和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

諸山雲にのり、天をあゆむ。

2021-02-28 | 正法眼蔵
「正法眼蔵」の山水経の巻をひらいたので、
山水経における、大宋国についての記述も言及しておきます。

はい。もちろん増谷文雄氏の現代語訳から

「・・・いまの宋土の諸方におおく、
わたしも目のあたりに見聞したことがある。かわいそうに
彼らは、思惟(しい)は言語であることを知らないのであり、
言語が思惟をつらぬいていることを知らないのである。

わたしはかつて宋にあったころ、・・・・
誰がそんなことを彼らにおしえたのか。
本物の師がなかったから、おのずからにして
外道(げどう)の見解におちたのであろう。」(p28~29)

「いまの大宋国には、一群の杜撰(ずさん)のやからどもが
はびこっていて、すこしばかり本当のことをいっても、
いっこうに打撃をあたえることができぬ有様である。

彼らは・・・・もろもろの思惟にかかわれる語話は、
仏祖の禅話というものではなく、理解のできない話こそ
仏祖の語話だというのである・・・・

そのようなことをいう輩(やから)どもは、
いまだかつて正師(しょうし)にまみえたこともなく、
仏法をまなぶ眼もなく、いうに足りない小さな愚か者である。

宋国では、この二、三百年このかた、
そのような不埒なにせものの仏教者がおおい。
こんなことでは仏祖の大道はすたれてしまうと思うと悲しくなる。

彼らの解するところは・・・・
俗にもあらず、僧にもあらず、人間でもなく・・・
仏道をまなぶ畜生よりも愚かである。

汝らがいうところの無理会話とは、
汝らにのみ理解できないのであって、
仏祖はけっしてそうではない。
汝らに理解できないからとて、
仏祖の理路(りろ)はまなばねばならないのである。

もしも畢竟(ひっきょう)するところ
理解できないものならば、汝がいうところの
『理会(りえ)』ということもありえないのである。」(p28)


この箇所について増谷文雄氏は、開題でこう指摘しておりました。

「この巻において特に注目していただきたいことがある。
それは、この巻の前半、雲門のことばの『東山水上行』なる句
を釈する条(くだり)において、

禅話の理会(りえ)・無理会(むりえ)について論じていることである。
理会とは、今日のことばをもってすれば、おおよそ理解というにあたる。

しかるところ、今日もなおしばしば聞き及ぶところであるが、
仏祖の禅話はもともと判らないものであるという。
それが禅家の常套語(じょうとうご)である。

それに対して、道元は、そのような言説は
『杜撰(ずさん)のやから』どものいうところであって、
『禿子(とくし)がいふ無理会話(むりえわ)、なんぢのみ無理会なり。
仏祖はしからず。なんぢに理会せられざればとて、
仏祖の理会路(りえろ)を参学せざるべからず』という。

そこには、世のつねの禅家とは、まったく異なれる
道元の立場があることが知られる。」(p15)

以上。講談社学術文庫「正法眼蔵(二)」(増谷文雄全訳注)
からの引用でした。

はい。道元が『かつて宋にあったころ』のことが、
その状況を、見聞とともに語られているのでした。
そして、このあとに
「『東山は水上を行く』とは、仏祖の心底だと知らねばならぬ」
として山水経へと踏みこんでゆくのでした。

ということで、次の箇所は原文から引用。

「しるべし、この東山水上行は、仏祖の骨髄(こつずい)なり。
諸水は東山の脚下に現成(げんじょう)せり。このゆゑに、
諸山くもにのり、天をあゆむ。・・・・・」(p26)


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「東山は水上を行く」

2021-02-27 | 正法眼蔵
本のネット検索は、『日本の古本屋』をよく使います。
昨日も、今西錦司で検索すると、著書以外にも、
対談本や、意外な本がでてきたりします。
たとえば、
「不滅の弔辞」(集英社・1998年)というのが出てきた。
うん。これならば、本棚にありました。
はい。未読本で、ねむっておりました。
ひらくと、今西錦司氏への3人の弔辞が載ってる。
ここには、谷泰氏の追悼の言葉のはじまりを引用。

「それは、まだわたしが20代後半のことでした。
京都の北山での山行に誘われ、野宿した晩、
焚火を前にして、先生はふと、

『大きな岩でもな、根気ようなん度でも
 押したり引いたりし続けたら、
 動きだして、転がせるもんや』

と言われました。それは、若いものへの
ひとつの人生知の教えという響きをもってはいました。
ただ、どこかで聞いたことのある格言や警句の引用ではなく、
その表現の生々しさは、山かどこかでのご自分の経験に照らしつつ、
自分の人生を語ったものという印象をあたえました。

・・・・行動的ナチュラリストとして、
先生の生物的自然についての言明は、直接的観察にもとづきつつ、
強靭な思索に裏打ちされており、それを理解するのに、だれか
他人の理論や主張を想定しても無駄でした。

そして、それに太刀打ちするには、わたしたち自身、
自分の眼をもって直接経験の世界に向かう以外にはない、
そんな力をはらんでいました。
もしかしたら、そのとき先生は・・・・」(p72)

