和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

名セリフ。

2007-01-31 | Weblog
前回。四コマ漫画の「コボちゃん」(8800)の各コマを追っていきました。
そこから、つづけて思い浮んだことを並べてみます。

出久根達郎著「今読めない読みたい本」(ポプラ社)に「朗読のすすめ」と題した文があります。そのはじまりは。

「人は、どんなきっかけで、読書が好きになるのだろう?
私は今でも本業は古本屋だから、客といつもそんな話をする。言うまでもないが、古本屋の客は、例外なく大の本好き、読書家である。意外なことがわかった。ほとんどの人が子供の時分から本に親しんでいるが、それは親が絵本を読んでくれたためである。意外なことというのは、それではない。文字が読めるようになり、逆に親や友だちに読んで聞かせるようになった。それが読書の喜びを覚えたきっかけである、というのである。朗読で人を感動させた。この喜びが読書の醍醐味と知った、というのである。黙読は、自分一人の楽しみだが、音読は、自分はもとより、周囲の人たちを楽しませることができる。面白い本は、人を面白がらせる。あたかも読み手の自分が、人を喜ばせているような錯覚におちいる。この錯覚が、自信となる。読書は、音読が一番ですよ、とある客が断言した。文章の味がよくわかる、という。」


谷沢永一著「読書人の浅酌」(潮出版社)のはじまりの題名を3つ並べてみますと、

 イジメぐらいで死ぬな!
 虚々実々 父のこと
 雪隠の踏板 母の遺訓

ちょうど、ここで谷沢さんの子供時代が出てきておりました。
たとえば、父親のことは

「父は天性の働き者であった。勘がよく器用であった。当時の大工仕事に向いていたのである。かたわら夜間授業の今宮(いまみや)職工学校へ通わせて貰った。記憶力は天稟(てんぴん)であったから成績は優秀である。三十年を経て、その間に読み返しもせぬ『五重塔』の一節を、的確に朗誦して私を驚かせた。」(p25)

「私が小学校へ入った頃、貧しいわが家には本らしい本がなかった。・・・
一年生の秋口だったろうか。担任の女性教諭が休まれたので、隣のクラス担任が応援に駆けつけ、取り敢えずは【お話し】の時間にすると宣言、級友にこもごも何か話すように命じ、当然の成り行きであろうが第一番に級長の私に指名した。しかし私は咄嗟の間に語るべき内容が思い浮かばず、教壇で泣き出してしまったのである。私はなんでも母に報告する習慣だったから、帰宅して事の次第を語った。母がどれほど情ない思いをしたことか。早速に応急の対策を講じた。今後、一ヵ月に二冊だけ、欲しい本を探して言いなさい。それをずっと買って上げます。この時、母が一方的に自分で選んだ本を授けるようにしていたら、私は受け身の単なる本読みになっていたかも知れない。・・・」(p37)

「三年生の1学期もまた級長であった。・・・新しく担任となった宮川訓導は、教育者としては必ずしも真面目ではなかったのかも知れぬが、子供を大人なみに扱うという性癖が顕著であった。大阪弁まるだしで生徒を呼ぶのに、谷沢はん、と来たのはびっくりした。あんた、よう本、読んでるそやさかいに、みんなへハナシしたってんか。当時は作文という時間があって・・・ほとんど無意味な作文の時間であるから、その変りに先生が何かお話をして、時間をつぶしてもよいことになっていた。どのクラスでも大抵の先生はその便法に従い、遠足のあとだけ感想を書かせるにとどめていたようである。
ところが宮川先生にとってはそれもシンドイ。そこで毎週一回ある作文の時間を、すべて私に話をさせてやりすごそうと考えた。おかげで私は先生の替りとして教壇に立ち、覚えている少年少女小説のあれこれを、級友に説いて聞かせる運びとなったのである。これは級友の全部に受けた。なにしろ厭でたまらぬ作文を書かずに済む。江戸川乱歩の『怪人二十面相』から始めて野村愛正の『三国志物語』に至るまで・・・」(p13~14)


谷沢さんだけで、終っては信憑性がないので、せめてもうひとり引用しておきましょう。
山野博史著「発掘 司馬遼太郎」(文藝春秋)。
そこに源氏鶏太を扱った一章があり、そのなかで源氏さんの文を紹介している箇所。

「司馬遼太郎は『話術の名人である』といい、『その昔、司馬君がまだ福田定一といっていた頃、同君から聞いた話をそのまま書いて、いくつかの短篇を書いている。今でも好きな短篇になっているのだがしかし、同じ話でも同君から聞いたのでなかったら作品として成功しなかったであろう。成功したのは、同君の話術の妙が私の作品の中に活きたからである』と感謝し、『私は、かつて、司馬君の作品の中に、その話術の妙の出てこないことを不満とした。が、それが『竜馬がゆく』の頃から現われて来て今やその話術の妙を超えた境地に来ている。立派である。・・・」(p23)

山野博史さんは司馬さんの名セリフを書き残しておいてくれておりました。
山野博史著「人恋しくて本好きに」(五月書房)。
そこにある「清談に光る名セリフ」という文がありますので、最後はそこから引用。
そこでは、大阪府の国際文化賞「山片蟠桃賞」の行事が終了した後の二次会の席で

「司馬遼太郎さんの隣か向いにすわって、そのよろこばしき清談に耳を傾けること。毎回退屈知らずであった。これはという名セリフを聞いたら、しっかりおぼえておいて、帰宅後すぐに書きとめるとき、どれほど心はずませたことか。思いつくままにあげるならば、こんなふうだった。
昭和が去ってから最初に逢った平成二年一月。新しい元号が好きだ嫌いだとか、西暦のほうが望ましいとか、浮足立って騒ぐまえに、愛国心というものを考え直してみるべきだ。なにもむずかしいことはないのです。山野さんだったら、あなたが毎日きちんと物学びに努め、学生さんにむけて全力を注ぎこめば、それでいいのですよ。どこでどんな仕事をしていても、そのような心がけを積み重ねれば、それが大きなかたまりとなって、この国へのせつないまでの愛情にふくらんでゆくにちがいないのです。」(p83~84)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんという字ぃ?

2007-01-28 | Weblog
四コマ漫画の「コボちゃん」(読売新聞2007年1月27日)が楽しかった。

1コマ目は、コボちゃんが絵本桃太郎を、声出して読んでいるところ。
2コマ目は、おばあちゃんが「大きな声で元気に読めるわねー」と声をかけ
     コボちゃんが嬉しそうに「そう?」と答えています。
3コマ目は、コタツで本を読むおじいちゃんの脇を、コボが通りかかります。
4コマ目は、コボちゃんが、おじいちゃんの肩に手をやり「元気ないねー」と、
     すると、おじいちゃんは「黙読っていうの!!」。

思わず笑ってしまいました。
うん、ここからなら楽しんで、お話がつながるような気がします。
司馬遼太郎の対談集「東と西」(朝日新聞社)の中に、
「中世歌謡の世界」と題して大岡信氏と対談しております。
そこでの大岡氏の言葉に、こんなのがありました。

「音といえば、室町になると音で聴くという文化が非常に盛んになってくる。それが、新しい文化の誕生であるという面があって、人々が連歌を好んだのは、一つにはそれがあると思うんです。連歌を盛んにさせた一つの原因は、大勢の人が集まって一ヵ所で楽しむということでしょう。出身階級もいろんな連中がワイワイ寄り集まって、酒を飲んだりしながら、だれかが一句つくると、ワアッと詠み上げるわけですね。詠み上げられたのを、その次の順番の人は耳で聴いて、サッとそれにつけるということをやる。
したがって文化の質の、それ以前の文字を重視した時代から、ちょっと違ってきてるんじゃないかと思うんです。・・・」(p220)

