水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

思わず笑える短編集 -13- 感情の乱れ

2022年03月29日 00時00分00秒 | #小説

 ここは無用山存在寺の境内(けいだい)である。朝からポクポクポクポク…と木魚の音が本堂から聞こえてくる。この辺(あた)りに土地勘がない壺坂は木魚の音に釣られ、探している家をこの寺で訊(たず)ねよう…と思い立った。なんといっても、寺なら詳(くわ)しいだろうと踏(ふ)んだ訳だ。
「あの…」
 壺坂は本堂の戸をスゥ~っと音もなく開け、呟(つぶや)くように遠慮気味の声を出した。
「!? …はい、どなたですかな?」
 木魚を叩(たた)いていた僧侶(そうりょ)らしき出で立ちの男は、壺坂の声にギクリッ! としたのか木魚を叩(たた)くのを止め、振り返りながら腓(こむら)返った声で言った。壺坂はその声に明らかな感情の乱れを見て取った。修行が全然、足りんな…と、一瞬、壺坂には思えた。
「恐れ入れます。通りすがりの者ですが、つかぬことをお訊(たず)ねいたします。この辺りに宗吉(むねよし)さんという家はございませんでしょうか?」
「宗吉さん? でございますか? さあて…お聞きしないお家(うち)ですな。当方の檀家(だんか)さんにはございませんが…」
 いつの間にか腓返った声を元に戻(もど)し、僧侶とほぼ思(おぼ)しき男は霊験(れいけん)あらたかそうに襟(えり)を正すと、僧侶らしく言った。
「さよですか、どうも…。生憎(あいにく)、この町には親戚筋がないものでして…」
「ほう! なるほど…」
「そこの交番ででも訊ねてみます…」
「どうぞ、お好きなように…」
 僧侶らしき男は、初めからそうすりゃいいじゃないかっ! とでも言いたげに、霊験を失った俗っぽい感情の乱れた声でそう言った。壺坂は、まあこの程度の寺か…と感情の乱れで思った。
 感情の乱れは人々を危(あや)うくする。冷静になれるコツを体得することが世間で沈まない秘訣(ひけつ)なのかも知れない。

                    完


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