那覇市の北部に再開発地区・新都心ができたそうです。1987年に米軍から返還された跡地を造成した。わたしは長年、沖縄には行っておりません。先日、東京の友人ITさんが訪れ、レポート・メールを送ってくれました。彼は日本はもとより、アジアをさまようフーテンの寅さんのようなひと。時々の寄稿が楽しみです。寅さんの虎之児レポート続編でしょうか。紹介します。[ 片瀬 ]
2年前と同じように6月某日夕刻、那覇新都心おもろまちにある新聞社の応接室にいた。8階の窓からは、この辺一帯が見下ろせる。日々変わりゆく新しい街だ。立派な日銀沖縄支店、美術館・博物館、ホテル、DFS、シネコンもある巨大なショッピング・センター、放送局、新聞社、高層マンション・・・・。
東京の感覚でいうと「お台場」だが、ここは高台だし、海沿いではないから、そういう形容は似合わないが「開発」という匂いは共通である。勢いはあるが、どこか味わいに欠ける、要するに殺風景なんである。土地の歴史が感じられない。が、実際は琉球王国の時代から、どっしり「歴史」のある土地だった。
戦後、1953年に米軍によって強制接収され、将校、下士官、軍属の住宅地になった。学校やゴルフ場もあったという。実際、広大な土地である。占領者、植民者というのは異国にあっても、たいてい嗅覚鋭く、その土地の人が「いいところ」だと思う場所を自分のものにするものである。 30数年前に初めて沖縄に来た私には、この辺りの事情は知る由もない、知っていたとしても、日本人オフ・リミットだったわけで、見ることもできなかったろう。70年代に条件付き返還が日米で合意され、1987年に全面返還された。そして再開発が始まった。 目の前には、2年前と同じように巨大な貯水タンクが見える。
数時間前、訪れた田園書房のレジで見つけた「未来」というPR誌を読んでいたら、目次の中に「沖縄からの報告3 シュガーローフの戦い」という一文があり、私は移動中の車の中でたまたま読んでいた。 この辺りが軍用地であったことは、数年前、モノレールで新都心に来た時には知っていたが、この巨大タンクがそびえる丘にまつわる話は不覚にも知らなかった。情けないほど無知なナイチャーの典型である。 沖縄戦の激戦地だったのである。壮絶な肉弾戦が繰り広げられ、多くの日米軍人、そして民間人が死んだ。 かつて、この丘からは慶良間諸島が望めることから、地元では「慶良間チージ」(慶良間が見える丘)とよばれていたという。戦争中、日本軍はこの丘を「すりばち丘」、米軍は「シュガーローフヒル」と呼んだという。おびただしい戦死者たちの場所なのだ。そんなに昔の話ではない。
風景が一変すると、その土地の「記憶」まですっかり消えてしまう。
<2010年6月20日 東京・IT発>