ふぶきの部屋

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祝!成婚30周年 雅子様語録  8

2023-06-06 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

1995年1月17日。

その日、雅子様は普通に午後に起きたのですが、どうにも部屋の外が騒がしいようです。

早く朝ごはんが欲しいと言おうとしてドアを開けると、誰もいません。

誰かいないの」と叫ぶと、女官が慌てて飛んできました。

「あ・・おはようございます。妃殿下」何だかその女官は泣いているようでした。

雅子様は「朝食」とだけいい、食堂に行こうとリビングを通りかかった所で、「雅子」と皇太子様に呼び止められました。

「大変な事が起こったよ」

何?」

「関西の方で大きな地震があって、連絡が取れないそうなんです」

関西というと大坂とかそっちの方か・・・雅子様は眠そうに考えました。

震度5くらい?

「そうかな。でもNHKにもなかなか連絡が入らなくて」

侍従も女官も心配そうな顔をしていますが、雅子様は何がそんなに心配なのかわかりません。

雅子様は構わず食堂に入り、朝食を食べました。

それからしばらくして、リビングの方から「おお・・・」という声が聞こえてきました。

神戸市の長田地区が火にまみれ、高速道路が見事に倒れている映像がテレビに映し出されたのです。ヘリコプターからの映像はそれは日本の風景とは思えず、みな、呆然と画面をみています。

「親戚と連絡がとれないの・・」と思わず泣き声で話している女官もいます。

雅子様はこれまでこんな悲惨な風景は見た事がありませんでした。

とても・・そう、とても信じられなかったのです。

だって東宮御所の庭はいつも通り冬の風景だからです。

「大変ね」と雅子様は精一杯同情して言いました。

皇太子様も多少顔色を変えています。

そのうち、宮内庁から事務官がやって来て「両殿下にお話が」と言います。

なんだろうと、思っていると、なんと21日からの中東訪問を中止にした方がよいだろうという話だったのです。

え!何で?」

思わず雅子様は叫びました。

国の大事だからです。こんな時に中東へ行っている場合ではないではないかと

そうだね・・・」皇太子様も頷きます。

それではさっそく、あちらに報告を・・・」と事務官が言いかけた時、雅子様は「やめてよ!」と叫びました。

何事かとみなびっくりして雅子様を見ました。

どうして中東行きを中止しないといけないの?その理由はなに?

妃殿下、関西では未曾有の震災が起きております。被害はこれからますます広がっていくでしょうし、皇族方にとっても他人事ではありません」

関係ないでしょ!それって関西の話でしょ?日本の話じゃない

その「日本の話じゃない」という言葉に事務官はぽかんと口をあけてしまいました。

私達が中東へ行くのは公務でしょ?みんないつも公務優先って言ってるじゃない。何で今だけそうじゃないの?矛盾があるわ」

しかし・・・先年の奥尻島の地震と津波が来た時、両陛下は静養中でお帰りになりませんでしたが、その事がかなり批判されました。国民と共に歩む皇室であれば、こういう震災などの大規模災害があった時は皇族は慎まないと」

遊びに行くわけじゃないじゃない

雅子様は頑として譲りません。

行くわ。絶対に中東へ行く。地震なんて関係ないもの

でもね、雅子、後で国民に批判されてしまうしね」

何でよ!震災と私達の公務、関係ないでしょう

ですから、こういう時はすぐに被災地へ駆けつけるとか」

あんな画面見てこれから被災地に行くなんて考えられない

雅子様はとうとう大声を出して泣き出してしまいました。

意地悪ばっかり!あんなに外国へ行かせてくれるって約束したじゃないの!外交官が関西で地震があったからって赴任先から帰って来る?帰って来ないわよ!」

事務官はもう何も言えず「長官並びに政府に相談いたします」とだけ言って去っていきました。

それでも激した雅子様は「約束したわよね!」と皇太子様に詰め寄ります。

皇太子様は困ってしまって「それは平和な時は・・・」

今まで一度しか外国へ行けてないのよ!これだけでも十分に約束違反だと思う。もうお父様にいいつけるから」

雅子様は泣き顔のまま、自分の部屋に入るといきなり電話をかけ始めました。国際電話です。誰にかけたかはもうご存知でしょう。

テレビでは全ての番組が中断されて関西の惨状を報道していました。

長田地区の火事はどんどん広がって建物を壊していきます。

すさまじい都市火災が起き、地元の人達はどこへ非難すべきかと右往左往しています。

また高速道路が壊れたし、線路もダメで、大阪から兵庫県に入る手段がありません。

仕事帰りの人も呆然とするばかりで、それはそれは恐ろしい光景でした。

 