「耳で聴いて」といえば、いま発売中の「WILL」2007年3月号には、写真特集「戦後史この一枚・番外編」「スター全員集合」というのがあります。え~。これが若い頃の浅丘ルリ子なの。というような顔ぶれの写真が並んでいます。
そのなかにミヤコ蝶々を先頭に8人の顔ぶれが並ぶ写真がありました。
その最後に居るのが南都雄二。
ミヤコ蝶々は学校へは行っていなかったので、漢字が読めませんでした。
それでコンビの相方に、台本を見せて「これ、なんという字ぃ?」と聞いていたことから、相方の芸名が南都雄二となった。その有名なエピソードを思い浮べたわけです。

鶴見俊輔がお喋りして話題を引き出してゆく鼎談「同時代を生きて」(岩波書店)の中の「Ⅲ・伝統について考える」では、終わりの方で
ドナルド・キーンさんがこう尋ねるところがあります。
「変なことをうかがいますけれど、彼は文字を書けますか。」(p225)
それは文楽について語っている時でした。
「私は、前に桐竹紋十郎さんに会いましたが、彼はまったく読めませんでした。」
鶴見さんが、それを受けて、
「六代目(尾上)菊五郎は文字を書けなかったし、読めなかった。乾孝との対談で、ふっと言ったんだ。『私のことを、字が読めない、字が読めないっていいますが、かなぐらい読めますよ』って。で私と一緒に聞きに行ったのが乾孝なんだけど、びっくりしたんですよ。戦後、そういう人が日本にいると思わなかったんだ。だけど、それが菊五郎の強みなんですよ。」
引き継いで、瀬戸内寂聴さんは
「女優さんでも、読めない人がいまもいっぱいいますよ。小さいときから、お父さんと一緒にどさ回りしていて学校へ行っていないんですね。そんなのは、ずいぶんいます。」
この話は、もう少し続くのですが、
それよりも、この鼎談で面白かったのは、
Ⅰ、Ⅱ、Ⅲと日にちを変えて鼎談がもたれたらしいのですが、
その三回とも鶴見さんがキーンさんの本「声の残り――私の文壇交遊録」(朝日新聞社)を褒めているのでした。一回目は「素晴らしい本ですね」(p56)
二回目は「どう考えても傑作なんですね」(p84)として具体的な指摘をしております。
そして三回目は、最初から鶴見さん主導で話が始まっているのでした。そこでも「私がもっとも心を動かされたのは、『声の残り』と・・」と、最初の方でキーンさんに語りかけております。ここで、キーンさんが重い口を動かし始めたような按配で18歳の時にアーサー・ウェイリー訳の「源氏物語」を読んだことを語ります。「それ以来、私は、日本の伝統文学を読むと、いつも『人の声』を聴くようにしてきました。歌を読んでも、物語を読んでも、私に呼びかけている人の声にいつも耳を立てて聴こうとしています。・・・そして、その意味で、私にとって伝統は、死んだものではなく、いつまでも生きているものです。・・・私に話しかけてくる文学をいつも探しています。」(p156~157)

なんでもないような言葉なのですが、
たとえば、大岡信さんは、ある詩集のあとがきに代えてで「呼びかける詩」というモチーフを語っていました。

 詩といふものは
 どんなものでもありうる。
 けれどもそれは、
 結局のところ何ものかへの
 心潜めた呼びかけでなければ、
 詩である必要もない
 のではなからうか。


これなど、キーンさんと隔たりながら共鳴しているような言葉です。
ところで、私は先を急ぎすぎた気がします。
とにかく、時間内に解答を出そうとしているような雰囲気。
それでは、もう一度最初の読売新聞にもどってみます。
ちょうど、読者投稿欄「気流」の脇に漫才の内海桂子さんが連載をしております。

そのコーナーは「時代の証言者」。コボちゃんの、その四コマの1月27日には、15回目で、ちょうど相棒の内海好江さんが登場する回でした。内海好江さんといえば、私は山本夏彦の言葉を思い浮べます。たとえば、山本夏彦著「完本文語文」(文藝春秋)には「耳で聞いて分る言葉」という題の文があり、このようにはじまっております。

「耳で聞いて分る言葉が本当の言葉で、字からおぼえた言葉は二の次だと、誰に教えられるでもなく私は子供の時から思っていた。洋の東西を問わず文字のない時代が何万年とあって、文字のできた時代は、二、三千年にすぎない。稗田阿礼意(ひえだのあれ)の名は小学生でも知っている。語部(かたりべ)が代々伝えた過去は間違いが多いと思いがちだがそんなことはない。文字がない時代は暗誦の時代で、それはほぼ正確だった。いまでも講談落語は全部口うつしで、文字では教えない。講談の『真書太閤記』のごときは速記本を見ると千枚前後である。これを全部おぼえて間違いがないところを見ると、目に文字のない時代の人間の暗記力は現代人の想像を絶する。知識人が最も早くそれを失った。大正年間である。私は大正に生れ昭和に育ったが、すでに暗誦の時代は去っていた。・・・」

さて、内海好江さんでした。
山本夏彦著「愚図の大いそがし」(文藝春秋)には、「たれんと内海好江」と題した文が掲載されております。そこから引用して、終わりにします。

「彼女の言葉はすべて耳からおぼえた言葉で、文字からおぼえたものではない。あってもそれは外来語に似たものとして用いられている。彼女は戦争中六つのときから舞台に出ている。・・・戦前の芸人は多く目に文字がない。したがって楽屋で話す言葉は明治大正の、いや江戸時代にさかのぼる言葉である。彼女は今は滅びた言葉を知る最後のひとの一人である。それは彼女の宝である。たった一度会っただけで、こんなにほめるのはほめすぎのようだがそうでない。勘である。漫才としての彼女を知る人はかえってこういう見方ができないのではないか。・・・」

コボちゃんから、山本夏彦まで、つながりは何かと問われれば。
それは、勘ということで。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

論説室。

2007-01-25 | Weblog
産経新聞2007年1月18日の「産経抄」。
それが印象にのこりました。「矢祭もったいない図書館」を取り上げているのですが、こんな風にはじまっておりました。

「誰しも、自宅の蔵書には一冊ごとに思い出がある。本の扉に『○×蔵書』の朱印を押してご満悦の人がいた。百科事典を買い入れて、寂しい書棚を埋めた人もいる。はやりものがあれば廃りものがある。本が【社会的地位】の座から滑り落ちてすでに久しい。」

ちなみに、私は古本はネット上で購入します。蔵書印がはいっていると結構値段が安く購入できます。読めればいいという主義の私は、すこしでも安く買いたいので、同一の本なら、蔵書印のものを買います。おもしろいもので、蔵書印がある本は、意外とページがきれいな場合が多いように感じます。丁寧に本棚に置かれていたのかもしれないなあ。きれいといえば、北海道の古本屋さんは、安くてもきれい(新しい)本が多いような気がします。ただし北海道のは、代金先送りの場合が多いようにも感じます。私は読む先から、線を引いていくので、どんな本でもよいのでした。
さて、「産経抄」のつづきを引用します。

「公立図書館に行くと、廃棄する本が段ボール箱に放り込まれていた。『ご自由にお持ち帰りください』との張り紙があっても、持っていく人が少ない。用済みの本を古本屋に持参しても、いまは『カネを取られかねない』と同僚が嘆く。」
このあとに「もったいない図書館」が紹介されておりました。
あとは「産経抄」の最後の箇所を引用してみます。