はい。弔辞ですから、居並ぶ方々が、聞いていたことでしょうね。

「大きな岩でも…動きだし」といえば、
そういえば、『正法眼蔵』に山水経という巻があるのでした。
講談社学術文庫の増谷文雄訳『正法眼蔵(二)』に載っております。
うん。ひらいてみると、こんな箇所がある。
『東山水上行の句を論ずる』を、現代語訳で引用してみます。

「雲門匡真(うんもんきょうしん)大師は、
『東山は水上を行く』といった。・・・・・
 ・・・・・・
さて、この『東山は水上を行く』とは、
仏祖の心底であると知らねばならぬ。
もろもろの水は諸山の脚下に現われる。

だから、諸山は雲に乗って天をあゆむのである。
もろもろの水の頂きは諸山である。のぼるにも、くだるにも、
その行歩(ぎょうほ)はともに水上である。

諸山の爪先はよくもろもろの水を踏んであるき、
もろもろの水はその足下にほとばしり出(い)でる。
かくてその運歩(うんぽ)は縦横自在にして、
もろもろの事が自然にして成るのである。・・・・」(p29)

もう少し先をいそぐと、こんな箇所もあります。

「さて、世間にあって山を眺める時と、
 山中にあって山と相逢う時とでは、
 その顔つきも眼つきもはるかにちがっている。
  ・・・・・・
 『山は流れる』という仏祖のことばをまなぶがよいのである。
 ただ驚き疑うにまかせておいてはならぬ。」(p43)

ちなみに、この巻の巻頭に増谷氏の解説がつくのですが、
そのかなでは、こうありました。
 
「なるほど、道元の文章はむつかしい。
特にこの『正法眼蔵』は難解至極である。・・・・

だが、わたしどもは決して、ついに理解しがたいものを
読んでいるのでも、訳しているのでもない。
道元その人もまた、なにとぞして理解させようとして、
語をかさね句をつらねているのである。
繰り返し繰り返しして読んでいると、
その気持がよく判かるのである。・・・・

そのような仏教の見地から、凡情をとおく越えた山の見方、
水の考え方が、つぶさに解説される。・・・・

さらに、山水が大聖の居ますところであることが、
事例をもって語られたのち、『かくのごとくの山水、
おのづから賢をなし聖をなすなり』と結語せられる。
それがすなわち、山水こそ経であるとする
この一巻の趣としられるのである。」(~p16)

うん。引用を重ねるたび、伝えにくさが加わる感じですが、
谷泰氏の弔辞の言葉から、正法眼蔵の山水経が思い浮かびました。

もどって、『不滅の弔辞』には、各方々の弔辞の前に、
その「人と功績」が記載されております。
今西錦司のページは、「人と功績」の下に、
「山を愛し、自然から学問を学んだ独創性の学者」とありました。
最後に、そこからちょっと引用。

「今西は京都・西陣の織元『錦屋』の跡とり息子として生まれる。
幼いころから自然の魅力にとり憑かれ、旧制京都一中に入学するや、
同級生らと登山のグループ『青葉会』を結成、これがのちの
〈 アルピニスト・今西 〉の原点となった。

京都帝国大学に進むと、『趣味と学問を一致させられる』と
農学部で昆虫学を選ぶ。最初の研究テーマは水生昆虫の調査だった。
このとき、彼は研究室から飛び出し、谷歩きの中から調査と研究を
重ねている。後年、今西は『学問は人からではなく、自然から学んだ』
と語っているが、その最初が水生昆虫の調査だった。・・・・」(p67)


うん。『凡庸をとおく越えた山の見方』というのは、
そのままに、83歳で1500登山を実現したという今西錦司の
山の見方でもあったかのようです。

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わかりよるのやろか。

2021-02-26 | 京都
谷沢永一著「十五人の傑作」(潮ライブラリー)の
はじまりは今西錦司。その文中で、谷沢氏は開高健を引用してる。

その引用文は、開高健著「言葉ある曠野」(文藝春秋)の
なかにはいっている「カゲロウから牙国家へ」からの引用とあります。

さてっと、未読でしたが、開高健著「人とこの世界」(中公文庫)は
本棚にあります。今西錦司の「カゲロウから牙国家へ」はそこにある。
読み始めるのですが、その文のはじまりで、もうわたしは先へと、
読みすすめませんでした。はい。ではそのはじまりを引用。

「今西博士の名を知ったのはかれこれ十年ほど以前のことである。
『日本動物記』という本を読んで知った。これはたしか四巻本で、
光文社から出版されたのだったと思う。憂鬱で苦しんで字も書けねば
人にも会えないでいる私に富士正晴氏が手紙で推奨してきた幾冊かの
薬用書籍のなかにそれが入っていた。憂鬱の発作に抵抗するには
鳥獣虫魚とか、失われた大陸とかの本がいいようである。

富士氏は昔から京都のいろいろな学者と接触が深いから今西博士の
人格や業績をよく知っていて私に推奨してくれたにちがいない。
・・・」(文庫p173)


はい。憂鬱な開高健は、これ以上読まないことにして、
ここに登場する、今西錦司への連想を楽しむことに。

思い浮かんだのは、寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書)。
ここに、「京ことばに生きる男たち」という文があったのでした。
そのはじまりは、今西錦司らのある座談会の場面からはじまります。
そこで寿岳さんが指摘するのは
「今西、梅棹両氏には方言で話す能力とでも言いたいものが
非常にあらわに存在する。」(p28)と観察して楽しんでおられる。

