和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

京都の明治大正。

2019-04-30 | 道しるべ
松田道雄著「明治大正京都追憶」(岩波同時代ライブラリー)が
古本で送料共400円でした。帯付きできれいな一冊(笑)。

さてっと、この本は
松田道雄著「花洛」(岩波新書)の改題とあります。
カバーの折り返しには、こう書かれておりました。

「生後六カ月で茨城から移り住んだ少年の
目に焼きついた古都の風俗、その幼い日の
記憶をもとに日出新聞などの文献を博捜して、
生き生きと再現された明治から大正に移ろうとする
・・・・京都の庶民生活。」

はい。昨日届き。京都へお上りさんをした者には
とても面白く、一日読んでおりました。

この本は、「梅棹忠夫の京都案内」に
書評があり、その本で知りました。

その書評から松田道雄氏の本を2冊注文して、
その一冊が昨日届いたというわけです。
あとは、連休明けでしょうね(笑)。

まず、梅棹忠夫の書評から、はじめないと。

「松田道雄さんは、わたしのもっとも
尊敬する先輩のひとりである。」

松田道雄著「京の町かどから」の書評なのですが、
ついでのように、こうありました。

「松田さんには、少年時代からの京都での
おもいでをかたった『花洛(からく)』という
すてきにおもしろい本がある。
あわせてよまれることを、おすすめしたい。
京都の市民生活を理解するのに、
おおいに役だつであろう。」(p163)

はい。昨日は読んで、おおいに役だちました(笑)。


内容豊富守備範囲がひろく、迷うのですが、
今回は、仏壇について語られた箇所を引用。

「父も母も茨城県におとなになるまでいた」(p3)
その両親が京都へ来て、小児科医を開くのでした。

では、仏壇・神棚が語られる箇所。

「うちには神棚も仏壇もなかった。
父も母も両親がそろっていたから、
先祖の位牌は東国の実家にあった。

父が神仏を信じなかったのは、
医者によくある素朴な唯物論のためか、
小さいとき身につけた儒教の
『鬼神を敬して遠ざく』からきていたのか、
わからない。・・・・・

うちに何度もあそびに来て、
どの部屋の様子もわかった長やんは、
『あんたとこ、お仏ったんあらへん。
けったいな家やなあ』といった。
毎朝、神棚と仏壇に両親ともに
礼拝していた長やんから見ると。
私の家はけったいに見えたろう。

国では年回(ねんかい)もやっていたろうが、
そのたびに京都まで知らせてこなかった。
だから私は法事を見たこともなく、
御詠歌も聞いたことがなかった。」(p146~147)

もう少し続けます。

「京都の人たちにとって、
お祭りは氏子のつとめであるだけでなく、
親類とのきずなをかためるしきたりでもあった。
・・・・・
お祭りや法事だけを
公式のつきあいの日ときめておくことは、
家の経済を計画的にはこぶには、必要なことであった。
親類が来れば、時と日を問わず
手づくりの料理でせいいっぱいもてなす
東国の農村の無計画とは異質のものだった。

私の家は東国風であった。
京都に博覧会があったりすると、
思わぬ親類がやってきた。
受験のシーズンには、どこかの
親類の青年がうちにきて泊まって試験をうけた。」
(p148)


はい。岩波文庫に「銀の匙」というのがあるでしょ。
本文全体はああいう感じなのでしょうが、
それを、文学的ではなくって、
梅棹忠夫風の書き方で、豊かな内容がすっきりとまとめられた。
といえば、すこしは本文の味わいを分ってもらえるでしょうか?

お上りさんの私の京都旅行で、
思わぬお土産が届いたような、
そんな味な一冊を読みました。


さて、いつくるのか、もう一冊の、
松田道雄著「京の町かどから」が、
届くのを待つことのたのしみ(笑)。




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天皇家のお歌を。

2019-04-30 | 産経新聞
産経新聞4月30日(火)。
今日の一面左に、平川祐弘氏の文。
産経新聞は平川祐弘氏をもってきた。
他の人でなくてよかった(笑)。

すこしだけ引用。
はじまりは。

「新天皇の即位を祝し、
天皇家のお歌を掲げ、
皇室の弥栄(いやさか)を
祈らせていただく。

  さしのぼる朝日のごとく
  さはやかにもたまほしきは心なりけり 

明治天皇は人はいかに生きるべきか、
心がけをうたわれた。
お歌は天皇様をはじめだれしもが
そうありたいと願う気持ちである。」




「私ども昭和一桁世代は小学校で
明治天皇御製をお習いした。

 あさみどり澄みわたりたる大空の
        廣きをおのが心ともがな

 これが神道の訓えと私が気づいたのは
だいぶ後である。自覚が遅れたのは、
敗戦後、占領軍司令部の否定的な
神道解釈の下で教育された私たちは、
自国の過去に背を向けがちだったからだ。
神道には経典もない。
他の一神教と違い
『スルナカレ』式の戒めはない。
だがお歌には人の人たるべき道が
ゆったりと示される。
清く明るい審美感こそ神道の倫理観なのだ。」


