和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

土の色の。

2007-10-31 | Weblog
新刊本は、ネットのbk1で購入するというのが、私の最近のならいです。
気をつけているのですが、それでも直接見てから買うわけではないので、ときどき失敗します。今回新聞広告で見た、新刊の岩波新書「大岡信編 新折々のうた総索引」というのを取り寄せました。「折々のうた」は新聞一面に掲載されていましたので、短歌・俳句、それに詩などの引用が短い。その総索引とありましたので、てっきり、これは掲載時の短い引用がそのままに、「うた」が、ずらりと並んで一望できるのじゃないか。こりゃお得だなあと早合点。まあ、そう思って私は注文したのです。ところが、本が届いてページをめくると初句索引とありまして、はじまりの4~5語ほどの言葉がずらりと並んでいるだけじゃありませんか。それは「あ」からはじまります。「ああ女・ああ、かぐや姫の・ああ昨日の・嗚呼と見るまに・愛あまる・・・」こんな感じでずっとつづくわけでして、しまった、こりゃ「新折々のうた」の全巻を持っていなけりゃ、ちょいと使い道もない一冊なのだと、いまさら、わかったというわけです。カバーの折り返しに「折々のうた全11冊」「新折々のうた全10冊」とあります。そんなの知らなかった私が悪いのでしょう。これじゃ「捕らぬ狸の皮算用」。折々のうた全部が一望できると、ぬかよろこびしたのが誤りでした。
さて、気持ちを切りかえて、その新書をあらてめてながめますと、129ページもの作者略歴がついている。それに最初に46ページほどが「折々のうた」の大岡信氏の講演が再録されてもいる。作者略歴はまたいつか、人名辞典として使えるかも知れないし(誕生と死亡の年が記入されております)、講演再録は、これはひとつ一日つぶして大岡氏の講演を聞きに出かけたと思えば660円+税は安いじゃないか。とまあ、こう思おうとしたわけです。

ということで、講演を読み始めたというわけです。
講演には時々、方向指示器みたいな箇所がありますね。何といっていいのか、道路を走っていると、時々信号機があるように。それが、止まれであったり、注意しろであったりする。講演の途中で、何箇所かそういう印象に残るポイントがあったりする。そのポイント切り替え地点というのが要所要所にある(まあ、この新書を買って失敗したなあなどと思いながら、講演を読んでいると、そんな普段考えないようなこともあれこれ思うものです)。
そんな何ヵ所目かのポイント切り替え地点に、こんな言葉がありまして、印象に残りました。

「歌とか俳句というのはへんなもので、地べたに接触している感じの強いもののほうが、それの弱いものよりは、何か訴える力がある。・・・・」(p31)

そして、大岡氏はこのあとに結城哀草果(ゆうきあいそうか)氏の歌をもってくるのでした。ちなみに結城氏は山形の人で田を耕して暮らしていたとあります。
その引用されている歌は

  しみじみと田打ち疲れしこの夕べ畔(くろ)をわたれば足ふるひけり


大岡氏は「【足ふるひけり】という、これがやっぱりいいですね。足がもう、こむら返りを起こすような感じでふるえるわけです。これはなぜかといったら、山形ですから、冷たい。水を張ってない田んぼでも冷たいですね。感覚がなくなってしまって、しまいにはこむら返りを起こしたようになるということがありうるわけです。・・ありふれた言葉ですけど・・・これだけでも大正あたりの日本の農民の生活というのがよく出ていると思います。」(p32)

そういえば、と私は思ったわけです。
読売歌壇(2007年10月29日)の岡野弘彦選の一番はじめに並んでいたのが

 湿田に夕べ稲刈る人をりて泥より足を抜く音きこゆ   坂東市 本間猛

岡野弘彦氏の選評はというと
「湿田とか深田とか言われるたがある。排水が不良で一年中水に漬(つ)いている田だ。休耕田がふえる一面で、こういう田を耕作する人もある。この下の句、私の胸に痛切にひびく。」とあります。なぜ岡野氏の「胸に痛切にひびく」のか、もう私など、さっぱり分からずにおります。
ちなみに、岡野氏の選の二番目はというと、

 稲刈りを終へたる空は晴れて澄む共に仰ぎし妻逝きて亡し  常総市 渡辺守

この選評はというと
「日本の農作物の自給率は年々減少している。祖先から受けた田を辛うじて老夫婦が守ってきた、といった農家が多い。この作者もそうした一人だろう。」


ところで、今私は「庭」ということが気になっております。
すると、その「庭」の地べたは、はたして、土か、砂利か、コンクリートか、はたまたレンガか。などと思い描くわけです。

読売歌壇の岡野弘彦選の下は、小池光選が並んでおりました。
小池選の一番目はというと

 アスファルト敷かれた舗道押し上げて吾は苦しいけやきの根っ子 武蔵野市 中村安岱

小池選評は
「自分がズバリけやきの根っこになってしまうところがおもしろい。上から理不尽に押さえ付けられて息が詰まりそうだろう。現代人の快適な文明はこういう圧迫の上に成り立っている。」

その二番目はというと

 庭先の棚よりさがる瓢箪の尻をときどき叩きはげます  町田市 谷川治

この小池選評も引用しておきましょうか
「庭先のヒョウタン、日々に大きくなる。その尻を叩いて、はげますところがユニーク。おいがんばれよ。ヒョウタンの喜ぶ顔がうかぶよう。」

うん。小池氏の選に、歌を選ぶ息づかいが感じられるのでもうすこし引用をつづけます。

 頼むから溜め息なんてつかないで逃げ場所のないエレベーターで 
                     東久留米市 中里正樹

 ハンドルの上に足裏見えてをり長距離トラック木陰に休む 東松山市 嘉藤小夜子



もうすこし続けます。大岡氏の講演を読んで、
私が思い浮かんだのは岡潔氏の文章でした。
「数学の思い出」(「岡潔集 第一巻」学研)
そこにこんな箇所があったのです。


「二度目に粉河中学にはいり、中学二年のとき初めて代数を習ったが、この年の三学期の学年試験では五題のうち二題しかできなかった。・・・試験がすんで郷里へ帰ったが、この不成績が気にかかってくよくよしていた。ところが、ある朝、庭をみていると、白っぽくなった土の上に早春の日が当たって春めいた気分があふれていた。これを見ているうちに、すんだことはどうだってかまわないと思い直し、ひどくうれしくなったことを覚えている。ついでにいうと、土の色のあざやかな記憶はもう一つある。中学一年のとき、試験の前夜遅くまで植物の勉強をやり、翌朝起きたところ、気持ちがさえないでぼんやりとしていた。ところが、寄宿舎の前の花壇が手入れされてきれいになり、土が黒々としてそこに草花がのぞいているのが目にはいると、妙に気持ちが休まった。日ざしを浴びた土の色には妙に心をひかれてあとに印象が残るようである。」(p19)
 


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庭の蝉。

2007-10-29 | 詩歌
気になっていた新書を、取り寄せて読んでみました。
佐藤正午著「小説の読み書き」(岩波新書)です。読みたいところは、ほんのちょっとなのです。ちょっとなのですが、確かめてみたかったというわけでした。

