ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
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祝!成婚30周年 雅子様語録   5

2023-06-02 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 1993年6月25日 伊勢神宮参拝

皇室の新婚旅行が伊勢神宮なんてつまらないと思いましたが、それでもやらなきゃならない事ですし、この頃の雅子様は気分がハイでしたし、可愛いリボンがついた服も着ることが出来るのでご機嫌でした。

例えワイドショーで「雅子さまのファッション・・お似合いじゃないわ」と言われても平気でした。

 

沢山食べ過ぎたのと玉砂利が歩きにくいのとで、姿勢がどんどんふんぞり返るように。でも仕方ありません。初めてなんですもの。

 1993年6月27日 神武天皇陵参拝

例えワイドショーで「リボンはおやめになった方が」なんてチェックされても平気です。

眩しい、暑い、歩くの面倒、尚且つ緊張でやっぱりにらみつけるような表情になってしまいます。わざとじゃありません。

 1993年6月29日 昭和天皇陵参拝

ここまでくれば慣れたものです。

 1993年7月8日 東京サミット晩さん会

いよいよ雅子様の皇室外交デビューの日がやってきました。

その日、雅子さまは緑のドレスを見につけ、玄関で各国の大統領などをお迎えになりました。

もう嬉しくて嬉しくて。

一生懸命に得意の英語を使ったり、カタコトのロシア語を使って見たり。

雅子様としては精一杯会話をしたつもりだし、出来た!と得意になっていたのですが。

何だか様子が違います。

大好きなクリントンもエリツィンも、秋篠宮家の紀子妃に夢中になっているではありませんか。

晩さん会は、食べる事よりも会話をする事が大事。だから雅子様は、エリツィン大統領に外務省時代と同じように政治や軍事の話題を出し、意見を言いました。

エリツィン大統領は形だけ笑ってあまり答えず、それよりもメニューの方が気になるようです。雅子様は「あ、違うのかあ」と思って下を向き、とりあえず黙っていたのですが、となりのクリントン大統領と来たら紀子様に話しかけて、しかも話が弾んでいるようで、少しもこちらを向きません。

雅子様は「何やってるの?」とじろっと見てしまいました。

でも、その行動が他の人達からすれば「エリツィンを無視して」いるように見えてしまい・・・それは雅子さまとしては不本意でした。

また、晩さん会の後、宮中のが雅楽を鑑賞し、尚且つ飲み物を持ってフリートークを求められたのですが、その時もどういうわけか、みんな皇后陛下や紀子様、秋篠宮殿下、皇太子殿下、天皇陛下の所に集まってしまい、黙っていた雅子様は会話の輪から弾き飛ばされてしまいました。

 

一人にされてしまった可哀想な雅子さま。

夫である皇太子殿下はどなたかと会話が弾んでいる様子。

そして紀子様を取り囲むように列席者は話しかけている。

仕方ないので、そこらへんにいた方に声をかけてみたのですが、「どなた?」という目で見られ、せっかく夢中で話したのに「ごきげんよう」と去られてしまいました。

雅子様は非常にショックを受けました。

そりゃ、紀子妃は自分より若いし可愛いかもしれないけど、たかが学習院の大学院に入ってる程度の頭で何であんなに外国人と話をするの?媚びてるの?

馬鹿みたい・・・・雅子様は「そう言えば、皇太子殿下も所詮は学習院だし」と思い直して見ます。

自分は外務省にいたのだから、絶対に人気を独占すると思っていたのに、まさか一人にされるんなんて。もしかして虐められてる?

結婚して以来、ずっと緊張して笑って来たのに、どういうわけか誰も助けてくれない状況に腹を立ててしまったのです。

 

 1993年7月13日 献血運動推進大会に出席の為、岩手県へ

岩手での初公務。雅子様はもう緊張もせず、元キャリアウーマンぶりを発揮して、バッグを片手に持ち、笑顔を振りまきました。

この式典参加も無事に終わると思いました。

しかし・・・雅子様は正直疲れていました。

それはくだらないお説教を聞くような式典にうんざりしていたからです。

なのでつい・・・つい・・・うっかりこっくりとやってしまったのです。

はっと気づいた時は後の祭り。

さすがに皇太子殿下も「少し緊張を保った方がいいですよ」とおっしゃいました。

しかも、公務が終わった途端、マスコミがいきなり声をかけてきたのです。

妃殿下、初めての公務のご感想はいかがですか

いきなり話しかけられてびっくりしてしまった雅子様は笑う余裕などありませんでした。

とっさに壁際に逃げてそそくさとその場を離れてしまいました。

怪訝な様子のマスコミ。この私にいきなり話しかけてくるとは・・・雅子様は驚きと怒りで一杯でした。

「殿下、質問されたんですけど」

「ああ、適当に答えていいんですよ」

何で?

皇太子殿下は「何でって、雅子さんが初めて公務をしたから感想を聞かれたんでしょう?」とおっしゃいましたが、雅子様は「心臓が止まるかと思った」と目を吊り上げました。「私、いきなり話しかけられて心臓が止まるかと思ったんですけど

皇太子殿下が深刻に受けて止めていないようなので、雅子様はもう一度はっきり言いました。

殿下は「ああ・・そうなの」としか答えませんでした。

その調子にまたも雅子様は怒り、数日後に東宮御所にやってきた母君に長い間、お話をされたのでした。

 

 1993年7月20日 明治神宮参拝

とにかくもう、皇室の暮らしには飽き飽きしていました。

毎日同じ事の繰り返し。

朝は早く起こされ、さっさと朝食を済ませ公務に出る。

時間厳守、着替えは早く・・・こんなの、本当の自分ではないと雅子様は思いました。

特に「神社」はもうたくさん!明治神宮!まだ神社があった!

