このゆびと~まれ!

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言葉がつくる幸・不幸

2016年09月25日 | 人生

人間というものは不思議なもので、ある言葉をいつも口に出していると、自分が出した言葉でもあるにもかかわらず、それが自分の耳から入って頭にいき、頭から全身に巡っているうちに、いつのまにか、それがあたかも真実であるかのように魂全体で信じ込みはじめるのです。

 

そして、自分の出した言葉が自分自身に返ってくるだけではなく、同時にその言葉は、他人の耳にも入り、頭から身体全体にまわります。また、その人から他の人へと巡っていきます。さらには、キャッチボールのように、自分が発した言葉が他の人から返ってくることもあります。

 

このように、言葉というものを契機として、よいものでも悪いものでも、相互に循環を始めます。そうすると、ひとつの念いにしかすぎなかったものが、いつのまにか、自分の内だけにとどまることなく、世間を駆け巡るようになっていきます。その人を中心として、家族、近所、職場、そして日本全体、世界へと駆け巡っていくようになります。

 

こうしてみると、私たち一人ひとりは大した影響力もないというように考えているかもしれませんが、人間ひとりの念いというもの、心のなかに思ったこと、頭のなかで考えたこと、これが口を通して出たということが、実際は、この地球上に幸福をつくるか不幸をつくるかという大きな製造工場に直結しているものなのです。

 

私たちがつくっているものは小さな部品のように思っているかもしれませんが、それが巡り巡って、全世界に幸福の製造工場ができるか、あるいは不幸の製造工場ができるか、どちらかの方向へと動いていくのです。

 

ですから、世相や自分の身のまわりを見るにつけ、よくないことが多ければ多いほど、そのよくないこと、悪いこと、不幸なことを認めるのではなく、その正反対のことを認めていこう、つくり出していこうという念いを出していかなければならないのです。

 

よいことも悪いことも、同じように伝染していくものなのです。不況などというものも、その最たるものです。みんなが「不況だ、不況だ」と信じはじめると、財布の紐も固くなり、ほんとうに経済行動をしなくなっていきます。そして、何かの兆候を見ればすぐ、「ああ、これは間違いなく不況の兆しだ」と思います。

 

ある人がそれを見てビクッと怯え、その怯えた姿を見てほかの人も怯え、それがだんだん広がっていって、「やっぱり不況だったんだ」と口に出して言っているうちに、それが現実化して現われてくるのです。

 

ですから、そういうときには、「最悪の事態が来たら、どうするか」と考えていくよりも、「少しでもよいものをつくり出していこう。それを言葉に出し、行動に出し、世間のなかに現していこう」という気持ちを持つことが大事なのです。

 

「不景気である」「生活が苦しい」「事業が潰れかかっている」「家庭のなかに病人がいる」などということを言う人が、たとえいたとしても、その逆のことを口に出して言うと、そこでプラスとマイナスが打ち消しあって、少なくとも、そのマイナスが広がることはそこで止まるのです。

 

もし、他の人が言う不景気なこと、不愉快なこと、不幸なことをまともに受けてしまったら、心のなかに悪い種が播かれたのとまったく同じです。そして、自分の心のなかで増殖していって、悪いものがさらに出てきます。

 

特にこのような時に大切なことは、「決して愚痴を出すまい」と思うことです。愚痴というものは、どうしても出てきます。愚痴は、自分の念いが遂げられないときや、それが不満なかたちでしか達成できないときに、自分以外の他の人とか環境とか、そういうさまざまな事情のせいにしてしまいたいという、ある意味で卑怯な心なのです。逃げの心なのです。

 

人間は、成功しない理由、あるいは失敗する理由など、考えればいくらでも出てきます。その失敗の理由を取りだしてみて、「これがあったから自分は失敗したのだ」と、いくら得々としてそれを語り、他人に納得させたところで、また自分自身を納得させたところで、それで少しでも幸福になることがあるでしょうか。そういうことはないのです。

 

そのような、自分自身をなんとかしてごまかそうとする心、消極的な意味で自分を苦しめないように逃げようとする卑怯な心が、自分を幸福にしようとしているように見えて、その実、ほんとうは、まったく逆のことをやっているということに気づかなければいけません。

 

このように多くの人たちが生きている世の中ですから、個人個人が発している想念と想念が、あちらでもこちらでも、常にぶつかっているのです。ぶつかりあって、そこで渦潮のような潮目ができています。そして、その想念の多いほうや強いほうが一般化していくのです。それが霊的世界における現実なのです。

 

ですから、不幸の種というものが数多く見いだされるような時勢になったと思えば思うほど、私たち一人ひとりは、幸福の種子、幸福の種というものを常に見つけていこう、見いだしていこうという積極的な心を持たねばなりません。

 

少なくとも、「自分の身近な人のなかに少しでも幸福の種子を見いだすことができたなら、自分もそれを幸福とする」というものの考え方、精神的態度をつくっていくと、幸福な人生を歩むための第一歩になるのです。

 

---owari---

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