6段ある文の、5段目の最後も引用。

「天皇のお務めはなによりも
祈ることと続くことにある。
天皇家が民族の永世の象徴であるのは
『祈る』ことにより『続く』からである。
陛下はこの国の死んだ人と
生きている人との統合の象徴で、
万世一系の天皇を戴くことで、
日本人は民族の命の永続性を感得する。」


こうして引用してくると、
文のしめくくりをも引用。

「・・・新天皇が
『御祖(みおや)みな歩み給ひし
真直(ますぐ)なる大きなる道』
を進まれることを寿(ことほ)ぎ、
この御代替わりにあたり一人の民として
謹みて祝意を述べさせていただく。」



はい。読めてよかった(笑)。


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おしゃれで、美しい手紙。

2019-04-29 | 産経新聞
産経新聞4月29日(月)。はい。今日の朝刊。
国文学者・中西進氏へのインタビューが、
特集として9ページ目の全面に。読めてうれしい。

はい。テレビの下の棚に、万葉集を置いたはいいのですが、
そのまま、開かずにある私です(笑)。

インタビューから、ここを引用。

「権力者が自分の都合で古典を利用するのは、
ありがちな誤りですが、万葉集は本来、
勝者のおごりを表現するものではありません。

なぜ(大伴)旅人が太宰府の帥になったかというと、
当時の新興勢力であった藤原氏が、一族出身の
光明子を聖武天皇の皇后にしようとして、
邪魔な旅人を左遷したからです。続いて藤原氏は、
左大臣の長屋王を自害に追いやった。

その後、旅人の去就が注目されるなか、
旅人は藤原氏に琴を贈りました。
おして書状で自分を琴になぞらえて、
自分の生き方を宣言するのです。

『あなた方は私の軍事力を気にしているけれど、
私は役に立つつもりはありませんし、反対に、
あえて戦いを望んであなたと対峙することもありません』
と。どうですか?
この品格にしみじみと感動しませんか。
万葉歌人の中でも旅人こそは最も高邁で
一番すてきな男性です。」

はい。インタビュー全文を読んでほしいのですが、
万葉集もひらいていない私が言っても説得力はない(笑)。

インタビューの最後の段に、
もう一箇所引用したい言葉がありました。

「元号は、みんなが
『こういう時代にしようよ』という目標なんですよ。
心のよりどころといってもいい。
元号は制度と思われるかもしれませんが、
むしろ人々の生き方を示す文化、
志というべきものです。そういう
文化を残す国が世界にひとつ
くらいあってもいいでしょう。

誤解を恐れずに言えば、
西暦は時間経過を示した数字にすぎない。
これに比べると元号はおしゃれですよね。
手紙を書くときに西暦よりも元号の方が
美しいでしょう。」


うん。そうか。
令和の元号を入れた手紙を書く。
はい。私のことですから、
いつ手紙を書くのか見当もつかないのですが、
おしゃれな手紙になりますね(笑)。

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北をながめてごらんなさい。

2019-04-28 | 道しるべ
京都へ、行く前に読んで。
京都へ、行った後に読む。

ということで、
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)の
パラパラ読みを帰って来て繰りかえす。
読み返すと、改めて気づく箇所がある。

「京都の各小学校・中学校の校歌で、
山紫水明の字句のはいってないものはないだろう。
しかし、事実、うつくしい。
出町(でまち)の橋のうえにたって、北をながめてごらんなさい。
あるいは、東山の一角から、洛中をながめてごらんなさい。
そこにはほんとうにうつくしい日本の風景がある。
観光客も案内者も、しばしば個々の名所旧蹟(きゅうせき)、
故事来歴にとらわれ、説明を要せぬ風光のうつくしさを
めでることをわすれているとすれば、
それはまことにおしいことである。」(p48)


京都へ、行く前に読んでいたのに、
京都へ、行っている最中は忘れて、
京都から戻ってから振返ってみる。

読み返していて、気になったのは、
最後の方にある、「大遠忌(だいおんき)」
という文でした。最初の解説にこうあります。

「昭和36(1961)年1月は京都知恩院において、
法然上人七百五十年大遠忌がいとなまれた。
さらに4月には東西本願寺において、
親鸞上人の七百年大遠忌がいとなまれた。
あわせて数百万人の参拝者が全国からあつまった。
・・・」(p261)