それは三島由紀夫を取り上げたページでした。
こうあります。

「そんなとき、ある人が新聞の文芸時評で三島由紀夫の小説を引用しているのを読んだ。『豊饒の海』からの引用で、そこには僕が考え続けていた直喩の実例が引いてあった。【数珠を繰るような蝉の声】と三島由紀夫は書いているらしい。あ、数珠か、と僕は思った。・・・・・・すぐに書店で第一部『春の雪』の文庫本を買ってきて読み始めた。とにかくその数珠の比喩が出てくるページまで読んでみるつもりだった。ところがその後、僕は『豊饒の海』四部作を四冊とも読み通すはめになった。問題の比喩は四部作の第四部『天人五衰』の、しかもなんといちばん最後のページに書かれていたからである。

  これと云って奇功のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。
  数珠を繰るような蝉の声がここを領している。

これにあと三行だけ、文章が書き足されてこの長い長い小説は終わる。」(p63~64)


佐藤正午氏の新書も、数頁だけ確認したかったのですが、
おかげで、佐藤正午氏が、苦労して長い長い小説を読んだというエピソードが拾えました(笑)。

じつは、「数珠を繰るような蝉の声」という三島由紀夫の言葉を引用したいために、
新書で確認をしてみたのでした。
三島由紀夫の『数珠を繰るような蝉の声』と
伊東静雄の詩「庭の蝉」とを結びつけたいと思って、私は書いております。
でも、私は新書までで、その長い小説は、ご勘弁(笑)。

では、伊東静雄の詩「庭の蝉」を引用しておきます。

    旅からかへつてみると
    この庭にはこの庭の蝉が鳴いてゐる
    おれはなにか詩のやうなものを
    書きたく思ひ
    紙をのべると
    水のやうに平明な幾行もが出て来た
    そして
    おれは書かれたものをまへにして
    不意にそれとはまるで異様な
    一種前生(ぜんしょう)のおもひと
    かすかな暈(めま)ひをともなふ吐気とで
    蝉をきいてゐた


これは詩集「春のいそぎ」(昭和18年)に載っております。
ついでに、昭和16年7月7日の伊東静雄から富士正晴への手紙に、この詩の原型が書かれております。それも比較のために引用しておきましょう。

    旅からかへつてみると
    この庭にはこの庭の蝉が鳴いてゐる
    おれはなんだか詩のやうなものを
    書きたく思ひ
    紙をのべると
    水のやうな平明な幾行もが出て来た
    そして
    おれは書かれたものをまへにして
    突然それとはまるで異様な
    古心と
    かすかな暈ひをともなふ吐気とで
    蝉をきいてゐた


この詩の中の「不意にそれとはまるで異様な/一種前生(ぜんしょう)のおもひと」
手紙に見える詩「突然それとはまるで異様な/古心と」
というここでの言葉の推敲が、何とも分かりにくいなあ。それでも、手紙でのほうが思いつきとしては私にも分かりやすく感じます。

それがどのような思いなのか、ということなのですが、
たとえば、こんなのはどうでしょう。
司馬遼太郎氏は、「無常観の響き」という表現をしております。

司馬・山折哲雄対談「日本とは何かということ」(NHK出版・p66~67)に

【司馬】それは、子規の死ぬ二、三年前に、病床から見ている、借家の小さな庭があって、そこに鶏頭(けいとう)が咲いている。当時、鶏頭という花が流行ったそうです。

    鶏頭の十四五本もありぬべし

という俳句がありますね。
これは子規の弟子の高浜虚子が「ノー」だと言って、こんなのは俳句ではないと言うのですけれど、そうではなくて、これがいちばんいい俳句だという説の人のほうが多いですね。この句は、寺田寅彦さんの言う、ごく自然にでき上がった無常観の具象的世界ですね。

【山折】そうですね。そう言われると、ほんとうに、そんな感じですね。
【司馬】なにか、ひそやかながら、無常観の響きがします。そういう感じがしますね。


こんな箇所がありました。
こちらは、俳句で、しかも蝉は登場しないわけなのですが、庭と響きというのが気になるところではあります。

ここで、寄り道すると終わりまでたどりつけないけど
もう一度最初の、佐藤正午の新書へともどってみます。
そこに織田作之助の『夫婦善哉』が取り上げられておりました。
その最後に、どうも講談社文芸文庫版と新潮文庫とで、「夫婦善哉」の言葉が異なる箇所があるというのが指摘してありました。
最近、続夫婦善哉の原稿が発見されて、新刊で「夫婦善哉 完全版」(雄松堂)が出ておりました。パラパラと開くと「直筆原稿(続夫婦善哉)」というのが最後に写真入で全文掲載されているのでした。こりゃ新書で出たばかりの直筆「坊っちやん」とは直接関係はなさそうですね。
この「続夫婦善哉」については、最近の新聞で杉山平一氏が書いておりました。
「私は織田君とは学生時代の頃から友人だったが、『夫婦善哉』が賞を得たとき不思議でならなかった。日頃、スタンダールやアランを論じたり、学校へ小林秀雄を講演に呼んだりしていた長身白皙の、・・彼の印象と余りに違っていたからだった。・・・友人たちと話題を明るく盛りあげ、みんなの面白い珍談奇談を黙ってきいていて、それらを換骨奪胎して小説に盛り込む見事さは、友人の多くが知っている筈である。『天牛』(古書店)で彼が落語全集を買うのに立ち会ったりしたが、ある時、書店で岩波書店の電気のことをかいた本を買うので『何するねン』ときくと『いやちょっと』といったりした。こんどの続篇に電球の商売が出てくるが、その参考にしたのだろうか。・・・・むかし織田君は結末の一行ができたから小説をかくといったことがある。・・・六十年前に若くして逝った織田君の微笑みを思い浮べた。」(朝日新聞2007年10月2日)


はたして、三島由紀夫も「結末の一行ができたから小説を」かいたのかどうか。
それはそうと、杉山平一著「戦後関西詩壇回想」(思潮社)には、こんな箇所がありました(「伊東静雄の処世術」)。

「後年『花ざかりの森』を書いた三島由紀夫が、伊東にあこがれて訪問したのに、かなり冷たくもてなされたらしいが、そのあと訪問した元教え子が、お菓子なんか持って行ったのに、三島が何の手土産もなく来たのが気に入らなかったらしく『あれは、田舎ものだ』と評したといわれている。」(p17)

そうすると、三島由紀夫は伊東に会って、どのようなことを語ったのでしょうね。
伊東静雄じゃなくて、同じく関西の詩人竹中郁は、書き残してくれておりました。

「わたくしは奇妙な初対面の記憶を二つ持っている。ひとつは三島由紀夫氏が作家の花道にすっくと立った頃、銀座四丁目の歩道で画家の猪熊弦一郎氏に紹介された。三島氏は『あなたの作詩を愛読しました』といって、つづいてその詩をすらすらと間ちがいもなしに暗誦して、どうですといったような顔つきをした。自作をろくに暗記していないわたくしは、狐につままれたような気分になって照れてしまった。まっ昼間の人通りの多い歩道の上でのことだから、どう考えてもやはり異才の行動とでも云って納得するほかない。もう一つは、吉田健一氏であった。・・・」
(   現代詩文庫1044「竹中郁詩集」p127
    竹中郁著「消えゆく幻燈」編集工房ノア・p111  )


