今日は日下公人著書「『超先進国』日本が世界を導く」より転載します。
歴史的に日本の庶民が指導者というものをどのように考えていたか、また指導者が庶民をどう考えていたかを見てみよう。
日本の庶民の水準の高さは以前にも述べたが、たとえば司馬遼太郎の『世に棲(す)む日々』にも、<徳川社会というのは知識人口の厚さという点では同時代のヨーロッパの文明国を抜きんでているが、その特徴のひとつは知識人口が首都である江戸に集中しておらず各藩に分散していることであり、むしろ江戸のいわゆる旗本八万騎の教育水準よりも田舎の諸藩のそれのほうが高いことであった>という記述がある。
藩校というのは、もともと藩士とその子弟を対象にした藩直営の教育機関だったが、やがて多くの藩校が庶民の聴講も認めるようになった。士分による民衆の教化という面が強かったが、それでもこうしたことはヨーロッパにはなかった。キリスト教会が布教とセットで行なったぐらいである。
しかも日本にあったのは藩校だけではない。石田梅岩のくだりで触れたように、庶民のために多くの私塾、寺子屋があり、読み書き算盤(そろばん)だけでなく経綸(けいりん)を説くような水準のものまであった。庶民に「知」と「意」を教えたのは日本という国の大きな特長である。「意」というのは「意志」であり、「志」や「心意気」のことだ。明治の近代化は、こうした庶民のポテンシャルに支えられていた。
こうしたポテンシャルを持つ庶民であれば、“偉大な政治家”がいなくても共同体の良好な維持、運営ができたのである。しかも日本は千数百年前にはほとんど統一国家になっていた。統一されていたということは、平和であったということである。日本は、戦国時代などのごく限られた時期をのぞけば、内部争いの無駄なコストのゼロの時代が千何百年続いたわけで、そうなれば豊かになるに決まっている。
しかも日本は、次々に新田を開拓して食糧を増産したので、人口が増加した。江戸時代には人口三千万人の大国で、その時代に、三千万人の統一国家は世界のどこにもなかった。その頃のオランダは大国とされていたが、人口は数百万人でしかなかった。ちなみにアメリカ独立戦争当時のイギリスは人口九百万、アメリカ(建国時は十三州)は人口三百万にすぎなかった。
江戸の人口は約百万人。その当時、百万都市はほかにロンドンしかない。インドや中国にもあることはあったが、それは単に農村人口の過剰分が流れてきた“棄民(きみん)の住処(すみか)”でしかなかった。日本は百万都市をつくり、それを維持するハードとソフトの両方を持っていた。
細かく並べればきりがないが、環境における循環システムや都市の治安と秩序を保つ機能、経済における市場の形成と流通システムなどの構築に成功していたということである。それは戦国時代を経て統治の主体となった徳川幕府(指導層)と、江戸庶民の協働の結果だった。
徳川時代の農民の困窮を強調したい階級闘争史観の学者は、「百姓は生かさず殺さず」という方針で搾取されていたというが、年貢には事細かい決まりがあって、おおむね「四公六民」だった。収穫高によっては五割を超えることもあったが、「乱世」ではなく「平和」が維持されたことを思えば、農民にとってそれほど悪くはなかったのである。
彼らは鉄製の農具の所有も認められていたが、ヨーロッパの農奴はそうではなかった。武器に転用されることを支配者が恐れたからだ。あるいは北米のインディアンや南米のインディオの場合、新たな支配者は彼らに対し話し合う気は毛頭なく、その処遇も「生かさず殺さず」ではなく、それこそ皆殺しに近いことをした。
同時代の世界を水平的に見れば、日本人がいかに平和的な暮らしを送っていたかがわかる。士分も庶民もそれなりに知的水準が高く、統治の原理として天皇を立てておけば、政治を行う主体(政治権力)は取替がきくパーツにしてしまった。つまり普段は絶対的な指導者、“偉大な政治家”がいなくてもよい国を、指導層と庶民が暗黙の上につくったのである。
そして二百七十年の平和は停滞ではなく、豊穣(ほうじょう)な蓄積となって日本人のポテンシャルとなり、外来の危機に直面すればあっという間にそれを迎え撃つ態勢を整えることができた。
スーザン・ハンレーというアメリカの女性社会学者は、『江戸時代の遺産』(中公叢書)で、ヨーロッパの中世は非常に暗くて停滞した時代で、いい暮らしをしていたのは一握りの貴族にすぎないが、日本の江戸時代は例外で、江戸の市民は、市民でありながらとても成熟した、豊かな文明生活を享受していたと書いている。そして、「もし貴族に生まれるならイギリスに、市民階級に生まれるなら日本に生まれたい」とまで評価した。
---owari---
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