5ページほどの本文のはじまりは

「京都はいま、大遠忌にわいている。
人口百万の都市に、四百万からのひとがあつまって
くるというのである。・・・
四百万といえば、巨大な規模の民族移動といえるほどの
数である。日本全国がうごいているのだ。それは、
仏教国日本の、文明の根底に発するところのうごきである。

京都は、その仏教国日本の、宗教的首都である。
東西の本願寺、知恩院をはじめ、
仏教の各宗派の大本山が、ここにひしめいている。
京都は、現世における極楽浄土であり、聖なる都市である。
数百万の人びとの宗教的エネルギーは、
もしどこかにむかって発せられるとすれば、
ここに集中するほかない。・・・」

はい。5頁全文を引用したくなるのですが、
これくらいにしておきます(笑)。

やはり、法然・親鸞の入門書くらいは、
読んどきたいと、そう、思うのでした。

ちなみに、
法然上人800年大遠忌と、
親鸞上人750年大遠忌と、
について参拝者はどうだったのか、
御存じの方はいらっしゃいますか?
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梅棹忠夫の京都。

2019-04-26 | 古典
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)の
下鴨・上鴨を紹介した5行ほどの文は、
こうはじまっておりました。

「東京あたりの神社は、規模は狭小、チャチでやすっぽい。
お寺ばかりか、お宮もまた関西が、京都が家元である。
下鴨神社は、そういう雄大で気品のある社のひとつである。」
(p50)

京都一日目は、現在京都住まいの一人と合流。
それが、下鴨神社の近く出町柳近辺にいたので、
自然とそこに行くことになりました。
豆大福も買って、翌日食べました。
ちなみに、
私は結婚して、両親と住んでおりました。
もう両親ともに亡くなっているのですが、
私たち夫婦二人だけで住んでいたら、おそらく
家になかっただろうものに、仏壇があります。
はい。家には仏壇がありました。
二泊三日の京都旅行の最終日は、
12時半頃に新幹線を予約していたので、
午前中は、京都駅の付近をめぐることに、
それで、東本願寺へと出かけました。
おおきい。

はい。「梅棹忠夫の京都案内」の
東本願寺は7行ほどの紹介文です。
そのはじまりはというと、

「東本願寺は、徳川家康の時代に、
西本願寺からわかれて別派をたてた。
本願寺勢力を二分するための、
徳川家の謀略であったといわれる。
とにかく、よくも、
こんなおおきな寺をつくったものだ。
木造の建物では世界第一であろう。」(p35)


はい。まるで、家にある仏壇は、
ミニチュアのプラモデルかなにかのように、
そんな感じを抱かせるスケールが東本願寺にはありました。
そう。まるで私が小さくなって静謐で静置な仏壇のなかへ、
まぎれこんだような錯覚を体感してしまう東本願寺でした。

はい。こういう印象も、今書いておかなければ、
しばらくすると、忘れてしまうだろうなあ(笑)。

そういうことも、あって
「東京あたりの神社は、規模は狭小、チャチでやすっぽい。
お寺ばかりか、お宮もまた関西が、京都が家元である。」
という梅棹さんの言葉が
あらためて、迫ってくるように感じられました。

ちなみに、梅棹さんは「まえがき」で、
こう語っております。

「京都のひとが京都のことを、
他郷のひとにあまりかたりたがらぬというのは、
そういうことをすればついつい他郷のひとに対して、
心の底にもっている気もちがことばのはしばしにでてしまい、
相手の気もちをさかなですることがあるからだろう。
・・・・この本の内容も、
京都の市民には常識であり、共感をよぶ部分もおおかろうが、
他郷のひとにはかならずしもこころよくひびかぬ部分も
あろうかと案じている。・・・・
わらってみすごしていただきたい。」(p4)

え~と。
さっそく古本注文したのは、
岩波写真文庫(復刻ワイド版)京都案内『洛中』1954。
この本の監修が梅棹忠夫。
こちらは、写真入りで別の味わいがあります(笑)。
あとは、
林屋辰三郎著「京都」岩波新書。

どちらも、手元に届きました(笑)。


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「改元」へ「時は」進み。

2019-04-25 | 産経新聞
産経新聞4月24日(水)の「正論」欄。
ありがたく、読めてよかった(笑)。

たとえば、私など、ブログを更新していると、
ブログの、書き方にちっとも進歩がない(笑)。

それでも、これはという文章と出会うと、
それに対し、感応力というような手ごたえが、
だんだん、ついているような気がするのでした。
はい。普段はそのまま右から左へと流れて消えて
しまう感銘ではありますが、それが手の内に残る。

