは、作家の近藤富枝氏である。近藤氏は戦時中、NHKのアナウンサーだった。女性や子供が次々と地方へ疎開していく中、東京に残って仕事を続けた。『大本営発表』もずいぶん読んだという。
昭和天皇の良子(ながこ)皇后が、終戦直後に皇太子(現在の天皇)に書き送った手紙のなかに、『B29は残念ながらりっぱです』という一節がある。そのことを思い出して、『そういえば昭和の皇后さまも、B29のことを立派だと書いておられましたね』と言うと、近藤氏は、間髪をいれず『いえ、私はね』と首を横に振った。『立派だとは思わなかった。ただ美しかったの』
日本橋生まれの江戸っ子である近藤氏の語り口は、八十代の半ばを過ぎたいまも、すっきりと鮮やかである。『私は立派なんていうことには、あんまり興味がない。美しいか美しくないか、それだけ。あのとき見たB29は美しかった。とてもね』歯切れのいい早口で、話は続く。・・・・・」

たまたま、最近「筑摩書房の三十年」を読んでいたら、ここにもB29が登場しておりました。臼井吉見と唐木順三とが出てきます。

「臼井の枕元で、女の泣く声がした。焼失家屋23万戸、死傷者12万人、罹災者100万人あまりが出たB29百三十機の無差別大空襲が、そのとき、すでに始まっていたのだ。この爆撃で、江東地区は全滅した。いくら叫んでも、酔いしれた臼井と唐木が眼をさまさないので、女中が、ついに泣き出したのだった。ふたりは、あけはなされた雨戸の外へ出て、庭に立った。
サーチライトが交錯する空を、鮎のようにB29が泳いでいる。吠え狂ったように高射砲陣地から夜空をめがけて弾丸が撃ち込まれるのだが、届かない高さにB29が群がり、悠々と流れていた。下町は火の海。その照り返しで、銀色の敵機が赤く染まっていた。『敵機と知る一瞬先に、美しいと思った。ほんとうに美しかった。美しいと思ったことを、くやしく思う気持が次に来た。最後に、とうとう来たナと思った』と臼井は、実感をこめて書いている。
この空襲で、筑摩書房は焼けなかったが、強制疎開で取壊しになった。・・」(p80)


とりあえず。二人『ほんとうに美しかった』というのでした。こういうのを塗りつぶしてはいけないのでしょう。「女たちの戦争」のはじまりが、ここから書き起こされていることに、今気づいたりします
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映画館へ三里。

2006-12-16 | 硫黄島
「ほととぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里」という言葉があるそうです。
潮騒を自由気ままに聞くこの地(里)では、映画館へも一日がかり。
そんなわけで、地方にいる私は、まあ映画を見に出かけることは、ありませんのです。
そういうことなので、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」は、観に出かけないことにしております。それでも、気にはなり。その気懸りを癒してくれるのが映画評だったりします。
そこに映画の具体的な箇所が紹介されていると、私は喜びます。
たとえば、「物語は、硫黄島に日本の男たちが残した膨大な数の手紙が掘り出される場面から始まる」とあったり、「2006年、硫黄島の地中から数百通もの大量の手紙が見つかる。61年前、この激戦地で戦った男たちが家族にあてて書き残したものだった・・」という言葉を新聞の映画評のなかに見出すと嬉しくなります。
そして、見には行かない。という立ち位置からの、勝手な連想する愉しみへ。


