和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

茨木のり子の絵本

2024-05-14 | 絵・言葉
昨日は雨。午前中ちょいと用事があって館山市へ。ついでに、本屋へ。
新しくできていた古本屋『北条文庫』を尋ねる。
はじめて入りました。古本と新刊と、それに喫茶もあるみたい。
古本を3冊購入して帰る。その1冊の絵本を紹介してみたい。

茨木のり子作 山内ふじ江絵「貝の子プチキュー」(福音館書店・2006年6月)。
40ページで、サイズが29×31㎝。

最後には、こうありました。
「 この作品は、1948年茨木のり子が朗読のために書いた童話を絵本化したものである。
  ・・・・・今回の絵本づくりにあたり、文は大幅に書き直された。 」

う~ん。茨木のり子さんは2006年2月に死去とありますので、
ここは、どう読んだらよいのでしょう。
たとえば、「茨木のり子ご自身の手で、文は大幅に書き直された」と
あればすっきりとするのでしょうが、ちょっと引っかかります。
ごく自然に文面をたどれば、ご自身が書き直されたのでしょうね(笑)。

絵を描いた山内ふじ江さんのプロフィールの最後には
『 この絵本は、長い時間をかけて描かれ、心血を注いだ代表作といえる。 』
とあります。絵本として書き直された文をもとに、
時間をかけて描かれたというのが、絵本をひらくと、
ごく自然に、こちらへ伝わってくるのでした。


帰ってから、そのレシートを見たら
それは、買った本一冊一冊の書名が載ったレシートです。
ここは、最後にレシートそのままの紹介をして終ります。

       
  北条文庫
  千葉県館山市北条1625‐25      2024/05/13
  YANETATEYANA1F                                       11:25

      
    関東大震災の社会史        ¥1.300
    宮本常一とクジラ          ¥770
    貝の子プチキュー          ¥990

    合計               ¥3.060


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ボクモツイテル オヅヤスジロウ』

2023-12-29 | 絵・言葉
蛮友社の「小津安二郎 人と仕事」(昭和47年)。
この本は、弔辞などをふくむ追悼文集のようです。
いろいろな方の、追悼文が掲載されておりました。
せっかくひらいたのでパラリパラリとめくります。

笠智衆の名があるので、読んでみました。

「・・自他共に認められる『不器用』な俳優の私で、
 ・・それでも他の俳優さんのすることは、脇にいて見ていて、
 先生が『 もう一度 』と言うか、OKにするかがわかりました。
 しかし自分のこととなると、丸きりわからなくなるのでした。

 ・・・・・
 小津演出は、ハプニングは一切のぞまず、すべて先生の考えてある
 ものに従うわけで、完全な小津作品でした。そのかわり責任も
 先生が持ちました。
 ・・・小津先生の前だと、どうしても私は固くなってしまいました。
 手がふるえて、お銚子でお酌などするシバイの時、相手役の持つ盃
 にあたってカチャカチャと鳴って困りました。・・・ 」(p179)


うん。杉村春子も書いておりました。そちらも引用。

「・・一度先生に私をどうして使って下さったのですかと
 どうしてもききたくなって伺ってみました。そしたら
 稲垣先生の『手をつなぐ子等』をみて自然な芝居をする人
 だなと思ったからだとおっしゃいました。
 『晩春』『麦秋』『東京物語』とお仕事はつづいて、
 私は小津一家の一人のように言われて嬉しゅうございました。

 先生は私の生涯のいちばんつら時期、
 文学座再度の分裂があった頃お亡くなりになりました。

 その年のお正月、文学座に分裂があって約半数の退座が出た時、
 電報をいただきました。その電報には
『 オレガツイテル サトミトン ボクモツイテル オヅヤスジロウ 』
 とございました。・・それから間もなく御入院と、あとでききました。
 ・・・・     」(p229~230)

里見弴の弔辞(昭和38年12月16日)も載っています(p415)。

うん。ここには、今日出海の一回忌のスピーチの方が、内々の
気楽な親密さを語ってくれていて印象深いので引用してみます。

「佐田君の結婚式の日の話ですが、この仲人は小津君がやった。
 
 式後、私は赤坂の某所におりましたら、・・12時過ぎに
 別の座敷から『すぐ来て欲しい』と佐田君が電話をかけて来た。
 何事だろうと思ったら『小津さんが酔っぱらっている』という。

 ・・・行ってみますと、もうベロベロに酔っぱらってる。
 それをお酌しているのが佐田の新郎新婦だった。
 さっき結婚して、もう新婚旅行にでも行ったのかと思ったら、
 仲人のお酌をしている。そして仲人は
『 まあいいじゃねえか、いいじゃあねいか 』
 といいながら飲んでいる。

 ああいう独身の半端ものを仲人にすると、
 その間の事情がよく解らないものでこういう残酷なことをやるんだ。
 それで私が呼ばれた訳も解りまして、新郎新婦を無事にホテルに帰した。