さてっと、4月24日のコラム「正論」欄は、
長谷川三千子さんでした。読めてよかった。
どれほど、自分は味読できるか心配なので、
適宜引用しながら、文を反芻しておきます。

はじまりは

「本年3月21日付の朝日新聞朝刊に

『「改元」を考える』と銘打った、
なかなか野心的な社説が載っていました。
世の中は、『平成最後』だの『平成30年間』
だのと騒いでいるが、『でも、ちょっと
立ち止まって考えてみたい。「平成」といた元号
による時の区切りに、どんな意味があるのだろうか。
そもそも時とはいったい何なのか』ー--

この社説はそう問いかけています。
たしかに、元号というものの意義を
根本から考えてみるのに、今は
またとない機会だと言えるでしょう。」

こう切り出して文章をはじめる長谷川三千子さんは、
つぎに、中世の哲学者アウグスティヌスを登場させ、
「実際、これは今なお哲学者たちを悩ませている難問なのです」
と、指摘してから、おもむろに、こう書いておりました。


「ただし、これが難問になってしまうのは、
この問いをなにか抽象的に自分とかけ離れたところで
問おうとするときです。われわれは、
いつでも時を体験しながら生きている。
その体験を見つめることの中からしか、
『時とは何なのか』の答えは得られないのです。

たとえば、われわれは
現に元号による時の区切りをもっている。
そこにはどういう時の体験のかたちがあるのか、
と見つめ直すところから、われわれなりの
答えをさぐるほかありません。」

こうして、長谷川さんは、
抽象的で、自分とかけ離れ、答えがでない難問に、
「われわれは、現に元号による時の区切りをもっている」
と空論から、脚下へと視点を落としてゆきます。

そして、アウグスティヌスのキリスト教信者の時間と
対比し、こうはじめるのでした。

「わが国の神話では、
神が時を創造するなどということはありません。
『古事記』に描かれる神々は、
次々と時のうちに登場してくる。
いや、むしろ新たなる時そのものを体現して
登場してくると言った方がよいかもしれません。」

このあとに、古事記からの引用と丸山真男を
登場させて、それからおもむろに、結論をかたりはじめます。

最後の方は、ていねいに全文を引用しておきます。

「このように古くから引き継がれてきた時の体験の
かたちが最もくっきりと表れ出るのがお正月です。
大みそかに大掃除がすんだ後、除夜の鐘を聞きながら、
われわれは去りゆく年の後ろ姿をしみじみと見つめます。
そして夜が明けて元旦になると、口々に
『明けましておめでとう』と挨拶しあう。

いったい何がめでたいのか、
と改めて尋ねられたら、
誰でも困ってしまうでしょう。
合格だの優勝だのといった、
何か特別のことがあるわけではありません。
単に時の目盛りが前年12月31日から
1月1日に動いただけのことです。

しかし、まさにその動くということ。
時が進むということ。
一口に言えば、新しさを送り届けてくれる
時の力そのものを寿いで、われわれは
『明けましておめでとう』と挨拶しあうのです。」

いよいよ、コラムの最後の6段目にはいります。

「元旦に、宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)では、
天皇陛下と皇太子殿下が歳旦祭(さいたんさい)を営まれます。

これは、皇祖皇宗に旧年の神恩への感謝をささげ、
新年の国家隆盛と国民の安寧を祈られる重要な祭祀です。
そして、全国各地の神社でも、同じく歳旦祭が営まれる。

つまりこのように、毎年新しい年がめぐり来るたびに、
われわれは『古事記』の昔からの【時の体験のかたち】を、
国を挙げて生き生きと再現しているわけなのです。
毎年のお正月、かくも多くの人々が神社にお参りし、
皇室の一般参賀に訪れるのも、偶然のことではありません。

表立って意識してはいなくとも
われわれは身心の奥深くで古来の時のかたちを生きている。
そしてそのことがあればこそ、
元号という時の区切りが意味を持ち、
改元ということに意義があるのです。

改元の日、われわれは元旦と同様、
ただ晴れ晴れと『おめでとうございます』と言えばよい。
それこそがわれわれの『時とは何か』への答えなのです。」



はい。こういう文を読むために、
私はブログを更新しているのだ、
そう、思える感銘がありました。






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京都の3冊。尺八奏者。

2019-04-21 | 地域

はい。二泊三日の京都旅行は、楽しかった(笑)。
ということで、本をめくりながら、あらためて、
活字から立ちのぼる京都をたどりなおす楽しみ。

竹山道雄著「京都の一級品」(新潮社)
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)
宮本常一著「私の日本地図14 京都」(未来社)


