和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

古典の音読。

2006-12-26 | Weblog
古典の音読。ということで三人の見識。

司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文春文庫)の「学生時代の私の読書」。
田辺聖子著「古典の文箱」(世界文化社)の中の「古典と私・わが師の恩」。
「同時代を生きて 忘れえぬ人びと」(岩波書店)の第三章「伝統について考える」。

司馬遼太郎さんの言葉は、

「やがて、学業途中で、兵営に入らざるをえませんでした。にわかに死についての覚悟をつくらねばならないため、岩波文庫のなかの『歎異抄』を買って来て、音読しました。ついでながら、日本の古典や中国の古典は、黙読はいけません。音読すると、行間のひびきがつたわってきます。それに、自分の日本語の文章力をきたえる上でも、じつによい方法です。
『歎異抄』の行間のひびきに、信とは何かということを、黙示されたような思いがしました。むろん、信には至りませんでしたが、いざとなって狼狽することがないような自分をつくろうとする作業に、多少の役に立ったような気がしています。」(p39)


田辺聖子さんの言葉

「女学校の国語の時間が、これまた面白くもないものだった。やたら人生教訓的な文章ばかり載っていて、ここでも私は身を入れて勉強しなかった。二年生か三年生のころ、国語をⅠ先生に教わることになった。小柄だが動作のきびきびした、美貌で声の美しい先生、三十代に入っていられただろうか。きちんとした標準語、アクセントも関西のものではなかった。・・・ピッとからしのきいた授業ぶりで、私はいっぺんに、ねむけがふっとんでしまった。私はⅠ先生が好きになったから、国語が好きになったのである。古典の文法、などというものは見ただけでうんざり、というしろものだが、Ⅰ先生は、『耳になれるといいんです。耳からおぼえると、自然に身につきます』とおっしゃっていた。そして古典の暗記、というのを生徒に強いられた。『方丈記』の冒頭・・・『平家物語』の開巻冒頭に出てくる名文・・・などを暗誦させられた。それから『太平記』では、俊基朝臣(としもとあそん)の東(あずま)くだりの美しい文章・・・なども。
古典の名文は古来から人々に愛誦されてきただけあって、まことにリズムも詞(ことば)も美しく、若いみずみずしいあたまには、砂地に水のしみこむように入ってゆく。体で古典になじむ、という学習方法を、Ⅰ先生は考えていられたのかもしれない。耳で馴染み、声を出して口ずさむ古典は、いきいきと色彩を以ってもぶたに顕(た)ってくるのであった。決してひからびた古めかしい時代ものの骨董品ではないのであった。
もうひとつ、Ⅰ先生に教わったものに、短歌の朗詠がある。・・・・朗詠に向くうたと、向かないのがあり、いちばんぴったりしたのは啄木であった。・・・」(p289~290)

最後は、鼎談でのドナルド・キーンさんと瀬戸内寂聴さん。

【キーン】 ・・日本の高校生たちは、たしかに古典文学を部分的に読むんですけれども、それは文学の観賞のためではないんです。文法のためです。文語体を覚えるために、ここに係り結びがあるとか、そういうことを覚えるためです。しかし、多くの日本人は、いったん大学に無事に入ると、もう古典文学を読みません。私は、それなら、寂聴さんの現代語訳を読んだほうがはるかにいいと思います。そして、専門的に勉強したいと思ったら原文で読めばいいですね。さいごまで日本文学を読まない人は不幸だと思います。
【瀬戸内】 なんでもいいから訳を読んでくれて、面白いなあと思ったら、必ず原文を読みたくなるんですよ。
【キーン】 なります。
【瀬戸内】 そのために現代語訳があるんだと思います。決して、それで終らないの。『こんなに面白いんだったら、原文はどんなかしら?』と思ってほしいですね。そして、朗読すれば原文がわかるんですよ。あれは不思議ですね。 (p214~215)
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百年生きられる。

2006-12-26 | Weblog
百年。百歳。というのを思うのでした。

思い浮かぶのは、漱石が森田草平に宛てた手紙(1906年)に
「・・男子堂々たり。・・君が生涯はこれからである。功業は百歳の後に価値が定まる。百年の後誰かこの一事を以て君が煩とする者ぞ。君もし大業をなさばこの一事かえって君がために一光彩を反照し来らん。ただ眼前に汲々たるが故に進む能わず。かくの如きは博士にならざるを苦にし、教授にならざるを苦にすると一般なり。百年の後百の博士は土と化し千の教授も泥と変ずべし。余はわが文を以て百代の後に伝えんと欲するの野心家なり。近所合壁と喧嘩をするは彼らを眼中に置かねばなり。彼らを眼中に置けばもっと慎んで評判をよくする事を工夫すべし。余はその位な事がわからぬ愚人にあらず。ただ一年二年もしくは十年二十年の評判や狂名や悪評は豪も厭わざるなり。如何となれば余は尤も光輝ある未来を想像しつつあればなり。彼らを眼中に置くほど小心者にはあらざるなり。彼らに余が示すほどの愚物にはあらざるなり。・・余は隣り近所の賞賛を求めず。天下の信仰を求む。天下の信仰を求めず。後世の崇拝を期す。この希望あるとき余は始めて余の偉大なるを感ず。君も余と同じ人なり。・・・」

まあ、ちょうど百年前に漱石は書簡で「功業は百歳の後に価値が定まる」と書いていたわけです。次に司馬遼太郎さんの「山片バン桃(やまがたばんとう)賞の十年」(「司馬遼太郎が考えたこと 15」新潮文庫)から引用。

この賞と司馬さんについては、谷沢永一さんがどこかに書いていたのですが(ちょいと今見当たりません)・・。この司馬さんの文は、その賞での講演のようです。
その講演で司馬さんは語っているのです。

「・・ですから、賞をさしあげるのではなく、もらっていただくという賞であります。
そしてまったく計画的なくらいうまくゆきましたのは、第一回目がドナルド・キーン先生で、第十回目にサイデンスティッカー先生を得て、もうこれでこの賞はなくてもいい、と。まんなかはサンドウィッチのようでありますけれど、みなさんえらい先生方ばかりでいらっしゃいますが、第一回目のキーン先生と第十回目のサイデンスティッカー先生のようなかたはもう出ませんですね。これはたしかであって、時代がうむ巨人というものであります。あとのかたは狭い範囲の、そうでないともう学位はとれませんから、・・どちらかというと顕微鏡的な細かい目で研究してこられた。
ドナルド・キーン先生とサイデンスティッカー先生は百年後まで生きますけれども、このおふたりは百年のちにはもう出ませんですな。『百年生きられる』といういい方は、むかしありましたね、日本語で。」

ここで、キーンさんたちのことを「日本文学と日本文化、あるいは日本史そのものを正面からひきうけて、大きな視野で考察する」という言葉を、間接的につかって示しておりました。司馬遼太郎さんは、とにかくも百年後という眼差しがある。

今度、ドナルド・キーン:鶴見俊輔:瀬戸内寂聴の鼎談「同時代を生きて」(岩波書店・鼎談は2003年10月で終ってます)を読み直していたのです。すると鶴見さんと瀬戸内さんとが、キーンさんをとても尊敬なさっているのを感じられてくるのでした。そういう目でみると鼎談での鶴見さんの役割は、天の岩戸にお隠れになって日本史を勉強なさっておられるキーンさんを、どうにかして連れ出そうとしているアメノウズメのような役目を鼎談で買って出ているように思えるのでした。すると、瀬戸内さんは鶴見さんと二人しての掛け合い漫才。
この81歳の時の鼎談本は、最後に三人のあとがきが書かれておりました。
鶴見さんは「記録を読みかえして、私がおしゃべりだということを痛感した。」とはじめております。一方の瀬戸内さんは「かねがね、キーンさんの一見慎ましい態度の内部に秘められた、毅然とした剛毅な気性に感服している私は、心からキーンさんを尊敬しているし、その膨大な日本文学の業績のまばゆさには、圧倒されつづけている。・・・キーンさんの著作によって教えられたことの豊富さと貴重さを思えば、私にとっては文学の恩人である。」

鼎談の中でも、そのことに触れた個所があります。

鶴見さんは「私なんかは、本当に日本語に対する教養、日本文学に対する教養が薄手で、バラバラですから、キーンさんに対しては、本格の学問をやった人というふうに思うんですけれども、ほかの日本人は、そう思わないでしょう。日本語だったら、自分は知っていると思っていますからね。」(p69)
瀬戸内さんは「いや、とてもとても、キーンさんが書かれたもののようなことはできない。できなかったところをしてくださったから、もうびっくりしますよね。本当にすごいことです。当然、日本人がしなきゃならないこと。それをしてなかったんだもの。それが、本当によくわかるんですよ。私は、ずいぶんと得しましたよ。」(p69~70)


ちなみに瀬戸内さんの鼎談での最後の言葉は
「一番精力的によく喋ったのは鶴見さんですよ。百まで生きそう。キーンさんも百まで大丈夫。」というのでした。


ところで、先頃連載が終ったキーンさんの「私と20世紀のクロニクル」の最終回に
こんな言葉がありました。

「日本での生活に一つ不満があるとしたら、それは私の本を読んだことのある人も含めて多くの日本人が、私が日本語が読めるはずがないと思っていることである。・・・・東大のある教授などは、私が書いた『日本文学の歴史』を話題にして、『あなたが文学史で取り上げた作品は、翻訳で読んだのでしょうね』と言ったものだ。」

