アイデンティティ[主体性]という昨今(さっこん)、巷(ちまた)でよく遣(つか)われる和製英語があるが、どこか最近は、このアイデンティティが人々から消える傾向にあるようだ。確かに、自分を主張すれば社会から馴染(なじ)まないと白い目[赤い目ではない^^]で見られて疲れることになる。だから人々は妥協して世の姿に追従しようとする訳だ。例(たと)えばここ最近、新型ウイルス防止のマスク着用が外出時の常套(じょうとう)手段となっているが、この気の弱さもどんなものだろう…と思える。何をしたって死ぬときは死ぬのである。かぐや姫さんだって、周囲のお偉い方々が帰さずっ! と散々、抗(あらが)われたにもかかわらず、姫は結局、月へお帰りになったではないか。^^ このように世の姿がどうであろうと、物事はなるところへ帰着するのである。抗(あらが)うほど疲れるだけなのだ。世の姿がどうであろうと、皆さん! 自分の意志を大事に生きましょう! 疲れるだけですから…。^^
二人の老人が物陰で隠れるように話している。
「怖い世の姿になってきよりました…」
「はいっ! さようで。下手に出歩けば、外出禁止法違反で現行犯逮捕されますからなっ! 今朝は大丈夫でしたかっ?」
「はい、まあなんとか…。コップの目を欺(あざむ)くのも疲れるものですっ!」
「外出禁止法違反で現行犯逮捕ですからな…」
「はいっ!] まあ、ウイルスに捕(つか)まるのも難儀な話ですが…」
「さようで…」
「世の姿は人を縛(しば)りますからなっ」
「さようで…。では、いつもの隠れ家でっ!」
「手に入りましたかっ!」
「はい、なんとか今日は…」
「食料パニックには困りものですっ!」
「マスコミが騒ぎ過ぎなんじゃないですかっ?」
「確かに…。過剰過ぎますなっ!」
「まあ、それも世の姿と言えば世の姿ですが…」
「疲れるのは戴(いただ)けません」
「さようで…」
二人の老人は、まるで悪いことをした犯人のように、キョロキョロと辺(あた)りを警戒しながら足早(あしばや)に公園を去った。
世の姿に疲れるようでは、この世もお終(しま)いだ。^^
完