和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

講談の魅力と『プロジェクトX』

2024-04-14 | 古典
きさらさんから、コメントをいただき、あらためて
初回の新プロジェクトXを、取上げたくなりました。

新番組は東京スカイツリーから始まっていました。
思い浮かんだのは、幸田露伴著『五重塔』でした。

そういえばと『幸田露伴の世界』(思文閣出版・2009年)をひらくと、
すっかり忘れてたのですが、佐伯順子さんがとりあげておられました。
「 『五重塔』という『プロジェクトX』ー前進座『五重塔』と・・ 」
というのが題名です。

はい。今回はこの佐伯さんの文を紹介したくなりました。
ここで、はじまりに佐伯さんは目的を掲げておりました。

「 今回の考察の目的は、主に三つあります。
  一つめは、明治文学の昭和・平成期における受容、
  二つ目は、小説と舞台の比較、
  三つ目は、文学と社会との相関関係です。    」(p124) 

うん。端折っていきます。
はじめには今までの舞台公演の回数が一覧できるようになっていました。
つぎに、

「露伴の原作『五重塔』のプロットの特徴は・・・この物語は
 現代風にいえば、建築コンペの話という見方もできるかも 」(p127)

肝心な箇所はここかなあ。と思えるのを少し長く引用。

「・・・建築家の名前は残るけれど、
 現場で力仕事に携わる土木マンの固有名詞は普通残らない。
 ・・・そもそも、名を残したいという意識が希薄です。
 
 けれど、その≪ 無名 ≫の現場の人々にスポットをあて、
 固有名詞として物語化してメディアにのせたのが『 プロジェクトX 』であり、 
 それと共鳴する舞台『 五重塔 』は、いわば無名の土木マンの
 集合名詞のような形で十兵衛(露伴の五重塔の主人公)という
 キャラクターを突出させたといえないでしょうか。

『 社史や資料を見ても、事業の規模や開発のプロセスはわかっても、
  個人がどの場面に取り組んだとか、まして、
  ≪ どのような思いを抱いて取り組んだ ≫ 
  といった記録はほとんど残されてい 』ないので、

『 著名人が登場しない地味な番組 』でも、
『 一般人が歩いた軌跡を追う 』ことを意図したという
『 プロジェクトX 』は、
 高度成長期を支えた多くの≪ 十兵衛たち ≫に光をあてたのです。

 この舞台が『全国の建築関係者』に
 共感されるのも自然ななりゆきかと思われます。 」(p152~153)

はい。ひきつづき引用をしておきます。

「 一時期、教科書にも採用されていた露伴の『五重塔』は、
  明治の文明開化期以降の日本の近代化、さらには、
  戦後の日本社会の成長の原動力となったメンタリティを体現しており、

  それゆえに、名作として評価され、舞台化でも好評を博して
  現在にいたっています。

  私自身、日本文学の講師として勤めた最初の職場で、
  一回生向けの基礎ゼミで『五重塔』を講読し、
  その流れるような文体の妙に魅せられました。

  また、私利私欲をのり越えて同じ仕事をまっとうしようとする源太や、
  職人肌の十兵衛の人物造型も巧みで、名作であるには違いないと思います。
  特に暴風雨の場面は、講読すると圧倒的なリズム感でとても感動的です。

  『プロジェクトX』の、田口トモロオさんのナレーションや
  中島みゆきのテーマ音楽が人気になりましたが、形式は違えど、
  耳に訴える感動話という意味では、現代の講談ともいえます。

  特に前進座の舞台は、原作中の登場人物の格差や
  ジェンダー・ステレオタイプを視聴覚的な形で
  より印象づけ、感動的なアーキタイプに近づけて、
 『 五重塔 』の名作としての普及に貢献したといえます。

  アーキタイプの造型は舞台という芸術形式自体の傾向でもありますが、
  幅広い層に≪ 名作 ≫として支持されるに欠かせない条件ともいえます。
  ・・・・・・・・・      」  ( ~p153)





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職人の古典落語。

2023-11-27 | 古典
『職人』について、どんな本を読んだらよいか?
そういえば、と思い浮かんだのは、
臼井史朗著「疾風時代の編集者日記」(淡交社・2002年)
のこの箇所でした(日記から人物を抜き出して構成された一冊)。

「 昭和41年10月30日
  久しぶりのいい日曜日、書斎にこもって仕事をする。
  何もしないで時間をついやすことはいいことだ。

  吉田光邦氏『日本の職人像』は非常に面白い力作だと思った。

  平安から現代までいわゆる職人というものが
  どのような歩みを続けて来たか、
  時代の移りかわりの中にあってどのような社会的位置にあって
  それぞれの職人気質を形成して来たかを面白く系統的に書いている。
  名著だと思った。・・・ 」(p87)


はい。今朝になって『日本の古本屋』へとネット注文することに。
とりあえず吉田光邦著「日本の職人」(角川選書)が手許にある。
そこから、それらしい、面白そうな箇所を引用。

「 さて彼ら職人といえば、それは威勢がよく、
  気っぷもよく、宵越しの金は使わねえなどと
  巻舌でまくしたてるいきな兄(あん)ちゃんで、
  また一面には職人気質というようにこり性で、
  シニカルで意地っぱりな者と、今日では相場がきまっているようだ。

  だがほんとうに江戸時代の職人はそんなに元気なものだったろうか。
  成程地方の村や小さな町に渡ってくる職人は、明るい元気な楽天的
  な者だったらしい。しかし大都会の職人は、どれも貧しいちいさな
  九尺二間の長屋住居の者ばかりだった。