この「ある教授」の書評を読まされるのだけは、御免こうむりたいですね。
私は古本屋でキーンさんの『日本文学の歴史』の、せめても近世篇までを買って読んでみたくなりました。

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キーンと柳田国男。

2006-12-23 | Weblog
ドナルド・キーンさんと謡曲。
ドナルド・キーンさんと徒然草。
そんな並べ方があるならば、私が次に興味をもつのは、キーンさんと柳田国男。
何のことはない、私が柳田国男を読みたいばかりに、キーンさんはどのように語っているのか知りたくなったわけです。

という興味から、まずは鼎談の「同時代を生きて 忘れえぬ人びと」(岩波書店)のp223を引用しておきます。

【キーン】毎年、だいたい八か月日本にいますけれども、ある年、日本の自然主義文学について一章を書きました。そのためにたくさん読まなければなりませんでしたが、あまり好きでないようなものが多かったですから・・・。しかたがないから読みましたが。
【瀬戸内寂聴】面白くないですねえ。
【鶴見俊輔】自然主義文学に対する反発の一つは石川啄木に、もう一つは柳田國男でしょう。
【キーン】はい、そうです。
【鶴見】両方が、その批判は妥当ですよね。・・・・


ちょいと、これだけでは、わかったようでわからない。
ちなみに、この鼎談で鶴見俊輔さんはキーンさんの「『声の残り――私の文壇交遊録』というのは素晴らしいですね」と語っております(p56)。鶴見さんは、繰り返してp85でも「『声の残り』は、どう考えても傑作なんですね。・・・」と語っております。
それじゃあ、というわけでこの本を取り寄せてみますと、これが簡潔な蒸留酒のような交友録の記述になっており、このテキストをもとに鶴見さんはキーンさんに、鼎談であれこれと話をむけておられるのだなあ、とわかります。それは短い詩から、さまざまな背景をひきだしてゆくような按配で、鼎談に、魅力ある素材を提供してくれる本の一冊として登場しておりました。

ということで、ドナルド・キーン著(金関寿夫訳)「声の残り 私の文壇交遊録」(朝日新聞社・1992年)を語ります。その目次は18名の名前が並んでおりました。私が興味を持ったのは「木下順二」を回想した箇所でした。
そういえば、今年(2006年)の10月30日。木下順二さんは92歳で亡くなっておられます。私は中学三年の国語の教科書に「夕鶴」が載っていて授業を受けたことを思い出します。
では「声の残り」にある「木下順二」と題した文を見てみます。

「1953年から55年まで、私が日本に滞在出来るようになったのは、フォード財団基金のおかげであった。・・」とはじまっております。
以下、興味深い箇所を拾ってみます。
「これはちょっと信じがたいことかもしれないが、私は日本に住み始める前に、すでに『古今集』を全巻、『方丈記』『徒然草』などを精読していた。また近松門左衛門について博士論文を書いたために、浄瑠璃の歴史に関しては、かなり詳しかったし、それに夏目漱石その他の、近代作家のものも、少々は読んでおり、そして日本文学作品で、英語やフランス語に訳されたものには、すべて目を通していた。」

「日本の伝統的主題を、意識的に使っている作家で、私が会った最初の人は、木下順二だった。1954年に、京都から東京を訪れた際に、嶋中鵬二が紹介してくれたのだ。当時木下の劇『夕鶴』は、同時代の日本演劇で、最も人気のある芝居であった。・・・この戯曲を読んだ時、私も夢中になった。そしてすぐ英訳に取りかかった。・・・しかしその頃の私は、翻訳者としては、まだまったくの駆け出しにすぎなかった。とにかく『夕鶴』の英訳は、誰か他の人によって完成された。そしてわが意に満たない私自身の訳稿は、ついに陽の目を見ることなく、もう大分前に、どこかへ散逸してしまったのである。」

最後は、三島由紀夫と柳田国男とが出てくるので丁寧に引用しておきます。

「最初の日本滞在の間、私は時々木下に会うことがあった。『夕鶴』だけではなく、私は彼の、他の戯曲にも感銘を受けていた。しかし、私がより深い関心を持っていたのは、日本の民俗伝統よりは、文学的伝統のほうであった。私はいつか、木下に、小野小町伝説を材料にして、劇を書いてみる気はないか、と水を向けてみた。だが彼はその時、すでにそれぞれ見事な劇作に結晶している民俗的主題から外れてゆく気は、とくになさそうであった。小野小町について劇を書いてはと、木下に提案した時には知らなかったが、三島由紀夫がまさにそのことを、すでにやっていたのだ。三島は、東西の古典文学を自分の劇の典拠にするのを好んでいた。しかしいつだったか三島が、柳田国男の『遠野物語』を読めと、しきりに奨めてくれたことがあった。すなわち、彼とても、古い民話などの持つ美しさに、決して鈍感だったわけではないということだ。しかし私は、『遠野物語』には、一向に感銘を受けなかった。その理由は、やっと数年前、河合隼雄の『昔話と日本人の心』を読んだ時に、納得出来た。西洋人は、典型的な西欧民話の持つ――最後に勇士が、お姫様から結婚の承諾を得る、といったような――クライマックスに馴れている。だからクライマックスもなく、常にがっかりするような、またしばしば悲劇的な終わり方をする日本民話には、何か物足りなさを感じるのだ。勿論『夕鶴』は、この例外である。それにしても、日本の民話を、見事に劇化した木下の功績は、決して小さいものではなかった。」



キーンさんの、民俗伝統から文学的伝統へ、という指摘が私には新鮮でした。
キーンさんからみた、木下順二と三島由紀夫というのも視点の鮮やかさを抱きます。
ありがたい。ありがたい。
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本で知る中国。

2006-12-22 | Weblog
今年は中国関連の本の題名が気になりました(題名と、断ったのはほとんど読んでないからであります)。そのことについて気になった言葉の連想。

文藝春秋2007年1月号の特集「文春・夢の図書館」に、石川好さんが「渾沌の中国がわかる10冊」をあげております。そこから6番目までを順に並べてみます。

  ① 日本語と中国語     劉徳有著(講談社)
  ② 貝と羊の中国人     加藤徹著(新潮新書)
  ③ 世界史のなかの満洲帝国 宮脇淳子著(PHP新書)
  ④ 中国文明の歴史     岡田英弘著(講談社現代新書)
  ⑤ 多民族国家中国     王柯著(岩波新書)
  ⑥ 日本はもう中国に謝罪しなくていい 馬立誠著(文藝春秋)


面白いのは、ここから、二冊の本へと連想の補助線がつながったことです。

   山村 修著「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)
   谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ)

たとえば、石川好さんは、三番目にあげた「世界史のなかの満洲帝国」を語って
「日本人がこの地域の歴史を理解する上で最良の書物である。それは日中関係だけでなく、
直近の北朝鮮問題の根っ子にも触れるので、この十冊の中では、真っ先に読んでみたい。」
とあります。

谷沢永一著「いつ、何を読むか」には、その宮脇淳子著「世界史のなかの満洲帝国」をとりあげて書いております。「・・・・何時になったら歴史記述が中立的な筆法に到達できるのであろうか。今のところ望み得る最も自己制御に徹して冷静な研究姿勢が宮脇淳子によって示された。女性が感情に走りやすいと陰口を叩かれる習慣が自然消滅に向かっている。殊に現代の我が国では、熟年女性の学問的力量には圧倒的な迫力が感じれらる。夫の岡田英弘が『歴史とはなにか』(文春新書)に論述するところに言及しながら、宮脇淳子はこう言い放つ。歴史には、道徳的価値判断を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである、と。この場合、われわれ日本人の先入見を払拭するために必須の第一歩として、古来、中国には歴史はない、あるのは政治だけである。この判定から宮脇淳子が踏み出す。大賛成である。支那(チャイナ)の正史は悉く政治文書として編纂された。私はかねてから支那史および東洋史は学問として成立しないと考えている。・・・・」


つぎには、四番目にあげられた岡田英弘著「中国文明の歴史」。
石川好さんは「中国史は長大かつ膨大なので、全史を読むには時間も労力も必要とする。それには岡田氏の『中国文明の歴史』は、極めて面白く、日本人の中国史に対する従来の見方に変更を迫るだろう。この書物以外でも岡田氏の著作は、是非読んでみたい。」とあります。

山村修著「狐が選んだ入門書」には、岡田英弘さんのほかの書物「世界史の誕生――モンゴルの発展と伝統」が取り上げられておりました。その紹介の最初はこうです。
「岡田英弘は歴史家のなかの剣客です。史的想像力の剣さばきがするどい。
私が、この人は書斎にこもる研究者タイプとはちょっとちがうぞと感じたのは――たしかに史料の批評的検証の徹底ぶりも有名らしいのですが――、現代のマレーシア連邦を訪れ、そこに古代日本のすがたを見た、という話を読んだときです(『日本史の誕生』弓立社)。」
「岡田英弘による一般向けの本には、歴史的な常識にまっこうから歯向かい、とどめをさすような論断が、あたかもするどい剣先のように、きまっていくつか潜んでいます。それらのうち『日本史の誕生』と並んで、たぶん、もっともするどい切れ味をしめしている一冊が、この『世界史の誕生』でしょう。なにしろ、世界史はモンゴル帝国とともにはじまったという、よくいえば雄大、わるくいえば突飛とさえ思わせる学説でつらぬかれた一冊なのですから。しかし突飛であればあるほど、それを了解しやすいものにするために、より強力な論理を組み立てるのが岡田英弘です。・・・」
      
