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破綻財政を奇跡的に立て直した財政改革の鉄人、上杉鷹山

2018年11月20日 | 歴史

江戸後期には、各地で藩政改革が行われているが、中でも最も大きな成功を収めたのは、山形・米沢藩である。

 

米沢藩の財政は当時、全国でも最悪の状況にあった。十八世紀半ばには、収入が六万五千両に対し、商人からの借入金が二十万両。利子も払えないという財政破綻にあえいでいた。米沢藩は、これ以上の藩運営は不可能として、幕府への領地返上を真剣に検討するほどであった。

 

そんな米沢藩を、優れたリーダーシップで再建指導した人物が上杉鷹山(ようざん)である。

鷹山は1751年、九州・高鍋藩主、秋月種美(たねよし)の次男として生まれる。米沢藩主・上杉重定の跡取りとして養子に迎えられるのは1761年。鷹山が11歳の時のことだ。時はまさに米沢藩存亡の危機のさなか。鷹山の背中には藩政改革の宿命がずっしりと背負わされていた。

 

鷹山の藩政再建は、17歳で米沢藩主となった1767年に始まる。以来72歳で世を去るまでの55年間、困難な改革に挑み続ける人生を送った。

 

鷹山が進めた藩政改革には大きな特徴があった。それは主権在民の思想を根幹に据えたことと、新規事業開発の積極政策を主軸にしたことである。

 

とくに改革の目的に、領民の生活を豊かにすることを掲げたのは有効策だった。希望のない倹約に止まらず、農民、下級武士に収入拡大と生活向上の希望を与えたからである。領民の支持は大きな力となった。

 

現に鷹山は、業務改革では94ものポストを削減し、職からあぶれた藩士たちを新田開発や殖産興業〔漆(うるし)、蝋(ろう)など〕へ動員している。禄(ろく)を食(は)むだけの閑職の役人を収入源確保の産業振興に駆り立てたのである。

 

こうした荒治療は、藩士たちに改革の理解がなければ、到底実現できないものだった。しかし、一方で、体面や格式を重んじる藩重臣や上級武士からの反発は激しかった。1772年には「七家騒動」と呼ばれる藩重臣の反乱が起きる。

 

須田伊豆、芋川正令ら7人の上級武士が連名で四十七か条に及ぶ改革中止意見書を出し、鷹山の退任を迫ったのである。幕藩体制下で、家臣が領主に反乱を起こすのは極めて異例の出来事。鷹山最大のピンチであった。

 

だが鷹山はそれに対し、城内に足軽から家老までの500人の藩士を集め、一人ひとりに意見を聞く場を持つ。こうした民主的な大衆討議が行われた例はそれ以前の日本にはない。

 

そして、2日にわたる討議の末、出された結論が全員一致の改革継続だった。こうして鷹山の強い意志と、人々に希望を与えた改革計画が、藩士、領民の心を動かし、不可能ともいえた米沢藩の改革を成功に導くのである。

 

米沢藩が借財を返済し終え、わずかながら財政に余裕ができたのは、鷹山が亡くなった1年後だったという。

 

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」

(訳:どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就する。結果が得られないのは、人が為し遂げる意思を持って行動しないからだ)

 

鷹山が詠んだ有名な歌である。

アメリカのJ・F・ケネディ元大統領が「日本で最も尊敬する政治家」として敬愛した鷹山の生き様がこの歌に色濃く投影されている。

 

---owari---

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