とりあえずですね。
私の中では、伊東静雄の詩と三島由紀夫とが結びついたのでした。


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単なる思いつき。

2007-10-29 | Weblog
読売新聞の投書欄の左側に「時代の証言者」という、連載があります。
ちょうど、日経新聞の「私の履歴書」の連載と同じような体裁です。
その2007年9月12日~10月17日までの25回は、梅棹忠夫氏の連載でした。
こういう連載はほとんど読まないのですが、まとめて取り置きしていたので、
その連載を通読できました。ラッキー。

ひとつ、印象に残りましたので、とりあげます。
10月6日の第18回は、「知的生産の技術」(岩波新書)を語っておりました。
ところどころに、《》で時代考証的な解説がはさまっているのでした。
たとえば、その新書については《・・今年7月で77刷発行のロングセラーとなっている》とあります。
では、「知的生産の技術」について語った箇所を引用します。

「桑原(武夫)先生の研究班でもカードを使い、大きなヒントになりました。戦後に内モンゴルから持ち帰ったノート類は、中身をローマ字のタイプで打って何千枚ものカードにした。順番を並べ替えながら考えを組み立て、いくつかの論文を書きました。本に書いたカード方式が大流行しましたが、その前に大事なのは手帳をつける習慣です。ヒントにしたのはメモ魔だったレオナルド・ダ・ヴィンチ。私も山歩きで必ず手帳を持参して記録をつけた。思いつきこそ、オリジナルです。『梅棹が言うてることは単なる思いつきにすぎない』と人に言われたことがありますが、そんなら、なにか思いついてみい、と言いたいです。」

せっかくですから、もうすこし引用をつづけます。

「物理学で『ウィルソンの霧箱』という宇宙線をとらえる装置がある。中を宇宙線が通ると痕跡が残る。頭の中にこの霧箱をおいていないと宇宙線が通っても気づかない。発見を書きとめる手帳やカードが霧箱です。それが私の『知的生産の技術』の原理。自分の思いつきを粗末にせず、大事にしてほしいです。・・・」

『ウィルソンの霧箱』のたとえは、そのままに新書のなかにあります。
いまなら、小柴昌俊氏のニュートリノが思い浮かびます。
ここでは、
「単なる思いつき」を豊富にしていきながら、
「順番を並べ替えながら考えを組み立て」るのだとあるので、
ここから、私が思い浮べた連想は、ドナルド・キーン氏の言葉でした。

「作家を研究するに当って、私は日本の専門家が書いた研究書も、おおいに参考にする。自分の読み足りないことを自覚し、もっと読みたいと思う。・・・先行の研究書の中で私にとって一番役に立つのは、その中に収められている引用文である。・・それが、私にはありがたい。引用文に啓発され、原作に戻って直接に読んでみることは何度もある。そして、場合によっては、日本人の研究者が引き出したのとは異なる結論に達することがある。・・・しかし、直接に彼らの評論を引用することはほとんどないし、研究を読んだために私の意見が変ることは、あまりない。・・」(p137・「日本文学のなかへ」文藝春秋刊)



うん。「思いつきこそ、オリジナル」とは梅棹忠夫氏。
そして「一番役に立つのは、その中に収められている引用文」とはドナルド・キーン氏。
ということで、一見相反するご意見のようなのですが、豊かな深みを感じられるので、
ここに引用文を書き込んでおくわけです。




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ハエ叩き。

2007-10-28 | Weblog
台風もさっと過ぎて、今日はよい天気。夕方には蚊が。
蝿もいます。この時期になると家へと入ってくるせいか。炊飯ジャーの蓋にとまっていたり、夜には体温が恋しいのか、体のまわりにしつこく寄ってくる蝿がおります。たいていは2~3匹なのですが、これが気になる。う~ん。
そういえば、司馬遼太郎さんの対談に蝿が登場したなあ、と思っておりました。
ありました。司馬遼太郎・山折哲雄対談「日本とは何かということ」(NHK出版)に
「たとえば広島に安芸門徒というものがあったから、浄土真宗の門徒がたくさんいます。播州門徒というのも、やはり大きなグループでした。その播州門徒の、だいたい明治・大正の人たちの、農民の暮らしの中で、ハエを叩いて殺してはいけないといわれていたそうです。浄土真宗は非常にタブーが少ないのに、ハエを叩いて殺してはいけない。しかしハエ取り紙はいいという。これは向こうからやってくるんだから(笑)。だから、どの農家にもハエ取り紙はあっても、ハエを叩く道具はなかった。播州ではそうだったそうですね。農民たちは、そうやって暮らしていました。吉田松陰とか明治の正岡子規は、知識人ですからまたべつですが、農民たちがそうやって暮らしていたことを思うと、私たちの宗教の伝統というものは、もう一度、改めて見直すと、相当なものがあったのではないかと思えてきますね。」(p70)他の本にもあったような気がするのですが、ちょうど、ここにみつけました。

そうか「相当なものがあった」のか、と思いながら、私はハエを叩いているのでした。
ちなみに蚊も叩いちゃいけないのかなあ。そこまでは語られていなかったけど・・・。
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推薦「坊っちやん」。

2007-10-28 | Weblog
「自筆で読む『坊っちやん』」(集英社新書ヴィジュアル版・1200円+税)が出たので、この機会に俄然「坊っちゃん」を推薦したくなりました。

たとえば、漱石に「私の個人主義」という学習院での講演文があります。そこに
「・・私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。それは伊予の松山にある中学校です。貴方がたは松山の中学と聞いて御笑いなるが、大方私の書いた『坊っちゃん』でも御覧になったのでしょう。・・・」という箇所があります。著者が講演で、松山といえば、学生のなかに笑いが起こったという場面です。何か今読んでも、臨場感があり、その場の雰囲気が伝わってくるようです。

朝日新聞学芸部編「一冊の本 全」(雪華社)のなかで、お一人だけ「坊っちゃん」を取り上げているのは、大岡昇平氏でした。推薦するなら、何をおいても、まずここから引用しなければ、と私は思っているのです。

「・・・処女作『吾輩は猫である』も十遍ぐらい読んでいるので、もし『猫』と『坊っちゃん』を漱石の代表作とする意見があれば、私はそれに賛成である。・・・漱石は『猫』の好評に気をよくして希望にみちあふれていたのであろう。感興にまかせて書いていて、のびのびとしたいい文章で、ある。といって決して一本調子ではなく、漱石という複雑な人格を反映して、屈折にみちているのだが、作者の即興の潮に乗って、渋滞のかげはない。こういう多彩で流動的な文章を、その後漱石は書かなかった。また後にも先にも、日本人はだれも書かなかった。読み返すごとに、なにかこれまで気づかなかった面白さを見つけて、私は笑い直す。この文章の波間にただようのは、なんど繰返してもあきない快楽である。傑作なのである。」


ということで、あとは
半藤一利著「漱石先生ぞな、もし」(文藝春秋)
中村吉広著「チベット語になった『坊っちゃん』」(山と渓谷社)
平岡敏夫著「『坊つちやん』の世界」(塙新書)
高島俊男著「座右の名文」(文春新書)
なども引用したいところですが、
これは、読もうとすればどなたでも、探し出して読めそうなので、省略して、
つぎに俳優・池部良氏の文を引用して終わります。

「諸君!」2007年10月号に
「永久保存版・私の血となり、肉となった、この三冊」という特集がありまして、
そこに108人の顔ぶれが、ご自身の好きな本を紹介しておりました。ここで「坊っちゃん」を一人だけ紹介していたのが池部良でした。