ちょいと話題をかえます。
今年。第15回山本七平賞が発表されておりました。
「Voice」の1月号に受賞作の発表と選評が載っておりました。

 受賞作は竹田恒泰著「語られなかった皇族たちの真実」(小学館)
 特別賞は杉本信行著「大地の咆哮」(PHP研究所)

選考委員の養老孟司さんは、その選評全文を「大地の咆哮」にあてておりました。
ということで、他の委員を差し置いて、その全文を引用。

「中国関係の書物は数多く出版されている。しかし本書は上海総領事だった著者の畢生の力作であり、中国の現状を捉えて読者を放さない。中国は膨大な国であり、もちろん一個人が一冊の書物で書き尽くせるようなものではない。しかし、ただいま現在の『中国の発展』といわれる状況が、本質的にどのような問題を内包しているか、著者はそれを見事に抉り出している。農民の地位の問題、資源としての水の問題、近代都市上海の建築物の問題などについて、多くの読者が目を開かれるにちがいない。本書は今後も長い期間にわたって、現在という時代の記録としても、読みつづけられるものだと信ずる。残念なことに著者はすでに亡くなられたが、本書は自ら死期を知ったうえで、著者がいわば遺言として書かれたものである。それが叙述の強い力になって表れている。かつて丸山眞男氏が『日本政治思想史研究』を戦時下に書かれ、戦後それを改訂しようとしたとき、一語も直すことができなかったと書かれたことがある。ある緊張感の下で書かれた文章は、全体としてまことに動かしようのないものである。人のまさに死なんとする、その言や良し。古言にいうとおりであろう。」
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つれづれに。

2006-12-21 | Weblog
新刊・谷沢永一著「知識ゼロからの徒然草入門」(幻冬舎)を、bk1に注文しました。
ということで、新刊が届くまで、せっかくだから、徒然草の話。
まず、谷沢永一・渡部昇一著「人生後半に読むべき本」(PHP研究所)で、注目した箇所。

渡部氏が語ります。
「古典で読みながら小膝を打って、『ああ、そうか』といえるものといえば、
真っ先に挙げられるものは、やはり『徒然草』でしょう。あれは真のエッセイです。・・」(p152)。
それに答えて谷沢氏が
「『徒然草』は、日本のそれ以後の文芸の源泉です。『徒然草』がなければ、たとえば井原西鶴の『好色一代男』はなかったろうといわれている。つまり初めて人情というものを著作のテーマにした史上空前の記述なのです。『徒然草』にいたって、しみじみと人生の味わいを語るという新しい分野が広がりました。『徒然草』があったから、西鶴が人情をテーマの中心に据え、それから伊藤仁斎が学問の方面で人情をテーマにするということができたといってもいい。全部源流は『徒然草』。・・・今までの注釈評釈で一番いいのは、沼波瓊音(武夫)の『徒然草講話』。学者的軽薄さがない。昭和の国文学者で、この沼波瓊音に啓発されて、国文学者は捨てたものではないと思った人が何人いるかといわれるぐらいです。・・・」(p153)

ところで、ドナルド・キーンさんの恩師に角田柳作先生がおりました。その先生は「明治30年に20歳で『井原西鶴』という本を出した。単行本として最初の西鶴の研究であった。」とドナルド・キーン著「日本との出会い」(中公文庫・p142)にあります。

谷沢氏のいうところの、徒然草→西鶴→伊藤仁斎という流れは、それはどのようなものなのか?
残念。角田先生の本は読めませんが、沼波瓊音著「徒然草講話」(東京修文館・大正14年)の中の最後に「兼好法師」と題した文が載っておりました。
そこにこんな箇所があります。
「・・・徒然草と俳諧とをも繋いでいる。西鶴は如何に兼好に刺激されたか。芭蕉は如何に兼好を慕うたか。その各の作品と、徒然草とを読比べると、誰でも其程度が直ぐ解る。西鶴と芭蕉は、実に兼好の門弟子の高足なるものであつたのだ。支考は、芭蕉庵で師翁と徒然草を論じたことを書いてる。このやうな事はしばしばあつたのであらう。松平定信は、源氏を桜に、伊勢を梅に、狭衣を山吹に、而して徒然草を、『菊もて作りたる薬玉』に比してゐる。徳川時代の文学と云ものを考へると、誰も、その指導者の著しき一人として兼好を認めぬ訳には行かぬ。徒然草の言ひ方の模倣形式の模倣のみのものでも随分沢山出来てゐる。水谷不倒氏が『源氏物語枕草紙が文学の師表と仰がれしは今更いふまでも無きことながら、徳川時代に至りて兼好法師の徒然草の如くまた俗文学の模範となりし書も稀なり。・・・・』」
このように続いて書かれております。

ここで、話題を角田柳作先生とドナルド・キーンさんへともどします。

「日本との出会い」(中公文庫)の中に
「私は戦前三ヵ月ばかり先生の講義を聞いたが、どちらかといえば戦後派である。昭和21年2月に除隊になるやいなや、何よりも先生の講義を楽しみにして大学院に戻った。先生に教わった学生は五、六人あり、皆私と同様に戦争中軍人として日本語をやって来た者で、四年間も学校を離れたので学問に対して非常な憧れを感じていた。先生に余分の講義をねだって、先生にはしまいに日本古典文学の授業だけで毎日2時間以上教えていた。『源氏物語』の須磨、明石の巻、『つれづれ草』、『枕草子』、謡曲の『松風』や『卒塔婆小町』、『好色五人女』、『奥の細道』等々を三ヵ学期で読み終えた。外国で僅かの間にそんなに日本古典文学を読むことは多分新記録であったろう。しかも、日本語以外に先生は日本歴史と日本思想史を教えていた。思想史の授業は五時に終ることになっていたが、六時半前に終ることは珍しくて、学生たちは忠実に最後まで聞いていた。・・・」(p143~144)

こんな箇所があります。

「先生はどんな作品について講義をしていても、その文学的価値をみごとに理解させ、私たちはむずかしい古典をたどたどと読みながら文章の美に打たれていた。先生はもう何百回も『つれづれ草』などを読んだことがあろうが、兼好法師の傑作を初めて発見したような熱意と喜楽が溢れる声で文章のうまさを伝えた。・・」(p146)


こうして引用すると、つぎにキーンさんの「日本文学のなかへ」(文芸春秋社)もつづけて引用したくなります。

「・・・角田先生に対するあたたかい気持も、宣長の偉大な思想も、日本文学そのものの美しさから私が受けた感動には、くらぶべくもなかった。とくに『徒然草』は、私の目を日本の伝統に向かって開いた。

   あだし野の露きゆる時なく、
   鳥部山の烟立(けぶりたち)さらでのみ住はつる習ひならば、
   いかに、もののあはれもなからん。
   世はさだめなきこそ、いみじけれ。

第七段のこの一節を、私は感動のあまり、日本語の全然わからない友人に読み聞かせた。
・・・・・・・・
『さだめなきこそ、いみじけれ』という美意識を、人は日本以外のどこに求めうるだろうか。それは、西欧文化の底を流れる古代ギリシャの思想を、真向から否定したもの、そして真に日本的なるもの、である。・・・
私は学部にいたころ、しきりにギリシャ悲劇を読んだが、『徒然草』とは逆の考えかたが、いたるところに出てくるのである。ものは、なるべく消えないのがいい、年古りないように、というのがギリシャの理想だった。『いみじき』にはいろんな意味があるが、兼好法師はここでは明らかに、いい意味に使っている。」(p73~74)


ここから、ドナルド・キーン著「古典の愉しみ」(宝島社文庫)の最初へとつなげて行っても楽しいのでした。

その第一章「日本の美学」はこうはじまっておりました。

「僅か数ページで日本の美学の全貌を説明しつくし、数百年にわたって育てられてきた日本人の美意識について語るのは難しい。日本文化の中核になっている日本人の美意識を抜きにして日本文化の特徴を語るのはさらに困難なことである。私は日本人の特質を一冊の書物『徒然草』に関連して書いてみようと思う。・・・」


ところで、簡単に徒然草を語っている人たちの何冊かを覗いてみたのですが、
小林秀雄から、徒然草に興味をもったという人はいるのですけれども、
どなたも、ドナルド・キーンに言及しておられる方がいませんでした。
もったいないなあ。
これからの徒然草の、水先案内には、ドナルド・キーンさんが
欠かせないように私は思ったわけです。

さて、谷沢永一氏の新刊に、ドナルド・キーンさんの名前が出てくるかどうか?
そんなことを、チェックするのも私は楽しみにしております。
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本棚と古書。