こうなったらけつまづこうがいいわ・・・雨に濡れてもいいわ。適当にやるしかない。

結果、雅子様のドレスは残念な事にびしょびしょのシワだらけに。

でももうどうでもいいという思いだったので、雅子様は全然平気でした。

 1993年8月13日 小和田家への里帰りから戻る

実は結婚当初から、何度も東宮御所に出入りしていた母君の優美子さん。

東宮御所の調度品やアクセサリーなどが物珍しくてしょうがなく、雅子様はうんざりとソファに座っているのに、優美子さんはあちらこちら女官に案内させて見て回っていたのです。

さすが皇族となると違うわね。やっぱり高級品よ。これ、いくらくらい?」

知らない。どうだっていいわ。私、家に帰りたい」

もうすぐお里帰りがあるから我慢しなさい

我慢ってどれだけよ。皇太子殿下ってほんっとつまんない人なの。まるでロボット。決まった時間がに起きて決まった時間に寝る。遊びにもいかないし、音楽はクラシックだけだし。もう退屈で退屈で。しかも、公務の度にマスコミが追いかけてきて何ていうか知ってる?ご懐妊じゃないかっ

ご懐妊じゃないの?」

するわけないわ。馬鹿みたい」

雅子様の口調は激しくなるばかり。

それでもお里帰りして、久しぶりにご実家に戻られた時はほっとして、ご自分の部屋にひきこもり、好きなパスタやピザを思い切り食べてリラックスしたのですが、当たり前のように皇太子殿下がお迎えにいらっしゃる。

帰りたくない」と雅子さまはごねましたがお父様は「我慢しろ」の一点張りで、しかも「笑え」とおっしゃるので、仕方なく皇太子殿下に笑いかけ、いかにも嬉しそうにして写真に納まったものの、車の中では話す気力もありませんでした。

皇太子殿下は「ゆっくり出来ましたか」とお尋ねになる。

雅子様は「そうね。もっと実家に行っちゃいけませんか」とお答えになる。

皇太子殿下は困ったようなお顔で「出来るだけ・・そう出来るようにしましょうか」と。

守るつもりのない約束とはこの事ね。

 

  1993年8月25日 全国農業青年交換大会

なんていうか、公務でスーツに帽子に手袋というのも面倒になって、つい大事な式典に普段着で行ったら早速週刊誌に書かれてしまった。

さすがに千代田からも「もう少し服装には気をおつけになって」とご注意が入り、ますますやる気を失っていく雅子さま。

何をやっても、回りは認めてくれないんじゃというような気持ちになりました。

 1993年9月13日 大相撲観戦

実はこの頃、ちょっと太り気味だった雅子さま。

頻繁に実家にお帰りになっては好きなものをお召し上がりになっていたので、作ったスーツは全滅。

慌てて新しいスーツを作らないといけなくなり。

そこで急きょ用意されたゆったりめの服。

これがまたマスコミに「ご懐妊ではないか」と書かれて、心の底から雅子様はうんざりしてしまいました。

なにせ事態は優美子さんがわざわざマスコミに「皇太子妃は妊娠しておりません!」と激しく言う場面になるほどだったのです。

皇太子妃の大事な役割は、まず親王・内親王をお産みになること。

この意味を雅子様は全くご存知ではありませんでした。

また、ご自分がもしや「不妊では」と思う事もありませんでした。

子供くらい、産もうと思えばいつでも産める。

でも、その前に外国へ行くこと。皇室外交をする事が先なんだわ。

一々「生理は」と聞く侍医に「プライバシーの侵害」と怒鳴ってみたけど、「妃殿下の健康状態を正しく把握する事が私達の役目です」と言い返されてしまいました。

皇太后さまが陛下を出産されるまで長い時間がかかり、本当に苦労された事、皇后陛下はご結婚の翌年には皇太子殿下をご出産遊ばされ、地位をきっちりと築いた事を考えれば、雅子様も「妃殿下」としての地位を盤石にする為に、一日も早いご懐妊が必要と思われたのです。

その点に関しては両陛下も小和田家も同じように考えていました。

紀子さまもご結婚の翌年には眞子様をもうけられ、だったら雅子様も。

決して早い結婚ではなかった事で、尚一層の国民と皇室と小和田家の期待が雅子様の肩にのしかかっていたのです。

 

 1994年1月1日 新年祝賀の儀

1994年が明けても雅子様の気持ちは全然すっきりしません。

隣の紀子様は和やかに紀宮殿下とお話され、そのゆったりと優雅な話し方についていけなくてずっと黙っていました。

 

 1994年1月14日 歌会始めの儀

そして迎えた歌会始めの儀。

皇族はみな、「月並の歌を詠む」ようにと言われ、両陛下を始め紀子様方も毎月、歌を詠み、歌会始めに備えました。

皇族の大きなお仕事の中でも「歌を詠む」事はとても大切な事です。

国内の国民の気持ちに寄り添い、その時代を象徴するような歌を詠まないといけません。

紀子様は大変努力され毎月ご指導を受けていらっしゃいました。

当然雅子様にもご指導の手が入ったのですが、そもそも短歌の韻を踏むことが苦手な雅子様にとってこれ以上苦痛の時間はありません。

しかも、皇太子妃として人前で歌を披露されるのです。

ずっと背を丸めて座っていた雅子さまですが、いざ立ち上がると唇が震えてしょうがありません。

「東宮の妃の歌」と唱和されただけでもう嫌で嫌でしょうがありませんでした。

君と見る波しづかなる琵琶の湖さやけき月は水面おし照る」

なかなか上手なお歌です。

けれど、この後、雅子さまは体調不良になってしまわれたのでした。

 

 

 

 

コメント (9)
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