うん。全文引用できないのは残念ですが、
最後の方をちょこっと引用しておきます。

「・・人はあることに気がつくに違いない。
それは・・学問が、きわめて濃厚な個性をもっている
ということである。その文明論、その研究方法、発想、
人がおぼめかしてひそめていたものを、堂々と白昼明らかにして、
思いがけない方法でみごとな体系につくり上げてゆく力。
それは関西の力とでも言いたいものがある。
・・・・・

いわば大地に足をふんばって、生きている力をフルに発揮する
ところに出てくる学問、たくましい現実を構想する力、
そんなエネルギーがぎらぎらしている感じがある人たちである。
・・・・・・
私は思う、関西のことばを大切にし、時には第二標準語論にまで
発展するくらいの気構えと誇りで勝負するこの人たちは、
すなわち、京都弁でものごとを考えている人たちである。
絶対に共通語の語り口からは生まれない何ものかがあるのではないか。

いわば土地のことばによる土着の思想の世界に実ってゆく学問
と言ってよいであろう。ほんとうは私はそんな世界にあこがれて
いるのである。・・・・」(p37)

はい。あこがれがあれば・・。



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希望。

2021-02-25 | 詩歌
「語りかける辞典」という副題のある「風のことば空のことば」(講談社)。
このなかに「いのり」という項目があり、
そのはじまりで、長田弘氏は、こう語りかけるのでした。

「大震災以後、悲しい気持ちになるニュースがずっと
 つづいている。悲しいのは出口が見えないから。」(p18)

東日本大震災から、この3月で10年がたちます。
長田弘の言葉の、この箇所から浮かぶ詩集がありました。

杉山平一詩集「希望」(編集工房ノア2011年)。
そのはじまりの詩を引用したくなったのですが、
それは最後にして、詩集の「あとがき」を引用。

「何を、今さら、97歳にもなって詩集を出すなんて、
と思えるが、私は90歳で死ぬと思っていたのに、思いがけず
だらだらとその年齢を過ぎてしまった。・・・・・

私の父は静岡の袋井の出身であり、母は長崎の酒屋の娘であった。
もともと三菱電機に勤めていた父親は、猪苗代湖の水力発電所の
建設に従事しており、大正3年10月12日に初めて東京へ向かって
電気を送り出したと言われている。・・・・・

私は生まれて間もなく会津若松を去った・・・
私は関西で育ち、高校時代を旧制松江高校で過した・・・」

この「あとがき」の最後も、
すこし長くなりますが引用。

「ところで話は変わるが、折しも、この詩集の編纂にかかり
始めた時に東日本大震災が起こり、次々と流れてくる報道に
動転した。そもそも、私は会津生まれでありながら、
東北地方について無知であった。・・・・・・

うなじや太鼓帯の美しさが背中に隠れているように、
東北地方の人たちは後ろ側にその美しさを秘めている。
表からは見えないその奥ゆかしさ謙虚さを打ちのめすように、
大震災が東北の街をハチャメチャにしていったのだ。

今こそ、隠れていた背中の印半纏を表に出し、
悲境を越えて立ち上がって下さるのを祈るばかりである。
奥ゆかしさを蹴破って、激烈なバックストローク、
鵯越(ひよどりごえ)の逆落としさながら、
大漁旗を翻して新しい日本を築いて下さるように。

詩集の題名を『希望』としたが、少しでも復興への気持を
支える力になれば、と祈るばかりである。

      2011年8月15日    杉山平一     」

最後になりましたが、
詩集のはじまりの詩を、引用しておくことに。

        希望     杉山平一

  夕ぐれはしずかに
  おそってくるのに
  不幸や悲しみの
  事件は

  列車や電車の
  トンネルのように
  とつぜん不意に
  自分たちを
  闇のなかに放り込んでしまうが
  我慢していればよいのだ
  一点
  小さな銀貨のような光が
  みるみるぐんぐん
  拡がって迎えにくる筈だ

  負けるな
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こんなん読まな損やで。

2021-02-24 | 本棚並べ
昨日本棚からとりだした
河合隼雄・長田弘『子どもの本の森へ』(岩波書店・1998年)。
そういえば、はじめて読んだ時に
印象に残っている箇所があったのを思い出しました。
それは、はじめの方にありました。

河合】 ・・ぼくは『読みなさい』って言わないんです。
『こんなん読まな損やで、こんなおもしろい本』と言う
ことにしている。

長田】 よくないのは、要約しろっていう読み方。
その考え方が読書をつまらなくしちゃってると思うんですね。
要約なんかしなくていい。それよりその本のどこか、
好きなところを暗誦するほうがずっといいと思うのです。

河合】 ほんとですね。それはいい話ですね。
昔は漢文の素読があった。それを否定したでしょう。
ところが漢文の素読を否定して、
そこから暗誦そのものまで否定したのは間違ってます。

むしろ『二行でもええ。何でもええから、
あなたの好きなところを、音楽をつけてもええし、
気持を込めて暗誦しなさい』と。・・・・・

(以上は、p7~8)

はい。当ブログで引用が多いというのは、
この箇所を読んで以来なのだと思います。



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「読みたい」とずっと。

2021-02-23 | 本棚並べ
長田弘の詩「風のことば空のことば」(講談社・2020年)が
わたしに、とても楽しいのでした。

その1ページ目は、こうはじまっておりました。

「詩人の長田弘(おさだひろし)さん(1939~2015)は、
2004年12月から、逝去される2015年までの11年間にわたり、
読売新聞『こどもの詩』の選者を務めていました。