「・・・十八歳の春・・不合格・・・浪人に成り立ての七月の暑い日、庭先の植込みの中に蜜柑箱を持ち出して腰掛け、勉強するつもりで『代数第三次方程式の解析』なんて本を手にしたら、忽ち居眠りを始めてしまった。〈良ちゃん〉と揺さぶられて目を開けたら、とても僕の方からはお近付きになりたいと思わない三歳年上の従兄晋一郎が立っていた。『僕は一発で早稲田大学に入ったから全く理解できないんだが、浪人って疲れるだろうね。僕、慰問を兼ねて受験の一助になると思って夏目漱石の〈坊っちゃん〉という小説を持ってきたんだが、是非読み給え。落語みたいな文章だから良ちゃんだって楽に読めると愚考するな』と言って漱石全集の一冊を置いていった。暇にまかせてページを捲った。晋一郎従兄が言うように、受験の一助になったとは思えないが、一時間もかけずに読み切ってしまった。十八歳の子供にしても余程面白かったに違いない。だが読み終えても深遠な教義を感じたわけではないが脳味噌の中を一陣の風が吹き抜けたのを覚えている。その風に乗って、江戸っ子のおやじが何かにつけ口にしていた〈筋を通す〉ということと、東京生れのお前には〈一途〉ってものが足りねえんだ、その言葉が胸を打った。・・・」(p215~216)


これが、私の引用からなる、推薦文であります。従兄の愚考ほどには、効果がないかもしれませんが、ご参考までにと、書き抜いておくわけです。

あっ、そうそう。それでは、ちょいと『坊っちやん』でも読んでみようかという気持ちになりましたなら、どの本で読めばよいか。それは「直筆で読む『坊っちやん』」の最初に、秋山豊氏が書いている文に、ちゃんと指摘してありました。
「・・・ちなみに、現在入手が可能な『坊っちやん』のテキストのうち、もっとも原稿に忠実なものは、この新版『漱石全集』を元に本文を確定した、岩波少年文庫版『坊っちゃん』(2002年刊)である。現代仮名遣いであったり、漢字を開いたりなどの表記替えはあるが、ことばや文章は原稿どおりになっている。」(p18)

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「広辞苑の嘘」。

2007-10-27 | Weblog
渡部昇一著「時流を読む眼力」(到知出版社)によると、

「シナ事変の日本は、いまのイラクにおけるアメリカとまったく同じ状況だったのだ。日本はシナ大陸から引き揚げたかったのだ。東條英機も賢明にその方策を模索している。しかし、汪兆銘政権はできたばかりで、基礎が固まっていない。蒋介石は重慶で失地回復を狙っている。毛沢東は虎視眈々と勢力拡大を図っている。日本が手を引けば、いまのイラク情勢のように、大変な混乱に陥ることは目に見えていた。・・・」(p163)

「シナ事変勃発時・・・・実質参謀本部を切り回していたのは、参謀次長で中将の多田駿である。参謀本部の作戦部長は石原莞爾であった。この石原はシナ大陸での不拡大方針を唱える最先鋒だったのだ。だから、蘆溝橋事件が起こるとすぐに停戦を指示し、現地では停戦協定ができている。ところが、いまでは共産党の策謀だったことがはっきりしているが、停戦が成ったのに別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてきて衝突が起こる。それが収まり、ふたたび停戦の協定ができると、また別の場所でシナ軍が攻撃を仕掛けてくる。そしてついに、日本人居留民二百人がシナ兵によって殺害される通州事件が起こり、日本は引くに引けなくなっていったのだ。参謀次長の多田は南京占領後に停戦を強く主張したが、近衛内閣の方針に押し切られた。」(p182~183)


この通州事件について、渡部昇一氏は「広辞苑の嘘」(光文社)の対談で、具体的に語っておりました。ちなみに「広辞苑の嘘」(2001年)は現在手に入らないようで、古本屋に注文して読まれるしかないようです。そういえば、あれは何年前でしょう。千葉県西船橋(船橋西?)図書館では、渡部昇一氏等の本が、無断で破棄されたことがありました。図書館でさがしても「広辞苑の嘘」は、ちょいと捜せないかもしれませんね。

「つぎに、日本人住民、約二百人もがシナ兵に虐殺された『通州事件』にもふれます。これは広辞苑が意図的に外し、岩波の歴史年表でも抹殺しています。つまりシナに都合の悪い史実は書かないという岩波の偏向的執着の露呈というやつです。御存知ない世代に説明しておきますと、通州という北京から少し奥に入った街に日本人と朝鮮人(日韓併合により当時は日本人です)合わせて三百人ぐらい住んでいた。盧溝橋事件が起こったのが1937年7月7日で、それから一週間ぐらいで一応現地協定が済む。それで戦いは終わります。その終わった三週間後の7月29日に通州の住民がシナ保安隊によって、二百人前後殺されている。それがまた残虐極まりない殺され方でした。両手、両足を切り落とされたり、全身を切り刻まれたり、女の人もそれは言語に絶する殺され方をしていたのです(朝日新聞社法廷記者団編『東京裁判』上中下〈昭和37年〉東京裁判刊行会)。・・・・岩波のいやらしいのは、この通州虐殺事件を広辞苑では一切ふれずに、さらに岩波書店刊行の『近代日本総合年表』でも一切無視しているところです。なかなかに精細な年表ですが、28日までは記述がきちんとあるのに、29日には通州事件がない。まだまだシナ絡みでの広辞苑の大嘘があります。・・・・」(p186~187)

「広辞苑の嘘」の「結びにかえて」で、渡部昇一氏は書いております。

「とくに定義の偏向が問題になるような単語は、私は絶対に『広辞苑』で引くことはなかった。だから「『広辞苑』は少しおかしい」という噂は耳にしたことはあったが、実際上私には全く縁がなかった。ところが今、改めて歴史認識や思想が問題になる項目を拾い当たってみると、なるほど見逃すことのできない偏向がある。とくに注目すべきことは、版が新しいものほど嘘が多くなっていることだった。普通は辞書は版を重ねるほどよくなるはずだが、『広辞苑』はその反対なのである。」(p280)


さて、今年はもうすぐ新しい版の『広辞苑』がでるそうなのでした。その発売される「広辞苑」について、最新語が載ったの、載らないのと最近も新聞・テレビ等で面白可笑しくとりあげておりました。もし機会があったなら、『通州事件』を引いてみたいですね。どなたか引く機会がありましたなら、教えて下さい。新しい版の広辞苑について。
そして、渡嘉敷島の住民には、あの戦争中に、つねに通州事件のことが念頭にあったのだと思い返してみてもよいのです。それが集団自決と関連してきそうな気配なのですから。そして、そこに歴史が静かに横たわっているのですから。その一点を隠す、岩波の広辞苑や近代日本総合年表は、みごとに隠蔽に成功していたのです。

戦争中の大本営発表の嘘。
続く平和時の広辞苑の嘘。

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問題じゃない。

2007-10-27 | Weblog
今日は雨ですね。ちょうど台風が、千葉県の先端をかすめて通るらしい。
こんな雨の日は、なにか語りたくなります。
ということでひとつ三題噺といきましょう。

「通州事件」という、聞きなれない事件がございます。
歴史的事件なのですが、知られていないのは、どうしてか?
辞書に載っていないから、調べようがなかった。
それについて、語ってみたいと思ったわけです。


