実業界においては、あそこにもここにも、きら星のように成功者が存在するわけでありますが、心の世界における富の集積を成し、成功した人となると、なかなかその数も少なく、見つけることが難しいというのが現状ではないでしょうか。
私は、心の世界の富とは、言葉を換えれば「智慧」だと思います。経験と智慧――「知識が経験で裏づけされたときに智慧になる」と言いますが、この智慧を数多く持っている人こそ、富んでいる人なのであると思います。そして、そのように智慧に富んだ方の力を集めて、よりよい社会をつくるために生かすことができたならば、そこに理想的なる世界が広がってくるのではないかと、私は思っています。
これから、この日本という国が発展繁栄し、ますます全世界のなかでその存在が肯定され、歓迎されるようになっていくためには、どうしてもこういう心の富というものが必要になってきます。社会のなかには金銭的なる富は十分になってきましたが、まだまだ人びとの「心の富」というものは十分ではありませんしまた、心の富の社会的充実ということになると、もっともっと、心もとなくなってきているのではないかと思います。
そもそも、今の日本のなかで、いったい誰が智者なのか、誰が智慧あるものなのか、どういう考え方が智慧ある考えなのか、ということが明確でない、非常にわかりにくいということもあります。民主主義の成果として、いろいろな方が活躍されるようになりました。それは思想界においても同様であります。
百年前であるならば、著書を出すというようなことはとうてい考えられないような人が、現在ではどんどんと本を出せるようにもなりました。そして数多くの作家を世の中に生み、数多くの本を世の中に出し、数多くの文化現象が起きています。
ただその氾濫現象のなかで、いったい何が価値あるもので、何がそうでないのかということがわからなくなっています。 世に知名度、有名度というものがありますが、その知名度、有名度にしても、本当に価値ある人を選び出しているのかそうでないのかということが、なかなかわからないということがあります。これが活字文化、ブラウン管文化の生み出した、一つの弊害とも言えるでしょうか。真に智慧ある人とはどのような人であるのかがわからない。そういう刹那的なる文化になってきているように、私には思えるのであります。
私は、こうした時代のなかで、かつて生きていたような智者を数多く育成、輩出するためには、どうしても国民の一人ひとりがその生活の態度を改めていく必要があると思います。
その態度の一つは、やはりもっともっと、よく勉強するようになることではないでしょうか。
ただ私には、新聞や雑誌など、その場限りの活字を追いかけるだけの人、あるいはテレビに映る情報だけを追いかける人、こうした人びとは雑然とした情報が入ってくるわりには、その知のレベルは決して高くないように思えます。どんなに情報が氾濫する時代になっても、優れた思想というものは、少数の人によって書かれているものです。その少数の人によって書かれている優れた思想を見つけ出すためには、コツコツとよいものを読んでいくというような勉強の姿勢が必要であります。
また、心を富ませるためには、余裕ある生活を送る必要があります。余裕ある生活とは、物質と精神的なる時間と、その両方を意味していると、私は思います。あまりにも物質に束縛されすぎますと、精神的なる余裕は持てません。精神的なる余裕を持てるだけの物質的なる豊かさを、足腰の強さとして、「わが家の経済」として築いておく必要があります。 そして、精神的なる余裕のためには、心にとって有害なるもの遠ざけて、有用なるものを十分に取り込んでいくという毎日を送っていくことが大事であります。
さて、富について原点に返って述べたいと思います。
人間の富を欲するという思いそのものが善悪のどちらかと言えば、善であります。そしてそれは、より多く、世のため人のために役立つ方向で生かされるならば、ますますその力を発揮するようになっていくでありましょう。
人間も生物のひとつであるならば、必ずや成長の法則を有しているはずであります。そしてその成長の法則のなかに、「富の法則」「繁栄の法則」なるものが入っているわけでありますから、これに忠実に生きながら、その方向性を十分にコントロールし、世の中をますますよくしていくことが大事であると思います。
みなさんがますます、物質的にも精神的にも富んだ方になられて、その富をより多くの人びとを幸せにする方向で使える日がくることを期待します。(仏法真理)
---owari---
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