選んだ詩に添えた『選評』だけを一冊にまとめ、
『語りかける辞典』という名前の詩集として
いつか出版すること、それが長田さんの願いでした。」
(p3)

はい。この「語りかける辞典」をひらくのは楽しい。
子どもたちにも、わかる詩たちのことが思い描ける。
そんな楽しみ。

そうだと、今日本棚からとりだしたのは、
河合隼雄・長田弘『子どもの本の森へ』(岩波書店・1998年)。
お二人の対談なのですが、はじまりの方で
長田さんが語っておりました。

長田】 子どもの本というのは
『読まなきゃいけない』本というじゃないんですね。
そうじゃなくて『読みたい』とずっと心にのこっている本。

子どものときに読まなかった子どもの本が、
記憶のなかにいっぱいのこってる。だけど、そうやって
記憶のなかにツンドク(積ん読)だけで読まなかった子どもの本
というのを、大人の自分のなかにどれだけ持っているのか・・
  ・・・・・・
ツンドクというのは、読まないというのともちがうんですね。
何かの拍子に読める、そして夢中になるのがツンドクなんですね。
・・・・(p5)


当時、この本を新刊で買って読んだのでした。
それ以来かな積読へのやましさが消えました。
ネットの安い古本はそれに拍車をかけました。
読んだ本っていったら、いく冊でもないのに。

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そこから吹いてくる。

2021-02-22 | 本棚並べ
入江敦彦著「読む京都」(本の雑誌社・2018年)で、
入江敦彦は、今西錦司を紹介しております。

「けれど、やはりここは今西でなければならぬ。
なぜなら京都語が森羅万象に敬語で接するように、
彼にはいわば学問対等意識めいた感覚があったからだ。
 ・・・・・・・・・

京の老舗は格式が高いほど、名代の改良改善に余念がないものだが、
変化を恐れず、自らの説に固執することなく学問する姿勢もまた
見事に京都人の作法と一致する。
『今西錦司全集』(講談社)の後半、十から十三あたりは
学術だと敬遠せずに読んでみる価値は大あり。
・・・・」(p198~199)


はい。この箇所が私には印象深く。
さっそく古本で『今西錦司全集』の、指摘されている
巻を購入したのでした。購入したは購入したのですが、
本棚にひらかれないままに鎮座しており、
たまに、気になるのですが、
そこはほれ、開かない腰がおもい私です。

さてっと、本棚からとりだしてきたのは、
谷沢永一著「十五人の傑作」(潮ライブラリー・1997年)。
そこに居ならぶ15人の、はじまりが、今西錦司でした。

谷沢氏はこう指摘します。
「生産的な思考の第一着手は、言葉の手垢を拭い取る清掃であり、
そして可能な限り素朴な本来の意味に圧縮、
良識の脈絡に嵌(は)め込む作業である。」(p13)

谷沢氏は、「日本動物記」の読後感を書いた開高健の指摘も、
その後に、引用しておりました。


「開高健はまず文章論から始める。
今西『博士の文章は、観察記録がとくにそうだが、
どれを読んでもじつに透明である。垢や臓物がないのである。
爽やかに乾いている。ときどきむきだしの剛健なユーモアがとびだす。
ほとんど傍若無人にのびのびしていて、
学界にどう思われるだろうか、こう思われるだろうかと右見たり左見たり
したあげく衒(てら)ってみたり、謙虚ぶってみせたりという気配が、
どうも感じとれないのである。何かしら
そこから吹いてくる風は独立、自尊の気風である。
思惑と指紋でベトベトに穢れた文壇の文章ばかりを読んだ眼には
それがとても気持がいい。おそらくそれは博士が即物の人である
ことからくるのだろうと思う。よほどの生の蓄電が生む透明にちがいない。
しばしば非情なまでに透明である。
〈 あれは直立類猿人や 〉一人の京都の学者がそういった』。
(p21)

うん。引用はこれくらいにして。
さて、本棚の『今西錦司全集』後半を、
私は、ひらくのかどうか。それが肝心。
はい。このくらいの溜めをつくっておけば、
また、いつか堰を切ったようにして、読める。
そう、なりますように。
ああ、読みたいと、惹かれる気持がなにより。

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千載(せんざい)にあひがたし。

2021-02-21 | 正法眼蔵
道元著「正法眼蔵」のなかの、
「仏道」巻をせっかくめくったので、
興味ぶかい箇所をとりあげてみます。まずは、
その前に、道元が宋に渡るまでを順をおって辿ります。

「道元は、14歳にして叡山で剃髪したが、
その翌年にはもう山を降りた。・・・・
『正法眼蔵随聞記』の第4巻によれば、
『終に山門を辞して、遍く諸方を訪ひ、道を修せしに、
建仁寺に寓せし中間、正師にあはず、善友なく故に、
迷て邪念を起しき』とみえる。・・・・