 こういう風に、小津君は一筋の道を歩んだようですが、
 やはり一筋じゃ足りないんで、色々ご迷惑をかけていたに違いありません。
 ・・・・    」(p416)


うん。この引用で終わるのもなんですから、
やはり里見弴の弔辞を引用してしめくくることに。
小津君とはじまります。

「小津君。君は綺麗なもの、間違のないことしか相手にしなかったね。
 ねつい仕事ぶりで、自身納得がゆくまで押しまくった。
 
 ばばあは俺が飼育してゐるのだ、などと、
 始終ばばあ呼ばはりをしながら、こよなく母上を愛した。

 いつも滑稽諧謔の悠適を失はず、これを道化の精神と誇称した。
 ・・・・・・・・酔えばよく唄ひ、よく踊った。

  ・・・・・・・・・・・・

 俺は通俗作家だ、と自嘲めかして呟くことがあった。
 しかしこのことは、君にとってはもちろん、映画界はおろか、
 日本国にとっても、大層幸福(しあわせ)なことだった。
 さういふ作品がいつまでも残って行くのに、
 君自身は、急にこの地上から消え失せて了った。

 ・・・・毎回協同制作にあたってゐた野田高梧君の夫婦、
 親子同然の間柄なる佐田啓二君の一家、孫のやうに
 可愛いがった同家娘、貴恵ちゃん、君によって才能を伸ばされた
 幾多男女俳優諸君、叱言(こごと)と慈愛とを雨の如くに
 頭上から浴びせかけられた君のスタッフ・・の面々・・・

 そして最後に、一干支(ひとまわり)からも年齢の違ふ
 私まで置き去りにして・・・・・

 ひどい人だ。君は。ひとこと愚痴を零(こぼ)させて貰って、
 では、また会ふ日まで。小津君よ、さやうなら。      」(p415)

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不自然だと百も承知で。

2023-12-28 | 絵・言葉
BSで小津安二郎の「お早よう」と「秋刀魚の味」を
録画して観ました。

うん。今まで受けつけなかった小津映画が私に
ストンと腑に落ちる。年齢のせいかもしれない。
小津映画の鑑賞年齢にようやく近づいたのかも。

気になって、「小津安二郎 人と仕事」(蛮友社)をひらく。

映画「お早よう」について、ご本人の弁。

「『 芸術院賞を貰ったからマジメな映画を作った
   と言われるのもシャクだから・・・ 』
  とオナラの競争をする子供たちが登場する映画。

  しかし古くからあたためていた主題で、
  人間同士というものは、つまらないことをいつも言い合っているが、

  いざ大切なことを話し合おうとするとなかなか出来ない、
  そういうことを映画にしたかったのだと言う。  」(p636)

映画「お早よう」は、昭和34年封切り。小津安二郎56歳の作品。

昭和37年。小津59歳。「秋刀魚の味」封切。

「ここでも婚期の娘と、見送る父親の平凡な心情を、
 枯淡な芸風で描いて、そのたびに微妙な陰影のちがいを見せた。

 そして最後の作品となった。54作目である。
 そのうち27作の協力者であった野田高梧は
 『 これがオッちゃんの遺作では可哀そうだ 』と言った。」(p684~685)

学生時代の先生役で、戦後ラーメン屋をしているのが東野栄治郎で
今度見ると印象深かった。その娘を杉村春子。
岸田今日子も、岩下志麻も、スッと蓮が伸び咲いたようなすがすがしさ。

昭和38年。60歳。
    12月11日 容態悪化、すでに死相あらわれる。
    12月12日 満60歳誕生日、還暦の日、12時40分死去。腮源性癌腫。


「ぼくの信条」(「彼岸花」撮影中の座談会で)昭和33年

「 ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従がう。
  重大なことは道徳に従がう。芸術のことは自分に従がう。

  どうにもきらいなものは、どうにもならないんだ。
  これは不自然だと百も承知で、しかもぼくはきらいだ。
  そういうことはあるでしょう。

  理屈に合わないが、きらいだからやらない。
  こういうところからぼくの個性が出てくるので、ゆるがせにはできない。
  理屈に合わなくとも、ぼくは、そうやる。  」(p628~629)


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『 美 』の2割増し。

2023-12-16 | 絵・言葉
「藤森照信の特選美術館三昧」(TOTO出版・2004年)。
はい。わたしは3ページほどの『まえがき』で満腹。

そのはじまりと、さいごとを引用。

「日本の美術館は、世界的にみると、きわめて特異である。
 質のことはひとまず置いといて、量がちょっと変わっている。
 多いのだ。とにかく美術館の数が多い。・・・    」

