ふぶきの部屋

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祝!成婚30周年 雅子様語録   6

2023-06-03 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 1994年2月17日 結婚内定1周年にあたり記者会見

雅子さまはとうの昔に皇室にも結婚生活に飽き飽きされていました。

「記者会見、どうしてもしなきゃダメ?」

「どうして?以前はそんな事いってなかったでしょう」

「あの時はあの時よ」

雅子様は、最初こそ注目される事が好きだったのですが、段々、しきたりや所作ふるまいなどにケチを付けられることに嫌気がさしていたのです。

毎日のように週刊誌に「ご懐妊は」と書かれる事も。

こっちはそんな気は全くないのに、何で騒ぐのか少しもわからない。

 

「記者会見に出ないとおかしく思われます」

「おかしい?」

「僕達が仲が悪いんじゃないかとか、変な憶測されてしまう」

「どういうのが仲がよくて、どういうのが仲が悪いのでしょう」

「え?それは・・・」

皇太子様は顔を赤らめてしまいます。

他人のベッドの中まで想像しようというなら、そっちがおかしいのよ。

いかりに震えつつも、しょうがなく記者会見に出ました。

当然「ご懐妊は」という質問が来たので、殿下が先んじて

コウノトリのご機嫌をそこねないように」とお答えになり、雅子様は「依然としてオーケストラは考えておりません」と答えてみなを笑わせました。

とはいえ、マスコミは欲求不満に陥っていました。

それというのも、お祝いの記者会見の筈なのにカメラが入る事を許されたのは最初の3問まで、「カメラの照明があたると緊張される」という理由でカメラはそうそうに退散。

結果3分程度しか報道出来なかったからです。

雅子様はマスコミのカメラのフラッシュが大嫌いになりました。

条件反射で心臓がどきどきし、緊張でろくにものが言えなくなってしまうのです。

そしてとうとう、ダウンしてしまいました。

熱があるわけでもないのですが、だるくて起き上がれなくなったのです。

マスコミは一生懸命宮内庁に問い合わせをし、その度に宮内庁や侍医が色々言葉を選んで喋る。「懐妊ではない」と断じる。

しかし、それではなぜ公務を休むのか見当がつかないのです。

雅子さまは、単に回りに人がいる事や、カメラを向けられることが苦痛でしょうがなかったし、時間に縛られたり、服装をきちんとすることも嫌だったし。

でも回りに「懐妊」を期待されている事だけは何となく気づきました。

「妊娠しないといけないのか」とも思ってみたけど、ぞっとします。

妊娠に逃げる女なんて仕事が出来ない証拠。この世の中には子供を持つより重要な仕事がある。それは「外交」なのだ。

 1994年4月2日 小和田家に里帰り

小和田家に返った時だけ、好きなだけお母さまに甘え、朝からずっと寝ていられたし、夜中にテレビを見る楽しみも生まれました。

だけど楽しい事の終わりには必ず皇太子さまが出て来るのです。

 

 1994年5月11日 春の園遊会

春の園遊会の日。

「秋篠宮紀子妃殿下ご懐妊」のニュースが日本中を駆け回りました。

日本中がお祝いムードに包まれ、園遊会も明るい雰囲気になりました。

皇后陛下もみなに「おめでとうございます」と言われ、嬉しそう。

そして雅子様にも「おめでとうございます」と声をかける不調法者が現れました。

私じゃありません!」と雅子様はぴしゃりと言い返してやりました。

なんなの?あの紀子という女は。

人がこんなに毎日「懐妊はまだか」と言われて気分を害しているのに、自分が妊娠するなんて空気を読まないにもほどがある。

おかげで園遊会ではついついどうでもいい事を話し続けて、皇太子様の速度に後れを取り、職員から「お進みください」といわれる始末。

プライドはぐちゃぐちゃです。

何だか意味なく涙がこぼれて来ました。

悔しさで一杯です。

何で紀子が・・・何であの女が。何も知らない顔してわざと妊娠したに違いない。

皇族の序列を忘れているんじゃないの? 馬鹿じゃないの?

「もうほっといて!」

その日、雅子様は東宮御所に帰るなりご自分の部屋に引きこもり、いつまでもないていらした。

皇太子様はなぜ雅子様が泣いているのかさっぱりわからずただおろおろしていました。

 1994年5月12日 海外日系人大会

おかげで翌日は、泣きはらしたような目になってしまい、ますますマスコミが嫌いになりました。

おめでたい事に恵まれた紀子様ですが、その陰で実は悲しい思いもされていました。

皇太子妃より先に妊娠するなんてどういうおつもり」と末端の宮妃に言われてしまったからです。

もし男子だったらどうなるの?」

宮内庁にも怪しい電話がかかって来ました。

秋篠宮家は不敬である。皇太子妃より先に妊娠するなんて許せない」というもので、宮内庁はこんな目にあった事はありませんからとにかく驚いて、どう対処したらいいかわかりません。

それで皇后陛下に相談すると、陛下も頭を悩ませました。

天皇陛下は単純に喜んでいるけど、女同士のどろどろとした感情は御しがたい。

ご自分は皇太子妃だったし、弟の常陸宮家には子供がいなかったのであれこれ順序を気にする必要はなかったけれど・・・・

「今回は仕方ないけど、以後、気をつけてね」と紀子様にお伝えになるのが精一杯でした。正直、皇后陛下はもう秋篠宮家の子供はいりませんでした。

なんとか東宮家に子供がうまれればいいと思っていらしたのです。

そうでないと、様々なハードルを越えて雅子様を入内させた意義がないとお考えだったからです。

しかし、そんな皇后さまの思いやりにも雅子様は応える気はないようでした。

 

 1994年6月5日 奥多摩高水三山登山

事態を重く見た宮内庁は、公務とは全く関係なくしかも、皇太子様の趣味である登山をいかし、ご夫妻により仲良くなって頂く為に奥多摩への登山を計画。

それというのも、この頃、皇太子夫妻には「不仲説」が流れ始めていました。

結婚した頃は二人そろって皇太子さまの学友達とのテニスなどに興じていた雅子様ですが、次第に姿を現さなくなり、学友方も東宮御所を訪れなくなりました。

雅子様の「皇太子様についていく」姿勢が足りないのもその原因でした。

例えば頭の下げ方とか、一歩引く事とか、礼儀作法一般的な事です。

どんな振舞をしてもそのままにしている皇太子さまは尻に敷かれているのではないかとの噂が、次第に不仲説に繋がっていったのです。

この日も「雅子さまの手作りのおにぎり」と週刊誌はこぞって報道しましたが、実際は宮内庁の大膳課が作ったものであり、雅子様は手作りの「て」の字もご自分からは言い出さなかったのです。

 

 1994年8月31日 那須登山

 1994年9月10日 北海道静養羅臼岳登山

 1994年9月18日 京都・仙湧寺の孝明天皇陵参拝

 1984年10月22日 みえ国体に出席

とりあえず、度重なる静養で多少は復活した雅子さま。

公務の時も緊張しないように、皇太子様に色々話しかけて、ほぐれるように努力されました。

週刊誌はこぞって「ラブラブ」と報道しましたが、実際の所、前を向いていないといけない時に、横を向いている皇太子夫妻には誰もが呆然としていたのでした。

そんな雅子さまですけど、やっと元気になる出来事が。

そう・・・海外旅行です。

 

 

 

 

コメント (9)
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