その迷える道元を救ってくれたのは、栄西の法嗣明全との出会い
であった。その時、道元は、はじめて、仏祖正伝の仏法を語る
禅のながれに触れることを得たのである。

そのころ、彼が明全によって伝え聞くことをえた建仁寺の
故僧上すなわち栄西の言行は、しばしば、若くして求道の
志にもえる彼の心をうった。・・・・・

おなじ思いの師の明全をうながして、直往して宋に渡った。
明全は40歳、そして、道元はなお23歳であった。
・・・・『・・五宗の玄旨を参究せんと擬す』・・・・
彼が入宋以来その時まで参究せんとしていたものは『五宗の玄旨』
であったと知られる。・・・・

いうまでもなく、ここに『五宗』といい、かしこに『五門』というは、
おなじく、いわゆる『五家』を指さすものであって、しかも、そのなか
においてもっとも大いなるものは、ほかならぬ臨済宗であった。

『・・・・いはゆる法眼宗・潙仰宗・曹洞宗・雲門宗・臨済宗なり。
見在大宋には、臨済宗のみ天下にあまねし。五家ことなれども、
ただ一仏心印なり』それが、道元の見たかの地における禅の現勢
であったといってよろしい。

しかるに、道元は、はからずも、やがて『先師古仏』すなわち
天童如浄にまみえて、参学の大事を了得し、故国に帰ってきた。
つまり、彼は、臨済のながれではなくて、曹洞のながれを汲ん
だのである。『いささか臨済の家風をき』いてここに到った彼が、
いまは曹洞のながれのなかに立つこととなったのである。」
( 増谷文雄著「臨済と道元」春秋社p17~20 )


こうして、曹洞宗の道元なのですが、
『正法眼蔵』の第49『仏道』をひらくと、
仏法としての、視界がはれてゆき、
ひらけてゆくのを覚えるのでした。


『仏道』から、天童如浄のことばを引用している箇所。

「先師なる如浄古仏は、上堂して衆に示していった。
『このごろ、そこらあたりのあれやこれやが、しきりと、
雲門(うんもん)・法眼(ほうげん)・潙仰(いぎょう)
臨済(りんざい)・曹洞(そうとう)など、
いろいろ家風のわかちがあるというが、
そんなのは仏法ではない、祖師道でもない』

このようなことばは、千歳にも遇いがたいものである。
先師にしてはじめていいうるところである。
ほかではとても聞きえないところで、
この法席にしてはじめて聞きうるところである。

だがしかし、その席につらなった一千の雲水のなかにも、
そのことばに耳をそばだてる者はなかった。
それを理解するだけの眼識ある者もなかった。
ましてや、心をそそりたてて聞く者もなく、
ましていわんや、その身をこぞって傾聴する者もなかった。
・・・・・・・
わたしもまた、まだかの先師なる如浄古仏を礼拝しなかった以前には、
かの五宗の家風を学び究めたいと思っていた。・・・・」
     (講談社学術文庫「正法眼蔵(五)」p90~91)

はい。如浄古仏の言葉の次からを原文で
あらためて引用してみます。

「この道現成(どうげんじょう)は、
千載(せんざい)にあひがたし、先師ひとり道取(どうしゅ)す。
十方にききがたし、円席ひとり聞取す。しかあれば、
一千の雲水のなかに、聞著(もんじゃく)する耳朶なし、
見取する目睛(がんぜい)なし。いはんや心を挙してきくあらんや。
いはんや身処に聞著するあらんや。たとひ自己の渾身心に
聞著する億万劫にありとも、先師の通身心を挙坫(こねん)して、
聞著し、証著し、信著し、脱落著するなかりき。
あはれむべし・・・・・」(p88~89)

この『仏道』巻を増谷氏は、原文・現代語訳してゆくまえに、
「開題」と題して、ていねいに解説しております。
そこからも引用して終ります。

「この一巻(仏道)の内容とするところは、
かなりながいものであるが、しかし、
そのいわんとする趣きは、きわめて明快である。
つまり、仏道には宗派の称などあるべからざるものだ
ということをずばりと説いているのである。

・・・・仏祖正伝の大道を、ことさらに禅宗などと称するのは、
それは仏教そのものがまるで解ってはいないのだというである。
・・・・
そのことを道元は、それぞれの祖師がたについて一人ずつ
証(あか)ししてゆくのである。ともあれ、まったく
至り尽したことであるというのほかはあるまい。」(p70)







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ヨーガと禅。

2021-02-20 | 正法眼蔵
増谷文雄著「臨済と道元」(春秋社・1971年)に
ちょっと、禅とヨーガに触れた箇所がありました。
そこを紹介。

「禅とは、梵音〈ディヤーナ〉を音写して〈禅那〉となし、
さらにそれを省略して〈禅〉となしたものである。
意訳すれば、定もしくは静慮である。

それは、かの『ヨーガ・スートラ』に説くところの
ヨーガの支則の一つであって、『そこにおいて
意識作用が一点に集中しつくす状態が静慮である』
と定義されている。

その『ヨーガ・スートラ』の説くところは、
インドの思想家たちの諸派に通ずる実践論であって、
仏教もまたはやくからその修行法を採用していた。・・・」
(p52)

この箇所は、増谷文雄氏が『正法眼蔵』の第49『仏道』の巻
にふれながら指摘されているのでした。
それならばと、講談社学術文庫の『正法眼蔵』の目次を
さがしてみると『正法眼蔵(五)』に『仏道』があります。
そこの増谷文雄氏の現代語訳で、この箇所を引用。