2006-12-19 | Weblog
このブログでの書き始めにメッセージを頂いた北祭さん。
その北祭さんが、bk1の「書評の鉄人列伝」に登場しておりました。
そのコメントを楽しく拝見。
「 本棚にはいつか読もうと思っている古書や新書が山のようにある。いったい、本当に好きなのは、読書なのか、蒐集なのか。どちらも、まず選ぶことから始まるのだが、それが自分にはとても贅沢な時間。魅力ある書評を読むのもまた贅沢なひとときで、試しに書いてみるとこれが楽しく、以来、ぽつぽつと書き続けている。」


お仲間の北祭さんなので、興味深く思いながら読ませていただきました。
コメントは、本棚から始まっていたので、私の連想は「本棚・書棚」へとひろがります。

ちょうど、ドナルド・キーンさんの本を眺めているところなので、そこから。
たとえば、源氏物語を英訳したウェーリー先生について語る箇所に
「私はロンドンへ出るたびに先生の御宅を訪ねたが、先生がなにかの用事で部屋を出られることがあり、そんなときには一人でゆっくりと本棚を見る時間があった。蔵書はあまねく東西の文学は言うに及ばず、人類学や言語学に至るまで、文字どおり汗牛充棟であった。漢訳大蔵経の中でもっとも完備したものとされている『大正新修大蔵経』が、百巻になんなんとする背を並べているのを見て、私は胆をつぶした。それらの本は、決して本棚の飾りではなかった。すべて手垢にまみれ、装丁の裂けているものさえあった。・・・」(「日本文学のなかへ」文芸春秋社・p89)

大蔵経なんて、ちっとも知らないわけですが、それでも本棚を眺めているキーンさんの心持は、何となく私にも伝わってくるような気持ちになります。
そのキーンさんの本を本棚からとりだす様子が書かれた箇所もありました。
ドナルド・キーン著(大庭みな子訳)「古典の愉しみ」宝島社文庫。
その解説は瀬戸内寂聴さん。こうはじまります。
「ドナルド・キーン氏は日本人の国文学者よりも小説家よりも、日本文学に精通したアメリカ人である。・・・日本語で、数々の日本の古典文学についての名著がある。私など必要に迫られると日本の文学者の本より本棚に並んでいるキーン氏の著作の中から必要なものを引き抜いて参考にさせていただく。正確無比で、わかり易く、文章が明晰なので、失礼だが、『役に立つ』御本ばかりなのである。」

寂聴さんは、日本の教授や国文学者などではないので、直裁に良いものを判断して、そのままに語ってくれているので、ありがたくも貴重なご意見。
寂聴さんは、その後にキーンさんの会話を引用しております。
ちょうどウェーリーさんの御本のエピソードでした。
「私が日本文学のとりこになってしまった最初のきっかけは、まだ学生の頃、古本屋街で本あさりをしていたら、店の前に出した台の上に山盛りになっていた安い古本の中で、一番厚くて、一番値の安い本を見つけて、即座に買ったのです。学生の懐の淋しい私でも、すぐ買える値段だったのです。その本が源氏物語でした」。

ということで古本・古書へと、つながります。
キーンさんの戦後二年間の京都滞在中のことが「日本文学のなかへ」(p174~)に出てきます。

「二年間の滞日中、ことに後半はよく京都から出歩くようになった私だった、ふだん京都にいるときには、町に出るとしきりに古書を漁った。当時の京都は、古本屋をたどって歩くだけでも楽しい町だった。・・・
あのころ、丸太町を、あるいは寺町を、本屋から本屋へとだとって歩いているうちに、なんという本屋のどの棚にはどんな本があるか、ほぼ呑み込んでしまった。なかでも一番の楽しみは、近松全集の例のように、上巻と中巻と下巻を別々の店で安く買って、【自分で全集をつくる】ことであった。まとめて買えば簡単だが、あの楽しみだけは余事をもって代えがたい。一日一日が貴重だった日本留学に、古本屋の巡礼は時間の浪費ではないかと考える人もいるだろうが、私は古書を眺めながら過ごす時間を浪費とは考えない。・・・
最近では、古本屋をまわる楽しみが少なくなった。いまでもときどき、神田へ出て古書を漁ってみるが、全然面白くない。古書店でなければお目にかかれないような本が減ったし、たまに面白いものがあっても、一万五千円とか二万円といった、べらぼうな値段がついている。そんな値段の本なら、私は図書館へ行って読もうと思う。安くていい古本が、近ごろは、ほどんどなくなった。昔は古書店めぐりがほんとうに楽しみだった。集める楽しみのほかに、特定の本を見つけることによって自分の研究の転機をつかむことさえできたのである。昭和三十年の五月、こうしているうちに日本を離れなければならない日が来た。・・・・」


そういえば、ドナルド・キーンさんのコロンビア大学の師・角田柳作先生の本が
ネットで検索したら一冊ありました。「井原西鶴」(明治30年)。
値段はと見ると18,900円。残念、1890円なら買って読んでみたいのになあ(笑)。
検索にひっかかっただけでも、よしとします。


北祭さん。「書評の鉄人列伝」ご登場おめでとうございます。
コメントが親しく身近に感じられましたので、ちょうど思い浮かんだことを並べました。





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キーンさんの楽観。

2006-12-17 | Weblog
ドナルド・キーン氏の新聞連載が最終回。
読売に週一回連載の「私と20世紀のクロニクル」が12月16日で最終回。
それは、こうはじまっておりました。
「私の友人の何人かを襲った『ぼけ』が、私を不意に襲うのではないかという不安が頭をかすめることは確かにある。親しい友人の眼を見つめていて、そこに何の手応えも感じられないということほど悲痛なことはない。・・」
最終回は題して「八十四歳、『老齢』を楽観する」。
挿画の山口晃さんといったら、貧乏神ならぬ、ボケの神を描いて秀逸。
そのボケ神が左手で人間の後頭部を押え、右手はといえば、先端にボケの霞みか雲かと思うような綿がついた棒をふりあげて、今にも、ボケを頭にくらわせようとしているのでした。手前には、その棒で叩かれたような、髪がみだれ目は焦点があわないボケの症状をしめした人が固まった表情をしております。そのボケ神の様子はといえば、頭にサンタクロースの帽子をかぶりメガネを長い鼻にひっかけ、あごひげをはやして、マフラーを前にたらし、痩せこけた体に端々がボロボロの服をまとっております。まるで貧乏神に赤い帽子をかぶらせたような恰好。
もうひとつ大きく別に描かれているのは、
雑然とした書斎の椅子に、キーン氏らしき人物が座り、その机周りや、壁・本棚を山口晃さんが好き勝手なガラクタのお宝を並べて滑稽。まるで島田ゆか著「バムとケロ」シリーズの一ページを開いているような雑多な描き込みです。
さてキーンさんの本文は、こう続きます。
「・・・しかしそんな時私は、非常に老齢であるにもかかわらず次々と新しい作品を産み出していた人々のことを考える。ヴェルディは、八十歳を前にして、『ファルスタッフ』を作曲したのだった。北斎は九十歳になるまで、画を描き続けた。私は野上彌生子が九十代のときに二回対談したことがあるが、彼女はほぼ百歳で小説を書いたのだった。私も彼らのように幸福なら、あるいは正気を保っていられるかもしれない。」
そういえば、前回(12月9日)の連載の最後はというと、
「すでに私は新しい本の仕事に取り掛かっていて、何とかそれを完成させるとしたら少なくとも五年はかかりそうである。この本を書くのは、さぞ楽しいことだろうと思う。椰子の木陰に座って海を眺めながら、片手にラムの一杯がある――なんてことを、私はこれっぽっちもしたいとは思わない。」


しばらくしてから思い浮かんだのですが、ドナルド・キーン氏との鼎談に「同時代を生きて 忘れえぬ人びと」(岩波書店・2004年)というのがありました。他の二人はというと鶴見俊輔・瀬戸内寂聴。帯には「はじめて実現した81歳トリオの鼎談」とあります。
そこに、こんな箇所がありました。
鶴見さんが野上彌生子さんの話をして「・・・だから『迷路』は面白いです。あれは、夏目漱石の精神を現代に生かした偉大な小説です」と語ると、それをうけてキーンさんが「私は二回、野上さんと対談したことがあります。二回とも九十歳以上でした。そのとき、私は生れて初めて、九十歳以上の人と言葉を交わしました。そして、一回目は大変面白かったです。私にとっては、笑ったらいいのか、泣いたらいいかわからないような話でした。たとえば、芥川龍之介の話をするときに、『あの若い人が・・』と(笑)。また、夏目漱石の話をするときには、夏目漱石の謡の稽古の真似をしていました。聞いていると、まったくヤギのようで、『メェー~』というような音を出していました(笑)。
本当に数々の面白い話を聞かせていただきました。とくに、お能の話は多かったですね。そして、私に、お能の中でいちばん好きなのは何かとおっしゃるので、私が『松風』だと言うと、自分は『西行桜』のほうがいいと思うと言って、いろいろ説明してくれました。『この人と、お能の話をしていたら、どんなに素晴らしいだろう。いろいろ勉強になるだろうな』と思って、本当に楽しかったです。また、そういう一方で人の悪口をいっぱい言っていました。あらゆる人の悪口を。しかし、これが二回目はぜんぜん違っていました。九十九歳で、お亡くなりになる直前だったでしょうか。・・このときの話は、繰り返しばかりで面白くなかったですね。
しかし、私は、二回お目にかかったことを大変うれしく思います。また私も、鶴見さんと同じように『迷路』を大変高く評価しています。立派な小説です。・・・お能に対する愛着も非常によく出ています。戦時中に、爆弾が落ちているときに、『能面と一緒に死にたい』という人がいた、と。そういう気持ちを、私はわかるような気がしました。」
それを受けて鶴見さんは
「それなんですよね。」
「・・・『あなたなんかは、能の名手なんでしょう?ノアの方舟があったら、方舟に乗るべき人なんだ』というところがある。・・それを聞いて、『アッ』と驚いた。つまり、中日戦争のときに書き始めたんですが、そのときには、知的な小説を書く漱石の趣があって書き始めたんです。だから、英文学を非常に読んでいるでしょう。ところが、戦争中に、能の名人を自宅のそばに招いていて、そのリズムが、ほとんど二十年の修練を経て筆まで入ってきているんだ。だから、能のリズムが『迷路』の終わりには出るんです。戦争の終わりに際して、そして人生の終わりに際して。だから『すごい!』と思ったね。・・・」(p101~p106)
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映画館へ三里。