 『宵越しの金はもたねえ』というのも一日一人扶持の、
  その日暮しの貧しさを表現することばであった。
  職人は貧しいままに社会の下積みの存在であった。

 『 何事もワザを好くいたしたく候はば、
   心のむさきことなきように是第一なり。
 
   細工人は一生貧なるものと心得、
   つねに心のよごれぬようにいたしたく候 』

  と金工土屋東雨は語っている。
  一生貧なるものと心得ねばならぬのが職人であった。
  ・・・・                       」(p275)

「 ・・・・人気をあつめ同情をあつめる主人公となるのは、
  まず商に属する類の人たちであった。

  そこで職人たちはせいぜい落語、軽口のテーマ
  となるより仕方がなかった。

  天明のころの名高い落語家江戸の烏亭焉馬
  (うていえんば)はもともと大工だったし、
  三笑亭可楽は櫛工という風であったほどで、

  長屋住いの庶民の娯楽はそうした同じ類の
  人々からつくり出されたのである。

  そこで落語の主人公はことごとく、いわゆる
  九尺二間の裏長屋の住人であり、その家主で
  ありその地の地主たちということになった。  」(p276)


はい。これがさわりの箇所となります。
古本が届くのが待ち遠しくなりました。

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徒然草の第141段。

2023-10-27 | 古典
西尾実著「つれづれ草文学の世界」(法政大学出版局・1964年)。
この注文してあった古本が届く。
雑誌や論文集に発表された22篇をまとめた一冊でした。
はじまりが昭和2年の文ですが、最初から読む気にならなくて、
まず開いたのは、戦後はじめての論文
「ひとつの中世的人間像」(昭和25年2月号「文学」)でした。

そのはじまりはというと、

「『つれづれ草』が、中世文学の一作品としてすぐれているひとつは、
 著者の人間把握の確かさに応じて、史上の、また、同時代の、
 さまざまな人間を把え、みごとな造型をしていることである。・・」(p109)

はい。この文でとりあげてるのは、堯蓮上人(第141段)でした。
うん。端折って引用してゆきます。

「堯蓮上人の印象について、『声うちゆがみ、あらあらしくて』
 とあるのを見ると、いかにも、坂東武者らしい風貌が髣髴される。」

うん。この第141段を紹介するのには、
安良岡康作著「徒然草全注釈下巻」(角川書店)から引用してみます。

「本段の前半は、上人の郷里の人が、

 『吾妻(あづま)人こそ、言ひつる事は頼まるれ、
  都の人は、ことうけのみよくて、実なし』

 と言ったのに対する、上人の吾妻人と都の人との比較論であるが、

 まず『 それはさこそおぼすらめども 』と一応相手の言を認めた上で、
 『己れは都に久しく住みて、馴れて見侍るに』と、
 自己の長い間の経験と観察とに立脚し、
 『人の心劣れりとは思ひ侍らず』と、都の人を認め、その理由として、
 『なべて心柔かに、情ある故に、人のいふほどの事、
  けやけく否び難くて、万え言ひ放たず、心弱くことうけしつ』と述べて、

 都の人の心情の柔和さ・人情ぶかさを第一に指摘している。次には、
 『偽りせんとは思はねど、乏しく、叶わぬ人のみあれば、
  おのづから、本意通らぬ事多かるべし』と述べ、
 経済力の伴わないことが、約束を守りぬけない因由であることを指摘し、
 内・外から都の人の立場を理解し、弁護しているのである。
 ・・・  」

 このあとに、兼好の感想が述べられてゆくのですが、
 長くなるのでカットして、
 西尾実氏の文の重要な箇所の引用をすることに。

「古代から中世へと時代を転換させたのは、
 主として庶民的な、また、地方的なエネルギーであったに違いないが、
 その庶民や地方の社会的、文化的未成熟は、自主的な庶民社会を実現
 することもできなければ、健康な地方的文化を発展させることもできなかった。
 ・・・・・・

 だが、そういう中世文化は、
 基本的にいうと、ふたつの構造を示している。

 ひとつは、『つれづれ草』のこの人間像が示しているように、
 地方的、庶民的なものと、都市的、貴族的なものとの緊張した対立が
 生んだ止揚的発展であり、

 ひとつは、・・『義経記』や『曽我物語』における牛若丸や曽我兄弟が 
 貴族の公達化し、さらに、遊治郎化してさえいることの上に看取せられる
 ような、庶民的、地方的なものの貴族的、都市的なものへの
 安易な妥協であり、安価な屈伏である・・・・

 そのそれぞれの関係には、
 緊張した対立の止揚発展による新しい価値の創造もあれば、また、
 安易な妥協による成り上がり・頽廃もあるということになる。・・」(p114)

 こうして、西尾実氏が書かれた徒然草のことを思っていると、
 昭和25年の戦後統治下のことがダブって思い浮かぶのでした。

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徒然草の第39段

2023-10-21 | 古典
徒然草は、ちくま学芸文庫の島内裕子訳・校訂「徒然草」(2010年)を
パラパラと現代語訳を通読したくらいのものでした。
それもすっかり忘れてしまっていて、
どなたかが、徒然草の一節を引用してくださっていたりすると、
あれ、そんなのあったけかなあ、ともう一度めくりなおしてみたりします。