ということで、ここからは、
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋)から以下引用。


(海軍語学校)11ヵ月の詰め込み教育は終り、私は卒業式の総代として告別の辞を読んだ。海軍少尉に任官した語学生一同は、ハワイに送られた。1943年1月。折からガダルカナルの日本軍は、敗色ようやく濃かった。
私に割当てられた仕事は、ガダルカナルで米軍の手に落ちた、日本軍の公私さまざまな文書を翻訳することだった。隊員の健康調査書や隊の備品目録など、訳してもなんの足しにもならない書類ばかりでうんざりしたが、ある日の私は、ふとしたことから日本兵の日記や手紙類を発見し、読む進むうちに深い感動に襲われた。それはとくに、私に課せられていた米軍兵士の信書検閲の印象とくらべるとき、圧倒的な感動だった。
週に一日、私は午前零時から八時まで、米兵が故郷に宛てて書く手紙を検閲しなればならなかったのだが、軍機らしいことは何一つ書かれていないかわり、この上もなく退屈な手紙だった。ある兵士は『今晩もまたブタ肉の料理だ。やりきれない』と書いていた。別の兵士は『ハワイなんていやだ。早くカンサスに帰りたい』と家族に訴えていた。なんのために戦っているのかわからない、早く戦争が終ればいい・・・・。米兵の手紙は、ほとんどが、そのような不平不満のかたまりだった。退屈のあまり、私は二通の手紙の中身を入れ換えてみたり、いたずらによって憂さを忘れようとした。
それにくらべると、日本兵の書いたものは次元が違っていた。ブタ肉やトリ肉の不平はおろか、口に入れるものさえろくにないのがよくわかった。ある日記には、戦死者続出のため十五名になってしまった小隊に正月用の豆が十三粒配給された、どう分配すればよかろうか、という悩みが書かれていた。軍事的情報としてはなんの価値もないが、非常に実感があり、ジャングルの中の日本兵の姿が目に見えるようで、それらの文字は惻々として私の胸を搏った。・・・・
それ以後、アッツやキスカへ行き、レイテ、沖縄へ行き、ささやかな戦歴(と言っても銃は執らなかったが)の間に捕虜との接触を通じて、私は戦争の終るころには一応の日本人観を持つに至った。それは、現在の日本人には当てはまらないかもしれないが、あのころの日本人には通用するものであった。(p34~36)


ドナルド・キーン著「百代の過客 日記にみる日本人」上(朝日選書)の「序 日本人の日記」にも同様の箇所が拾えます。そこも引用しておきましょう。


私が日記への日本人の強い執着に初めて気付いたのは、戦争中のことであった。その時何か月も、私の主な仕事は、戦場に遺棄された日記を翻訳することだったのである。あるものには血痕が付いていて、明らかに戦死した日本兵の遺体から手に入れたものにちがいなかった。またあるものは、海水にひたされたあとがあった。私がこうした日記を読んだのは・・・軍事的価値のある情報が、時として見つかったからである。・・・
日記をつけている兵士の置かれた状況は、彼らの小さな手帖の内容を、しばしば忘れがたいものにしている。例えば船隊の中で、自分の船のすぐ隣を航行していた船が魚雷を受けて目の前で沈むのを見たような時、その兵隊が突然経験する恐怖、これはほとんど文盲に近い兵士の筆によってさえ、見事に伝えられていた。とくに私は、部隊が全滅してただの七人生き残った日本兵が南太平洋のある孤島で正月を過ごした時の記録を憶えている。新年を祝う食物として彼らが持っていたのは、十三粒の豆がすべてであった。彼らはそれを分け合って食べたのだという。
太平洋戦争の戦場となったガダルカナル、タラワ、ペリリュー、その他さまざまな島で入手された日記の書き手であった日本兵に対して、私は深い同情を禁じえなかった。たまたま手にした日記に、何等軍事的な情報が見当たらない時でも、大抵の場合、私は夢中になってそれを読んだ。実際に会ったことはないけれども、そうした日記を書いた人々こそ、私が初めて親しく知るようになった日本人だったのである。そして私が彼らの日記を読んだ頃には、彼らはもうすべて死んでいた。
日本兵の日記は、もう一つ別な理由からも私を感動させた。アメリカの軍人は、日記を付けることは固く禁じられていた。敵の手に渡ることをおそれてのことである。しかしこれは、アメリカ人には何等苦痛も与えなかった。どちらにしても、日記を付ける人間など滅多にいなかったからである。ところが・・・(p14~17)



映画「硫黄島からの手紙」の導入部。掘り出された膨大な手紙を、まずアメリカ人のどなたが読んだのか? 映画を見ない私の連想はそちらへと行ったりします。
それから、引用していたら気付いたのですが、キーンさんの文には、十三粒の豆が同じなのに、15名が7名と人数がちがっておりました。ちょいとした間違いなのかどうか?
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「日本文学のなかへ」