「石門の『林間録』にいう。
『菩提達磨は、はじめ梁から魏にいたった。
崇山(すうざん)のふもとをあるいて、少林寺にいたり、
そこに杖をおいたが、ただ面壁して端坐するのみであった。
それは習禅ではなかった。だが人々はひさしくその故を
測りしらなかったので、達磨をもって習禅の人となした。

いったい禅那とはもろもろの行の一つにすぎない。とうてい
それをもってこの聖人のことごとくを尽くすことはできない。

だが、当時の人はそれを知らないから・・・
達磨をもって習禅の列につらね、枯木死灰(こぼくしかい)の
やからにいれてしまった。

しかしこの聖人はけっして禅那にとどまるものではなかった。
しかもまた禅那にたがうものでもなかった。・・・・』」
(p77)


このあとの、禅への考察には、惹かれるのですが、
煩雑にわたりますし、わたしはもう満腹です。
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初めての坐禅。

2021-02-19 | 正法眼蔵
家で、とりあえず数分坐禅をしてみる。
お尻の方に座布団をおいて、坐りやすくする。
ときどき、思いついてするので、たよりない。

さてっと、そういえば、道元の正法眼蔵に、
坐禅についての箇所があるに違いないと、
まあ、そんなことを思うのでした。

講談社学術文庫の増谷文雄全訳注『正法眼蔵』の
目次をパラパラとひらいてゆくと、『正法眼蔵(三)』の
目次に『坐禅箴(ざぜんしん)』とある。
はい。そこだけを、それも現代語訳だけをめくってみる。
数分坐禅と、一部分のパラパラ読みと、
こういうのを、ちかごろ恥としないのは、
これはもう、年をくったということでしょうか。

さっそく、興味をひく箇所がありました。

「南嶽(なんがく)はまた示していった。

『なんじは坐禅を学んでいる。それは坐仏を学んでいるのだよ』

そんなことばをよくよく思いめぐらして、
仏祖の教えの機微を学びとるがよい。・・・・・・

正伝につながる仏者でなかったならば、とてもとても、
このような学坐禅は学坐仏なのだといい切ることはできまい。

まことにや、初心の坐禅は、初めての坐禅であり、
初めての坐仏であると知るがよろしい。」(p189)


はい。わたしは、これだけで満腹。
これ以上、読めなかったりします。

「坐禅箴」のすこし先の方には、こうもあります。

「仏の光明というのは、
 一つの句を聴いて忘れないのがそれであり、
 一つの教えを保ち守るのがそれであり、
 坐禅を直々に伝授するのがそれである。
 
 もしも仏の光明に照らされるのでなかったならば、
 それらを保ちつづけることも、信じ受けることも
 できないのである。

 そういうことで、古来からのことを尋ねてみても、
 坐禅の坐禅たるゆえんを知るものは少ない。・・・・」
 (p198)


うん。このくらいにして、さて、今日は、
我流の坐禅を、何分ぐらいできるかなあ。

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23年前。

2021-02-18 | 詩歌
地元紙に『安房この本だいすきの会』の冊子について、
掲載されていて、電話をすると送ってくださいました。
今手元にあります。
表紙にあたる箇所は、
カラーの絵本の表紙を小さく額縁のように並べてあり、
その中に言葉がありました。

「安房この本だいすきの会では、絵本・物語を通じて、子どもたち
に豊かなことばと想像力をはぐくもうと、活動を重ねてきました。
そして迎えた26年目の2020年度、コロナ禍にあって、私たちは
何ができるのか、模索をしながら取り組みを続けてきました。
これは、そんなささやかな報告書です。」

冊子は12ページで、各ページに絵本が6~10冊ほど
紹介されてゆきます。8ページ~11 ページまでが、
「2020年度版・子どもたちに届けたい50冊」という特集。
各絵本や物語は、表紙が小さくカラーで載っているので、
私などのように、絵本にあまり興味のない方にも見て楽しめます。
その最後の50冊の、42番目は『風のことば空のことば』(講談社)
でした。長田弘の詩・いせひでこ絵。この冊子の解説は

「読売新聞『子どもの詩』に筆者が添えた『選評』だけを
まとめた本。語りかける様なことばが詰まった詩集の様です。
そこに柔らかな鉛筆画の挿絵がそっと寄り添っていて楽しませてくれます。」

はい。気になったので、この本を注文してみました。

もどって、『安房この本だいすきの会』は
年一回、絵本作家などにお話してもらう会が開かれていました。
23年前にわたしは、小学生の子と聞きにいったことがあります。
そうなんだ、今年度で26回目なんだ。

さて、『風のことば空のことば』には副題がありまして
『語りかける辞典』となっておりました。

各項目にわかれていて「まいにち(毎日)」というページの
はじまりには、こうありました。

「なにも特別な日の物語じゃないんだ、人生って。
 何でもない日の何でもない物語なんだ、大事なのは。」

う~ん。この本をひらいていると、長田弘氏の詩集の題名が
思い浮かんだり、現代詩のフレーズが浮んだりするのでした。
この言葉で思い浮かんだ詩はというと

     退屈    杉山平一

  十年前、バスを降りて
  橋のたもとの坂をのぼり
  教会の角を右に曲つて
  赤いポストを左に折れて三軒目
  その格子戸をあけると
  長谷川君がいた

  きょう、バスを降りて 
  橋のたもとの坂をのぼり
  教会の角を右に曲つて
  赤いポストを左に折れて三軒目
  その格子戸をあけると
  やっぱり長谷川君がいた
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ころがし。ころがし。