2006-12-16 | 硫黄島
「ほととぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里」という言葉があるそうです。
潮騒を自由気ままに聞くこの地(里)では、映画館へも一日がかり。
そんなわけで、地方にいる私は、まあ映画を見に出かけることは、ありませんのです。
そういうことなので、クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」は、観に出かけないことにしております。それでも、気にはなり。その気懸りを癒してくれるのが映画評だったりします。
そこに映画の具体的な箇所が紹介されていると、私は喜びます。
たとえば、「物語は、硫黄島に日本の男たちが残した膨大な数の手紙が掘り出される場面から始まる」とあったり、「2006年、硫黄島の地中から数百通もの大量の手紙が見つかる。61年前、この激戦地で戦った男たちが家族にあてて書き残したものだった・・」という言葉を新聞の映画評のなかに見出すと嬉しくなります。
そして、見には行かない。という立ち位置からの、勝手な連想する愉しみへ。


ということで、ここからは、
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋)から以下引用。


(海軍語学校)11ヵ月の詰め込み教育は終り、私は卒業式の総代として告別の辞を読んだ。海軍少尉に任官した語学生一同は、ハワイに送られた。1943年1月。折からガダルカナルの日本軍は、敗色ようやく濃かった。
私に割当てられた仕事は、ガダルカナルで米軍の手に落ちた、日本軍の公私さまざまな文書を翻訳することだった。隊員の健康調査書や隊の備品目録など、訳してもなんの足しにもならない書類ばかりでうんざりしたが、ある日の私は、ふとしたことから日本兵の日記や手紙類を発見し、読む進むうちに深い感動に襲われた。それはとくに、私に課せられていた米軍兵士の信書検閲の印象とくらべるとき、圧倒的な感動だった。
週に一日、私は午前零時から八時まで、米兵が故郷に宛てて書く手紙を検閲しなればならなかったのだが、軍機らしいことは何一つ書かれていないかわり、この上もなく退屈な手紙だった。ある兵士は『今晩もまたブタ肉の料理だ。やりきれない』と書いていた。別の兵士は『ハワイなんていやだ。早くカンサスに帰りたい』と家族に訴えていた。なんのために戦っているのかわからない、早く戦争が終ればいい・・・・。米兵の手紙は、ほとんどが、そのような不平不満のかたまりだった。退屈のあまり、私は二通の手紙の中身を入れ換えてみたり、いたずらによって憂さを忘れようとした。
それにくらべると、日本兵の書いたものは次元が違っていた。ブタ肉やトリ肉の不平はおろか、口に入れるものさえろくにないのがよくわかった。ある日記には、戦死者続出のため十五名になってしまった小隊に正月用の豆が十三粒配給された、どう分配すればよかろうか、という悩みが書かれていた。軍事的情報としてはなんの価値もないが、非常に実感があり、ジャングルの中の日本兵の姿が目に見えるようで、それらの文字は惻々として私の胸を搏った。・・・・
それ以後、アッツやキスカへ行き、レイテ、沖縄へ行き、ささやかな戦歴(と言っても銃は執らなかったが)の間に捕虜との接触を通じて、私は戦争の終るころには一応の日本人観を持つに至った。それは、現在の日本人には当てはまらないかもしれないが、あのころの日本人には通用するものであった。(p34~36)


ドナルド・キーン著「百代の過客 日記にみる日本人」上(朝日選書)の「序 日本人の日記」にも同様の箇所が拾えます。そこも引用しておきましょう。


私が日記への日本人の強い執着に初めて気付いたのは、戦争中のことであった。その時何か月も、私の主な仕事は、戦場に遺棄された日記を翻訳することだったのである。あるものには血痕が付いていて、明らかに戦死した日本兵の遺体から手に入れたものにちがいなかった。またあるものは、海水にひたされたあとがあった。私がこうした日記を読んだのは・・・軍事的価値のある情報が、時として見つかったからである。・・・
日記をつけている兵士の置かれた状況は、彼らの小さな手帖の内容を、しばしば忘れがたいものにしている。例えば船隊の中で、自分の船のすぐ隣を航行していた船が魚雷を受けて目の前で沈むのを見たような時、その兵隊が突然経験する恐怖、これはほとんど文盲に近い兵士の筆によってさえ、見事に伝えられていた。とくに私は、部隊が全滅してただの七人生き残った日本兵が南太平洋のある孤島で正月を過ごした時の記録を憶えている。新年を祝う食物として彼らが持っていたのは、十三粒の豆がすべてであった。彼らはそれを分け合って食べたのだという。
太平洋戦争の戦場となったガダルカナル、タラワ、ペリリュー、その他さまざまな島で入手された日記の書き手であった日本兵に対して、私は深い同情を禁じえなかった。たまたま手にした日記に、何等軍事的な情報が見当たらない時でも、大抵の場合、私は夢中になってそれを読んだ。実際に会ったことはないけれども、そうした日記を書いた人々こそ、私が初めて親しく知るようになった日本人だったのである。そして私が彼らの日記を読んだ頃には、彼らはもうすべて死んでいた。
日本兵の日記は、もう一つ別な理由からも私を感動させた。アメリカの軍人は、日記を付けることは固く禁じられていた。敵の手に渡ることをおそれてのことである。しかしこれは、アメリカ人には何等苦痛も与えなかった。どちらにしても、日記を付ける人間など滅多にいなかったからである。ところが・・・(p14~17)



映画「硫黄島からの手紙」の導入部。掘り出された膨大な手紙を、まずアメリカ人のどなたが読んだのか? 映画を見ない私の連想はそちらへと行ったりします。
それから、引用していたら気付いたのですが、キーンさんの文には、十三粒の豆が同じなのに、15名が7名と人数がちがっておりました。ちょいとした間違いなのかどうか?
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「日本文学のなかへ」

2006-12-11 | 硫黄島
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋・昭和54年)が、私に魅力です。
その魅力は、たとえば養老孟司著「バカの壁」にたとえられるのかもしれないなあ。
あの養老さんの新書は、編集者に語り、編集者の手でまとめられていたのでした。
そこが似ていると、つい思ってしまうのです。
このキーンさんの本も、編集者が詳細な(百数十項目)質問表を用意して、それを友人の徳岡孝夫氏と、週一度の割で会い、ポーランド産のウオツカを二人で傾けながら語ったというもので。それを徳岡氏がまとめたものでした。それが現代文のお手本のようです。簡潔に要領を得て、なめらかな日本語の文になっているのでした。
帯には「研究自叙伝シリーズ」とあります。
自叙伝といえば、福沢諭吉著「福翁自伝」がありますね
(文藝春秋2007年1月号の特集「文春・夢の図書館」で、齋藤孝氏が「偉大なる生涯・伝記10冊」をあげておりました。その一番目には福翁自伝がありました)。
野口武彦はこの本を指摘して
「『福翁自伝』は、諭吉が自分で書いた文章ではない。明治31年(1898)に幼児から老後のことまでを語った談話を筆記させた著述である。行間に話芸が光っている。平板な回顧談ではなく、人生の切所々々で下した決断が現場感覚的に再現されている。諭吉はただの不満分子ではなかった。現状が変わらないのなら、自分の方を変えようと行動を起す果断さがあった。・・・・」(「近代日本の百冊を選ぶ」講談社より)。

それじゃあ。というわけで、余談になりますが、私はここで戦いの時をとりあげてみます。
福翁自伝の「上野の戦争」から
「明治元年の五月、上野に大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物も料理茶屋もみな休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やらわからないほどの混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業をやめない。上野ではどんどん鉄砲を打っている、けれども上野と新銭座とは二里も離れていて、鉄砲玉の飛んで来る気づかいはないというので、ちょうどあのとき私は英書で経済(エコノミー)の講釈をしていました。大分騒々しい様子だが煙でも見えるかというので、生徒らはおもしろがってはしとに登って屋根の上から見物する。なんでも昼から暮過ぎまでの戦争でしたが、こっちに関係なければこわいこともない。」
「顧みて世間を見れば、徳川の学校はもちろんつぶれてしまい、その教師さえも行くえがわからぬくらい、まして維新政府は学校どころの場合でない、日本国じゅういやしくも書を読んでいるところはただ慶応義塾ばかりというありさま・・・」

