帰国した岡正雄は戦時中、官立の民族研究所を創設し、日本の植民地政策に関与した。戦後になって、このときの彼の戦争協力責任を指摘する声がある。しかしよくみれば、彼は二重に戦争に協力している。帝国日本と、もうひとつは宿敵のアメリカ軍である。
米軍はウィーン大学が所蔵していた論文「古日本の文化層」を手に入れ、精読した。日本という特殊な国の異人たちとその制度を、理解しようとしたのである。
民族学というマイナーな学問。ところが学究の異才は戦中に、積極的に日本に、そして預かり知らぬところでアメリカにも、貴重な貢献をしたのである。現代なら文科省や大学どころか、出版社も一般の読者も見向きもしない民族学(文化人類学)という学問が、戦時には有益で貴重な宝物であったのである。時代は、皮肉である。
なお岡の日本での戦争責任は問えないと、わたしは思う。かつて、住井すゑの文学者としての戦争責任の問題を考えたことがあるが、非常時にはすべてといっていいほどの、だれもが「わたしは戦争に一切、協力していない。責任はない」などと語ることは、できなかったはずである。戦地でも内地でも、刑務所にでも入っていない限り、まず全員が戦争を肯定せざるをえなかった。反戦や非戦を唱え、戦争を否定批判しそれを公然と表明すれば、逮捕されるかあるいは狂人として病院に送り込まれる。そのような異常な時代であった。
岡は敗戦直後、学界から離れ、信州安曇野の一寒村に一反七畝の水田と一反五畝の畑を借りて、自給自足の一零細農としての生活を営む。
彼はすべての研究資料をウィーン大学の研究室と下宿に残していた。貴重な論文「古日本の文化層」の控えも手元にはない。
日米英開戦の前年、1940年の晩秋に一学期の休暇をもらった彼は、日本に一時帰国する。その間に独ソ戦が勃発し、彼はついにウィーンに帰る機会を失ってしまった。トランク一つ携えて日本に帰国し、一切の書籍、原稿、資料はウィーンに置いて来たためにその後、戦争の期間を通じ、戦後にいたるまでこの「論文」第二部の仕事を続けることは、まったく不可能となった。身辺には必要な文献や資料は何一つなかったわけで、「このことは一面なにか、この仕事の長い因縁から解放されたような、未練のないさっぱりした気持でもあった」。学究生活に戻る気持ちも失せていた。
ちなみに戦後何年かたってからわかったことだが、彼がオーストリアの下宿に残してきたものはすべて、ウィーンの日本総領事館に移され、厳重に保管されていた。しかし1945年の爆撃で、総領事館の建物とともに灰燼に帰してしまっていた。だがウィーン大学の研究室に残してきた論文や資料は、幸いなことに疎開され無事であった。ただ当時、彼は知るすべもなかったのだが。
<続く 2010年9月26日>
米軍はウィーン大学が所蔵していた論文「古日本の文化層」を手に入れ、精読した。日本という特殊な国の異人たちとその制度を、理解しようとしたのである。
民族学というマイナーな学問。ところが学究の異才は戦中に、積極的に日本に、そして預かり知らぬところでアメリカにも、貴重な貢献をしたのである。現代なら文科省や大学どころか、出版社も一般の読者も見向きもしない民族学(文化人類学)という学問が、戦時には有益で貴重な宝物であったのである。時代は、皮肉である。
なお岡の日本での戦争責任は問えないと、わたしは思う。かつて、住井すゑの文学者としての戦争責任の問題を考えたことがあるが、非常時にはすべてといっていいほどの、だれもが「わたしは戦争に一切、協力していない。責任はない」などと語ることは、できなかったはずである。戦地でも内地でも、刑務所にでも入っていない限り、まず全員が戦争を肯定せざるをえなかった。反戦や非戦を唱え、戦争を否定批判しそれを公然と表明すれば、逮捕されるかあるいは狂人として病院に送り込まれる。そのような異常な時代であった。
岡は敗戦直後、学界から離れ、信州安曇野の一寒村に一反七畝の水田と一反五畝の畑を借りて、自給自足の一零細農としての生活を営む。
彼はすべての研究資料をウィーン大学の研究室と下宿に残していた。貴重な論文「古日本の文化層」の控えも手元にはない。
日米英開戦の前年、1940年の晩秋に一学期の休暇をもらった彼は、日本に一時帰国する。その間に独ソ戦が勃発し、彼はついにウィーンに帰る機会を失ってしまった。トランク一つ携えて日本に帰国し、一切の書籍、原稿、資料はウィーンに置いて来たためにその後、戦争の期間を通じ、戦後にいたるまでこの「論文」第二部の仕事を続けることは、まったく不可能となった。身辺には必要な文献や資料は何一つなかったわけで、「このことは一面なにか、この仕事の長い因縁から解放されたような、未練のないさっぱりした気持でもあった」。学究生活に戻る気持ちも失せていた。
ちなみに戦後何年かたってからわかったことだが、彼がオーストリアの下宿に残してきたものはすべて、ウィーンの日本総領事館に移され、厳重に保管されていた。しかし1945年の爆撃で、総領事館の建物とともに灰燼に帰してしまっていた。だがウィーン大学の研究室に残してきた論文や資料は、幸いなことに疎開され無事であった。ただ当時、彼は知るすべもなかったのだが。
<続く 2010年9月26日>