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お米は日本に与えられた最高の贈り物(前編)

2016年04月07日 | 日本

私が若い頃、転勤で岩手県に住んでいたときのお話です。

1993年(平成5年)は梅雨前線が長期間日本に停滞し、沖縄県以外では梅雨明けの発表がされないという事態となりました。日照不足と長雨による影響で、この年の日本全国の作況指数は「著しい不良」の水準となる90を大きく下回る74だったのです。

 

東北地方ではそれを更に下回り、東北全体の作況指数は56、やませ(冷たく湿った風)の影響が大きかった青森県は28、岩手県が30という、第二次世界大戦後飛びぬけて低い数字となり、下北半島では「収穫が皆無」を示す作況指数0の地域も続出しました。

 

この記録的冷夏の原因は、20世紀最大級ともいわれる1991年(平成3年)のフィリピン・ピナツボ山の噴火が原因とされています。夏の気温が平年より2度から3度以上下回ったのです。

 

私が飛行機で帰阪した時、岩手から大阪の空はずっと厚い雲でおおわれていた記憶があります。

この時は、米どころであった岩手でも日本米を買うことできず、コンビニに並んでタイ米を購入した経験があります。

 

東北地方では江戸時代に同じような状況となり、大飢饉が発生し、100万人が餓死したと伝えられています。このためか、岩手の農家ではお米は3年分を貯蔵しているとのことでした。

古古米、古米、新米と3年にわたって貯蔵しているので、2年ぐらい凶作となっても何とかしのげるように工夫しているということでした。生活の知恵といいますか、過去の経験に基づく対策なのです。

 

このようなお米が日本や日本人に深くかかわっていることをお伝えします。

まずは、稲作が日本の人口を増やし、日本人の性格を作ったといわれるお話しです。

その前に、稲作は日本でいつ頃から行われてきたのでしょうか?

 

今から2000~3000年前、弥生時代か縄文時代の頃に、朝鮮半島や台湾を経て北九州に伝わってきたと言われています。

稲作が日本に伝わった頃の人々は、狩りや木の実の採集などをして移動して暮らしていたので、同じ所に住んで食物を手にいれる事ができる「稲作」は、人々の暮らし方を変えていきました。

 

狩猟・採集社会における人口は、農耕社会に比べ一般的に低いとされていましが、日本で比較的多くの人口を維持することができたのは、季節によってつぎつぎと異なる種類の食料資源を継続的に利用できたことや、食料を保存し、安定して供給する技術を知っていたからと思われています。

縄文時代で人口が最大になった中期で、日本の総人口は約27万人でした。

 

つぎに、稲作が本格的に開始された弥生時代における人口を、遺跡の数から調べてみますと、弥生時代の人口は日本全体で約60万人、この数字は縄文時代の最大人口27万人の約2倍強です。

 

地域別にみると、東北や関東地方では縄文時代における推定値とそれほど差がないのに、近畿、中国地方では 20倍以上、四国、九州でも10倍以上と著しい人口増加がみられます。縄文時代には東日本に人口が集中していたのに、弥生時代になって西日本の人口が急激に増加し、東日本ではそれほどの増加がみられないというのはなぜでしょうか。

 

稲の栽培には、冷涼な東日本よりも温暖な西日本のほうが、より適しており、早くから米への依存度が高かった近畿地方を中心とした西日本と、稲以外の畑作物や堅果類(クリ、クルミ等のように硬い殻に包まれた果実)の比率が高かった東日本とでは、生産量の違いによる人口支持力も当然異なっていたと推測されます。

 

その後、古墳時代には、日本全体の人口が約540万と、弥生時代の9倍にも達します。さらに律令時代では、国家的規模での集約的労働力の投下、進歩した土木・灌漑技術、国司の派遣による農業指導、農業奨励政策などを通じて、水田稲作中心の農業基盤が確立しました。これにより、耕地が拡大し米の生産量が増えるにしたがって、扶養できる人口数も大幅に増加したのです。ちなみに、奈良時代(8世紀中頃)の人口は600~700万人でした。

 

水田稲作における耕地拡大や収量の増加は、中世・近世を通じて伸び、江戸時代の人口資料をみると、なんと人口は縄文時代のそれと比較して、約100倍にも達しているのです。縄文時代からの稲作を中心とする歴史をひもといてみると、米を主とする食料生産が、いかに多くの人々を養ったかがわかります。そして稲作が日本の針路を大きく変えたターニングポイントであったことがよくお分かり頂けると思うのです。

 

お米づくりは多くの労力を必要とするため、人々は一定の場所に住み着き、集団をつくるようになります。役割を分担し、管理をするための組織が生まれ、それが発展して村ができました。

 

やがてお米づくりの技術が発達するようになると、お米をたくさん所有する村とそうでない村が生まれ、小さな村は大きな村へ統合され、力を持った集団が生まれます。こうして国としての形が整い、紀元後3世紀には、有名な邪馬台国が生まれ、稲作を中心とした農業社会が形成されました。

 

また、そこから共同労働、水、土地の管理が行われ、4世紀中頃に最初の統一政権である大和朝廷が誕生しました。  現在の日本の社会の基礎とも言える社会、共同体という概念が育つ事となったのです。お米が日本という国を作りあげたのです。

 

また、日本人の性格を作ったのも「お米」と言われています。

お米を作らなければ飢えてしまい、生きてゆけません。昔は毎日食べるものはお米の他には、ほとんどありませんでしたから、お米が一番大切でした。だからお米がたくさん取れるよう、昔の人は一生懸命に努力してきたのです。そうして長い間ずっとお米を作りつづけてきた結果、自然と私たち日本人の性格が育てられてきたのです。

 

日本人の特徴は、たくさんありますが、今日は大きく分けて6つ話します。

ただし、今日の前編では3つにさせて頂きます。

 

1つ目は、働き者であることです。

稲作りには草取りをはじめ、たくさんの手間がかかります。「米作りには88の手間がかかる」という言葉もありますが、それだけ手間をかけるところから、働き者という性格が生まれてきたのではないでしょうか。

 

2つ目は、人と仲良くすることを大事にしたということです。

お米を作るためには水が必要ですが、この水を田んぼへ引くためには水路が必要です。田んぼに張られる水は川などから流れて来る水ですが、その水を川から田んぼまで引くためには水路を作らなければなりません。水路は大勢の大人が何人も集まって、土を運んだり穴をほったりしなければ作ることができません。そこから、みんなで仲良くするという性格、「協調性」が生まれたのです。

 

3つ目の特徴もまた、水路作りから生まれました。

水路を作るために算数(数学)が発達したのです。日本独自の算数を「和算」と言いますが、昔の人はその和算の難しい問題を解き、それらの問題と解いた答えを書いた額を神社に奉納しました。その額は今でも全国のたくさんの神社に残っています。

 

4つ目以降は明日の後編に引き継がせてください。

 

---owari---

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