第一の条件をあげましょう。みなさんは聞きなれない言葉を聞いて驚くことでしょう。それは、「礼」という言葉です。礼儀の礼です。これが第一の条件なのです。
この礼の心は、最高の指導者、すなわち頂点に立つ人にとっては、「魂の高貴さ」として、その姿を現します。高貴なる姿として、人格として、雰囲気として、その姿を現してきます。
しかし、読者のみなさんは、まだ、その真なる指導者に到る途上にいる方がたでありましょう。
では、頂点に立つ前の、その途次を歩んでいる者にとっての礼とは、いったい何でしょうか。それは、一つには、その人の持っている「品性」であり、また、その行動における現われ方としては、「折り目正しさ」でありましょう。
さて、「そんなことが、はたして本当に指導者の条件であろうか」と問う人もいるに違いありません。しかし、私は言いましょう。「王道」を語るにあたっては、「覇道(はどう)」とは何かを知らねばなりません。
王道の対極にあるものとして、覇道というものがあります。この覇道に生きる者であっても、この世的に位人臣(くらいじんしん)を極めることはありえますし、優秀なる人物であり、才能あふれる人物であることもあります。しかし、彼らは主として二つの特徴があるのです。
その一つは、先ほど言いましたように、品性というものに香りがない、別の言葉でいうならば、品性において尊敬できないものがある、ということです。それは、その人の魂の傾向性が、違ったところに向いているということを意味するのです。これが第一の関門なのです。品性が違った方向に向いている人には、王道に入る資格がまずありません。
この品性とはいったい何でしょうか。これについて語ろうとすれば、多くの言葉を費やすことになりましょうが、いやしくも王道に入らんとする者であるならば、その心のなかを見られ、その姿を見られ、他の者の目に己の姿をさらされたとしても、陰日向なく、誰恥じることなき姿である必要があるということです。
人前でいくらとり繕ったところで、その裏で、他の人の目に決してさらすことができないような思いを持ち、そうした言葉を発し、そうした行いをしているならば、これは品性劣ると言わざるをえません。
そして、覇道に生きる者のもう一つの特徴は。折り目正しき、礼儀正しさというものの欠如でありましょう。あちこちに“やり手”といわれる方は数多くいるでしょう。しかし、そのなかで、王道に入るのではなく覇道に入っている人の特徴は、自分の上にある者、自分の上司にあたる者、優れたる者に対して、敬意を表さないというところにあるのです。
強き者を見て、いたずらにそれを愚弄(ぐろう)し、あるいは軽蔑の言葉を表わし、単に尊敬しないだけではなく、陰でその人たちのことを悪しざまに言う心、これがすなわち礼を失した心です。こうした心で生きている人が、覇道に生きる者なのです。
みなさんのなかには、みずからをエリートと思っている方も数多くいるでしょう。しかし、己が心を止めて、静かに振り返っていただきたい。自分は王道に入っているか――、覇道に入っているかを――。
覇道に入りし者は、この世において、たとえいかなる地位や名声を得ようとも、やがて、生きているうちか、あるいは地上を去った後に、必ず破滅が待ち受けているのです。それを知らねばなりません。
ゆえに、優秀なる人びとよ。他の人びとより優れたる資質を持ちたる人びとよ。まず第一に、礼の心を忘れるな。
これを忘れたときに、あなた方の優秀さは、仏の光を呈(てい)さぬものとなります。この礼の心を忘れたとき。それは覇道に陥ることとなるのです。まず、これを守らねばなりません。
そして、この礼の心は、あなた方がやがて、十年、二十年、三十年を通して、出世の階段を歩んでいくときに、じつはどうしても必要なことでもあるのです。この礼儀正しさが、この折り目正しさが、この秩序を愛する心が、あなた方を世の波風から守ることになります。それは、単に処世のうえからのみ考えても、まことに優れた生き方であるということを知らねばなりません。
王道に入るための条件の一つは、まず、この礼にある、礼節にある。ここを明確にしておきたいと思います。
それに反した例をあげてみましょう。日本でいえば、織田信長という方です。たぐい稀なるリーダーシップを発揮した方であることは、誰が見ても明らかです。しかし、彼の最期は何を物語っているか。それは、彼が覇道に生きた人間であるということを明らかに物語っているのです。礼を欠いた人間の最期の姿なのです。
もう一つあげておきましょう。たぐい稀なるリーダーシップを発揮し、そして全中国を統一した、秦の始皇帝という方がいます。あの広大な国土、人民を統合し、そして中央集権を確立し、法治国家をつくった最初の方であり、その偉大なる業績は隠すべくもありません。
しかし、彼はなぜあのような惨めな最期を遂げたのでしょうか。何ゆえに、彼の没後わずか十年にして、秦という大帝国は潰れ去ったのでしょうか。
その理由は、数多くの人びとを情け容赦なく法の網にかけ殺戮(さつりく)し、それのみならず、「焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)」ということを行い、四百数十名の儒者を生き埋めにするというような暴挙をなしたからです。これなどは、優れたる者を、仏神の心、天の心を伝えている人たちを、人間以下の扱いに付したということであり、まさしく礼の心を欠いた行いと言わざるをえません。
恐怖で人びとを支配することは、一時期できたとしても、これが永続した例は過去ないのです。恐怖という名の手段によって人びとを統治した人は、やがて、その恐怖によって手厳しい反作用を受け、惨めな最期を遂げることになります。
ゆえに、私の王道論は、あの中世ヨーロッパでマキャベリが説いたような君主論、権謀術数を使うマキャベリズムとは違います。あれは覇道です。私はあの考えをとりません。私たちはまず王道に入らねばならないのです。
---owari---
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自分の子に伝えたい
働く仲間たち 私に関わる全ての方々を理解する目的で想いを記しています
「礼」「智」 「信」「義」「勇」
里見八犬伝 を思い出します
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