日本は明治維新で「四民平等」となった。以後、陸軍士官学校も海軍兵学校もその扉はすべての「国民」に開かれた。海軍兵学校の教師に招かれたイギリス人は、生徒の出身が四民平等になっているのに驚いている。
そもそも西欧の軍隊の階級制度は、かつての社会的な身分制度を引きずっている。ヨーロッパの軍隊の士官はほとんどが貴族出身で、彼らと下士官兵とは身分のうえで天と地ほどの差があった。ヨーロッパの軍隊では士官はまさに絶対的存在で、下士官に対する指揮命令も絶対だった。
日露戦争の頃、フランスとロシアは同盟国だった。フランス軍から観戦武官が派遣されロシア軍に従軍していた。その観戦武官の日記に日本人からは信じられない記述がある。
フランス観戦武官の乗馬が脚を痛めて動けなくなり、これから戦場に移動するのに予備の馬がない。ふと見ると、草原の向こうにコサック騎兵隊の一群が行軍していた。ロシア軍の隊長はコサック騎兵隊に向かい、騎兵を一騎こちらに向かわせるように命じた。一機が勇ましく駆けよって来て、下馬して隊長に敬礼したとき、驚くべきことに隊長はその兵士を拳銃で射殺し、「はい、馬が空きました。どうぞ」とフランスの観戦武官に渡したという。
かつて日本軍も「兵隊は軍馬以下」といわれたが、これはそんな次元ではない。当時、ロシアにはまだまだ農奴制があって、貴族は自ら所有物である農民を自由に売買していたし、農民を殺したところで何の咎(とが)めもなかった。
「コサック」という言葉の語源を調べてみると、「遊牧民」や「放浪者」「刑余者」という意味があり、そんな人々が集まって住んでいる場所が「コサック」と呼ばれていた。したがって、そのロシア軍の隊長は、「放浪者」を撃ち殺すことに何のためらいもなかったのである。
ちなみにその観戦武官は、この話に続けて「ロシアはまだこんなことをやっているのか。わがフランスはもうこんなことはない。しかも日本はすでに近代国家を形成し、近代的な軍隊になっているから、こんなことではロシアは負けるだろう」と記した。
また、日露戦争で捕虜になったロシア兵が、日本陸軍の士官と兵が同じ飯を食うのを見て、「日本軍は強いはずだ」と驚いたという挿話もある。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』にも、こんな話が出てくる。日露戦争で海軍が旅順港閉塞を計画したとき、参謀の秋山真之は、「流血の最も少ない作戦こそ最良の作戦である」として閉塞には消極的だった。それに広瀬武夫は、「断じて行えば鬼神もこれを避(ひ)くということがある。骨がらみになっても押して押しまくってゆく以外に成功は開けない」と主張し、最後には東郷平八郎が決断した。
そして港口閉塞に必要な下士官以下の人員六十七人を艦隊から募ったところ、何と二千人が応募し、なかには血書をして志願する者もいた。計画を練った有馬良橘中佐や広瀬は驚いた。
このとき「この戦いは勝つ」と、広瀬は真之にいった。広瀬のいうのは、自分たち士官は年少の頃から軍人を志願し、礼遇を受け、戦いで死ぬことを目的としてきたが、兵は外国でいうシヴィリアン(市民)の出身である。それがすすんで志願したということは、この戦争が国民戦争であることの証拠である。だから負けるわけはないと。結果的に二千人から最も肉親の係累(けいるい:面倒を見なければならない家族たち )の少ない者という基準で六十七人が選抜され、決死の閉塞作戦が行われた。
ここに見られる指揮官と兵の紐帯(ちゅうたい)こそ、日本人の力の源泉が秘められている。つまり、国家の危急存亡時には命懸けの指揮官が現れ、その指揮のもとに死地に飛び込んでいく勇敢な兵がいた。少なくとも日本の歴史を振り返れば、そうした局面が何百年に一度の割合で現出している。
元寇のときの北条時頼・時宗父子と鎌倉武士の関係も、能の「鉢木(はちもく)」にあるような御恩と奉公の関係が根底にあり、両者が粉骨砕身(ふんこつさいしん)して国を守った。
つまり、日本では指導者は偉大だったが、庶民(中流)が無能だったという時代は見当たらず、庶民(中流)がしっかりしていたがゆえに、指導者は常に偉大である必要はなかったということである。
(日下公人著書「『超先進国』日本が世界を導く」より転載)
---owari---
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