「以前なら、記者は何か知りたいときは人を探し、足りなければ図書館で本を探した。ときに神保町の古本屋街まで足を延ばしたものだ。その古本屋街もシャッターをおろす店が増えているという。わが論説室で矢祭町を褒めそやしたら、岩手にも北上市というユニークな町があるとの声が上がった。作家の井上靖も名誉館長を務めた日本現代詩歌文学館がある。全国から明治以降の詩集を集めている。本の敵、ネットも、まだここまではできまい。」

ここに「わが論説室」とあります。ああ、そうだ。と思い浮かんだのは石井英夫著「コラムばか一代 産経抄の35年」(産経新聞社)のあとがきでした。
そこに論説室の様子が、ちらりと出てくるのでした。

「長い間、産経抄は騒々しい職場で書くのがならわしだった。執筆の場は、騒がしければ騒がしいほど新聞コラムを書く環境にふさわしいとすら考えてきた。新聞社の論説委員室のことだから、もとより明窓浄机など望むべくもない。周りではああでもない、こうでもないと論議が沸騰していることが多い。それを背中で聞きつつ、時に振り向いて『ちょっと、これをどう考えたらいいかね』などと仲間に問いかける。その助言や示唆を参考にコラムを書く日も少なくなかった。そういう喧騒を『子守唄』にした三十五年だった・・・」

ちょうど、今回引用した「産経抄」も、そんな論説室の雰囲気が伝わってくるような内容だなあ、と思ったわけなのです。まして、それが本の話なら、皆さんが一家言を持っておられるでしょから。などとその室内の雰囲気を想像するのでした。それにしても、「シャッターをおろす古本屋」というのが気懸りではあります。

コラムでは、読売新聞の「編集手帳」(朝刊)と「よみうり寸評」(夕刊)が読み比べて楽しめます。ときに同じ題材を取りあげているときなど、読み比べてみると嬉しくなることがあります。
読売のコラムは、どちらも一人で考えを練っておられるという感じをうけ。
そうすると、コラム産経抄の、騒々しさは次元の違う楽しみを味わえます。
それは、時に騒々しさをまとめあげる手腕の味わいなのかもしれないなあ。
そんなことを、論説室という言葉から思ったわけです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開高・邂逅。

2007-01-24 | Weblog
自分の蔵書と図書館本。
最近、新聞での記事による図書館本が気になりました。

読売新聞の2007年1月14日。世論調査部の岩浅憲史さんの署名記事。
「来信返信反響を追う」というコーナーの題は「傷つく図書館の本」。
そこには、こうありました。

「最近、図書館の本の扱いの悪化を指摘する投書が目立つ。『気流』欄には、過去5年に約15通掲載された。書き込みのほか、切り取りや食べ物などによる汚れ、盗難といった被害の実態がつづられている。日本図書館協会によると、公共図書館は毎年50~100館のペースで増加しており、2005年度には約3000館になった。利用者も増え、図書館の被害が目立つようになったという。被害にあった図書館を訪ねた。約27万冊の蔵書がある、東京都中央区立京橋図書館では、最近、中国関連の一般書に青や黄の蛍光ペンで線が何十㌻と引かれた。また、写真雑誌の特集ページが約20㌻にわたって切り取られ、買い替えを迫られた。・・・渋谷区立中央図書館では、図書に磁気テープをはり、貸し出し手続きをしないと警報が鳴る盗難防止ゲートを2000年11月に導入した。盗難被害は目に見えて減ったが、逆に切り取りなどが増えたという。・・・」


これを読んでいたら、私は谷沢永一著「回想 開高健」を思い浮べました。
そこでは本を仲立ちとしながら、谷沢さんが開高との邂逅を語る箇所があるのでした。

「このとき、もし開高があらわれなければ、私は軽薄で空虚な理窟屋に終り、だが、それはまたそれで、結構、安穏にすごしえたかも知れない。世には、実体や事象とかかわりをもたず、観念の築城術にはげむ個性も、また、すくなくないからである。その心地よい自己陶酔が、うまく最後までつづいてくれたら、幸運にも一路平安となるだろう。しかし、もし行程のなかばにして、論理が空洞であると気がついたら、つまり、憑きものが落ちて覚醒したら、とりかえしのつかぬ破目になる。あらためて出直すには、もはやおそすぎる。・・私も多分そうなっていただろう。もし開高があらわれなければ、である。思えばあやういところであった。・・私が、ともすればカラをかぶった言葉にたよるのとは逆に、開高の身上は剥き身の語彙である。さわやかなぬくもりにひたりながら、今まで知らなかった異質の次元へ、抵抗なくひきこまれる思いであった。」

ついつい、余分な引用からはじめてしまいました。
引用したかったのは、ここからです。

「この時期、開高の日常にかわりはなかった。アルバイトは定着して順調、わが鳩小屋への定期便がつづく。あたらしい小道具として、唐草模様の一反(いったん)風呂敷が登場した。それに包めるだけの分を、書棚からあれこれと取りだして、大黒さまのようにかついで帰る。そのほどんどが次回には、きっちり戻ってくるのである。彼は几帳面であったから、手もとにながくはとどめない。回転のはやいこと無類であった。私は原則として本を貸さない。たまには別枠を設けたが、厄介なことに本というものは、なかなか返ってこないのである。開高は例外中の例外であった。
また開高は本をいためなかった。ただし、いったん人が手にした以上、本のどこかにはかならず疲れがでる。しかし、避けることのできないその一面をのぞくなら、開高が本をあつかう手つきは、慎重そのものであったろう。とは言うもののその自制は、じつは開高の本性ではなかった。もともと彼の見るところ、書物はたんなる道具である。咀嚼すべき栄養物である。用がすめば滅すべし。はじめから性根がすわっていた。したがって彼は特別に、やむをえず無理していたのである。私には愚劣な蒐書癖があり、その執着が場合によっては、物神崇拝にかたむいたかもしれない。その間の気配を見てとって、彼は私に呼吸をあわせたのである。
しかし、それよりもなによりも、私は開高に本を貸すこと、そのことに深い喜びを味わっていた。持ちかえった本をかえしにくる、そのときの会話が生む心おどりは、私にとって空前の体験であった。・・彼はもとより自然体、ただただ内から発するまま、・・魂にひびいた実感を、おさえがたく朗誦したにすぎない。それが幼稚な理論だおれの私には、新鮮そのもの、痛棒そのもの、痛いけれど快い衝撃だった。彼に照らしてふりかえり、私は我が身の垢をさとって、それを除きさるべくつとめた。私は蘇生をうながされていたのである。」

それが昭和25年前後の「全国いずれにでも、小さな古本屋がまだがんばっていた」時期のことでした。

つぎに二人の絶交がひかえております。そこにも本がありました。

「ある夜、彼がかえったあと、返してきた本を書棚にもどそうとして、私は思わず眉をひそめた。B6判の頁のなかほどから、頭髪がそこここにはみだしているのである。今まで一度たりともなかった事例である。びっくりした私には、むしろ不審でさえあった。けれども局面はさらにすすむ。そのつぎ、またそのつぎ、本にはさまれている毛髪の、その量がしだいにふえてゆく。それもひとところにかたまってではなく、かさねて何箇所もに散らばっている。とても偶然とは思えない。・・栞みたいにおかれている。頭垢(ふけ)はどこにも見あたらない。たまたま抜けおちたのではなく、集めてはさみこんだのである。たくらんでつとめた所作なのである。
考えるまでもなく意味はよみとれた。出典は小林秀雄の回想記である。どこまで本当か眉唾ものであるが、彼は本を読みすすみながら、頭をかきむしる癖があるので、頁の間に頭垢と毛髪がはさみこまれるから、返しにいったフランス語の原書を、辰野隆はすぐ窓ぎわへもってゆき、払いおとすのが常であったという。開高は頭垢だけを引き算して、小林を演じているのである。私はまだ若すぎたから、彼の稚気に興ずるいとまなく、背のびした倨傲というふうに受けとり、いやな匂いをかがされる思いであった。・・・それにしても不愉快であった。気持の整理がつかなかった。・・私は、開高の稚気を、おもしろがってやるべきであった。伝えられている辰野のように、ああ、読んできたか、と虚心に受けとめ、本のなかみについてだけ、話そうとつとめればよかったのである。頭髪がはいっているだけで、本はよごれていなかった。彼は本をていねいにとりあつかい、ただ毛髪をはさみこむだけの、悪戯をこころみたにすぎない。・・・しかし私も疲弊していた。かなり神経をいためていた。・・そのときは自覚しなかったが、鬱症が私をおそっていた。・・・」