ところで、円山公園で白玉ぜんざいを食べにはいった
喫茶店の屋外ベンチで、公園を行きかう和服姿の方を
ぼんやりと眺めていると。あれれ、尺八を吹くかたが
おられる。ハカマ姿に尺八を竹刀よろしく腰にさして
犬をつれている。私など歩いて通り過ぎたら気づかない、
そのさりげなさで、笠をかぶって小犬の背中に賽銭箱(笑)。

そういえば、修行僧を見ない京都旅行でした。
くたびれた剣道着風の出で立ちの尺八奏者が、
子犬をつてれ、公園広場で、立ち止まったり、
ゆっくりと旋回したり同じ場所におりました。


はい。白玉ぜんざいを食べ終わったら、
その尺八の音色にひかれて、小犬の背中に100円玉をいれ、
許可を得て、尺八奏者と記念写真をとらせてもらいました。
すると、ポストカードを奏者は、さりげなく渡してくれる。
見ていたら、お金を入れる方々には、さりげなく渡してる。
100円と印刷されたカードは、写真プリントになっていて、
広場に小犬のアップと奏者が、桜をバックに収まった写真。

なになに写真には「侍犬正宗」という文字。
YOUTUBE MUSIC という文字もありました。
さっそく、家に帰ってきてから、検索すれば、
どうやら、尺八などの専門家のようです(笑)。

パソコンで映像をひらくと、そこは別世界(笑)、
円山公園で、演奏者の角度から、小犬に集まる、
公園を散策している観光客を、定点観測してる映像。
そんなぐあいに、記録されているではありませんか。

はい。公園を散策しながら、わたしたちが見て、
通り過ぎていたはずなのが、どうしてどうして、
ユーチューブでは、その映像が逆転して公園で、
尺八奏者のまわりに、鳩の群れが集まって来ては、
しばらく小犬とたわむれてとびたってゆくような、
そんな感じに観光客が映し出されているのでした。

その見事な、逆転映像に、笑ってしまうのでした。

ちょうど、私たちは、東福寺へも出かけたのですが、
どうやら、尺八奏者の散歩範囲はそこらあたりらしい。
東福寺周辺の散策風景もユーチューブにあがっていて、
お上りさんが、京都参りをすませた後でも楽しめます。



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お上りさん。

2019-04-16 | 道しるべ
明日から二泊三日で、京都旅行へ。

はい。宿はとって頂いているので(笑)、
後は、きままな、観光です。

うん。選んだ一冊はというと、
宮本常一著「私の日本地図14 京都」(未来社)。
たのしく、読みました。附録に京都の地図もある。
なになに、読みながら、地図と照らしていきます。
一条から十条まで、やっと地形がのみこめる(笑)。


この本のはじまりは、三十三間堂からでした。
せっかくですから、はじまりを引用。

「京都では田舎から京都へやって来る人を
お上(のぼ)りさんといっている。

戦前だったら、古い中折帽をかぶり、
木綿織の羽織を着、白いメリヤスの股引をはき、
尻をはしょって蟹股にあるいていく老男たち、
女の方は手拭をかぶったり、首にまいたりして、
群になって京都の駅でおりて、
本願寺へまいる者は北に向って、
京まいりといって寺々をまわる者は東に向って
三十三間堂の方へ歩いていったものである。
お上りさんにとって京都の町は、
有難い神や仏の世界であり、
『京都へ行く』とはいわないで、
『京参り』といったものである。

私もまたお上りさんの一人であり、
京参りをした一人である。・・・」


この本には、1960年~1970年代の写真が
頁をめくるごとに、並んでいるたのしさ。
宮本常一氏の語りとともに、心地よい読後感。
はい。その頃の京都へとタイムスリップしたようで、
明日、いよいよ、現代の京参り(笑)。

はい。「そうだ、京参りへ」ということで、
明日午前8時ごろの新幹線でのお上りさん。



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「令和」が、よびます「万葉集」。

2019-04-14 | 古典
中西進・磯田道史「災害と生きる日本人」(潮出版社)。
その最後の箇所を、
長くはなりますが、引用しとかなきゃ(笑)。


中西】 万葉集はデスクの上だけで読む書物ではありません。
万葉集はお茶の間で読むのにふさわしい書物だと私は思っています。
いつもくつろぐ場所に万葉集を置いておき、
事あるごとにページをめくってみる。
すると必ず大きな力をもらえるはずです。(p251)
・・・・・
茶の間に万葉集を置いてパラパラ眺めながら、
右から左へ忘れてしまったって、一向に構いません。
忘れてしまったようでいて、万葉集の言の葉は
深層心理、無意識下に着実に溜まっていくのです。(p252)