2006-12-11 | 硫黄島
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋・昭和54年)が、私に魅力です。
その魅力は、たとえば養老孟司著「バカの壁」にたとえられるのかもしれないなあ。
あの養老さんの新書は、編集者に語り、編集者の手でまとめられていたのでした。
そこが似ていると、つい思ってしまうのです。
このキーンさんの本も、編集者が詳細な(百数十項目)質問表を用意して、それを友人の徳岡孝夫氏と、週一度の割で会い、ポーランド産のウオツカを二人で傾けながら語ったというもので。それを徳岡氏がまとめたものでした。それが現代文のお手本のようです。簡潔に要領を得て、なめらかな日本語の文になっているのでした。
帯には「研究自叙伝シリーズ」とあります。
自叙伝といえば、福沢諭吉著「福翁自伝」がありますね
(文藝春秋2007年1月号の特集「文春・夢の図書館」で、齋藤孝氏が「偉大なる生涯・伝記10冊」をあげておりました。その一番目には福翁自伝がありました)。
野口武彦はこの本を指摘して
「『福翁自伝』は、諭吉が自分で書いた文章ではない。明治31年(1898)に幼児から老後のことまでを語った談話を筆記させた著述である。行間に話芸が光っている。平板な回顧談ではなく、人生の切所々々で下した決断が現場感覚的に再現されている。諭吉はただの不満分子ではなかった。現状が変わらないのなら、自分の方を変えようと行動を起す果断さがあった。・・・・」(「近代日本の百冊を選ぶ」講談社より)。

それじゃあ。というわけで、余談になりますが、私はここで戦いの時をとりあげてみます。
福翁自伝の「上野の戦争」から
「明治元年の五月、上野に大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物も料理茶屋もみな休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やらわからないほどの混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業をやめない。上野ではどんどん鉄砲を打っている、けれども上野と新銭座とは二里も離れていて、鉄砲玉の飛んで来る気づかいはないというので、ちょうどあのとき私は英書で経済(エコノミー)の講釈をしていました。大分騒々しい様子だが煙でも見えるかというので、生徒らはおもしろがってはしとに登って屋根の上から見物する。なんでも昼から暮過ぎまでの戦争でしたが、こっちに関係なければこわいこともない。」
「顧みて世間を見れば、徳川の学校はもちろんつぶれてしまい、その教師さえも行くえがわからぬくらい、まして維新政府は学校どころの場合でない、日本国じゅういやしくも書を読んでいるところはただ慶応義塾ばかりというありさま・・・」

「日本文学のなかへ」での戦争はというと、
「海軍語学校は、そのころ、ちょっと奇妙な世界の中に埋没していた。私たちの周囲の社会は戦争一色だが、語学校だけは不思議なほど戦争に無縁で、ひたすら日本語を覚えることに没頭できた。日本語を私たちが覚えることと戦争遂行の間にはどんな関係があるかは、全然と言っていいほど念頭に上らなかった。全米に軍服が氾濫していた時代だが、私たちだけは軍事訓練も受けず、ひたすら日本語の世界に沈潜していたのである。」(p31)
「レイテ島を出た輸送船団に便乗して沖縄に着いた日の朝、私ははじめて神風特攻機を見た。急降下してくる機影は、茫然と甲板上に立ちすくむ私の眼前でみるみる大きくなり、『やられるな』と思ったつぎの瞬間、僚船のマストを引っかけて海に落ちた。・・・アッツ島に私が着いてまもなく、日本守備隊は玉砕した。・・・」

せっかくですから、ここでの最後にサイデンステッカー自伝「流れゆく日々」(時事通信社・2004年)で、語学将校として第2次大戦を体験した様子も見てみたくなります。

「1945年2月、われわれはトラックと列車でヒロの港まで行き、硫黄島に向けて出航した。・・・・2月も終わりのある日の朝、われわれの眼前に硫黄島が浮んでいた。到着の前夜は、戦争中を通じて最悪の夜だったと思う。・・あの夜ばかりは、まさしく一睡もしなかったと確信して疑わなかった。私はおびえ切っていた。・・・」
「第五海兵隊は、島の南端の砂浜に上陸することになっていた。・・・・
そんな所に馬鹿みたいに突っ立ていないで、早く壕を掘れ――上官は私にそう命じた。確かに私は、まさしく馬鹿のように突っ立っていたに違いない。気を取り直して、一人用の塹壕を掘り始めたが、ほとんど掘り終わる頃になって、初めて気がついた。いかにも気味の悪い物体が、ほんの数フィート先に、なぜ今まで目に止まらなかったのか不思議なくらい、これ見よがしに突き出しているではないか。・・・塵芥の山の中から、剥き出しの日本兵の腕が突き出ていたのだ。・・・大いに不思議に思えてきたのは、むしろ私が、あれほどたちまちのうちに、この腕に注意を払わなくなってしまったという事実だった。そのまわりを歩いても、目をそらすこともなくなってしまっていたのだ。・・・」(p58)