そして、谷沢さんは、どうしたか。

「昭和26年12月の暮れ、私は開高にみじかい手紙を書いた。
当分、君と絶交する。顔をあわせる機会があっても、話しかけたりしないで欲しい。ただし我が書斎の蔵書については、今後とも自由に利用せよ。専用の貸しだし簿をそなえておくから、記帳して好きなように持ちかえれ。『文学室』にのせる原稿は、今までとおなじく斡旋するから、机のうえにおいておけ。それやこれやのとき対面しても、無言で勝手に出入りせよ。・・・」


今回は、「それよりもなによりも」という谷沢永一と開高健と本でした。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こいつは春から。

2007-01-19 | Weblog
今年の第五回毎日書評賞は、池内恵著「書物の運命」(文藝春秋)。
そういえば、昨年は谷沢永一著「紙つぶて 自作自注最終版」が受賞していたなあ。
と思い出していたら、昨年でた二冊が思い浮かびました。

まずは、谷沢永一著「執筆論」(東洋経済新報社)に「紙つぶて」連載の経緯が丁寧に書かれております。
それに、山野博史著「人恋しくて本好きに」(五月書房)に「『紙つぶて』誕生秘話」(p201)。
あとは、大岡信著「現代文学・地平と内景」(朝日新聞社・古本)。
この三冊を並べて読むと面白いのでした。

せっかくですから、その経緯を順を追ってみていきましょう。

戦後。読売新聞社が西へと進出し、大阪本社を設立。それから年月を経た昭和44年。大阪版の夕刊で、週一回月曜日の書評欄を、600字程度で匿名コラムとして常設しようというお誘いを谷沢さんは受けることになります。そして昭和47年10月、書評欄が東京本社一本になるのを潮に、新聞連載を終了する139回分までの経緯から語られております。

匿名コラムの常設に際して、山崎デスクからの電話での相談に、谷沢氏はこう答えていたそうです。
「咄嗟のことであるから思いつくままに、書評頁の一角に置かれる以上、話題を新刊書に発すべき枠組みは動かぬにしても、できれば時間の流れを自由にさかのぼってさまざまな旧刊書と結びつけ、各種既刊書への回顧と連想を兼ね、直近の新刊案内を主としながらも、姿勢としては広く出版活動全般および書評趨勢の検討を心がけ、同時にまた、十分には知られていない価値ある出版物の発掘と紹介と顕賞にも意を用い、あいなるべくは書物好きにとって耳寄りな一寸した文化史的挿話(エピソード)を挿入する、というような案はいかが、と気楽な他人事のつもりで口走った・・・」

まあ、そうして始まった連載の心意気はどうだったのか。

「全力をあげて私は毎週の『紙つぶて』を書き続けた。生身の人間は需要に応じて発電を制御(コントロール)する工合にはいかない。常に全力投球に徹するほかないのである。・・・当分の間、とだけ言われてその日その日に書いているのであるゆえ、出来が悪くて読者に受けなかったら、何時突然打ち切りとなっても当然、文句の言える筋合いはない。極端に言うなら毎回が即席の登用試験(オーディション)であり、立場としては臨時の見習い小僧である。水を一杯に溢(い)れてコップを捧げ持ちながら走り続けている気分であった。うっかりちょっとでも水を溢れさせこぼしたら競技(ゲーム)はそこでお終いとなる。とにもかくにも全力をふりしぼって前途の見えない闇雲の走りであった。・・・」

そういえば、先頃でた日垣隆著「すぐに稼げる文章術」(幻冬舎新書)の最後には、必読33冊を並べているのですが、そこに谷沢著「執筆論」も取り上げられておりました。
とうことで、続けます。

「何時か停止の処分を受けるであろうと覚悟しながらも私なりに疾走している。それを庇ってくださった文化部への感謝は今に忘れない生涯最大の幸福であった。・・・」

その疾走に急停車がかかるのが昭和47年でした。
「書評欄が東京本社一本に切り替ったのを機に、『紙つぶて』は139回をもって終った。・・終了を告げられたとき、縋っていた糸が突如として切れたように私はかなり気落ちした。自分ではそれほどに思わなかったにしても、暫くは少し軽度の鬱に陥っていたようである。急停車はやなり無意識のうちに心身を苛(さいな)んでいたのかもしれない。」

そこに、僥倖が舞い込みます。
大阪の古書店浪速書林の梶原正弘店主。
谷沢氏とは同年輩であり、しかも飲み友達。
「その浪速書林が私を元気づけるために『紙つぶて』を自腹で一冊の本にしてやろうと思い立ってくれたのである。・・浪速書林は、心配いりまへんがな、と手を振って、売れなんだら店で高価な本を買うてくれはったお客さんへ、グリコやないけどオマケにつけて捌けまんがな、と笑って・・・」

ここから、山野博史氏にバトンが移ります。
山野氏は「初出紙でその一投目にめぐりあって」と「紙つぶて」の出合いを語っております。それが本になった時でした。

「『署名のある紙礫』(昭和49年11月3日・浪速書林。書名は開高健の発案)が店頭に届き、献呈者名簿に基づく発送作業が一段落した時分、朝日新聞東京本社学芸部気付で文芸時評担当者の大岡信さん宛に贈るという独自作戦を無断で敢行したのである。
すると、なんと昭和50年1月28日付夕刊掲載の『文芸時評(下)』で、谷沢先生のおすまし写真を添えて、『書名のある紙礫』が取りあげられ、はれやかに紹介されているではないか。超ヤマ勘、みごと的中。こいつは春から縁起がいいわい、とひそかに快哉を叫んだのはいうまでもない。」


それでは、他ならぬ谷沢氏も、繰り返し、繰り返し読み返したであろう
大岡信氏の、その文を、ここにおもむろに引用してみたいと思うのでした。


「・・近代日本文学の研究者である谷沢永一の、『私の書物随筆』と副題した『署名のある紙礫』は、本を読むことが文字通り命を養うことに等しいような本好きの、特色ある『随筆』である。
・・・・谷沢氏は書誌学的厳密さを徹底して重んずる学者だから、ここでの書物や筆者をめぐる話題も、多くその点にかかわる。人に筆誅を加えるときのきびしさ、烈しさは、当今あまり他に例がないものだが、この種のきびしさは、筆者自身に私心があってはどだい成りたたぬ。谷沢氏の本を一貫しているのは、書物のために憤り、書物のために歓喜する書物狂の正義感であって、その筆がときに示す烈しさに目をむく人でも、その理由についてはいちいち納得できる。
とりわけ私が感じ入ったのは、一篇わずか六百字程度の時評のひとつひとつに、その後得た新しい知識や、執筆当時の思いちがいの訂正や、資料として必要なデータなどを綿密に註として付けていることで、その心がまえは、文学研究者のもって範とするに足るものがある。この人に、『今更めくが、明治文学の研究は、まったく柳田泉と木村毅を先達として始まったものである。この二人の学風を、かりに忽卒に要約するなら、史的臨場感の尊重、その探索と固執、と言えるのではないか。・・・明治文学の近代的割り切りなら、小器用と饒舌で間に合うだろうが、その白々しい喧騒は、結局論者の気晴らしでしかなかった。』という意見があるのは当然で、この『史的臨場感の尊重』ということこそ、谷沢氏自信がみずからの本を作るに際してまずおのれに適用した論理にほかならなかった。」