それでも、何だか気になっているせいか、本の題名に徒然草とあると、
それが古本でしたら、つい買ってしまうことがあります。
最近は、生形貴重著「利休の逸話と徒然草」(河原書店・平成13年)
というのがあり、買いました。はい。読みましたと言わないのがミソ。

親鸞の「歎異抄」がらみで、読み直した徒然草の第39段が、
にわかに興味をひき、あらためてそこだけに注目してみたら、

島内裕子著「兼好 露もわが身も置きどころなし」(ミネルヴァ書房・2005年)
が興味をひきました。
島内さんは、その前の第38段からのつながりを重視しております。
ここには、島内さんが説明している第38段を紹介することに。

「第38段には、兼好の精神の危機がはっきりと表れている。
 ・・・書物からの知識の限界性が露呈し、人生いかに生きるべきか
 がわからなくなってしまった八方ふさがりの状況に彼は立たされて
 いるのである。」

このあとに、島内さんはこう指摘されておりました。

「徒然草の冒頭部から窺われる兼好は、
 この世の理想と現実の越えがたいギャップに悩み、
 自分自身の置かれた貴族社会での位置付けに息苦しさを感じる
 一人の孤独な青年である。その苦悩が書物の中に理想を見出し、
 すぐれた表現力を獲得させるという成果を兼好にもたらした。

 ところがその成果が、今度は限りなく彼の精神の呪縛となってくるのである。
 そのことに、まだ本人は気づいていない。
 その顚倒したありさまを描き出しているのが、第38段である。」(p192)

うん。もうすこし、島内さんの語る第38段を聞いていたくなります。

「第38段は一読すると格調高い文体なので、自信をもって兼好が
 世俗の人々に教訓を垂れているような印象を受けるかも知れない。

 だがこれを書いた時の兼好は、そのような余裕のある精神状況ではない。
 それどころか、いったい何を人生の目標とすべきかわからなくなって、 
『 精神の袋小路 』に陥っているのだ。

 世間の人々が現実社会の中で求める目標や価値観は、
 兼好が身に付けている広く深い知識と教養によって、
 やすやすと否定されてしまう。しかしすべてを否定し去った後に、

 兼好が踏み出すべき第一歩は、いったいどこに存在するのか。
 しかも『 伝へて聞き、学びて知るのは、まことの智にあらず 』
 とはっきり書いているにもかかわらず、
 ここで兼好が世間の価値観を否定する根拠とした言葉は、
 すべて兼好が文字通り『伝へて聞き、学びて知』った言葉や思想ではないか。
 これが矛盾でなくて何であろう。・・・・

 兼好が身に付けてきた書物からの知識と教養は、
 遂にこのような荒涼たる精神の荒野に彼を連れてきてしまった。・・

 徒然草をここで擱筆(かくひつ)してもおかしくないほど、
 兼好は断崖絶壁に立たされている。 」(p196~197)

この後に法然上人が登場する第39段がひかえておりました。
島内さんはつづけます。

「結果的には、ここで徒然草が中断することはなかった。
 徒然草は荒野ではなく、その後の日本文学の肥沃な土壌として、
 生き生きと蘇った。
 
 第39段以後の徒然草が書かれたことによって、
 どれほど豊饒な文学風景が私たちの目の前に広がったことだろう。」(~p198)

はい。その蘇りの地点に、法然の登場する第39段が位置していたのでした。

島内さんは、第38段をこうして説明したあとに、
その割には、サラリと第39段を通り過ぎてゆきます。

はい。次回は、別の方の説明を聞くことにします。

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76歳の、親鸞と増谷文雄。

2023-10-16 | 古典
筑摩書房の「日本の思想3 親鸞集」を編集した
増谷文雄氏のことが気になる。
はい。親鸞集は読み進めていない癖して、脱線します。

増谷 文雄 (ますたに ふみお、 1902年 2月16日 - 1987年 12月6日)。

「増谷文雄著作集11」(角川書店・昭和57年)のはじまりは
「道元を見詰めて」でした。そのはじめのページを引用。

「わたしは浄土宗の寺に生まれたものであるから、
 従来の宗見にしたがっていうなれば、道元禅師、
 もしくはその流れを汲む曹洞宗門にたいしては、
 あきらかに門外の漢である。

 だが、門外にありながらも、
 わたしはたえず道元禅師を見詰めてきた。・・・

 いったい、わが国の生んだすぐれた仏教者たちのなかにあって、
 今日すでに宗門の枠をとおく越えて、その徳を慕い、あるいは、
 その思想と実践を研究するということのおこなわれている仏教者
 としては、親鸞聖人と、そして道元禅師とをあげることができる。
 ・・・・   」(p11)

はい。このようにはじまっておりました。
私は講談社学術文庫の増谷文雄全訳注「正法眼蔵」全八巻を
持っているのですが、いまだ数冊をパラパラめくりの初心者。

増谷氏は、親鸞が「浄土和讃」と「浄土高僧和讃」とを
成立させたのが76歳の春のことと指摘されておりました。

そういえばと、講談社学術文庫の「正法眼蔵(一)」の
はじまりには、増谷松樹の「刊行に当たって」という文。
そのはじまりを引用することに。

「四半世紀ほど前のことである。
 父、増谷文雄が、カナダに住んでいる私を、はるばる訪ねてきた。

 私は驚いた。父の生活の中心は著述で、仕事に行く以外には、
 机の前に正座して原稿を書いているもの。そして
 それは絶対に犯しがたいもの、と思っていたからである。

 その時、父は76歳、畢生の力をふりしぼった
 『 正法眼蔵 』を完成したところであった。

 父は原始仏教と日本仏教の双方を研究しており、
 多くの解説書や研究書があるが、最後の仕事は現代語訳であった。

 仏教を現代人のものとすることを、課題としたからである。・・・ 」


なんてこった。そういう方がおられるのに、その方の本を持っているのに、
ちっともはかどらず、読み進めていない私がこうして、ここにおります。
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かたければ。なおかたし。

