現在の世の中を見渡してみると、あちこちで犯罪が増えています。もちろん、「法に触れる」という意味での犯罪が目につきやすいわけですが、私には、違った意味での犯罪が気になってしかたがないのです。
世に言う「犯罪」という言葉は、思いより行為を対象にしており、他の人の権利を侵す行為が犯罪と呼ばれています。しかし、これは、ほんとうの心の秘密を知らない人の考えであると言っても過言ではないでしょう。
ほんとうに犯罪が起きているのは、心のなかにおいてなのです。行為として、この世に現われた犯罪は、心のなかに現われた犯罪の十分の一にしか過ぎないのです。
この地上から、他人を害する行為をなくすには、まず、人の心のなかから、他人を害する思いをなくさねばなりません。他人を害する思いを人の心のなかからなくすことができて初めて、他人を害し、他人の権利を侵す行為が地上から消えてなくなるのです。
思いが原因であり、行為は結果です。結果をなくすためには、原因を探求し、原因の根を取り除くことが肝心です。
それでは、「思いにおいて犯罪を起こさない」とは、どういうことでしょうか。
それは、「他人の権利を侵害しない」という消極的な考えが中心であってよいわけではなく、積極的に、「他の人びとを幸福にしていこう」という思いを持つことから始まるのです。
よく言われるように、人間の心は同時に二つのことを思うことができません。
心のなかに悪いことを思い描かないためには、悪いことを取り除くことに専念するよりも、むしろ、よいことを思おうとする方が大事なのです。
よいことを常に心に描くようにすれば、必ず、悪い思いは一掃されることになります。よい思いを心のなかに描きつづける行為こそが、「心に悪を抱かず、悪を行わない」ということを戒律として自分に課すことにもなるのです。
いや、結果は、それ以上に素晴らしいものとなるでしょう。なぜなら、自分の心のなかが、他の人びとへの善意と愛に満ちているならば、その善意や愛を受けた人びとも、必ずや喜びを胸に抱くはずだからです。
彼らは、その喜びを心のなかに隠していることができるでしょうか。それを単に隠しているだけでは、「自分が人間である」という事実すら確認できないことになるでしょう。人間であるならば、他の人から優しい思いや行為、思いやりを受けた喜びは、必ず感謝となって表れてくるはずです。
その感謝が、愛を与えてくれた人への感謝になるか、それ以外の人への愛の行為となるかは、時と場合によるでしょう。しかし、いずれにせよ、「悩みの渦中にあった人が、他の人から愛を受けることによって、マイナスの発想をやめ、プラスの発想へと心を切り替える」という瞬間が生まれます。これは実に大切なことだと思います。
「人間は過ちを犯す可能性を持っているが、正しさに導かれる契機を与えられれば、必ずや立ち直る可能性も持っている。人間らしさは、この辺にある」と考えたいのです。
人間には、創造の喜び、発見の喜び、選択の喜び、こういうものがあります。
自由があるからこそ、新たなものを創造していくことができます。自由があるからこそ、試行錯誤をしながら、さまざまな発見をして、鋭い喜びを味わうことができます。自由があるからこそ、選択の喜びがあります。
人間には、「善と悪とのあいだで揺れながら、最終的には善を選び取っていく」という喜びがあるのです。(仏法真理)
昔、母親から心のなかで、人を恨んではならない、殴りたいと思ってはならない、と教えられました。
それは、天界へ戻った時には、このような心で思っただけでも、ストンと落ちる(自分の住んでいる階層から一段下がる)と言っていました。
心で思っていることは誰にも見えないと考えますが、天界ではそうではないので現世でも気を付けたいと思います。
---owari---
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