「岐阜のまちには、どこの国の商人が住んで商売をしてもよい」ということと、「岐阜のまちで商売をする商人には、税金を課さない」ということであった。つまり、信長は商業の自由競争と無税を宣言したのである。これは当時の日本では大変なことであった。
というのは、日本の商人はすべて大名の城下町で商売をし、しかも、だれが何を売ってもいいということはまったくなく、たとえは酒でも塩でも着物でも、全部が専売制であり、それぞれの商人が「権利」を持っていた。つまり「独占商人」が当時の日本の商業を支えていたのである。
だから、これらの「独占権」は「株」とか「座」とかいわれて、ひじょうに高い金で売買されていた。何か新しく商売をはじめようと思ったら、まず、この権利を買わなければならなかった。権利を買わずに商売をはじめなどしたら、たちまち権利者がさしむける暴力団に半殺しの目にあわされた。
一方、こういう権利を保証してくれるのは、大名や神社や寺であった。したがって権利を持つ者は、そういう大名たちに高い「権利金」を納めなければならなかった。これが税である。
権利金を納めるためには、商人はその分を品物の値段に加算する。結局、ばかをみるのは高い品物を買わされる一般庶民だった。
この「株」や「座」の制度は、当時の社会に厳しく行き渡っていて、あの、「美濃の大マムシ」といわれた斎藤道三でさえ、若いころ“油売り″になるため、油の本家である京都・山崎の八幡神社に莫大な権利金を納めたのである。
信長の自由競争と無税の宣言は、この仕組みをこわすものであった。日本の各地で高い権利金にしばられていた商人たちは、このことを伝えきいて、
「そんな国がほんとうにあるのか-」と、おどりあがって喜んだ。そして、続々と、
「その夢の国に行こう」と、岐阜に乗り込んできた。
うわさは本当であった。岐阜では、だれが何を売ろうと自由であった。税もかからなかった。当然、品物は安くなる。「岐阜は楽市だ」「楽座だ」と言って、商人たちは喜びあった。
ただし、「独占」を廃止したので同じ品物を売る商人が何人も現れることになったので、買う方は、しだいに品物をえらびはじめた。値段も比べた。結局、「よい品物を、安く売る商人」だけが生きのびていった。
岐阜はにぎわった。朝から晩まで市が立ち、まちはその呼び声でやかましかった。しかし、そのやかましさは岐阜のまちがどんどん発展していくための騒音であった。信長には、その騒音が心地よかったのではないだろうか。
岐阜では権利金や座への加盟料は取っていないが、冥加金という売上税(売上高に乗じて商人から取る仕組み)を領主である信長に納められていたようである。
であれば、この「市」が大々的に他の市よりも物流のいい・産業地に近い場所で開催されれば、という発想が出てきて、大きく市を広げることのできる場所として、近江の安土に見定めたと言われている。
そして、速やかな徴税を行うため、強い領主の出現を分からせるために、信長はあの豪華絢爛な安土城をつくったり、城下町の建設を図ったのではないでしょうか。
「楽市楽座」が教科書に出てくるほど有名なのは、当時として画期的な出来事だったからです。
信長の独創性、進歩性が顕著に示されたもので、不条理なものを破壊する力はダントツであったと思うのです。
---owari---
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