「日本文学のなかへ」での戦争はというと、
「海軍語学校は、そのころ、ちょっと奇妙な世界の中に埋没していた。私たちの周囲の社会は戦争一色だが、語学校だけは不思議なほど戦争に無縁で、ひたすら日本語を覚えることに没頭できた。日本語を私たちが覚えることと戦争遂行の間にはどんな関係があるかは、全然と言っていいほど念頭に上らなかった。全米に軍服が氾濫していた時代だが、私たちだけは軍事訓練も受けず、ひたすら日本語の世界に沈潜していたのである。」(p31)
「レイテ島を出た輸送船団に便乗して沖縄に着いた日の朝、私ははじめて神風特攻機を見た。急降下してくる機影は、茫然と甲板上に立ちすくむ私の眼前でみるみる大きくなり、『やられるな』と思ったつぎの瞬間、僚船のマストを引っかけて海に落ちた。・・・アッツ島に私が着いてまもなく、日本守備隊は玉砕した。・・・」

せっかくですから、ここでの最後にサイデンステッカー自伝「流れゆく日々」(時事通信社・2004年)で、語学将校として第2次大戦を体験した様子も見てみたくなります。

「1945年2月、われわれはトラックと列車でヒロの港まで行き、硫黄島に向けて出航した。・・・・2月も終わりのある日の朝、われわれの眼前に硫黄島が浮んでいた。到着の前夜は、戦争中を通じて最悪の夜だったと思う。・・あの夜ばかりは、まさしく一睡もしなかったと確信して疑わなかった。私はおびえ切っていた。・・・」
「第五海兵隊は、島の南端の砂浜に上陸することになっていた。・・・・
そんな所に馬鹿みたいに突っ立ていないで、早く壕を掘れ――上官は私にそう命じた。確かに私は、まさしく馬鹿のように突っ立っていたに違いない。気を取り直して、一人用の塹壕を掘り始めたが、ほとんど掘り終わる頃になって、初めて気がついた。いかにも気味の悪い物体が、ほんの数フィート先に、なぜ今まで目に止まらなかったのか不思議なくらい、これ見よがしに突き出しているではないか。・・・塵芥の山の中から、剥き出しの日本兵の腕が突き出ていたのだ。・・・大いに不思議に思えてきたのは、むしろ私が、あれほどたちまちのうちに、この腕に注意を払わなくなってしまったという事実だった。そのまわりを歩いても、目をそらすこともなくなってしまっていたのだ。・・・」(p58)

「戦闘も最後に近くなると、・・・斬り込み隊の突撃が繰り返された。・・・夜中に突然、敵陣に乱入して来る。・・一度などは、われわれのいる司令部の北側のほんの数十ヤードの所を、突撃隊が突進して行ったことがあった。もし彼らの進路がわずかに左手にそれていれば、われわれ全員が突撃に遭遇していたに違いない。翌朝になって初めてこのことを知り、動転したのだったが、しかし、それ以後この島を離れるまで、毎晩恐れは感じたとしても、上陸前夜の、あの圧倒的な恐怖に比べれば、所詮、ものの数ではなかった。」(p60)
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万葉集への目印。

2006-12-11 | 地震
万葉集は読みたいのですが、なかなか、とっかかりがつかめません。
その切っ掛けになればと思いながら、並べてみます。

司馬遼太郎著「以下、無用のことながら」(文春文庫)を、最近同じgooブログの「言葉の泉」さんが引用しておりました。その引用されていた「学生時代の私の読書」の最後には、こんな言葉があったのでした。
「・・ただ軍服時代二年間のあいだに、岩波文庫の『万葉集』をくりかえし読みました。『いはばしる たるみのうへの さわらびの もえいづるはるに なりにけるかも』。この原初のあかるさをうたいあげたみごとなリズムは、死に直面したその時期に、心をつねに拭きとる役目をしてくれました。」(p40)

産経新聞2006年12月8日四コマ漫画の下に「葬送」として野崎貴宮さんの署名記事。
白川静さんを取り上げております。
これは、引用しておきたくなりました。

「『わが故郷(ふるさと)は日の光 蝉の小河(おがわ)にうはぬるみ』で始まる薄田泣菫の詩『望郷の歌』の朗読が会場に響いた。大学紛争の時代。白川研究所には夜遅くまで電気がともり、研究をやめない姿に、学生たちも圧倒された。そうした中、白川氏がよく口ずさんでいたのが、この詩だった。マンツーマンで講義を受けた経験がある佛教大の杉本憲司教授(中国考古学)は『先生は万葉集を暗記していた。苦学していたころに暗記したようです。漢字研究と同じくらいすごいのが万葉集と詩経の二大歌謡の比較研究。先生は古代歌謡論の世界にも大きな業績を残した』と振り返った。・・・・」

「口ずさむ」とか「暗記していた」とかは、その謦咳に接した方の言葉として貴重でもあり、とても参考になり、ありがたく思うのでした。

もうひとつ。
文藝春秋2007年1月号の特集「文春・夢の図書館」。
山折哲雄氏は「日本人のルーツを考える10冊」で、最初に万葉集をあげております。
それについている言葉は
「日本人の源流を考える上では、やはり第一に『万葉集』だろう。とりわけそこに盛られている『挽歌』の世界は、おそらく相聞歌のそれよりもはるかに重要ではないかと思う。挽歌とは死者を悼む歌。当時の日本人は、死者の魂の行方にただならぬ関心を抱いていた。・・・・」(p302)

ついでになりますが、
山折さんの10冊リストの、⑤⑥番目が気になりました。
そこで和辻哲郎著「風土」と寺田寅彦著「日本人の自然観」をならべて、こう書いております。
「和辻の『風土』は世に知られた名著で、いろいろな読み方がされてきたが、その要点をいえばわれわれの日本列島を『台風列島』ととらえたところに重要な特徴がある。日本人の精神的ルーツを『台風』という風土的契機を軸に考察したものだった。これにたいして寺田の『日本人の自然観』は同じこの日本列島を『地震列島』として対象化し、日本人の宗教感覚や美意識に迫ろうとしたものだ。和辻のいう『台風』か、それとも寺田のいう『地震』かというテーマは、見方によっては巨大な展望のひろがりを予想させるものだが、面白いことに和辻はもっぱら台風にのみ着目して地震を無視している。そしてそれにあたかも反旗をひるがえすような形で、寺田は地震にのみ論点をしぼって台風を視野の外においている。和辻は台風を契機とする風土論から『慈悲の道徳』という倫理的課題を抽出し、それにたいして寺田はその地震論にもとづいて『天然の無常』という宗教的課題をすくいあげているのである。
21世紀は大災害の世紀になるかもしれないと危惧される今日、右の和辻と寺田の対照的な問題提起は、日本人の源流を探ることと同様、日本の将来を占う上で見逃すことのできない仕事だったのではないだろうか。」

ここから、思い浮かぶのは山折哲雄著「悲しみの精神史」(PHP)でした。
そこの「寂寥に生きた万葉人」(p25~)の中に、こんな箇所があります。

「もう一人、山部赤人と同じ心構えで富士を歌にした高橋虫麿(むしまろ)がいる。赤人の蔭にかくれているような歌人だが、こちらのほうがむしろ見過ごせない。」として虫麿の一文を引用しております。
「・・・富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず・・・」
ここを山折さんは、宗左近さんの解釈で説明しております。
「燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ」が噴火の状況そのものであることがわかる。その「燃ゆる火」が富士の山頂に燃えさかる火柱であることがみえてくるだろう。
ここで宗さんの言葉から引用しております。「富士は噴火活動を続けた。とくにいまから約三千年前(縄文晩期の始まり)から紀元八百年ごろ(平安前期)までの、およそ千八百年間がもっとも盛んだった。」
赤人と虫麿の生れたのは、ほぼ紀元650年以後と推定。
「かつての富士大噴火の体験と恐怖が、それ以来の縄文人の意識(無意識)のなかに流れつづけ、それがさらに紀元前1000年から紀元後650年にかけての活発な大噴火の体験と恐怖によって点火され増殖されたのではないか。」と宗左近著「日本美 縄文の系譜」から引用しておりました。

ここで、山部赤人の歌をあらためて読み直してみると。

「  

天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語りつぎ 言ひつぎ行かむ 富士の高嶺は  

     反歌

        田子の浦ゆ打ち出でて見れば真白にそ 富士の高嶺に雪は降りける        」


万葉集と富士山の噴火とを結びつける発想は、どうやら寺田寅彦の「日本人の自然観」へと結びつけてゆきたくなるのでした。
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文春・夢の図書館。