「戦闘も最後に近くなると、・・・斬り込み隊の突撃が繰り返された。・・・夜中に突然、敵陣に乱入して来る。・・一度などは、われわれのいる司令部の北側のほんの数十ヤードの所を、突撃隊が突進して行ったことがあった。もし彼らの進路がわずかに左手にそれていれば、われわれ全員が突撃に遭遇していたに違いない。翌朝になって初めてこのことを知り、動転したのだったが、しかし、それ以後この島を離れるまで、毎晩恐れは感じたとしても、上陸前夜の、あの圧倒的な恐怖に比べれば、所詮、ものの数ではなかった。」(p60)
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文春・夢の図書館。

2006-12-08 | 硫黄島
出たばかりの文藝春秋2007年1月号に、「文春・夢の図書館 読書の達人が選ぶ337冊」という特集。
各リストでは、半藤一利「昭和史入門の10冊」というのから、はじまっておりました。
そういえば、半藤一利と表紙に名前があるPHP文庫「完本・列伝太平洋戦争」(2000年)の目次をめくっていたら、栗林忠道の名前が見あたりません。その名前も忘れられていた人が、この文藝春秋1月号では「イーストウッドが惚れた名将の真実 硫黄島 栗林忠道の士魂」と題して俳優の渡辺謙・作家の梯久美子お二人の対談を掲載。雑誌の表紙グラビア日本の顔でも渡辺謙がとりあげられて、イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」日本プレミアでの写真が載っておりました。半藤さんの「完本・列伝太平洋戦争」は太平洋という名で、どうやら海軍の列伝を意味しているようです。そういえば栗林忠道は陸軍でした。対象外だったのですね。
そんなふうにして、一般の戦後生まれには、その名さえ聞いたことのない栗林忠道を、鮮やかに浮かび上がらせたのはクリンスト・イーストウッドの功績として長く賞賛されてよいでしょう。
雑誌の特集にもどりますが、その特集の終わりに日垣隆さんが「14歳からの【人生の教科書】100冊」という11ページのリストと文がありました。思い浮かぶのは今年発売された谷沢永一著「いつ、何を読むか」(新書・KKロングセラーズ)です。そこでは15歳から読む本が並びます。ちなみに谷沢さんが15歳でまずお薦めの柳田国男著「木綿以前の事」(岩波文庫)は、「14歳からの・・」の日垣さんのリスト100冊では柳田国男の名前も登場しておりませんでした。ということで、今回の特集に柳田国男を選んでいる方がいるかとパラパラとめくると、
まずは最初に浅田次郎さんの「すべては一冊の本から始まった」という文に、
「・・物語の魅力を最初に教えてくれたのは童話です。・・グリム童話には人間臭さがある。そんなところが気に入ったのでしょう。童話の次は民話と伝説。小学三年生の頃、学校の図書室で『日本の民話と伝説のシリーズ本を見つけたのがきっかけです。・・その影響で、後に柳田国男さんや折口信夫さんなど民俗学者の作品を愛読するようになります。勿論、全集をすべて読んだのはこれが最初です。・・・」
ほかにはと、各リストを見ると山折哲雄「日本人のルーツを考える10冊」が古典を踏まえており、④に柳田国男の「先祖の話」をとりあげておりました。ちょいとどういう経緯かを引用しておきます。
まず万葉集・源氏物語・平家物語をあげて
「戦後日本の教育は、右の三古典をいまのべた観点から読むことを怠ってきたために、日本人とはそもそも何かという課題をつきつめて考える上では大失敗を演じてきた。そしてこのことの意味をよく知っていたのが柳田国男と折口信夫であった。・・日本の戦後教育はここでも、その歴史教育、文学教育においてこの二人の仕事をまったく無視してきたのである。・・・」
この山折さんの短文はステキなのでなのでまた読み返してみよっと。