通州事件・渡嘉敷島・広辞苑という、ことで噺をつなげていきたくなりました。お付き合いの程よろしくお願いいたします。

ちょうど月刊雑誌「WILL」12月号が送られて来たのです。定期購読の期間が、次号で終わるので、継続手続きをお願いの挨拶が二枚。雑誌といっしょに入っておりました。その「ご挨拶」には
「創刊三年・・月刊雑誌としては『文藝春秋』に次ぐ売れ行きで、業界内外でも一応誌名を覚えていただけるようになりました。」とあります。またこうもあります。
「11月号は中西輝政さんの『小沢一郎と日本共産党』などがこれまた大好評で、一昨年4月号、昨年9月号10月号に続き4度目の完売、増刷をいたしました。」とありまして、丁寧にも「ご挨拶」の最後には編集長のサイン入りです。そして、今回の12月号は「総力特集・沖縄集団自決の真実」。有無を言わせないのは、渡部昇一氏の「歴史教育を歪めるもの」でして、これだけでも読めるのは、現代を含めての歴史を鮮やかに知る醍醐味があります。

産経新聞では、
10月19日「断」で、呉智英さんの文が簡潔で的確な指摘。
10月23日「正論」、曽野綾子さんの文は、静かに語りかけて来ます。
その語りかけは「そもそも人生では、『こうであった』という証明を出すことは比較的簡単である。しかしそのことがなかったことを証明することは非常にむずかしい」。
そのむずかしいことを静かに、丁寧に綿密に語りかけている文でございます。
大声で、大多数の人員を誇って語られる言葉との違いを味わいたい文なのです。
もっとも、てっとりばやく簡単なのは、数量の多さを誇って、押し切るという方法ですね。数にものを言わせる、9月29日、沖縄での主催者発表11万人という集会など、そのよい例であります。政治生命は、数に密接に結びついておりますから、新聞発表の確認が手間取る間隙で、簡単に「左翼・革新系」によって、手玉にとられる始末であります。

この11万人を「実際にテイケイ(株)の会長がプロジェクトチームを作り、写真を拡大して一人一人、塗りつぶしながら数えるという膨大な作業の結果、二万人にも満たないということが判明しました」(p67・WILL12月号)。

この数値は肝心な箇所ですから、週刊新潮11月1日号からも引用しておきます。

「大手警備会社『テイケイ』の役員の一人である。日韓ワールドカップの会場警備などを担当してきた経験からこう語る。『多目的広場全体を俯瞰して撮った写真を入手したので、正確な人数を割り出すのは簡単なことでした』拡大した写真の画面を小さな四角形に区分。それぞれに詰まった豆粒大の人間像を、100人単位で赤、黄、緑と塗りつぶして数えやすくしたのだという。『社員4人に命じて、1日がかりでカウントさせました。その結果判明したのが、目視できた人数だけなら1万8179人。木陰や建物の陰に隠れている人たちを含めても1万9000人~2万人という数でした』」(p49)

この数字を、沖縄県民大会事務局幹事の平良長政県議に伝えると、
どう答えたか、まあ、だいたいわかるでしょうけれど、ここもしっかりと引用しておきましょう。主催者発表についてでした
「一人、一人数えたわけではありません。過去の集会の人数などを参考に、概算数を発表しました。が、正確な人数なんか問題じゃない。重要なのは教科書検定のほうなのですから・・・・」こうしてテーマを、もうズラしてしまう。こういうのを「困ったさん」というのでしょうね。

ここでは、呉智英さんの「断」での文の最後を引用しておきます。

「これは単なる計測制度の問題ではない。論理の整合性の問題である。だって、
戦時中の大本営発表を嘲弄してきた自分たちが同じことをしていたらまずかろう。
南京事件の犠牲者の数をごまかすなと主張してきた自分たちが参加者の数をごまかしたら厚顔無恥というものではないか。沖縄戦の犠牲の真相を隠蔽するなという抗議集会で自らの参加者数の真相を隠蔽していたら説得力はゼロだ。私は、左翼、革新に『自浄能力』はないと思う。いや、左翼、革新だけではないのだけどね。」


ところで、前置きがながくなってしまいました。
いまも、雨は強弱をつけながら、途切れなく降っております。
ここから、三題噺へと入りたいと思うわけです。

藤岡信勝氏は産経新聞の10月24日「正論」で
「沖縄集団自決」の教科書問題について、「従来、『軍命令説』の根拠とされてきたのは、座間味島と渡嘉敷島のケースだった。しかし、どちらのケースについても、当時島に駐留していた日本軍海上挺進隊の隊長は、住民に集団自決を命令していなかった。それどころか、集団自決のための武器・弾薬を求めに来た住民に対し、隊長は『決して自決するでない』と押しとどめ(座間味島)、集団自決が起こったことを知ったあとは『何という早まったことをしてくれたのか』と嘆き悲しんだ(渡嘉敷島)。」とあります。これについて反対の見解があるわけであります。

この反対の見解をお持ちの方に、読んでいただきたいのが「WILL」12月号なのですね。
それも、左翼・革新ではない普通の方が読んでくださるといいのになあ(と思って、私は書いているわけです)。
雑誌に皆本義博氏の語りが掲載されています(p78~83)
渡嘉敷島の中隊長だった方で、そのはじまりはというと、沖縄での集会の疑問から語られております「主催者発表と朝日新聞の報道では11万人が参加したとのことでした。あのニュースを見て気になったので、渡嘉敷島にいる集団自決で生き残った金城武徳さんに電話をしました。『宜野湾で集会があったそうだが、渡嘉敷島では何人参加したか』と聞いたら、『中隊長殿、渡嘉敷島からは誰も行ってません』とのことでした。・・・この集会は明らかに政治的、組織的に集められた連中のやっていることだと思います。」こうして語りは始まっておりました。

脱線しますが、終わりも紹介しておきます。

「『沖縄ノート』は沖縄タイムス社編著『鉄の暴風』と現地で手に入る資料などをもとにしたとしていますが、大江健三郎氏はもちろんのこと、当時の沖縄タイムスの記者などは、渡嘉敷島現地に一歩も足を踏み入れていないんです。にもかかわらず大江氏は、現地取材もしないで軍が命令したと言い張るんですから・・・もう亡くなりましたが、家永三郎や中野好夫も同じです。それに引きかえ、曽野綾子さんは立派でした。・・・本の執筆の際、曽野さんは島に渡り、もんぺを履いてずっと取材されていました。私はこの方の素晴らしさに感動しております。」(p83)

その「りっぱさ」を確認したければ、曽野綾子著「沖縄戦・渡嘉敷島『集団自決』の真実」(WAC)で読めます。

どんどんと、主題が逸れていくようで、すみませんね。
これからは、もっと簡潔に三題噺をすませるようにします。

皆本義博さんの語りで、注目したのは
「金城武徳さんも次のように証言しています。『軍の命令ではなく、鬼畜米英にとらわれれば女性は辱めを受け、男性はドラム缶の中で焼かれると聞いていた。・・・・』当時住民の間では、中国大陸の尼港事件や通州事件など、民間の日本人が多数虐殺された事件が強い印象として残っていたから、教訓に近いものがあった・・・・」(p81)