なかごろには
「富が大衆化すれば文化も大衆化し、そして美が大衆化したのである。」

そして、そそくさと最後を引用。

「大衆化した美術館のこの先にはなにが待ち受けているのか。
 ・・・・・マイ美術館の時代だろう。・・・・

 かつてしかるべき家には茶室がついていたように、
 しかるべき家には小さな美術館、というか美術室が、
 縮めれば美室が設けられるようになる。

 茶室が美室としてよみがえるのである。
  当たるも八卦、当たらぬも八卦。    」

こうして目次をみると、27の美術館が見取り図と写真入りで紹介されております。ちなみに、私が行った美術館は、3~4館。

う~ん。目次に従ってひらくと、この箇所も引用したくなりました。
「天竜市立秋野不矩美術館」のはじまりの言葉。

「 美術館は建物と展示品のふたつの美からなる、
  という宿命を負わされている。

  美術好きの人は展示品だけで十分と考えているかもしれないが、
  それはちがいます。

  人は、ひとつのものを見つめるとき、かならず
  周囲の環境を無意識に感じ取りながら、見ている。

  壁の様子、落ちてくる光、隣り合う作品、足の下の床、
  天井の高さ、そして背後の空気。獲物を前にしたネコ科の
  動物(ヒョウなど)と基本的に変わらない。

  作品の美は、展示の空間によってそうとう印象が変わる。
  体験でいうと、2割くらい変わるんじゃないかと思う。  」(p232)


そうすると、展覧会のカタログだけ見てる私は、
いったい何割引きの、『美』を見てるのだろう。


 
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似顔絵師・南伸坊

2023-11-04 | 絵・言葉
津野海太郎著「かれが最後に書いた本」(新潮社・2022年3月)
その表紙カバーは、津野さんの似顔絵(装丁南伸坊)でした。

うん。似顔絵ということで、
松田哲夫著「縁もたけなわ」(小学館・2014年)をひらいてみる。
副題には「ぼくが編集者人生で出会った愉快な人たち」とある。

ほぼ56人が登場しておりました。
その人たち一人一人の、始まりのページに似顔絵があり、
絵本の絵だけを見でワクワクするようなそんな魅力です。

「 装丁・装画・本文イラスト 南伸坊 」とあります。

登場人物のはじまりは安野光雅さんで、
津野海太郎さんの登場する回の、イラスト(全部が白黒なのですが)には
「私(しんぼう)のマンガの主人公『ロボ』は実は津野さんがモデルです」 
                             ( p279 )

とあるのでした。この本に最後に登場するのが南伸坊さんでした。
そこから、引用しておくことに。

「ぼくの編集者人生も、40数年になる。振り返ってみると、
 あらゆる局面で、南伸坊さんにお世話になっていることがわかる。」(p367)

「・・彼(伸坊さん)は似顔絵を描くのは好きだったようだが、
 仕事で描くのも、たくさんの人を描くのも初めてだった。・・」(p368)

「登場人物は約650人になった。南さんの似顔絵は、
 73年の約250人から、75年には約450人・・ついに約600人に達した。

 これは、短時日で描く量ではない。
 でも南さんはめげることなく、毎日、100枚近い似顔絵を描いていた。

 ところが、どうしても似ない顔があるようで、
 彼は何枚も描き直しては、首を傾げていた。聞いてみると、
 美女やハンサムは特徴がないので書きづらいという。 」(p370)

はい。松田哲夫著「縁もたけなわ」の56人のイラストは、
それはもう、似顔絵の集大成といった味わいなのでした。

 
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旅絵師安野光雅。

2023-10-28 | 絵・言葉
安野光雅さんの対談は楽しく読みます。
けれど、安野さんの絵は、おぼろげで、
こちらの興味も何だかボヤケがちです。

安倍謹也対談集「歴史を読む」(人文書院・1990年)に
対談相手として安野さんが出てきておりました。
その対談の最後には、こんな箇所。

安野】 ・・ところが旅絵師というのは私みたいなもので、
    言われれば何でも描く。いわゆる雀百態ですよ。

阿部】 それが本当の絵師じゃないですか。

安野】 江戸時代まで、昔の概念の絵描きはそうだった。
    何でも描かなければならない。因果な商売ですよ。(笑) p119

この対談は、題して『中世の影』。
対談で興味深い箇所も引用しておきます。

安野】 阿部さんのご本を読むと、昔は文字はあまり重要視されていなくて、
    絵でいろんなことを伝えたとありますが、あれはどの時代までですか。
阿部】 どの時代までということはありません。今だってそうです。
    ・・・・・

阿部】 教会が主な舞台ですが、当時の教会の祈祷書を見ると、
    文字は中心にちょこっと書いてあるだけで、
    まわりに絵がいっぱい描いてある。・・・・・・・

    司祭の説教が教会に来た農民にはわからないんです。
    今、われわれがお坊さんのお経を聞いてもわかりませんが、
    あれと同じで、退屈して一時間もたないんです。

    その時に絵を見る。それで退屈をまぎらすと同時に、
    イエスの一生、つまり救済の歴史を教えるために、
    教会の周りの壁にゴルゴダの丘までの歴史を描く。

    だからコミュニケーションの手段として、
    絵は非常に大きな意味を持っていたんです。
    それから合唱、身振り、手振り、行進とかね。

安野】 そうすると、教会のお抱え絵師みたいな人がいるんですか。(~p118)