七世紀後半から八世紀後半にかけて編まれた
万葉集と、平安以降に編まれた『二十一代集』
(「古今和歌集」「新古今和歌集」など勅撰和歌集)は、
まったく異質です。端的に言って、
『二十一代集』は『いかに美しく上手な歌を作るか』
というところで、詠み人がしのぎを削りました。

万葉集はそうではありません。
いかに人間味があふれているか、
いかに人間を打つ力があるかという点だけが基準となり、
歴史のふるいにかけられて生き残った歌だけが編まれているのです。

万葉集の歌には人間味が、これでもかこれでもか
とばかりに詰まっており、古代の声が詰まっています。
日本人がアルカイック(原初)回帰できる歌集は
『二十一代集』ではありません。万葉集だけです。
しかも万葉集は小説集でも物語集でもありません。
一首一首の歌に、一呼吸ずつの瞬間的な出会いがあるのも魅力です。

  ・・・・


さらに付け加えますと、万葉集は統一体ではありません。
さまざまな人が、さまざまな時代に、さまざまな角度から
作り上げてきた雑多なところが特徴です。

『雑』と言うと
『その他』のような類別に感じられるかもしれませんが、
そうではありません。『雑』には
『多彩なるもの』『彩りが美しい』という意味あいがあります。
『美しい』という美の概念でもあります。
また、万葉集は真っ先に『雑(ぞう)の歌』から始まりました。

磯田】 素晴らしい分析に、深く感銘します。

中西】 主人公と準主人公がいて、
その他大勢がいる世界観ではない。
真っ先に『雑』という価値観があって、
無名の庶民、名もなき民衆の言葉と
普遍性が、そこにはある。
こういうあまりにも素晴らしい文化遺産は、
外国にはありません。

外国に残る古代の文学といえば、
英雄叙事詩や封建の征服史ばかりですからね。
辛うじて中国で漢の時代に、朝廷が集めた
『楽府(がふ)』という民間人の詩集があるくらいです。

私たちは『雑』の中に、まるで雑踏の中に身を隠すような
安心感と安堵感を得ながら入りこんでいけます。
これが万葉集です。

万葉集は、これからもずっと十分に長い命を保ち、
『人類の救済の泉』として、永遠に輝き続けるでしょう。
(~p256)

はい。万葉集の魅力をひらく言葉が有難い。今日からは、
中西進全訳注原文付「万葉集」(講談社)を、茶の間に。
令和カレンダーが出たら、そのそばに置きましょう(笑)。

ちょうど、おあつらえのように、
昨年末に一冊本の、この本を古本で安く購入してありました。
函入カバー付。雑然とした居間では片隅に追いやられるけど、
ツッコミ入れるテレビ番組は消して、この本を探しては開く。
そんな、令和の時代の私の日々を、ほんきに、思い描きます。


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真っ当な論じ方。

2019-04-14 | 産経新聞
4月13日(土曜日)の産経新聞には、
「花田紀凱(かずよし)の週刊誌ウォッチング」。

そのはじまりを引用。

「新元号。『令和』については当然、
各誌が取り上げているが、
いちばん、真っ当に論じているのが
『ニューズウィーク日本版』(4・16)だ。」

うん。そうですか。というので、
『ニューズウィーク日本版』を買う(笑)。

さっそく読んだ箇所はキャロル・グラック
(コロンビア大学教授「歴史学」)さんの文。
見出しは「『令和』--名前より大切なこと」。

はい。私が引用したくなった箇所はとうと

「令和は、外務省の公式の英訳によれば
『Beautiful Harmony = 美しい調和)
だそうだが、そう言われて誰が異議を唱えるだろうか。
『令』という漢字を『命令する』と読む人や、
国家による国民管理の意図を示唆していると疑う人もいるが、
出典が和歌の序で梅の開花をうたっていることから、
後者の解釈は少し行き過ぎだろう。

しかし、たとえ『命令する』と解釈したとしても、
歴史に何も影響力はない。なぜなら、
元号が選ばれた時点では、
その歴史的な内容はゼロだからだ。

1926年に昭和が新しい元号として発表されたときも、
89年に平成の2つの漢字が掲げられたときも、
4月1日の令和のときと同じように元号の
選定をめぐって活発な議論が巻き起こった。

昭和も平成も、改元から5年、10年、15年とたっても
元号の意味に関する論争は続いたが、結論は出なかった。

さらには、時代を定義することになった出来事も、
元号の意味とは全く関係がなく続いてきた。
昭和という『明るい平和』がひどい戦争となった。
平成は、文字どおり平和を達成したが、
一方で景気後退と自然災害に見舞われた。