ここに「通州事件」という言葉がでてくるのです。


今は雨足が強くなっております。
いよいよ台風がかすめて通るのでしょうか。

以下、文字打ち込みがゆっくりとなったので、稿をあらためて、
つぎにします。






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どうぞ仕舞迄。

2007-10-24 | Weblog
<直筆で読む「坊っちやん」>(集英社新書ヴィジュアル版)を読んだところです。
変体仮名がありまして、のろのろとゆっくり読んだので、あれこれと思うことがありました。数日かけてゆっくり読んだので、こりゃ、数日かけてブログに書き込みができるなあ。楽しみです。ところで、今回は「手紙と庭」ということで書いてみます。

この夏目漱石の直筆原稿は、読み甲斐がありますよ。
原稿用紙の枡目ごとに、きちんと、ひと文字づつ書きこまれており、筆で書くような草書の、何を書いてあるのか読めないようなくずし字などではありませんでした。丁寧な文字なのです。ただ平仮名が変体仮名なので、最初は何とも違和感があります。

この<直筆で読む「坊っちやん」>には、最初に秋山豊氏の文があり、次に漱石の原稿。最後に夏目房之介の文が載っております。

最初の秋山豊さんの文には、実際に通読する際の読みにくさを解消するための手引きとしても書かれており、急がば回れという気持ちでまずは読まれるとよいですよ。
私はp63の「変体仮名早見表」を何度も参考にして読む進みました。秋山氏いわく「変体仮名や漢字の崩し方、仮名遣いなどは、はじめのうちこそ困難を感じるだろうけれども、二、三頁読み進めれば次第に慣れて、さほど困難は感じなくなると思う」(p13)と書かれております。
最後にある、夏目房之介さんの「読めなかった祖父の直筆原稿」では、
「残念ながら孫の僕には、それをストレスなく読みこなすリテラシーはない。我慢して数ページ読んだが、すぐ挫折してしまった。印刷された小説は何度か読んでいるから、なんとか読めるかと思ったが、いかんせん『面白くない』のだ。まあ、面白がらせる字を書いているのではなく、読みやすく書いたのだろうから当たり前である」(p369)とあります。
じつは、私はお孫さんの夏目房之介さんが「挫折してしまった」と書いているのを読んで俄然、読む気になりました(笑)。
というのも、最初は字面を追うのがやっと。内容を楽しんではいなかったのですが、原稿用紙13枚目の四国へと旅立つころから、にわかに文字を追うのが苦痛ではなくなりました。ということは、20ページぐらい読んでからやっとエンジンがかかってきたようなわけです。それもこれも、房之介さんの「挫折」が励みになりました。

さて、このようにして読んで来るとですね。
清から坊ちゃんへの手紙が、印象に残るのです。
たとえばこんな箇所。

「今時の御嬢さんの様に読み書きが達者でないものだから、こんなまづい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。甥に代筆を頼もうと思ったが、折角あげるのに自分で書かなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざ下た書きを一返して、それから清書をした。清書をするには二日で済んだが、下た書きをするには四日かかつた。読みにくいかも知れないが、是でも一生懸命に書いたのだから、どうぞ仕舞迄読んでくれ。と云ふ冒頭で四尺ばかり何やら蚊やら認めてある。成程読みにくい。字がまづい・・・おれは焦(せ)つ勝ちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は五円やるから読んでくれと頼まれても断はるのだが、此時ばかりは真面目になつて、始から終迄読み通した。読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、又・・・・」

さて、ここで庭が登場します。

「又頭から読みなおして見た。部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくくなったから、とうとう椽鼻へ出て腰をかけながら丁寧に拝見した。すると初秋の風が芭蕉の葉を動かして、素肌に吹きつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、仕舞ぎわには四尺あまりの半布がさらりさらりと鳴って、手を放すと、向ふの生垣迄飛んで行きそうだ。おれはそんな事には構って居られない。・・・」


もう一か所は、坊っちゃんから清へと手紙を書こうとして書けないという箇所です。
その書けないということを書いている箇所がいいのですが、それは省いて庭が登場する少し前から引用します。

「・・・・こうして遠くへ来て迄、清の身の上を案じていてやりさへすれば、おれの真心(まこと)は清に通じるに違ない。通じさへすれば手紙なんぞやる必要はない。やらなければ無事で暮してると思ってるだろう。たよりは死んだ時か、病気の時に、何か事の起つた時にやりさへすればいい訳だ。庭は十坪程の平庭で、是と云ふ植木もない。只一本の蜜柑があって、堀のそとから、目標になる程高い。おれはうちへ帰ると、いつでも此蜜柑を眺める。東京を出た事のないものには蜜柑のなっている所は頗る珍らしいものだ。・・・」


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庭の蝉。

2007-10-22 | Weblog
伊東静雄と三島由紀夫について語りたかった。
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あの椅子。

2007-10-21 | 詩歌
茨木のり子詩集「歳月」と、永瀬清子著「短章集」を読んで思い浮かんだことを、この前「狐の歳月」(10月17日)と題して書きましたが、もうすこしつけ加えておきます。

花神ブックス1の「茨木のり子」に
「三浦安信・のり子夫婦」と題した岩崎勝海氏の文が載っております。
夫婦ぐるみで茨木のり子さんご夫婦と交際があった記録として読みました。
それによると、茨木のり子さんの夫・安信氏は1961年に蜘蛛膜下出血。
そして1975年5月22日肝臓癌で亡くなっております。
この本には最後に年譜が載っており、それについても確認が容易です。

1975年1月。詩「自分の感受性くらい」を雑誌掲載。
1975年5月。夫死去。
1977年3月。詩集「自分の感受性くらい」刊行。
1979年10月。「詩のこころを読む」刊行。

岩波ジュニア新書の茨木のり子著「詩のこころを読む」は、
各項目で区切られており「生まれて・恋唄・生きるじたばた・峠」ときて
最後が「別れ」となっておりました。その「別れ」に
永瀬清子の「悲しめる友よ」が引用されていたのです。
ここでも引用してみたいと思います。


悲しめる友よ
女性は男性よりさきに死んではいけない。
男性より一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、又それを被わなければならない。
男性がひとりあとへ残ったならば誰が十字架からおろし埋葬するのであろうか。
聖書にあるとおり女性はその時必要であり、それが女性の大きな仕事だから、
あとへ残って悲しむ女性は、女性の本当の仕事をしているのだ。
だから女性は男より弱い者であるとか、理性的でないとか、世間を知らないとか、
さまざまに考えられているが、女性自身はそれにつりこまれる事はない。
これらの事はどこの田舎の老婆でも知っている事であり、
女子大学で教えないだけなのだ。
                    短章集2『流れる髪』

この引用のあとに、茨木さんの解説がつづくのでした。
「愛する人を失って悲嘆にくれる友人をなぐさめる形になっています。なくなったのは、友人の恋人か夫かわかりませんが、なぐさめ励ましたいという作者の願望が、真底からほとばしり出て、ついに『これらの事はどこの田舎の老婆も知っている事であり、女子大学で教えないだけなのだ。』という、実に痛快な結論に達してしまいます。・・・・女が生き残った場合はなんとかさまになっているのはどうしてだろう、折りにふれて考えさせられてきましたが、『悲しめる友よ』を読んでから、いい形をあたえられたようで、ひどくはっきりしてきました。・・・」(p209)


