皇太后さまの斂葬の儀は7月25日に決まりました。
それからの日々は皇室にとって、昭和の帝の時以上に大変なものでした。
斂葬の儀の準備は、諡号から始まって数々の祭祀と潔斎、海外要人を迎える準備、また皇族方の序列や手順を次から次へと決めて行かなくてはなりません。
天皇陛下は皇太后さまへの諡号を「香淳」とされました。
こののち「香淳皇后」と呼ばれ、武蔵野東陵に埋葬される事になりました。
7月25日、豊島岡墓地での斂葬の儀についての打ち合わせも始まりました。
当日は第一級の喪服、ローブモンタントと決められ、座る位置や祭祀の手順を何度も何度も繰り返し確認します。
また列席者の顔と名前を覚えなくてはいけませんし、彼らに対する儀礼の程度もそれぞれ違いますので、一つ一つやってみなくてはなりません。
皇后様の元に皇太子妃以下、筆頭宮家の秋篠宮妃、常陸宮妃、高松宮妃、三笠宮妃、紀宮内親王が集まります。
ところが、雅子様はそれぞれの手順がどうしても頭に入って行きません。
特に祭祀は元々嫌いな分野ですから、歩く順番、道筋、拝礼の仕方が何度やってもうまくいかないのです。この5年というもの、雅子様はほとんど祭祀にはご出席になっていませんでした。
なぜなら「神道に費やす時間の意味がわからない」からです。
皇室は皇祖神の子孫として生きている現実が理解出来ません。
日本中に沢山の神社がありますが、その頂点に立つのが皇室である事を何度説明されたでしょう。けれど、雅子様の頭の中では相変わらず「てんてるだいじん」にしか見えない。
一般的な葬儀ならただ座っていればいいけれど斂葬の儀となると、いわゆる喪主の一族、その後継ぎの妻として徹底的な礼儀が必要で、これを間違えたら大変な事になるのです。
「もう一度言うわね」と皇后様は何度も同じ事をおっしゃって雅子様の頭に入れてあげようとしました。
歩き方一つにしても「もう少し背筋を伸ばした方がよろしくない?」「もう半歩ゆっくり歩けるかしら」とそれこそ丹念に教えられました。
最初は「はい」「すみません」とおっしゃっていた雅子様ですが、次第に皇后から何か言われる事が苦痛になって来ました。
周りのお妃達は微動だにせず座って一言もおっしゃらずその様子を見ている。
それが、衆人の中で叱られているように感じてしまったのです。
「東宮妃はもう少し・・」と皇后様がおっしゃったとき、突然息苦しさを感じた雅子様は
「すみません!」と叫びました。
周りはびっくりします。
「あの・・・すみません。ちょっと・・ちょっと・・・」と言いながら雅子様はもうすでに泣いていました。
「どうなさったの?」みな驚き、皇后が駆け寄ろうとした手を払いのけて雅子様は叫びました。
「こういうのってひどい。ハラスメントです!」
え?は・・ハラスメント?この当時はまだそんな言葉は一般的になっていませんから、皇后陛下始め宮妃方は目をぱちくりしています。
「だって、こんなみんないる前でそんな言い方しなくたって、私だって一生懸命やっているのに、なんか意地悪、意地悪じゃないですか?こんな・・・こんな・・・・」
雅子様は何とかご自分の言いたい事をはっきり伝えようとしますが、元々語彙が少なく、どんな言い方をしたらいいのかすぐには頭に浮かびません。
「何をおっしゃってるのかしら・・・私があなたに意地悪?」
「どういう意味なの・・・?」
皇后様も顔意を変え、紀子様は黙っていましたが、他の宮妃はみな顔を見合わせます。
「あのね、雅子様、皇后陛下は斂葬の儀の手順について教えて下さっているんですよ」
と間を取り持つように高円宮妃がおっしゃいました。
出来るだけ場を和ませようとにこりと笑って「皇后陛下は完璧主義でいらっしゃるし、あなたに恥をかかせないようにと一生懸命・・・」
「みんなの前で𠮟りつける事が意地悪なんでしょ!何よ、みんなじっと見て。私、初めてなんですよ。こういうの。それなのにわからなきゃいけないって決めつけて、わかるのが当たり前て。そんなの不公平じゃないですか」
「初めてでも何度目かでもこういう事は皇室について回るものですよ。その度に完璧に行わないと皇室としての権威が落ちるのです。秋篠宮妃も結婚して数か月後には即位の大礼に出席してちゃんと出来ていたし。だから東宮妃も」
「そちらは平気かもしれないけど、何度も同じ事やらされて、私、転ぶところだったんですよ。躓いて転ぶところだったんです」
全然かみ合わない会話に誰もがおろおろし、どうしたらいいかわかりません。