暫くすると、宮内庁長官がやってきました。

すでに諦めたような顔です。

両殿下の中東行きは中止いたしません。予定通りに出国します。前に一度中止している経緯もあり今回は断る事は出来ませんので・・という事にしておきます」

こうして、皇太子夫妻の中東行きは決まったのでした。

 1995年1月21日 クウェート到着。

 雅子様は最初から赤を着ようと思っていました。だって赤はご自分にとって最も似合う色だからです。

主張を表敬訪問。

クウェートから見える景色は本当に広くて素晴らしく、雅子様は熱心にご覧になりました。

 このピンクの衣装も大好きで、雅子様は終始ご機嫌でした。

思わず側にあったお菓子をつまみ食いするところをマスコミに取られましたが、全然構いません。

晩さん会は思わずカメラ目線に。どう?綺麗でしょう?

これが皇室外交ってものよ・・・

アラブ首長国連邦に到着

晩さん会も最高!

遺跡見学も楽しいし、カメラをいじりながら、雅子様は楽しそうでした。

その頃・・・日本は

迎賓館でパチリ。皇后陛下から頂いた帯留めをブローチにしてみました!

そして大好きなラクダレース。この時ばかりは皇太子様の声も聞こえません。

興奮した雅子様は笑顔一杯で応援し続けます。

ハリファ王太子とサッカーも観戦しました。

もはやここは陰気な日本とは違う別世界です

ドバイでは木造船でドバイ・クリークを見学

ムハマド王太子のもてなしは本当に素晴らしきく、目の前には果物が一杯です。

そしてヨルダン到着。

 

英語を話して綺麗な格好で颯爽と歩く私・・・雅子様はご自分に酔いしれていました。

遺跡を見学して

食事会に晩さん会、何から何までゴージャスです。

しかし、ここで思わぬことが。

ヨルダン側から「お国が大変でしょう。どうぞお帰り下さい」と言われました」と随行員が伝えて来たのです。

何でも国王夫妻は日本の様子に心を痛め、恐らく皇太子夫妻もそうであろうと考えて、2日早く御帰りになってとおっしゃって下さったのです。

何という余計な事を言うんでしょうか?

雅子様はその日は怒り狂っていましたが、皇太子様はどことなくほっとした様子。

あまりに不機嫌になってしまい、サルワット妃とのお別れにもむすっとした顔を隠しませんでした。

「私、死海を見たかったのに」

「またいつかお会いしましょう」こんな時に「死海」とサルワット妃は思いましたが、外交上喧嘩するわけにもいかないので、ここは大人の態度をとおしました。

1995年1月28日に帰国。

さあ、いよいよ被災地訪問です。

現実を前に雅子様はまたもうんざりしていました。

 

 

 

 

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祝!成婚30周年 雅子様語録  7

2023-06-06 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 1994年11月5日

とうとう初の海外訪問が巡って来ました。中東4か国訪問です。

雅子様はこの日をどんなに心待ちにしていたかしれません。

海外でなら自分の能力を発揮出来る。うじうじした日本と違ってはっきりものを言っても叱られない。そんな風に考えました。

 サウジアラビアに到着。

砂漠の空気が心地よい。いよいよ来たぞ。

早速油田の見学。

サウジアラビアでは王族方が非常に手厚く接待してくれて雅子様は嬉しくてしょうがありませんでした。

皇太子妃だからこそ受けられるこの待遇!

滅多に見られないものを見たり、

随行員付きで遺跡をみたり。

ちょっと水分補給。

オマーンもまた素晴らしい国でした。皇太子さまを無視してしまう程。

オマーンの国王陛下は大葬優しい方で、雅子様を優しく受け入れて下さいました。

何と言ってもラクダレースの面白かったこと

 そして馬を見せられました。素晴らしい馬です。

雅子様は思わず「なんて素敵な馬なんでしょう」と言ってしまいました。

周囲は顔色を変えてしまったのですが、国王は冷静に笑い「では差し上げましょう」とおっしゃいました。

馬を褒めてはいけないとあれ程注意を受けていらしたのに雅子様はその禁断の一言を口にしてしまったのです。

アハージュ号は早速日本に送られる事になりました。

単なる贈り物ではありません。オマーンからすると「頂戴」とおねだりされたから差し上げただけです。

「ものをねだる」という皇族としてはもっともやってはならない事を雅子様はやってしまったのでした。

 