時代の本当の物語は、
その時代が終わってから初めて語られるのだ。

・・・・」


はい。一部だけをとりあげると、
意味不明箇所もあるわけですが、
まあ、読み足りない方は、雑誌を購入しますね(笑)。
私は、読めてよかったです。

うん。こういう文を、日本の週刊誌で読みたいのに、
花田紀凱氏の文によると、
『週刊文春』には「最初にタイトル(結論)ありき感が否めない。
・・結論にそって集めた情報がほとんど。」
『週刊朝日』へは「今さら『令和』に否定的な意見ばかり集めて
意味があるのか」と指摘している。

はい。週刊文春・週刊朝日を私は買わない。
ということで、週刊誌の書評は有難いなあ。
むかしは、むやみやたらに購入してました。
ということで、週刊誌の書評は有難いなあ。
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密かな流儀なのだ。

2019-04-11 | テレビ
Voice5月号が届く。
巻頭随筆は、宮家邦彦。
そのはじまりを引用。

「この原稿は夜明け前のワシントンで書いている。
幸いホテル側がアップグレードしてくれたので、
部屋にはテレビが二台ある。こういうときは必ず、
ベッドルームのテレビはCNNを、リビングのテレビでは
フォックス・ニュース(以下、FOX)を、
それぞれつけっぱなしにして見比べる。
これが米国出張の際の筆者の密かな流儀なのだ。

なぜそんなことをするのか?
この二つのケーブルニューステレビ局が米国のまったく
異なる有権者層を代表していると思うようになったからだ。
部屋にテレビが一つしかないときはどうするか。
その場合は十分から十五分おきに、
CNNとFOXを交互に見ている。
これら二つの局が同じニュースをいかに
報じ分けているかに関心があるからだ。・・・」


こうはじまって、おわりの方にはこうあります。


「このように米国社会の分裂はいっそう深まるばかり。・・
 米国のジャーナリズムはどこへいってしまったのか。・・」


巻頭随筆の最後は、

「・・この二十一世紀に、伝統的な意味での
真のジャーナリズムが生き残れるか否かということだろう。
その答えが出るまで、CNN・MSNBC対FOXの
死闘は当分続くだろう。」


うん。日本のマスコミのことを思います。それから、
韓国の国情には、日本の野党を思います。


うん。もっと、日本を理解したい。
米国のテレビジャーナリズムと日本を比較して理解し。
韓国の罵りと日本の野党を比較すれば、理解が鮮やか。
こうして、補助線を日本まで引いてれば、腑に落ちる。
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渋沢栄一の銅像。

2019-04-09 | 好き嫌い
新しい一万円札は、渋沢栄一。
とニュースで知りました(笑)。

さてっと、渋沢栄一といえば、
東京駅から日本橋方面へ歩きだして、常盤橋へむかう。
常盤橋の手前に、渋沢栄一の銅像があり、
歩く時は、遠回りしてでも見るようにしてます。
素敵な立像でステッキにコートといったいでたち。

私のお気に入りの銅像。後ろに
すくないけれども、木々があるのも好ましい。

どうぞ機会があれば、一度ご覧になってください(笑)。
ちなみに、わたしは渋沢栄一氏の本を読んでないなあ。
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お手軽自家用美術館。

2019-04-08 | 絵・言葉
三越の包装紙が手にはいった(笑)。

ということで、
自家用美術館展示品の作成にかかる。
はい。簡単手軽な美術品のつくり方。

三越の包装紙を二枚用意します。
白地に赤の、れいの包装紙です。
一枚は、その赤い箇所を切抜く。
もう一枚の包装紙を、安い品の、
ポスターフレームに入れる(笑)。
その際、切抜いた赤をつかって、
もう一枚の包装紙の三越紋やら、
横文字を、目隠しするのがミソ。

純粋に、白地と赤の模様になります。
これで、自家製の美術展示品の完成。

はい。一度やってみたかった(笑)。
その念願がかなう。

以前に、
やなせたかし著「アンパンマンの遺書」(岩波現代文庫)
を読んでいたら、三越の包装紙の箇所があったのでした。

バラバラに引用してみます。

「これが戦後の街に旋風を巻きおこした三越の包装紙である。
現在でも、そのデザインのまま生き残っているが、
焼け跡の余燼がくすぶる荒廃した街に、
白と赤のデザインは花が開いたように明るく目立った。
追随するように、その他のデパートも包装紙を一新して、
白地が主流となったが、三越を抜くものは出なかった。
全国的に似たようなデザインが大流行した。
さすがに猪熊画伯である。」(p98)