2023-10-14 | 古典
親鸞の「浄土和讃」の19には、こうありました。( p106 )
 左は親鸞の「浄土和讃」で、右が増谷氏の現代語訳です。

     親鸞              現代語訳(増谷文雄)

  善知識にあふことも          よき師にあうはかたきかな
  をしふることもまたかたし       おしえることもかたきかな
  よくきくこともかたければ       よく聞くこともかたければ
  行(ぎょう)ずることもなほかたし   念仏するはなおかたし


編集増谷文雄の 「日本の思想3 親鸞集」(筑摩書房・1968年)
の最初には、増谷氏による「解説 親鸞の思想」が載っております。
そのp3~p7までを読んでいると、私は、もうこれで満腹の気分になります。
うん。その満腹感の正体を味わいたいと思い、引用してみます。

「この『親鸞集』のなかでその全訳をこころみておいた『三帖和讃』
 すなわち、『浄土和讃』『浄土高僧和讃』・・『正像末法和讃』の
 三部作に着手したのも、関東での伝道をおえて、京都に帰ってから
 十年も経ってからのこと。もっと正確にいえば、

 『浄土和讃』と『浄土高僧和讃』が成立したのは、その76歳の春のこと。
 『正像末法和讃』をしたためおわったのは、もう86歳の秋のおわり・・。」
                             ( p3 )

親鸞は「90歳という稀なる長寿を享(う)けた人であった。」(p7)
歎異抄はというと、「その時、その人は、
 すでに83歳もしくは4歳の老いたる親鸞であった筈である。」(p6)

「たとえば、わたし(増谷文雄)は『歎異抄』の第二段がすきであって、
 親鸞の人となりを思うときには、よくその叙述を思いうかべる。 」(p5)

「『 おのおの方が、はるばる十余ヵ国の境をこえ、
   身命をかえりみずして、訪ねてこられた志は、
   ただひとつ往生極楽の道を質(ただ)し聞こうがためである。

   だが、もし、わたしが、念仏のほかに、
   往生の道をも存じていよう、また、
   経のことばなども知っていようと、
   いかにも奥ゆかしげに思っていられるのなら、
   それは大きなあやまりである。』 (現代語訳)

 ・・・・・ その詰めよる人々をまえにして、親鸞のいったことは・・

 『 わたくし親鸞においては、
   ただ念仏を申して弥陀にたすけていただくがよいと、
   
   よきひと(法然)のおおせをいただいて信ずるだけであって、
   そのほかにはなんのいわれもない 』

 ・・・もしも、そのほかに、いろいろの理屈や経のことば
 などが知りたいというのなら、

 『 奈良や比叡にはご立派な学者がたくさんおられるから、
   あの人たちに会われて、往生のかなめをよくよく聞かれるがよい 』
   ということであった。   」( p5 )


はい。ここまで引用したのですから、これでいいのでしょうが、
ここまで引用したのですから、もうちょっとつづけておきます。

「 そこで、彼らは、たがいに顔を見合わせながら、
 『 では、念仏だけできっと浄土に生れることができるのですねえ 』
  と念をおしたにちがいない。

  その時、親鸞が、いささかキッとした面持ちでいったことばは、
  こうであった。

 『 念仏は、ほんとうに浄土に生れるたねであろうやら、
   それとも、地獄におちる業(ごう)であろうやら、
   わたしはまったく知らないのである。

   たとい法然聖人にだまされて、念仏を申して
   地獄におちたからとて、けっして後悔するところはない。

   というのは、ほかの修行にでもはげんで、仏になれるというものが、
   念仏を申して地獄におちたのなら、だまされたという後悔もあろうが、

   なにひとつ修行もできぬこの身のことだから、
   どうせ、地獄ゆきにきまっているではないか 』(現代語訳)

 そこに読みとられるものは、
 印象の鮮明のかぎりをつくした念仏者、親鸞の人間像である・・・ 」
                      ( p5 ~ p6 )
  






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『煩悩を断ぜずして』親鸞

2023-10-12 | 古典
筑摩書房の「日本の思想3 親鸞集」(編集:増谷文雄・1968年)は、
親鸞への格好の水先案内書となっていて、なんともありがたいのでした。

たとえば、はじめに「正信念仏偈」をもってきております。
それについては、こういう指摘をされておりました。

「親鸞の主著は『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』、
 つぶさには『顕浄土真実教行証文類』である。

 ・・『文類』とは、諸経の要文を抜萃し編集したものをいう
 ことばであって、この著もまた、念仏のおしえに関する要文
 を抜きあつめ、その領解と讃嘆のためにしたものであって、
 その故にこそ後世この著をもって浄土真宗の根本聖典とするのである。」

 このあとに、増谷氏はこう書いておられます。

「その著をそのままここに採りあげなかったのはほかでもない。
 それら諸経の要文の羅列は、かならずしもそのまま
 親鸞の思想とはいいがたいからであり、むしろ、より重要なのは、