オマーンでは王族と会う事もあり、着物を着用。御坐ればよろしいのに、上から目線で中腰になってしまい、これまた側近に叱られてしまいました。

ちょっと水分補給

バーレーンでは公務もしました。現地の日本人学校を訪問したのです。

船上でもてなされると不思議に心が高揚します。

こんなに楽しいものなんて!海外大好き。熱い砂漠も何のその、雅子様は道中一度も体調を崩す事はありませんでした。

 

けれど日本に戻って来ると、やっぱり「ご懐妊はまだ」の声が聞こえてきます。

日本ではどの公務も堅苦しくてつまらない。

自分がやりたいことと、回りが希望する事が真逆である事に雅子様は悩みました。

 

 1994年12月9日 雅子さま31歳の誕生日

相変わらず記者会見では極度の緊張から、何を話しているのか自分でおわからなくなる状態に「なぜ記者会見が必要なのか」と皇太子様に詰問してしまう事もありました。

侍従も女官もどうも皇太子夫妻の仲があまりよろしくないという事に気づいていました。

そもそも1日のスケジュールが違うのです。

最初の数日だけは雅子様も皇太子さまに合わせていましたが、慣れてくると雅子様は自分のスケジュールで行動します。

すなわち、皇太子様は独身の頃と同じように朝の6時には起きて7時に朝食、テレビを見ながら新聞や音楽を楽しむのに対し、雅子様の起床時間はほぼほぼ午後。

朝食はとらず、昼食を代わりに召し上がるし、寝る時間も決まっていません。

不規則な雅子様の行動に皇太子さまも合わせようとしましたが、すぐに諦めてしまいました。

侍従長から「不規則な生活はいけません」と言われていたからです。

女官長に言われた雅子様は「これが私のルールだし、プライバシーじゃない?」と言い返しました。オフの日くらい、何時に寝て何時に起きるかくらい好きにさせてよもう。

侍医達は一向に懐妊の気配が見えず、しかも不規則でジャンクフードばかり食べたがる雅子様に四苦八苦しており、体温一つ計らせてくれない事にも困っています。

皇太子様に掛け合っても「雅子の好きにさせてあげて」と言われるばかりです。

 

 1994年12月29日 佳子内親王殿下誕生

「とにかく女の子でよかった」と皇太子殿下はほっと胸をなでおろされました。

もし親王だったら皇位継承順位が違ってくるからです。

いくらのんびりやの皇太子さまでも、自分ではなく弟宮に先に男子を持たれたら困るのはわかっています。

そうでなくても、小さい頃から何かとこの弟は兄に先んじることがあり、結婚も子供を持つことも全部先にやられて、いい気はしていません。

しかも、秋篠宮家はあんな職員用宿舎に住んでいるというのに、やたら幸せそうじゃないか。

こちらは改修された東宮御所で贅沢な日々を送っているのに妻は全然優しくしてくれないし、自分の立場も考えてくれない。

自分だって「皇太子殿下。よろしいですか」とか言われてみたいのに、雅子様と来たら「あ、これ、どう」ってなものです。

皇孫として大事に育てられてきた皇太子さまは、妻にぞんざいな扱いをされるとは思ってもみなかったのですが、じゃあ、それを厳しくたしなめることが出来るかと言ったらそれも無理でした。

なぜなら、6年も待ってやっと結婚してくれた人だからです。

雅子様が結婚してくれなかったら、もしかすると自分は今も独身だったかもしれない。そう思うと怖くて何も言えません。

それに天皇陛下も皇后さまを叱った事など一度もありませんでした。

皇后様は東宮時代から、1から10までご自分が決めてしまわないと機嫌が悪くなるご性格で、公務でもプライベートでも訪問先の事、相手の事、ファッションから用意するものまで完璧になさるのです。

ゆえに天皇陛下は皇后陛下に頭があがらず、ほぼ言いなりになっていました。

そんな父君を見て育った二人の兄弟。秋篠宮はかなり亭主関白ぶりを発揮しています。

何でそれが許されるのかな・・・・皇太子さまは生まれたばかりの内親王を目にして、可愛いとは言えませんでした。

 勿論、雅子様も「生まれてよかった」とはおっしゃったけど、「おめでとう」とか「可愛い」とはおっしゃいませんでした。

むしろ、宮内庁病院に駆けつけることすら苦痛だったのです。

二人目は女の子でよかった。

でもこのまま3人目とか4人目とか産んだらどうしよう。その一人が男子かもしれない。

紀子妃はまだ若いのだ。これから何人でも産んでしまう危険性がある。

病院を訪れた皇太子夫妻は、心なしか顔色がよくありませんでした。

 

それでも雅子様にはまだ楽しみがおありでした。

そう。二度目の中東訪問です。

 

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