はい。このあとも、興味深い会話がつづき、そして最後に、
旅絵師の安野光雅というお話で、対談が終了するのでした。




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3冊

2023-10-24 | 絵・言葉
大矢鞆音著「画家たちの夏」(講談社・2001年)の
カバーの折り返しにあるところの著者略歴。
( ちなみに、カバーの絵は安野光雅 )
その最後に、

「・・2001年3月開館の津和野町立『安野光雅美術館』館長。」

とあったのでした。
うん。ここは『あとがき』から引用してみることに

「一人の編集者として、40年近く黒子の役割に徹してきて、
 今まさにその役割を終えようとするとき、はからずも
 この一書を書くことになった。・・・・・

 心惹かれる4人の画家と改めてじっくりと向き合い、そして
 『父との夏』で内側から見つづけた制作の現場を回想してみた。
 改めての父との対話である。・・・    」(p276~277)


そして、「絵の旅人 安野光雅」(ブックグローブ社・2021年)の中の
大矢鞆音「安野光雅『絵のまよい道』を読みながら」は、こうはじまって
おりました。

「随分昔、夏休みはいつも父とともにあった。
 日本画家だった父は、冷房もない夏の日の一日を
 背中いっぱい、びっしりの汗をかきながら、
 秋の展覧会めざして描き続けていた。・・・ 」

こうして始まる回想は、安野光雅さんの若い頃の
油彩作品の個展にまつわるアレコレへとつながっておりました。

うん。その次に、安野光雅著「絵のまよい道」を購入。
「絵のまよい道」は1998年7月発行とあります。
司馬遼太郎は、つい1996年2月に亡くなっております。

年譜を比べると、
司馬遼太郎は1923年8月生まれで、
安野光雅は、1926年3月生まれでした。

安野さんは早生まれですから、学年でいうと2学年違い。
安野さんが、司馬さんが亡くなると同じ72歳の年齢まで、
きゅうきょ連載され、それが一冊の本になったのでした。

あらためて、『絵のまよい道』をゆっくりとひらきます。
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画家の職業分野?

2023-10-17 | 絵・言葉
注文してあった古本が、今日の午後届く。その中の一冊
伊藤元雄編「絵の旅人 安野光雅」(ブックグローブ社・2021年)をひらく。

2020年12月24日に94歳で亡くなった安野光雅氏への追悼集でした。
パラリとひらいて読んだのは、
津和野安野光雅美術館館長・大矢鞆音氏の18ページにわたる文。
ご自身と、安野さんとの思い出が語られていきます。
うん。とりあえずは、この箇所を引用しておきたくなりました。

「安野さんとの付き合いが始まって35年が過ぎた。・・
 絵描きの何気ない日々の営みを話題にできることがうれしかった。・・
 若いころの個展の話があった。

『 毎年毎年、個展を開いた。自分で案内状をつくり、発送し、
  会場で一人ぽつんと来場者を待ち受ける。

  お客さんなんてほとんど来ない。
  それでも会期中は毎日詰めて、一人自分の絵と対峙する。

  そうすると、自ずと自分の絵のことがわかってくるし、
  見えてくる。そして来年はもっと良い絵を描こうと思う。
  終わると次の年に向けて必死に努力する 』。

 安野さんのこの個展は絵本画家としてのそれではなく、
 二紀会での油彩作品を描いていたころのことである。 」(p81)

この大矢鞆音氏の文には、こんな箇所もありました。

「安野さんの『絵のまよい道』は私にとって胸の奥に沈めていた
 感情を揺さぶるような、思わず涙してしまうような話が満載である。」(p83)

はい。さっそく、ネットで注文しました。ちなみに、
大矢氏の文の題は「安野光雅『絵のまよい道』を読みながら」とあります。

うん。そうだ、最後に、ここも引用しておかなければ。

「 小さいころから画家の職業分野を分けるとき、
  社会科の授業では、自由業と分けられる。・・・・

  安野さんは
 『 自由業は一生懸命やっても誉められない
   かわりに、怠けても叱られはしない。

   その自由のためなら、馬鹿にされても食えなくてもいい、
   という前提で絵描きという仕事がなりたっている、
   と思ったほうがいい。

   ある日、それが淋しくて、
  『 ああ、わたしは美神の使徒なのだ 』と、
   独りよがりに自分に言い聞かせてみるのは
   これもまた自由である 』と。      」(p86)
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『画家たちの夏』

2023-08-05 | 絵・言葉
大矢鞆音(ともね)著「画家たちの夏」講談社・2001年。
題名に惹れ、古本で安く買ってありました。
著者のサイン入りだった。装幀・安野光雅。

序章が「それぞれの夏」。
五章まで、各章一人、五人の画家がとりあげられております。

まずは、序章の最後の箇所を引用。

「戦後、多くの画家たちは生活の苦しさを抱えながらも、
 ともかく平和のなかで再び絵が描ける喜びを自分のものにしていた。
 絵を描くことがひたすら好きだった画家たちである。・・・・