 それらを親鸞がいかに領解し、いかに讃嘆して、
 自己の思想を形成したかということでなければならない。

 しかるに、親鸞は、筆をすすめて『行巻』の末尾にいたり、
 ふかい領解とあふれる法悦とを結んで、百二十句にわたる韻文を
 つらねている。題して『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)』という。

 わたしがいまここに、親鸞の思想と信仰の骨格として、
 まず採りあげようとするものはそれである。・・・・    」(p38)


このあとに、『正信念仏偈』が7ページにわたって載っております。
ページの上半分には、原文に句読点をほどこし、
ページの下半分には、増谷文雄氏による現代語訳。

はい。数行ごとに、現代語訳をみていると、
私なりに魅かれる箇所がありましたので、そこを引用。
まずは、原文。そして現代語訳

 五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。
 よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。

 けがれおおき悪しき代に生をうけしもろびとたちは、
 釈迦牟尼如来のまことなることばを信ずべし。
 よく一念、本願をよろこぶ心の発(おこ)らんには、
 煩悩を断つことなくして、よく涅槃をうるなり。


そこから6行あとには、こんな箇所。

 譬へば日光の雲霧に覆はるれども、
 雲霧の下、明らかにして闇(くら)きなきがごとし。

 たとえば日の光の、雲と霧に覆わるれども、
 雲と霧のしたは、なお明るくして闇からざるがごとし。(p40)


うん。ここも分かりやすかったと思えた3行を最後に引用。

 我もまたかの摂取の中にあれども、
 煩悩眼(まなこ)を障(さへ)て見ずといへども、
 大悲倦(ものう)きことなく常に我を照らしたまふといへり。

 われもまたかの仏の救済の御手のなかにありながら、
 煩悩まなこを障(さ)えて見ることを得ずといえども、
 大悲はものうきことなく、つねにわれを照したもうといえり。 (p44)


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人生の幸福度と年齢。

2023-10-03 | 古典
花田紀凱・和田秀樹「70歳からが本物の成長期」(サンマーク出版・2023年)
この本の「はじめに」にこうあります。

「本書は、伝説的な雑誌編集者で、80歳を過ぎた現在でも
 編集長を続けられる花田紀凱(かずよし)さんとの何回
 にもわたる対談をまとめたものです。

 ・・・80歳をすぎた花田さんには、年をとるほど不幸という
 巷(ちまた)の思い込みは嘘ではないか、自分はむしろ幸せ
 を感じているとおっしゃるのです。

 私も、年をとることで幸せを感じている人が大勢いることは知っています。

 それは、花田さんのように現役で充実した仕事ができるひとに
 限ったことではありません。・・・

 たとえば、アメリカのダートマス大学の経済学者、デービッド・
 ブランチフラワー教授が世界132か国の人を対象に、
 人生の幸福度と年齢の関係を調べた調査では、
 世界中のどこの国でも、歳をとるほど幸福度が増し、
『 日本人の幸福度のピークは82歳以上 』というのです。

 この研究は、私が長年高齢者を診てきた肌感覚に合うものです。

 そもそも高齢で幸せを感じている人からじっくり話を聞く
 というのは大切なことだと思っていたので、花田さんは適任者。・・」
                    ( p1~2 )

うん。花田さんはいいや。
私が気になるのは、親鸞。

法然が69歳の時に、親鸞(29歳)がはじめて会います。
その出会いについて増谷文雄氏は対談でこうかたっておりました。

「とくに大事なことは法然が『選択集』を書いたあとだということですね。
 法然はもうぼつぼつ自分は死ぬるからというのであれを書いています。
 
 だから法然の門下の中では、年次で申しますとごく終りのほうでございます。
 ・・・『選択集』を書いた以後にびしっと厳しくなっております。
 そのときに(親鸞が)飛び込んでおります。

 それからご存知のように数年して越後に流されました・・・
 ・・・・・

 やがてまた京都に帰られますね。ところが
 京都に帰りましてからぽつぽつ仕事を始めますのは
 七十を半ばすぎてから、そこでもスロー・スターターです。
 なにか私は、牛のごとき人という感じがするのですよ。・・

 その代り、歩き始めると大地をとどろかせてぐんぐん押しつめていく。
 親鸞という人はそういう性格の人だったのじゃないかと、
 そんな感じがするのです。 」

以上は、筑摩書房「親鸞集 日本の思想3」の付録の冊子
「対談 野間宏・増谷文雄」(p3)から引用しました。

この対談のはじまりを増谷氏はこうはじめております。

「親鸞の文章は、むずかしい字もたくさん使っていますけれども、
 晩年のものはわりあい現代人にわかりやすいのじゃないかと思われます。

 その文章を訳しておりますと、描いている世界は
 現代の世界と違うけれども、なにか現代に通う
 ものがあるような気がするのですね。

 この人のものはそのまま私たちに通じるのじゃないかと、
 そのとき私は思わざるを得なかったのです。 」


うん。これでこの『親鸞集』。もうすこし読み続けられそうです。
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『歎異抄』の月。

2023-10-01 | 古典
せっかくなので、読んだこともなかった歎異抄を
現代語訳で読む。はい。短いし現代語訳ならスラスラ読めそう。

真継信彦現代語訳の歎異抄をめくっていると、
でてきました『月』。

はい。まずは現代語訳で、その箇所

「 私たちは戒律を守れず、経典を理解する力もない。
  しかし弥陀の願いの船に乗って生死(しょうじ)の苦海をわたり、

  報土の岸につけば煩悩の黒雲はすみやかに晴れ、
  法性(ほっしょう)のさとりの月がたちまちあらわれて、

 十方を照らしつくす無礙(むげ)の光明と一つになり、
 一切の衆生を利益(りやく)できるようになる。
 そうなってこそさとりと言えよう。   」
  ( p24 「親鸞全集5 真継伸彦現代語訳」法蔵館・昭和57年)