2021-02-16 | 本棚並べ
増谷文雄著「臨済と道元」のしめくくりは、
こうなっておりました。

「このような考え方は・・道元が、
その論理的追及によって到達したものではない。それは、あきらかに、
彼の体験的所得によるものである。だが、彼はまた考える人であった。

そして、そのかずかずの著作は、彼がその体験によって得たものを、
くまなく吟味し、拈弄し、そして表現したものであることを示している。
その吟味と表現は、おおくの禅家のなかにおいて、
まったく稀有であるとしなければならない。とくに、
『正法眼蔵』に読みいたるものは、その感をふかくするであろう。」
(p190)

はい。最後に「とくに、『正法眼蔵』に読みいたるものは」と、
これから、読む人へ、ささやきかけるようにも読めるのでした。

ここに、『拈弄(ねんろう)』とあるのですが、
それについては、こう書かれております。

「だが、道元は考える人であった。思想する人であった。
もっと適切な表現をこころみるならば、禅家にいうところの
『拈弄』することを知っていた人であった。
『拈弄』とは、わが心の掌のなかで、
ああころがし、こうころがしして、吟味することである。

ことに、日本に帰ってきて、その所得をもって人々に
語りかける立場にたつにいたった時には、道元はあらためて、
その体験的所得を吟味し、表現を与えなければならなかった。
・・・・・それを翻していうならば、禅の体験そのものは、
思想というにまったくふさわしからぬものであっても、
それが吟味され表現を与えられる段階にいたると、
やはり、それが考えられ、思想のかたちをとってくるのである。
 ・・・・・

考えてみると、道元がそこでいとなんでいるものは、
その体験的所得の吟味と表現である。体験がまずあって、
それが考えられ、拈弄せられ、吟味せられ、そして表現せられ
ているのである。・・」(p170~171)

さて、これから、私がすることは、
たとえば、部屋に達磨の絵をかけ、
数分でも、坐禅のまねごとをして、
そうして、『わが心の掌のなかで、
ああころがし、こうころがしして、吟味する』
その感触を、読みながら味わい体験すること。

当ブログで、またしても道元を見失うのならば、
気持が、もう他所へと移ってしまった証拠です。
今度こそはと、坐禅で『正法眼蔵』にリベンジ。

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「ファイト!一発!」

2021-02-15 | 本棚並べ
コマーシャルの印象に残るフレーズはありますよね。

わたしなら、JR東海の『そうだ、京都 行こう』。
もう廃校になってしまった、卒業した小学校の校歌に、
一番、二番、三番と『そうだ』がリフレインのように
繰り返されていて、それがあって印象が鮮やかでした。

はい。今とりあげるのは『ファイト!一発!』。
増谷文雄著「臨済と道元」(春秋社)を読んでいると、
『発心』とあり、さらに『一発菩提心』ってのもある。

道元の『正法眼蔵』95巻は、どのようにして書かれたか
を増谷氏はこう書いております。

「それらの巻々のなかには、書して俗弟子に与えたものなども
あるが、その大部分のものは、興聖寺や越州の山中の古寺において、
『示衆』すなわち衆にしめしたものであると記されている。
まず草案としてそれらをしたため、やがて法堂(はつとう)において
弟子たちに説いたものと思われる。」(p176)

その「正法眼蔵」の第69、『発無上心』の巻に
『一発菩薩心』という言葉があるのでした。

この第69巻は、「寛元2年(1244)の2月14日、吉峰精舎において
衆に示したものとある。それは、ちょうど、大仏寺の法堂建立の
直前のことであって・・・とすれば、この巻の聴衆のなかには、
供養者や工事の関係者も加わっていたことと思われる・・・」(p34)

はい。工事関係者へ向かって語られたような箇所があります。

「すなはち発心なり。虚空を撮得(さつとく)して、造塔造仏すべし、
谿水を掬舀(きくよう)して、造仏造塔すべし。・・・」

このあとに『一発菩提心』とあるのでした。
そこを引用するまえに、増谷氏の解説をまずもってきてみます。

「そこでは、発心すなわち菩提心をおこすことが、その中心課題である。
それは、大仏寺の建立をまえにして、まことにふさわしい課題としなけ
ればならない。その課題につき、道元は、ここに『発心は一発にして』、
もはや発心を要せずというのは、仏法をしるものの言にあらずとする。

そのついでに、また、修証の問題に言及して、『修証もまたかくのごとし』
となし、もしも、修行は無量であるが、『証果は一証なり』ときくものが
あったならば、それもまた、『仏法をきくにあらず、仏法をしれるにあらず、
仏法にあふにあらず』と述べているのである。」

はい。増谷氏は「正法眼蔵」第69巻からの引用をしているので、
そこを原文は、どう語られているのか

「・・一発菩提心を百千万発するなり。修証もまたかくのごとし。
しかあるに、発心は一発にして、さらに発心せず、修行は無量なり、
証果は一証なりとのみきくは、
仏法をきくにあらず、仏法をしれるにあらず、仏法にあふにあらず。