それからマンネリと言われようと、忘れてならないのは夏目漱石ですね。
どなたか取り上げておられるかなあ。
ありました。池内恵「歴史と文明をひもとく10冊」の10番目に「漱石人生論集」(講談社文芸文庫)が載っておりました。
ちなみに、日垣さんの100冊リストにも、浅田次郎さんの文にも漱石は登場しません。

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硫黄島。

2006-11-21 | 硫黄島
今年読んでいた本で気になっているのが、硫黄島でした。
「栗林忠道 硫黄島からの手紙」(文芸春秋)
「散るぞ悲しき」梯久美子著(新潮社)
「常に諸子の先頭に在り」留守晴夫著(慧文社)
の3冊読みました。
秋からはクリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作が上映されています。
「父親たちの星条旗」が公開されており、レビュージャパンでも4~5名の方が
映画の感想を書き込んでおりました。そして
「硫黄島からの手紙」が12月9日からロードショーだそうです。
試写会を見たのでしょう。産経新聞の11月16日一面コラム「産経抄」は
こんな風にはじまっておりました。
「やはり日本軍は『物量』に負けたのだ。クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』を見てそう思う。5日もあれば終わるとされた硫黄島の攻防戦は、昭和20年2月19日から36日間の激戦となった。米軍との圧倒的な戦力の差を、迎え撃つのは渡辺謙さん扮する栗林忠道中将だ。とはいえ、砲撃が上陸作戦の3日前から始まっていたことが小欄には気になる。米軍の大艦隊が島を取り囲み、島が吹っ飛ぶかと思われるほどの艦砲射撃を繰り返す。日本軍の戦闘力を破壊したうえで、海兵隊が上陸すれば絶望的抵抗になる。硫黄島戦のように膨大な戦力を集めて圧倒する勝ち方は、米軍の伝統的な戦争方法だ。・・・・」

ところで、「司馬遼太郎が考えたこと 15」(新潮社)をめくっていたら、
そこの「山片蟠桃賞の十年」という文が載っておりました。
そこをパラパラとめくっていると
「サイデンスティッカーさんは硫黄島作戦に従軍されました。私も、当時の志望としてはそこにいたはずでした。硫黄島作戦がああいうものになるとは知りませんで、同じ時期に寒い寒い満州におりました私は、この寒い満洲から逃れるには硫黄島しかない、と思いこみました。つまり硫黄島にひとつ戦車連隊が新しくできるということで、連隊長は、むかし私どもがこどものころに、ロサンゼルス・オリンピックだったと思いますが、西竹一という馬術で金メダルをとった人であります。そこへゆきたいと思いまして、連隊副官で山根というおそろしい顔をした少佐がいましたが、この人に『どうしても、硫黄島へやってくれ』と頼みました。私が自分の半生で自分のために運動をした唯一の猛運動です。『新しい戦車連隊ができるとしたら、私はそこへゆきたいのだ』と言いに三度ほど少佐をたずねました。山根少佐はとうとうどなりまして、『硫黄島へゆくのは、おまえよりもっと成績のいいやつなんだ』『おまえの成績は非常にわるいのだ』と。成績のわるいのはたしかですけれども、じつはもう編成が終わっていたんだろうと思います。・・・」

最近では、岡野弘彦歌集『バグダッド燃ゆ』(砂子屋書房)を眺めておりましたら、
その最後にある長歌のなかには、

「・・・やがて大き戦おこりて、折口大人の教へ子の幾人かは、屍を海やまにさらして帰らずなりし中にも、みまし命が最もいつくしみましし養ひ子の春洋(はるみ)大人が、南の硫黄島のむごき戦に命果てしを知りて、歎き歌多く詠みいで給ひき。・・・」

