ふぶきの部屋

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祝!成婚30周年 雅子様語録 11

2023-06-09 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

新しい年を迎えると、雅子様もいい加減皇室行事のサイクルがわかってきます。

正月の新年祝賀の儀から一般参賀、講書始の儀、歌会始の儀など、また来てしまったというような感覚で雅子様はますますやりたくない事が多くなってしまいました。

という事で「風邪」を理由に、様々な行事をお休みになります。

すると、マスコミは「これはご懐妊に違いない」と騒ぎ立てます。

その度に「やっぱり違った」とがっかり感一杯の記事を載せ、「今回もダメだったのか」と誰を責めているのかわからないような流れになりつつあります。

宮内庁としてはとにかく、雅子様には予定されている公務にはきちんとお出ましを頂きたいと思っています。

それなのに、「この公務は出る、この公務や嫌」と自分の好みを主張され、それを横で見ている皇太子様が黙って「雅子の好きにさせて下さい」などとおっしゃるものですから、灯具職は振り回されて大変な状況になりました。

一度は、欧州訪問が予定され、雅子様も乗り気で楽しみになさっていたのですが、「今、ヨーロッパへ行かれてもあの雅子様では全ての行事をこなす事は出来ない」と判断され、秋篠宮へ流れたりすると、がっかりよりう怒りしか湧いてきません。

 

 1997年2月20日あきた国体

この時も寒いのを我慢して国体に出席したのに「ご懐妊ではなかった」と書かれ、激しく傷つきました。

 1997年2月23日 皇太子誕生日

 1997年3月14日 外務省主催アジア・ヨーロッパ青少年リーダーシンポジウム

外に出るのが苦痛の時は「お休み」しますが、その理由を東宮職は「風邪」と発表するのでいかにも嘘っぽく、誰も信じません。

雅子様は「懐妊を期待されるのも嫌」であり「懐妊するのも嫌」であり、「不妊かどうか調べる」のも嫌で、回りとどんどん対立していきます。

東宮職の侍医達は何とか雅子様に検査を受けて頂きたいと訴え、せめて1か月のサイクルだけでも教えて欲しいと言うと「プライバシーの侵害」と言い、「皇室ってなんて所なの」と怒り出します。

いくら「東宮妃である以上はお子を儲けるのは当然」という考え方は何年経っても受け売れられるものではないし、そもそもは子供など欲しくないのですから、通じる筈ありません。

 1997年5月 那須静養

とにかく、異例の静養を作り、夫婦で仲良くしてほしい。そして自然にお子様が出来る環境を作らないといけない。

宮内庁の方はもうこの方法しかないものと思っています。

根本的には雅子様に結婚前に「後継者を生むことが義務」と教えなかった皇太子様が悪いのではないかと誰もが思いましたし、ここに至ってまだ「雅子様ファースト」を貫く皇太子様にはみなげんなりとしていました。

 1997年5月30日 英国アレキサンドラ王女主催の船上パーティへ

事が段々重さを増してきた頃、小和田家の父君がアメリカから帰国しました。

小和田家としても雅子様がこれ以上、不妊かどうかの検査を拒否するのはよくないと思っていました。

「いい加減に医者の診断をあおぎなさい」

と父君は厳しくおっしゃいました。

私のせいだっていうの

お前のせいかどうかなどどうでもいい。とにかく原因があるなら取り除いて子供を産めばいい」

そんな風に言われると雅子様は黙ってしまいます。

昔から父君に叱られるのがとにかく怖かったのです。

秋篠宮に先を越されてもいいのか?考えてもみろ、あちらに男子が生まれたらこっちの立場はどうなる?お前はそれを考えた事があるのか?安穏として皇后になれるなどと思うなよ。もうこれ以上失望させないでくれ

父君が思わず口走ってしまった言葉。

かつて父君は雅子様に大きな期待をかけていました。

元々は男子が欲しかったのですが、残念な事に雅子様のあとに生まれたのも女児の双子。

だからこそ一層長女の雅子様には期待をかけていたのです。

しかし、雅子様はお小さい頃から決してご優秀というわけではなく田園調布雙葉には2度落ちてしまいました。

その時も失望したし、せっかく入った学校でも部活で問題を起こすし、結果的にアメリカに行かせないといけない事になり、その度に父としてコネを最大限に使ってハーバード大出と、外務省入りの肩書を与えたのです。

そのおかげで皇太子妃にもなれたというのに、少しも懐妊の兆しがない。

これは一体どういう事なのだ?