ここに
「焼け跡の余燼がくすぶる荒廃した街に、
白と赤のデザインは花が咲いたように明るく目立った。」
とあります。
うん。部屋の壁の、どこか余っている箇所に、
この包装紙を額に入れて飾っておきたいと
思っておりました(笑)。

猪熊画伯についても、書かれております。

「そのデザインを戦後の洋画界のモダン派の旗手
猪熊弦一郎画伯に依頼した。

締切りの日に、ぼくは画伯を訪問した。
画伯のアトリエの玄関わきの木には、
猫が鈴なりという感じで、ぼくをにらんでいた。
渡されたデザインは、白い紙の上に紅い紙を
ハサミできりぬいて置いただけという簡単なものだった。

『MITSUKOSHIという字は、そっちで描いてね。
場所は指定してあるから』と画伯は言った。

社へ持ちかえって、文字の部分はぼくが描いた。
自慢じゃないが、デザイナーなのにレタリングが下手で
まったく自信がないが、担当者だからしょうがない。
自分でも字がまずくて画伯に悪いなあと思った。」
(p95~96)

はい。ここいらの箇所が、読んで印象に残っておりました。
それで、いつかは、三越の定紋や文字を隠して、
画伯が、切り抜いて置いただけの簡単なデザインのままに、
飾っておきたいと思っておりました。

そのいつかが、今日。そのチャンスが到来(笑)。
簡単手軽な、家庭菜園ならぬ、家庭美術館です。


部屋が、雑然と荒廃していると感じた時。
猪熊弦一郎の白と赤とで、救出をはかる。
身近でお手軽な自家用美術館へ模様替え。



追記。
三越の定紋を隠してしまって、バランス悪し。
三越の英文字だけを隠して、よしとしました。
なんとも、微妙なバランスを感じられました。
ということで、包装紙を壁にかけておきます。




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古本注文。

2019-04-07 | 産経新聞
日曜日は、読書欄。
といっても、私は産経新聞のみ購読(笑)。

あれれ。産経新聞の読書欄が「産経書房」となっている。
なんか、意気込みを感じます(笑)。

さてっと、「聞きたい。」欄が気になりました。
橋口候之介著「江戸の古本屋 近世書肆のしごと」(平凡社)。
著者の写真があり、聞き手は永井優子とあります。
そのはじまりを引用。

「本屋というと、新刊本が並ぶ店先を思い浮かべる。
しかし、江戸時代の本屋は基本的に古本屋だった。

『出版もすれば問屋にもなる。
 新刊も古書も売買する。
 本に関することは何でもするが、
 経営基盤は古本業務でした』

これまで注目されてこなかったその実態を、
本屋の日記や同業者団体である本屋仲間の記録など
多くの史料に当たって究明した。・・・」


はい。見てると、気になる(笑)。
気になるので、ネット検索する、
新刊定価が3800円+税。ですが、
2947円という古本値で出ている。
(2018年12月17日出版でした)
古本ならと、さっそく注文する。
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中西進のお知恵を拝借。

2019-04-06 | 前書・後書。
うる覚えなので、
さがそうと思ったのですが、
あきらめました(笑)。

司馬遼太郎が亡くなる時に、
注文で(?)、中西進氏の紹介文を書こうとしていた。
そんな、文をどこかで読んだようか気がするのですが、
あるいは、勘違いかもしれず、はっきりとはしません。

それはそうと、
磯田道史・中西進「災害と生きる日本人」(潮出版社)の
あとがきなら、すぐに引用できます。

その、あとがきは、磯田氏が書いておりました。
その、はじまりを引用。

「このごろ、災いが多い。気が、めいってしまう。
それで、わたくしは中西進先生にお会いしたくなった。
こういうときは、目先の事ばかり考えていては、いけない。
日本と日本人を、長い目、広い視点で眺めて、
われわれの生き方を見つめなおすには、
中西先生のお知恵を拝借するのが、よい、と思ったからである。

日本人の心を、もっとも長いスパンで、見つめなおすには、
日本人の心を写し取ったもっとも古い『文字列』である
万葉集に立ち返らなければならない。
世に、万葉集の研究者は多いけれど、
中西先生は、ひとえに万葉集にだけお詳しいだけではなく、
いつお話しても、何をうかがっても、掌を指すように、
正鵠(せいこく)を射抜いた答えが返ってくる。
そのことは、これまでの会話経験で、わかっていた。

地震・津波・台風・高潮・洪水と、まるで、
鴨長明『方丈記』の世界を生きているような、
今日の我々である。中西先生が、日本人の心を
一番長いスパンで、読み取ることができる方である。
・・・中西先生に、とっくり、うかがってみようというのが、
この本の趣旨であった。
・・・」(p257~258)

元号が決まった今でしょ。読むのは(笑)。

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