 美術の秋ということばをよく耳にするが、
 画家たちにとっての戦いは、夏である。

 彼等は季節の夏を、人生の夏を、どのように生き、
 どのように描き、どのようにして死を受け入れたか。・・・ 」(p16)



第二章「大矢黄鶴 父との夏」は、鞆音氏の父親でした。
うん。この箇所を引用しておきたくなります。

「8月も終わりになるころ、いよいよ搬入の日が近づいてくる。
 作品のでき具合がよくても、悪くても、
 その〆切日には提出しなければならない。

 作品の完成というのは結局のところ、〆切日が完成の日ということになる。
 そのでき具合が自分の想いのなかばであっても、完成となる。

 結局のところ絵描きにとって完成などない、
 というのが父の仕事を見つづけての私の感想である。

 ・・・毎年毎年の夏の日々は私にとっても、じつに楽しかった。
 その作品がどう評価されようが、確実に父の戦いとして結果が残る。

 そしてその苦闘のさまが手にとるようにわかっていれば、
 他人の評価などどうでもよいではないか、という想いでいっぱいになる。

 『今年も終わった』『夏の陣は想いなかばで終わった』
 というのが父の気持だったろうと思う。
 『あとは搬入するだけ』『その後は他人さまが決めることだ』
 というのがいつわらざるところだったろう。

 そこには炎暑の夏を戦った、というさわやかさがあふれていたように思う。

 どんな苦しい時も、秋の出品制作を一回も休んだことがなかった父。
 これが毎年の年中行事と受けとめていた我々兄弟の夏の日々の過ごし方は、

 この父の出品制作を中心に組まれており、
 普通の子供たちが、海水浴に行ったり、山登りに行ったり、
 という話を聞いても、遠い世界の話として聞き流すことができた。

 一生懸命に描きつづける父の姿、生き方が、
 七人の子供たちへの教えとなっていたはずである。・・・」(p81~82)


ちなみに、
大矢黄鶴(おおや・こうかく)明治44年新潟県三島郡与板町生れ。
              昭和41年脳出血のため死去。(1911~1966)
大矢鞆音(おおや・ともね)は、1938年東京生れ。



 
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客車の窓は、水族館の窓になる

2023-07-03 | 絵・言葉
紀野一義「賢治の神秘」(佼成出版社)のなかで、
紀野氏が、テレビアニメ「銀河鉄道999」を紹介しておりました。

それが、気になるので、
杉井ギサブロー監督・細野晴臣音楽のアニメ映画『銀河鉄道の夜』の
劇場公開日を見ると、1985年7月13日とあります。
紀野一義著「賢治の神秘」は1985年7月2日に第一刷発行。

つまりタッチの差で、紀野一義氏は、この本の文を書いた時には
まだアニメ映画『銀河鉄道の夜』を見ていなかったと分かります。

それはそうと、今の私だったらすぐ思い浮かぶアニメ映画といえば
宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』。それも後半の電車の場面でした。

たとえば、宮沢賢治の詩『青森挽歌』のはじまり。

「 こんなやみよののはらのなかをゆくときは
  客車のまどはみんな水族館の窓になる

      ( 乾いたでんしんばしらの列が
        せはしく遷つてゐるらしい
        きしやは銀河系の玲瓏レンズ
        巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる )

   りんごのなかをはしつてゐる
   けれどもここはいつたいどこの停車場だ
   枕木を焼いてこさえた柵が立ち
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・    」


はい。アニメ映画のなかの『銀河鉄道』の系譜。
なんてのをつい思い描いてしまいたくなります。


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これが色彩と、音響と、ことばとで

2023-07-02 | 絵・言葉
原子朗の「賢治・その受容と研究の歴史」をひらいたら、
「新制大学」という言葉が出てくる箇所がありました。

「 さらに、伝記研究も詳細な調査をもとに充実をみせてくる。
  堀尾青史『年譜宮澤賢治伝』(1966年)は画期的なもので、
  やがて後年の校本全集年譜に結実する。

  総じてこの時期には前にいった読者の増加、
  新制大学の急増・充実につれて、卒業論文や、
  それを指導する教師たちが、賢治の人気や研究を
  おし上げていった事情がある。

  そのことはあまりいわれていない、
  この期以降もつづく賢治受容上の一大側面である。 」

   ( p382 「群像日本の作家12 宮澤賢治」小学館・1990年 )

はい。この文には、まだ気になる箇所がありました。


「 そうした一般の賢治受容のひろがりと層の厚さは、
  おのずからまた賢治の人気を高めていると思われるが、

  劇、映画、音楽、漫画までふくめた賢治作品の聴視覚化、
  ひいては専門的な評論や研究の盛行の基盤ともなっているのであろう。

  それにつけても賢治の多面性の魅力、こどもからおとなまで、
  すぐに入っていける親しみやすさ(圧倒的に童話がその役割をしているが)、
  そこにはまた安直な賢治理解や、
  一面だけでわかったつもりの賢治論等の出てくる落し穴もある、
  ということを思わずにはいられない。     」( p383 )