はい。現代語訳でやっと読んだ『歎異抄』。
それではこの引用した箇所の原文はどうなっているのか。
岩波文庫をひらいてみることに

「 いかにいはんや、戒行慧解(かいぎょうえげ)ともになしといへども、
  弥陀の願船に乗じて生死の苦海をわたり、
  
  報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、
  法性(ほつしやう)の覚月(かくげつ)すみやかにあらはれて、

  尽(じん)十方の無礙(むげ)の光明に一味にして、
  一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはさふらへ。 」

       ( p75 「歎異抄」金子大栄校注・ワイド版岩波文庫  )

  
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願いごとを祝い事にして

2023-09-19 | 古典
伊藤唯真著「未知へのやすらぎ〈阿弥陀〉」(佼成出版社・昭和54年)。
そこに「迎講」と題する箇所があり、何だか私には印象深い箇所でした。

「今昔物語集」「沙石集」「述懐抄」などから引用されているのですが、
ここには、「沙石集」からの引用箇所をとりあげてみます。

「・・この上人は、世間の人が正月はじめに
 願いごとを祝い事にしている習いに従って、
 大晦日の夜、使っている小法師に書状をもたせ、

 『 明日元旦に門をたたいて物申せ、
   自分がどこからきたかを問うから、

   極楽よりきた、阿弥陀仏のお使だ、
   阿弥陀からの文があるといって、
   この書状をわたしに与えよ   』

 といいつけて仏堂へ遣った。
 さて元日となり、教えたとおり
 小法師に仏堂から来させ、門をたたかせ、
 しめしあわせたとおり問答した。

 上人は裸足で飛び出て、小法師がさし出す書状を頂戴し読んだ。
 それには

   娑婆世界ハ衆苦充満ノ国也、
   ハヤク厭離シテ、念仏修善勤行シテ、
   我国ニ来ルベシ、我聖衆ト共ニ来迎スベシ

 と書かれ、上人は涙を流しつつ、これを読んだのであった。
 かくすること毎年であったという。

 さて『沙石集』は、この元旦の奇特な行為に感心した国司が、
 迎講を修したいという上人の願いを聞き、
 仏菩薩の装束を整えさせ、かくて『聖衆来迎ノ儀式年久ク』、上人は
『思ノ如ク臨終モ、誠ニ聖衆ノ来迎ニ預テ、目出ク往生ノ本意ヲトゲ』た
 と述べている。

 そして、これが丹後国の迎講のはじまりであり、
 天の橋立で始めたとも伝えていると書いている。 」(p195~196)
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愛読された「往生要集」

2023-09-16 | 古典
鴨長明の方丈の家に置かれたとある「往生要集」を
いつか読んでみたいとは思っておりました。

はい。思うだけで、読まない(笑)。
あれ、これは絶好の道案内になるのじゃないか。
という本がありました。
伊藤唯真著「日本人の信仰阿弥陀 未知へのやすらぎ」
(佼成出版社・昭和54年)。はい。古本で500円でした。

第四章にでてきました。『往生要集』

「『往生要集』全三巻は・・・十章からなり、
 各章はさらに幾つかの節に分かれている。

 そのうち、人びとの心を捉えて離さなかったのは、
 鮮やかな対比をなして接しあう『厭離穢土(おんりえど)』と
 『欣求浄土(ごんぐじょうど)』の二章であった。

 仏教を感覚的に受容しがちな当代の人士に
 最も影響の大きかった部分である。  」(p117)

「『往生要集』の真価はこの二章にのみ存するのではないが、
 純粋に教学的な箇所よりも、多くの人びとが影響を受けたのは
 感覚的に理解しやすい右の二章にあったことは確かである。

 そしてまた、人びとは称名念仏が往生の行として
 優位性をもっていることを教えられたのである。

 この書は、経論の要文を抄出、合糅してつくられているが、
 それらをリライトした源信の文章は鮮烈優美であり、
 所論の展開も卓越しているので、
 それ自体一個のすぐれた文学作品たるの観がある。

 『往生要集』が僧俗を問わず愛読され、その出現が
 王朝の人士の心奥に強い願生浄土の信仰を植えつける
 大きな機縁となったのも当然であった。   」(p120)


「・・・『栄花物語』には、『往生要集』の文をそのまま、
 あるいは取捨按配して利用した箇所が多い。
 『かの往生要集の文を思出づ』ともあって・・・  」(p125)

このあとの第五章は空也が登場しておりました。
そんなこんなで、『往生要集』が何だか身近に思えてきます。
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ただ一文、一句なりとも。

2023-09-10 | 古典
鴨長明「発心集」下巻(角川ソフィア文庫)をはじめて読んだのですが、
一読忘れがたい言葉になるのだろうなあ、そう感じる箇所がありました。

「全ての意味を理解し、一文毎に解釈せよといわれているのでもない。
 理解力が乏しく学がなくても卑下すべきでない。

 世間には師はたくさんいるので、長い年月お仕えせねば
 教えてもらえないという難しさもあるとは思えない。

 受持・読経・読誦・解説(げせつ)・書写の五種の
 修行法はそれぞれあるわけで、その中からで、
 好みに従って選べば良いのだ。

 もしも一偈一句であっても御縁を結び申し上げるというのであれば、
 それはやはり行い易い修行ではないか。

 ただ、習って読もうとしなければ、読経するまでには到らない。

 一偈一句を唱え申し上げるだけの人は信心が少なくて、
 仏説を疑い、見聞くところは深くとも、修行はわずか、
 ときっと、人目を恥じるに違いない。
 しかし、これはとても愚かなことだ。