ということで、一冊の本を介して、ここでは、谷沢さんと大岡さんとのつながりを見てみました。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米カレンダー。

2007-01-17 | Weblog
カレンダーのひとつに、
「富山和子が作る日本の米カレンダー」というのがあります。
毎年続いていて、2007年で18年目だそうです。
そのカレンダーの一月の光景は、三重県伊勢市の写真でした。
伊勢神宮の鳥居が全面にあり森の先から朝日が昇る写真。

面白いことには、読売新聞1月15日夕刊の「いぶにんぐスペシャル・旅」に
その伊勢の様子が掲載されておりました。
興味深いので、引用しておきます。

「・・伊勢神宮・内宮近くの宿泊施設が、宿泊者を集めて行う早朝参拝に参加してみた。伊勢神宮は、内宮と伊勢市駅近くの外宮を中心とする、125もの宮社の総称。至る所に別宮や摂社などが立ち、所有する森林を含む総面積は、伊勢市の4分の1を超える。神域への入り口となる宇治橋には、うっすらと霜が降りていた。・・正宮への砂利道に沿って巨樹が並び、朝のすがすがしい空気が満ちていた。正宮は四重の垣根で厳重に囲まれ、参拝客が入れるのは一番外側の垣根の中まで。・・・宇治橋まで戻ると、日が昇るところだった。鳥居の中央から姿を現した太陽は、ひときわ神々しく見えた。・・」
署名記事で飯田祐子とあります。

ちょうど、米カレンダーが掛けてあったので、
早朝参拝の様子を思い浮べながら、1月の写真を眺めてみました。
鳥居から橋に踏み込むあたりに日に反射する箇所があり、きっとこれは霜が降りた残りかなあなどと思うのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元旦の早朝。

2007-01-17 | Weblog
家からは、ゆっくりと歩いて10分もしないうちに海にでます。
元旦の朝には、防波堤で初日の出を待つ人たちがおり。
太平洋から昇る朝日を待ちます。
海には、サーファー。釣り人もいます。

さて、1月15日の午前には新春の「歌会始の儀」。
読売新聞その日の夕刊に、その歌が並んでおりました。
お題は「月」。歌の中に「歳旦祭(さいたんさい)」という言葉がありました。
歳旦とは辞書によれば、元日の朝。元旦のこととあります。

では、その言葉がある御歌を引用してみます。皇后さまでした。

    年ごとに月の在りどを確かむる歳旦祭に君を送りて

読売夕刊の説明では、
「元日の早朝に宮中祭祀に向かわれる天皇陛下を見送った後に空を見上げ、年ごとに変わる月の満ち欠けを観察されるという長年の習慣を・・詠まれた。」

ちなみに16日産経新聞の、この御歌の説明はというと
「皇后さまは毎年元旦の明け方、宮中祭祀に出る陛下を見送り、ご自身も御所の外で拝礼する際に、年ごとに月や星の位置や満ち欠けを楽しみにしながら、空を見上げる気持を歌にされたという。」

こうして「君を送りて」と歌われた君は、どのような御歌を詠まれたのかというと。

  務め終へ歩み速めて帰るみち月の光は白く照らせり

天皇皇后両陛下のお二人が相聞歌となっているなあ。と一読思ったわけです。

さて私は現在、産経新聞と読売新聞(朝・夕刊)をとっております。
1月16日の一面コラムは、どちらもが「歌会始の儀」を取り上げておりまして、
比べて読むと楽しめます。
産経抄は、こう始まります。
「『歌会始の儀』のお題は『月』だった。『雨降りお月さん』『朧月夜』『荒城の月』『月の砂漠』。文化庁が選んだ『日本の歌100選』にもお月さまの歌が目につく。万葉の時代から、人々はもっとも身近な天体に、さまざまな思いを託し、数多くの歌や物語を紡いできた。」
そして、産経抄・編集手帳のどちらのコラムでも取り上げていた御歌はというと
(ここでは、産経抄から)
「召人(めいうど)を務めた元住宅金融公庫総裁の大津留温(おおつるおん)さん(85)は『天の原かがやき渡るこの月を異境にひとり君見つらむか』と歌った。『天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも』。奈良時代の遣唐使、阿倍仲麻呂が詠んだ望郷の歌の“本歌取り”であろう。はたまた、『異境の君』とは、北朝鮮に拉致され囚われの身になっている人たちともとれる。横田滋、早紀江夫婦は、夜空を見上げ、同じ月を眺めているかもしれない・・・」

せっかくですから、編集手帳からも引用してみましょう。

「・・以前ならすぐに阿倍仲麻呂を思い浮べただろう。奈良時代、留学生として唐に渡り、40余年を唐朝の官吏として過ごした人は、帰国の夢を果たさぬまま異郷の土と帰した。『天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも』。唐土で仰ぐ月に、遠い昔、故国春日の三笠山にのぼった懐かしい月を重ね、『古今和歌集』に収められた歌は望郷の絶唱として知られる・・」
そして編集手帳の最後は、こうしめくくられておりました。
「13歳、中学1年生の横田めぐみさんが新潟市内で下校途中に拉致されて、今年11月で30年になる。月の鏡に幾度、まだ若かった父母の面影を、幼い弟たちの姿を、一家団欒の情景を映したことだろう。むごい国もある。」




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新聞の書評。

2007-01-15 | Weblog
朝日新聞2007年1月1日に田辺聖子・綿矢りさ対談が載っておりました。
そこで
【田辺】どうやって本を手にとるかと言うたら、新聞の書評、これはよく見ますよ。
書評を読みたいから、以前は5紙とっていた。いまは時間がなくて、2紙に減らしましたけど。本の広告もじっくり読む。これは気合が入ってるな、とか。それで本屋さんにまとめて注文しますね。
【綿矢】私は自分が本を書くようになって書評が出てることを教えてもらうまで、書評というものを知らなかったんです。
【田辺】そうなの?
【綿矢】書評というジャンルも、評論家という人の存在も知らなかった。
書評で本を手に取るということは今までの生活ではまずなかったし、同じ年代の人も、特に意識はしてないと思う。
【田辺】学生さんや普通の人はそうかもしれませんね。むしろ、気になるのは噂?