うん。ということで、最後に
紀野一義氏の「『銀河鉄道の夜』解説」の最初の箇所を引用

「童話『銀河鉄道の夜』は、賢治の妹とし子が若くして
 死んでしまったあと、賢治が一生かかって書き、
 完成しているように見えて、実はついに完成することが
 できなかった、ほんとうの、ほんとうの、ライフワークである。

 この作品はかつてラジオドラマに構成されて放送されたことがある。
 それを聞きながら私は、これが色彩と、音響と、ことばとで織りなされた
 幻想的な映画になったらどんなにすばらしいかと思ったものである

 のちにテレビが普及し、松本零士によるアニメの超大作
 『銀河鉄道999』がテレビに放映された時、
 
 『 あっ、これは銀河鉄道の夜だ 』と叫んだものだった。・・」

   ( p112 紀野一義「賢治の神秘」佼成出版社・1985年 )
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主人公はネコ。

2023-07-01 | 絵・言葉
梅原猛氏は宮沢賢治について

「賢治のよって立つ世界観は、近代人であるわれわれが
 その上に立っている世界観と大きくちがっている。
 
 われわれの立っている世界観を正しいと思うと、
 賢治の世界は十分に理解できない。

 われわれの立っている世界観の不安定さに気がついたとき、
 賢治のよって立つ世界観の意味がわかり始めるであろう。・・  」

   ( p1 「賢治の宇宙」佼成出版社・1985年 )

ここに、『大きくちがっている』という言葉があります。
このちがいの、違和感を取りのぞくのに、効果的だったと
私の思えるのが、【ますむら・ひろし】の漫画賢治童話集でした。
こちらは、大きく違っている世界観を、ネコを主人公にしていることで
私でも、ちっとも違和感なくはいり込めたのでした。
ちょうど鳥獣戯画を、面白おかしくパラパラとめくる感じでしょうか。
そして、アニメ銀河鉄道の夜の主人公たちも、ごく自然にネコでした。
うん。これが人間の顔で登場したら、何だか私は見なかった気がする。

映画といえば、今年「銀河鉄道の父」は、実写版で
賢治と、その父親との葛藤が描かれているようです。

三木卓氏は、指摘されてました。

「たとえば、かれが盛岡高等農林の助手の仕事を事実上やめて、
 これからどう生きていこうか、と考えている大正7年ころの
 青年であったとしたらどうか。

 いつのまにかわたし(三木卓)は、父親の政次郎のまなざしで
 見詰めてしまっていた。こんな強さと弱さがわかちがたく
 一体となっている、扱いの面倒な息子をもったら、
 わたしはどんな気持になるか。・・・・

 大正7年の賢治は22歳、高等農林を卒業する年であるが、
 このときかれの出身地の花巻も属する稗貫郡土性調査の
 ために研究生として残るようにいわれる。

 ところがこのころの賢治には、まだ農業関係に進む気持はなかった。
 乞われて土性調査に参加し、身体をこわすほど一生懸命に活動したものの、
 一段落したところで事実上この仕事から降りる。のちに
 助教授にと乞われるが、これも断ってしまう。
 では、かれは何がしたかったのか。・・・・      」(p5~6)

 (  「群像日本の作家12 宮澤賢治」小学館・1990年 )
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これ、やめないでおきましょう。

2023-06-23 | 絵・言葉
須田剋太画伯の『街道をゆく』の挿画をカタログで眺めていると、
落ち着かない気分になってきて、それを合点させくれる言葉を欲しくなる。

ということで、「司馬遼太郎が考えたこと」の9巻・11巻・14巻をとりだす。
司馬さんと、須田画伯との仕事での出会いがあってからでした。

「 須田さんは旅をしているうちに、
 
 『 しばさん、これ、やめないでおきましょう 』

  と言いはじめたのです。これとは『街道をゆく』のことです。
  私(わつち)はこのおかげですっかり健康になりました。
  などといって上機嫌でした。

  はじめのころ須田さんは65歳でした。私は17歳も下で、
  まだ40代でしたから、須田さんがずいぶん年長に感じられましたし、
 
  いずれお弱りになるだろうと思い、そうですね、
  といいかげんにうなずいた記憶があります。

  そんなわけで、あのようにながい歳月を
  ご一緒するはめになってしまったのです。・・ 」

    ( p497 「司馬遼太郎が考えたこと 14」新潮文庫 )

ということで、須田画伯の挿画をもっとも身近でよく味わっていた
司馬さんの言葉が、画伯の挿画のもっとも雄弁な水先案内人になります。
そういう視点で、司馬さんの言葉をもう一度引用しておきたくなります。

「 剋太の芸術を語るのに多くの喋々(ちょうちょう)を要しない。
  芸術は心の表現であるという素朴で初原的な姿勢を、
  かれは半世紀のあいだすこしも外すことなく続けてきた。

