行楽の春が近くなると、冬眠を決め込んでいた角吹(つのぶき)も、さすがに家を出たくなった。雲雀(ひばり)の声が賑(にぎ)やかで、早く目覚めた・・ということもあったが、暖気のせいか、いくらか気分が花やいだ・・というのが実のところだ。
「やあ、角吹さん。お出かけですか?」
「ええ、まあ…」
隣りの鹿山は、珍しそうな顔で角吹に声をかけた。角吹は内心、俺だって出かけることはあるさっ! とムカついたが、そう言う訳にもいかず、思うに留(とど)めた。
しばらく歩くと、見馴れた山裾(やますそ)の畑が見えた。春先には恒例の野焼きが行われる畑は、枯れ草で茶色っぽかった。枯れ草を焼くことにより、地はアルカリ質の肥料を得(え)、しかも害虫の消毒ともなる一挙両得の策だ。しばらくこの辺(あた)りに足を向けたことがなかった角吹は、ひと巡りしてみるか…と、ふと思った。のんびりと歩くつもりで出た家だったから、とり分けて急ぐ必要もなかった。
通ったことがある細道を進んでいた角吹だったが、しばらく行っところで見かけない家に出食わした。こんなところに家なんかあったか? と訝(いぶか)しく思った角吹だったが、まあ最近、新しく建ったんだろう…くらいに軽く思い、見過ごすことにした。ただ、家が近づいたとき、その家がそれほど新しい家でもなかったのが少し解(げ)せなかった。ところが、である。またしばらく歩くと、まったく記憶にない光景が展開し出した。そんなことはない! と角吹はまた訝しく思え、一端、足を止めて辺りを見回した。だが、やはり一度も通ったことがないところのように思えた。角吹は道を間違え、知らない土地に迷い込んだか…と思った。そう思うと気も漫(そぞ)ろとなり、のんびり歩いている相場の話ではなくなってきた。角吹は焦(あせ)り始め、当然、足は早くなった。そしてまた、しばらく行くと、ようやく見馴れた光景が開けた。しかしそれは、出たはずの角吹の家だった。一周したのか…と、最初、角吹も合点がいった。ところが、である。
「やあ、角吹さん。お出かけですか?」
「ええ、まあ…」
隣りの鹿山が珍しげに言葉をかけ、角吹は思わずそう返していた。そのとき、おやっ? と角吹は思った。確かに数時間前、この状況はあったぞ! …と。角吹は慌(あわ)てて腕を見た。不思議なことに朝、出かけた時間だった。出たのに、また出たのである。怪(おか)しい!! と角吹は怖くなった。そのとき、目覚ましの音が祁魂(けたたま)しく角吹を襲い、角吹はハッ! と目覚めた。雲雀の声が賑やかに聞こえ、麗らかな春の朝日が窓から射していた。角吹は夢を見ていたのだった。どう考えても、出たのに、また出るという現実はない。
完