詩集「歳月」に、「椅子」と題した詩がありました。
そのはじまりはこうなっております。

  ――あれが ほしい――
子供のようにせがまれて
ずいぶん無理して買ったスェーデンの椅子
ようやくめぐりあえた坐りごこちのいい椅子
よろこんだのも束の間
たった三月坐ったきりで
あなたは旅立ってしまった
あわただしく
別の世界へ
・・・・・・
・・・・・・



そう。これを読めば思い浮かぶのが
1999年10月に出た詩集「倚りかからず」でした。
最初の2行は
「もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない」とはじまり
詩「倚(よ)りかからず」の最後の3行は、こうでした。

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

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73歳の誕生日。

2007-10-20 | Weblog
産経新聞2007年10月20日に「皇后さま きょう73歳」とありました。
第二社会面には「誕生日に先立ち、宮内記者会の質問に文書で回答」とあり。
皇后さまの回答全文が載っておりました。ちなみに、読売新聞では、全文ヨミウリオンラインに掲載とあります(朝日新聞は取り上げてるかなあ。こんど古新聞で確認してみます)。

それはそうと、時代の雰囲気というのは取り出し難いものですが、皇室について現在はどういう思われているのか。気になるところではあります。
さしあたり、皇后さまの回答を引用するまえに、時代の雰囲気のある断面をしめしておきたいと思うわけです。
産経新聞10月6日のコラム「断」は、潮匡人氏が書いておりました。
その最初はこうはじまっておりました。

「先般、安倍改造内閣の新閣僚記者会見で多数の閣僚が国旗に欠礼したこと、認証式でも天皇陛下に失礼な態度をとったことを指弾した(9月2日付)。あれから約1カ月。9月26日、福田内閣が誕生した。さて今回はどうなったか。中継映像で確認してみた。NHKの映像では町村官房長官が登壇済みのため確認できなかったが、続けて額賀財務相が登壇する際、軽く会釈するごとく国旗に一礼した。ひと安心と思いきや、以下登壇順に、経済産業相、農水相、厚労相、外務相、法務相、国交相、総務相、環境相が一人残らず、国旗の前を素通りした。・・・結局、国旗に敬礼した閣僚は・・3人だけだった。認証式は確認できなかったが、大多数が前回同様だったと想像する。意図的に欠礼したわけではあるまい。・・・」

どうでしょう。現代の時代の雰囲気は、まあこのような感じにひたっているのでしょうか。

さて、皇后さまの回答に及びます。
その前に記事の説明を引用しておきます。

「宮内庁によると、皇后さまがこの1年間に果された公務は300件を超えた。このうち地方へのお出かけは、新潟県中越沖地震の被災地など7都道府県にのぼった。5月、両陛下にとって初の旧ソ連圏訪問となるバルト三国を含む欧州5カ国をご歴訪。3月には腸壁から出血などが確認され、断続的に静養をとったが、無事に回復された。年間を通じ、常に天皇陛下のご健康を案じ、早朝の散歩やテニスを共にされてきたという。」

私が印象深かった箇所は、
「この1年間内外で起きたことで、皇后さまにとって特に印象に残ったことをお聞かせ下さい」という質問の回答でした。箇条書きで5つ並びます。
1番目は「3月の能登半島地震、7月の新潟県中越沖地震。局地的に日本各地を襲った暴風雨や竜巻(昨年11月)。長く暑かった夏。・・」とあり。
その5番目にこうありました。
「今年8月の新聞に、原爆投下後の広島・長崎を撮影した米国の元従軍カメラマンの死亡記事と並び、作品のひとつ、『焼き場に立つ少年』と題し、死んだ弟を背負い、しっかりと直立姿勢をとって立つ幼い少年の写真が掲載されており、その姿が今も目に残っています。同じ地球上でいまなお戦乱の続く地域の平和の回復を願うとともに・・・」とありました。

最後に、もう一つだけ引用します。
それは音楽について語っておられる箇所なのです。

「細々とながら音楽を続けてきた過去の年月が最初にあり、気がついたときには、音楽が自分にとって、好きで、また、大切なものとなっていたということでしょうか。十分な技術を持たない私が、内外の音楽家の方たちとの合奏の機会を持てるということは過分な恩恵ですが、美しい音に囲まれた中で自分の音を探っていくという、この上なく楽しい練習をさせてくださる方々の友情に感謝しつつ、一回ごとの機会をうれしく頂いています。」


おそらくね。他の新聞では読むことができないんじゃないか。
そう思う、皇后さまの回答文にある肉声を、あなたに届けたかった。

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おい、老い。

2007-10-19 | Weblog
読売俳壇(2007年9月24日)。その成田千空選の一番はじめが、これでした。


      新刊書もう届くころ赤とんぼ     佐賀市 栗林美津子

ひさしぶりに新聞の整理をしていたら、この俳句を見つけました。
うん。ここでは古書じゃないくて、新刊書がいいなあ。
ちっとも、本を読まなくても、やっぱり、本が届く楽しみ。
秋といえば、

   少年老い易く学成り難し
   一寸の光陰軽んず可からず
   未だ覚めず池塘春草の夢
   階前の梧葉已に秋声


だいぶ前なのですが、私の同窓生の父親が、退職された時に自費出版。
その題名が「池塘春草之夢」なのでした。
題名だけでは、何だかわからずにおりましたが、
自序に朱熹の詩だと説明がありました。
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言葉尻齧り虫。

2007-10-18 | Weblog
渡部昇一著「時流を読む眼力」(到知出版社)を読みました。
そのあとがきの印象が鮮やかです。
ということで、あとがきの紹介。こうはじまります。

「【庶士横議(しょしおうぎ)】という言葉があった。政治上の責任のある地位にないものが、政治について勝手なことを議論するという意味である。・・私は現在完全な庶士だ。何の地位もなく、位階勲等もゼロである。私の言うことは典型的な庶士横議と言ってよかろう。・・・庶士の私には政界や経済界との『しがらみ』がない。その点では自分の利害に関係なく、国益という座標軸から自由に論ずることができるという【勝手】が許されていると思う。」
こうして、渡部昇一氏の横議を、十年近く掲載している雑誌として、月刊『到知』を紹介しております。そこでの最近の連載が一冊となったわけです。何よりもその自由な語り口が、読むものにも気楽な楽しみとして、自然と伝わってくるのでした。時々の時事問題の要所をクリップでとめて置くように、語られる全体が、大きく時事問題への解答を含んでいて、ややもすると雑事に忘れてしまいやすい、その時々の重要な指摘が連なっております。問題を反芻して、ていねいに咀嚼するのを助けてもらているようです。

こんなとりとめないことを語っていてもしょうがないですね。
ひとつ引用してみます。
題して「『産む機械』発言騒ぎは天皇機関説を思い出させる」(p150~)。
はじまりは
「女性は産む機械――柳澤伯夫厚生労働大臣の発言が大問題になった。女性を『産む機械』とは、やはり失言と言わざるを得ない。」
ちょいと間を端折っていきます。
「私は民主党の小宮山洋子衆議院議員が質問に立ち、柳澤厚労相を追及する様子をテレビ中継で観た。言葉尻をとらえてああ言えばこう言う式の揚げ足取りが延々と続き、実に不愉快であった。不愉快だっただけではない。暗い予感さえ覚えた。というのは天皇機関説問題を思い浮べたからである。・・美濃部達吉博士は弁明の演説を行った。それは学問的にも実にしっかりしたもので、貴族院の議場からは期せずして拍手が起こったほどだった。しかし、『天皇を機関とはけしからん』という攻撃は収まらない。・・思えば、これは日本が敗戦の破滅に向かって突っ込んでいく一つの分水嶺だったように思う。・・・」