  その間、装飾性に韜晦(とうかい)せず、流行でもって渡世せず、
  道元によって触発された自分の精神のかがやきと
  その光の屈折をすこしでも表現しようとして生きてきた。・・・  」

    ( p199 「司馬遼太郎が考えたこと 9」新潮文庫 )

「 おそらく画家(須田画伯)には、土霊のようなものに
  感応しやすい生来の感受性が備わっているのであろう。

  この場合の土霊とは、伝統の文化がついに土までしみこみ、
  さらに草木に化(な)り、ついには気になって
  宇宙を循環しているといったようなものである。

  もっとも画家の場合、とくにその抽象絵画において・・・
  土霊というにおいは、まったく遠い。

  しかし、その生き方においては、確乎(かつこ)とした
  日本文化のなかにひそむ土霊の上に立っている。

  絵を描く者は中世の捨聖(すてひじり)のように
  生きねばならないというふうにして生きつづけてきた
  この人の姿勢にそのことを感じざるをいえない。 」

  (p14~15 「司馬遼太郎が考えたこと 11」新潮文庫 )

『街道をゆく』の挿画で、神社仏閣を描いた箇所をみていると
司馬さんの言葉が思い浮かんできます。

「 画家(須田画伯)には、尋常人のもたない幸運があった。
  40歳前に京都や奈良に現れたとき、この人にとって、

  そこにある古い建築や彫刻、障壁画などが、
  とほうもなく新鮮だったことである。

  かれはほとんど異邦人のような目で見ることができたし、
  さらにいえば、古代の闇のなかから出てきた
  一個のういういしい感受性として、誕生したばかりの新文明としての

  平城京に驚き、あるいは平安京にあきれはてているという
  奇蹟もその精神のなかでおこすことができた。

  この時期の画家はほとんど漂泊者・・だったといっていい。
  奈良の寺や宿に仮寓(かぐう)し、ふるい世の仏師が畏れと
  ともにきざんだ彫刻を写生したり、さらには古建築の構造美を
  自分のものにしたりした。すでに40をこえていたが、なお、
  独自の修業法をとる画学生であることがつづいた。

  繰りかえすようだが、画家は、山頭火などのように
  みずから漂泊者と規定したわけではなく、自然にそうであった。

  ついでながら、諸事、このひとにあっては、ことごとしくない。 」

  ( p18~19 「司馬遼太郎が考えたこと 11」新潮文庫 )


「 そのくせ画を創りあげるときには、
  造形を創るという匠気をいっさいわすれ、
  
  地と天の中に両手を突き入れて霊そのものの
  躍動をつかみあげることにのみ夢中になる。

  しかしながら、鬼面人を驚かすような構成はまれにしかとらず、

  たいていは、花や野の樹々といったおだやかな生命を見つめ、
  そのなかに天地を動かすような何事かを見極めつくそうとする。 」

  ( p194 「司馬遼太郎が考えたこと 9」新潮文庫 )


うん。どうしても、司馬さんと須田画伯との密接な距離感を思います。
そのヒントになりそうな箇所としては、

「 この人(須田画伯)の無自覚にちかい出離と、
  その強烈な才能をいとおしむ人が、そのつど
  出てきては、たんねんに保護した。・・・・

  奈良に仮寓していたころ、東大寺の上司海雲(かみつかさかいうん)氏が、
  大仏殿を半裸のすがたで物狂おしく写生していたこの人を見つけ、
  やがて親しくなった。
 
 『 善財童子(ぜんざいどうじ)をみたような思いがした 』

  という旨のことを、後年、上司氏はこの人について書いている。
  ・・・・・・     」

  ( p20~21 「司馬遼太郎が考えたこと 11」新潮文庫 )


はい。『 そのつど出てきては、たんねんに保護した。 』
その最後のバトンを司馬さんが受け継いでおられたのじゃなかったのか。
そうすると、この箇所があらためて印象深く思い返されます。

「 須田さんは旅をしているうちに、

 『 しばさん、これ、やめないでおきましょう 』

  と言いはじめたのです。これとは、『街道をゆく』のことです。 」

   ( p497 「司馬遼太郎が考えたこと 14」新潮文庫 )

 
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なんだか変で、それでいて。

2023-06-15 | 絵・言葉
『街道をゆく』。その須田剋太の挿絵を見ています。

うん。カタログを手許へと置きながら、
この魅力はいったい何かと思いながら。
余分な線が描きこまれたデッサンのような挿画。
まるで地面と歴史からの補助線がのびたようで。
まるで眼前の電線のように張り巡されたようで。

それに較べると、安野光雅画伯の『街道をゆく』の装画では、
落ち着きさが気になり、万事落ち着かない私には不釣り合い。

うん。これを私の好みの問題にしてしまったらそれまでですが、
こういう始末に困る魅力を、司馬さんは語ってくれております。

モンゴル高原に、司馬さんが須田さんといっしょに行った時の
ことを語った箇所があるのでした。

「・・須田さんが、半ば朽ちたタラップを降りつつ、
 草原を見はるかしたのをおぼえています。

 『 パリよりもすごい 』

 とつぶやかれたのは、おかしくもあり、感動的でもありました。
 私としてはお誘いした甲斐があったと思い、心満ちた気分でした。」

     ( p478~479 「司馬遼太郎が考えたこと 14」新潮文庫 )