うんうん。大阪の新聞の書評というのは、ちょいと関東と違って独特だと、私は思っておりました。
谷沢永一さんはじめ濃い方々がいらっしゃるから。そんな空気を吸っていたんだろうなあ。などと思うのでした。もうすこし対談を引用します。

【綿矢】一人暮らしの部屋でひとりこもってずっと書いてて、ちょっとガタが来てるていうか、寂しいですね、やっぱり。・・・・
人と話せば空気が変わったりとか気がまぎれるんですけど、一人でやっていくのは限界があるかなと最近思うようになって。一人暮らしは本が読めていい、と思ってたのに、一人でいすぎると、本も読めなくなってくる。
【田辺】お酒は飲む?
【綿矢】飲みません。


さて、対談からの引用はこのくらいにして。
新聞の書評は、日曜日に掲載されているので、私は日曜日はいそいそとコンビニへと新聞を買いにでかけます。まるで宝探しですね。新聞を開いてみて、魅力の書評に出会ったときのうれしさ。本は買わなくっても、その本の勘所を、手品のように取り出してくる見事な書評にお目にかかれれば一日満足。
ところで、新聞も本についての記事が気になります。
そういうわけで、本にまつわる気になる記事。

読売新聞夕刊1月13日「閉鎖相次ぐ『メトロ文庫』」。
「東京メトロの地下鉄駅構内で、本を駅利用者に貸し出す『メトロ文庫』の閉鎖が相次いでいる。1999年には27駅に29か所あったが、現在、14駅で15か所と半減した。貸し出された本の多くが返却されないうえ、最近ではごみ箱代わりに古雑誌などを置いていく悪質な行為も目立つためだ。・・・」

「一人で何冊でも借りられ、返却期限も定めていない。『読み終わったら返す』というのが唯一のルールだ。しかし、実際には、返却率は平均5~10%にとどまる。・・さらにここ数年、寄贈者側が利用者の『マナー違反』にしらけてしまったのか、寄贈される本の数も減っている。存続中の文庫でも、本棚には数冊程度しかない所が多い。最近では、本棚に古雑誌や紙くずが捨てられたり、ぼろぼろの古雑誌が着払いで郵送されたりして、職員の負担にもなっていた。丸ノ内線池袋駅の文庫は91年に開設した当初、住民から毎週のように段ボール箱いっぱいの寄贈があり、約50冊収容の棚に収まり切らないほどだった。しかし、ここ数年は、寄贈本は週10冊ほどに減少。その上、『本を置いても、すぐになくなってしまう』(同駅職員)ため、蔵書ゼロのことも多く、本棚には毎日のように紙くずなどが捨てられている。・・・」


それでは、寄贈本はなくなったのか?
面白いのは、次の日1月14日(日曜日)の新聞でした。
毎日新聞の一面に写真入りで「もったいない図書館誕生」とあります。
こちらも引用しましょう。

「不要な本を全国から寄贈され、福島県矢祭町の『矢祭もったいない図書館』が14日、オープンする。昨年7月の寄贈呼び掛けから今月10日までに、延べ3910の個人や団体から、約29万冊もの図書が集まった。・・・図書館新設には10億円かかるといわれる中、旧武道館改装と閉架書庫建設で費用は約3億円だった。・・」
産経新聞の同日の記事にも、その詳細が載っておりました。

さらに東京新聞の同日では、出久根達郎さんへのインタビュー記事が印象に残ります。
出久根さんは1959年に茨城の中学を出て東京・月島の古書店に就職しております。後藤喜一という署名によるインタビュー記事で出久根さんはこう答えております。

「古本屋のおやじには文学青年くずれが多いし、本の好きな人が周りに大勢いて、仕事として毎日本を読むことができたのは幸運でした。お客さんからも本の世界の奥深さを教えられました。最も感動したのは、就職した店の主人に、夜間高校へ行かせてほしいと頼んだときのこと。主人は、学校なんか行く必要はない、ここにある本がみんな学校なんだ、本の数だけ教師がいるんだと言うのです。本当にその通りで、こんなありがたい境遇はないと思いましたね」


そういえば、出久根達郎著「今読めない読みたい本」ポプラ社に
こんな箇所がありました。

「若い人がなじめないのは、早い話、読み方がわからないからだと思う。
本の読み方を、まじめに教えてくれる人がいない。読まない、と言って非難はするが、読めるように講じてくれない。本を差し出しただけでは、教えたことにはならぬ。・・・私などは人生で最も大事なこと、と考えるが、古本屋だからだろう、と言われれば、それまでである。古本屋だから聞けた、本好きの客の話を紹介する。若いかたがたへの読書アドヴァイス。本を読むのに、友人はいらない、という人がいるけれど、若いうちは友人があった方がいい。選ぶべきは、本好きの友人である。・・・」(p174)


そうだ。与謝野鉄幹でしたっけ。「 友を選ばば 書を読みて 」と歌ったのは。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年賀状。

2007-01-10 | Weblog
新聞から年賀状が結びつきました。


読売新聞2006年12月27日の「編集手帳」は、
新聞連載していたドナルド・キーンさんの回想録が終了したのを取り上げて書かれており。印象深く読みました。ここでは、そのコラムの最後の箇所を引用してみます。

「年賀状を書きながら、その人と知り合った昔を顧みて、ふと筆の止まるときがある。袖すり合う縁がなかったら自分はいま、どこで何をしていただろう。歩むことのなかった『分去(わかさ)れの道』を旅するのも年の瀬である。」

そういえば、読売新聞2007年1月8日の読売歌壇。その岡野弘彦選の4番目に

 六十年つづきし賀状絶えて二年なつかしき文字忘られず待つ  常総市 斎藤きぬえ

というのが目にとまりました。
岡野弘彦氏は東京新聞でも、選者をしておられるようで、12月24日の東京新聞の東京歌壇。岡野選の最初に、六十年という言葉がありました。

 兵の日の長き七年に比ぶれば生還六十余年なんと短き  杉並区 堀内清三郎


ところで、年賀状へともどります。
産経新聞のコラム「正論」が新年5回の「年賀状」という特集をしておりました。

1月3日 佐伯啓思氏「団塊ジュニアへの年賀状」
1月4日 曽野綾子氏「子供たちへの年賀状」
1月5日 千 玄室氏「千利休への年賀状」
1月6日 田久保忠衛氏「安倍首相への年賀状」
1月7日 藤原正彦氏「若い君への年賀状」

私は曽野綾子さんの文が鮮やかな印象として残りました。
いつぞや曽野さんは「平易でない名文はない。難しい文章はつまり悪文なのである」と書いていたことがありました。その通りの平易な名文です。際立っておりました。

そこでは、6つの提案を子供たちにしている。
ここでは、曽野さんの始まりの言葉を引用してみます
(ついつい、全文引用したくなるのですが、ここではよしましょう)。

「ほんとうは私は一人の人のお名前を入れてお年賀状を書きたい。でもそれはできないことだから、皆さんあてにしますが、思いは一人一人にあてています。
昔からお正月には皆が、いろいろといい決心をするものでした。日記を書く、とか、お母さんのお手伝いをする、とか、私も子供の時は、いい決心をしたものだけれども、なかなか続かなかった。長続きしない人のことを三日坊主というのだけれど、お坊さまにお気の毒ですね。それでも、やはり今年やってみたらおもしろいと思うことをいくつか提案します。」

ここから、欲張って6つのお勧めをしております。「このうちいくつできるかなあ」という提案なのです。
余談になりますが、せっかくですから、ひとつぐらいはお勧めを引用しないとね。
では3つめの提案を引用してみます。

「毎日、少しずつでも本を読むこと。お猿と人間の違いを知ってる?お猿の方が木登りがうまいとか、ノミをうまく取るとかいろいろあるますけれど、大きな違いは、お猿は本を読まないけど、人間は本を読むということです。マンガだけではだめです。活字というものは人間の脳を発達させる大発明です。本を読めば必ず利口になります。利口になるとたぶん美人にもイケメンにもなるの。」

どうです、曽野さんが子供たちへ、このように提案しておられる。
ああそうだ、と私が思い出したのは、瀬戸内寂聴さんの言葉でした。

「・・『才女時代』で、曽野綾子さん、有吉佐和子さんが出てきましたよね。
あんなこと、考えられなかったですよ。二十代の、あんな若い作家が、しかも初めて美人が作家になったの(笑)。・・私なんかは、戦争に行って後れて出てきたから、彼女たちより年は上でも、ずっとあとになってからです。・・・」(p71:鼎談「同時代を生きて 忘れえぬ人びと」岩波書店)