2006-12-08 | 硫黄島
出たばかりの文藝春秋2007年1月号に、「文春・夢の図書館 読書の達人が選ぶ337冊」という特集。
各リストでは、半藤一利「昭和史入門の10冊」というのから、はじまっておりました。
そういえば、半藤一利と表紙に名前があるPHP文庫「完本・列伝太平洋戦争」(2000年)の目次をめくっていたら、栗林忠道の名前が見あたりません。その名前も忘れられていた人が、この文藝春秋1月号では「イーストウッドが惚れた名将の真実 硫黄島 栗林忠道の士魂」と題して俳優の渡辺謙・作家の梯久美子お二人の対談を掲載。雑誌の表紙グラビア日本の顔でも渡辺謙がとりあげられて、イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」日本プレミアでの写真が載っておりました。半藤さんの「完本・列伝太平洋戦争」は太平洋という名で、どうやら海軍の列伝を意味しているようです。そういえば栗林忠道は陸軍でした。対象外だったのですね。
そんなふうにして、一般の戦後生まれには、その名さえ聞いたことのない栗林忠道を、鮮やかに浮かび上がらせたのはクリンスト・イーストウッドの功績として長く賞賛されてよいでしょう。
雑誌の特集にもどりますが、その特集の終わりに日垣隆さんが「14歳からの【人生の教科書】100冊」という11ページのリストと文がありました。思い浮かぶのは今年発売された谷沢永一著「いつ、何を読むか」(新書・KKロングセラーズ)です。そこでは15歳から読む本が並びます。ちなみに谷沢さんが15歳でまずお薦めの柳田国男著「木綿以前の事」(岩波文庫)は、「14歳からの・・」の日垣さんのリスト100冊では柳田国男の名前も登場しておりませんでした。ということで、今回の特集に柳田国男を選んでいる方がいるかとパラパラとめくると、
まずは最初に浅田次郎さんの「すべては一冊の本から始まった」という文に、
「・・物語の魅力を最初に教えてくれたのは童話です。・・グリム童話には人間臭さがある。そんなところが気に入ったのでしょう。童話の次は民話と伝説。小学三年生の頃、学校の図書室で『日本の民話と伝説のシリーズ本を見つけたのがきっかけです。・・その影響で、後に柳田国男さんや折口信夫さんなど民俗学者の作品を愛読するようになります。勿論、全集をすべて読んだのはこれが最初です。・・・」
ほかにはと、各リストを見ると山折哲雄「日本人のルーツを考える10冊」が古典を踏まえており、④に柳田国男の「先祖の話」をとりあげておりました。ちょいとどういう経緯かを引用しておきます。
まず万葉集・源氏物語・平家物語をあげて
「戦後日本の教育は、右の三古典をいまのべた観点から読むことを怠ってきたために、日本人とはそもそも何かという課題をつきつめて考える上では大失敗を演じてきた。そしてこのことの意味をよく知っていたのが柳田国男と折口信夫であった。・・日本の戦後教育はここでも、その歴史教育、文学教育においてこの二人の仕事をまったく無視してきたのである。・・・」
この山折さんの短文はステキなのでなのでまた読み返してみよっと。

それからマンネリと言われようと、忘れてならないのは夏目漱石ですね。
どなたか取り上げておられるかなあ。
ありました。池内恵「歴史と文明をひもとく10冊」の10番目に「漱石人生論集」(講談社文芸文庫)が載っておりました。
ちなみに、日垣さんの100冊リストにも、浅田次郎さんの文にも漱石は登場しません。

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「坊っちゃん」を選ぶ。

2006-12-05 | Weblog
「私が選んだ文庫ベスト3」(ハヤカワ文庫)をめくっていると、ワクワクしてくるのでした。その帯には「本読みの達人140人 異色の読書ガイド」とあります。たとえばドナルド・キーンさんが井原西鶴の文庫3冊を選んでおりまして、その説明で、
「西鶴を原文で読むことはかなりむずかしい。終戦直後、コロンビア大学で、戦時中日本語を覚えた四、五人の元軍人は、角田柳作先生のもとで『好色五人女』を通読した。外国の教室で始めてのことだったろう。使っていたテキストは悪名高き有朋堂文庫本だった。いくら考えても理解できなかった難解なところに何の注もなかったが、『江戸』に『現在の東京』あるいは『孔子』に『支那の偉人』のような注はいくらでもあって、腹立たしかった。」とあります。
ちなみにキーンさんの「日本文学のなかへ」(文藝春秋)のp148~149には、
脚注についての覚醒と覚悟を語った箇所があり別の視点から印象に残ります。

さて、半藤一利さんは夏目漱石の文庫ベスト3を挙げていました。

 ①漱石書簡集   (岩波文庫・三好行雄編)
 ②坊っちゃん   (集英社文庫)
 ③漱石文明論集  (岩波文庫・三好行雄編)

という選択です。その「坊っちゃん」の箇所は思わず唸ってしまいそうです。こうです。
「小説では『坊っちゃん』が好きだから、文庫はすべてとりそろえ、気分によってとり変えて読んでいる。勉強したいときは注の数194といちばん多い岩波(角川140、集英社155、新潮54)がいい。原文にもっとも近い雰囲気を味わいたいときは新潮。角川、集英社は漢字を開き(仮名書きにし)すぎだが、集英社が活字も大きく助かる。若い人にはこれを勧める。ところで各社の注だが、『ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の・・・・わんわん鳴けば犬も同然な奴』という有名な坊っちゃんの啖呵、どれも香具師とモモンガーと岡っ引きの三つに注がかぎられている(新潮はまったくなし)など、少々芸がなさすぎるぞな、もし。」

うんうん。こういう坊っちゃん好きがいるのですね。
ちなみに「私が選んだ文庫ベスト3」には古井由吉・選の夏目漱石もありました。
こちらは、作家が選んだ。という舐めつくすような趣味を感じます。

 ①思い出す事など 他七篇   (岩波文庫)
 ②硝子戸の中         (角川文庫)
 ③夢十夜 他二篇       (岩波文庫)

という取り合わせ。古井さんの語り始めがふるっています。
「また尋ねられれば、また違った答えになるだろう。・・・・」
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今年の「坊っちゃん」。

2006-12-04 | Weblog
今年は夏目漱石の「坊っちゃん」をはじめて読みました。
ということで、「坊っちゃん」を取り上げます。
なんてったって、今年は「坊っちゃん」百年なのだそうです。

馬場練成著「物理学校」(中公新書ラクレ)のp211~214に
漱石と物理学校の接点が語られており興味深いのでした。

それにつられて「坊っちゃん」を読んだのですが、
おかげで中村吉広著「チベット語になった『坊っちゃん』」(山と渓谷社)を読めた。
それに、平岡敏夫著「『坊っちゃん』の世界」(塙新書)にも手が伸びました。

飛ヶ谷美穂子著「漱石の源泉」(慶応義塾大学出版会)で
「坊っちゃん」関連箇所をひろってみると、その頃の手紙が引用してありました。
高浜虚子へ書いていたものです。
「・・実は論文的のあたまを回復せんため此頃は小説をよみ始めました。スルと奇体なものにて十分に三十秒位づつ何だか漫然と感興が湧いて参り候。只漫然と湧くのだからどうせまとまらない。然し十分に三十秒位だから沢山なものに候。・・・此うちにて物になるのは百に一つ位に候。・・・然しとにかく妙な気分になり候。小生は之を称して人工的インスピレーションとなづけ候。」
飛ヶ谷氏はこの時期にメレディス作品を読んでいたことを明らかにしております。

ちょいと寄り道しますが、
今年。10月30日白川静(96歳)が亡くなりました。
漢学研究の第一人者で文化勲章受賞者。追悼文には
谷川健一「偉大な独学者の魂」(日経新聞11月5日)。
加地伸行「そびえ立つ中国古代学の泰斗」(産経11月7日)。
などを読みました。そんななかに
山折哲雄「白川静さんを悼む」(読売新聞11月3日)に
こんな言葉がありました。
「今年の正月だったと思う。ある新聞に寄稿された白川さんが、日本国家の今後のあり方について情熱的に語っておられたことが忘れられない。歴史の深層に視点を定め、伝統文化再興の重要性に言及する筆致には若々しいエネルギーが脈打っていた。」

その新聞寄稿文は残念読めなかったのですが、雑誌「文学界」2006年7月号の特集「国語再建」に、白川静氏の文が掲載されておりました。こちらを読むことができました。
そこに
「・・・以来、1300年程、日本人は漢字に親しみ、さまざまな試行錯誤を重ねて、漢字のいろいろな可能性を究めてきたのです。たとえば江戸時代には、極端に漢字を使う、あるいは極端に漢字を嫌うということが行われたり、明治時代に入ると、漢文調の難しいものがたくさん書かれた。そして、ようやく国民的な文学を書くことが可能になるほどに、文章が成熟したのが明治の後半であり、おそらく明治の終わりから大正期には、日本の文字文化は完成期を迎えたと言える。ところが、大正期になってほぼ完成したというときに、軍国主義が興って、また四角い字ばかりを無雑作に並べるようなことになってしまった。その結果、日本の文字は滅びたのです。日本語の表現力がほぼ完成期に達したのは、明治の終わりから大正の初期、具体的には漱石とその一門が活躍した時代であるという風に考えてよい。その時代を目標にして日本の文字政策というものを考えるべきだと思います。」(p125~126)

ところで、この10月に
坪内祐三著「『近代日本文学』の誕生 百年前の文壇を読む」(PHP新書)が新刊として出たところです。
その「はじめに」で坪内氏はこう書いておりました。
「普通、『近代日本文学』の誕生は、二葉亭四迷や山田美妙らが言文一致を試みた明治二十一、二年頃と見るのが定説です。しかし私は、あえて、明治三十九年が、つまり新人作家夏目漱石が代表作を次々と発表し、島崎藤村の『破戒』が刊行されたこの年こそが、真の意味での『近代日本文学』誕生の年だと思い(この評論を書き続けている内に気づき)、このようなタイトルをつけました。つまり今年(2006年)は『近代日本文学』が誕生してから丁度百年目に当たるのです。・・・・・もう一度言います。丁度百年前の今頃、『近代日本文学』は誕生したのです。」