ここで、須田画伯が、モンゴル高原とパリとをひきあいに出した。
そのことに、司馬さんは触れながら正岡子規をひきあいに出します。

「 二律背反とまで行かないにせよ、
  なんだか変で、それでいて張りのあるイメージなのです。

  例をあげると、子規の
 『 柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺 』のような張りであります。

  相異なる事物(この場合、柿と鐘)が、平然と一ツ世界に同居しますと、
  ときに磁力のように、たがいにはねのけたり、吸着したりします。

  そのことによってふしぎな音や光を発したりもします。
  芸術的効果というべきものであります。

  須田さんの絵画(とくに『街道をゆく』の装画)は、
  ほとんど無作為にしてそのようでありました。

  ・・・・そうでなければ画面の緊張というのは生み出されません。
  緊張とは、造形上の矛盾を、二つの相反する力が、
  克服しようとして漲(みなぎ)ってくる場合のことを言います。

  それにしても、人工で詰まったパリと、非人工の美ともいうべき
  モンゴル草原をとっさに同じ括弧(かっこ)のなかに入れて
  比較する須田さんのおかしさ・・・・・     」( p479~480 )


はい。この言葉を頼りに、また須田剋太画伯の
『街道をゆく』の装画を、ひらいてみることに。 
                           


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素朴な元気のようなもの。

2023-06-08 | 絵・言葉
司馬遼太郎著「微光のなかの宇宙 私の美術観」(中公文庫・1991年)。
はい。注文してあったこの古本が届く。
目次のはじまりは『裸眼で』
目次のおわりには『出離といえるような』。

はい、はじまりとおわりとを読んでみる。
司馬さんは昭和29年から同33年ごろまで、
「 私は、20代のおわりから30代の前半まで、
  絵を見て感想を書くことが勤めていた新聞社でのしごとだった。」(p15)

とあります。その勤めがおわってからのことが語られておりました。
自戒をこめてなのでしょう。こんなエピソードを紹介されています。

「 戦前からの古い画家で、戦後、パリ画壇の様式変遷史を
  そのままたどった人がいた。ついに≪最先端≫の抽象画に入ったものの、
  あたらしい形象を創りだすことができず、

  医大の研究室から電子顕微鏡による動植物の細胞写真をもらってきて
  はほとんどそのまま模写し、構図化していたりした。ただ形がおもしろい
  というだけで芸術の唯一の力である精神などは存在しなかった。
  
  ・・・あらためて思わせられたのは、画論というのは
  それを開創したその画家だけに通用するもので、
  他人の論理や他の社会が生んだ様式の追随者になるというのは、
  その人の芸術だけでなく人生をも無意味にしてしまうのではないか
  と激しくおもった。・・

  もはや仕事で絵を見る必要がなくなったときから、
  大げさにいうと自分をとりもどした。

  奇妙なことに――まったく別なことだが――右の(上の)期間、
  
  文学雑誌もいわば仕事としてたんねんに読んでいたつもりだったが、
  捕虜の身から解放されたような気がして、同時に怠けるようになった。

  ・・・時機が終るのと、小説を書きはじめるのと
  おなじ日だといいたいほどにかさなっていた。
  もはや私自身を拘束するのは自身以外になくて、
  文壇などは考えなかった。・・・・・

  自由を持続するには自分なりの理論めかしいものと、
  素朴な元気のようなものが必要だったが、

  右(上)の4年間の息ぐるしさのおかげで、
  ざっとしたものをごく自然にもつことができた。 」(~p29)


うん。とりあえず、私にできそうなことは、
司馬さんにとっての、小説と絵との結びつきに思いを馳せることでした。

『裸眼で』の最後を忘れないために引用しておくことに。

「 ・・むろん、解放をおそれる画家や画壇勢力もある。
  それはそれでよく、そうあることも自由でなければ、
  ほんとうに物を創りだしたり、それを見たりする者の自由はない。

  ・・物が沈黙のなかで創られる以上、創られてからも、
  ひたすらに見すえられることに堪え、平然と
  無視される勇気を本来内蔵しているべきものなのである。

  繰りかえしいうようだが、19世紀以後の美術は理論の虚喝が多すぎた。
  私自身、あやうくその魔法にからめとられかけ、やっと逃げだしたものの、
  自分だけの裸眼で驚きを見つけてゆくことについては、
  遅々としている。    」(p38~39)


 この本の目次の最後にある須田剋太画伯との旅は、
 『 自分だけの裸眼で驚きを見つけてゆく 』の『自分だけ』から
 解き放たれるような声が聞こえてくるような。そんな気がするんです。
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