世界のさまざまな言語を見わたしても、日本語の表記は実に特殊だそうです。ユニークなのは書き言葉。漢字<図像・表意文字>と、かな・カナ<音声・表音文字>の併用、ハイブリッド言語ともいう。
中華の周辺部ではかつて各地にみられたのが、表意文字漢字と表音文字の併用です。朝鮮半島では漢字・ハングルの混じり文だったがその後、漢字は追いやられてしまった。ベトナムなどのインドシナも漢字を廃してしまった。みな表音言語化してしまった。
日本人には当然過ぎて、この特殊な言語を意識することも少ないが、アルファベット言語を母語としながら、日本語に精通したアメリカ人文学者・リービ英雄さんの記述をみてみましょう。
リービ英雄氏は本名、リービ・ヒデオ・イアン。ワシントンDCで1950年に生まれた、生粋のアメリカ人である。ヒデオの名は、外交官であった父君が友人のおそらく日本人、英雄さんからいただいたものらしい。
彼は「万葉集」「古事記」などの研究家だが、小説家としても活躍しておられる。そして驚いたことに、小説はすべて日本語で記述。これまでに、野間文芸新人賞・大佛次郎賞・伊藤整文学賞などを受賞した、特異な才人です。
「筑摩選書」がまもなく創刊されます。6冊が一挙に同時刊行ですが、その内の一冊はリービ英雄著『 我的日本語 The World in Japanese 』。筑摩書房のプレビューから紹介します。
日本語の「話し言葉に惹かれるのと、書き言葉に惹かれるのは、明確に違う。ではその違いは何か。/日本語には漢字があり、平仮名があり、片仮名があり、現代ではローマ字もある。…いわゆる「混じり文」だ。/ぼくは「混じり文」に惹かれて、書いたのだと思う。/最初は、無意識だった。無意識のうちに、美しいと思って書いた。」
日本語を書いたものは美しい、と彼は何度も繰り返す。「ぼくは英語ならタイプで打つが、日本語のワープロは使わない。一度試みたことがあったが「変換する」という行為が嫌いだった。」
ある言葉を「平仮名で書くのと漢字で書くのとでは、ずいぶん違う。しかしその使い分けができるところが、日本語の豊かさでもあると思う。「選択」という過程が常にある。文字の形そのもの、文字の種類を選ぶという選択は、決められ与えられた英語や中国語にはない。他の言語には、ボキャブラリーの選択があるだけだ。」
また中国人が日本人を「神経質な国民だ」と評することについて、国民性ではないという。日本語を書くとき、書き言葉のなかに異質なものがあり、その異質を常に同化しようという意識が働く。「神経質」にみえる原因は、この心のはたらきから来るのかもしれない。常に日本語のなかで生きている日本人は、異質の同化を常に行いながら生活している。この特殊言語のこころのなかでの働きが、日本人を神経質にみせるのではないか。
つぎに内田樹著『日本辺境論』(2009年刊・新潮新書)の日本語論をみてみます。日本人は図像の漢字・表意文字と、音声のかな・表音文字、ふたつを並行処理しながら、言語活動を行っている。この行為は、世界的にみてもきわめて例外的な言語状況であると記されています。
養老孟司氏に教えられたそうですが、漢字とかなは日本人の脳内の違う部位で処理されている。「日本人の脳は文字を視覚的に入力しながら、漢字を図像対応部位で、かなを音声対応部位でそれぞれ処理している。記号入力を二箇所に振り分けて並行処理している」。日本語表記の言語操作特殊性は、さまざまなかたちで私たち日本語使用者の思考と行動を規定しているのではないか。
電子書籍の日本語表記には技術的な課題が多いといいます。単純な横書きアルファベットなら、本をスキャンしてテキスト化もかなりの精度でできそうですが、日本語はそうはいかない。ルビも旧漢字も、縦書きもある。そのなかで、日本語使用者の脳は日々刻々と、複雑な作業を繰り返している。
電子書籍の画面表示には、この日本語の特殊性の理解と反映が必須なのではないでしょうか。読書心理学とか文字・言語心理学とかの新ジャンルの必要性をかつて聞いたことがあります。いずれにしろ、人間のこころ、脳の働きを、文字なり言語から理解しようとする姿勢はつねに持ち続けるべきでしょう。
そしてマンガでは、絵が表意脳の受け持ちであり、「ふきだし」が表音脳の分担だそうです。電子書籍をささえている大黒柱のマンガ、そしてマンガ脳についても考えてみたいと思っています。
もうひとつ、インターネットやハイパーリンクが、わたしたちの脳にどのような影響を与えているのか? ニコラス・G・カー著『ネット・バカ』副題:インターネットがわたしたちの脳にしていること(2010年刊・青土社)も興味深い。