千億発の発心は、さだめて一発心の発なり。
千億人の発心は、一発心の発なり。
一発心は千億の発心なり。

修証転法もまたかくのごとし」(p34)


分かるようで、読み流す私には、わからないですが、
そういう時こそ『ファイト!一発!』という言葉を
思い浮かべながら、さらに読んでみることにします。
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おやじは、しろっとして言う。

2021-02-14 | 本棚並べ
小林信彦著「植木等と藤山寛美」(新潮社・1992年)が
帯つき、きれいで、古本で300円だったと思います。

読まないけれども、なにげに、買ってあった。
気になって、植木等の箇所をパラリとひらく。
こんな箇所があります。

「・・ちなみに、『等』という名は『平等』からきている。

植木等にきいた話で忘れられないのは、
ステテコいっちょうの父君が少年だった彼を
仏様の前につれてゆき、物差しで仏様の頭を叩きながら、

『こら、ヒトシ、この音をきいてみろ。
金ピカだけど、中は木だ。金じゃないぞ。
おまえ、寺を継ぐとしても、こんなものを拝んで、
どうにかなると思ったら、大間違いだ。
これだけは覚えておけ』

と諭した話だ。この話は今でこそ知られているが、
初めてきかされた時には、ひっくりかえった。」(p29)

その前にこうもありました。

「植木等の父親がユニークな反骨の士であったことは有名だが、
ここでは触れない。興味のある読者は植木等自身が書いた
『夢を食いつづけた男』(朝日文庫)を読むべきだ。」
(p28~29)

とあるのでした。はい。本棚にその文庫はありました。
うん。『夢を食いつづけた男』の、この箇所を引用。

「昭和34年、フジテレビが開局して・・・・
私は、クレイジー・キャッツの一員として、
日曜から土曜までの昼、この番組に出ていた。

そうこうしているうちに、36年、突然、
『スーダラ節』という歌を歌えといわれた。
私は断り続けた。しかし、とうとうねじ伏せられて、
その年の夏、半袖シャツ、ステテコ、腹巻き、ゴム草履
といういでたちで録音した。

この歌の反響は大きかった。・・・・・
東宝が・・私のところに出演依頼に来た。
なにしろ主役というのだから、私はもう、天にも昇る心持ちだ。

『おい、おやじ。えらいことになったよ。俺、
  «日本無責任時代»って映画で主役を演ることになった』

ところが、おやじは渋い顔で言ったものだ。
『そんな映画、誰が見るものか』
しかし、おやじの予言に反して歌も映画もヒットした。
こうなると、おやじは、しろっとして言ったものである。

『だいいち、«日本無責任時代»というタイトルが面白いからなあ。
それに«スーダラ節»の文句は真理を突いているぞ。・・・・
あの歌詞には、親鸞の教えに通じるものがある』

『へえー、どこが親鸞に通じているんだい』
そう聞くと、おやじは言った。

『わかっちゃいるけど、やめられない。
ここのところが人間の弱さを言い当てている。
親鸞の生き方を見てみろ。

葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さずとか、
肉食妻帯を許さずとか、そういうことをいろいろな人が
言ったけれど、親鸞は自分の生き方を貫いた。

おそらく親鸞は、そんな生き方を選ぶたびに、
わかっちゃいるけどやめられない、と思ったことだろう。
・・・・・』 」(朝日文庫・p222~223)

ちなみに、植木等著「夢を食いつづけた男」(朝日文庫)
の副題は『おやじ徹誠一代記』となっており、父親は、
植木等よりも、もっともっと植木等なのでした。
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つまずきころんで通り過ぎ。

2021-02-13 | 本棚並べ
増谷文雄著「臨済と道元」(春秋社・1971年)には、
もうひとりの、典座のことも出てきます。
船の中での、阿育王山の典座とのやりとりでした。

それについて、増谷氏は語ります。

『それは、すばらしい場面であり、すばらしい文章である。
わたしもまた、幾度となく読み幾度となく味わいいたって、
いまでは、ほとんど諳んじるまでにいたっている。』(p101)

では、その箇所を増谷氏の文章で引用していきます。

「その時、道元はまだ23歳の若僧であった。その若僧が、
すでに60歳をこえる老典座に向かって、

『座尊年、何ぞ坐禅弁道し、古人の話頭を看せずして、
煩わしく典座に充てて、只管に作務す。甚(なん)の好事か有る』

と詰問した。・・・
その詰問を迎えて、かの老典座は、呵々として笑っていった。

『外国の好人、未だ弁道を了得せざること在り』

日本からおいでのお若いのは、まだ仏教というものが
おわかりになっていないようだ、というのである。
それを聞いた道元は・・・・・心が仰天するような思いをして、
では、いったい、仏教とはどんなことでありましょうかと、
取りすがるようにして問うた。
すると、かの老典座の答えは、

『若し問処を蹉過せずんば、豈其の人に非ざらんや』

ということであった。蹉過というのは、
躓きころんで通りすぎるというほどのことであろう。

そこのところは、躓(つまず)きころんで
自分で越えてみなければ、物にはなりませんわい、
というほどのことであったが、その時の道元には、
そのいう意味すらも、よく合点がゆかなかったという。」
(p101~102)


はい。23歳の時に読むのと、
60歳を過ぎてから読むのと、
では別の味わいがあります。

ちなみに道元(1200~1253)は、
60歳まで生きませんでした。



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