小和田氏としては「マイドーターイズプリンセス」と言うのが楽しみの一つであり、やがて、「天皇の祖父」になるのが夢なのです。

権力、そして権威を持てば家柄重視主義の世の中を変えることが出来ると本気で思っているのです。

ここまで待って雅子様に懐妊の兆しがないという事は、後がないというのと同じ。

いい医者を見つけてやるから」と雅子様を説得しました。

 1997年7月3日 ナイチンゲール紀章式

いつもどんな時でもきっちりとしている秋篠宮妃には嫌気しか感じない雅子様。

学習院ごときで二人も子供を持って・・・実際はそれすら出来ない自分に自己嫌悪を感じていたのです。

 1997年7月15日 沖縄県訪問

 1997年8月7日 那須静養

 1997年8月17日 裏磐梯静養

 1997年9月4日 小和田静(父から祖母)の葬儀

雅子様は検査を受けるにあたり、散々うるさく言っていた侍医の長を首にしました。

「お父様が連れて来るドクターしか信じられない」というのがその理由でした。

こうして白羽の矢が立ったのが東大で不妊治療の権威である堤医師でした。

 

 1998年1月1日 新年祝賀の儀

 1998年1月2日 一般参賀

 1998年1月23日 ウェセックス伯エドワード王子来

 1998年2月2日 IOCサマランチ会長と

 1998年2月19日 ノルウェーのホーコン皇太子と

 

堤医師に課されたのは「何が何でも男子を懐妊させよ」という命令でした。

どんな手を使ってもよいから男子を・・・というのが小和田家の意思です。

というくらい、雅子様の不妊症は切羽詰まっていたのです。

また小和田氏はマスコミを巧みに操作し始めました。

国民の大方はすでに東宮夫妻には興味を失っていました。

なぜって、いつも「静養」としているイメージかなかったからです。

でも、それをいい事に、「雅子様には長男の嫁としてプレッシャー」があると喧伝します。

一方で紀子様の事は「気楽な次男の嫁」と貶めます。

「長男の嫁」「次男の嫁」の対比は主婦たちには興味を持ちます。

実は紀子様は「次男の嫁」として気楽な日々を送っていたわけではありません。

佳子様が生まれて以来、末端宮家には「東宮家より先に子供を産むなんて」と言われて傷ついたものの、何か言えばまたそれが誹謗中傷の的になると思い、紀子様は耐えました。

紀子様に出来ることは日々の公務をこなし、家庭を保ち、お子様方を躾ける事のみ。

特に眞子様は長女であり、紀子様にとっては初めての子育てという事で、間違いがないように小さい頃から厳しく躾けられました。

眞子様が何か粗相をすれば「だから次男の家は」と言われます。

後ろ指をさされる事は殿下にとってもマイナスになってしまう。

そう思うと紀子様は常に唇を真一文字にして、悲しくても笑わなくてはいけない。

眞子様もそんな母君を気遣って、両陛下の前でも東宮夫妻の前でもお行儀のよい完璧な内親王でした。また、妹を可愛がるよいお姉さまでもありました。

 1998年2月23日 皇太子殿下38歳の誕生日

 記者会見で皇太子様は

結婚しましてから,本当にあっという間に月日がたったというのが率直な印象です。雅子には皇太子妃として,そして妻として本当に良くやってくれていると心から感謝しております。

また,雅子が結婚前に経験した様々なことは,今の生活においても本当に有益なものと思っております。それから忙しい中ではありますけれども,本当にくつろいで,そして憩いのある場を持つことができるということを,本当にうれしく思っております。

それから,料理の話ですけれども,本当に忙しい公務の合間をぬって料理を作ってくれることがありますが,大変おいしいです

今後のこととしましては,二人でそろって力を合わせて国民の幸福を願い,そして日本の国にとって,そして社会にとって重要と思われる事柄にも心を寄せつつ,二人で精一杯公務に励んでいきたいと思っています」

皇太子様としてはここは嘘でも何でも雅子様をたてなくてはなりません。

皇后陛下はそんな皇太子様が不憫で不憫でなりません。

雅子様を妃に迎えた事は人生の中で一番の失敗だったと気づきましたが、もう遅いです。

まるで蜘蛛の巣にとらわれたように皇太子様は雅子様にとらわれてしまったのです。

こうなってくると、それを庇ってやるしかない。

皇后陛下は今までよりなお一層皇太子様の事を思うようになりました。

もはや目の前の孫よりも、公務に忙しい日々を送る秋篠宮よりも、皇后陛下にとって大切なのは皇太子様です。

その皇太子様を護ると言う事は、ひいては雅子様を護る事だったのです。

 

コメント (7)
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