 たった一文・一句であっても、
 渇いた時に水を飲むように、
 巡り会い難く聞き難い経だと思い、
 法華経と縁を結び奉るべきなのである。 」(p239~240 現代語訳)

とりあえず、この箇所を原文はどうなっているかと
ページをめくってみることに。

「・・文々解釈(もんもんげしゃく)せよとも説かず。
 鈍根無智なりとも卑下すべからず。

 世に師多ければ、千歳仕ふる煩ひもあるまじ。
 五種の行まちまちなり。

 行も好みにしたがひて、もしくは一喝、一句なりとも、
 縁を結び奉らんことは、さすがに易行(いぎょう)ぞかし。

 されど、習ひ読まねば、読までぞある。

 一偈を持(たも)ち奉る人は、これすなはち、信心は少なくて
 仏説を疑ひ、見聞は深くて微小の行と、人目を恥づるなるべし。
 これ、極めて愚かなることなり。

 ただ一文、一句なりとも、飢ゑたるに水を飲むが如く、
 遇(あ)ひがたく聞きがたき思ひをなして、縁を結び奉るべし。 」(p74)


ちなみに、p62にはこんな箇所もあるのでした。

「所行は宿執(しゅくじふ)によりて進む。
 みづからつとめて、執して、他の行そしるべからず。

 一華一香(いつけいつかう)、一文一句、
 みな西方に廻向せば、同じく往生の業(ごう)となるべし。

 水は溝をたづねて流る。さらに、草の露、木の汁を嫌ふことなし。
 善は心にしたがひて趣く。いづれの行か、広大の願海に入らざらんや。」
                          ( p62 )
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春日の神の後ろ姿。

2023-09-09 | 古典
はい。とりあえず鴨長明著「発心集」下巻の現代語訳を読みました。
一日数ページなので、時間ばかりかかりました。
うん。読みかえしてはいないのですが、上巻より下巻のほうが
私には楽しく味わえた気分です。

とりあえずは、一箇所引用。
『夢の中でそのお姿を拝すること度々』という箇所。

「永朝僧都は春日の社にいつも参籠していたが、
 神の感応があらたかで、夢の中でそのお姿を拝することが度々になった。

 しかし、後ろ姿ばかり見て、向かい合って下さることがないので、
 不本意で不思議に思い、特別思いを籠めてお祈り申し上げた。

 その時、夢の中で
 『 お前が恨むのはもっともだ。
   ただ、いとおしいと思うものの、
   全く私に後世のことを願わないので、
   お前と向かい合って見ることはできないのだ 』
 とおっしゃると見えた。

 末世の者たちの能力に合わせて、
 仮りに神として姿を現していらっしゃるが、本来のところでは
 衆生を教え導こうとのお志から発していることなので、
 現世のことばかりお祈り申し上げるのが、
 春日の神には不本意に思われたにちがいない。  」(p297)


まったくもって、現世の言葉ばかりを拾い集めようと期待し、
この『発心集』をめくってた私には手痛い指摘となりました。
下巻になって、ようやく私は見当違に気づかされたのでした。
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「発心集」届く。

2023-08-15 | 古典
注文した鴨長明著「新版発心集」上下(角川ソフィア文庫・2014年)届く。
浅見和彦・伊東玉美訳注となっております。もちろん古本。

東日本大震災の2011年に刊行されていた
浅見和彦校訂・訳の鴨長明著「方丈記」(ちくま学芸文庫)の
印象が鮮やかだったので、同じ浅見の名前があるこの文庫を注文しました。


「新版発心集」下の、浅見和彦氏の解説の最後にこうあります。

「『方丈記』には鴨長明の生涯のあらましが綴られている。
 それゆえ、『方丈記』は自伝的文学と評されることが多い。

 一方、この『発心集』には長明の情念が表出し、色濃くにじみ出ている。
 
 『方丈記』が長明の自伝的な作品だとすれば、この
 『発心集』は長明の自画像的な作品ということができるかもしれない。」
                       ( p339 )


はい。この興味深い本なのですが、本を手に入れると
それだけで満足してしまいやすい私ですので、まずは、
『発心集 序』の現代語訳からすこし引用し終ります。


「仏が教えて下さったことがある。
 『 心の師とはなるとも、心を師としてはいけない 』と。
 本当にその通りだ。・・・・・・・

 それゆえ、常に我が心ははかなく、愚かであるということを忘れないで、
 かの仏の教えにしたがい、心許すことなくし、迷いの世界を立ち離れ・・

 それはたとえていうなら、
 牧童が暴れ回る馬を連れて、遠い土地まで行くようなものである。
 ただ心には強弱もあり、また浅深もある。

 また一方、自らの心をおしはかるに、善に背くというわけでもない、
 また悪から遠ざかっているというわけでもない。

 まるで風に吹かれてなびきやすい草のようだ。あるいはまた、
 浪の上に映る月影の静まりにくいのと全く同じだ。

 いったいどのようにして、この愚かな心を教えさとしたらいいのだろうか。」
                 ( 上巻現代語訳 p248~249 )