<2010年9月18日>
中華の周辺部ではかつて各地にみられたのが、表意文字漢字と表音文字の併用です。朝鮮半島では漢字・ハングルの混じり文だったがその後、漢字は追いやられてしまった。ベトナムなどのインドシナも漢字を廃してしまった。みな表音言語化してしまった。
日本人には当然過ぎて、この特殊な言語を意識することも少ないが、アルファベット言語を母語としながら、日本語に精通したアメリカ人文学者・リービ英雄さんの記述をみてみましょう。
リービ英雄氏は本名、リービ・ヒデオ・イアン。ワシントンDCで1950年に生まれた、生粋のアメリカ人である。ヒデオの名は、外交官であった父君が友人のおそらく日本人、英雄さんからいただいたものらしい。
彼は「万葉集」「古事記」などの研究家だが、小説家としても活躍しておられる。そして驚いたことに、小説はすべて日本語で記述。これまでに、野間文芸新人賞・大佛次郎賞・伊藤整文学賞などを受賞した、特異な才人です。
「筑摩選書」がまもなく創刊されます。6冊が一挙に同時刊行ですが、その内の一冊はリービ英雄著『 我的日本語 The World in Japanese 』。筑摩書房のプレビューから紹介します。
日本語の「話し言葉に惹かれるのと、書き言葉に惹かれるのは、明確に違う。ではその違いは何か。/日本語には漢字があり、平仮名があり、片仮名があり、現代ではローマ字もある。…いわゆる「混じり文」だ。/ぼくは「混じり文」に惹かれて、書いたのだと思う。/最初は、無意識だった。無意識のうちに、美しいと思って書いた。」
日本語を書いたものは美しい、と彼は何度も繰り返す。「ぼくは英語ならタイプで打つが、日本語のワープロは使わない。一度試みたことがあったが「変換する」という行為が嫌いだった。」
ある言葉を「平仮名で書くのと漢字で書くのとでは、ずいぶん違う。しかしその使い分けができるところが、日本語の豊かさでもあると思う。「選択」という過程が常にある。文字の形そのもの、文字の種類を選ぶという選択は、決められ与えられた英語や中国語にはない。他の言語には、ボキャブラリーの選択があるだけだ。」
また中国人が日本人を「神経質な国民だ」と評することについて、国民性ではないという。日本語を書くとき、書き言葉のなかに異質なものがあり、その異質を常に同化しようという意識が働く。「神経質」にみえる原因は、この心のはたらきから来るのかもしれない。常に日本語のなかで生きている日本人は、異質の同化を常に行いながら生活している。この特殊言語のこころのなかでの働きが、日本人を神経質にみせるのではないか。
つぎに内田樹著『日本辺境論』(2009年刊・新潮新書)の日本語論をみてみます。日本人は図像の漢字・表意文字と、音声のかな・表音文字、ふたつを並行処理しながら、言語活動を行っている。この行為は、世界的にみてもきわめて例外的な言語状況であると記されています。
養老孟司氏に教えられたそうですが、漢字とかなは日本人の脳内の違う部位で処理されている。「日本人の脳は文字を視覚的に入力しながら、漢字を図像対応部位で、かなを音声対応部位でそれぞれ処理している。記号入力を二箇所に振り分けて並行処理している」。日本語表記の言語操作特殊性は、さまざまなかたちで私たち日本語使用者の思考と行動を規定しているのではないか。
電子書籍の日本語表記には技術的な課題が多いといいます。単純な横書きアルファベットなら、本をスキャンしてテキスト化もかなりの精度でできそうですが、日本語はそうはいかない。ルビも旧漢字も、縦書きもある。そのなかで、日本語使用者の脳は日々刻々と、複雑な作業を繰り返している。
電子書籍の画面表示には、この日本語の特殊性の理解と反映が必須なのではないでしょうか。読書心理学とか文字・言語心理学とかの新ジャンルの必要性をかつて聞いたことがあります。いずれにしろ、人間のこころ、脳の働きを、文字なり言語から理解しようとする姿勢はつねに持ち続けるべきでしょう。
そしてマンガでは、絵が表意脳の受け持ちであり、「ふきだし」が表音脳の分担だそうです。電子書籍をささえている大黒柱のマンガ、そしてマンガ脳についても考えてみたいと思っています。
もうひとつ、インターネットやハイパーリンクが、わたしたちの脳にどのような影響を与えているのか? ニコラス・G・カー著『ネット・バカ』副題:インターネットがわたしたちの脳にしていること(2010年刊・青土社)も興味深い。
<2010年9月18日>