ところで、最近「おしりかじり虫」という楽しい歌がはやっているのだそうですね。
それと連想が重なるような渡部氏の語りが次に聞けるのでした。

「言葉尻をとらえる。揚げ足を取る。これは些事のように思われがちである。だが、決して些事ではない。それは言論を萎縮させ、重大な結果につながっていくのだ。差別問題が起こる。その多くは言葉尻をとらえた揚げ足取りがきっかけである、と言っていいほどである。私も差別を糾弾する団体に直面した経験があるが、その団体がやったことと言えば、終始言葉尻をとらえた揚げ足取りばかりだったと断言できる。何かを言えば、その言葉尻をとらえて、理窟にもならない難癖をつけてくる。揚げ足を取って、こちらの意図とはまったく異なる決めつけをする。これに対抗するには、沈黙を守る以外にないではないか。私の場合は、屈服しなかったために、相手は呆れ音を上げたのだろう、目的を遂げることなしに私の前から消えてしまった。しかし、屈服はしなかったが、私の主張を十分に展開できたわけではない。際限のない言葉尻をとらえた揚げ足取りに、まともな言論を展開できるわけがない。」

そして、こう渡部氏は書いております。

「このように、言葉尻をとらえて難癖をつけ、揚げ足を取るのは、言論の自由を封殺してしまうことになるのだ。それが積み重なれば、重大かつ深刻な事態につながっていくことを知らなければならない。」(p155)

以下続く具体的に続くのですが、今回はこのへんで終わります。
この本、時事問題をとりあげながら、現代を知る大切な要素を指摘してゆくのです。それは言葉尻をとらえ難癖をつけ、揚げ足を取るというようなつまらなさではなくて、楽しい語らいのなかで語られてゆくのでした。

あるいは、と私は思うのです。
日本には「しりとり」という遊びがありますね。
言葉のしりとりをしてゆく、それ以外に持ち合わせがないような不安定な社会ですが、
決めつけの「しりとり」をしているというのは、空恐ろしくもなります。
でも、もっと明るくなる日本語の「しりとり」というのがあるはずで、
きっと、「おしりかじり虫」という歌に、皆さんは無意識に、その楽しみを期待しておられるのじゃないか。これが、この歌のヒットの背景にあるのじゃないか。などと思ったりしてみるのでした。「難癖をつけ、揚げ足を取る」だけの「しりとり」にはもう辟易。歌「おしりかじり虫」で柔軟体操して、おもむろに、あたらしい「しりとり」を国会中継に期待したいわけです。「その団体」の中にも、都会の真ん中で「おしりかじり虫」を楽しむ方おりますか?期待してます。


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狐の歳月。

2007-10-17 | 詩歌
永瀬清子著「短章集」(思潮社・詩の森文庫)が今年(2007年)の2月に出版されていました。それについて語りたかった。
茨木のり子著「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)を読んだ時に、そこに永瀬清子の詩「諸国の天女」と、もうひとつ「悲しめる友よ」とが引用されておりまして、私には「悲しめる友よ」が忘れがたく思ってました。けれども、それがどの詩集に載っているのか分からずじまいで。それっきり忘れていたのです。こんかい「短章集」をぱらぱらとめくっていたら、ここにありました。

ところで、「短章集」に「狐」と題した文があります。
短いので、全文引用してみます。

  狐が女に化けて七兵衛をだましに来たが、ついあわてて尻尾が出ていた。 
  男はこれに気づきしらん顔をしていた。二三日して男がいつもの通り
  仕事をしていると狐が又「七兵衛さん、七兵衛さん」とよぶ。
  「何じゃい」と答えると狐は
  「お前、この間はおかしかったろうなあ」といったーー。
  話はそれだけ。でも自分の作品を恥じている詩人と同じなので
  この狐がとてもいじらしい。


そういえば今年の2月には、茨木のり子詩集「歳月」が発売になっておりました。
その詩集のあとがきは宮崎治氏が書いており。この詩集のたたずまいを教えてくれておりました。そのはじまりを引用しましょう。

『歳月』は、詩人茨木のり子が最愛の夫・三浦安信への想いを綴った詩集である。
伯母は夫に先立たれた1975年5月以降、31年の長い歳月の間に40篇近い詩を書き溜めていたが、それらの詩は自分が生きている間には公表したくなかったようである。何故生きている間に新しい詩集として出版しないのか以前尋ねたことがあるが、一種のラブレターのようなものなので、ちょっと照れくさいのだという答えであった。・・・・



さて、「歳月」という詩集に「獣めく」という詩があります。
その、最初と最後の箇所を引用してみたくなりました。


     獣めく夜もあった
     にんげんもまた獣なのねと
     しみじみわかる夜もあった

     ・・・・・・・
     ・・・・・・・

     なぜかなぜか或る日忽然と相棒が消え
     わたしはキョトンと人間になった
     人間だけになってしまった




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詩殺し。

2007-10-16 | 詩歌
山川健一著「【書ける人】になるブログ文章教室」(ソフトバンク新書)。
そこにこんな箇所がありました。それは澁澤龍彦集成第7巻「詩を殺すということ」からの引用をした後に「・・・【散文の訓練とは、一つには詩を殺すことによって成立する】のである。【ひたすら詩を殺すことを心がけてきた】と澁澤龍彦が言うのは【普通の人間】になろうとする彼の意思表明なのであり、つまりは、散文の訓練をするというのは大人になる訓練をするということなのだ。文章の練習をする。それは大人になる道を探すことなのである。」(p74)

ここに、
「散文の訓練をするというのは大人になる訓練をすることなのだ」とあります。

ところで、ねじめ正一著「荒地の恋」(文藝春秋)という新刊。
詩人の北村太郎・田村隆一が登場しておりました。
最初の方をパラパラとめくっていると、こんな箇所。
それは詩人・田村隆一が明子夫人と出合った頃のことでした。

「『会って二回目。新宿の道草ってバーを出たときに、パッとこう振り返ってね。【僕と死ぬまで付き合ってくれませんか】って』殺し文句である。田村の詩も、田村という人間も、もしかしたら田村の人生も、殺し文句で出来上がっている。そしてまた、殺し文句の詩人は女を殺すだけで愛さないのだった。・・・・殺し文句の詩人が大切にしているのは言葉だけである。言葉に較べたら、自分すらどうでもいいのである。」(p22)

これだけじゃ、田村隆一の詩を知らない人には、つまらないかもしれないですね。ということで、あらためて田村隆一の詩「四千の日と夜」を引用してみます。


  一篇の詩が生まれるためには、
  われわれは殺さなければならない
  多くのものを殺さなければならない
  多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ

  見よ、
  四千の日と夜の空から
  一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
  四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を
  われわれは射殺した

  ・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・

  一篇の詩を生むためには、
  われわれはいとしいものを殺さなければならない
  これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
  われわれはその道を行かなければならない



殺して生まれる詩と、詩殺しの散文と、
なんだか秋の怪談話みたいになりました。
詩と散文。あなたなら、どちらに軍配をあげますか?
それとも、片方を殺すのはしのびない?
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