この春洋さんのことについては岡野弘彦著「折口信夫の晩年」(中央公論社)に、ポツリポツリと書かれております。その硫黄島についても出てきます。
その十四章には
「二十七年の一月二十九日、国学院の研究室へ、朝日新聞社会部の牧田茂氏から電話があって、硫黄島の戦死者を供養するために、元海軍大佐和智氏の一行が明日飛行機で出発することになった。」
(ちなみに和智氏については上坂冬子著「硫黄島いまだ玉砕せず」(文藝春秋)に詳しいのでした)。
「先生を待っていると、牧田さんから電話がかかってきた。いま出た読売新聞の夕刊に、硫黄島の洞穴で発見した書類の写真が出ていて、それに春洋さんの名が、はっきりと読みとれるということである。早速、文部省の玄関へ出て新聞を買ってみると、ぼろぼろになった考科表副本の氏名欄に、藤井春洋という筆の字が、あざやかににじみ出ていた。・・・」
「その夜、家に帰ってから、いつものように春洋さんの写真の前の湯呑にたっぷりとお茶を注いでのち、先生はしずかに話された。
『いままで、春洋の戦死について、一片の通知書や、形ばかりの遺骨を受け取っても、どうしても心に納得がいかなかった。今日はじめて、春洋は硫黄島で戦死したのだということを、心の底から信じることのできる気持ちになった。そしていままでにない、心のしずまりを得ることができた。もしできるなら、いつか硫黄島に渡って、春洋の死んだ洞窟に入っていって、自分の眼でその跡を確かめてみることができたら、さらに心が落着くことだろうね』。先生の声は、ちょっと意外に思われるほど、しずかに明るく、なごんでいた。先生の小説『死者の書』は、岩窟の中の大津皇子のよみがえりを描くところから始まっている。そして、未完のまま終った『死者の書続篇』には、死後もなお鬚や髪の伸びるという空海上人を安置した、高野山の開山堂を開こうとすることが描かれている。先生がもし戦後における『死者の書』を書かれることがあったら、それはまず、春洋さんの亡くなった洞窟にみずからが尋ね入って行かれるところから、書きはじめられるにちがいないと、その夜の先生の話を聞きながら、私は思った。」

そういえば、歌集『バグダッド燃ゆ』に、『髭・鬚・髯』と風変わりな題にして13首が並んでいる箇所がありました。その歌が、場違いな感じで坐りが悪いような、可笑しいような、そんな妙な振幅で印象に残るのでした。
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詩集「禮節」。

2006-10-21 | 硫黄島
石原吉郎の詩集「禮節」の話をしたかった。

2006年の今年は「栗林忠道 硫黄島からの手紙」(文藝春秋)を読みました。
これは、戦争中の硫黄島から家族へと宛てた手紙を、順番に並べてあります。
それを読んで、私は石原吉郎の詩「世界がほろびる日に」を思い浮かべました。

  世界がほろびる日に
  かぜをひくな
  ウィルスに気をつけろ
  ベランダに
  ふとんを干しておけ
  ガスの元栓を忘れるな
  電気釜は
  八時に仕掛けておけ

栗林忠道は、硫黄島で昭和20年(1945年)3月26日に戦死(享年53)しております。
その昭和20年1月21日の手紙には遺書という言葉がありました。

「本土空襲の『B29』はサイパン基地に今百四、五十機であるが四月頃には二百四、五十機となり、年末頃には五百機位になるらしいから、それだけ今より空襲が多くなる訳です。若し又、私の居る島が攻め取られたりしたら其の上何百と云う敵機が更に増加することとなり、本土は今の何層倍かの烈しい空襲を受ける事になり、悪くすると敵は千葉県や神奈川県の海岸から上陸して東京近辺へ侵入して来るかも知れない。だから戦争の成行は絶えず注意し、又新聞や雑誌に出て居る空襲などの場合どうするかの記事はよく目を通し実行すべきは実行するがよい。
次に比島の作戦は漸次不利の様だし、吾々の方へももう直ぐに攻め寄せて来るかも知れないから、吾々ももう疾(と)っくに覚悟をきめている。留守宅としても生きて帰れるなどとはつゆ思わないで其の覚悟をして貰い度い。
遺書としては其の後の手紙で色々細かに書き送ってあるからイザとなっても驚いたり間誤(まご)ついたりせぬだろうと思うが、どうかほんとにしっかりして貰い度いものです。・・」

一方の石原吉郎は、シベリア抑留の後1953年に帰還しており。
その石原吉郎に「肉親へあてた手紙」というのがあります。
そこには「1959年10月」と日付がありました
(その手紙は、石原吉郎著「望郷と海」筑摩書房。あるいは、思潮社の現代詩文庫26「石原吉郎詩集」に載っております)。その手紙から、石原吉郎の戦後が始まっているのでした。