坪内さんの「『近代日本文学』誕生」という文壇言葉よりも、
白川さんの「日本語の表現力がほぼ完成期に達した」という表現のほうがスケールが大きくて、私は心躍ります。
なぜって、私は島崎藤村やら、そのころの作家を読む気がおこらないのです。
それよりも百年前に誕生した「坊っちゃん」の漱石を思うだけでいいや。
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秋篠宮妃殿下のお父さん。

2006-12-03 | テレビ
「私はテレビを持っていません。」というのは、エドワード・サンデンステッカーさん。
こういう少数者は、現在ではイザ捜そうとすると見つけ出せない、貴重な人種。
そういう少数者は同属に敏感なのでしょうね。
では、サンデンステッカーさんの言葉。

「私はテレビを持っていません。長い間、東京という大きな街でテレビも冷房もないのは私一人ではないかと思っていました。しかし新聞によりますと、秋篠宮妃殿下のお父さんも、テレビも冷房もない暮らしをしているということでした。『でした』ということは、今はもう持っているかもしれません、あれだけ偉い方になったからテレビや冷房がないはずはないです。とにかく私一人だと思っていたんです。テレビや冷房は、便利どころではなく、私にとっては非常に不便なものになっています。」

これは「日本文化へのまなざし 司馬遼太郎記念講演会より」(河出書房新社・2004年初版)にあった言葉です。
ところで、今年出た本に池内恵著「書物の運命」(文藝春秋)がありました。
そのはじまりの文に

「なにしろ生家にはテレビがなかった。父が『ドイツ文学者』なるものをやっていて、しかもかなり頑固だったので家にテレビを置かないというのである。1960年代半ば、高度経済成長の真っ只中に人々が求めたのは『3C』すなわち『カー、クーラー、カラーテレビ』だったそうだから、私の場合、家庭内の環境としては『戦後すぐ』に等しかったことになる。・・・・
私は1973年生まれで、まともな家庭に育っていれば日本アニメの全盛時代を体験したはずである。・・恥かしい話だが、私自身が初めて毎日の生活の中にテレビがある暮らしをするようになったのは、20代半ばに資料集めのためにエジプトのカイロに居を構えた時である。・・・・」

そして、貴重な証言

「思い返すと、小・中学生のころは学校に行って同級生の発言が聞き取れないということは当たり前だった。この年頃の会話からテレビに関する固有名詞を抜いたら、ほとんど残らない。・・・
そもそも子供同士の挨拶で『おはようございます』とは言わない。例えば朝、顔を合わせて最初の一声が『「いいとも」見た?』であったりする。要するに『あなたは日曜日、昼のテレビ番組「笑っていいとも!」を見ましたか?』という意味だが、もちろん見たか見ていないかを聞きたいのではなく、挨拶の代わりである。しかしこちらとしては最初はこれがまったく謎の単語となる。日本語はしゃべれるが共通の話題についていけない帰国子女と同様、あるいは日本語を学習してきたものの俗語・会話の聞き取りに苦労する留学生のような状態である。」

この文のあとに秋篠宮妃が、登場します。

「ここまで完全にテレビを見ずに育った同類には今まで出会ったことがない。
ただ一人、秋篠宮親王が結婚するときに、お相手は大学の先生の娘で、家にテレビを置かない生活をしてきた、という話を読んだことがある。知る限り、これが私以外の唯一の例である。」

この種族を探すのには、とても大変そうですね。
せっかくテレビを見ていなくとも、
後でテレビを置いて、消滅しているかもしれないわけです。

すくなくとも三人。
エドワード・サンデンステッカーさん。
池内恵のお父さん。
秋篠宮妃殿下のお父さん(この方は、ちょいと現在はどうでしょう)。

テレビのウイルスに犯されない人種がこの世に存在しているようです。
ちなみに、サンデンステッカーさんの講演の題は「文学はあと一世紀もつか」でした。
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谷川俊太郎と三好達治。

2006-12-01 | 詩歌
限られた本棚に、入りきらない文庫本は、段ボール箱にしまいます。
文庫本の段ボール箱をきめてありますので、読みたくなると開けてみます。
買っただけで読んでいなかった文庫を、とりだすのも愉しみのひとつ。
まだ開封しない年代物のワインのように熟成されていたりするかと思えば、
日本酒のように古くなって茶色く変色しているような文庫本もあるわけです。
たまたま、今回は丸谷才一編「私の選んだ文庫ベスト3」(ハヤカワ文庫)を取り出して頁をめくっておりました。これは現在も毎日新聞の書評欄で継続中の連載物です(現在の連載題名は「この人・この3冊」)。最初から変わらず毎回和田誠さんの絵が楽しみで、文庫にもその絵が毎回載っております。それを見ているだけでも楽しめるようになっております。
パラパラと開いていたら
谷川俊太郎さんが三好達治氏の文庫本3冊を選んで文章を書いているのが目に入りました。谷川俊太郎は1931年生まれ。その谷川さんの最初の詩集「二十億光年の孤独」に「はるかな国から ――序にかへて」と題して三好達治が書いておりました。

「 この若者は 
  意外に遠くからやつてきた
  してその遠いどこやらから
  彼は昨日発つてきた
  ・・・・
  ・・・・
  1951年
  穴ぼこだらけの東京に
  若者らしく哀切に
  悲哀に於て快活に
  ・・・・
  ああこの若者は
  冬のさなかに永らく待たれたものとして
  突忽とはるかな国からやつてきた    」

その「待たれたものとして」やってきた谷川さんは、
いったい三好さんをどう思っていたのか。その感触がわかる文なのでした。

谷川さんが選ぶ、三好達治の文庫3冊は

  ① 三好達治詩集(岩波)
  ② 詩を読む人のために(岩波)
  ③ 諷詠十二月(新潮)

そこに添えた谷川さんの文はというと

「三好さんは私が世に出るきっかけを与えて下さった方だし、仲人をしていただいたこともある。・・私は不肖の弟子だった。・・若いころはそんなに詩にのめりこんでもいなかったから、もったいないことをしたと思う・・・現代詩はヘボ筋に迷い込んだという三好さんの有名な発言を私もじかに聞いた記憶があるが、それも後になって思い当たるので、当時は蛙のつらに水だった。」

そして、谷川さんはこう書いておりました。

「三好さんの詩や文章をいま読み返すと、私もずいぶん遠くへ来てしまったものだなあという感慨にまず襲われる。だがこれは三好さんがもう古くなってしまった、あるいは三好さんが『詩を読む人のために』で示された課題がいまではもう成立しないというようなことではない。出口の分からないヘボ筋の迷路を長年さまよっていたら、なんのことはない、元の入り口の近くへ来ていたのに気づいた、そのなふうにも言いたい気持ちだ。他の詩人たちは知らないが、私などは『諷詠十二月』中の『結局して詩歌の趣味風味といふのも、それが人生と相亙る分量の多寡にかかつてゐる。またその品質の上下にかかつていゐる。』というような箇所が目にとまると、あらためてぎくりとする。また文庫には選ばれていないが、私の好きな詩『空のなぎさ』を読むと、たとえばバッハの音楽の一節を聴くような心地がする。・・・・」


ところで、今年の新書に山村修著「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)がありました。
そこには萩原朔太郎選評『恋愛名歌集』とともに三好達治の『詩を読む人のために』が取り上げられておりました。
ついでに谷沢永一・渡部昇一著「人生後半に読むべき本」(PHP研究所)も引用しておきましょう。
渡部氏が語っています。
「・・・万葉集をみんな読むとか、古今集をみんな読むとか、そういうことをする必要があるかといえば、私は懐疑的です。何といっても大変ですからね(笑)。そういうことをしなくても、萩原朔太郎の『恋愛名歌集』でいいんです。そうするとあれは、注も面倒臭くないけれども、スッと読んでわかるのがほとんど全部ですから。・・・・」
これに答えて、谷沢氏が
「ええ、その通り。つまり、全巻の全部の注釈を隅から隅までなどというのは専門の学者のやることであって、一般読書人は一番の早道、近道を通ったらいいと思う。
萩原朔太郎の『恋愛名歌集』の他にも、たとえば三好達治の『諷詠十二月』とかいろいろあります。これらはもう文庫にもないかもしれませんが、今はインターネットの古書店で探せます。とにかく、何でもいいんです。ご縁があったらよろしい。縁談と一緒で、自分にとっていいご縁であればいいのであって、相手がミス日本であるかどうかということは関係ない(笑)。」(p143~144)


それでは、段ボール箱に眠っていた文庫のご縁が、ここから次は、どこまでひろがるのか? 
たいていは、ここまでなのです。私の場合。

とりあえず、谷川さんが「私の好きな詩」としてあげていた「空のなぎさ」の
最初の2行と最後の3行とを引用しておきます。

  いづこよ遠く来りし旅人は
  冬枯れし梢のもとにいこひたり
  ・・・・・
  ・・・・・
  路のくま樹下石上に昼の風歩みとどまり
  旅人なればおのづから組みし小指にまつはりぬ
  かくありて今日のゆくてをささんとす小指のすゑに

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