皇后陛下もかつてこのような物言いをされたことはなかったし、紀子様も勿論です。
「よくもよくも・・・」
雅子様は泣きじゃくっています。
「私、帰ります!」
それだけおっしゃると雅子様はぱっと身を翻し、自分で扉を開けて出て行きました。
突如、部屋を飛びだしてきた雅子様に女官長もうろたえ
「どうなさったのですか?」と追いかけます。
でも、雅子様は構わず御所を出ようとします。
「どこへ、どこへ行かれるのですか」
「帰るの!」
「では、車を。少しお待ちくださいませ」
女官長は慌てて、車を回すように伝えその間だけ雅子様は立ち止まります。
女官長はハンカチを取り出してお妃の涙を何とかしようとしますが、全然触らせてくれません。
「触らないでよ!もう誰も信じられないから」
車に乗り込むと、もうちょっとで女官長は乗り遅れる所でした。
東宮御所にはもう電話で伝わっていて、上を下にの大騒ぎ。
雅子様が到着するなり飛んできた侍従に女官長は怯えたような目を向けました。
雅子様は息をはあはあと言わせて、苦しそうでした。
「すぐに侍医を呼びます」
そう言われても聞こえないように雅子様はご自分の部屋に入られるとベッドに倒れ込み
「わあ!」と大声を出して枕を投げ、布団を引っ張り、そこまでいくともう誰も手を付けられません。
すぐに侍医が呼ばれましたが、「診察を受けない」とこれまた完全拒否。
「でも、これは異常事態でございますから」
「雅子・・・少し落ち着こう」
皇太子様は今にも逃げ出そうとしているし侍医は女官達が取り押さえるのを待つしかないし。
その日の夜。
侍医が言うには「脈拍にも異常がないしお熱があるわけでもありません。私は専門外ですから何とも申し上げられませんが、これは精神の病と言えるのでは」
「精神病?」
皇太子様は報告を聞かれて言葉が出ませんでした。
「精神病ってこんな風に突然起こるものなんですか?」
「殿下、妃殿下は昼間、とても屈辱的な思いをされたと伺いました。それで今までの色々な思いが募って収拾がつかなくなったのだと。原因となる出来事がございましたか」
女官が答えます。
「皇居で少し・・・よくはわかりません。皇太后さまの斂葬の儀の打ち合わせにご出席されたのですが、突然お部屋を出てこられお帰りになると。その時から泣いておられました」
夕方になり、女官長を通して千代田の女官長に連絡をとったのだが、皇后陛下もたいそうご不快な思いをされて、今は何もお話にならないとの話でした。
不快な思い、屈辱的な思い、その場にいなかった皇太子様には何のことやらさっぱりわかりませんでした。
仕方なく皇太子様は紀宮様に連絡をとり、大筋の事情がわかったのですが、一体何が問題だったのか皇族方の誰にもわからないとのこと。
雅子様はその日を境に部屋から出る事はあまりなくなり、公務もお休みになりました。
そして2000年7月25日の皇太后さまの斂葬の儀を欠席されました。
驚いたのはマスコミです。
宮内庁記者会はこぞって古川東宮大夫に迫りました。
「雅子さまは暑さが続いて疲れがたまり、夏バテのような状態。お体を大切にしていただくという見地から、お取り止めになった」
そんな事を言われても誰も納得するわけがありません。
「夏バテのようなもの」で大事な行事をお休みになる皇族がいるのか?
「ご懐妊ではないんですか?」
「それは絶対にない」と大夫は言いました。
「それと、8月1日のインターハイにはご出席になりますが23日の全国農業青年交換会にはお出ましになりません。総合的に雅子妃の体調を考えて決断しました」
なぜインターハイは出るけど農業の方は出ないのか・・その理由が判然とせず、古川大夫も「総合的な判断」としか言わない。
斂葬の儀に出席した外国の大使たちも「高齢の三笠宮夫妻が出席しているのにプリンセス・マサコはなぜ欠席なのか」と口々にいい、宮内庁職員は理由を説明するのに苦労していました。
2000年8月27日 シドニー五輪選手結団式に出席
2000年9月26日 ベルギーのフィリップ王太子夫妻来日
2000年10月27日 身体障碍者スポーツ大会に出席にあたり富山県富山市セーナー苑視察
その後も静養を含めながらの公務出席をされていた雅子様ですが、東宮職の職員はおろか侍医達との会話もしなくなり、用がない限り部屋には入るなと厳命する程になりました。
気が向けば公務で鮮やかな笑顔をお見せになるのですが、東宮御所に帰られるとまるで別人のように無表情になって、一人になります。
雅子様自身、自分の心に何が起こっているのかわかってはおられませんでした。