そういえば、詩集「禮節」には詩「世界がほろびる日に」の他に、詩「礼節」・「手紙」とあり、印象に残ります。
つい最近なのですが、柳田国男著「俳諧評釈」を読んでおりまして(まだ読み終わっていないのですが)、そのはしがきに「俳諧がかかる人間苦からの解脱であり、済度であつた時代を回顧して見なければならぬが、それよりも更に必要なことは是が現世の憂鬱を吹き散らすような、楽しい和やかな春の風となつて、もう一度天が下に流伝することであつて、私の今解して居る所では、それも決して不可能なこととは言はれない。・・・」ちなみにはしがきの日付は昭和22(1947)年春とあります。

その「最上川の歌仙」の箇所に
  ことば論する舟の乗合   一栄
という句を柳田国男が解説して
「乗合は渡し舟、ことば論は今いふ口いさかひ、手までは振り上げない喧嘩である。・・・」
次に曾良の句がつづくのでした
  雪みぞれ師走の市の名残とて
この解説で柳田さんは
「・・・通例いさかひとか戦とかいふ類の際立つた前句には、いそいで之を平静の状に引戻さねばならぬといふ感じが昔から有つたので、それがここにも暗々裡に作用して居るかと思ふ。つまりは是も次の句を出しやすくする一種の禮節であつた。」
ここに「禮節」という言葉がありました。

ここから、私は石原吉郎詩集「禮節」があることを連想したのでした。
ここに、詩集にある詩「礼節」を引用しておきます。

  いまは死者がとむらうときだ
  わるびれず死者におれたちが
  とむらわれるときだ
  とむらったつもりの
  他界の水ぎわで
  拝みうちにとむらわれる
  それがおれたちの時代だ
  だがなげくな
  その逆縁の完璧において
  目をあけたまま
  つっ立ったまま
  生きのびたおれたちの
  それが礼節ではないか


これから上映される映画に硫黄島戦を描いたものがあるのだそうで、
テレビでもちらちらと宣伝しているのを見かけました。
産経新聞10月17日に「ロサンゼルス 松尾理也」という署名記事があり、
短い記事なのですがこうありました。
「第2次世界大戦末期の硫黄島での戦闘をテーマにした『父親たちの星条旗』(クリント・イーストウッド監督)が20日から全米公開される。・・日本側の視点から制作した『硫黄島からの手紙』(同監督)との<双子作品>。ハワイのホノルル・アドバタイザー紙は、試写会に参加した80歳の元海兵隊員を取り上げ『今でも硫黄島の夢をみて夜中に起きることがある』との言葉を紹介。CBSテレビは、監督が日本側の視点からの制作を行った意図を 『米国の観客に、「われわれはいい人間」といった単純な考え方から卒業してほしい、と思ったからだ』と指摘した。
『父親たちの星条旗』は今月28日から、
『硫黄島からの手紙』は12月9日から、日本で公開される。」


この映画「硫黄島からの手紙」はどのような内容になっているのでしょうね。
ここでは、石原吉郎の詩「手紙」を引用して終ります。


  いわば未来をうしろ手にして
  読み終えたその手紙を
  五月の陽のひとかげりへ
  かさねあわせては
  さらに読み終えた
  つたええぬものを
  なおもつたえるかに
  陽はその位置で
  よこざまにあふれた
  教訓のままかがやいてある
  五月のひろごりの
  そのみどりを
  いちまいの大きさで
  ふせぎながら
  私は
  その手紙を読み終えた

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日米の硫黄島。そして中国の情報戦。

2006-08-24 | 硫黄島
8月15日の新聞全面広告が印象に残ります。
「クリント・イーストウッドが描く 日本とアメリカ双方から見た2つの『硫黄島』。」とあります。
そして真ん中にはイーストウッドの言葉「日本のみなさまへ」がありました。
御覧になりましたか?
「61年前、日米両軍は硫黄島で戦いました。・・・
この戦いに興味を抱いた私は、硫黄島の防衛の先頭に立った指揮官、
栗林忠道中将の存在を知りました。彼は想像力、独創性、そして機知に富んだ人物でした。私はまた、栗林中将が率いた若い兵士たち、そして、敵対するにもかかわらず両軍の若者たちに共通して見られた姿勢にもとても興味をもちました。そしてすぐに、これをふたつのプロジェクトにしなければと悟ったのです。私は現在、『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』という、硫黄島を描いた映画を2本、監督しています。・・・」