ほかならぬ、瀬戸内さんが語るから「美人」に説得力があるなあ(笑)。

(ちなみに、3つ目の提案だけを引用すると誤解しちゃいそうですが、
曽野さんの6つの提案は、世界視野でもって、しかも生活に根ざして魅力です)


コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

消防団出初式。

2007-01-06 | 地震
1月5日に市の消防団出初式がありました(町村合併で、今年が市として始めて)。
3年前から地域の消防団活動についておりまして、出初式に出たというわけです。
野外の運動場に集まって、一通りの式をすませてから
いよいよ来賓挨拶というのがあるのでした。
7~8人でしたでしょうか。祝辞の代読だったり、いろいろです。ほかに電報の披露。団員が立ったままに整列して聞いているわけです。この日は快晴で、風もなく、おかげで助かりました。
ちなみに昨年は途中から雪が風に舞っておりました。

午後は、各地区ごとの分団での食事飲み会。そこでの区長さん方の話の中に、昔は天皇陛下の祝辞代読があったようだ。ということでしたが、どなたも聞いたことはないとのことです。いつ頃のことだったのでしょう?

帰ってきてから、思い出して、元旦の新聞を取り出してみました。
そこに天皇陛下の記事を探したのです。ありました。産経新聞が陛下のご感想全文を引用しておりました。5紙でいちばん小さな記事にしていたのは、朝日新聞。こうして比較してみると朝日新聞の取扱いのゾンザイさが鮮やかに浮き上がり、あらためて驚きます。それはそれとして、産経新聞の「天皇陛下のご感想(全文)」をここに、せめて肝腎な箇所でも引用してみます。

「昨年も、大雪や豪雨、台風、竜巻などの自然災害で、150人もの人命が失われたことは痛ましいことでした。新潟県や福岡県では、地震災害のため、この冬も仮設住宅で暮らしている人々のことが心にかかっています。また、台風による潮風害などで稲作などに大きな被害を受けた地域もあり、農家の人々の心痛が察せられます。新しい年の始めに当たり・・皆が、互いに信頼し合って暮らせる社会を目指し、力を合わせていくよう、心から願っています。」

お歌も掲載されております。
「新年にあたり、宮内庁は天皇、皇后両陛下が昨年中に詠まれたお歌のうち、計8種を発表した」と説明があって8首(天皇が5首、皇后が3首)が並んでおりました。

天皇陛下の最初の2首は

 〈大雪〉
 年老いしあまた住む山里に雪下ろしの事故多きを憂う

 〈三宅島〉
 ガス噴出未だ続くもこの島に戻りし人ら喜び語る


皇后陛下は、ここでは朝日新聞が省いていた歌を、引用してみましょう。

 〈帰還〉
 サマワより帰り来まさむふるさとはゆふべ雨間(あめま)にカナカナの鳴く



また「東京新聞」には、他の新聞に書いてないこんな言葉がありました。

「天皇陛下は前立腺がんの手術から四年がたち、ホルモン治療を継続している。皇后さまとともに五月にスウェーデン、バルト三国、英国を公式訪問するほか、六月に全国植樹祭で北海道、八月に陸上の世界選手権開会式で大阪府、九月に国民体育大会で秋田県、十一月には全国豊かな海づくり大会で滋賀県を訪問するなど多忙な日々。公務の負担軽減が検討課題になっている。」


もし私が、壇上で挨拶をするならば、と思ったりするのでした。
迷わずに天皇陛下の、ご感想とお歌とを、代読させていただくだろうなあ。
私なら、そうするなあ。団員を前に、ゆっくりと朗読したいと思います。
それは、聞いてきたどの来賓の祝辞よりもすばらしい。
冬のグランドで祝辞を聞かされるガマンならば、
できるならば、心があたたまる言葉を聞きたいじゃありませんか。
ただ、天皇皇后のお言葉だから、というのじゃなくてね。
思わず朗読したくなる言葉としてみても、陛下のお歌・ご感想が魅力です。

まあ。出初式の挨拶というのは、私の初夢の御愛嬌ですが、
もし天皇陛下の新年のご感想全文を読みたいなら、来年からは、産経新聞です。
天皇皇后両陛下のお歌8首も漏れなく、取り上げております。
ちなみに、お歌引用は
東京新聞も全首。
読売新聞が天皇陛下(5首中3首)皇后さま(3首中2首)。
朝日新聞は読売と同じ数(お歌の選択は別)。
日経新聞は陛下3首、皇后1首を取り上げておりました。

歌やご感想には、言葉とともに姿と呼べるものがそなわっておりますよね。
かってに端折ったり、要約したりしてはなりません。
言葉を加工して、誤解を増幅させてはなりません。
何よりも、産経新聞の見識を、みごとと褒めて、新年の所感といたします。

写真では、東京新聞がカラー写真の天皇ご一家。
凄いのは、朝日新聞の写真でした。
天皇陛下のご感想で、わざわざ地域を特定して語ったご感想の
「新潟県や福岡県では、地震災害の・・」という言葉を要約から消して、
そのかわり中野龍三という書名記事で、新潟の地震被害者の記事を載せています。
その掲載の仕方がすごいのです。
第2社会面の上に仮設住宅での被災者の写真を大きく取り上げています。
部屋で年輩のご婦人が足をのばして座り、お孫さんに年越しそばを食べさせております。
その下に記事があり、さらにその下に天皇家の新年用の写真。
被災者の写真の6~7分の1のサイズの小さな天皇家の写真でした。
その下には短期大学の広告。ですから広告の文字の大学名の上に天皇家の写真が乗っかっている感じに見えるように配列しております。いやはや朝日新聞はすごいなあ。
映像センスがすごいのです。天皇家ご一家の写真が、被災者のおばあさんの伸ばした足の長さに納まってしまう小ささで、しかも被災者の尻の下におかれ、短大広告の大学名の一文字に陛下お一人が隠れてしまいそうに配列されております。
朝日新聞の、ここがすごいのですね。
新年の出初式で陛下のご感想を読み直そうと思って、元旦の新聞をひっぱりだしてきたら、うかつにも、あらためて、写真の配列に気付いて注意が及んだわけです。朝日新聞の写真処理はすごいなあ。これを朝日新聞が掲げる表現の自由と呼ぶのでしょう。伝えたい言葉は隠され。写真の配列は、明らかに意識的で、確信犯的。いやはや。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