さてっと、この本は、いったいどのようにして、私みたいな愚か者が、
本を放り投げる心を、教えさとし、読み続けさせてくれるのだろうか。
と今からワクワクしてくるのでした。
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狐は人にくいつくものなり。

2023-05-18 | 古典
「絵巻で見る・読む徒然草」(朝日新聞出版・2016年)は、
絵・海北友雪筆「徒然草絵巻」(サントリー美術館所蔵)
監修・島内裕子。訳・絵巻解説上野友愛。

うん。古本で買ってみました。残念。
絵巻がひとつひとつ全部見れるかと思ったのですが、違いました。
でも、現在手にできる海北友雪筆「徒然草絵巻」に違いありません。

最後の方に上野友愛氏による解説がありました。そのはじまりを引用。

「 『 小説はほとんど読まないが、マンガはよく読む 』
  という人は少なくない。それは、ストーリーによって
  ≪ 読む・読まない ≫を判断しているのではなく、

   文字がページを埋めつくす本よりも、
   絵を見て目で楽しめるマンガに親しみを感じている
   ことが大きな要因だろう。

   昔の人も、そのような絵の魅力に心惹かれていた。
   仏典のエピソードや子どもへの教訓話、
   摩訶不思議な伝説や町の噂話、そして
   美女と貴公子のロマンチックなラブストーリーなど、

   私たちの祖先は古くから物語を愛好し、そして、もっともっと
   物語の内容を楽しみたいという熱い愛によって、
   物語は早くから絵画化された。

   目から具体的なイメージを得ることによって、
   物語の世界はより身近になり、理解しやすいものになったのだ。

   なかでも、『源氏物語』ほど、絵画と深く結びつきながら
   享受され続けた古典はない。・・・・・・・

   文学愛好の享受史のなかで、物語だけでなく、
   随筆である『徒然草』の絵画化も例外ではない。・・・  」(p162)


はい。このようにはじまっているのですが、
かえすがえすも、この本では海北友雪筆『徒然草絵巻』の
絵巻全部の紹介でないのが、残念。

それはそうとして、マンガ徒然草へ焦点をあてると、
長谷川法世著「マンガ古典文学徒然草」(小学館文庫・2019年)
バロン吉元著「マンガ日本の古典 徒然草」(中公文庫・2000年)
が古本で簡単に手に入る。

こちらは、両方とも第243段まで、きちんと載せております。
たとえば、島内裕子校訂・訳「徒然草」(ちくま学芸文庫・2010年)
の全段を読み通せなくとも、マンガでなら通し読みが簡単可能です。

とりあえず、ご注意しておきたいのですが、
バロン吉元さんの絵には、大人マンガの要素が混じります。

両方に魅力はあります。バロン吉元さんの絵は、それこそ、
まとわりついてくる徒然草と切り合うような、大人の魅力があります。
長谷川法世さんの絵には、徒然草の世界そのままを、吞み込むような
ふところの深い法師像です(初めての方におススメなら、長谷川法世)。


はい。何はともあれ、徒然草の全243段とむきあい、
鳥瞰するのに、おススメのマンガとなっております。

その意味でも「絵巻で見る・読む徒然草」が全243段あるのに、
それを全部入れていないのが何とも残念だと思えてしまいます。

せっかくの海北友雪筆による「徒然草絵巻」の全体が
本としては全段見れないことはかえすがえすも寂しい。
全段あると、マンガとの比較が俄然面白くなるのになあ。
まあ、無いものネダリは、このくらいにして、

今回は一か所とりだしてみます。
徒然草の第218段「狐は人にくいつくものなり」を

長谷川法世さんは、3コマで表現しております。
1コマ目は、狐が飛びかかる形相で、左前足の爪をたて今にもの場面
「堀川家の御殿で舎人(とねり)が寝ていて狐に足を食われた。」
2コマ目は、夜の本堂が描かれ、その屋根の上に
「仁和寺では夜、本堂の前を通る下法師に狐が三匹飛びかかって食いついた。」
3コマ目、家の前で法師と三匹の狐の争う場面。
「 刀を抜いて防戦し、狐二匹を突いた。
  一匹は突き殺した。二匹は逃げて行った。
  法師は体中を噛まれたが無事だった。 」

バロン吉元氏の第218段も3コマで納めておりまして、
こちらは、法師の大立ち回りで、狐の首が二つ飛んでおりました。

海北友雪筆の徒然草絵巻の第218段の場面は一枚の絵。

黒色の着衣まま、横に倒れたような恰好の法師。
左腕は、狐の頭を手で地に押さえ
右足の裾から腿へと狐が噛みつき、
三匹目の狐が背後から右腕に噛みついている。
右手に小刀をもちながら法師は、その三匹目を
アッと驚きながらも見据えている。

はい。徒然草絵巻はカラーで、法師の装束の黒を中央に
三匹の狐の茶色が、火焔がおそいかかるかのような構図。


最後には、忘れずに徒然草第218段の原文を引用。

「 狐は、人に食い付く物なり。
  堀川殿にて、舎人が寝たる足を、狐に食はる。

  仁和寺にて、夜、本寺の前を通る下法師に、
  狐三つ、飛び掛かりて、食ひ付きければ、
  刀を抜きて、これを防ぐ間、狐二匹を突く。

  一つは、突き殺しぬ。二つは、逃げぬ。
  法師は、数多(あまた)所、食はれながら、
  事故(ことゆゑ)無かりけり。       」

          ( p418 「徒然草」ちくま学芸文庫 )









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