栗林忠道という方はどんな人なのか?
たとえば、昭和23年生れの留守晴夫氏は、今年の7月に出た本の中でこう書いております。
「私が栗林に関心をもつようになったのは、十数年前、アメリカのマサチューセッツ州の小さな大学町に、在外研究員として滞在していた頃の事・・ある日、行きつけの古書店の店頭に積み上げられた古書の山を眺めていたら、IWO JIMA と背表紙に記された一冊の書物が目にとまった。リチャード・ニューカムというジャーナリストが1965年に上梓した硫黄島戦の記録であった。出版されるやベストセラーになったそうだが、それを読むまで、私は・・・ニューカムがかなり詳しく紹介している栗林中将の為人(ひととなり)については全く無知であった。武人として卓越していただけでなく、父親として、夫として、そして何よりも一人の人間として、実に見事で魅力的な栗林忠道という日本人を知る事が出来たのは、私の場合、ニューカムというアメリカ人のお蔭であった。」(p18)
以上は留守晴夫著「常に諸子の先頭に在り 陸軍中将栗林忠道と硫黄島戦」(慧文社)のはじまりの方に書かれております。

これから映画を観てから、留守さんのように興味を持つ方が増えるかもしれませんね。

梯久美子著「散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道」(新潮社)は2005年に発売され、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しておりました。
今年は留守氏の本と、それから
「栗林忠道 硫黄島からの手紙」と題して新潮社から8月に発売になっております。

それとは別ですが、
今年2006年4月15日産経新聞。古森義久氏の「緯度経度」が古い記事ですが印象深く思いおこされます。
それはちょうど、日本が国連安保理常任理事国入りを果たしたいと願っている時期に合わせて画策された問題でした。その時期が過ぎるまでの嘘を大げさに並べてみせる手段を示しておりました。
それは、どんな風にしておこなわれていたか?
「発端は読売新聞1月19日付朝刊に載った上海発の記事だった。上海紙の『文匯報』に出た南京事件ハリウッド映画製作の報道をそのまま転電していた。記事は『米国の有名な俳優兼監督のクリスト・イーストウッドが旧日本軍の南京での中国人虐殺を米国人宣教師の目を通じて描く【南京・クリスマス・1937】という映画・・・来年12月の南京事件70周年に合わせ、全世界で同時公開する』という要旨だった。」
そこで米国駐在記者である古森氏が取材すると
「本人には直接、話せなかったが、同氏の仕事を取り仕切るエージェントのレオナード・ハーシャン氏に電話で問い合わせることができた。
すると、なんのことはない。ハーシャン氏は『イーストウッド氏が南京事件映画にかかわるというような話はまったくのウソ』と答えた。しかもよく聞いてくれたという感じで、そんな『報道』がデタラメでることを日本や中国の人たちに幅広く伝えてほしいと、こちらに要望するのだった。」
そして、古森氏は「この種の日本についての国際情報は早めにチェックすることの不可欠」を自戒をこめて記したあとに
「マスコミを管理する中国発の・・『情報』の点検の重要性を痛感した」としております。
具体的には
「文匯報は中国共産党上海市委員会の監督下にあり、この規模の地方新聞にしては異様なほど海外支局の数が多いという」
さらに調べるとALPHAという常に日本を攻撃する一貫性から、はっきりと反日団体と呼べる在米中国系組織へと行き当たるのでした。
ここから丁寧に中国とその組織のつながりや、安保理常任理事国への反対の試みの画策を調べております。
そして最後に古森氏は、こう締めくくっておりました。

「『イーストウッド、ストリープ共演の南京虐殺ハリウッド映画』などという日本側を動揺させる虚報の背景を探っていくと、中国から米国へ、南京事件から国連常任理事国入り問題へ、政治意図に満ち満ちた黒い情報戦略を感じさせられた次第だった。日本側としても中長期の効果的かつ敏速な対応が不可欠なことを証する典型ケースだと思った。」

だいぶ余談になりました。
ALPHAは、これくらいにして、
せめて、栗林忠道中将についてぐらいは知っておいてもよいと愚考するのでした。
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