産経の一面。

2007-01-03 | Weblog
産経新聞1月1日の一面に「年頭の主張」という文が掲載されておりました。
渡辺京二著「逝(ゆ)きし世の面影」から、8日にニューヨークの国連本部で映画「めぐみ――引き裂かれた家族の30年」が特別上映されることにつなげ、平成14年10月の皇后陛下の言葉「何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません」を引用したりしながら、最後には「その上で、この1年をもう一度『世界で一等可愛い子供』(「逝きし世の面影」から引用)たちの笑い声がはじけるような日本にしたい。」としめくくっておりました。
よい文だなあ。と思っておりましたところ3日の産経一面に「平成十九年はしがき」という文が掲載されているのでした。鳥居洋介(「総合編集部部長(大阪)」)と名前入りです。その文もよかった。
あまりにもいいので、これも紹介して、記録しておきたくなります。
はじまりは「昨年暮れ、居酒屋で『平成18年 最も印象に残ったシーン』を選ぶちょっとしたお遊びをやっていた。」と書き出されております。そこで鳥居さんはサッカーW杯ドイツ大会で、敗退した中田英寿選手(29)が10分近く、ユニホームで顔を隠し、芝生に寝ころんでいたシーンをまずあげて書き始めているのでした。そこから小学校の校庭に芝生を敷き詰める事業に芝生の連想がつながって書かれてゆくのでした。
「屋麻戸(やまと)浩教頭(46)が楽しそうに落し物を集めていた。『困ったもんですよ。ジャンパーにセーター、芝生にしてから、脱ぎっぱなしで遊びまわるもんだから』芝生を敷いたことで、全校生徒297人の大半が休み時間に校庭で遊ぶようになったという。何より教室にこもりがちだった女の子たちが、男の子と一緒にボールをけり、鬼ごっこに興じ、そこに低学年も入っていく。『けんかが増えましたね。・・そこで小競り合いが起きるのだけど、いつの間にかみんなで遊んでいる。陰湿ないじめは論外だけど、明るいけんかは子供には必要だと教えられました』」
一面コラムの3倍はある文なので大胆に端折りますが、芝生から「青々とした」坊主頭へとつながるのには、思わず微笑んでしまいました。それはこういう例を紹介していたからです。
「少し話は変わるが、昨年、大阪市内のある小学6年のクラスで、仲間の障害女児へのいじめが発生した。数人の男児が『A子さんだけ優遇されて、逆差別や』と騒ぎだし、女児が登校を嫌がったことで発覚。緊急集会で息子のいじめを知った加害者の父親は、家に帰るなり『そんな子供に育てた覚えはない』と、男児の頭をバリカンで刈り上げたそうだ。『翌朝には、青々とした坊主頭が3つも』。加害児童も被害女児も教え子だった幼稚園の教諭は目尻に涙をため、うれしそうに教えてくれた。・・・・」


魅力ある鳥居洋介氏の文なので、
ここから、私も連想のつなげたくなります。

大岡信著「瑞穂(みずほ)の国うた」(世界文化社)に「芝生の上の木漏れ日」と題した文が掲載せれておりました。それは平成12年1月号~12月号まで「俳句研究」に連載された文章だったのでした。1月~12月をそのままに題名としてありました。

その最初「一月 ―― 齢(とし)を重ねる」は、
最初の出だしが
「『お正月』ということばは現代でも生きていますが、お正月とはどういうものか、どういう感じかを、いまの子供たちはほとんど知らないのではないでしょうか。・・その理由を考えてみますと、一つには年齢の数え方が変わってしまったからです。私はもうすぐ七十代になりますので、私の子供のころといえば、六十年以上も昔のことになりますが、そのころの子供にとって、お正月が来るということは同時に、【歳をとる】ということでした。」こうして満年齢が昭和25年(1950年)に施行されたことを語ります。

連載ですから二月三月四月・・と続きます。
そして最後は「十二月――人生の黄金時間」という文になります。
そこにまた歳のことが出てきます。

「このごろの歳暮や新年の変化は大きいと思います。その一つは、この連載のはじめでも言いましたが、『数え歳(どし)』というものがなくなったことです。それが大きいですね。・・振り返って自分自身を見つめ直したとき、お歳暮も新年もない、という人が多いのは、いきすぎではないでしょうか。・・・お歳暮や年始というものを改まった気持で迎える。そのために何らかの意味で決心をする。そういうことのある人は、歳をとったという感じがきちんとあって、それがやがて、うまく歳をとるのは難しいなという感じにもなるだろうし、あるいは『オレも歳のとり方が昔よりはうまくなってきた』などと思ったりすることにつながるでしょう。・・・」

ところで、どうしてこの題名を「芝生の上の木漏れ日」としたのか?
それについても最後に説明がありました。
まあ、それはなぞのままにしておきましょう。
答えだけを聞かされても、つまらないことが多いこの頃です。
あるいは、それは芝生で遊ぶ子供が教えてくれるのかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

変格青春小説。

2007-01-02 | 短文紹介
朝日の古新聞をもらってきました。
7月1日の書評欄に
出久根達郎氏による書評が掲載されております。
書評本は三木卓著「K」(講談社)。
書評の最後を引用。


「『ぼく』という一人称の文体が軽快なので(エッセーのようだ)、少しも深刻でない。Kは魅力的な『愛(かな)しい女』にうつる。文章の魔術の勝利だ。これは夫婦物語ではない。変格青春小説であるまいか。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

元日の一面コラム。

2007-01-02 | Weblog
早朝。水平線に雲がかかり、初日の出がなかなか拝めませんでした。
2007年。今年はこのブログがきちんと書けますように。

コンビにいって元旦の朝刊をいろいろと買ってきました。
ということで、元旦新聞一面コラムを取り上げてみます。
毎日新聞「余禄」は、石垣りんさんの詩「新年の食卓」を引用。
読売新聞「編集手帳」は、吉野せい著「洟(はな)をたらした神」と
加藤楸邨(しゅうそん)の句「負独楽は手で拭き息をかけて寝る」が。
産経新聞「産経抄」は、「年の神」から小泉八雲へ、「神の国」「美しい国」。
朝日新聞「天声人語」は、宮沢賢治のふるさとを訪ね、賢治童話「雪渡り」と
花巻農業高校の碑文。それに「下ノ畑ニ居リマス」を散策しております。
東京新聞「筆洗」は大徳寺大仙院の名物和尚、尾関宗園さんの説法から。
読んで私に、一番しっくりしたのは
日経新聞「春秋」でした。
青木玉著「小石川の家」の、書道の稽古の様子を語りながら、キーボードにつなげておりました。
せっかくですから、もうすこし「春秋」からの引用。
「・・『書きぞめや墨猪(ぼくちょ)のこのこ歩き出し』。二日の手習いの朝、孫のつたない字を見た祖父はそう言って笑ったという。苦心して筆をふるった孫娘の文字は墨が固まってイノシシの足跡のようだ。厳しいしつけで知られた露伴が『墨猪』とそれを呼んだ優しい眼差しには書くことに寄せる深い愛着が重なる。書家の石川九楊さんは精神の運動としての書が自省を通して人を世界につなげるというが、家庭から墨の香りが消えて久しい。・・」

ちなみに、私は、年賀はがきはせいぜい30枚ほどですから、宛名は筆ペンで書いております。汚い字だなあと思いながら書きます。字を書いているのか。恥をかいているのか。毎年どちらかわからない気分で、乱雑にそそくさと宛名書きをします。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

調査の孫請け。

2007-01-01 | 短文紹介
鹿毛康司著「愛されるアイデアのつくり方」(WAVE出版)
より印象に残る箇所。


「僕らは毎日、『言葉』を使いながら仕事をしている。
『言葉』でものを考え、『言葉』で相手に伝えようとしている。
しかし、僕らはどれほどその使い方を誤っていることだろうか。
『言葉』に頼り、『言葉』で答を出し、『言葉』でごまかす・・。
そして、結果として『言葉』に裏切られていく。
それは、僕自身が何度も経験してきたことだ。
『言葉』の使い方ひとつで『アイデア』は
生まれもすれば死にもする。
それほど、デリケートなものなのだ。」(p163)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

調査の孫請け。

2007-01-01 | 短文紹介
昨日の本のつづき。
鹿毛康司著「愛されるアイデアのつくり方」(WAVE出版)
から印象にのこる箇所。


「僕らは毎日、『言葉』を使いながら仕事をしている。
『言葉』でものを考え、『言葉』で相手に伝えようとしている。
しかし、僕らはどれほどその使い方を誤っていることだろうか。
『言葉』に頼り、『言葉』で答を出し、『言葉』でごまかす・・。
そして、結果として『言葉』に裏切られていく。
それは、僕自身が何度も経験してきたことだ。
『言葉』の使い方ひとつで『アイデア』は生まれもすれば死にもする。それほど、デリケートなものなのだ。」(p163)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする